哀公
哀公(經十三一)十有三年
哀公(経十三一)十有三年
春,鄭軒達帥師取宋於嵒。
春、鄭の軒達が軍を率いて嵒で宋の軍を取った。
(傳)其言取之何?易也。其易奈何?詐反也。
(伝)なぜ「取」と書くのか。容易だったからである。どのように容易だったのか。逆に欺罔を用いたからである。
(經十三二)夏,許男戌卒。
(経十三二)夏、許男戌が卒した。
(經十三三)公會晉侯及吳子於黃池。
(経十三三)哀公は晋侯及び呉子と会し、黄池で会した。
(傳)吳何以稱子?吳主會也。吳主會則曷為先言晉侯?不與夷狄之主中國也。其言及吳子何?會兩伯之辭也。不與夷狄之主中國,則曷為以會兩伯之辭言之?重吳也。曷為重吳?吳在是則天下諸侯莫敢不至也。
(伝)呉をなぜ「子」と称するのか。呉が会盟を主催したからである。呉が会盟を主催したのに、なぜ晋侯を先に書くのか。夷狄が中原の主となることを認めないからである。なぜ「及び呉子」と書くのか。二つの覇者に会する措辞である。夷狄が中原の主となることを認めないのに、なぜ二つの覇者に会する措辞で言うのか。呉を重んじたからである。なぜ呉を重んじたのか。呉がここにあって、天下の諸侯で敢えて来ない者はいなかったからである。
(經十三四)楚公子申帥師伐陳。
(経十三四)楚の公子申が軍を率いて陳を攻めた。
(經十三五)于越入吳。
(経十三五)於越が呉に入った。
(經十三六)秋,公至自會。
(経十三六)秋、哀公は会盟から帰った。
(經十三七)晉魏多帥師侵衛。
(経十三七)晋の魏多が軍を率いて衛を攻めた。
(傳)此晉魏曼多也,曷為謂之晉魏多?譏二名,二名非禮也。
(伝)これは晋の魏曼多であるのに、なぜ晋魏多と呼ぶのか。二文字の名を譏刺するので、二文字の名は礼ではない。
(經十三八)葬許元公。
(経十三八)許元公を葬った。
(經十三九)九月,螽。
(経十三九)九月、虻がいた。
(經十三十)冬,十有一月,有星孛於東方。
(経十三十)冬、十一月、東方に孛星があった。
(傳)孛者何?彗星也。其言於東方何?見於旦也。何以書?記異也。
(伝)孛とは何か。彗星である。なぜ「東方に」と書くのか。明け方に見えたからである。なぜ記したのか。異常を記したのである。
(經十三十一)盜殺陳夏彄夫。
(経十三十一)盗賊が陳の夏区夫を殺した。
(經十三十二)十有二月,螽。
(経十三十二)十二月、虻がいた。
哀公(經十四一)十有四年
哀公(経十四一)十有四年
春,西狩獲麟。
春、西郊で狩りをして麟を獲た。
(傳)何以書?記異也。何異爾?非中國之獸也。然則孰狩之?薪採者也。薪採者則微者也,曷為以狩言之?大之也。曷為大之?為獲麟大之也。曷為獲麟大之?麟者仁獸也。有王者則至,無王者則不至。有以告者曰:「有麇而角者。」孔子曰:「孰為來哉!孰為來哉!」反袂拭面,涕沾袍。顏淵死,子曰:「噫!天喪予。」子路死,子曰:「噫!天祝予。」西狩獲麟,孔子曰:「吾道窮矣!」《春秋》何以始乎隱?祖之所逮聞也。所見異辭,所聞異辭,所傳聞異辭。何以終乎哀十四年?曰:備矣!君子曷為為《春秋》?撥亂世,反諸正,莫近諸《春秋》。則未知其為是與?其諸君子樂道堯舜之道與?末不亦樂乎堯舜之知君子也?制《春秋》之義以俟後聖,以君子之為,亦有樂乎此也。
(伝)なぜ記したのか。異常を記したのである。異常とはどこにあるのか。中原の野獣ではないのである。では誰が猟獲したのか。柴を刈る者である。柴を刈る者は微賤な者なのに、なぜ「狩」で言うのか。この事を誇大にしたのである。なぜ誇大にしたのか。麟を獲たことをもって誇大にしたのである。なぜ麟を獲たことをもって誇大にしたのか。麟は仁獣である。王者あってこそ来るのであり、王者がなければ来ない。人が来て告げて言った、「一角を持つ麞がいます」と。孔子は言った、「誰のために来たのか。誰のために来たのか」と。袂を返して顔を拭い、涙が袍を沾わせた。顔淵が死んだとき、孔子は言った、「噫。天は我を喪わんとする」と。子路が死んだとき、孔子は言った、「噫。天は我を断たんとする」と。西郊で狩りをして麟を獲たとき、孔子は言った、「我が道は窮まった」。《春秋》はなぜ隠公から始めるのか。祖が聞き及ぶことができたところだからである。見たことの措辞は異なり、聞いたことの措辞は異なり、伝え聞いたことの措辞は異なる。なぜ哀公十四年に終わるのか。答えて曰く、備わったのである。君子はなぜ《春秋》を作ったのか。乱れた世を撥ね返して正道に返すに、《春秋》より近いものはない。それはこのためであったのか、それとも君子は堯舜の道を楽しく称えたかったのか。末はまた堯舜に君子を知らせることを楽しんだのではないか。《春秋》の義を制して後世の聖人を待つ、君子の為すところに凭れば、これにもまた楽しむところがあるのである。
