隠公
(傳)何以書?記災也。
(伝)なぜ記すのでしょうか。災害を記すのです。
(經五九)冬,州公如曹。
(経五九)冬、州公が曹国へ行きました。
(傳)外相如不書,此何以書?過我也。
(伝)外の彼此の往来は例によって記しませんが、ここではなぜ記すのでしょうか。彼が我が鲁国を経由したからです。
桓公(經六一)六年
桓公(経六一)六年
春,正月,寔來。
春正月、寔が来ました。
(傳)寔來者何?猶曰是人來也。孰謂?謂州公也。曷為謂之寔來?慢之也。曷為慢之?化我也。
(伝)「寔来」とは何でしょうか。「この人が来た」と言うようなものです。誰のことでしょうか。州公のことです。なぜ「寔来」と称するのでしょうか。彼を軽んじるためです。なぜ軽んじるのでしょうか。彼が我が鲁国を勝手にあしらえるものと見なしたからです。
(經六二)夏,四月,公會紀侯於成。
(経六二)夏四月、桓公は成で紀侯と会しました。
(經六三)秋,八月壬午,大閱。
(経六三)秋八月壬午、大閲を行いました。
(傳)大閱者何?簡車徒也。何以書?蓋以罕書也。
(伝)大閲とは何でしょうか。車馬と徒衆を閲兵することです。なぜ記すのでしょうか。おそらくこの事がめったにないので記すのです。
(經六四)蔡人殺陳佗。
(経六四)蔡国人が陳佗を殺しました。
(傳)陳佗者何?陳君也。陳君則曷為謂之陳佗?絕也。曷為絕之?賤也。其賤奈何?外淫也。惡乎淫?淫於蔡,蔡人殺之。
(伝)陳佗とは何者でしょうか。陳国の国君です。陳国の国君なのに、なぜ「陳佗」と称するのでしょうか。彼を絶つためです。なぜ絶つのでしょうか。彼が賤しいからです。どう賤しいのでしょうか。外で淫乱しました。どこで淫乱したのでしょうか。蔡国で淫乱し、蔡国人が彼を殺しました。
(經六五)九月丁卯,子同生。
(経六五)九月丁卯、子同が生まれました。
(傳)子同生者孰謂?謂莊公也。何言乎子同生?喜有正也。未有言喜有正者,此其言喜有正何?久無正也。子公羊子曰:「其諸以病桓與?」
(伝)「子同生」とは誰のことでしょうか。荘公のことです。なぜ「子同生」と書くのでしょうか。嫡子ができたことを喜ぶのです。嫡子ができたことを喜んで書いたことはかつてありませんが、ここではなぜ書くのでしょうか。久しく嫡子がなかったからです。子公羊子は言いました。「これは桓公を批評するためなのでしょう。」
(經六六)冬,紀侯來朝。
(経六六)冬、紀侯が朝見に来ました。
桓公(經七一)七年
桓公(経七一)七年
春,二月己亥,焚鹹丘。
春二月己亥、咸丘を焼きました。
(傳)焚之者何?樵之也。樵之者何?以火攻也。何言乎以火攻?疾始以火攻也。鹹丘者何?邾婁之邑也。曷為不繫乎邾婁?國之也。曷為國之?君存焉爾。
(伝)「焚之」とは何でしょうか。薪のように焼くことです。薪のように焼くとは何でしょうか。火攻めを用いることです。なぜ火攻めを用いたと書くのでしょうか。ここから火攻めを用い始めたことを憎むからです。咸丘とは何でしょうか。邾婁の城邑です。なぜ邾婁の名に繋げないのでしょうか。これを一つの国と見なすのです。なぜ一つの国と見なすのでしょうか。そこに国君がいたからです。
(經七二)夏,谷伯綏來朝。鄧侯吾離來朝。
(経七二)夏、穀伯綏が朝見に来ました。鄧侯吾離が朝見に来ました。
(傳)皆何以名?失地之君也。其稱侯朝何?貴者無後,待之以初也。
(伝)二人はなぜともに名を称されるのでしょうか。どちらも地を失った国君だからです。「侯」と称して朝見に来るのはなぜでしょうか。尊い者に後嗣がなくても、なお初めの礼で遇するのです。
桓公(經八一)八年
桓公(経八一)八年
春,正月己卯,烝。
春正月己卯、烝祭を行いました。
(傳)烝者何?冬祭也。春曰祠,夏曰礿,秋曰嘗,冬曰烝。常事不書,此何以書?譏。何譏爾?譏亟也。亟則黷,黷則不敬。君子之祭也,敬而不黷。疏則怠,怠則忘。士不及茲四者,則冬不裘,夏不葛。
(伝)烝とは何でしょうか。冬の祭祀です。春を祠といい、夏を礿といい、秋を嘗といい、冬を烝といいます。常事は記しませんが、ここではなぜ記すのでしょうか。譏刺です。何を譏刺するのでしょうか。祭りが頻りすぎることを譏刺するのです。頻りすぎれば軽慢になり、軽慢になれば敬ではありません。君子の祭祀は、恭敬して軽慢になりません。疎かすぎれば怠惰になり、怠惰になれば忘れます。士がこの四つの祭りに及ばなければ、冬には皮衣を着ず、夏には葛衣を着ません。
(經八二)天王使家父來聘。
(経八二)周天子が家父を遣わして聘問させました。
(經八三)夏,五月丁丑,烝。
(経八三)夏五月丁丑、烝祭を行いました。
(傳)何以書?譏亟也。
(伝)なぜ記すのでしょうか。祭りが頻りすぎることを譏刺するのです。
(經八三)秋,伐邾婁。
(経八三)秋、邾婁を攻めました。
(經八四)冬,十月,雨雪。
(経八四)冬十月、雪が降りました。
(傳)何以書?記異也。何異爾?不時也。
(伝)なぜ記すのでしょうか。異常を記すのです。異常はどこにありますか。時候ではないことです。
(經八五)祭公來,遂逆王后於紀。
(経八五)祭公が来て、続けて紀国へ王后を迎えに行きました。
(傳)祭公者何?天子之三公也。何以不稱使?婚禮不稱主人。遂者何?生事也。大夫無遂事,此其言遂何?成使乎我也。其成使乎我奈何?使我為媒可,則因用是往逆矣。女在其國稱女,此其稱王后何?王者無外,其辭成矣。
(伝)祭公とは何者でしょうか。天子の三公です。なぜ「使」と称しないのでしょうか。婚禮には主人を称しません。「遂」とは何でしょうか。別に一事を生じることです。大夫には「遂事」はありませんが、ここで「遂」と書くのはなぜでしょうか。彼の使命が我が鲁国で成し遂げられたからです。どうして我が鲁国で成し遂げられたのでしょうか。我が鲁国に媒をさせればよいとし、この便に乗じて迎えに行ったのです。女子は本国にいる間は「女」と称しますが、ここで「王后」と称するのはなぜでしょうか。王者には「外」がなく、措辞はすでに完成しているのです。
桓公(經九一)九年
桓公(経九一)九年
春,紀季姜歸於京師。
春、紀季姜が京師に嫁ぎました。
(傳)其辭成矣,則其稱紀季姜何?自我言,紀父母之於子,雖為天王后,猶曰吾季姜。京師者何?天子之居也。京者何?大也。師者何?眾也。天子之居,必以眾大之辭言之。
(伝)措辞はすでに完成しているのに、なぜまだ「紀季姜」と称するのでしょうか。こちら側から言うのであり、紀国の父母にとって娘は、たとえすでに天子の王后であっても、なお「わが季姜」と呼ぶのです。京師とは何でしょうか。天子の居る所です。「京」とは何でしょうか。大きいことです。「師」とは何でしょうか。衆多いことです。天子の居る所は、必ずまた衆また大の字を用いて言うのです。
(經九二)夏,四月。
(経九二)夏四月。
(經九三)秋,七月。
(経九三)秋七月。
(經九四)冬,曹伯使其世子射姑來朝。
(経九四)冬、曹伯がその世子の射姑を遣わして朝見させました。
(傳)諸侯來曰朝。此世子也,其言朝何?《春秋》有譏父老子代從政者,則未知其在齊與?曹與?
(伝)諸侯が来るのを朝といいます。この人は世子なのに、なぜ「朝」と書くのでしょうか。《春秋》には父が老いて子が代わって政を執ることを譏刺する書き方がありますが、斉国のことなのか曹国のことなのか、まだ分かりません。
桓公(經十一)十年
桓公(経十一)十年
春,王正月庚申,曹伯終生卒。
春、周暦正月庚申、曹伯終生が亡くなりました。
(經十二)夏,五月,葬曹桓公。
(経十二)夏五月、曹桓公を葬りました。
(經十三)秋,公會衛侯於桃丘,弗遇。
(経十三)秋、桓公は桃丘へ衛侯と会いに行きましたが、遇いませんでした。
(傳)會者何?期辭也。其言弗遇何?公不見要也。
(伝)「会」とは何でしょうか。約束の措辞です。なぜ「弗遇」と書くのでしょうか。桓公は招かれていなかったのです。
(經十四)冬,十有二月丙午,齊侯、衛侯、鄭伯來戰於郎。
(経十四)冬十二月丙午、斉侯・衛侯・鄭伯が来て、郎で交戦しました。
(傳)郎者何?吾近邑也。吾近邑則其言來戰於郎何?近也。惡乎近?近乎圍也。此偏戰也,何以不言師敗績?內不言戰,言戰乃敗矣。
(伝)郎とは何でしょうか。我が鲁国の近くの城邑です。近くの城邑なのに、なぜ「来戦于郎」と書くのでしょうか。近いからです。どのくらい近いのでしょうか。包囲するほど近いのです。これは期日を約して戦うのに、なぜ「師敗績」と書かないのでしょうか。鲁国自身のことは「戦」と書かず、「戦」と書けばすでに敗なのです。
桓公(經十一一)十有一年
桓公(経十一一)十有一年
春,正月,齊人、衛人、鄭人盟於惡曹。
春正月、斉国人・衛国人・鄭国人が悪曹で盟を結びました。
(經十一二)夏,五月癸未,鄭伯寤生卒。
(経十一二)夏五月癸未、鄭伯寤生が亡くなりました。
(經十一三)秋,七月,葬鄭莊公。九月,宋人執鄭祭仲。
(経十一三)秋七月、鄭荘公を葬りました。九月、宋国人が鄭国の祭仲を捉えました。
(傳)祭仲者何?鄭相也。何以不名?賢也。何賢乎祭仲?以為知權也。其為知權奈何?古者鄭國處於留。先鄭伯有善於鄶公者,通乎夫人,以取其國而遷鄭焉,而野留。莊公死已葬,祭仲將往省於留,塗出於宋,宋人執之,謂之曰:「為我出忽而立突。」祭仲不從其言,則君必死、國必亡;從其言,則君可以生易死,國可以存易亡。少遼緩之,則突可故出,而忽可故反,是不可得則病,然後有鄭國。古人之有權者,祭仲之權是也。權者何?權者反於經,然後有善者也。權之所設,舍死亡無所設。行權有道,自貶損以行權,不害人以行權。殺人以自生,亡人以自存,君子不為也。
(伝)祭仲とは何者でしょうか。鄭国の相です。なぜ名を称しないのでしょうか。賢いからです。祭仲の賢さはどこにありますか。権変を知っていたとされます。どのように権変を知っていたのでしょうか。古に鄭国は留に住んでいました。先の鄭伯は鄶公と親しく、また鄶公の夫人と私通し、鄶国を奪い、鄭をそこへ迁し、留を辺邑として残しました。荘公が死に、すでに葬られ、祭仲はまさに留へ巡視に行こうとして、途中で宋を通り、宋国人が彼を捉えて言いました。「私のために忽を逐い出して突を立ててほしい。」祭仲がこの言葉に従わなければ、国君は必ず死に国家は必ず亡びます。この言葉に従えば、国君は生をもって死と換え、国家は存をもって亡と換えることができます。少し緩めれば、突はなお逐い出すことができ、忽はなお帰ってくることができます。この層ができなければ、自分に病があり、そのうえで鄭国はなお残ります。古人のうちで権を行える者とは、祭仲のような権です。「権」とは何でしょうか。権は先に常経に背き、それから利益があるものです。権の施す所は、生死存亡のほかに施す所はありません。権を行うには規矩があります。自分を損なって権を行い、他人を傷つけずに権を行うのです。他人を殺して自分を生かし、他人を滅ぼして自分を存らせることは、君子はしません。
(經十一四)突歸於鄭。
(経十一四)突が鄭国に帰りました。
(傳)突何以名?挈乎祭仲也。其言歸何?順祭仲也。
(伝)突はなぜ名を称されるのでしょうか。祭仲が彼を単に引き出したからです。なぜ「帰」と書くのでしょうか。祭仲に従うのです。
(經十一五)鄭忽出奔衛。
(経十一五)鄭の忽が衛に逃亡しました。
(傳)忽何以名?《春秋》伯、子、男一也,辭無所貶。
(伝)忽はなぜ名を称されるのでしょうか。《春秋》では伯・子・男は一等で、措辞にはこれ以上貶める所がありません。
(經十一六)柔會宋公、陳侯、蔡叔盟於折。
(経十一六)柔が宋公・陳侯・蔡叔と会合し、折で盟を結びました。
(傳)柔者何?吾大夫之未命者也。
(伝)柔とは何者でしょうか。我が鲁国のまだ命を受けていない大夫です。
(經十一七)公會宋公於夫童。
(経十一七)桓公は夫童で宋公と会しました。
(經十一八)冬,十有二月,公會宋公於闞。
(経十一八)冬十二月、桓公は闞で宋公と会しました。
桓公(經十二一)十有二年
桓公(経十二一)十有二年
春,正月。
春正月。
(經十二二)夏,六月壬寅,公會紀侯、莒子,盟於毆蛇。
(経十二二)夏六月壬寅、桓公は紀侯・莒子と会し、殴蛇で盟を結びました。
