隠公
(經十二三)秋,七月丁亥,公會宋公、燕人,盟於谷丘。
(経十二三)秋七月丁亥、桓公は宋公・燕国人と会し、穀丘で盟を結びました。
(經十二四)八月,壬辰,陳侯躍卒。公會宋公於郯。
(経十二四)八月壬辰、陳侯躍が亡くなりました。桓公は郯で宋公と会しました。
(經十二五)冬,十有一月,公會宋公於龜。丙戌,公會鄭伯,盟於武父。
(経十二五)冬十一月、桓公は亀で宋公と会しました。丙戌、桓公は鄭伯と会し、武父で盟を結びました。
(經十二六)丙戌,衛侯晉卒。
(経十二六)丙戌、衛侯晋が亡くなりました。
(經十二六)十有二月,及鄭師伐宋。丁未,戰於宋。
(経十二六)十二月、鄭国の軍隊とともに宋を攻めました。丁未、宋で交戦しました。
(傳)戰不言伐,此其言伐何?闢嫌也。惡乎嫌?嫌與鄭人戰也。此偏戰也,何以不言師敗績?內不言戰,言戰乃敗矣!
(伝)交戦には「伐」を書きませんが、ここで「伐」を書くのはなぜでしょうか。嫌疑を避けるためです。何を嫌うのでしょうか。鄭国人と交戦しているかのように見えることを嫌うのです。これは期日を約して戦うのに、なぜ「師敗績」と書かないのでしょうか。鲁国自身のことは「戦」と書かず、「戦」と書けばすでに敗なのです!
桓公(經十三一)十有三年
桓公(経十三一)十有三年
春,二月,公會紀侯、鄭伯。己巳,及齊侯、宋公、衛侯、燕人戰,齊師、宋師、衛師、燕師敗績。
春二月、桓公は紀侯・鄭伯と会しました。己巳、斉侯・宋公・衛侯・燕国人と交戦し、斉国軍・宋国軍・衛国軍・燕国軍は大敗しました。
(傳)曷為後日?恃外也。其恃外奈何?得紀侯、鄭伯,然後能為日也。內不言戰,此其言戰何?從外也。曷為從外?恃外故從外也。何以不地?近也。惡乎近?近乎圍。郎亦近矣,郎何以地?郎猶可以地也。
(伝)なぜ日を後に書くのでしょうか。外に恃むからです。どうして外に恃むのでしょうか。紀侯・鄭伯を得て、それからやっと日を約することができたのです。鲁国自身のことは「戦」と書かないのに、ここで「戦」と書くのはなぜでしょうか。外に従って書くのです。なぜ外に従って書くのでしょうか。外に恃むので、外に従って書くのです。なぜ地を記さないのでしょうか。近いからです。どのくらい近いのでしょうか。包囲するほど近いのです。郎も近かったのに、なぜ郎は地を記したのでしょうか。郎はまだ地を記すことができたのです。
(經十三二)三月,葬衛宣公。
(経十三二)三月、衛宣公を葬りました。
(經十三三)夏,大水。
(経十三三)夏、大水がありました。
(經十三四)秋,七月。
(経十三四)秋七月。
(經十三五)冬,十月。
(経十三五)冬十月。
桓公(經十四一)十有四年
桓公(経十四一)十有四年
春,正月,公會鄭伯於曹。
春正月、桓公は曹で鄭伯と会しました。
(經十四二)無冰。
(経十四二)氷がありませんでした。
(傳)何以書?記異也。
(伝)なぜ記すのでしょうか。異常を記すのです。
(經十四三)夏,五。鄭伯使其弟語來盟。
(経十四三)夏、五。鄭伯がその弟の語を遣わして盟を結ばせました。
(傳)夏五者何?無聞焉爾。
(伝)「夏五」とは何でしょうか。聞いたことがありません。
(經十四四)秋,八月壬申,御廩災。
(経十四四)秋八月壬申、御廩が火災を遭いました。
(傳)御廩者何?粢盛委之所藏也。御廩災,何以書?記災也。
(伝)御廩とは何でしょうか。祭祀用の穀を蔵する所です。御廩が火災を遭ったことをなぜ記すのでしょうか。災害を記すのです。
(經十四五)乙亥,嘗。
(経十四五)乙亥、嘗祭を行いました。
(傳)常事不書,此何以書?譏。何譏爾?譏嘗也。曰:猶嘗乎!御廩災,不如勿嘗而已矣!
(伝)常事は記しませんが、ここではなぜ記すのでしょうか。譏刺です。何を譏刺するのでしょうか。それでも嘗祭を行ったことを譏刺するのです。言うなれば、まだ嘗祭をするのか!御廩がことごとく火災に遭ったのだから、嘗祭はしなければ済んだことです!
(經十四六)冬,十有二月丁巳,齊侯祿父卒。
(経十四六)冬十二月丁巳、斉侯禄父が亡くなりました。
(經十四七)宋人以齊人、衛人、蔡人、陳人伐鄭。以者何?行其意也。
(経十四七)宋国人が斉国人・衛国人・蔡国人・陳国人を連れて鄭を攻めました。「以」とは何でしょうか。宋国自身の意思を行ったことです。
桓公(經十五一)十有五年
桓公(経十五一)十有五年
春,二月,天王使家父來求車。
春二月、周天子が家父を遣わして車を求めさせました。
(傳)何以書?譏。何譏爾?王者無求;求車,非禮也。
(伝)なぜ記すのでしょうか。譏刺です。何を譏刺するのでしょうか。王者は人に求めるべきではなく、車を求めるのは礼に合いません。
(經十五二)三月乙未,天王崩。
(経十五二)三月乙未、天子が亡くなりました。
(經十五三)夏,四月己巳,葬齊僖公。
(経十五三)夏四月己巳、斉僖公を葬りました。
(經十五四)五月,鄭伯突出奔蔡。
(経十五四)五月、鄭伯の突が蔡に出奔しました。
(傳)突何以名?奪正也。
(伝)突はなぜ名を称されるのでしょうか。彼が正位を奪ったからです。
(經十五五)鄭世子忽復歸於鄭。
(経十五五)鄭の世子の忽が再び鄭国に帰りました。
(傳)其稱世子何?復正也。曷為或言歸?或言復歸?復歸者,出惡,歸無惡;復入者,出無惡,入有惡。入者,出入惡。歸者,出入無惡。
(伝)「世子」と称するのはなぜでしょうか。正位を復したからです。なぜある所では「帰」と書き、ある所では「復帰」と書くのでしょうか。「復帰」は出る時は悪があって帰る時は悪がなく、「復入」は出る時は悪がなく入る時は悪があり、「入」は出る時も入る時も悪があり、「帰」は出る時も入る時も悪がないのです。
(經十五六)許叔入於許。公會齊侯於鄗。邾婁人、牟人、葛人來朝。
(経十五六)許叔が許に入りました。桓公は鄗で斉侯と会しました。邾婁人・牟人・葛人が朝見に来ました。
(傳)皆何以稱人?夷狄之也。
(伝)三人はなぜともに「人」と称されるのでしょうか。彼らを夷狄として扱うのです。
(經十五七)秋,九月,鄭伯突入於櫟。
(経十五七)秋九月、鄭伯の突が櫟に入りました。
(傳)櫟者何?鄭之邑。曷為不言入於鄭?末言爾。曷為末言爾?祭仲亡矣。然則曷為不言忽之出奔?言忽為君之微也。祭仲存則存矣,祭仲亡則亡矣!
(伝)櫟とは何でしょうか。鄭国の城邑です。なぜ「入于鄭」と書かないのでしょうか。まだその段を言うに至らないのです。なぜまだその段を言うに至らないのでしょうか。祭仲がすでにいないからです。ではなぜ忽の出奔を書かないのでしょうか。忽の国君としての微弱を書き出すためです。祭仲がいれば彼はいるが、祭仲がいなければ彼はいないのです!
(經十五八)冬,十有一月,公會齊侯、宋公、衛侯、陳侯於侈,伐鄭。
(経十五八)冬十一月、桓公は侈で斉侯・宋公・衛侯・陳侯と会し、鄭を攻めました。
桓公(經十六一)十有六年
桓公(経十六一)十有六年
春,正月,公會宋公、蔡侯、衛侯於曹。
春正月、桓公は曹で宋公・蔡侯・衛侯と会しました。
(經十六二)夏,四月,公會宋公、衛侯、陳侯、蔡侯伐鄭。
(経十六二)夏四月、桓公は宋公・衛侯・陳侯・蔡侯と会合して鄭を攻めました。
(經十六三)秋,七月,公至自伐鄭。
(経十六三)秋七月、桓公は鄭を伐った軍から帰りました。
(經十六四)冬,城向。十有一月,衛侯朔出奔齊。
(経十六四)冬、向を築きました。十一月、衛侯の朔が斉に逃亡しました。
(傳)衛侯朔何以名?絕。曷為絕之?得罪於天子也。其得罪於天子奈何?見使守衛朔,而不能使衛小眾,越在岱陰齊。屬負茲舍,不即罪爾。
(伝)衛侯朔はなぜ名を称されるのでしょうか。彼を絶つためです。なぜ絶つのでしょうか。天子に罪を得たからです。どうして天子に罪を得たのでしょうか。彼は守衛・朔日の朝見に派遣されたのに、衛国のわずかな人衆を率いることができず、泰山の北の斉国に逃げて、病だと推して住み着き、罪責を受けに行かなかったのです。
桓公(經十七一)十有七年
桓公(経十七一)十有七年
春,正月丙辰,公會齊侯、紀侯盟於黃。
春正月丙辰、桓公は斉侯・紀侯と会し、黄で盟を結びました。
(經十七二)二月丙午,公及邾婁儀父盟於趡。
(経十七二)二月丙午、桓公は邾婁儀父と趡で盟を結びました。
(經十七三)五月丙午,及齊師戰於奚。
(経十七三)五月丙午、斉国の軍隊と奚で交戦しました。
(經十七四)六月丁丑,蔡侯封人卒。
(経十七四)六月丁丑、蔡侯封人が亡くなりました。
(經十七五)秋,八月,蔡季自陳歸於蔡。癸巳,葬蔡桓侯。及宋人、衛人伐邾婁。
(経十七五)秋八月、蔡季が陳国から蔡に帰りました。癸巳、蔡桓侯を葬りました。宋国人・衛国人とともに邾婁を攻めました。
(經十七六)冬,十月朔,日有食之。
(経十七六)冬十月朔、日食がありました。
桓公(經十八一)十有八年
桓公(経十八一)十有八年
春,王正月,公會齊侯於濼。公與夫人姜氏遂如齊。
春、周暦正月、桓公は濼で斉侯と会しました。桓公は夫人姜氏とともに続けて斉国へ行きました。
(傳)公何以不言及夫人?夫人外也。夫人外者何?內辭也,其實夫人外公也。
(伝)桓公はなぜ「及夫人」と書かないのでしょうか。夫人が外にいたからです。夫人が外にいたとは何でしょうか。これは鲁国自身の隠す措辞で、実は夫人が桓公を外に排除したのです。
(經十八二)夏,四月丙子,公薨於齊。丁酉,公之喪至自齊。
(経十八二)夏四月丙子、桓公は斉国で亡くなりました。丁酉、桓公の霊柩が斉国から到来しました。
(經十八三)秋,七月。
(経十八三)秋七月。
(經十八四)冬,十有二月己丑,葬我君桓公。
(経十八四)冬十二月己丑、我が鲁国の国君桓公を葬りました。
(傳)賊未討,何以書葬?讎在外也。讎在外則何以書葬?君子辭也。
(伝)賊がまだ討たれていないのに、なぜ葬りを記すのでしょうか。仇人が国外にいるからです。仇人が国外にいるのに、なぜまだ葬りを記すのでしょうか。これは君子の措辞です。
