隠公
(經五四)九月,考仲子之宮。
(経五四)九月、仲子の宮廟を落成しました。
(傳)考宮者何?考猶入室也,始祭仲子也。桓未君則曷為祭仲子?隱為桓立,故為桓祭其母也。然則何言爾?成公意也。
(伝)「考宮」とは何でしょうか。「考」は室に入るようなもので、仲子への祭祀を始めることです。桓公はまだ国君になっていないのに、なぜ仲子を祭るのでしょうか。隠公は桓公のために立てられたので、桓公に代わってその母を祭るのです。ではなぜこの条を書くのでしょうか。隠公の心意を成すためです。
(經五五)初獻六羽。
(経五五)初めて六羽を進献しました。
(傳)初者何?始也。六羽者何?舞也。初獻六羽何以書?譏。何譏爾?譏始僭諸公也。六羽之為僭奈何?天子八佾,諸公六,諸侯四。諸公者何?諸侯者何?天子三公稱公,王者之後稱公,其餘大國稱侯,小國稱伯、子、男。天子三公者何?天子之相也。天子之相則何以三?自陜而東者,周公主之;自陜而西者,召公主之,一相處乎內。始僭諸公昉於此乎?前此矣。前此則曷為始乎?此僭諸公猶可言也,僭天子不可言也。
(伝)「初」とは何でしょうか。始めることです。「六羽」とは何でしょうか。楽舞です。初めて六羽を進献したことをなぜ記すのでしょうか。譏刺です。何を譏刺するのでしょうか。ここから諸公の礼を僭用し始めたことを譏刺するのです。六羽がどうして僭越なのでしょうか。天子は八佾を用い、諸公は六を用い、諸侯は四を用います。諸公とは何でしょうか。諸侯とは何でしょうか。天子の三公を公といい、王者の後裔を公といい、その他の大国を侯、小国を伯・子・男といいます。天子の三公とは何でしょうか。天子の相です。天子の相がなぜ三人なのでしょうか。陝から東は周公が主催し、陝から西は召公が主催し、もう一人の相は王畿の内に処します。諸公の礼を僭用するのはここから始まったのでしょうか。これ以前からありました。以前からあったのに、なぜここから始まりとするのでしょうか。ここでは諸公の礼を僭用したのはまだ言えますが、天子の礼を僭用したなら言うことができないのです。
(經五六)邾婁人、鄭人伐宋。
(経五六)邾婁人・鄭国人が宋を攻めました。
(經五七)螟。(傳)何以書?記災也。
(経五七)螟虫が害をなしました。(伝)なぜ記すのでしょうか。災害を記すのです。
(經五八)冬,十有二月辛巳,公子彄卒。宋人伐鄭,圍長葛。
(経五八)冬十二月辛巳、公子𫸩が亡くなりました。宋国人が鄭を攻め、長葛を包囲しました。
(傳)邑不言圍,此其言圍何?強也。
(伝)城邑には例によって「囲」と書きませんが、ここで「囲」と書くのはなぜでしょうか。強横だからです。
隱公(經六一)六年
隠公(経六一)六年
春,鄭人來輸平。
春、鄭国人が来て「輸平」しました。
(傳)輸平者何?輸平猶墮成也。何言乎墮成?敗其成也,曰:「吾成敗矣」,吾與鄭人末有成也。吾與鄭人則曷為末有成?狐壤之戰,隱公獲焉。然則何以不言戰?諱獲也。
(伝)「輸平」とは何でしょうか。「輸平」は成った事を毀すようなものです。なぜ成った事を毀すと言うのでしょうか。和約を破壊したのであり、「我らの和約は敗れた」と言うのに等しいのです。我らと鄭国にはもともと成った和約がありませんでした。我らと鄭国になぜ成った和約がないのでしょうか。狐壤のあの戦いで、隠公が捕えられたからです。ではなぜ交戦を書かないのでしょうか。捕えられたことを隠すのです。
(經六二)夏,五月辛酉,公會齊侯,盟於艾。
(経六二)夏五月辛酉、隠公は斉侯と会し、艾で盟を結びました。
(經六三)秋,七月。
(経六三)秋七月。
(傳)此無事,何以書?《春秋》雖無事,首時過則書。首時過則何以書?《春秋》編年,四時具然後為年。
(伝)この条は事がないのに、なぜ記すのでしょうか。《春秋》は事がなくても、一季の始まりを過ぎれば記します。一季の始まりを過ぎればなぜ記すのでしょうか。《春秋》は年によって編排し、四季がそろってはじめて一年となるからです。
(經六四)冬,宋人取長葛。
(経六四)冬、宋国人が長葛を奪いました。
(傳)外取邑不書,此何以書?久也。
(伝)外で城邑を奪うことは例によって記しませんが、ここではなぜ記すのでしょうか。あまりに長く引いたからです。
隱公(經七一)七年
隠公(経七一)七年
春,王三月,叔姬歸於紀。滕侯卒。
春、周暦三月、叔姫が紀国に嫁ぎました。滕侯が亡くなりました。
(傳)何以不名?微國也。微國則其稱侯何?不嫌也。《春秋》貴賤不嫌同號,美惡不嫌同辭。
(伝)なぜ名を称しないのでしょうか。小国だからです。小国なのに、なぜ「侯」と称するのでしょうか。嫌疑がないからです。《春秋》は貴賤に嫌疑がなければ同じ称号を用いることができ、美悪に嫌疑がなければ同じ措辞を用いることができます。
(經七二)夏,城中丘。
(経七二)夏、中丘を築きました。
(傳)中丘者何?內之邑也。城中丘,何以書?以重書也。
(伝)中丘とは何でしょうか。魯国の城邑です。中丘を築いたことをなぜ記すのでしょうか。事が重大だから記すのです。
(經七三)齊侯使其弟年來聘。
(経七三)斉侯がその弟の年を遣わして聘問させました。
(傳)其稱弟何?母弟稱弟,母兄稱兄。
(伝)「弟」と称するのはなぜでしょうか。同母の弟を弟といい、同母の兄を兄というのです。
(經七四)秋,公伐邾婁。
(経七四)秋、隠公が邾婁を攻めました。
(經七五)冬,天王使凡伯來聘,戎伐凡伯於楚丘以歸。
(経七五)冬、周天子が凡伯を遣わして聘問させましたが、戎が楚丘で凡伯を攻め、彼を連れて帰りました。
(傳)凡伯者何?天子之大夫也。此聘也,其言伐之何?執之也。執之則其言伐之何?大之也。曷為大之?不與夷狄之執中國也。其地何?大之也。
(伝)凡伯とは何者でしょうか。天子の大夫です。これは聘問なのに、なぜ「伐」と書くのでしょうか。実は彼を捉えたのです。捉えたのに、なぜ「伐」と書くのでしょうか。彼を大きく書くためです。なぜ大きく書くのでしょうか。夷狄が中原の人を捉えることを是としないからです。なぜ地を記すのでしょうか。これも彼を大きく書くためです。
隱公(經八一)八年
隠公(経八一)八年
春,宋公、衛侯遇於垂。三月,鄭伯使宛來歸邴。
春、宋公と衛侯が垂で遇しました。三月、鄭伯が宛を遣わして邴を返させました。
(傳)宛者何?鄭之微者也。邴者何?鄭湯沐之邑也。天子有事於泰山,諸侯皆從。泰山之下,諸侯皆有湯沐之邑焉。
(伝)宛とは何者でしょうか。鄭国の地位の低い者です。邴とは何でしょうか。鄭国の湯沐邑です。天子が泰山で祭祀を行う時、諸侯はみな従います。泰山の下には、諸侯の湯沐邑があります。
(經八二)庚寅,我入邴。
(経八二)庚寅、我が鲁国が邴に入りました。
(傳)其言入何?難也。其日何?難也。其言我何?言我者非獨我也,齊亦欲之。
(伝)なぜ「入」と書くのでしょうか。この事が難しかったからです。なぜ日を記すのでしょうか。この事が難しかったからです。なぜ「我」と書くのでしょうか。「我」と書くのは、我が鲁国だけではなく、斉国もこの地を欲していたからです。
(經八三)夏,六月己亥,蔡侯考父卒。辛亥,宿男卒。
(経八三)夏六月己亥、蔡侯考父が亡くなりました。辛亥、宿男が亡くなりました。
(經八四)秋,七月庚午,宋公、齊侯、衛侯盟於瓦屋。八月,葬蔡宣公。
(経八四)秋七月庚午、宋公・斉侯・衛侯が瓦屋で盟を結びました。八月、蔡宣公を葬りました。
(傳)卒何以名而葬不名?卒從正,而葬從主人。卒何以日而葬不日?卒赴,而葬不告。
(伝)亡くなった時は名を称するのに、葬る時はなぜ名を称しないのでしょうか。亡くなった時は朝廷の正名によれば、葬る時は主人の家での呼び名によるからです。亡くなった時はなぜ日を記し、葬る時はなぜ日を記さないのでしょうか。亡くなった時は訃告があり、葬る時は報告が来ないからです。
(經八七)九月辛卯,公及莒人盟於包來。
(経八七)九月辛卯、隠公は莒国人と包来で盟を結びました。
(傳)公曷為與微者盟?稱人則從不疑也。
(伝)隠公はなぜ地位の低い者と盟を結んだのでしょうか。相手が「人」と称されていれば、順に書くことができ、疑う必要がないのです。
(經八八)螟。
(経八八)螟虫が害をなしました。
(經八九)冬,十有二月,無駭卒。
(経八九)冬十二月、無駭が亡くなりました。
(傳)此展無駭也,何以不氏?疾始滅也,故終其身不氏。
(伝)この人は展無駭ですが、なぜ氏を書かないのでしょうか。国を滅ぼす端を開いたことを憎み、死に至るまで氏を与えなかったのです。
隱公(經九一)九年
隠公(経九一)九年
春,天王使南季來聘。
春、周天子が南季を遣わして聘問させました。
(經九二)三月癸酉,大雨,震電。
(経九二)三月癸酉、大雨が降り、雷と電光がありました。
(傳)何以書?記異也。何異爾?不時也。
(伝)なぜ記すのでしょうか。異常を記すのです。異常はどこにありますか。時候ではないことです。
(經九三)庚辰,大雨雪。
(経九三)庚辰、大雪が降りました。
(傳)何以書?記異也。何異爾?俶甚也。
(伝)なぜ記すのでしょうか。異常を記すのです。異常はどこにありますか。甚だしく度を過ぎたことです。
(經九四)俠卒。
(経九四)侠が亡くなりました。
(傳)俠者何?吾大夫之未命者也。
(伝)侠とは何者でしょうか。我が鲁国のまだ命を受けていない大夫です。
(經九五)夏,城郎。
(経九五)夏、郎を築きました。
(經九六)秋,七月。
(経九六)秋七月。
(經九七)冬,公會齊侯於邴。
(経九七)冬、隠公は邴で斉侯と会しました。
隱公(經十一)十年
隠公(経十一)十年
春,王二月,公會齊侯、鄭伯於中丘。
春、周暦二月、隠公は中丘で斉侯・鄭伯と会しました。
(經十二)夏,翬帥師會齊人、鄭人伐宋。
(経十二)夏、翬が軍を率いて斉国人・鄭国人と会合して宋を攻めました。
(傳)此公子翬也,何以不稱公子?貶。曷為貶?隱之罪人也,故終隱之篇貶也。
(伝)この人は公子翬ですが、なぜ公子と称しないのでしょうか。貶すためです。なぜ貶すのでしょうか。彼は隠公の罪人なので、隠公のこの一篇全体で彼を貶すのです。
(經十三)六月壬戌,公敗宋師於菅。辛未取郜,辛巳取防。
(経十三)六月壬戌、隠公は菅で宋国の軍隊を破りました。辛未に郜を奪い、辛巳に防を奪いました。
(傳)取邑不日,此何以日?一月而再取也。何言乎一月而再取?甚之也。內大惡諱,此其言甚之何?《春秋》錄內而略外,於外大惡書,小惡不書,於內大惡諱,小惡書。
(伝)邑を奪うのに日を記しませんが、ここではなぜ日を記すのでしょうか。一ヶ月のうちに二度奪ったからです。なぜ一ヶ月に二度奪ったと言うのでしょうか。この事をとても重く言うのです。鲁国自身の大悪は隠すのに、ここではとても重く言うのはなぜでしょうか。《春秋》は鲁国を詳しく記し、外国を略します。外に対しては、大悪は記し小悪は記しません。鲁国に対しては、大悪は隠し小悪は記すのです。
(經十四)秋,宋人、衛人入鄭。宋人、蔡人、衛人伐載,鄭伯伐取之。
(経十四)秋、宋国人・衛国人が鄭に入りました。宋国人・蔡国人・衛国人が載を攻め、鄭伯が攻めてこれを奪いました。
(傳)其言伐取之何?易也。其易奈何?因其力也。因誰之力?因宋人、蔡人、衛人之力也。
(伝)なぜ「伐取之」と書くのでしょうか。来るのが容易だったからです。どう容易だったのでしょうか。他人の力を借りたのです。誰の力を借りたのでしょうか。宋国人・蔡国人・衛国人の力を借りたのです。
(經十五)冬,十月壬午,齊人、鄭人入盛。
(経十五)冬十月壬午、斉国人・鄭国人が盛に入りました。
隱公(經十一一)十有一年
隠公(経十一一)十有一年
