宣公
(經二六五)九月庚申,楚子居卒。
(経二六五)九月庚申、楚子居が卒した。
(經二六六)冬,十月,天王入於成周。
(経二六六)冬十月、天子が成周に入った。
(傳)成周者何?東周也。其言入何?不嫌也。
(伝)成周とは何か。東周である。なぜ「入」と書くのか。嫌疑がないからである。
(經二六七)尹氏、召伯、毛伯以王子朝奔楚。
(経二六七)尹氏・召伯・毛伯が王子朝を奉じて楚に奔った。
昭公(經二七一)二十有七年
昭公(経二七一)二十有七年
春,公如齊。公至自齊,居於運。
春、昭公が斉に行った。昭公が斉から帰り、運に居った。
(經二七二)夏,四月,吳弒其君僚。
(経二七二)夏四月、呉がその君である僚を殺した。
(經二七三)楚殺其大夫郄宛。
(経二七三)楚がその大夫郄宛を殺した。
(經二七四)秋,晉士鞅、宋樂祁犁、衛北宮喜、曹人、邾婁人、滕人會於扈。
(経二七四)秋、晋の士鞅、宋の楽祁犂、衛の北宮喜、曹の人、邾婁の人、滕の人が扈で会合した。
(經二七五)冬,十月,曹伯午卒。
(経二七五)冬十月、曹伯午が卒した。
(經二七六)邾婁快來奔。
(経二七六)邾婁の快が奔って来た。
(傳)邾婁快者何?邾婁之大夫也。邾婁無大夫,此何以書?以近書也。
(伝)邾婁の快とは何者か。邾婁の大夫である。邾婁には大夫がいないのに、ここでなぜ記すのか。時代が近いから記すのである。
(經二七七)公如齊,公至自齊,居於運。
(経二七七)昭公が斉に行き、昭公が斉から帰り、運に居った。
昭公(經二八一)二十有八年
昭公(経二八一)二十有八年
春,王三月,葬曹悼公。
春、周暦三月、曹悼公を葬った。
(經二八二)公如晉,次於幹侯。
(経二八二)昭公が晋に行き、干侯に駐在した。(底本の「干」の字は乾坤の乾である。)
(經二八三)夏,四月丙戌,鄭伯寧卒。六月,葬鄭定公。
(経二八三)夏四月丙戌、鄭伯寧が卒した。六月、鄭定公を葬った。
(經二八四)秋,七月癸巳,滕子寧卒。
(経二八四)秋七月癸巳、滕子寧が卒した。
(經二八五)冬,葬滕悼公。
(経二八五)冬、滕悼公を葬った。
昭公(經二九一)二十有九年
昭公(経二九一)二十有九年
春,公至自幹侯,居於運。
春、昭公が干侯から帰り、運に居った。
(經二九二)齊侯使高張來唁公。
(経二九二)斉侯が高張を派遣して昭公を弔問に来た。
(經二九三)公如晉,次於幹侯。
(経二九三)昭公が晋に行き、干侯に駐在した。
(經二九四)夏,四月庚子,叔倪卒。
(経二九四)夏四月庚子、叔倪が卒した。
(經二九五)秋,七月。
(経二九五)秋七月。
(經二九六)冬,十月,運潰。
(経二九六)冬十月、運が潰敗した(人民が逃散した)。
(傳)邑不言潰,此其言潰何?郛之也。曷為郛之?君存焉爾。
(伝)城邑に「潰」とは書かないのに、ここでなぜ「潰」と書くのか。都城とみなしたからである。なぜ都城とみなしたのか。国君がそこにいたからである。
昭公(經三十一)三十年
昭公(経三十一)三十年
春,王正月,公在幹侯。
春、周暦正月、昭公は干侯に在った。
(經三十二)夏,六月庚辰,晉侯去疾卒。
(経三十二)夏六月庚辰、晋侯去疾が卒した。
(經三十三)秋,八月,葬晉頃公。
(経三十三)秋八月、晋頃公を葬った。
(經三十四)冬,十有二月,吳滅徐,徐子章禹奔楚。
(経三十四)冬十二月、呉が徐を滅ぼし、徐子章禹は楚に奔った。
昭公(經三一一)三十有一年
昭公(経三一一)三十有一年
春,王正月,公在幹侯。
春、周暦正月、昭公は干侯に在った。
(經三一二)季孫隱如會晉荀櫟於適歷。
(経三一二)季孫隠如が適歴で晋の荀櫟と会見した。
(經三一三)夏,四月丁巳,薛伯谷卒。
(経三一三)夏四月丁巳、薛伯穀が卒した。
(經三一四)晉侯使荀櫟唁公於幹侯。
(経三一四)晋侯が荀櫟を派遣して干侯で昭公を弔問させた。
(經三一五)秋,葬薛獻公。
(経三一五)秋、薛献公を葬った。
(經三一六)冬,黑弓以濫來奔。
(経三一六)冬、黒弓が濫を携えて奔って来た。
(傳)文何以無邾婁?通濫也。曷為通濫?賢者子孫宜有地也。賢者孰謂?謂叔術也。何賢乎叔術?讓國也。其讓國奈何?當邾婁顏之時,邾婁女有為魯夫人者,則未知其為武公與?懿公與?孝公幼,顏淫九公子於宮中,因以納賊,則未知其為魯公子與?邾婁公子與?臧氏之母,養公者也。君幼則宜有養者,大夫之妾,士之妻,則未知臧氏之母者曷為者也?養公者必以其子入養。臧氏之母聞有賊,以其子易公,抱公以逃。賊至,湊公寢而弒之。臣有鮑廣父與梁買子者,聞有賊,趨而至。臧氏之母曰:「公不死也,在是,吾以吾子易公矣。」於是負孝公之周訴天子,天子為之誅顏而立叔術,反孝公於魯。顏夫人者,嫗盈女也,國色也,其言曰:「有能為我殺殺顏者,吾為其妻。」叔術為之殺殺顏者,而以為妻,有子焉,謂之盱。夏父者,其所為有於顏者也。盱幼而皆愛之,食必坐二子於其側而食之,有珍怪之食,盱必先取足焉。夏父曰:「以來,人未足而盱有餘。」叔術覺焉,曰:「嘻!此誠爾國也夫!」起而致國於夏父,夏父受而中分之,叔術曰:「不可!」三分之,叔術曰:「不可!」四分之,叔術曰:「不可!」五分之,然後受之。公扈子者,邾婁之父兄也,習乎邾婁之故,其言曰:「惡有言人之國賢若此者乎!」誅顏之時,天子死,叔術起而致國於夏父。當此之時,邾婁人常被兵於周,曰:「何故死吾天子?」通濫則文何以無邾婁?天下未有濫也。天下未有濫,則其言以濫來奔何?叔術者,賢大夫也,絕之則為叔術不欲絕,不絕則世大夫也。大夫之義不得世,故於是推而通之也。
(伝)文字の上になぜ「邾婁」がないのか。濫を国とみなしたのである。なぜ濫を国とみなしたのか。賢者の子孫は土地を持つべきだからである。賢者とは誰か。叔術である。叔術の賢はどこにあるか。国を譲ったことである。どうして国を譲ったのか。邾婁顔のとき、邾婁の女子に魯の夫人となった者があり、それが武公か懿公か分からない。孝公は幼く、顔は宮中で九公子と淫乱し、機に乗じて賊人を引き入れた。それが魯の公子か、邾婁の公子かも分からない。臧氏の母は公を養う者であった。国君が幼ければ養う者があるべきで、大夫の妾か、士の妻か、臧氏の母がどんな人であったか分からない。公を養う者は必ず自分の子を連れて入って養った。臧氏の母は賊がいると聞くと、自分の子で公と取り替えて、公を抱いて逃げた。賊が至って、公の寝所に入って彼を殺した。臣に鮑広父と梁買子がおり、賊がいると聞いて急いで到着した。臧氏の母は曰く、「公は死んでいません、ここにいます。わたしの子で公と取り替えました。」そこで孝公を背負って周に行って天子に訴えると、天子は彼のために顔を誅殺して叔術を立て、孝公を魯に送り返した。顔の夫人は嫗盈の娘で、国色である。彼女は曰く、「わたしのために顔を殺した者を殺してくれる人があれば、その人の妻となります。」叔術は彼女のために顔を殺した者を殺し、彼女を妻として娶り、子をなし、盱と呼んだ。夏父は彼女が顔のために生んだ子である。盱が幼いとき、皆が彼を愛し、食事は必ず二子を傍らに座らせてともに食べさせ、珍奇な食物があると盱は必ず先に取り足した。夏父は曰く、「取りなさい。ほかの者はまだ足りないのに、盱は余っている。」叔術は覚悟して曰く、「ああ!これは実におまえの国なのだ!」起って国を夏父に渡した。夏父は受けて中分しようとしたが、叔術は「ならぬ」と言った。三分しようとしたが、叔術は「ならぬ」と言った。四分しようとしたが、叔術は「ならぬ」と言った。五分して、それからやっと受けた。公扈子は邾婁の父兄で、邾婁の故事に詳しく、彼は曰く、「人の国の賢者を言うのでこのような者があるだろうか。」顔を誅したとき、天子が死んだので、叔術は起って国を夏父に渡した。このとき、邾婁人は周にしばしば兵を用いられて曰く、「なぜわれわれの天子を害死させたのか。」濫を国とみなし、文字の上になぜ「邾婁」がないのか。天下にまだ濫という国がないのである。天下にまだ濫がないのに、なぜ「以濫来奔」と書くのか。叔術は賢大夫であり、彼を絶すれば叔術を絶したくなく、絶さなければ世襲の大夫となる。大夫の義は世襲を許さないので、ここに推してこれを国とみなしたのである。
(經三一七)十有二月辛亥朔,日有食之。
(経三一七)十二月辛亥朔、日食。
昭公(經三二一)三十有二年
昭公(経三二一)三十有二年
春,王正月,公在幹侯。
春、周暦正月、昭公は干侯に在った。
(經三二二)取闞。
(経三二二)闞を奪取した。
(傳)闞者何?邾婁之邑也。曷為不繫乎邾婁?諱亟也。
(伝)闞とは何か。邾婁の城邑である。なぜ邾婁に繋げて書かないのか。奪取があまりに急であることを隠し諱るのである。
(經三二三)夏,吳伐越。
(経三二三)夏、呉が越を攻めた。
(經三二四)秋,七月。
(経三二四)秋七月。
(經三二五)冬,仲孫何忌會晉韓不信、齊高張、宋仲幾、衛世叔申、鄭國參、曹人、莒人、邾婁人、薛人、杞人、小邾婁人城成周。
(経三二五)冬、仲孫何忌が晋の韓不信、斉の高張、宋の仲幾、衛の世叔申、鄭の国参、曹の人、莒の人、邾婁の人、薛の人、杞の人、小邾婁の人と会合して成周を修築した。
(經三二六)十有二月,己未,公薨於幹侯。
(経三二六)十二月己未、昭公が干侯で薨去した。
