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定公

战国 · 公羊高 · 第39巻 / 44

定公(經一一)元年

定公(経一一)元年

春王。

春、周王である。

(傳)定何以無正月?正月者,正即位也。定無正月者,即位後也。即位何以後?昭公在外,得入不得入,未可知也。曷為未可知?在季氏也。定、哀多微辭,主人習其讀而問其傳,則未知己之有罪焉爾。

(伝)定公に正月がないのはなぜか。正月とは即位を正す月である。定公に正月がないのは、即位が後になったからである。即位が後になったのはなぜか。昭公が外にいて、入れるかどうか分からなかったからである。なぜ分からなかったのか。季氏の手中にあったからである。定公・哀公の代には意味深な微辞が多く、主人は経文を読み慣れてから伝を問うので、自ら罪があることに気づかないのである。

(經一二)三月,晉人執宋仲幾於京師。

(経一二)三月、晋の人が宋の仲幾を京師で捕らえた。

(傳)仲幾之罪何?不哀城也。其言於京師何?伯討也。伯討則其稱人何?貶。曷為貶?不與大王專執也。曷為不與?實與而文不與。文曷為不與?大夫之義,不得專執也。

(伝)仲幾の罪は何か。城の築造に精を出さなかったことである。「京師にて」と記したのはなぜか。覇者による討伐だからである。覇者の討伐なのに「人」と称したのはなぜか。貶しである。なぜ貶すのか。大王が独断で人を捕らえることを認めないからである。なぜ認めないのか。実際には認めながら文面では認めないのである。文面で認めないのはなぜか。大夫の義として、独断で人を捕らえてはならないからである。

(經一三)夏,六月癸亥,公之喪至自幹侯。戊辰,公即位。

(経一三)夏、六月癸亥、昭公の柩が干侯から到着した。戊辰、定公が即位した。

(傳)癸亥公之喪至自幹侯,則曷為以戊辰之日然後即位?正棺於兩楹之間,然後即位。子沈子曰:「定君乎國,然後即位。」即位不日,此何以日?錄乎內也。

(伝)癸亥に昭公の柩が干侯から到着したのに、なぜ戊辰の日をもって後に即位したのか。まず棺を両楹の間に正しく安置してから即位したのである。子沈子は言った、「国において君が定まってから即位する」と。即位には日を記さないのに、ここでなぜ日を記すのか。国内で記されたからである。

(經一四)秋,七月癸巳,葬我君昭公。

(経一四)秋、七月癸巳、我が魯の君昭公を葬った。

(經一五)九月,大雩。

(経一五)九月、大雩を行った。

(經一六)立煬宮。

(経一六)煬宮を立てた。

(傳)煬宮者何?煬公之宮也。立者何?立者不宜立也。立煬宮,非禮也。

(伝)煬宮とは何か。煬公の宮である。「立」とは何か。「立」とは立てるべきでないものを立てることである。煬宮を立てるのは礼ではない。

(經一七)冬,十月,隕霜殺菽。

(経一七)冬、十月、霜が降りて豆を枯らした。

(傳)何以書?記異也。此災菽也,曷為以異書?異大乎災也。

(伝)なぜ記したのか。異常を記したのである。これは災害が豆に及んだものなのに、なぜ異常として記すのか。異常は災害より大きいからである。

定公(經二一)二年

定公(経二一)二年

春,王正月。

春、周暦正月である。

(經二二)夏,五月壬辰,雉門及兩觀災。

(経二二)夏、五月壬辰、雉門と両観が失火した。

(傳)其言雉門及兩觀災何?兩觀微也。然則曷為不言雉門災及兩觀?主災者兩觀也。時災者兩觀,則曷為後言之?不以微及大也。何以書?記災也。

(伝)なぜ「雉門及び両観に災いあり」と書くのか。両観が軽い存在だからである。ではなぜ「雉門の災いが両観に及ぶ」と書かないのか。主たる災いは両観にあるからである。そのとき災いを受けたのは両観なのに、なぜ後に言うのか。軽いものを重大なものに連ねないからである。なぜ記したのか。災害を記したのである。

(經二三)秋,楚人伐吳。

(経二三)秋、楚の人が呉を攻めた。

(經二四)冬,十月,新作雉門及兩觀。

(経二四)冬、十月、雉門と両観を新たに修した。

(傳)其言新作之何?修大也。修舊不書,此何以書?譏。何譏爾?不務乎公室也。

(伝)なぜ「新作」と書くのか。修繕を大げさに書いたのである。旧来のものを修めるのは例によって記さないのに、ここでなぜ記すのか。譏刺である。何を譏刺するのか。公室に心を用いないことを譏刺するのである。

定公(經三一)三年

定公(経三一)三年

春,王正月,公如晉,至河乃復。三月辛卯,邾婁子穿卒。

春、周暦正月、定公は晋に行き、黄河に至って帰った。三月辛卯、邾婁子穿が卒した。

(經三二)夏,四月。

(経三二)夏、四月である。

(經三三)秋,葬邾婁莊公。

(経三三)秋、邾婁荘公を葬った。

(經三四)冬,仲孫何忌及邾婁子盟於枝。

(経三四)冬、仲孫何忌が邾婁子と枝で盟を結んだ。

定公(經四一)四年

定公(経四一)四年

春,王二月癸巳,陳侯吳卒。

春、周暦二月癸巳、陳侯呉が卒した。

(經四二)三月,公會劉子、晉侯、宋公、蔡侯、衛侯、陳子、鄭伯、許男、曹伯、莒子、邾婁子、頓子、鬍子、滕子、薛伯、杞伯、小邾婁子、齊國夏於召陵,侵楚。

(経四二)三月、定公は劉子・晋侯・宋公・蔡侯・衛侯・陳子・鄭伯・許男・曹伯・莒子・邾婁子・頓子・胡子・滕子・薛伯・杞伯・小邾婁子・斉の国夏と召陵で会し、楚を攻めた。

(經四三)夏,四月庚辰,蔡公孫歸姓帥師滅沈,以沈子嘉歸,殺之。

(経四三)夏、四月庚辰、蔡の公孫帰姓が軍を率いて沈を滅ぼし、沈子嘉を連れ帰ってこれを殺した。

(經四四)五月,公及諸侯盟於浩油;杞伯戊卒於會。

(経四四)五月、定公は諸侯と浩油で盟を結んだ。杞伯戊が会盟の中で卒した。

(經四五)六月,葬陳惠公。

(経四五)六月、陳恵公を葬った。

(經四六)許遷於容城。

(経四六)許は容城に遷った。

(經四七)秋,七月,公至自會。

(経四七)秋、七月、定公は会盟から帰った。

(經四八)劉卷卒。

(経四八)劉巻が卒した。

(傳)劉卷者何?天子之大夫也。外大夫不卒,此何以卒?我主之也。

(伝)劉巻とは何者か。天子の大夫である。外の大夫は卒を記さないのに、ここでなぜ卒を記すのか。我らが主人となってもてなしたからである。

(經四九)葬杞悼公。

(経四九)杞悼公を葬った。

(經四十)楚人圍蔡。

(経四十)楚の人が蔡を包囲した。

(經四十一)晉士鞅、衛孔圄帥師伐鮮虞。

(経四十一)晋の士鞅・衛の孔圄が軍を率いて鮮虞を攻めた。

(經四十二)葬劉文公。

(経四十二)劉文公を葬った。

(傳)外大夫不書葬,此何以書葬?錄我主也。

(伝)外の大夫は葬を記さないのに、ここでなぜ葬を記すのか。我らが主人となってもてなしたことを記したのである。

(經四十三)冬,十有一月庚午,蔡侯以吳子及楚人戰於伯莒,楚師敗績。

(経四十三)冬、十一月庚午、蔡侯は呉子を率いて楚の人と伯莒で戦い、楚の軍は大敗した。

(傳)吳何以稱子?夷狄也而憂中國。其憂中國奈何?伍子胥父誅乎楚,挾弓而去楚,以幹闔廬。闔廬曰:「士之甚!勇之甚!將為之興師而復讎於楚。」伍子胥復曰:「諸侯不為匹夫興師,且臣聞之:事君猶事父也。虧君之義,復父之讎,臣不為也。」於是止。蔡昭公朝乎楚,有美裘焉,囊瓦求之,昭公不與,為是拘昭公於南郢,數年然後歸之。於其歸焉,用事乎河,曰:「天下諸侯茍有能伐楚者,寡人請為之前列。」楚人聞之怒。為是興師,使囊瓦將而伐蔡。蔡請救於吳,伍子胥復曰:「蔡非有罪也,楚人為無道,君如有憂中國之心,則若時可矣。」於是興師而救蔡。曰:事君猶事父也,此其為可以復讎奈何?曰:父不受誅,子復讎可也;父受誅,子復讎,推刃之道也。復讎不徐害,朋友相衛,而不相迿,古之道也。

(伝)呉をなぜ「子」と称するのか。もとは夷狄であるのに中原のために憂えたからである。どのように中原を憂えたのか。伍子胥の父が楚で殺され、弓を挟んで楚を離れ、闔廬に会いに行った。闔廬は言った、「まことに士だ。まことに勇だ。私は彼のために軍を起こして楚に復讐しよう」と。伍子胥はまた言った、「諸侯は匹夫のために軍を起こしません。しかも臣は聞きました。君に仕えることは父に仕えることと同じだと。君の義を損ない父の仇を報いることは、臣はいたしません」と。そこで中止した。蔡昭公が楚に朝見し、美しい裘が一領あり、囊瓦がそれを求めたが昭公は与えず、それゆえ昭公を南郢に拘し、数年経てやっと帰した。帰るとき、河で祭祀を行い、言った、「天下の諸侯で楚を攻められる者があれば、寡人は先鋒となることを請います」と。楚の人は聞いて怒った。それゆえ軍を起こし、囊瓦に兵を率いさせて蔡を攻めた。蔡は呉に救いを求め、伍子胥はまた言った、「蔡に罪はなく、楚の人は無道です。君に中原を憂える心があれば、このときこそできます」と。そこで軍を起こして蔡を救った。曰く、君に仕えることは父に仕えることと同じであるのに、ここではなぜ復讐が許されるのか。答えて曰く、父が誅されるべきでないとき、子が復讐するのは許される。父が誅されるべきとき、子が復讐するのは刃を推し合って殺す道である。復讐は他人に累を及ぼさず、朋友は互いに衛り合いながら先んじて功を争わない、これが古来の道理である。(底本「復讐不徐害」の「徐」は疑いなく「除」の誤り。闔廬に干す、は今「求見」と作り、「干」が乾湿の干と混ざるのを避ける。)

(經四十四)楚囊瓦出奔鄭。

(経四十四)楚の囊瓦が鄭に奔った。

(經四十五)庚辰,吳入楚。

(経四十五)庚辰、呉は楚に入った。

(傳)吳何以不稱子?反夷狄也。其反夷狄奈何?君舍於君室,大夫舍於大夫室,蓋妻楚王之母也。

(伝)呉をなぜ「子」と称しないのか。再び夷狄に戻ったからである。どのように夷狄に戻ったのか。君は君の宮室に居り、大夫は大夫の宮室に居り、おそらく楚王の母を妻としたのである。

定公(經五一)五年

定公(経五一)五年

春,王正月辛亥朔,日有食之。

春、周暦正月辛亥朔、日食があった。

(經五二)夏,歸粟於蔡。

(経五二)夏、粟を蔡に送った。

(傳)孰歸之?諸侯歸之。曷為不言諸侯歸之?離至不可得而序,故言我也。

(伝)誰が送ったのか。諸侯が送ったのである。なぜ諸侯が送ったと書かないのか。別々に到着して順序の立てようがないので、我らと書いたのである。

(經五三)于越入吳。

(経五三)於越が呉に入った。

(傳)于越者何?越者何?于越者,未能以其名通也。越者,能以其名通也。

(伝)於越とは何か。越とは何か。於越と称するのは、まだこの名で通行できないからである。越と称するのは、すでにこの名で通行できるからである。

(經五四)六月丙申,季孫隱如卒。

(経五四)六月丙申、季孫隠如が卒した。

(經五五)秋,七月壬子,叔孫不敢卒。

(経五五)秋、七月壬子、叔孫不敢が卒した。

(經五六)冬,晉士鞅帥師圍鮮虞。

(経五六)冬、晋の士鞅が軍を率いて鮮虞を包囲した。

定公(經六一)六年

定公(経六一)六年

春,王正月癸亥,鄭遊遬帥師滅許,以許男斯歸。

春、周暦正月癸亥、鄭の游遬が軍を率いて許を滅ぼし、許男斯を連れ帰った。

(經六二)二月,公侵鄭。

(経六二)二月、定公は鄭を攻めた。

(經六三)公至自侵鄭。

(経六三)定公は鄭攻めから帰った。

(經六四)夏,季孫斯、仲孫何忌如晉。

(経六四)夏、季孫斯・仲孫何忌が晋に行った。

(經六五)秋,晉人執宋行人樂祁犁。

(経六五)秋、晋の人が宋の行人楽祁犂を捕らえた。

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