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襄公(元年~三十一年)

春秋 · 左丘明(旧题) · 第30巻 / 56

◇襄公元年

◇襄公元年

【經】元年春王正月,公即位。仲孫蔑會晉欒黶、宋華元、衛寧殖、曹人、莒人、邾人、滕人、薛人圍宋彭城。夏,晉韓厥帥師伐鄭,仲孫蔑會齊崔杼、曹人、邾人、杞人次於鄫。秋,楚公子壬夫帥師侵宋。九月辛酉,天王崩。邾子來朝。冬,衛侯使公孫剽來聘。晉侯使荀罃來聘。

【経】元年春、周天子の暦の正月、襄公が即位した。仲孫蔑は晋の欒黶・宋の華元・衛の寧殖・曹人・莒人・邾人・滕人・薛人と会合して宋の彭城を包囲した。夏、晋の韓厥が軍を率いて鄭を攻め、仲孫蔑は斉の崔杼・曹人・邾人・杞人と会合して鄫に駐屯した。秋、楚の公子壬夫が軍を率いて宋を侵伐した。九月辛酉、天子が死去した。邾子が朝見に来た。冬、衛侯は公孫剽を遣わして聘問させた。晋侯は荀䓨を遣わして聘問させた。

【傳】元年春己亥,圍宋彭城。非宋地,追書也。於是為宋討魚石,故稱宋,且不登叛人也,謂之宋志。彭城降晉,晉人以宋五大夫在彭城者歸,置諸瓠丘。

【伝】元年春己亥、宋の彭城を包囲した。当時すでに宋の地ではなく、《春秋》は追記したのだ。この時宋のために魚石を討ったので宋と称し、かつ叛乱の者を得志させない。これを宋人の意志と言う。彭城は晋に降し、晋人は彭城に在った宋の五位の大夫を連れて帰り、瓠丘に置いた。

齊人不會彭城,晉人以為討。二月,齊大子光為質於晉。

斉人は彭城の包囲に参加せず、晋人はこれによって討伐した。二月、斉の太子光が晋に人質として至った。

夏五月,晉韓厥、荀偃帥諸侯之師伐鄭,入其郛,敗其徒兵於洧上。於是東諸侯之師次於鄫,以待晉師。晉師自鄭以鄫之師侵楚焦夷及陳,晉侯、衛侯次於戚,以為之援。

夏五月、晋の韓厥・荀偃は諸侯の軍を率いて鄭を攻め、外城に入り、洧水の辺で鄭の歩兵を破った。この時東方の諸侯の軍は鄫に駐屯し、晋軍を待っていた。晋軍は鄭から鄫の軍を率いて楚の焦・夷および陳を侵伐し、晋侯・衛侯は戚に駐屯し、後援とした。

秋,楚子辛救鄭,侵宋呂、留。鄭子然侵宋,取犬丘。

秋、楚の子辛は鄭を救い、宋の呂・留を侵伐した。鄭の子然は宋を侵伐し、犬丘を取った。

九月,邾子來朝,禮也。

九月、邾子が朝見に来た。これは礼に合う。

冬,衛子叔、晉知武子來聘,禮也。凡諸侯即位,小國朝之,大國聘焉,以繼好結信,謀事補闕,禮之大者也。

冬、衛の子叔・晋の知武子が聘問に来た。これは礼に合う。およそ諸侯が即位すれば、小国は朝見に来て、大国は聘問に来る。友好を続け信用を結び、事を商量し缺失を弥補するは、礼の中で最大である。

◇襄公二年

◇襄公二年

【經】二年春王正月,葬簡王。鄭師伐宋。夏五月庚寅,夫人姜氏薨。六月庚辰,鄭伯侖卒。晉師、宋師、衛寧殖侵鄭。秋七月,仲孫蔑會晉荀罃、宋華元、衛孫林父、曹人、邾人於戚。己丑,葬我小君齊姜。叔孫豹如宋。冬,仲孫蔑會晉荀罃、齊崔杼、宋華元、衛孫林父、曹人、邾人、滕人、薛人、小邾人於戚,遂城虎牢。楚殺其大夫公子申。

【経】二年春、周天子の暦の正月、簡王を葬った。鄭軍が宋を攻めた。夏五月庚寅、夫人姜氏が死去した。六月庚辰、鄭伯崙が死去した。晋軍・宋軍・衛の寧殖が鄭を侵伐した。秋七月、仲孫蔑は晋の荀䓨・宋の華元・衛の孫林父・曹人・邾人と戚で会見した。己丑、わが小君斉姜を葬った。叔孫豹は宋に行った。冬、仲孫蔑は晋の荀䓨・斉の崔杼・宋の華元・衛の孫林父・曹人・邾人・滕人・薛人・小邾人と戚で会見し、こうして虎牢城を修築した。楚はその大夫公子申を殺した。

【傳】二年春,鄭師侵宋,楚令也。

【伝】二年春、鄭軍が宋を侵伐したのは、楚の命令である。

齊侯伐萊,萊人使正輿子賂夙沙衛以索馬牛,皆百匹,齊師乃還。君子是以知齊靈公之為“靈”也。

斉侯は萊を攻め、萊人は正輿子を遣わして精選の馬牛各百匹をもって夙沙衛に賂を行わせ、斉軍はこうして帰った。君子はこれによって斉霊公が「霊」と諡される所以を知る。

夏,齊姜薨。初,穆姜使擇美檟,以自為櫬與頌琴。季文子取以葬。君子曰:“非禮也。禮無所逆,婦,養姑者也,虧姑以成婦,逆莫大焉。《詩》曰:‘其惟哲人,告之話言,順德之行。’季孫於是為不哲矣。且姜氏,君之妣也。

夏、斉姜が死去した。初め、穆姜は人に善い檟木を選ばせ、自らのために棺と頌琴を作らせた。季文子はこれを取って葬った。君子は言った、「これは礼に合わない。礼は悖逆なし。婦は姑を奉養する者で、姑を亏損して婦を成すは、悖逆これより大きいなし。《詩》に言う、『哲人のみあれど、善言を彼に告げ、徳行に順って行う』と。季孫はこの事に哲人と算されません。しかも姜氏は国君の祖母です。

《詩》曰:‘為酒為醴,烝畀祖妣,以洽百禮,降福孔偕。’”齊侯使諸姜宗婦來送葬。召萊子,萊子不會,故晏弱城東陽以逼之。

(君子は続けて言う:)《詩》に言う、『酒を為し醴を為し、祖妣に進献し、もって諸礼に配合す。降る福は甚だ普遍なり』と」。斉侯は諸姜の婦女と同宗の婦人を遣わして葬を送らせた。萊子を召したが、萊子は会見に参加せず、だから晏弱は東陽城を修築して彼を逼迫した。

鄭成公疾,子駟請息肩於晉。公曰:“楚君以鄭故,親集矢於其目,非異人任,寡人也。若背之,是棄力與言,其誰暱我?免寡人,唯二三子!”秋七月庚辰,鄭伯侖卒。於是子罕當國,子駟為政,子國為司馬。晉師侵鄭,諸大夫欲從晉。子駟曰:“官命未改。”

鄭成公は病み、子駟は晋に負担を卸すことを請うた。成公は言った、「楚君は鄭の故のために、自ら箭に集中して目を中られた。担当したは他の人ではなく、寡人である。もし彼を背棄すれば、人の出力と諾言を棄てることだ。誰がわれわれに親しもうか。寡人を罪より免れさせるは、ただあなたたちにあるのみ!」秋七月庚辰、鄭伯崙が死去した。この時子罕が国事を主持し、子駟が執政し、子国が司馬を務めた。晋軍は鄭を侵伐し、大夫たちは晋に従おうとした。子駟は言った、「国君の命令はまだ変わっていない」と。

會於戚,謀鄭故也。孟獻子曰:“請城虎牢以逼鄭。”知武子曰:“善。鄫之會,吾子聞崔子之言,今不來矣。滕、薛、小邾之不至,皆齊故也。寡君之憂不唯鄭。罃將復於寡君,而請於齊。得請而告,吾子之功也。若不得請,事將在齊。君子之請,諸侯之福也,豈唯寡君賴之。”

戚で会見したのは、鄭の事を商量したのである。孟献子は言った、「虎牢城を修築して鄭を逼迫することを請います」と。知武子は言った、「よし。鄫の会見で、あなたは崔子の言を聞いたが、今彼は来ない。滕・薛・小邾が至らないは、皆斉の故です。寡君の憂患は鄭のみならず。䓨は寡君に復命し、かつ斉に請いましょう。請いが許されてから告げるは、あなたの功です。もし請いが叶わなければ、事は斉に在ります。あなたの請いは諸侯の福です。どうして寡君のみの頼りとしましょうか」と。

穆叔聘於宋,通嗣君也。

穆叔が宋に聘問したのは、新たに即位した国君に好を通じるためである。

冬,復會於戚,齊崔武子及滕、薛、小邾之大夫皆會,知武子之言故也。遂城虎牢,鄭人乃成。

冬、再び戚で会見し、斉の崔武子および滕・薛・小邾の大夫が皆参加した。知武子のあの言の故である。こうして虎牢城を修築し、鄭人はこうして講和した。

楚公子申為右司馬,多受小國之賂,以逼子重、子辛,楚人殺之。故書曰:“楚殺其大夫公子申。”

楚の公子申は右司馬を為り、小国から財貨を多く取り、子重・子辛を逼迫したので、楚人は彼を殺した。だから《春秋》に記して「楚殺其大夫公子申」と。

◇襄公三年

◇襄公三年

【經】三年春,楚公子嬰齊帥師伐吳。公如晉。夏四月壬戌,公及晉侯盟於長樗。公至自晉。六月,公會單子、晉侯、宋公、衛侯、鄭伯、莒子、邾子、齊世子光。己未,同盟於雞澤。陳侯使袁僑如會。戊寅,叔孫豹及諸侯之大夫及陳袁僑盟。秋,公至自會。冬,晉荀罃帥師伐許。

【経】三年春、楚の公子嬰斉が軍を率いて呉を攻めた。襄公は晋に行った。夏四月壬戌、襄公は晋侯と長樗で盟を結んだ。襄公は晋から帰った。六月、襄公は単子・晋侯・宋公・衛侯・鄭伯・莒子・邾子・斉世子光と会見した。己未、鶏沢でともに盟を結んだ。陳侯は袁僑を遣わして会に至らせた。戊寅、叔孫豹および諸侯の大夫は陳の袁僑と盟を結んだ。秋、襄公は会から帰った。冬、晋の荀䓨が軍を率いて許を攻めた。

【傳】三年春,楚子重伐吳,為簡之師,克鳩茲,至於衡山。使鄧廖帥組甲三百、被練三千以侵吳。吳人要而擊之,獲鄧廖。其能免者,組甲八十、被練三百而已。子重歸,既飲至,三日,吳人伐楚,取駕。駕,良邑也。鄧廖,亦楚之良也。君子謂:“子重於是役也,所獲不如所亡。”楚人以是咎子重。子重病之,遂遇心病而卒。

【伝】三年春、楚の子重が呉を攻め、選抜した軍を組成し、鳩兹を攻克し、衡山に至った。鄧廖を遣わして組甲三百・被練三千を率いて呉を侵伐させた。呉人は腰を遮って撃ち、鄧廖を俘獲した。免れ得たは、組甲八十・被練三百のみ。子重は帰り、すでに飲至し、三日を過ぐると、呉人は楚を攻め、駕を取った。駕は良い城邑である。鄧廖もまた楚の賢人である。君子は思う、「子重はこの役に、得るところは失うところに如かず」と。楚人はこれによって子重を責めた。子重はこれを病とし、こうして心病を得て死んだ。

公如晉,始朝也。夏,盟於長樗。孟獻子相,公稽首。知武子曰:“天子在,而君辱稽首,寡君懼矣。”孟獻子曰:“以敝邑介在東表,密邇仇讎,寡君將君是望,敢不稽首?”晉為鄭服故,且欲修吳好,將合諸侯。使士匄告於齊曰:“寡君使匄,以歲之不易,不虞之不戒,寡君願與一二兄弟相見,以謀不協,請君臨之,使匄乞盟。”

襄公が晋に行ったのは、初めての朝見である。夏、長樗で盟を結んだ。孟献子が相礼し、襄公は稽首した。知武子は言った、「天子が在るのに、君王は自らを辱めて稽首する。寡君は懼れます」と。孟献子は言った、「敝邑が東に在り、仇敵に近づき、寡君は君王を頼りとします。敢えて稽首せずにいられましょうか」と。晋は鄭が帰服したので、かつ呉と修好しようとし、諸侯を会合しようとした。士匄を遣わして斉に告げさせて言わせた、「寡君は匄を遣わして来させ、年成が良くなく、意外の事に戒備なく、寡君はあなたたちと兄弟として見え、不和協の事を商量し、君王の親臨を請い、匄を遣わして盟を請わせたい」と。

齊侯欲勿許,而難為不協,乃盟於耏外。

斉侯は許そうと欲しなかったが、不和協を表すことも難しく、こうして耏水の外で盟を結んだ。

祁奚請老,晉侯問嗣焉。稱解狐,其仇也,將立之而卒。又問焉,對曰:“午也可。”於是羊舌職死矣,晉侯曰:“孰可以代之?”對曰:“赤也可。”

祁奚は告老を請い、晋侯は後継の人を問うた。彼は解狐を推举したが、それは彼の仇人で、まさに立てようとして死んだ。また問うと、答えて言った、「午は可」。

於是使祁午為中軍尉,羊舌赤佐之。君子謂:“祁奚於是能舉善矣。稱其仇,不為諂。立其子,不為比。舉其偏,不為黨。《商書》曰:‘無偏無黨,王道蕩蕩。’其祁奚之謂矣!解狐得舉,祁午得位,伯華得官,建一官而三物成,能舉善也夫!唯善,故能舉其類。《詩》云:‘惟其有之,是以似之。’祁奚有焉。”

こうして祁午を中軍尉とし、羊舌赤を輔佐とした。君子は思う、「祁奚はこの事に善人を推举できた。仇人を推举するは、諂媚と算されず。自らの子を立てるは、偏私と算されず。副手を推举するは、結党と算されず。《商書》に言う、『偏私なく結党なし、王道は平坦寛広なり』と。祁奚を言うのでしょう!解狐は推举を得、祁午は職位を得、伯華は官職を得、一つの官を建てて三つの事が成就した。能く善人を推举する者だ!ただ善なればこそ、その同類を推举できる。《詩》に言う、『ただ彼の有るがゆえに、能く彼のごとくなれり』と。祁奚にはこの徳がある」と。

六月,公會單頃公及諸侯。己未,同盟於雞澤。

六月、襄公は単頃公および諸侯と会見した。己未、鶏沢でともに盟を結んだ。

晉侯使荀會逆吳子於淮上,吳子不至。

晋侯は荀会を遣わして淮水の辺に呉子を迎えさせたが、呉子は至らなかった。

楚子辛為令尹,侵欲於小國。陳成公使袁僑如會求成,晉侯使和組父告於諸侯。秋,叔孫豹及諸侯之大夫及陳袁僑盟,陳請服也。

楚の子辛は令尹を為り、小国に対し侵奪貪欲した。陳成公は袁僑を遣わして会に和を求めさせ、晋侯は和組父を遣わして諸侯に告知させた。秋、叔孫豹および諸侯の大夫は陳の袁僑と盟を結んだ。陳が帰服を請うたからである。

晉侯之弟揚幹亂行於曲梁,魏絳戮其僕。晉侯怒,謂羊舌赤曰:“合諸侯以為榮也,揚幹為戮,何辱如之?必殺魏絳,無失也!”對曰:“絳無貳志,事君不闢難,有罪不逃刑,其將來辭,何辱命焉?”言終,魏絳至,授僕人書,將伏劍。士魴、張老止之。公讀其書曰:“日君乏使,使臣斯司馬。臣聞師眾以順為武,軍事有死無犯為敬。君合諸侯,臣敢不敬?君師不武,執事不敬,罪莫大焉。

晋侯の弟揚干が曲梁で行列を扰乱したので、魏絳はその御者を殺した。晋侯は怒り、羊舌赤に言った、「諸侯を会合するは光栄のため。揚干が刑戮を受けたは、これより羞辱がありますか。必ず魏絳を殺せ、失なうな!」答えて言った、「絳は二心なく、国君に事えるに患難を避けず、罪あって刑罰を逃避せず。彼は自ら来て陳辞するでしょう。どうして命令を辱める必要がありますか」と。言が終わると、魏絳が至り、書信を僕人に与え、剣に伏して自殺しようとした。士魴・張老が彼を遮り止めた。晋侯はその書信を読み、「往日君王は使者に乏しく、臣にこの司馬を為らせました。臣が聞くに、軍隊は順従をもって武と為し、軍事は死を寧くして犯さざるをもって敬と為すと。君王は諸侯を会合し、臣は敢えて敬まざりえましょうか。君王の軍隊が武ならず、執事が敬ならざるは、罪はこれより大きいなし。

臣懼其死,以及揚幹,無所逃罪。不能致訓,至於用鉞。臣之罪重,敢有不從,以怒君心,請歸死於司寇。”公跣而出,曰:“寡人之言,親愛也。吾子之討,軍禮也。寡人有弟,弗能教訓,使幹大命,寡人之過也。子無重寡人之過,敢以為請。”

(魏絳の書信は続く:)臣は自ら死罪を獲ることを恐れ、揚干に累を及ぼし、罪を逃避する場所なし。訓導が位に至らず、大斧を動かすに至った。臣の罪は重く、敢えて聴従せざることあって君王の心を激怒させましょうか。帰って司寇で死することを請います」と。晋侯は跣足して出て言った、「寡人の言は、弟を親愛するがゆえ。あなたの討伐は、軍礼である。寡人に弟あって、教訓できず、彼に大命に犯らせたは、寡人の過ち。あなたは寡人の過ちを加重するな。敢えてこれをもって請います」と。

晉侯以魏絳為能以刑佐民矣,反役,與之禮食,使佐新軍。張老為中軍司馬,士富為候奄。

晋侯は魏絳が刑罰をもって百姓を輔佐治理できるとし、軍役から帰り、彼に礼食を与え、新軍を輔佐させた。張老を中軍司馬とし、士富を候奄とした。

楚司馬公子何忌侵陳,陳叛故也。

楚の司馬公子何忌が陳を侵伐したのは、陳が背叛したからである。

許靈公事楚,不會於雞澤。冬,晉知武子帥師伐許。

許霊公は楚に事え、鶏沢の会見に参加しなかった。冬、晋の知武子が軍を率いて許を攻めた。

◇襄公四年

◇襄公四年

【經】四年春王三月己酉,陳侯午卒。夏,叔孫豹如晉。秋七月戊子,夫人姒氏薨。葬陳成公。八月辛亥,葬我小君定姒。冬,公如晉。陳人圍頓。

【経】四年春、周天子の暦の三月己酉、陳侯午が死去した。夏、叔孫豹は晋に行った。秋七月戊子、夫人姒氏が死去した。陳成公を葬った。八月辛亥、わが小君定姒を葬った。冬、襄公は晋に行った。陳人は頓を包囲した。

【傳】四年春,楚師為陳叛故,猶在繁陽。韓獻子患之,言於朝曰:“文王帥殷之叛國以事紂,唯知時也。今我易之,難哉!”三月,陳成公卒。楚人將伐陳,聞喪乃止。陳人不聽命。臧武仲聞之,曰:“陳不服於楚,必亡。大國行禮焉而不服,在大猶有咎,而況小乎?”夏,楚彭名侵陳,陳無禮故也。

【伝】四年春、楚軍は陳の背叛の故に、なお繁陽にいた。韓献子は憂え、朝廷で言った、「文王は殷商の叛国を率いて紂に事えた。ただ時宜を知ったからである。今われわれは反対のことをする。難しい!」三月、陳成公が死去した。楚人は陳を攻めようとしたが、喪あると聞いて止めた。陳人は命令に聴従しなかった。臧武仲は聞いて言った、「陳が楚に服従せざれば、必ず亡びる。大国が礼を施行しても服従せざれば、大国にも禍ある。まして小国をや」と。夏、楚の彭名が陳を侵伐した。陳に礼がなかったからである。

穆叔如晉,報知武子之聘也,晉侯享之。金奏《肆夏》之三,不拜。工歌《文王》之三,又不拜。歌《鹿鳴》之三,三拜。韓獻子使行人子員問之,曰:“子以君命,辱於敝邑。先君之禮,藉之以樂,以辱吾子。吾子舍其大,而重拜其細,敢問何禮也?”對曰:“三《夏》,天子所以享元侯也,使臣弗敢與聞。

穆叔は晋に行き、知武子の聘問に報いた。晋侯は享礼を設けて招待した。金石をもって《肆夏》の三章を奏したが、拜さなかった。楽工が《文王》の三篇を歌唱しても、また拜さなかった。《鹿鳴》の三篇を歌唱すると、三度拜した。韓献子は行人子員を遣わして彼に問わせて言わせた、「あなたは国君の命令を帯び、辱くも敝邑に臨んだ。先君の礼に、音楽を加えて、あなたを辱めました。あなたは大なるを捨てて、細なるに重拜する。敢えて何の礼か問います」と。答えて言った、「三《夏》は、天子が元侯を享待するためのもので、使臣は敢えて聴くに与りません。

《文王》,兩君相見之樂也,使臣不敢及。《鹿鳴》,君所以嘉寡君也,敢不拜嘉。?《四牡》,君所以勞使臣也,敢不重拜?《皇皇者華》,君教使臣曰:‘必諮於周。’臣聞之:‘訪問於善為諮,諮親為詢,諮禮為度,諮事為諏,諮難為謀。’臣獲五善,敢不重拜?”秋,定姒薨。不殯於廟,無櫬,不虞。匠慶謂季文子曰:“子為正卿,而小君之喪不成,不終君也。君長,誰受其咎?”初,季孫為己樹六檟於蒲圃東門之外。匠慶請木,季孫曰:“略。”匠慶用蒲圃之檟,季孫不御。君子曰:“《志》所謂‘多行無禮,必自及也’,其是之謂乎!”冬,公如晉聽政,晉侯享公。公請屬鄫,晉侯不許。孟獻子曰:“以寡君之密邇於仇讎,而願固事君,無失官命。鄫無賦於司馬,為執事朝夕之命敝邑,敝邑褊小,闕而為罪,寡君是以願藉助焉!”晉侯許之。

(穆叔は続けて言う:)《文王》は、二国君が相見する楽で、使臣は敢えて及びません。《鹿鳴》は、国君が寡君を嘉奖するためのもので、敢えて嘉奖を拜謝せずにいられましょうか。《四牡》は、国君が使臣を慰労するためのもので、敢えて重拜せずにいられましょうか。《皇皇者華》は、国君が使臣に教えて言う、『必ず忠信の人に諮問せよ』と。臣が聞くに、『善人に訪問するを咨と言い、咨問して親戚を問うを詢と言い、咨問して礼を問うを度と言い、咨問して事を問うを諏と言い、咨問して難を問うを謀と言う』と。臣は五つの善を得ました。敢えて重拜せずにいられましょうか」と。秋、定姒が死去した。祖廟に停殯せず、内棺なく、虞祭を行わなかった。匠慶は季文子に言った、「あなたは正卿を為すのに、小君の喪事が礼を成さない。国君の終を送ることができません。国君が長じて、誰がこの過ちを受けましょうか」と。初め、季孫は自らのために蒲圃の東門の外に六株の檟樹を植えた。匠慶は木材を請い、季孫は言った、「簡略に行え」と。匠慶は蒲圃の檟木を用い、季孫は阻止しなかった。君子は言った、「《志》の謂うところ『無礼の事を多くなせば、必ず自らに輪る』とは、これを言うのでしょう!」冬、襄公は晋に行って貢賦の政令を聴き、晋侯は享礼を設けて襄公を招待した。襄公は鄫を附属とすることを請い、晋侯は許さなかった。孟献子は言った、「寡君は仇敵に近づきながら、願わくは牢固に君王に事え、官命を失わざること。鄫は司馬に軍賦を納めず、執事は朝夕敝邑に命じ、敝邑は狭小で、缺失すれば即ち罪です。寡君はこれによってそれを借りて助けとすることを願います!」晋侯は許した。

楚人使頓間陳而侵伐之,故陳人圍頓。

楚人は頓に陳の隙を鑚けさせてこれを侵伐させたので、陳人は頓を包囲した。

無終子嘉父使孟樂如晉,因魏莊子納虎豹之皮,以請和諸戎。晉侯曰:“戎狄無親而貪,不如伐之。”魏絳曰:“諸侯新服,陳新來和,將觀於我,我德則睦,否則攜貳。勞師於戎,而楚伐陳,必弗能救,是棄陳也,諸華必叛。戎,禽獸也,獲戎失華,無乃不可乎?《夏訓》有之曰:‘有窮后羿。’”公曰:“后羿何如?”對曰:“昔有夏之方衰也,后羿自鉏遷於窮石,因夏民以代夏政。恃其射也,不修民事而淫於原獸。棄武羅、伯困、熊髡、龍圉而用寒浞。寒浞,伯明氏之讒子弟也。伯明後寒棄之,夷羿收之,信而使之,以為己相。浞行媚於內而施賂於外,愚弄其民而虞羿于田,樹之詐慝以取其國家,外內鹹服。羿猶不悛,將歸自田,家眾殺而亨之,以食其子。其子不忍食諸,死於窮門。靡奔有鬲氏。

無終子嘉父は孟楽を遣わして晋に行かせ、魏荘子を通じて虎豹の皮を献じ、諸部の戎人と講和することを請わせた。晋侯は言った、「戎狄は親情なく貪婪。攻めるに如かず」と。魏絳は言った、「諸侯は新たに帰服し、陳は新たに講和し、われわれを観察するでしょう。われわれに徳あれば和睦し、さもなければ離心します。戎に師を労せば、楚が陳を攻め、必ず救うことができず、陳を棄てることです。諸夏は必ず背きます。戎は禽獣です。戎人を得て華夏を失うは、おそらく不可でしょう。《夏訓》にこの言があります、『有窮后羿』と」。晋侯は言った、「后羿はどうか」と。答えて言った、「昔夏がまさに衰微した時、后羿は鉏から窮石に遷り、夏の百姓に憑って夏政を代った。射芸を恃み、民事を修めずして田獵に沈迷した。武羅・伯困・熊髠・龍圉を棄てて寒浞を任用した。寒浞は伯明氏の讒を進めた子弟である。伯明后寒が彼を棄て、夷羿が收留し、信任し使用して、自らの相とした。浞は内に媚を献じ外に賂を行い、百姓を愚弄し、羿に田獵で娯楽させ、詐邪を培植してその国を奪った。内外は皆服従した。羿は尚改悔せず、田獵から帰ろうとすると、家の衆人は彼を殺して烹り、その子に食わせた。その子は食うに忍びず、窮門で死んだ。靡は有鬲氏に逃げ奔った。

浞因羿室,生澆及豷,恃其讒慝詐偽而不德於民。使澆用師,滅斟灌及斟尋氏。

(魏絳は続けて言う:)浞は羿の妻妾を占有し、澆と豷を生み、讒邪詐偽を恃み、百姓に徳を施さなかった。澆に出兵させ、斟灌と斟尋氏を滅ぼした。

處澆於過,處豷於戈。靡自有鬲氏,收二國之燼,以滅浞而立少康。少康滅澆於過,後杼滅豷於戈。有窮由是遂亡,失人故也。昔周辛甲之為大史也,命百官,官箴王闕。於《虞人之箴》曰:‘芒芒禹跡,畫為九州,經啟九道。民有寢廟,獸有茂草,各有攸處,德用不擾。在帝夷羿,冒於原獸,忘其國恤,而思其麀牡。

(魏絳は続けて言う:)澆を過に置き、豷を戈に置いた。靡は有鬲氏から両国の残余を収集し、浞を滅ぼして少康を立てた。少康は過で澆を滅ぼし、后杼は戈で豷を滅ぼした。有窮はこれによってついに亡びた。人を失ったからである。昔周の辛甲は太史を為り、百官に命じ、各官は天子の缺失を規箴した。《虞人之箴》に言う、『茫茫たる禹の足迹、划分して九州と為し、九州の道を開通す。百姓には寝室・廟あり、野獣には茂草あり、各々処るところあり、徳はこれによって乱れず。帝夷羿に在りては、田獵の野獣を貪り、国家の憂恤を忘れ、ただあの母鹿公獣を思うのみ。

武不可重,用不恢於夏家。獸臣司原,敢告僕伕。’《虞箴》如是,可不懲乎?”於是晉侯好田,故魏絳及之。

(箴辞は続く:)武事は重きに過ぐべからず、これによって夏家を拡大できず。獣臣は原野を掌り、敢えて僕夫に報告す』と。《虞箴》はこのようである。戒めとすべからずや」と。当時晋侯は田獵を好んだので、魏絳はここに至って言ったのだ。

公曰:“然則莫如和戎乎?”對曰:“和戎有五利焉:戎狄荐居,貴貨易土,土可賈焉,一也。邊鄙不聳,民狎其野,穡人成功,二也。戎狄事晉,四鄰振動,諸侯威懷,三也。以德綏戎,師徒不勤,甲兵不頓,四也。鑑於后羿,而用德度,遠至邇安,五也。君其圖之!”公說,使魏絳盟諸戎,修民事,田以時。

晋侯は言った、「では戎と講和するに如くはないか」と。答えて言った、「戎と講和するに五つの利益あり。戎狄は水草を逐うて居り、貨物を重んじ土地を軽んず。土地は買うべし、一。辺境は驚懼せず、百姓は田野に熟悉し、耕種する者は成功する、二。戎狄が晋に事えれば、四隣は震動し、諸侯は威徳に感ぜられる、三。徳をもって戎人を安んずれば、軍隊は勤苦せず、甲兵は損壊せず、四。后羿を借鉴し、徳の法度を用い、遠方は到来し近処は安定す、五。君王の考慮を請います!」晋侯は喜び、魏絳を遣わして諸部の戎人と盟を結ばせ、民事を修明し、農時に従って田獵した。

冬十月,邾人、莒人伐鄫。臧紇救鄫,侵邾,敗於狐駘。國人逆喪者皆髽。魯於是乎始髽,國人誦之曰:“臧之狐裘,敗我於狐駘。我君小子,朱儒是使。朱儒!朱儒!使我敗於邾。”

冬十月、邾人・莒人が鄫を攻めた。臧紇は鄫を救い、邾を侵伐し、狐駘で戦敗した。国人は喪車を迎える者皆麻をもって髪を束ねた。魯はこれより麻をもって髪を束ね始め、国人は誦して言った、「臧は狐裘を着て、われわれを狐駘で敗らせた。わが国君は小子なのに、侏儒を派遣した。侏儒!侏儒!われわれを邾で敗らせた」と。

◇襄公五年

◇襄公五年

【經】五年春,公至自晉。夏,鄭伯使公子發來聘。叔孫豹、鄫世子巫如晉。仲孫蔑、衛孫林父子會吳於善道。秋,大雩。楚殺其大夫公子壬夫。公會晉侯、宋公、陳侯、衛侯、鄭伯、曹伯、莒子、邾子、滕子、薛伯、齊世子光、吳人、鄫人於戚。公至自會。冬,戍陳。楚公子貞帥師伐陳。公會晉侯、宋公、衛侯、鄭伯、曹伯、齊世子光救陳。十有二月,公至自救陳。辛未,季孫行父卒。

【経】五年春、襄公は晋から帰った。夏、鄭伯は公子発を遣わして聘問させた。叔孫豹・鄫世子巫は晋に行った。仲孫蔑・衛の孫林父は善道で呉に会見した。秋、大雩を行った。楚はその大夫公子壬夫を殺した。襄公は晋侯・宋公・陳侯・衛侯・鄭伯・曹伯・莒子・邾子・滕子・薛伯・斉世子光・呉人・鄫人と戚で会見した。襄公は会から帰った。冬、陳を戍守した。楚の公子貞が軍を率いて陳を攻めた。襄公は晋侯・宋公・衛侯・鄭伯・曹伯・斉世子光と会合して陳を救った。十二月、襄公は陳を救ったところから帰った。辛未、季孫行父が死去した。

【傳】五年春,公至自晉。

【伝】五年春、襄公は晋から帰った。

王使王叔陳生愬戎於晉,晉人執之。士魴如京師,言王叔之貳於戎也。

天子は王叔陳生を遣わして晋に戎人を訴えさせたが、晋人は彼を執えた。士魴は京師に行き、王叔が戎に二心あると言った。

夏,鄭子國來聘,通嗣君也。

夏、鄭の子国が聘問に来た。新たに即位した国君に好を通じるためである。

穆叔覿鄫大子於晉,以成屬鄫。書曰:“叔孫豹、鄫大子巫如晉。”

穆叔は鄫の太子を連れて晋に進見し、鄫を附属とすることを成し遂げに来た。《春秋》に記して「叔孫豹、鄫大子巫如晋」と。

言比諸魯大夫也。

彼を魯の大夫に比同するを言うのだ。

吳子使壽越如晉,辭不會於雞澤之故,且請聽諸侯之好。晉人將為之合諸侯,使魯、衛先會吳,且告會期。故孟獻子、孫文子會吳於善道。

呉子は寿越を遣わして晋に行かせ、鶏沢の会見に参加しなかった故を解釈し、かつ諸侯との友好に聴従することを請わせた。晋人は彼のために諸侯を会合しようとし、魯・衛に先に呉と会見させ、かつ会期を告知させた。だから孟献子・孫文子は善道で呉に会見した。

秋,大雩,旱也。

秋、大雩を行ったのは、旱のためである。

楚人討陳叛故,曰:“由令尹子辛實侵欲焉。”乃殺之。書曰:“楚殺其大夫公子壬夫。”貪也。君子謂:“楚共王於是不刑。《詩》曰:‘周道挺挺,我心扃扃,講事不令,集人來定。’己則無信,而殺人以逞,不亦難乎?《夏書》曰:‘成允成功。’”九月丙午,盟於戚,會吳,且命戍陳也。穆叔以屬鄫為不利,使鄫大夫聽命於會。

楚人は陳の背叛の故を追究し、言った、「実は令尹子辛が侵奪貪欲した」と。こうして彼を殺した。《春秋》に記して「楚殺其大夫公子壬夫」と。彼が貪婪だったからである。君子は思う、「楚共王はこの事に刑を用いること当たらず。《詩》に言う、『周道は筆直、我が心は明察、謀事は善ならず、人を聚めて定める』と。自ら信用なく、人を殺して逞快するは、また難しくないか!《夏書》に言う、『信用を成してこそ功業を成せり』と」。九月丙午、戚で盟を結んだ。呉に会見し、かつ陳を戍守することを命じたのだ。穆叔は鄫を附属とすることが不利とし、鄫の大夫に会上で命を聴かせた。

楚子囊為令尹。範宣子曰:“我喪陳矣!楚人討貳而立子囊,必改行而疾討陳。陳近於楚,民朝夕急,能無往乎?有陳,非吾事也,無之而後可。”

楚の子囊が令尹を為った。范宣子は言った、「われわれは陳を失うだろう!楚人は二心あるを討ちかつ子囊を立てた。必ず做法を変えて速やかに陳を討つでしょう。陳は楚に近く、百姓は朝夕危急。去らずにいられましょうか。陳を保有するはわれわれの事ではなく、それなくしてこそ可です」と。

冬,諸侯戍陳。子囊伐陳。十一月甲午,會於城棣以救之。

冬、諸侯は陳を戍守した。子囊は陳を攻めた。十一月甲午、城棣で会見して救いに行った。

季文子卒。大夫入斂,公在位。宰庀家器為葬備,無衣帛之妾,無食粟之馬,無藏金玉,無重器備。君子是以知季文子之忠於公室也。相三君矣,而無私積,可不謂忠乎?

季文子が死去した。大夫が入斂し、襄公は位に在った。家宰は家の器物を備えて葬具とし、帛を着た妾なく、粟を食う馬なく、金玉を蔵せず、重複の器物装備なかった。君子はこれによって季文子が公室に忠誠であったことを知る。すでに三国君を輔佐したのに、私積なく。忠と言うべからずや。

◇襄公六年

◇襄公六年

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