隠公(元年~十一年)
◇隱公十一年
◇隠公十一年
【經】十有一年春,滕侯、薛侯來朝。夏,公會鄭伯於時來。秋七月壬午,公及齊侯、鄭伯入許。冬十有一月壬辰,公薨。
【経】十一年春、滕侯・薛侯が来て朝見した。夏、隠公は時来で鄭伯と会見した。秋七月壬午、隠公は斉侯・鄭伯と許に入った。冬十一月壬辰、隠公が亡くなった。
【傳】十一年春,滕侯、薛侯來朝,爭長。薛侯曰:“我先封。”滕侯曰:“我,周之卜正也。薛,庶姓也,我不可以後之。”
【伝】十一年春、滕侯・薛侯が来て朝見し、先を争った。薛侯は「私が先に封を受けた」と言い、滕侯は「私は周の卜正だ。薛は庶姓、私は彼の後に並ぶことはできない」と言った。
公使羽父請於薛侯曰:“君與滕君辱在寡人。周諺有之曰:‘山有木,工則度之;賓有禮,主則擇之。’周之宗盟,異姓為後。寡人若朝於薛,不敢與諸任齒。君若辱貺寡人,則願以滕君為請。”
隠公は羽父を遣わして薛侯に請わせて言った「君と滕君が駕を枉げて寡人のもとに光臨された。周の諺にこうあります『山に樹木あれば工匠が往きてこれを度量し、賓客に礼あれば主人がこれを選ぶ』。周の宗盟は、異姓を後にします。寡人が薛に往き朝見しても、任姓の諸国と並ぶことは敢えてしません。君が尊を屈して寡人に恵まれるなら、滕君の事を先に許されることを願います」と。
薛侯許之,乃長滕侯。
薛侯は許し、そこで滕侯を先とした。
夏,公會鄭伯於郲,謀伐許也。
夏、隠公が郲で鄭伯と会見したのは(即ち経文の時来)、許国を討つことを謀議したのである。
鄭伯將伐許,五月甲辰,授兵於大宮。公孫閼與潁考叔爭車,潁考叔挾輈以走,子都拔棘以逐之,及大逵,弗及,子都怒。
鄭伯は許国を討とうとして、五月甲辰、太廟で兵器を発した。公孫閼と潁考叔は車を争い、潁考叔は車の轅を挟んで走り、子都は戟を抜いて彼を追い、大路に及んだが追いつかず、子都は怒った。
秋七月,公會齊侯、鄭伯伐許。庚辰,傅於許,潁考叔取鄭伯之旗蝥弧以先登。子都自下射之,顛。瑕叔盈又以蝥弧登,周麾而呼曰:“君登矣!”鄭師畢登。壬午,遂入許。許莊公奔衛。
秋七月、隠公は斉侯・鄭伯と会して許国を討った。庚辰、許城に迫り、潁考叔は鄭伯の旗・蝥弧を取り率先して城に登った。子都は下から彼を射、彼は城上から落ちた。瑕叔盈はまた蝥弧を持って城に登り、四面に旗を振って叫んだ「国君が登った!」鄭軍は全部登った。壬午、そこで許に入った。許荘公は衛国に奔った。
齊侯以許讓公。公曰:“君謂許不共,故從君討之。許既伏其罪矣,雖君有命,寡人弗敢與聞。”乃與鄭人。
斉侯は許を隠公に譲った。隠公は「君は許国が職貢をしないと言ったので、君に従ってこれを討ちました。許はすでに罪に服しました、たとえ君に命令があっても、寡人は敢えてこの事に与りません」と言った。そこで鄭人に与えた。
鄭伯使許大夫百里奉許叔以居許東偏,曰:“天禍許國,鬼神實不逞於許君,而假手於我寡人。寡人唯是一二父兄不能共億,其敢以許自為功乎?寡人有弟,不能和協,而使糊其口於四方,其況能久有許乎?吾子其奉許叔以撫柔此民也,吾將使獲也佐吾子。若寡人得沒於地,天其以禮悔禍於許?無寧茲許公復奉其社稷。唯我鄭國之有請謁焉,如舊昏媾,其能降以相從也。無滋他族,實逼處此,以與我鄭國爭此土也。吾子孫其覆亡之不暇,而況能禋祀許乎?寡人之使吾子處此,不唯許國之為,亦聊以固吾圉也。”
鄭伯は許の大夫百里に許叔を奉事させ、許城の東に住まわせて言った「天が許国に禍を降し、鬼神は実に許君に不満で、私の手を借りて罰したのだ。私は一、二の父兄とさえ互いに安んじられないのに、敢えて許を己の功とすることができようか。私には弟があり、和睦できずに彼を四方に食を求めさせているのに、どうして長く許を有することができようか。あなたは許叔を奉じてここの百姓を安んじなさい、私は公孫獲を遣わしてあなたを輔けさせます。もし私が終を全うして土に入ることができれば、天はあるいは礼によって許への禍罰を撤し、許公に再びその社稷を奉じさせるやもしれない。我ら鄭国に請いあれば、旧日の婚姻の国のごとく、許はおおよそ心を降して相従うであろう。他の族姓をして近づきここに住まわせて、我ら鄭国とこの土を争わせるな。私の子孫は覆亡を救うに暇あらず、またどうして許の山川を祀ることができようか。私があなたをここに住まわせるのは、ただ许国のためだけでなく、また私の辺疆を固めるためでもある」と。
乃使公孫獲處許西偏,曰:“凡而器用財賄,無置於許。我死,乃亟去之。
そこで公孫獲を許城の西に住まわせて言った「およそあなたの器用財貨は、許に置くな。私が死んだら、速やかに去れ。
吾先君新邑於此,王室而既卑矣,周之子孫日失其序。夫許,大嶽之胤也,天而既厭周德矣,吾其能與許爭乎?”君子謂:“鄭莊公於是乎有禮。禮,經國家,定社稷,序民人,利後嗣者也。
(鄭伯は続けて言った)我ら先君がここに城邑を新たに建てたとき、王室はすでに卑微で、周の子孫は日々その位次を失いつつある。許は太岳の後裔、天はすでに周の徳を厭いている、私はなお許と争うことができようか」と。君子は考える「鄭荘公はこの事において礼があった。礼とは、国を経営し社稷を定め、民人を序立し後嗣に利するものである。
許無刑而伐之,服而舍之,度德而處之,量力而行之,相時而動,無累後人,可謂知禮矣。”
(君子は続けて言う)許が法度なくなればこれを討ち、服すればこれを赦し、徳行を度量して処置し、力量を忖度して行い、時機を観て動き、後人を累わさない——可謂知礼である」と。
鄭伯使卒出豭,行出犬雞,以詛射潁考叔者。君子謂:“鄭莊公失政刑矣。
鄭伯は卒ごとに雄豚を一頭、行ごとに犬と鶏を出させて、潁考叔を射殺した者を詛った。君子は考える「鄭荘公は政と刑に缺失がある。
政以治民,刑以正邪,既無德政,又無威刑,是以及邪。邪而詛之,將何益矣!”王取鄔、劉、功蒍、邗之田於鄭,而與鄭人蘇忿生之田溫、原、絺、樊、隰郕、欑茅、向、盟、州、陘、隤、懷。君子是以知桓王之失鄭也。恕而行之,德之則也,禮之經也。己弗能有而以與人,人之不至,不亦宜乎?鄭、息有違言,息侯伐鄭。鄭伯與戰於竟,息師大敗而還。君子是以知息之將亡也。不度德,不量力,不親親,不徵辭,不察有罪,犯五不韙而以伐人,其喪師也,不亦宜乎!冬十月,鄭伯以虢師伐宋。壬戌,大敗宋師,以報其入鄭也。宋不告命,故不書。凡諸侯有命,告則書,不然則否。師出臧否,亦如之。雖及滅國,滅不告敗,勝不告克,不書於策。羽父請殺桓公,將以求大宰。公曰:“為其少故也,吾將授之矣。使營菟裘,吾將老焉。”羽父懼,反譖公於桓公而請弒之。公之為公子也,與鄭人戰於狐壤,止焉。鄭人囚諸尹氏,賂尹氏而禱於其主鍾巫,遂與尹氏歸而立其主。十一月,公祭鍾巫,齊於社圃,館於寪氏。壬辰,羽父使賊弒公於寪氏,立桓公而討寪氏,有死者。不書葬,不成喪也。
(君子は続けて言う)政は以て百姓を治め、刑は以て邪悪を正す。徳政もなく威刑もなければ、だから邪悪が出るのだ。すでに邪悪となってから詛っても、何の益があろうか!」天子は鄭から鄔・劉・功𫇭・邗の田を取り、蘇忿生の田の温・原・𫄨・樊・隰郕・欑茅・向・盟・州・陘・𬯎・懐を鄭人に与えた。君子はこれによって桓王が鄭を失うであろうことを知った。恕道を本として行うのは、徳の準則、礼の常である。自ら保てないのに人に与える、人が来ないのもまた当然ではないか。鄭・息に言い争いがあり、息侯は鄭国を討った。鄭伯は彼と辺境で戦い、息軍は大敗して帰った。君子はこれによって息が亡びようとしていることを知った。徳を度量せず、力を忖度せず、親戚に親しまず、手の辞を覈せず、誰に罪あるかを察せず、この五つの過ちを犯して人を討つ——その軍を喪うのもまた当然ではないか。冬十月、鄭伯は虢軍を率いて宋国を討った。壬戌、宋軍を大いに破り、宋が鄭に入った役の報復とした。宋が来て報告しなかったので、『春秋』は記さない。およそ諸侯に大事あれば、来て報告すれば記し、否なら記さない。出兵の善悪もまた同じである。滅国に及んでも、滅びた方が敗を報告せず、勝った方が克を報告しなければ、『春秋』は簡策に書かない。羽父は桓公を殺すことを請い、これによって太宰を求めようとした。隠公は「彼が年少だからこそ私が摂位したのだ、まさに君位を彼に授けようとしている。人を遣わして菟裘に営造させ、私はそこで老いを養おうとしている」と言った。羽父は恐れ、かえって桓公のもとで隠公を讒し、彼を弑するよう請うた。隠公が公子であったとき、鄭人と狐壤で戦い、俘にされた。鄭人は彼を尹氏のもとに囚え、彼は財貨で尹氏に通じ、また尹氏の神主・鍾巫に祈祷し、そこで尹氏とともに国に帰り、鍾巫の神主を立てた。十一月、隠公は鍾巫を祭り、社圃で斎戒し、寪氏の家に宿った。壬辰、羽父は賊人を遣わして寪氏のもとで隠公を弑し、桓公を立て、併せて寪氏を討ち、殺された者がいた。『春秋』が安葬を記さないのは、喪礼を成さなかったからである。
桓公(元年~十八年)
◇桓公元年
◇桓公元年
【經】元年春王正月,公即位。三月,公會鄭伯於垂,鄭伯以璧假許田。夏四月丁未,公及鄭伯盟于越。秋,大水。冬十月。
【経】元年春、周天子の暦の正月、桓公が即位した。三月、桓公は垂で鄭伯と会見し、鄭伯は璧をもって許田を借りた。夏四月丁未、桓公は鄭伯と越で盟約を結んだ。秋、大水。冬十月。
【傳】元年春,公即位,修好於鄭。鄭人請復祀周公,卒易祊田。公許之。
【伝】元年春、桓公が即位し、鄭国と友好を修め直した。鄭人は周公への祭祀を復するよう請い、ついに祊田と交換した。桓公は許した。
三月,鄭伯以璧假許田,為周公、祊故也。
三月、鄭伯が璧をもって許田を借りたのは、周公と祊のためである。
夏四月丁未,公及鄭伯盟于越,結祊成也。盟曰:“渝盟無享國。”
夏四月丁未、桓公が鄭伯と越で盟約を結んだのは、祊を交換する和約を固めるためである。盟辞に「盟約に背く者は、その国を享有することができない」と。
秋,大水。凡平原出水為大水。
秋、大水。およそ平原に水が溢れたのを大水という。
冬,鄭伯拜盟。
冬、鄭伯が来て盟約に拜謝した。
宋華父督見孔父之妻於路,目逆而送之,曰:“美而豔。”
宋の華父督は路上で孔父の妻を見て、目で迎えて送り、「美しく、また光り艶やかだ」と言った。
◇桓公二年
◇桓公二年
【經】二年春,王正月戊申,宋督弒其君與夷及其大夫孔父。滕子來朝。三月,公會齊侯、陳侯、鄭伯於稷,以成宋亂。夏四月,取郜大鼎於宋。戊申,納於大廟。秋七月,杞侯來朝。蔡侯、鄭伯會於鄧。九月,入杞。公及戎盟於唐。
【経】二年春、周天子の正月戊申、宋の督がその君与夷およびその大夫孔父を弑した。滕子が来て朝見した。三月、桓公は稷で斉侯・陳侯・鄭伯と会見し、宋国の動乱を成就するためであった。夏四月、宋から郜国の大鼎を取ってきた。戊申、太廟に納めた。秋七月、杞侯が来て朝見した。蔡侯・鄭伯は鄧で会見した。九月、杞に攻入した。桓公は戎と唐で盟約を結んだ。
冬,公至自唐。
冬、桓公は唐から帰った。
【傳】二年春,宋督攻孔氏,殺孔父而取其妻。公怒,督懼,遂弒殤公。
【伝】二年春、宋の督は孔氏を攻め、孔父を殺してその妻を奪った。殤公が怒り、督は恐れて、そこで殤公を弑した。
君子以督為有無君之心而後動於惡,故先書弒其君。會於稷以成宋亂,為賂故,立華氏也。
君子は考える、督は先に目にその君なしの心があり、それから悪を行ったので、『春秋』は先に弑其君と書いた。稷で会見して宋国の動乱を成就したのは、財貨が疏通したためで、華氏を立てるためであった。
宋殤公立,十年十一戰,民不堪命。孔父嘉為司馬,督為大宰,故因民之不堪命,先宣言曰:“司馬則然。”已殺孔父而弒殤公,召莊公於鄭而立之,以親鄭。以郜大鼎賂公,齊、陳、鄭皆有賂,故遂相宋公。
宋殤公が即位して、十年に十一回戦い、百姓は堪えられなかった。孔父嘉は司馬となり、督は太宰となった。だから百姓の堪えられないのに乗じ、先に言を放って「すべて司馬の致すところだ」と言った。すでに孔父を殺しまた殤公を弑して、鄭から荘公を呼び戻して国君に立て、鄭国に親しむためであった。郜国の大鼎をもって桓公に賂を行い、斉・陳・鄭も財貨を得たので、督はついに宋公の宰相となった。
夏四月,取郜大鼎於宋。戊申,納於大廟。非禮也。臧哀伯諫曰:“君人者將昭德塞違,以臨照百官,猶懼或失之。故昭令德以示子孫:是以清廟茅屋,大路越席,大羹不致,粢食不鑿,昭其儉也。袞、冕、黻、珽,帶、裳、幅、舄,衡、紞、紘、綖,昭其度也。藻、率、鞞、革咅,鞶、厲、遊、纓,昭其數也。
夏四月、宋から郜国の大鼎を取ってきた。戊申、太廟に納めた。これは礼に合わない。臧哀伯が諫めて言うには「人君たる者は徳を彰明し、違礼の事を塞ぎ、以て百官に照臨する、なお失があることを惧れます。だから美德を彰明して子孫に示します。それゆえ清廟は茅で屋根を葺き、大路の車は蒲の席、大羹は五味を調せず、主食の米は精舂しないのは、節倹を彰明するためです。袞・冕・黻・珽、帯・裳・幅・舄、衡・紞・紘・綖は、法度を彰明するものです。藻・率・鞞・琫(底本は「革咅」、当に「琫」の譌)、鞶・厲・游・纓は、等級の数を彰明するものです。
火、龍、黼、黻,昭其文也。五色比象,昭其物也。錫、鸞、和、鈴,昭其聲也。
(臧哀伯は続けて言う)火・龍・黼・黻は、文采を彰明するものです。五色は物象に比し、器物を彰明するものです。錫・鸞・和・鈴は、声を彰明するものです。
三辰旂旗,昭其明也。夫德,儉而有度,登降有數。文物以紀之,聲明以發之,以臨照百官,百官於是乎戒懼,而不敢易紀律。今滅德立違,而置其賂器於大廟,以明示百官,百官象之,其又何誅焉?國家之敗,由官邪也。官之失德,寵賂章也。郜鼎在廟,章孰甚焉?武王克商,遷九鼎於雒邑,義士猶或非之,而況將昭違亂之賂器於大廟,其若之何?”公不聽。周內史聞之曰:“臧孫達其有後於魯乎!君違不忘諫之以德。”
(臧哀伯は続けて言う)日月星を旌旗に画くのは、光明を彰明するものです。徳とは、節倹にして法度あり、増減に定数あり。文采器物をもってこれを標記し、声音の明るさをもってこれを発揚し、以て百官に照臨すれば、百官はここに戒め惧れ、紀律を改易することを敢えてしません。いま徳を滅し違礼の事を樹てて、あの財貨で換えた器物を太廟に置き、明らかに百官に示せば、百官がこれに象(なら)うのに、また誰を罰することができましょうか。国の敗亡は官吏の邪悪に由ります。官吏の徳を失うは、寵と財貨が公に顕れるに由ります。郜鼎が廟にあれば、これより顕れるものがありましょうか。武王が商に勝ち、九鼎を雒邑に遷したとき、義士でさえあるいは之を非としたのに、まして彰明な違乱の賂器を太廟に置こうとするのを、どうしましょう」と。桓公は聞かなかった。周の内史はこれを聞いて言った「臧孫達は魯におおよそ後があるであろう!国君が礼に違うも、彼はなお徳をもって諫めることを忘れない」と。
秋七月,杞侯來朝,不敬。杞侯歸,乃謀伐之。
秋七月、杞侯が来て朝見したが、態度が恭敬でなかった。杞侯が帰ると、魯は彼を討つことを謀った。
蔡侯、鄭伯會於鄧,始懼楚也。
蔡侯・鄭伯が鄧で会見したのは、楚を畏れ始めたからである。
九月,入杞,討不敬也。
九月、杞に攻入したのは、その不恭敬を討ったのである。
公及戎盟於唐,修舊好也。
桓公が戎と唐で盟約を結んだのは、旧日の友好を修め直すためである。
冬,公至自唐,告於廟也。凡公行,告於宗廟;反行,飲至、舍爵,策勳焉,禮也。
冬、桓公は唐から帰り、宗廟に祭告した。およそ公が出行すれば宗廟に祭告し、帰れば飲至を行い酒爵を置き、功勲を簡策に書く、これは礼に合う。
特相會,往來稱地,讓事也。自參以上,則往稱地,來稱會,成事也。
単独に一国と会すれば、往きも来も地を書くのは、事がまだ譲って定まらないからである。三国以上からは、往きは地を書き、帰りはただ「会」と称するのは、事がすでに成ったからである。
初,晉穆侯之夫人姜氏以條之役生太子,命之曰仇。其弟以千畝之戰生,命之曰成師。師服曰:“異哉,君之名子也!夫名以制義,義以出禮,禮以體政,政以正民。是以政成而民聽,易則生亂。嘉耦曰妃,怨耦曰仇,古之命也。今君命大子曰仇,弟曰成師,始兆亂矣,兄其替乎?”惠之二十四年,晉始亂,故封桓叔於曲沃,靖侯之孫欒賓傅之。師服曰:“吾聞國家之立也,本大而末小,是以能固。故天子建國,諸侯立家,卿置側室,大夫有貳宗,士有隸子弟,庶人、工、商,各有分親,皆有等衰。是以民服事其上而下無覬覦。今晉,甸侯也,而建國。本既弱矣,其能久乎?”惠之三十年,晉潘父弒昭侯而立桓叔,不克。晉人立孝侯。
むかし、晋穆侯の夫人姜氏は条地の役で太子を生み、仇と命名した。その弟は千畝の戦で生まれ、成師と命名した。師服が言うには「怪しいな、君が子に名づけることがこのようでは!名は以て義を制するもの、義は礼を出し、礼は政を体し、政は以て百姓を正す。だから政が成れば百姓は従い、之に反すれば乱を生じる。好配偶を妃といい、怨偶を仇という、これは古代の命名である。いま君は太子を仇と名づけ、弟を成師と名づけた、すでに乱兆を顕し始めた、兄はおおよそ取代されるであろう」と。恵公二十四年、晋は動乱し始め、だから桓叔を曲沃に封じ、靖侯の孫欒賓に彼を輔けさせた。師服は言う「私は聞く、国の建てるは、本大にして末小、だから能く固い。それゆえ天子は諸侯を封建し、諸侯は卿の家を立て、卿は側室を置き、大夫は貳宗あり、士は隷属する子弟あり、庶人・工・商は各々親疎あり、みな等級の差次あり。だから百姓は上に事え、下に非分の想いなし。いま晋は甸服の侯に過ぎないのに、別に一つの都を建てた。本はすでに弱い、なお長くすることができようか」と。恵公三十年、晋の潘父は昭侯を弑して桓叔を立てたが、成らなかった。晋人は孝侯を立てた。
惠之四十五年,曲沃莊伯伐翼,弒孝侯。翼人立其弟鄂侯。鄂侯生哀侯。哀侯侵陘庭之田。陘庭南鄙啟曲沃伐翼。
恵公四十五年、曲沃荘伯は翼を討ち、孝侯を弑した。翼人はその弟鄂侯を立てた。鄂侯は哀侯を生んだ。哀侯は陘庭の田を侵した。陘庭の南鄙は曲沃に道案内をして翼を討たせた。
◇桓公三年
◇桓公三年
【經】三年春正月,公會齊侯於嬴。夏,齊侯、衛侯胥命於蒲。六月,公會杞侯於郕。秋七月壬辰朔,日有食之,既。公子翬如齊逆女。九月,齊侯送姜氏於歡。公會齊侯於歡。夫人姜氏至自齊。冬,齊侯使其弟年來聘。有年。
【経】三年春正月、桓公は嬴で斉侯と会見した。夏、斉侯・衛侯は蒲で相胥命した。六月、桓公は郕で杞侯と会見した。秋七月壬辰朔、日食、既。公子翬は斉に行き娶った。九月、斉侯は姜氏を歡に送った。桓公は歡で斉侯と会見した。夫人姜氏が斉から至った。冬、斉侯はその弟の年を遣わして聘問した。この年、有年であった。
【傳】三年春,曲沃武公伐翼,次於陘庭,韓萬御戎,梁弘為右,逐翼侯於汾隰,驂絓而止。夜獲之,及欒共叔。
【伝】三年春、曲沃武公は翼を討ち、陘庭に駐屯した。韓万が彼のために戎車を御し、梁弘が車右となった。汾水ほとりの低地で翼侯を追い、驂馬が絆されて止まった。夜、翼侯と欒共叔を俘にした。
會於嬴,成昏於齊也。
嬴で会見したのは、斉と婚を定めたのである。
夏,齊侯、衛侯胥命於蒲,不盟也。
夏、斉侯・衛侯が蒲で相胥命したが、盟礼を行わなかった。
公會杞侯於歡,杞求成也。
桓公が歡で杞侯と会見したのは、杞が媾和を求めたからである。
秋,公子翬如齊逆女。修先君之好,故曰“公子”。
秋、公子翬は斉に行き娶った。先君の友好を修め直したので、『春秋』は「公子」と称す。
齊侯送姜氏於歡,非禮也。凡公女嫁於敵國,姊妹則上卿送之,以禮於先君;公子則下卿送之;於大國,雖公子亦上卿送之;於天子,則諸卿皆行,公不自送;於小國,則上大夫送之。
斉侯が姜氏を歡に送ったのは、礼に合わない。およそ公の女が対等の国に嫁ぐとき、姉妹なら上卿がこれを送り、以て先君に礼を行う。女なら下卿が送る。大国に嫁ぐときは、たとえ女でも上卿が送る。天子に嫁ぐときは、諸卿が皆一行するが、公は自ら送らない。小国に嫁ぐときは、上大夫が送る。
冬,齊仲年來聘,致夫人也。
冬、斉仲年が聘問したのは、夫人を送り届けたのである。
芮伯萬之母芮姜惡芮伯之多寵人也,故逐之,出居於魏。
芮伯万の母芮姜は、芮伯が寵する人が多すぎるのを嫌い、だから彼を逐い、魏に出て居らせた。
◇桓公四年
◇桓公四年
【經】四年春正月,公狩於郎。夏,天王使宰渠伯糾來聘。
【経】四年春正月、桓公は郎で狩した。夏、周天子は宰渠伯糾を遣わして聘問した。
【傳】四年春正月,公狩於郎。書,時,禮也。
【伝】四年春正月、桓公が郎で狩した。『春秋』に記すのは、時節に合い、礼に合うからである。
夏,周宰渠伯糾來聘。父在,故名。
夏、周の宰官渠伯糾が来て聘問した。その父がまだいるので、『春秋』はその名を書いた。
秋,秦師侵芮,敗焉,小之也。
秋、秦軍は芮を侵し、かえって敗れたのは、芮を小さく見たからである。
冬,王師、秦師圍魏,執芮伯以歸。
冬、王室の軍隊と秦軍は魏を包囲し、芮伯を拘えて連れ帰った。
◇桓公五年
◇桓公五年
【經】五年春正月,甲戌、己丑,陳侯鮑卒。夏,齊侯鄭伯如紀。天王使仍叔之子來聘。葬陳桓公。城祝丘。秋,蔡人、衛人、陳人從王伐鄭。大雩。螽。
【経】五年春正月、甲戌・己丑、陳侯鮑が亡くなった。夏、斉侯・鄭伯は紀に往いた。周天子は仍叔の子を遣わして聘問した。陳桓公を葬った。祝丘に城を築いた。秋、蔡人・衛人・陳人は天子に従って鄭を討った。大雩を行った。螽の災いがあった。
冬,州公如曹。
冬、州公は曹に往いた。
【傳】五年春正月,甲戌,己丑,陳侯鮑卒,再赴也。於是陳亂,文公子佗殺大子免而代之。公疾病而亂作,國人分散,故再赴。
【伝】五年春正月、甲戌・己丑、陳侯鮑が亡くなったのは、二度訃告を発したからである。当時陳国は動乱し、文公の子佗は太子免を殺してこれに代わった。陳侯が病重いとき乱が起き、国人は分散したので、二度訃告を発した。
