宣公
(經二一七)公如晉,至河乃復。
(経二一七)昭公が晋に行き、黄河に至って引き返した。
昭公(經二二一)二十有二年
昭公(経二二一)二十有二年
春,齊侯伐莒。
春、斉侯が莒を攻めた。
(經二二二)宋華亥、向寧、華定自宋南里出奔楚。
(経二二二)宋の華亥・向寧・華定が宋の南里から楚に出奔した。
(經二二三)大搜於昌奸。
(経二二三)昌奸で大蒐を行った。
(經二二四)夏,四月乙丑,天王崩。
(経二二四)夏四月乙丑、天子が崩じた。
(經二二五)六月,叔鞅如京師。
(経二二五)六月、叔鞅が京師に行った。
(經二二六)葬景王。
(経二二六)景王を葬った。
(經二二七)王室亂。
(経二二七)王室が乱れた。
(傳)何言乎王室亂?言不及外也。
(伝)なぜ「王室乱」と書くのか。乱がまだ外に及んでいないと言うのである。
(經二二八)劉子、單子以王猛居於皇。
(経二二八)劉子・単子が王猛を奉じて皇に居った。
(傳)其稱王猛何?當國也。
(伝)なぜ「王猛」と称するのか。国を当たって政を執っているからである。
(經二二九)秋,劉子、單子以王猛入於王城。
(経二二九)秋、劉子・単子が王猛を奉じて王城に入った。
(傳)王城者何?西周也。其言入何?篡辭也。
(伝)王城とは何か。西周である。なぜ「入」と書くのか。簒位の措辞である。
(經二二十)冬,十月,王子猛卒。
(経二二十)冬十月、王子猛が卒した。
(傳)此未逾年之君也,其稱王子猛卒何?不與當也。不與當者,不與當父死子繼、兄死弟及之辭也。
(伝)これはまだ年を越していない国君なのに、なぜ「王子猛卒」と書くのか。彼の国を当たることを是としないからである。国を当たることを是としないとは、父が死に子が継ぎ、兄が死に弟が及ぶことを是としない措辞である。
(經二二十一)十有二月癸酉朔,日有食之。
(経二二十一)十二月癸酉朔、日食。
昭公(經二三一)二十有三年
昭公(経二三一)二十有三年
春,王正月,叔孫舍如晉。
春、周暦正月、叔孫舎が晋に行った。
(經二三二)癸丑,叔鞅卒。
(経二三二)癸丑、叔鞅が卒した。
(經二三三)晉人執我行人叔孫舍。
(経二三三)晋の人々がわが魯の行人叔孫舎を捕らえた。
(經二三四)晉人圍郊。
(経二三四)晋の人々が郊を包囲した。
(傳)郊者何?天子之邑也。曷為不繫於周?不與伐天子也。
(伝)郊とは何か。天子の城邑である。なぜ周に繋げて書かないのか。天子を攻めることを是としないからである。
(經二三五)夏,六月,蔡侯東國卒於楚。
(経二三五)夏六月、蔡侯東国が楚で卒した。
(經二三六)秋,七月,莒子庚輿來奔。
(経二三六)秋七月、莒子庚輿が奔って来た。
(經二三七)戊辰,吳敗頓、胡、沈、蔡、陳、許之師於雞父。鬍子髡、沈子楹滅,獲陳夏齧。
(経二三七)戊辰、呉が雞父で頓・胡・沈・蔡・陳・許の軍を破った。胡子髡・沈子楹は滅亡し、陳の夏齧を捕らえた。
(傳)此偏戰也,曷為以詐戰之辭言之?不與夷狄之主中國也。然則曷為不使中國主之?中國亦新夷狄也。其言滅獲何?別君臣也,君死於位曰滅,生得曰獲,大夫生死皆曰獲。不與夷狄之主中國,則其言獲陳夏齧何?吳少進也。
(伝)これは期日を約して戦ったのだが、なぜ期日を約さない交戦の措辞で言うのか。夷狄が中原の主となることを是としないからである。では、なぜ中原を主とさせないのか。中原もちょうど夷狄になっていたからである。「滅」「獲」と書くのはどういう意味か。君臣を分かつのである。国君が位で死んだのを滅といい、生きて捕らえられたのを獲といい、大夫は生死ともに獲という。夷狄が中原の主となることを是としないのに、なぜなお陳の夏齧を捕らえたと書くのか。呉が少し進歩したからである。
(經二三八)天王居於狄泉。
(経二三八)天子が狄泉に居った。
(傳)此未三年,其稱天王何?著有天子也。
(伝)これはまだ三年を満たしていないのに、なぜ天王と称するのか。天子があることを標明するのである。
(經二三九)尹氏立王子朝。
(経二三九)尹氏が王子朝を立てた。
(經二三十)八月乙未,地震。
(経二三十)八月乙未、地震。
(經二三十一)冬,公如晉,至河,公有疾,乃復。(傳)何言乎公有疾乃復?殺恥也。
(経二三十一)冬、昭公が晋に行き、黄河に至り、昭公に病があったため、ここに引き返した。(伝)なぜ昭公に病があって引き返したと書くのか。恥辱を軽くするのである。
昭公(經二四一)二十有四年
昭公(経二四一)二十有四年
春,王二月丙戌,仲孫貜卒。
春、周暦二月丙戌、仲孫貜が卒した。
(經二四二)叔孫舍至自晉。
(経二四二)叔孫舎が晋から帰った。
(經二四三)夏,五月乙未朔,日有食之。
(経二四三)夏五月乙未朔、日食。
(經二四四)秋,八月,大雩。
(経二四四)秋八月、大雩を行った。
(經二四五)丁酉,杞伯鬱釐卒。
(経二四五)丁酉、杞伯郁釐が卒した。
(經二四六)冬,吳滅巢。
(経二四六)冬、呉が巢を滅ぼした。
(經二四七)葬杞平公。
(経二四七)杞平公を葬った。
昭公(經二五一)二十有五年
昭公(経二五一)二十有五年
春,叔孫舍如宋。
春、叔孫舎が宋に行った。
(經二五二)夏,叔倪會晉趙鞅、宋樂世心、衛北宮喜、鄭遊吉、曹人、邾婁人、滕人、薛人、小邾婁人於黃父。
(経二五二)夏、叔倪が晋の趙鞅、宋の楽世心、衛の北宮喜、鄭の游吉、曹の人、邾婁の人、滕の人、薛の人、小邾婁の人と黄父で会合した。
(經二五三)有鸛鵒來巢。
(経二五三)鸛鵒(かんよく・ムクドリの類)が来て巣を作った。
(傳)何以書?記異也。何異爾?非中國之禽也,宜穴又巢也。
(伝)なぜ記すのか。異常を記すのである。異常とは何か。中原の鳥ではなく、洞穴に住むべきものが来て巣を作ったことである。
(經二五四)秋,七月上辛,大雩。季辛,又雩。
(経二五四)秋七月上辛、大雩を行った。季辛、また雩を行った。
(傳)又雩者何?又雩者非雩也,聚眾以逐季氏也。
(伝)「又雩」とはどういう意味か。「又雩」は雩ではなく、衆を集めて季氏を逐おうとしたのである。
(經二五五)九月己亥,公孫於齊,次於楊州。
(経二五五)九月己亥、昭公が斉に避居し、楊州に駐在した。
(經二五六)齊侯唁公於野井。
(経二五六)斉侯が野井で昭公を弔問した。
(傳)唁公者何?昭公將弒季氏,告子家駒曰:「季氏為無道,僭於公室久矣,吾欲弒之,何如?」子家駒曰:「諸侯僭於天子,大夫僭於諸侯久矣!」昭公曰:「吾何僭矣哉?」子家駒曰:「設兩觀,乘大路,朱幹,玉戚,以舞《大夏》,八佾以舞《大武》,此皆天子之禮也。且夫牛馬維婁,委己者也,而柔焉。季氏得民眾久矣,君無多辱焉!」昭公不從其言,終弒之而敗焉。走之齊,齊侯唁公於野井,曰:「奈何君去魯國之社稷?」昭公曰:「喪人不佞,失守魯國之社稷,執事以羞。」再拜顙,慶子家駒曰:「慶子免君於大難矣。」子家駒曰:「臣不佞,陷君於大難,君不忍加之以鈇鑕,賜之以死。」再拜顙。高子執簞食與四脡脯,國子執壺漿,曰:「吾寡君聞君在外,餕饔未就,敢致糗於從者。」昭公曰:「君不忘吾先君,延及喪人,錫之以大禮。」再拜稽首,以衽受。高子曰:「有夫不祥,君無所辱大禮。」昭公蓋祭而不嘗。景公曰:「寡人有不腆先君之服,未之敢服;有不腆先君之器,未之敢用,敢以請。」昭公曰:「喪人不佞,失守魯國之社稷,執事以羞,敢辱大禮?敢辭。」景公曰:「寡人有不腆先君之服,未之敢服;有不腆先君之器,未之敢用,敢固以請。」昭公曰:「以吾宗廟之在魯地,有先君之服,未之能以服;有先君之器,未之能以出,敢固辭。」景公曰:「寡人有不腆先君之服,未之敢服;有不腆先君之器,未之敢用,請以饗乎從者。」昭公曰:「喪人其何稱?」景公曰:「孰君而無稱?」昭公於是噭然而哭,諸大夫皆哭。既哭以人為菑,以幦為席,以鞍為,以遇禮相見。孔子曰:「其禮與!其辭足觀矣!」
(伝)「唁公」とはどういう意味か。昭公は季氏を殺そうとして、子家駒に告げて曰く、「季氏は無道で、公室を僭越してすでに久しい。わたしは彼を殺したいが、どうか。」子家駒は曰く、「諸侯は天子を僭越し、大夫は諸侯を僭越して、すでに久しいです。」昭公は曰く、「わたしのどこに僭越があるのか。」子家駒は曰く、「両観を設け、大路に乗り、朱塗りの盾と玉の斧をもって《大夏》を舞い、八佾をもって《大武》を舞う、これらはみな天子の礼です。それに牛馬が繋がれているのは、身の上のことを自分に任せて、ようやく柔順になるからです。季氏が民心を得てすでに久しいのですから、どうか辱めを多く受けないでください。」昭公はその言を聴かず、ついに季氏を殺そうとして失敗した。斉に逃げると、斉侯は野井で昭公を弔問して曰く、「君はなぜ魯の社稷を離れたのですか。」昭公は曰く、「喪人には才能がなく、魯の社稷を失い、執事に恥をかかせました。」再び拝して額を叩きつけ、子家駒を賀して曰く、「君を大難から免れさせたことを賀します。」子家駒は曰く、「臣には才能がなく、君を大難に陥れたのに、君は𫓧錐をわが身に加えるに忍びず、かえってわたしに一死を賜いました。」再び拝して額を叩きつけた。高子は一簞の食と四条の脡脯を持ち、国子は壺の浆を持って曰く、「わが寡君は君が外にあると聞き、饌饔の用意がまだできていないので、あえて従者に乾糧を贈ります。」昭公は曰く、「君はわが先君を忘れず、喪人にまで及ぼし、わたしに大礼を賜った。」再び拝して頭を叩きつけ、衣襟をもって受けた。高子は曰く、「このような不祥があるのに、大礼に屈する必要はありません。」昭公はおそらく祭ったが味わわなかった。景公は曰く、「寡人には豊かでない先君の服があり、なお着ることを敢えてしない。豊かでない先君の器があり、なお用いることを敢えてしない。あえてお願いする。」昭公は曰く、「喪人には才能がなく、魯の社稷を失い、執事に恥をかかせた。どうして大礼を受けようか。あえて辞する。」景公は曰く、「寡人には豊かでない先君の服があり、なお着ることを敢えてしない。豊かでない先君の器があり、なお用いることを敢えてしない。あえて再び願う。」昭公は曰く、「わが宗廟は魯の地にあるので、先君の服があっても、まだ着ることができず、先君の器があっても、まだ持ち出すことができない。あえて再び辞する。」景公は曰く、「寡人には豊かでない先君の服があり、なお着ることを敢えてしない。豊かでない先君の器があり、なお用いることを敢えてしない。どうか従者を宴饗するのに用いてほしい。」昭公は曰く、「喪人はどのように称えられるべきか。」景公は曰く、「国君でありながら称えられない者があろうか。」昭公はここに噋然として哭き、諸大夫も皆哭いた。哭き終わると、人をもって屏障とし、車幦をもって席とし、鞍をもって几として、相遇の礼をもって相見した。孔子は曰く、「あの礼か。あの措辞も一見に値する。」(底本の「以鞍為」の下に生僻字があって転写の際に失われたため、常本に従い「几」を補う。朱干は朱塗りの盾である。)
(經二五七)冬,十月戊辰,叔孫舍卒。
(経二五七)冬十月戊辰、叔孫舎が卒した。
(經二五八)十有一月己亥,宋公佐卒於曲棘。
(経二五八)十一月己亥、宋公佐が曲棘で卒した。
(傳)曲棘者何?宋之邑也。諸侯卒其封內不地,此何以地?憂內也。
(伝)曲棘とは何か。宋の城邑である。諸侯が自分の封疆内で死んだ場合は地を記さないのに、ここでなぜ地を記すのか。国内を憂えたからである。
(經二五九)十有二月,齊侯取運。
(経二五九)十二月、斉侯が運を奪取した。
(傳)外取邑不書?此何以書?為公取之也。
(伝)外が城邑を奪取することは例によって記さないのに、ここでなぜ記すのか。昭公のために奪取したのである。
昭公(經二六一)二十有六年
昭公(経二六一)二十有六年
春,王正月,葬宋元公。
春、周暦正月、宋元公を葬った。
(經二六二)三月,公至自齊,居於運。
(経二六二)三月、昭公が斉から帰り、運に居った。
(經二六三)夏,公圍成。
(経二六三)夏、昭公が成を包囲した。
(經二六四)秋,公會齊侯、莒子、邾婁子,杞伯盟於剸陵。公至自會,居於運。
(経二六四)秋、昭公が斉侯・莒子・邾婁子・杞伯と会合し、剸陵で会盟した。昭公は会盟から帰り、運に居った。
