定公
(經六六)冬,城中城。
(経六六)冬、中城を築いた。
(經六七)季孫斯、仲孫忌帥師圍運。
(経六七)季孫斯・仲孫忌が軍を率いて運を包囲した。
(傳)此仲孫何忌也,曷為謂之仲孫忌?譏二名。二名,非禮也。
(伝)これは仲孫何忌であるのに、なぜ仲孫忌と呼ぶのか。二文字の名を譏刺するのである。二文字の名は礼ではない。
定公(經七一)七年
定公(経七一)七年
春,王正月。(經七二)夏,四月。
春、周暦正月である。(経七二)夏、四月である。
(經七三)秋,齊侯、鄭伯盟於鹹。
(経七三)秋、斉侯・鄭伯が咸で盟を結んだ。
(經七四)齊人執衛行人北宮結,以侵衛。
(経七四)斉の人が衛の行人北宮結を捕らえ、衛を攻めるのに用いた。
(經七五)齊侯、衛侯盟於沙澤。
(経七五)斉侯・衛侯が沙沢で盟を結んだ。
(經七六)大雩。
(経七六)大雩を行った。
(經七七)齊國夏帥師伐我西鄙。
(経七七)斉の国夏が軍を率いて我が魯の西鄙を攻めた。
(經七八)九月,大雩。
(経七八)九月、大雩を行った。
(經七九)冬,十月。
(経七九)冬、十月である。
定公(經八一)八年
定公(経八一)八年
春,王正月,公侵齊。公至自侵齊。
春、周暦正月、定公は斉を攻めた。定公は斉攻めから帰った。
(經八二)二月,公侵齊。三月,公至自侵齊。
(経八二)二月、定公は斉を攻めた。三月、定公は斉攻めから帰った。
(經八三)曹伯露卒。
(経八三)曹伯露が卒した。
(經八三)夏,齊國夏帥師伐我西鄙。
(経八三)夏、斉の国夏が軍を率いて我が魯の西鄙を攻めた。
(經八四)公會晉師於瓦,公至自瓦。
(経八四)定公は瓦で晋の軍と会い、定公は瓦から帰った。
(經八五)秋,七月戊辰,陳侯柳卒。
(経八五)秋、七月戊辰、陳侯柳が卒した。
(經八六)晉趙鞅帥師侵鄭,遂侵衛。
(経八六)晋の趙鞅が軍を率いて鄭を攻め、続いて衛を攻めた。
(經八七)葬曹靖公。
(経八七)曹靖公を葬った。
(經八八)九月,葬陳懷公。
(経八八)九月、陳懐公を葬った。
(經八九)季孫斯、仲孫何忌帥師侵衛。
(経八九)季孫斯・仲孫何忌が軍を率いて衛を攻めた。
(經八十)冬,衛侯、鄭伯盟於曲濮。
(経八十)冬、衛侯・鄭伯が曲濮で盟を結んだ。
(經八十一)從祀先公。
(経八十一)順序に従って先公を祭祀した。
(傳)從祀者何?順祀也。文公逆祀,去者三人;定公順祀,叛者五人。
(伝)従祀とは何か。順序に従って祀ることである。文公は順序に逆らって祀り、離れた者が三人あった。定公は順序に従って祀り、叛いた者が五人あった。
(經八十二)盜竊寶玉、大弓。
(経八十二)盗賊が宝玉・大弓を盗んだ。
(傳)盜者孰謂?謂陽虎也。陽虎者,曷為者也?季氏之宰也。季氏之宰則微者也,惡乎得國寶而竊之?陽虎專季氏,季氏專魯國,陽虎拘季孫,孟氏與叔孫氏迭而食之。睋而鋟其板,曰:「某月某日,將殺我於蒲圃,力能救我則於是。」至乎日若時而出。臨南者,陽虎之出也,御之。於其乘焉,季孫謂臨南曰:「以季氏之世世有子,子可以不免我死乎?」臨南曰:「有力不足,臣何敢不勉。」陽越者,陽虎之從弟也,為右。諸陽之從者,車數十乘,至於孟衢,臨南投策而墜之,陽越下取策,臨南駷馬,而由乎孟氏,陽虎從而射之,矢著於莊門。然而甲起於琴如。弒不成,卻反舍於郊,皆說然息。或曰:「弒千乘之主,而不克舍此,可乎?」陽虎曰:「夫孺子得國而已,如丈夫何?」睋而曰:「彼哉!彼哉!趣駕。」既駕,公斂處父帥師而至,慬然後得免,自是走之晉。寶者何?璋判白,弓繡質,龜青純。
(伝)盗とは誰を指すのか。陽虎を指す。陽虎とは何者か。季氏の家宰である。季氏の家宰は微賤な者だが、どうして国宝を得て盗み去ることができたのか。陽虎は季氏を専断し、季氏は魯を専断していた。陽虎は季孫を拘禁し、孟氏と叔孫氏が交代で彼に食事を届けた。彼は目を眇めて板に字を刻み、言った、「某月某日、蒲圃で私を殺そうとする。力あって私を救う者はその時に来い」と。その日のその時刻に出て行った。臨南は陽虎の甥で、彼のために車を御した。車に乗るとき、季孫は臨南に言った、「季氏が代々あなたのような者を持ったことに凭って、あなたは私を死なせないでくれないか」と。臨南は言った、「力が足りませんが、臣はどうして力を尽くさないことができましょう」と。陽越は陽虎の従弟で、車右を務めた。陽氏の従者は車が数十両あり、孟衢に至って、臨南は馬鞭を落とし、陽越が車を降りて鞭を拾い、臨南は馬を駆って奔り、孟氏の方から通り過ぎ、陽虎は彼を追って射たが、矢は荘門に当たった。しかし甲士が琴如から起こった。君を殺すのに成功せず、退いて郊に住み、みな甲を脱いで休んだ。或る者が言った、「千乗の主を殺して成功せず、ここに住んでいてよいのか」と。陽虎は言った、「あの小児が国を得たところで、丈夫に対して何ができようか」と。目を眇めて見て言った、「あの人か。あの人か。急いで車を繋げ」と。すでに車を繋ぐと、公斂処父が軍を率いて駆けつけ、ようやく辛うじて免れ、これより晋に逃げた。宝とは何か。半ば白い璋、底に繍のある弓、青い縁の亀である。
定公(經九一)九年
定公(経九一)九年
春,王正月。
春、周暦正月である。
(經九二)夏,四月戊申,鄭伯囆卒。
(経九二)夏、四月戊申、鄭伯囆が卒した。
(經九三)得寶玉、大弓。
(経九三)宝玉・大弓を得た。
(傳)何以書?國寶也,喪之書,得之書。
(伝)なぜ記したのか。国宝であり、失えば記し、得ても記すのである。
(經九四)六月,葬鄭獻公。
(経九四)六月、鄭献公を葬った。
(經九五)秋,齊侯、衛侯次於五氏。
(経九五)秋、斉侯・衛侯が五氏に駐屯した。
(經九六)秦伯卒。
(経九六)秦伯が卒した。
(經九七)冬,葬秦哀公。
(経九七)冬、秦哀公を葬った。
定公(經十一)十年
定公(経十一)十年
春,王三月,及齊平。
春、周暦三月、斉と和を講じた。
(經十二)夏,公會齊侯於頰谷。公至自頰谷。
(経十二)夏、定公は頬谷で斉侯と会した。定公は頬谷から帰った。
(經十三)晉趙鞅帥師圍衛。
(経十三)晋の趙鞅が軍を率いて衛を包囲した。
(經十四)齊人來歸運、讙、龜陰田。
(経十四)斉の人が運・讙・亀陰の田を返しに来た。
(傳)齊人曷為來歸運、讙、龜陰田?孔子行乎季孫,三月不違,齊人為是來歸之。
(伝)斉の人はなぜ運・讙・亀陰の田を返しに来たのか。孔子が季孫のもとで事を行い、三箇月違逆することがなかったので、斉の人はそれによって返しに来たのである。
(經十五)叔孫州仇、仲孫何忌帥師圍郈。
(経十五)叔孫州仇・仲孫何忌が軍を率いて郈を包囲した。
(經十六)秋,叔孫州仇、仲孫何忌帥師圍費。
(経十六)秋、叔孫州仇・仲孫何忌が軍を率いて費を包囲した。
(經十七)宋樂世心出奔曹。宋公子池出奔陳。
(経十七)宋の楽世心が曹に奔った。宋の公子池が陳に奔った。
(經十八)冬,齊侯、衛侯、鄭遊遬會於鞍。
(経十八)冬、斉侯・衛侯・鄭の游遬が鞍で会した。
(經十九)叔孫州仇如齊。
(経十九)叔孫州仇が斉に行った。
(經十十)齊公之弟辰暨宋仲佗、石彄出奔陳。
(経十十)斉公の弟辰と宋の仲佗・石彄が陳に奔った。
定公(經十一一)十有一年
定公(経十一一)十有一年
春,宋公之弟辰及仲佗、石彄、公子池,自陳入於蕭,以叛。
春、宋公の弟辰と仲佗・石彄・公子池が、陳から蕭に入り、来て叛いた。
(經十一二)夏,四月。
(経十一二)夏、四月である。
(經十一三)秋,宋樂世心自曹入於蕭。
(経十一三)秋、宋の楽世心が曹から蕭に入った。
(經十一四)冬,及鄭平。
(経十一四)冬、鄭と和を講じた。
(經十一五)叔還如鄭蒞盟。
(経十一五)叔還が鄭に行って会盟に与った。
定公(經十二一)十有二年
定公(経十二一)十有二年
春,薛伯定卒。
春、薛伯定が卒した。
(經十二二)夏,葬薛襄公。
(経十二二)夏、薛襄公を葬った。
(經十二三)叔孫州仇帥師墮郈。
(経十二三)叔孫州仇が軍を率いて郈を堕した。
(經十二四)衛公孟彄帥師伐曹。
(経十二四)衛の公孟彄が軍を率いて曹を攻めた。
