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昭公(元年~三十二年)

春秋 · 左丘明(旧题) · 第49巻 / 56

【經】三十有一年春王正月,公在乾侯。季孫意如會晉荀躒於適歷。夏四月丁巳,薛伯谷卒。晉侯使荀躒唁公於乾侯。秋,葬薛獻公。冬,黑肱以濫來奔。

【経】三十一年春、周天子の暦の正月、公が乾侯に在り。季孫意如が適歷で晋荀躒と會見した。夏四月丁巳、薛伯穀が卒した。晋侯が荀躒を遣わして乾侯に至り公を弔慰せしめた。秋、薛献公を葬った。冬、黑肱が濫を帶びて奔に來た。

十有二月辛亥朔,日有食之。

十二月辛亥朔、日食發生す。

【傳】三十一年春,王正月,公在乾侯,言不能外內也。

【伝】三十一年春、周天子の暦の正月、公が乾侯に在りは國外國內の援助を得る能わざるを説くなり。

晉侯將以師納公。範獻子曰:“若召季孫而不來,則信不臣矣。然後伐之,若何?”晉人召季孫,獻子使私焉,曰:“子必來,我受其無咎。”季孫意如會晉荀躒於適歷。荀躒曰:“寡君使躒謂吾子:‘何故出君?有君不事,周有常刑,子其圖之!’”季孫練冠麻衣跣行,伏而對曰:“事君,臣之所不得也,敢逃刑命?君若以臣為有罪,請囚於費,以待君之察也,亦唯君。若以先臣之故,不絕季氏,而賜之死。若弗殺弗亡,君之惠也,死且不朽。若得從君而歸,則固臣之願也。敢有異心?”夏四月,季孫從知伯如乾侯。子家子曰:“君與之歸。一慚之不忍,而終身慚乎?”公曰:“諾。”眾曰:“在一言矣,君必逐之。”荀躒以晉侯之命唁公,且曰:“寡君使躒以君命討於意如,意如不敢逃死,君其入也!”公曰:“君惠顧先君之好,施及亡人,將使歸糞除宗祧以事君,則不能夫人。己所能見夫人者,有如河!”荀躒掩耳而走,曰:“寡君其罪之恐,敢與知魯國之難?臣請復於寡君。”退而謂季孫:“君怒未怠,子姑歸祭。”子家子曰:“君以一乘入於魯師,季孫必與君歸。”公欲從之,眾從者脅公,不得歸。

晋侯が將に軍隊を以て公を國に送らんとした。范献子が曰わく、「もし季孫を召して彼が來らざれば、則ち確實に臣道を守らず。然る後に彼を伐つはどうか」。晋人が季孫を召し、献子が人を遣わして私に彼に對して曰わく、「あなたは必ず來れ。我はあなたに禍なきを擔保す」。季孫意如が適歷で晋荀躒と會見した。荀躒が曰わく、「寡君は躒を遣わして吾子に對して曰わしむ、『何の故で國君を趕走したか。君ありて事奉せざれば、周に固定の刑罰あり。あなたは考慮せよ!』」。季孫が練冠を戴き麻衣を著て赤脚に走り、趴下して對えて曰わく、「君に事奉するは臣の求めて得ざる所。敢えて刑罰の命令を逃避せんや。君がもし臣に罪ありと以為せば、臣を費に囚禁し、君の考察を待つを請います。もただ君に憑るのみ。もし先臣の故を以て季氏を滅絕せず、臣に一死を賜えば。もし殺さず放逐せざれば、是れ君の恩惠で、死しても朽滅せざらん。もし能く君に從い歸れば、あれは本より臣の願望なり。敢えて二心あらんや」。夏四月、季孫が知伯に從い乾侯に至った。子家子が曰わく、「君は彼と一起に歸れ。一次の慚愧を忍ぶ能わざるに、卻って終身慚愧せんか」。公が曰わく、「善し」。衆人が曰わく、「ただ一言に在り。君は必ず彼を趕走せよ」。荀躒が晋侯の命令を以て公を弔慰し、かつ曰わく、「寡君は躒を遣わして君の命令を以て意如を討伐せしむ。意如は敢えて死を逃避せず。君はなお入れよ!」。公が曰わく、「君が惠を施し先君の交好を顧念し、流亡の人に延及し、將に我をして歸りて宗廟を掃除して君に事奉せしめんとすれば、則ちその人に見る能わず。我のその人に見る能く情形は、河神を證と為すが如有り!」。荀躒が耳を捂い跑開し、曰わく、「寡君は自分の罪過も怕れるに、敢えて魯國の禍難を參與知らんや。臣は寡君に回報するを請います」。退きて季孫に對して曰わく、「君の怒はまだ鬆懈せず。あなたは姑く歸りて祭祀を主持せよ」。子家子が曰わく、「君が一輛車を以て魯師に入れば、季孫は必ず君と歸らん」。公が聽從せんと欲すも、衆隨從が公を脅迫し、歸る能わず。

薛伯谷卒,同盟,故書。

薛伯穀が卒したは同盟なれば、ゆえに記載す。

秋,吳人侵楚,伐夷,侵潛、六。楚沈尹戌帥師救潛,吳師還。楚師遷潛於南岡而還。吳師圍弦。左司馬戌、右司馬稽帥師救弦,及豫章。吳師還。始用子胥之謀也。

秋、呉人が楚を侵襲し、夷を伐ち、潛・六を侵襲した。楚沈尹戌が師を率いて潛を救い、呉師が退回した。楚師が潛を南岡に遷して然る後に歸った。呉師が弦を包圍した。左司馬戌・右司馬稽が師を率いて弦を救い、豫章に至った。呉師が退回した。始めて子胥の計謀を用いたり。

冬,邾黑肱以濫來奔,賤而書名,重地故也。君子曰:“名之不可不慎也如是。夫有所名,而不如其已。以地叛,雖賤,必書地,以名其人。終為不義,弗可滅已。是故君子動則思禮,行則思義,不為利回,不為義疚。或求名而不得,或欲蓋而名章,懲不義也。齊豹為衛司寇,守嗣大夫,作而不義,其書為‘盜’。

冬、邾黑肱が濫を帶びて奔に來るは地位低賤なるに卻って名字を記載したは土地を看重する故なり。君子が曰わく、「名字の謹慎すべからざるはこの如し。記載する名字あるは有るに如かず。土地を帶びて叛變するはたとえ低賤でも必ず土地を記載し、以てその人の名字を指出す。終に不義となるは消滅すべからず。ゆえに君子は一動すれば禮を想い、一行為すれば義を想い、利のため邪曲せず、義のため內疚せず。或る者は名を求めて得ず、或る者は名字を掩蓋せんと欲して卻って顯明す。是れ不義を懲戒す。齊豹が衛の司寇を為すは守嗣の大夫なるに、事を作して不義なるを、彼を記載して『盜』と為す。

邾庶其、莒牟夷、邾黑肱以土地出,求食而已,不求其名,賤而必書。此二物者,所以懲肆而去貪也。若艱難其身,以險危大人,而有名章徹,攻難之士將奔走之。

邾庶其・莒牟夷・邾黑肱が土地を帶びて出走するはただ食を求めるのみ、その名字を求めず、低賤なるに卻って必ず記載す。この兩件事は以て放肆を懲戒し貪婪を除去するなり。もし自身が艱難を經歷し、以て上に在る大人を危害するに、卻って名聲顯揚あれば、危難の人を攻打する者は將にこれがため奔走せん。

若竊邑叛君,以徼大利而無名,貪冒之民將置力焉。是以《春秋》書齊豹曰‘盜’,三叛人名,以懲不義,數惡無禮,其善志也。故曰:《春秋》之稱微而顯,婉而辨。上之人能使昭明,善人勸焉,淫人懼焉,是以君子貴之。”

もし城邑を盜竊し國君を背叛して、以て大利を求取するも惡名なくば、貪冒の民は將にこれがため用力せん。ゆえに《春秋》は齊豹を記載して『盜』と曰い、三個の叛變する人に名字を寫出し、以て不義を懲戒し、醜惡・無禮を責備す。これは善く記述するなり。ゆえに曰く、《春秋》の稱謂は微にして顯明、婉轉にして能く辨別す。上に在る人が能くそれを昭明せしめ、善人が勸勉を受け、淫人が畏懼を感ず。ゆえに君子がそれを看重す」。

十二月辛亥朔,日有食之。是夜也,趙簡子夢童子羸而轉以歌。旦占諸史墨,曰:“吾夢如是,今而日食,何也?”對曰:“六年及此月也,吳其入郢乎!終亦弗克。入郢,必以庚辰,日月在辰尾。庚午之日,日始有謫。火勝金,故弗克。”

十二月辛亥朔、日食發生す。この夜、趙簡子が童子が赤身に轉動して唱歌する夢を見た。朝、史墨に向かい占問して曰わく、「我が夢はこの如く、今また日食あり。何ぞ」。對えて曰わく、「六年この月に至り、呉はおそらく郢に入らんか!終にも戰勝する能わず。郢に入るは必ず庚辰に在り、日月は辰尾に在り。庚午の日、日が始めて譴責あり。火が金に勝つ。ゆえに戰勝する能わず」。

◇昭公三十二年

◇昭公三十二年

【經】三十有二年春王正月,公在乾侯。取闞。夏,吳伐越。秋七月。冬,仲孫何忌會晉韓不信、齊高張、宋仲幾、衛世叔申、鄭國參、曹人、莒人、薛人、杞人、小邾人城成周。十有二月己未,公薨於乾侯。

【経】三十二年春、周天子の暦の正月、公が乾侯に在り。闞を取った。夏、呉が越を伐った。秋七月。冬、仲孫何忌が晋韓不信・齊高張・宋仲幾・衛世叔申・鄭國參・曹人・莒人・薛人・杞人・小邾人と會合して成周の城を修築した。十二月己未、公が乾侯で薨じた。

【傳】三十二年春,王正月,公在乾侯。言不能外內,又不能用其人也。

【伝】三十二年春、周天子の暦の正月、公が乾侯に在り。是れ國外國內の援助を得る能わず、又その人を任用する能わざるを説くなり。

夏,吳伐越,始用師于越也。史墨曰:“不及四十年,越其有吳乎!越得歲而吳伐之,必受其兇。”

夏、呉が越を伐ち、始めて越に兵を用いたり。史墨が曰わく、「四十年に至らず、越はおそらく呉を占有せんか!越が歲星を得て呉がそれを伐てば、必ずその凶を承受せん」。

秋八月,王使富辛與石張如晉,請城成周。天子曰:“天降禍於周,俾我兄弟並有亂心,以為伯父憂。我一二親暱甥舅,不遑啟處,於今十年,勤戍五年。

秋八月、周天子が富辛と石張を遣わして晋に至り、成周の城を修築するを請わせた。天子が曰わく、「天が禍を周に降し、我ら兄弟をして皆亂心有らしめ、伯父の憂慮となせり。我が幾個の親昵甥舅は閑暇なく安處せず、今に至り十年、勤勞戍守五年なり。

餘一人無日忘之,閔閔焉如農夫之望歲,懼以待時。伯父若肆大惠,復二文之業,馳周室之憂,徼文、武之福,以固盟主,宣昭令名,則餘一人有大願矣。昔成王合諸侯,城成周,以為東都,崇文德焉。今我欲徼福假靈於成王,修成周之城,俾戍人無勤,諸侯用寧,蝥賊遠屏,晉之力也。其委諸伯父,使伯父實重圖之。

我一人は一日も忘れず、憂悶は農夫の收成を盼望するが如く、戒懼して時節を待つ。伯父がもし大惠を展放し、文侯・文公の事業を恢復し、周室の憂慮を弛緩し、文王・武王の福を求取し、以て盟主を鞏固し、昭明美名を宣揚せば、則ち是れ我一人の大願望なり。昔成王が諸侯を會合し、成周の城を修築し、以て東都を為し、文德を推崇せり。今我は福を求め靈を成王に借り、成周の城を修治し、戍守する人をして勤勞せざらしめ、諸侯をしてこれにより安寧せしめ、蟊賊を遠く屏退せん。是れ晋の力量なり。これを伯父に委託し、伯父に切實に重新考慮せしむ。

俾我一人無徵怨於百姓,而伯父有榮施,先王庸之。”範獻子謂魏獻子曰:“與其戍周,不如城之。天子實云,雖有後事,晉勿與知可也。從王命以紓諸侯,晉國無憂。是之不務,而又焉從事?”魏獻子曰:“善!”使伯音對曰:“天子有命,敢不奉承,以奔告於諸侯。遲速衰序,於是焉在。”

我一人をして百姓に怨恨を征取せざらしめ、伯父に光榮の施與あらしめば、先王は酬勞せん」。范献子が魏献子に對して曰わく、「周を戍守するよりは城を築くに如かず。天子は確實にこの如く曰えり。たとえ以後事あっても、晋は參與知る可からず。王命に聽從して以て諸侯を緩解せば、晋國に憂なし。これを為さずして、又何を為さん」。魏献子が曰わく、「善し!」。伯音を遣わして對えて曰わく、「天子に命令あり。敢えて奉承せざらんや。奔走して諸侯に告げん。快慢と等級次序はこの一件事上で決定せん」。

冬十一月,晉魏舒、韓不信如京師,合諸侯之大夫於狄泉,尋盟,且令城成周。魏子南面。衛彪徯曰:“魏子必有大咎。幹位以令大事,非其任也。《詩》曰:‘敬天之怒,不敢戲豫。敬天之渝,不敢馳驅。’況敢幹位以作大事乎?”己丑,士彌牟營成周,計丈數,揣高卑,度厚薄,仞溝恤,物土方,議遠邇,量事期,計徒庸,慮材用,書餱糧,以令役於諸侯,屬役賦丈,書以授帥,而效諸劉子。韓簡子臨之,以為成命。

冬十一月、晋魏舒・韓不信が京師に至り、狄泉で諸侯の大夫と會合し、盟約を重溫し、かつ成周の城を修築するを命令した。魏子が南に面した。衛彪徯が曰わく、「魏子は必ず大禍あらん。位を僭越して大事の命令を發布するは彼の擔當する所能にあらず。《詩經》に曰く、『天の發怒を敬畏し、敢えて嬉戲安逸せず。天の變易を敬畏し、敢えて放縱馳驅せず』。況んや敢えて位を僭越して以て大事を為さんや」。己丑、士彌牟が成周を營建し、丈尺の數目を計算し、高低を估量し、厚薄を度量し、溝洫を測量し(底本は「溝恤」)、土方を考察し、遠近を商議し、工期を計量し、人力を計算し、材用を考慮し、乾糧を登記し、諸侯に服役を下令し、勞役を分派し丈尺を分配し、寫して帥領に交給し、再び劉子に呈交した。韓簡子が監臨し、それを既定の命令と為した。

十二月,公疾,遍賜大夫,大夫不受。賜子家子雙琥,一環,一璧,輕服,受之。大夫皆受其賜。己未,公薨。子家子反賜於府人,曰:“吾不敢逆君命也。”

十二月、公が病を患い、遍く大夫を賜したが、大夫は接受せず。子家子に一對の琥・一環・一璧・輕煖の衣服を賜うに、彼は接受した。大夫が皆賞賜を接受した。己未、公が薨じた。子家子が賞賜を府人に還して曰わく、「我は敢えて君命に違背せず」。

大夫皆反其賜。書曰:“公薨於乾侯。”言失其所也。

大夫が皆彼らの賞賜を退還した。記載して曰わく、『公が乾侯で薨す』。是れ彼の應當に在る所を失うを説くなり。

趙簡子問於史墨曰:“季氏出其君,而民服焉,諸侯與之,君死於外,而莫之或罪也。”對曰:“物生有兩,有三,有五,有陪貳。故天有三辰,地有五行,體有左右,各有妃耦。王有公,諸侯有卿,皆有貳也。天生季氏,以貳魯侯,為日久矣。民之服焉,不亦宜乎?魯君世從其失,季氏世修其勤,民忘君矣。雖死於外,其誰矜之?社稷無常奉,君臣無常位,自古以然。故《詩》曰:‘高岸為谷,深谷為陵。’三後之姓,於今為庶,王所知也。在《易》卦,雷乘《乾》曰《大壯》ⅲⅰ,天之道也。昔成季友,桓之季也,文姜之愛子也,始震而卜。卜人謁之,曰:‘生有嘉聞,其名曰友,為公室輔。’及生,如卜人之言,有文在其手曰‘友’,遂以名之。既而有大功於魯,受費以為上卿。至於文子、武子,世增其業,不廢舊績。魯文公薨,而東門遂殺適立庶,魯君於是乎失國,政在季氏,於此君也,四公矣。民不知君,何以得國?是以為君,慎器與名,不可以假人。”

趙簡子が史墨に問うて曰わく、「季氏がその君を趕走し、民は卻って彼に服從し、諸侯は彼に親附し、君が外で死すに、卻って彼を怪罪する人なし」。對えて曰わく、「物の生まるるに成雙あり、成三あり、成五あり、陪貳あり。ゆえに天に三辰あり、地に五行あり、身體に左右あり、各々配偶あり。王に公あり、諸侯に卿あり、皆貳あり。天が季氏を生み、以て魯侯の貳を為すは時已に久し。民が彼に服從するはまた應ならずや。魯君は世代に彼の過失に從い、季氏は世代にその勤勞を修治し、民は君を忘れたり。たとえ外で死すとも、誰が彼を憐れまん。社稷に固定の奉祀者なく、君臣に固定の位なきは古よりこの如し。ゆえに《詩經》に曰く、『高岸は谷と變じ、深谷は陵と變ず』。三后の子孫は如今庶人となれり。是れ王の知る所なり。《周易》の卦に於ては、雷が《乾》上に乘るを《大壯》と曰う(底本に卦畫符號あり)是れ天の道理なり。昔成季友は桓公の少子、文姜の心愛する兒子なり。剛に懐孕すれば即ち占卜す。卜人が禀告して曰わく、『生まれて好名聲あり。その名を友と曰い、公室の輔佐を為さん』。生まるるに及び、卜人の言う如く、手上に『友』字の如き紋ありて、ここにそれを以て命名す。隨後に魯に大功ありて、費を受けて上卿を為す。文子・武子に至りて、世代に家業を增加し、舊日の功績を廢棄せず。魯文公が薨ずるに、東門遂が嫡子を殺して庶子を改立し、魯君はこれより國政を失い、政は季氏に在り、この一位の君に至りて已に四公なり。民は君を知らず。何を憑って國を得ん。ゆえに君を為す者は器物と名號に謹慎し、他人に借與すべからず」。

定公(元年~十五年)

◇定公元年

◇定公元年

【經】元年春王三月。晉人執宋仲幾於京師。夏六月癸亥,公之喪至自乾侯。

【経】元年春、周天子の暦の三月。晋人が京師で宋仲幾を捉えた。夏六月癸亥、公の喪が乾侯より到達した。

戊辰,公即位。秋七月癸巳,葬我君昭公。九月,大雩。立煬宮。冬十月,隕霜殺菽。

戊辰、公が即位した。秋七月癸巳、我が君昭公を葬った。九月、大雩を行った。煬宮を立てた。冬十月、霜を降し豆類を凍死せしめた。

【傳】元年春,王正月辛巳,晉魏舒合諸侯之大夫於狄泉,將以城成周。魏子蒞政。衛彪傒曰:“將建天子,而易位以令,非義也。大事奸義,必有大咎。

【伝】元年春、周天子の暦の正月辛巳、晋魏舒が狄泉で諸侯の大夫と會合し、將に成周の城を修築せんとした。魏子が政事を主持した。衛彪傒が曰わく、「將に天子のため城を築かんとするに、卻って位を改換して令を發するは不義なり。大事に義を冒犯すれば、必ず大禍あらん。

晉不失諸侯,魏子其不免乎!”是行也,魏獻子屬役於韓簡子及原壽過,而田於大陸,焚焉,還,卒於寧。範獻子去其柏槨,以其未覆命而田也。

晋がもし諸侯を失わざれば、魏子はおそらく免れざらんか!」。この一次の出行に、魏献子が工役を韓簡子と原壽過に交付し、自ら大陸に至り田獵し、火を放ち荒を燒き、歸り、寧で死んだ。范献子が彼の柏木外棺を去ったは彼がまだ復命せずして田獵に往きしを以てなり。

孟懿子會城成周,庚寅,栽。宋仲幾不受功,曰:“滕、薛、郳,吾役也。”

孟懿子が成周を修築するに參加し、庚寅、始めて板を夾み牆を築いた。宋仲幾が工役を接受せず、曰わく、「滕・薛・郳は我らのため服役する者なり」。

薛宰曰:“宋為無道,絕我小國於周,以我適楚,故我常從宋。晉文公為踐土之盟,曰:‘凡我同盟,各復舊職。’若從踐土,若從宋,亦唯命。”仲幾曰:“踐土固然。”薛宰曰:“薛之皇祖奚仲,居薛以為夏車正。奚仲遷於邳,仲虺居薛,以為湯左相。若復舊職,將承王官,何故以役諸侯?”仲幾曰:“三代各異物,薛焉得有舊?為宋役,亦其職也。”士彌牟曰:“晉之從政者新,子姑受功。歸,吾視諸故府。”仲幾曰:“縱子忘之,山川鬼神其忘諸乎?”士伯怒,謂韓簡子曰:“薛徵於人,宋徵於鬼,宋罪大矣。且己無辭而抑我以神,誣我也。

薛の宰が曰わく、「宋が行事無道にして、我ら小國と周の關係を斷絕し、我らを帶びて楚に至る。ゆえに我らは常常に宋に從えり。晋文公が踐土の盟約を為し、曰く、『凡そ我ら同盟は各々舊職を恢復せよ』。是れ踐土に依從するか、それとも宋に依從するか、亦ただ命令に聽かん」。仲幾が曰わく、「踐土は本よりこの如し」。薛宰が曰わく、「薛の皇祖奚仲は薛に住みて夏の車正を為しき。奚仲が邳に遷り、仲虺が薛に住みて湯の左相を為しき。もし舊職を恢復せば、將に王官を承接せん。何で諸侯に服役せん」。仲幾が曰わく、「三代は各々相同せず。薛はどこになお舊職あらん。宋のため服役するもまたその職分なり」。士彌牟が曰わく、「晋の政事を主持する者は新し。あなたは姑く工役を接受せよ。歸りて後、我が舊府の檔案を査せん」。仲幾が曰わく、「たとえあなたが忘るとも、山川鬼神もまた忘れんや」。士伯が發怒し、韓簡子に對して曰わく、「薛は人に證を取り、宋は鬼に證を取る。宋の罪は大なり。況んや自ら言辭なくして神を以て我らを壓制するは我らを誣罔するなり。

啟寵納侮,其此之謂矣。必以仲幾為戮。”乃執仲幾以歸。三月,歸諸京師。

寵幸を開啟して卻って侮慢を招来す。説くは即ちこれなり。必ず仲幾を以て懲罰と為さん」。ここに仲に仲幾を捉えて帶って歸った。三月、彼を京師に送った。

城三旬而畢,乃歸諸侯之戍。

城を築くこと三十日にして完畢し、ここに諸侯の戍守を遣返した。

齊高張後,不從諸侯。晉女叔寬曰:“周萇弘、齊高張皆將不免。萇叔違天,高子違人。天之所壞,不可支也。眾之所為,不可奸也。”

齊高張が來ること晚く、諸侯に從わず。晋女叔寬が曰わく、「周萇弘・齊高張は皆將に免る能わざらん。萇叔は天に違背し、高子は人に違背す。天の毀壞せんと欲する所は支撐すべからず。衆人の為す所は冒犯すべからず」。

夏,叔孫成子逆公之喪於乾侯。季孫曰:“子家子亟言於我,未嘗不中吾志也。吾欲與之從政,子必止之,且聽命焉。”子家子不見叔孫,易幾而哭。叔孫請見子家子,子家子辭,曰:“羈未得見,而從君以出。君不命而薨,羈不敢見。”

夏、叔孫成子が乾侯に至りて公の喪を迎接した。季孫が曰わく、「子家子が屢々我に話して、かつて我が心意に合わざるなし。我は彼と一起に執政せんと欲す。あなたは必ず彼を留住し、かつ彼に命を聽かしめよ」。子家子が叔孫に見えず、哭喪の時を改めて哭した。叔孫が子家子に見るを請うも、子家子が推辭して曰わく、「羈はまだあなたに見るを得ずして、即ち君に從い國を出でり。君が命令なくして薨じ、羈は敢えて見面せず」。

叔孫使告之曰:“公衍、公為實使群臣不得事君。若公子宋主社稷,則群臣之願也。凡從君出而可以入者,將唯子是聽。子家氏未有後,季孫願與子從政,此皆季孫之願也,使不敢以告。”對曰:“若立君,則有卿士、大夫與守龜在,羈弗敢知。若從君者,則貌而出者,入可也;寇而出者,行可也。若羈也,則君知其出也,而未知其入也,羈將逃也。”

叔孫が人を遣わして彼に告げて曰わく、「公衍・公為は實に群臣をして君に事奉する能わざらしめたり。もし公子宋が社稷を主持せば、是れ群臣の願望なり。凡そ君に從い國を出でて入る可き者は將にただあなたに聽かん。子家氏はまだ後嗣なく、季孫はあなたと一起に執政するを願う。これらは皆季孫の願望で、我を遣わして敢えて告げざらざらしめず」。對えて曰わく、「もし君を立てば、卿士・大夫と守龜の在るに、羈は敢えて參與知らず。君に從う人に至りては、然らば表面上君に從い國を出でし者は入る可し、寇仇の如く國を出でし者は走開する可し。羈に至りては、君は彼の國を出でるを知れども、まだ彼の入るを知らず。羈は將に逃走せん」。

喪及壞隤,公子宋先入,從公者皆自壞隤反。

喪が壞隤に至り、公子宋が先に入り、公に從う人は皆壞隤より返回した。

六月癸亥,公之喪至自乾侯。戊辰,公即位。季孫使役如闞,公氏將溝焉。

六月癸亥、公の喪が乾侯より到達した。戊辰、公が即位した。季孫が役徒を遣わして闞に至り、將に公氏のそこに溝を挖て隔てんとした。

榮駕鵝曰:“生不能事,死又離之,以自旌也。縱子忍之,後必或恥之。”乃止。

榮駕鵝が曰わく、「生きて事奉する能わず、死して又彼を隔離するは自ら過失を表彰するなり。たとえあなたが忍心でも、後代は必ずこれを以て恥と為す人あらん」。ここに停止した。

季孫問於榮駕鵝曰:“吾欲為君諡,使子孫知之。”對曰:“生弗能事,死又惡之,以自信也。將焉用之?”乃止。

季孫が榮駕鵝に問うて曰わく、「我は君に謚を定め、子孫に知らしめんと欲す」。對えて曰わく、「生きて事奉する能わず、死して又彼を惡み、以て自ら表白するは將にどこに用いん」。ここに停止した。

秋七月癸巳,葬昭公於墓道南。孔子之為司寇也,溝而合諸墓。

秋七月癸巳、昭公を墓道南に葬った。孔子が司寇を為す時、溝を挖りて墓を一起に合わせた。

昭公出,故季平子禱於煬公。九月,立煬宮。

昭公が國を出たれば、ゆえに季平子が煬公に禱告した。九月、煬宮を立てた。

周鞏簡公棄其子弟,而好用遠人。

周の鞏簡公がその子弟を拋棄し、遠人を任用するを好んだ。

◇定公二年

◇定公二年

【經】二年春王正月。夏五月壬辰,雉門及兩觀滅。秋,楚人伐吳。冬十月,新作雉門及兩觀。

【経】二年春、周天子の暦の正月。夏五月壬辰、雉門と兩觀が失火した。秋、楚人が呉を伐った。冬十月、新たに雉門と兩觀を建てた。

【傳】二年夏四月辛酉,鞏氏之群子弟賊簡公。

【伝】二年夏四月辛酉、鞏氏の一群の子弟が簡公を殺害した。

桐叛楚。吳子使舒鳩氏誘楚人,曰:“以師臨我,我伐桐,為我使之無忌。”

桐が楚を背叛した。呉子が舒鳩氏を遣わして楚人を誘引して曰わく、「軍隊を以て我らに逼近し、我らが桐を伐ち、我らのため彼らに猜忌なからしめよ」。

秋,楚囊瓦伐吳,師於豫章。吳人見舟於豫章,而潛師於巢。冬十月,吳軍楚師於豫章,敗之。遂圍巢,克之,獲楚公子繁。

秋、楚囊瓦が呉を伐ち、軍隊が豫章に駐した。呉人が豫章で船を顯示するも、卻って軍隊を巢に潛伏せしめた。冬十月、呉が豫章で楚師を攻撃し、彼らを敗った。ここに巢を包圍し、攻克し、楚公子繁を俘獲した。

邾莊公與夷射姑飲酒,私出。閽乞肉焉。奪之杖以敲之。

邾莊公と夷射姑が酒を飲み、私に出た。門を看る人が彼に肉を討った。莊公が彼の杖を奪過して以て彼を打った。

◇定公三年

◇定公三年

【經】三年春王正月,公如晉,至河,乃復。二月辛卯,邾子穿卒。夏四月。

【経】三年春、周天子の暦の正月、公が晋に至り、河に至れば即ち返回した。二月辛卯、邾子穿が卒した。夏四月。

秋,葬邾莊公。冬,仲孫何忌及邾子盟於拔。

秋、邾莊公を葬った。冬、仲孫何忌と邾子が拔で結盟した。

【傳】三年春二月辛卯,邾子在門臺,臨廷。閽以瓶水沃廷。邾子望見之,怒。閽曰:“夷射姑旋焉。”命執之,弗得,滋怒。自投於床,廢於爐炭,爛,遂卒。先葬以車五乘,殉五人。莊公卞急而好潔,故及是。

【伝】三年春二月辛卯、邾子が門臺上に在り、庭に俯臨した。門を看る人が瓶水を以て庭に澆いた。邾子が望見し、發怒した。門を看る人が曰わく、「夷射姑がここで小便せり」。令を下して彼を捉えよとしたが捉え得ず、なお發怒した。自ら床に投向し、爐炭上に跌し、潰爛し、ここに卒した。先に五輛車を以て殉葬し、五人を殉じた。莊公が急躁にして清潔を愛好し、ゆえにこの歩に至れり。

秋九月,鮮虞人敗晉師於平中,獲晉觀虎,恃其勇也。

秋九月、鮮虞人が平中で晋師を敗り、晋の觀虎を俘獲したは彼が勇敢を仗恃せしを以てなり。

冬,盟於郯,修邾好也。

冬、郯で結盟したは邾との友好を重修せばなり。

蔡昭侯為兩佩與兩裘,以如楚,獻一佩一裘於昭王。昭王服之,以享蔡侯。

蔡昭侯が兩件の佩玉と兩件の裘を作り、楚に至り、一件の佩・一件の裘を昭王に献じた。昭王がそれを穿上し、以て蔡侯を宴享した。

蔡侯亦服其一。子常欲之,弗與,三年止之。唐成公如楚,有兩肅爽馬,子常欲之,弗與,亦三年止之。唐人或相與謀,請代先從者,許之。飲先從者酒,醉之,竊馬而獻之子常。子常歸唐侯。自拘於司敗,曰:“君以弄馬之故,隱君身,棄國家,群臣請相夫人以償馬,必如之。”唐侯曰:“寡人之過也,二三子無辱。”

蔡侯もまた其中一件を穿上した。子常が欲したが與えず、三年を扣留した。唐成公が楚に至り、兩匹の肅爽馬あり。子常が欲したが與えず、も三年を扣留した。唐人の或る者が一起に謀劃し、先來隨從の人を替代するを請い、許した。先來隨從の人に酒を飲ませ、彼らを灌醉し、馬を偷んで子常に献じた。子常が唐侯を放ちて歸らせた。彼らは自ら拘して司敗に送りて曰わく、「君は玩好の馬の故を以て、自身を隱藏し、國家を拋棄せり。群臣はその人を幫助して馬を賠償するを請う。必ずあの如くせん」。唐侯が曰わく、「是れ寡人の過錯なり。あなたら几位は辱を受くる勿れ」。

皆賞之。蔡人聞之,固請而獻佩於子常。子常朝,見蔡侯之徒,命有司曰:“蔡君之久也,官不共也。明日,禮不畢,將死。”蔡侯歸,及漢,執玉而沈,曰“餘所有濟漢而南者,有若大川。”蔡侯如晉,以其子元與其大夫之子為質焉,而請伐楚。

皆彼らを獎賞した。蔡人が聞き、堅決に佩を子常に献ずるを請うた。子常が朝に上り、蔡侯の隨從を見、有司に命令して曰わく、「蔡君の久留する所以は官が供給せざればなり。明日禮がなお完畢せざれば、將に處死せん」。蔡侯が歸り、漢水に至り、玉を持ちて沈めて曰わく、「我が所有し再び漢水を渡りて南する情形は、この大川を證と為すが如し」。蔡侯が晋に至り、その兒子元と大夫の兒子を人質と為し、楚を伐つを請うた。

◇定公四年

◇定公四年

【經】四年春王二月癸巳,陳侯吳卒。三月,公會劉子、晉侯、宋公、蔡侯、衛侯、陳子、鄭伯、許男、曹伯、莒子、邾子、頓子、鬍子、滕子、薛伯、杞伯、小邾子、齊國夏於召陵,侵楚。夏四月庚辰,蔡公孫姓帥師滅沈,以沈子嘉歸,殺之。五月,公及諸侯盟於皋鼬。杞伯成卒於會。六月,葬陳惠公。許遷於容城。

【経】四年春、周天子の暦の二月癸巳、陳侯呉が卒した。三月、公が召陵で劉子・晋侯・宋公・蔡侯・衛侯・陳子・鄭伯・許男・曹伯・莒子・邾子・頓子・胡子・滕子・薛伯・杞伯・小邾子・齊國夏と會合し、楚を侵襲した。夏四月庚辰、蔡公孫姓が師を率いて沈を滅ぼし、沈子嘉を帶びて歸り、彼を殺した。五月、公と諸侯が皋鼬で結盟した。杞伯成が會上で卒した。六月、陳惠公を葬った。許が容城に遷った。

秋七月,至自會。劉卷卒。葬杞悼公。楚人圍蔡。晉士鞅、衛孔圍帥師伐鮮虞。

秋七月、會上より歸った。劉卷が卒した。杞悼公を葬った。楚人が蔡を包圍した。晋士鞅・衛孔圍が師を率いて鮮虞を伐った。

葬劉文公。冬十有一月庚午,蔡侯以吳子及楚人戰於柏舉,楚師敗績。楚囊瓦出奔鄭。庚辰,吳入郢。

劉文公を葬った。冬十一月庚午、蔡侯が呉子を率い楚人と柏擧で作戰し、楚師が大いに敗れた。楚囊瓦が鄭に出奔した。庚辰、呉が郢に入った。

【傳】四年春三月,劉文公合諸侯於召陵,謀伐楚也。

【伝】四年春三月、劉文公が召陵で諸侯と會合したは楚を伐つを謀るなり。

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