哀公
(經六八)齊陳乞弒其君舍。
(経六八)斉の陳乞がその君舎を殺した。
(傳)弒而立者,不以當國之辭言之,此其以當國之辭言之何?為諼也。此其為諼奈何?景公謂陳乞曰:「吾欲立舍,何如?」陳乞曰:「所樂乎為君者,欲立之則立之,不欲立則不立。君如欲立之,則臣請立之。」陽生謂陳乞曰:「吾聞子蓋將不欲立我也。」陳乞曰:「夫千乘之主,將廢正而立不正,必殺正者。吾不立子者,所以生子者也。走矣!」與之玉節而走之。景公死而舍立。陳乞使人迎陽生於諸其家。除景公之喪,諸大夫皆在朝,陳乞曰:「常之母有魚菽之祭,願諸大夫之化我也。」諸大夫皆曰:「諾。」於是皆之陳乞之家坐。陳乞曰:「吾有所為甲,請以示焉。」諸大夫皆曰:「諾。」於是使力士舉巨囊而至於中溜,諸大夫見之,皆色然而駭,開之則闖然公子陽生也。陳乞曰:「此君也已!」諸大夫不得已皆逡巡北面,再拜稽首而君之爾,自是往弒舍。
(伝)君を殺して自ら立った者には、当国執政の措辞を用いないのに、ここでは当国執政の措辞を用いて言うのはなぜか。欺罔があったからである。どのように欺罔したのか。景公は陳乞に言った、「私は舎を立てたいが、どうか」と。陳乞は言った、「君のお楽しみになることを為し、立てたければ立て、立てたくなければ立てないのです。君がもし彼を立てたいのであれば、臣は彼を立てることを請います」と。陽生は陳乞に言った、「あなたはおよそ私を立てたくないと聞きました」と。陳乞は言った、「千乗の主が、嫡を廃して庶を立てようとするときは、必ず嫡子を殺します。私があなたを立てないのは、まさにあなたを全うするためです。急いで行きなさい」と。玉節を与えて逃がした。景公が死に、舎が立った。陳乞は人を遣わして陽生を自分の家に迎えた。景公の喪が除かれ、大夫たちがみな朝に在ったとき、陳乞は言った、「常の母が魚菽の祭祀をしますので、各位の大夫にわが家においでいただきたい」と。大夫たちはみな言った、「よろしい」と。そこでみな陳乞の家に行って座った。陳乞は言った、「私に成り上がった甲があります。各位に見せたい」と。大夫たちはみな言った、「よろしい」と。そこで力士に大きな嚢を担がせて中霤に置かせ、大夫たちが見ると、みな顔色を変えて驚き駭き、開いて見ると、赫然として公子陽生であった。陳乞は言った、「これが君です」と。大夫たちはやむを得ずみな逡巡して北を向き、再拝稽首して彼を君と奉り、これより舎を殺しに行った。
(經六九)冬,仲孫何忌帥師伐邾婁。
(経六九)冬、仲孫何忌が軍を率いて邾婁を攻めた。
(經六十)宋向巢帥師伐曹。
(経六十)宋の向巢が軍を率いて曹を攻めた。
哀公(經七一)七年
哀公(経七一)七年
春,宋皇瑗帥師侵鄭。
春、宋の皇瑗が軍を率いて鄭を攻めた。
(經七二)晉魏曼多帥師侵衛。
(経七二)晋の魏曼多が軍を率いて衛を攻めた。
(經七三)夏,公會吳於鄫。
(経七三)夏、哀公は鄫で呉と会した。
(經七四)秋,公伐邾婁。
(経七四)秋、哀公は邾婁を攻めた。
(經七五)八月己酉,入邾婁,以邾婁子益來。
(経七五)八月己酉、邾婁に入り、邾婁子益を連れ帰った。
(傳)入不言伐,此其言伐何?內辭也,若使他人然。邾婁子益何以名?絕。曷為絕之?獲也。曷為不言其獲?內大惡,諱也。
(伝)入るには攻めたと書かないのに、ここでなぜ攻めたと書くのか。国内の措辞で、他人にやらせたかのようにするのである。邾婁子益をなぜ名で称するのか。断絶したからである。なぜ断絶したのか。俘虜にされたからである。なぜ俘虜にされたと書かないのか。国内の大悪は隠諱するからである。
(經七六)宋人圍曹。
(経七六)宋の人が曹を包囲した。
(經七七)冬,鄭駟弘帥師救曹。
(経七七)冬、鄭の駟弘が軍を率いて曹を救った。
哀公(經八一)八年
哀公(経八一)八年
春,王正月,宋公入曹,以曹伯陽歸。
春、周暦正月、宋公は曹に入り、曹伯陽を連れ帰った。
(傳)曹伯陽何以名?絕之。曷為絕之?滅也。曷為不言其滅?諱同姓之滅也。何諱乎同姓之滅?力能救之而不救也。
(伝)曹伯陽をなぜ名で称するのか。彼を断絶したからである。なぜ断絶したのか。滅亡したからである。なぜ滅亡と書かないのか。同姓が滅ぼされるのを隠諱するからである。なぜ同姓が滅ぼされるのを隠諱するのか。救う力がありながら救わなかったからである。
(經八二)吳伐我。
(経八二)呉が我が魯を攻めた。
(經八三)夏,齊人取讙及僤。
(経八三)夏、斉の人が讙と𫢸を取った。
(傳)外取邑不書,此何以書?所以賂齊也。曷為賂齊?為以邾婁子益來也。
(伝)外が城邑を取るのは例によって記さないのに、ここでなぜ記すのか。斉への賄賂に用いたからである。なぜ斉に賄賂したのか。邾婁子益を連れ帰ったからである。
(經八四)歸邾婁子益於邾婁。
(経八四)邾婁子益を邾婁に送り返した。
(經八五)秋,七月。
(経八五)秋、七月である。
(經八六)冬,十有二月癸亥,杞伯過卒。
(経八六)冬、十二月癸亥、杞伯過が卒した。
(經八七)齊人歸讙及僤。
(経八七)斉の人が讙と𫢸を返した。
哀公(經九一)九年
哀公(経九一)九年
春,王二月,葬杞僖公。
春、周暦二月、杞僖公を葬った。
(經九二)宋皇瑗帥師取鄭師於雍丘。
(経九二)宋の皇瑗が軍を率いて雍丘で鄭の軍を取った。
(傳)其言取之何?易也。其易奈何?詐之也。
(伝)なぜ「取」と書くのか。容易だったからである。どのように容易だったのか。欺罔を用いたからである。
(經九三)夏,楚人伐陳。
(経九三)夏、楚の人が陳を攻めた。
(經九四)秋,宋公伐鄭。
(経九四)秋、宋公が鄭を攻めた。
(經九五)冬,十月。
(経九五)冬、十月である。
哀公(經十一)十年
哀公(経十一)十年
春,王二月,邾婁子益來奔。
春、周暦二月、邾婁子益が来て奔した。
(經十二)公會吳伐齊。
(経十二)哀公は呉と会して斉を攻めた。
(經十三)三月戊戌,齊侯陽生卒。
(経十三)三月戊戌、斉侯陽生が卒した。
(經十四)夏,宋人伐鄭。
(経十四)夏、宋の人が鄭を攻めた。
(經十五)晉趙鞅帥師侵齊。
(経十五)晋の趙鞅が軍を率いて斉を攻めた。
(經十六)五月,公至自伐齊。
(経十六)五月、哀公は斉攻めから帰った。
(經十七)葬齊悼公。
(経十七)斉悼公を葬った。
(經十八)衛公孟彄自齊歸於衛。
(経十八)衛の公孟彄が斉から衛に帰った。
(經十九)薛伯寅卒。
(経十九)薛伯寅が卒した。
(經十十)秋,葬薛惠公。
(経十十)秋、薛恵公を葬った。
(經十十一)冬,楚公子結帥師伐陳。
(経十十一)冬、楚の公子結が軍を率いて陳を攻めた。
(經十十二)吳救陳。
(経十十二)呉が陳を救った。
哀公(經十一一)十有一年
哀公(経十一一)十有一年
春,齊國書帥師伐我。
春、斉の国書が軍を率いて我が魯を攻めた。
(經十一二)夏,陳袁頗出奔鄭。
(経十一二)夏、陳の袁頗が鄭に奔った。
(經十一三)五月,公會吳伐齊;甲戌,齊國書帥師及吳戰於艾陵,齊師敗績,獲齊國書。
(経十一三)五月、哀公は呉と会して斉を攻めた。甲戌、斉の国書が率いる軍と呉が艾陵で戦い、斉の軍は大敗し、斉の国書を捕らえた。
(經十一四)秋,七月辛酉,滕子虞母卒。
(経十一四)秋、七月辛酉、滕子虞母が卒した。
(經十一五)冬,十有一月,葬滕隱公。
(経十一五)冬、十一月、滕隠公を葬った。
(經十一六)衛世叔齊出奔宋。
(経十一六)衛の世叔斉が宋に奔った。
哀公(經十二一)十有二年
哀公(経十二一)十有二年
春,用田賦。
春、田に賦を用いた。
(傳)何以書?譏。何譏爾?譏始用田賦也。
(伝)なぜ記したのか。譏刺である。何を譏刺するのか。初めて田に賦を用いたことを譏刺するのである。
(經十二二)夏,五月甲辰,孟子卒。
(経十二二)夏、五月甲辰、孟子が卒した。
(傳)孟子者何?昭公之夫人也。其稱孟子何?諱娶同姓,蓋吳女也。
(伝)孟子とは何者か。昭公の夫人である。なぜ孟子と称するのか。同姓を娶ったことを隠諱するので、おそらく呉の女子である。
(經十二三)公會吳於橐皋。
(経十二三)哀公は橐皐で呉と会した。
(經十二四)秋,公會衛侯、宋皇瑗於運。
(経十二四)秋、哀公は衛侯・宋の皇瑗と運で会した。
(經十二五)宋向巢帥師伐鄭。
(経十二五)宋の向巢が軍を率いて鄭を攻めた。
(經十二六)冬,十有二月,螽。
(経十二六)冬、十二月、虻がいた。
(傳)何以書?記異也。何異爾?不時也。
(伝)なぜ記したのか。異常を記したのである。異常とはどこにあるのか。時候に合わないことである。
