隠公
春,滕侯、薛侯來朝。
春、滕侯・薛侯が朝見に来ました。
(傳)其言朝何?諸侯來曰朝,大夫來曰聘。其兼言之何?微國也。
(伝)なぜ「朝」と書くのでしょうか。諸侯が来るのを朝といい、大夫が来るのを聘というのです。なぜ併せて書くのでしょうか。どちらも小国だからです。
(經十八)夏,五月,公會鄭伯於祁黎。
(経十八)夏五月、隠公は祁黎で鄭伯と会しました。
(經十九)秋,七月壬午,公及齊侯、鄭伯入許。
(経十九)秋七月壬午、隠公は斉侯・鄭伯とともに許に入りました。
(經十十)冬,十有一月壬辰,公薨。
(経十十)冬十一月壬辰、隠公が亡くなりました。
(傳)何以不書葬?隱之也。何隱爾?弒也。弒則何以不書葬?《春秋》君弒,賊不討,不書葬,以為無臣子也。子沈子曰:「君弒,臣不討賊,非臣也。子不復讎,非子也。葬,生者之事也。《春秋》君弒,賊不討,不書葬,以為不繫乎臣子也。」公薨何以不地?不忍言也。隱何以無正月?隱將讓乎桓,故不有其正月也。
(伝)なぜ葬りを記さないのでしょうか。彼を哀れむからです。何を哀れむのでしょうか。彼は弑されたのです。弑されたのに、なぜ葬りを記さないのでしょうか。《春秋》では国君が弑されて賊が討たれなければ、葬りを記さず、これを臣子なしと見なすのです。子沈子は言いました。「国君が弑されて臣が賊を討たなければ臣ではなく、子が仇を報いなければ子ではない。葬りは生きている者のすることだ。《春秋》では国君が弑されて賊が討たれなければ、葬りを記さず、これを臣子と続かないものと見なす。」隠公の亡くなったのに、なぜ地を記さないのでしょうか。言うに忍びないからです。隠公に「正月」がないのはなぜでしょうか。隠公は桓公に譲ろうと考えていたので、正月を己のものとしなかったのです。
桓公
桓公(經一一)元年
桓公(経一一)元年
春,王正月,公即位。
春、周暦正月、桓公が即位しました。
(傳)繼弒君不言即位,此其言即位何?如其意也。
(伝)弑された国君の後に続く者は、例によって即位を書きませんが、ここで「即位」と書くのはなぜでしょうか。彼の心意に従うためです。
(經一二)三月,公會鄭伯於垂。鄭伯以璧假許田。
(経一二)三月、桓公は垂で鄭伯と会しました。鄭伯が璧を用いて許田を借りに来ました。
(傳)其言以璧假之何?易之也。易之則其言假之何?為恭也。曷為為恭?有天子存,則諸侯不得專地也。許田者何?魯朝宿之邑也。諸侯時朝乎天子,天子之郊,諸侯皆有朝宿之邑焉。此魯朝宿之邑也,則曷為謂之許田?諱取周田也。諱取周田則曷為謂之許田?系之許也。曷為系之許?近許也。此邑也,其稱田何?田多邑少稱田,邑多田少稱邑。
(伝)なぜ「璧を用いて借りに来た」と書くのでしょうか。実は交換です。交換なのに、なぜ「借」と書くのでしょうか。恭しくするためです。なぜ恭しくするのでしょうか。上に天子があれば、諸侯は土地を勝手に処分できないからです。許田とは何でしょうか。魯国が天子に朝見する時に宿泊する城邑です。諸侯は時に従って天子に朝見し、天子の郊には、諸侯の朝宿の城邑があります。これは魯国の朝宿の城邑なのに、なぜ許田と呼ぶのでしょうか。周室の田を奪ったことを隠すのです。周田を奪ったことを隠すのに、なぜまだ許田と呼ぶのでしょうか。これを許国に繋げるのです。なぜ許国に繋げるのでしょうか。許に近いからです。これは城邑なのに、なぜ「田」と称するのでしょうか。田が多く邑が少なければ田といい、邑が多く田が少なければ邑というのです。
(經一三)夏,四月丁未,公及鄭伯盟于越。
(経一三)夏四月丁未、桓公は鄭伯と越で盟を結びました。
(經一四)秋,大水。
(経一四)秋、大水がありました。
(傳)何以書?記災也。
(伝)なぜ記すのでしょうか。災害を記すのです。
(經一五)冬,十月。
(経一五)冬十月。
桓公(經二一)二年
桓公(経二一)二年
春,王正月戊申,宋督弒其君與夷及其大夫孔父。
春、周暦正月戊申、宋国の華督がその国君の与夷とその大夫の孔父を弑しました。
(傳)及者何?累也。弒君多矣,舍此無累者乎?曰:有,仇牧,荀息,皆累也。舍仇牧、荀息,無累者乎?曰:有。有則此何以書?賢也。何賢乎孔父?孔父可謂義形於色矣。其義形於色奈何?督將弒殤公,孔父生而存,則殤公不可得而弒也,故於是先攻孔父之家。殤公知孔父死,己必死,趨而救之,皆死焉。孔父正色而立於朝,則人莫敢過而致難於其君者,孔父可謂義形於色矣。
(伝)「及」とは何でしょうか。累が及ぶことです。君を弑した事は多いのに、この一条のほかに累の及んだ者はいないのでしょうか。答えは、います。仇牧・荀息は、みな累の及んだ者です。仇牧・荀息のほかにはいないのでしょうか。答えは、まだいます。まだいるのに、ここではなぜ記すのでしょうか。孔父が賢いからです。孔父の賢さはどこにありますか。孔父は義がすべて神色に現れていると言えます。義が神色に現れるとはどういうことでしょうか。華督がまさに殤公を弑しようとした時、孔父が生きていれば、殤公は弑されえないので、先に孔父の家を攻めました。殤公は孔父が死ねば自分も必ず死ぬと知り、駆けつけて彼を救い、二人とも死にました。孔父が神色正しく朝上に立っていれば、国君に災いを作ろうと進み出る者はいませんでした。孔父は義がすべて神色に現れていると言えます。
(經二二)滕子來朝。三月,公會齊侯、陳侯、鄭伯於稷,以成宋亂。
(経二二)滕子が朝見に来ました。三月、桓公は稷で斉侯・陳侯・鄭伯と会し、宋国の乱事を成し遂げさせました。
(傳)內大惡諱,此其目言之何?遠也。所見異辭,所聞異辭,所傳聞異辭。隱亦遠矣,曷為為隱諱?隱賢而桓賤也。
(伝)鲁国自身の大悪は隠すのに、ここでは明らかに書き出すのはなぜでしょうか。年代が遠いからです。目で見た時代には一つの措辞、耳で聞いた時代には一つの措辞、さらに伝聞の時代にはまた一つの措辞を用います。隠公も十分に遠いのに、なぜ隠公のためにまだ隠すのでしょうか。隠公が賢く桓公が賤しいからです。
(經二三)夏,四月,取郜大鼎於宋。
(経二三)夏四月、宋国から郜国の大鼎を取り寄せました。
(傳)此取之宋,其謂之郜鼎何?器從名,地從主人。器何以從名?地何以從主人?器之與人,非有即爾。宋始以不義取之,故謂之郜鼎;至乎地之與人則不然,俄而可以為其有矣。然則為取可以為其有乎?曰:否。何者?若楚王之妻媦,無時焉可也。
(伝)これは宋国から取ったものなのに、なぜ郜鼎と呼ぶのでしょうか。器物はもとの名称に従い、土地は現在の主人に従います。器物がなぜもとの名称に従い、土地がなぜ現在の主人に従うのでしょうか。器物と人は、手に入ればすぐどうにかなるわけではありません。宋国は初め不義の手段で取ったのだから、やはり郜鼎と呼ぶのです。土地と人についてはそうではなく、瞬きの間に彼のものと数えられます。では奪い取ったものでも彼のものと数えられるのでしょうか。答えは、できません。なぜでしょうか。楚王が妻の姉妹を娶ったようなもので、いつになってもできないのです。
(經二四)戊申,納於太廟。
(経二四)戊申、鼎を太廟に納めました。
(傳)何以書?譏。何譏爾?遂亂受賂,納於太廟,非禮也。
(伝)なぜ記すのでしょうか。譏刺です。何を譏刺するのでしょうか。乱事に乗じて賄賂を受け取り、太廟に納めたのは礼に合いません。
(經二五)秋,七月,紀侯來朝。蔡侯、鄭伯會於鄧。
(経二五)秋七月、紀侯が朝見に来ました。蔡侯・鄭伯が鄧で相まみえました。
(傳)離不言會,此其言會何?蓋鄧與會爾。
(伝)両方が単独で相まみえるのは「会」と書きませんが、ここで「会」と書くのはなぜでしょうか。おそらく鄧も加わったのでしょう。
(經二六)九月,入杞。公及戎盟於唐。
(経二六)九月、杞に入りました。桓公は戎と唐で盟を結びました。
(經二七)冬,公至自唐。
(経二七)冬、桓公は唐から帰りました。
桓公(經三一)三年
桓公(経三一)三年
春,正月,公會齊侯於嬴。
春正月、桓公は嬴で斉侯と会しました。
(經三二)夏,齊侯、衛侯胥命於蒲。
(経三二)夏、斉侯・衛侯が蒲で互いに命を約しました。
(傳)胥命者何?相命也。何言乎相命?近正也。此其為近正奈何?古者不盟,結言而退。
(伝)「胥命」とは何でしょうか。互いに命を約することです。なぜ互いに命を約したと書くのでしょうか。正道に近いからです。どうして正道に近いのでしょうか。古は盟誓せず、言葉を言い定めれば引き返したのです。
(經三三)六月,公會紀侯於盛。
(経三三)六月、桓公は盛で紀侯と会しました。
(經三四)秋,七月壬辰朔,日有食之,既。
(経三四)秋七月壬辰朔、日食があり、既でした。
(傳)既者何?盡也。
(伝)「既」とは何でしょうか。食い尽くしたことです。
(經三五)公子翬如齊逆女。九月,齊侯送姜氏於讙。
(経三五)公子翬が斉国へ女を迎えに行きました。九月、斉侯が姜氏を讙まで送りました。
(傳)何以書?譏。何譏爾?諸侯越竟送女,非禮也。此入國矣,何以不稱夫人?自我言齊,父母之於子,雖為鄰國夫人,猶曰吾姜氏。
(伝)なぜ記すのでしょうか。譏刺です。何を譏刺するのでしょうか。諸侯が国境を越えて娘を送るのは礼に合いません。この時すでに鲁国に入っているのに、なぜまだ夫人と称しないのでしょうか。こちら側から斉国に向かって言うのであり、父母にとって娘は、たとえすでに隣国の夫人であっても、なお「わが姜氏」と呼ぶのです。
(經三六)公會齊侯於讙,夫人姜氏至自齊。
(経三六)桓公は讙で斉侯と会し、夫人姜氏が斉国から到来しました。
(傳)翬何以不致?得見乎公矣。
(伝)翬はなぜ回国と書かないのでしょうか。すでに桓公に会っていたからです。
(經三七)冬,齊侯使其弟年來聘。有年。
(経三七)冬、斉侯がその弟の年を遣わして聘問させました。この年、収穫がありました。
(傳)有年,何以書?以喜書也。大有年,何以書?亦以喜書也。此其曰有年何?僅有年也。彼其曰大有年何?大豐年也。僅有年亦足以當喜乎?恃有年也。
(伝)「有年」はなぜ記すのでしょうか。喜びがあるから記すのです。「大有年」はなぜ記すのでしょうか。これも喜びがあるから記すのです。ここで「有年」と書くのはなぜでしょうか。かろうじて収穫があっただけです。あそこで「大有年」と書くのはなぜでしょうか。大豊年だったからです。かろうじての収穫でも喜ぶに値するのでしょうか。この一年の収穫に頼らなければならないからです。
桓公(經四一)四年
桓公(経四一)四年
春,正月,公狩於郎。
春正月、桓公は郎で狩をしました。
(傳)狩者何?田狩也,春曰苗,秋曰搜,冬曰狩。常事不書,此何以書?譏。何譏爾?遠也。諸侯曷為必田狩?一曰幹豆,二曰賓客,三百充君之庖。
(伝)「狩」とは何でしょうか。田猟です。春を苗といい、秋を蒐といい、冬を狩といいます。常事は記しませんが、ここではなぜ記すのでしょうか。譏刺です。何を譏刺するのでしょうか。遠すぎるからです。諸侯はなぜ必ず田猟をするのでしょうか。一つは乾いた祭肉を作り、二つは賓客をもてなし、三つは国君の厨房を充実させるためです。底本の「三百充君之庖」は、「百」は「曰」の誤りです。
(經四二)夏,天王使宰渠伯糾來聘。
(経四二)夏、周天子が宰渠伯糾を遣わして聘問させました。
(傳)宰渠伯糾者何?天子之大夫也。其稱宰渠伯糾何?下大夫也。
(伝)宰渠伯糾とは何者でしょうか。天子の大夫です。「宰渠伯糾」と称するのはなぜでしょうか。下大夫だからです。
桓公(經五一)五年
桓公(経五一)五年
春,正月甲戌、己丑,陳侯鮑卒。
春正月甲戌・己丑、陳侯鮑が亡くなりました。
(傳)曷為以二日卒之?怴也。甲戌之日亡、己丑之日死而得,君子疑焉,故以二日卒之也。
(伝)なぜ二つの日で彼の死を記すのでしょうか。彼が精神錯乱だったからです。甲戌の日に失踪し、己丑の日にやっと死体が見つかり、君子は疑いを持ったので、二つの日で彼の死を記すのです。
(經五二)夏,齊侯、鄭伯如紀。
(経五二)夏、斉侯・鄭伯が紀国へ行きました。
(傳)外相如不書,此何以書?離不言會。
(伝)外の彼此の往来は例によって記しませんが、ここではなぜ記すのでしょうか。両方が単独で相まみえるのは「会」と書かないからです。
(經五三)天王使仍叔之子來聘。
(経五三)周天子が仍叔の子を遣わして聘問させました。
(傳)仍叔之子者何?天子之大夫也。其稱仍叔之子何?譏。何譏爾?譏父老子代從政也。
(伝)仍叔の子とは何者でしょうか。天子の大夫です。「仍叔之子」と称するのはなぜでしょうか。譏刺です。何を譏刺するのでしょうか。父が老いて子が代わって政を執ることを譏刺するのです。
(經五四)葬陳桓公。
(経五四)陳桓公を葬りました。
(經五五)城祝丘。
(経五五)祝丘を築きました。
(經五六)秋,蔡人、衛人、陳人從王伐鄭。
(経五六)秋、蔡国人・衛国人・陳国人が天子に従って鄭を攻めました。
(傳)其言從王伐鄭何?從王正也。
(伝)なぜ「従王伐鄭」と書くのでしょうか。天子に従ってこそ正道に合うからです。
(經五七)大雩。
(経五七)大雩を行いました。
(傳)大雩者何?旱祭也。然則何以不言旱?言雩則旱見;言旱則雩不見。何以書?記災也。
(伝)大雩とは何でしょうか。旱のための祭祀です。ではなぜ「旱」と書かないのでしょうか。「雩」と書けば旱は見て取れますが、「旱」と書けば雩は見て取れません。なぜ記すのでしょうか。災害を記すのです。
(經五八)螽。
(経五八)蝗虫が害をなしました。
