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隠公(元年~十一年)

春秋 · 左丘明(旧题) · 第2巻 / 56

衛之亂也,郕人侵衛,故衛師入郕。

衛国に動乱があったとき、郕人は衛国を侵したので、衛軍が郕に入った。

九月,考仲子之宮,將萬焉。公問羽數於眾仲。對曰:“天子用八,諸侯用六,大夫四,士二。夫舞所以節八音而行八風,故自八以下。”公從之。於是初獻六羽,始用六佾也。

九月、仲子の廟を落成し、そこで万舞を行おうとした。隠公は衆仲に羽の数を問うた。衆仲は答えた「天子は八を用い、諸侯は六、大夫は四、士は二です。舞は八音を節し八風を宣導するもの、だから八から下へ減じます」と。隠公はこれに従った。そこで初めて六羽を献じ、六佾を用い始めた。

宋人取邾田。邾人告於鄭曰:“請君釋憾於宋,敝邑為道。”鄭人以王師會之。伐宋,入其郛,以報東門之役。宋人使來告命。公聞其入郛也,將救之,問於使者曰:“師何及?”對曰:“未及國。”公怒,乃止,辭使者曰:“君命寡人同恤社稷之難,今問諸使者,曰‘師未及國’,非寡人之所敢知也。”

宋人は邾国の田を奪った。邾人は鄭国に告げた「君に宋に鬱憤を晴らしていただきたい、弊邑が道案内をします」と。鄭人は王室の軍隊を連れて邾と会した。宋国を討ち、外城に入り、東門の役の報復とした。宋人は人を遣わして国君の命令を帯びて報告した。隠公は鄭軍がすでに外城に入ったと聞き、救援しようとして使者に「軍隊はどこに至ったか」と問うた。使者は「まだ国都に達していません」と答えた。隠公は怒り、出兵をやめ、使者に辞して「君が我に社稷の危難を共に憂恤せよと命じたのに、いま使者に問えば『軍隊はまだ国都に至らない』と言う。これでは私の敢えて問うところではない」と言った。

冬十二月辛已,臧僖伯卒。公曰:“叔父有憾於寡人,寡人弗敢忘。葬之加一等。

冬十二月辛巳(底本は「辛已」、「已」は「巳」の譌)、臧僖伯が亡くなった。隠公は「叔父は私に怨恨があったが、私は忘れられない。葬るに等級を一つ加えよう」と言った。

宋人伐鄭,圍長葛,以報入郛之役也。

宋人は鄭国を討ち、長葛を包囲した——外城に入った役の報復である。

◇隱公六年

◇隠公六年

【經】六年春,鄭人來渝平。夏五月辛酉,公會齊侯盟於艾。秋七月。冬,宋人取長葛。

【経】六年春、鄭人が来て和約の改訂を請うた。夏五月辛酉、隠公は斉侯と会見し、艾で盟約を結んだ。秋七月。冬、宋人は長葛を取った。

【傳】六年春,鄭人來渝平,更成也。

【伝】六年春、鄭人が来て和約の改訂を請うた——改めて媾和したのである。

翼九宗、五正、頃父之子嘉父逆晉侯於隨,納諸鄂。晉人謂之鄂侯。

翼の九宗・五正・頃父の子の嘉父は随に往き晋侯を迎え、鄂に置いた。晋人は彼を鄂侯と呼んだ。

夏,盟於艾,始平於齊也。

夏、艾で盟約を結び、斉国との媾和を始めた。

五月庚申,鄭伯侵陳,大獲。

五月庚申、鄭伯は陳国を侵し、獲るところが多かった。

往歲,鄭伯請成於陳,陳侯不許。五父諫曰:“親仁善鄰,國之寶也。君其許鄭。”陳侯曰:“宋、衛實難,鄭何能為?”遂不許。

往年、鄭伯は陳に媾和を請うたが、陳侯は許さなかった。五父が諫めて言うには「仁者に親しみ隣国と善くするのは、国の宝です。君は鄭国に応じなさい」と。陳侯は「宋・衛こそ畏るべきだ、鄭が何をできよう」と言い、ついに許さなかった。

君子曰:“善不可失,惡不可長,其陳桓公之謂乎!長惡不悛,從自及也。

君子曰く「善は失うべからず、悪は滋長すべからず、言うのは陳桓公のことであろう。悪を滋長して改めなければ、禍患が自ら追いつく。

雖欲救之,其將能乎?《商書》曰:‘惡之易也,如火之燎於原,不可鄉邇,其猶可撲滅?’周任有言曰:‘為國家者,見惡如農夫之務去草焉,芟夷蘊崇之,絕其本根,勿使能殖,則善者信矣。’”秋,宋人取長葛。

(君子は続けて言う)たとえ挽救しようとしても、なお及ぶことができようか。『商書』に『悪の延びるや、火の原野を焼くが如く、近づくべからず、なお撲滅できようか』とある。周任に言あり『国を治める者は、悪を見ること農夫の務めて草を除くが如く、これを芟夷し蘊崇し、その本根を断ちて殖ゆることなくせよ。すれば善なる者伸ばん』と」と。秋、宋人は長葛を取った。

冬,京師來告飢。公為之請糴於宋、衛、齊、鄭,禮也。

冬、京師が来て饑饉を報告した。隠公は周室のために宋・衛・斉・鄭に糧を求糴した、これは礼に合う。

鄭伯如周,始朝桓王也。王不禮焉。周桓公言於王曰:“我周之東遷,晉、鄭焉依。善鄭以勸來者,猶懼不,況不禮焉?鄭不來矣!”

鄭伯は周に往き、桓王に朝見し始めた。天子は礼をもって遇しなかった。周桓公は天子に言った「我ら周室が東に遷ったのは、晋・鄭に頼ったからです。鄭国を善く遇して後の者を勧めましょう、それでもなお来ないことを惧れるのに(底本「犹惧不」の下は疑らく「来」の字を脱す)、まして礼をもって遇しないとは。鄭国は二度と来ないでしょう!」

◇隱公七年

◇隠公七年

【經】七年春王三月,叔姬歸於紀。滕侯卒。夏,城中丘。齊侯使其弟年來聘。秋,公伐邾。冬,天王使凡伯來聘。戎伐凡伯於楚丘以歸。

【経】七年春、周天子の暦の三月、叔姫が紀国に嫁いだ。滕侯が亡くなった。夏、中丘に城を築いた。斉侯はその弟の年を遣わして聘問した。秋、隠公は邾を討った。冬、周天子は凡伯を遣わして聘問した。戎は楚丘で凡伯を邀撃し、彼を連れ帰った。

【傳】七年春,滕侯卒。不書名,未同盟也。凡諸侯同盟,於是稱名,故薨則赴以名,告終嗣也,以繼好息民,謂之禮經。

【伝】七年春、滕侯が亡くなった。『春秋』がその名を書かないのは、同盟していなかったからである。およそ諸侯が同盟すれば、ここに名を称する。だから亡くなれば名で訃告し、終りを報告し後継者を告げる——友好を続け百姓を安んずるためであり、これを礼経という。

夏,城中丘,書,不時也。

夏、中丘に城を築いた。『春秋』に記すのは、時節に合わないからである。

齊侯使夷仲年來聘,結艾之盟也。

斉侯は夷仲年を遣わして聘問した、艾地の盟約を固めるためである。

秋,宋及鄭平。七月庚申,盟於宿。公伐邾,為宋討也。

秋、宋と鄭が媾和した。七月庚申、宿で盟約を結んだ。隠公が邾を討ったのは、宋のために討ったのである。

初,戎朝於周,發幣於公卿,凡伯弗賓。冬,王使凡伯來聘。還,戎伐之於楚丘以歸。

むかし、戎は周天子に朝見し、公卿に財幣を分けたが、凡伯は賓礼をもって迎えなかった。冬、天子は凡伯を遣わして聘問した。帰るとき、戎は楚丘で彼を邀撃し、連れ帰った。

陳及鄭平。十二月,陳五父如鄭蒞盟。壬申,及鄭伯盟,歃如忘,洩伯曰:“五父必不免,不賴盟矣。”

陳と鄭が媾和した。十二月、陳の五父は鄭に行き自ら盟に臨んだ。壬申、鄭伯と盟約を結んだが、歃血するとき心が在らず、泄伯は「五父は必ず禍を免れない、彼は盟約を頼みとしていない」と言った。

鄭良佐如陳蒞盟,辛巳,及陳侯盟,亦知陳之將亂也。

鄭の良佐は陳に行き自ら盟に臨み、辛巳、陳侯と盟約を結んだが、陳が乱れようとしているのも見た。

鄭公子忽在王所,故陳侯請妻之。鄭伯許之,乃成昏。

鄭公子忽が天子のもとにいたので、陳侯は女を彼に嫁がせるよう請うた。鄭伯は許し、そこで婚約が定まった。

◇隱公八年

◇隠公八年

【經】八年春,宋公、衛侯遇於垂。三月,鄭伯使宛來歸祊。庚寅,我入祊。夏六月己亥,蔡侯考父卒。辛亥,宿男卒。秋七月庚午,宋公、齊侯、衛侯盟於瓦屋。八月,葬蔡宣公。九月辛卯,公及莒入盟於浮來。螟。冬十有二月,無駭卒。

【経】八年春、宋公・衛侯が垂で不意に会った。三月、鄭伯は宛を遣わして祊を交付させた。庚寅、我が国は祊を受け取った。夏六月己亥、蔡侯考父が亡くなった。辛亥、宿男が亡くなった。秋七月庚午、宋公・斉侯・衛侯が瓦屋で盟約を結んだ。八月、蔡宣公を葬った。九月辛卯、隠公は莒人と浮来で盟約を結んだ(底本は「莒入」、「入」は「人」の譌)。螟の災いがあった。冬十二月、無駭が亡くなった。

【傳】八年春,齊侯將平宋、衛,有會期。宋公以幣請於衛,請先相見,衛侯許之,故遇於犬丘。

【伝】八年春、斉侯は宋・衛を媾和させようとして、すでに会見の日を定めていた。宋公は財幣で衛に請い、先に相見ることを求め、衛侯は許した。だから犬丘で不意に会ったのである(即ち経文の垂)。

鄭伯請釋泰山之祀而祀周公,以泰山之祊易許田。三月,鄭伯使宛來歸祊,不祀泰山也。

鄭伯は泰山への祭祀を捨てて周公を祀り替えたいと請い、泰山下の祊で許田と交換しようとした。三月、鄭伯は宛を遣わして祊を交付させた、泰山を祀らなくなったからである。

夏,虢公忌父始作卿士於周。

夏、虢公忌父が周で卿士となり始めた。

四月甲辰,鄭公子忽如陳逆婦媯。辛亥,以媯氏歸。甲寅,入於鄭。陳針子送女。先配而後祖。針子曰:“是不為夫婦。誣其祖矣,非禮也,何以能育?”齊人卒平宋、衛於鄭。秋,會於溫,盟於瓦屋,以釋東門之役,禮也。

四月甲辰、鄭公子忽は陳に行き婦人の嬀氏を娶った。辛亥、嬀氏を連れて帰った。甲寅、鄭の都に入った。陳の鍼子が女を送った。先に同衾して後で廟に告げた。鍼子は「これではまだ夫婦とは言えない。その祖先を欺くのは礼に合わない、どうして生育できようか」と言った。斉人はついに宋・衛を鄭と媾和させた。秋、温で会見し、瓦屋で盟約を結び、東門の役を解消した、これは礼に合う。

八月丙戌,鄭伯以齊人朝王,禮也。

八月丙戌、鄭伯は斉人を率いて天子に朝見した、これは礼に合う。

公及莒人盟於浮來,以成紀好也。

隠公が莒人と浮来で盟約を結んだのは、紀との友好を成すためである。

冬,齊侯使來告成三國。公使眾仲對曰:“君釋三國之圖以鳩其民,君之惠也。寡君聞命矣,敢不承受君之明德。”

冬、斉侯は人を遣わして三国を媾和させたことを報告した。隠公は衆仲を遣わして答えて言わせた「君は三国の図を釈してその百姓を安んじられた、これは君の恵です。寡君は命令を聞きました、敢えて君の明德を受けましょう」と。

無駭卒。羽父請諡與族。公問族於眾仲。眾仲對曰:“天子建德,因生以賜姓,胙之土而命之氏。諸侯以字為諡,因以為族。官有世功,則有官族,邑亦如之。”公命以字為展氏。

無駭が亡くなった。羽父は諡と族氏を賜るよう請うた。隠公は衆仲に族氏のことを問うた。衆仲は答えた「天子は徳ある者を立て、その生地によって姓を賜い、土地を分封して氏を命じます。諸侯は字を諡とし、それによって族とします。官職に世々の功労があれば官族があり、采邑もまた同じです」と。隠公は無駭の字を用いるよう命じ、展氏と定めた。

◇隱公九年

◇隠公九年

【經】九年春,天子使南季來聘。三月癸酉,大雨,震電。庚辰,大雨雪。

【経】九年春、天子は南季を遣わして聘問した。三月癸酉、大雨、雷電。庚辰、大雨雪。

挾卒。夏,城郎。秋七月。冬,公會齊侯於防。

挟が亡くなった。夏、郎に城を築いた。秋七月。冬、隠公は防で斉侯と会見した。

【傳】九年春,王三月癸酉,大雨霖以震,書始也。庚辰,大雨雪,亦如之。

【伝】九年春、周暦三月癸酉、大雨が連続し雷が鳴った、『春秋』の記すのは始まりを記すものである。庚辰、大雪が降った、同じくそうである。

書,時失也。凡雨,自三日以往為霖。平地尺為大雪。

『春秋』が記したのは、節気が違っていたからである。およそ雨は三日以上を霖という。平地に雪が一尺積もるのを大雪という。

夏,城郎,書,不時也。

夏、郎に城を築いた。『春秋』に記すのは、時節に合わないからである。

宋公不王。鄭伯為王左卿士,以王命討之,伐宋。宋以入郛之役怨公,不告命。公怒,絕宋使。

宋公が天子に朝見しなかった。鄭伯は天子の左卿士として、王命をもって彼を討ち、宋国を討った。宋は外城に入られた役のことで隠公を恨み、報告に来なかった。隠公は怒り、宋の使者を絶った。

秋,鄭人以王命來告伐宋。

秋、鄭人は王命をもって来て宋国を討つことを報告した。

冬,公會齊侯於防,謀伐宋也。

冬、隠公が防で斉侯と会見したのは、宋国を討つことを謀議したのである。

北戎侵鄭,鄭伯御之。患戎師,曰;“彼徒我車,懼其侵軼我也。”公子突曰:“使勇而無剛者嘗寇,而速去之。君為三覆以待之。戎輕而不整,貪而無親,勝不相讓,敗不相救。先者見獲必務進,進而遇覆必速奔,後者不救,則無繼矣。

北戎が鄭国を侵し、鄭伯は彼らを防いだ。戎軍を憂えて「彼らは歩兵、我らは戦車。彼らが後ろから突然我を襲い越えるのを恐れる」と言った。公子突が「勇敢で剛愎でない者を遣わして敵寇を試させ、その後速やかに退きます。君は三カ所に伏兵を設けて彼らを待ちなさい。戎は軽佻で整わず、貪婪で親情なく、勝てば互いに譲らず、敗れれば互いに救わず。前を行く者は獲る所を見れば必ず一意に進み、進んで伏兵に遇えば必ず速やかに奔逃し、後の者が救わなければ継ぐ者がありません。

乃可以逞。”從之。

(公子突は続けて言った)こうしてこそ志を得られます」と。荘公はこれに従った。

戎人之前遇覆者奔。祝聃逐之。衷戎師,前後擊之,盡殪。戎師大奔。十一月甲寅,鄭人大敗戎師。

戎人の前を行く者は伏兵に遇うと奔逃した。祝聃が彼らを追撃した。中ほどで戎軍を遮断し、前後で挟撃し、全部殺した。戎軍は大いに奔った。十一月甲寅、鄭人は戎軍を大いに破った。

◇隱公十年

◇隠公十年

【經】十年春王二月,公會齊侯、鄭伯於中丘。夏,翬帥師會齊人、鄭人伐宋。六月壬戌,公敗宋師於菅。辛未,取郜。辛巳,取防。秋,宋人、衛人入鄭。

【経】十年春、周天子の暦の二月、隠公は中丘で斉侯・鄭伯と会見した。夏、翬は軍隊を率い斉人・鄭人と会して宋国を討った。六月壬戌、隠公は菅で宋軍を破った。辛未、郜を取った。辛巳、防を取った。秋、宋人・衛人は鄭国に入った。

宋人、蔡人、衛人伐戴。鄭伯伐取之。冬十月壬午,齊人、鄭人入郕。

宋人・蔡人・衛人は戴を討った。鄭伯は彼らを討ち取った。冬十月壬午、斉人・鄭人は郕に入った。

【傳】十年春,王正月,公會齊侯、鄭伯於中丘。癸丑,盟於鄧,為師期。

【伝】十年春、周暦正月、隠公は中丘で斉侯・鄭伯と会見した。癸丑、鄧で盟約を結び、出兵の日を約した。

夏五月,羽父先會齊侯、鄭伯伐宋。

夏五月、羽父は先に往き斉侯・鄭伯と会して宋国を討った。

六月戊申,公會齊侯、鄭伯於老桃。壬戌,公敗宋師於菅。庚午,鄭師入郜。

六月戊申、隠公は老桃で斉侯・鄭伯と会見した。壬戌、隠公は菅で宋軍を破った。庚午、鄭軍は郜に入った。

辛未,歸於我。庚辰,鄭師入防。辛巳,歸於我。

辛未、郜は我が国に帰した。庚辰、鄭軍は防に入った。辛巳、防は我が国に帰した。

君子謂:“鄭莊公於是乎可謂正矣。以王命討不庭,不貪其土以勞王爵,正之體也。”

君子は考える「鄭荘公はこの事において正しかった。王命をもって朝せぬ者を討ち、その土地を貪らず、王爵ある者に酬いたのは、正しき体統である」と。

蔡人、衛人、郕人不會王命。

蔡人・衛人・郕人は来て会し、王命を奉じなかった。

秋七月庚寅,鄭師入郊。猶在郊,宋人、衛人入鄭。蔡人從之,伐戴。八月壬戌,鄭伯圍戴。癸亥,克之,取三師焉。宋、衛既入鄭,而以伐戴召蔡人,蔡人怒,故不和而敗。

秋七月庚寅、鄭軍は本国の遠郊に入り、なお郊に留まった。宋人・衛人は鄭国に入った。蔡人は彼らに従い、戴を討った。八月壬戌、鄭伯は戴を包囲した。癸亥、勝ちを制し、三国の軍隊を俘にした。宋・衛はすでに鄭国に入っていたのに、戴を伐つと言って蔡人を召したので、蔡人は怒り、だから和せず敗れた。

九月戊寅,鄭伯入宋。

九月戊寅、鄭伯は宋国に入った。

冬,齊人、鄭人入郕,討違王命也。

冬、斉人・鄭人が郕に入ったのは、王命に背いたのを討ったのである。

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