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隠公(元年~十一年)

春秋 · 左丘明(旧题) · 第1巻 / 56

【伝】恵公の元妃は孟子であった。孟子が亡くなると、声子を継室として、隠公が生まれた。宋武公には仲子が生まれた。仲子は生まれたとき手に字のよう…

儒家典籍

初学は四書から入るのがよい。大学が綱を立て、論語が言を記し、孟子が展開し、中庸が収束する。続いて詩経・尚書・礼記と春秋三伝へ。荀子・春秋繁露・近思録・伝習録は、経学の外で儒学がどう語られてきたかを見る几道である。

【傳】惠公元妃孟子。孟子卒,繼室以聲子,生隱公。宋武公生仲子。仲子生而有文在其手,曰為魯夫人,故仲子歸於我。生桓公而惠公薨,是以隱公立而奉之。

【伝】恵公の元妃は孟子であった。孟子が亡くなると、声子を継室として、隠公が生まれた。宋武公には仲子が生まれた。仲子は生まれたとき手に字のような文があって、「魯の夫人」とあったので、仲子は我が国に嫁いだ。桓公を生んだ後に恵公が亡くなったため、隠公が摂政となり桓公を奉った。

◇隱公元年

◇隠公元年

【經】元年春王正月。三月,公及邾儀父盟於蔑。夏五月,鄭伯克段於鄢。

【経】元年春、周天子の暦の正月。三月、隠公は邾の儀父と蔑で盟約を結んだ。夏五月、鄭伯が鄢で段を破った。

秋七月,天王使宰咺來歸惠公、仲子之賵。九月,及宋人盟於宿。冬十有二月,祭伯來。公子益師卒。

秋七月、周天子は宰咺を遣わし、恵公と仲子への助喪の車馬・衣類を贈った。九月、宋の人と宿で盟約を結んだ。冬十二月、祭伯が来た。公子益師が亡くなった。

【傳】元年春,王周正月。不書即位,攝也。

【伝】元年春、用いたのは周王室の正月である。『春秋』が隠公の即位を記さないのは、彼が摂政に過ぎないからである。

三月,公及邾儀父盟於蔑,邾子克也。未王命,故不書爵。曰“儀父”,貴之也。公攝位而欲求好於邾,故為蔑之盟。

三月、隠公は邾の儀父と蔑で盟約を結んだ——儀父とは邾子克のことである。まだ周天子の爵命を受けていなかったので、『春秋』は爵位を記さない。「儀父」と称したのは、彼を尊重したからである。隠公は摂政として邾国と結ぼうとし、蔑での盟約を行った。

夏四月,費伯帥師城郎。不書,非公命也。

夏四月、費伯が軍隊を率いて郎に城を築いた。『春秋』に記さないのは、隠公の命令ではなかったからである。

初,鄭武公娶於申,曰武姜,生莊公及共叔段。莊公寤生,驚姜氏,故名曰“寤生”,遂惡之。愛共叔段,欲立之。亟請於武公,公弗許。及莊公即位,為之請制。公曰:“制,巖邑也,虢叔死焉。佗邑唯命。”請京,使居之,謂之京城大叔。祭仲曰:“都,城過百雉,國之害也。先王之制:大都,不過參國之一;中,五之一;小,九之一。今京不度,非制也,君將不堪。”公曰:“姜氏欲之,焉闢害?”對曰:“姜氏何厭之有?不如早為之所,無使滋蔓!蔓,難圖也。蔓草猶不可除,況君之寵弟乎?”公曰:“多行不義,必自斃,子姑待之。”

むかし、鄭武公は申国から妻を娶り、武姜といい、荘公と共叔段を生んだ。荘公は難産で生まれ、姜氏を驚かせたので「寤生」と名づけられ、それ以来嫌われた。姜氏は共叔段を寵愛し、太子に立てようとしてしばしば武公に願ったが、武公は許さなかった。荘公が即位すると、姜氏は共叔段のために制という地を請うた。荘公は「制は険要な城邑で、虢叔がそこで死んだ。他の城邑なら仰せの通りにする」と言った。姜氏が京を請うと、荘公は共叔段をそこに住まわせ、人は京城太叔と呼んだ。祭仲が言うには「都城の城壁が百雉(城壁の長さの単位)を超えるのは国の害です。先王の制度では、大きな都は国都の三分の一を超えず、中は五分の一、小は九分の一を超えません。いま京は法度に合わず制度を越えており、君は堪えられなくなります」と。荘公は「姜氏がそう望むのだから、害をどう避けられよう」と言った。祭仲は「姜氏に満足の時がありましょうか。早く彼の居場所を定め、蔓延させないようにすべきです。蔓延すれば対処が難しくなります。蔓草でさえ除ききれないのに、まして君の寵愛される弟です」と答えた。荘公は「不義を多く行えば、必ず自ら倒れる。しばらく待っていなさい」と言った。

既而大叔命西鄙、北鄙貳於己。公子呂曰:“國不堪貳,君將若之何?欲與大叔,臣請事之;若弗與,則請除之,無生民心。”公曰:“無庸,將自及。”

まもなく太叔は西鄙・北鄙を二属とし、荘公と自分の双方に従わせた。公子呂が言うには「国は二属に堪えません。君はどうするおつもりですか。もし君位を太叔に与えるなら、臣が彼に仕えることをお許しください。与えないなら、彼を除き、民に二心を抱かせないでください」と。荘公は「その必要はない、彼は自ら禍に行き着くだろう」と言った。

大叔又收貳以為己邑,至於廩延。子封曰:“可矣,厚將得眾。”公曰:“不義不暱,厚將崩。”

太叔はまた二属の辺境の邑を自らの邑とし、廩延まで広げた。子封が「動くべき時です。地盤が厚くなれば民を得ます」と言うと、荘公は「君に不義、兄に不親では、地盤が厚くても崩れる」と言った。

大叔完聚,繕甲兵,具卒乘,將襲鄭,夫人將啟之。公聞其期,曰:“可矣!”命子封帥車二百乘以伐京。京叛大叔段,段入於鄢,公伐諸鄢。五月辛丑,大叔出奔共。

太叔は城郭を修め民を集め、甲冑と兵器を整え、歩兵と戦車を備えて鄭の都を襲おうとし、姜氏が彼のために城門を開くことになっていた。荘公は約束の日を聞き「よし!」と言い、子封に戦車二百乗を率いさせて京を討たせた。京の人は太叔段に背き、段は鄢に逃れ、荘公はまた鄢まで彼を討った。五月辛丑、太叔は共に逃亡した。

書曰:“鄭伯克段於鄢。”段不弟,故不言弟;如二君,故曰克;稱鄭伯,譏失教也:謂之鄭志。不言出奔,難之也。

『春秋』は「鄭伯克段于鄢」と書く。段が弟らしくなかったので弟と呼ばず、双方が二つの国君のように敵対したので「克」を用い、「鄭伯」と称したのは荘公が弟への教えを失したことを譏るためである——これは鄭伯の本意から出たことを示す。『春秋』が段の出奔を書かないのは、書きづらかったからである。

遂寘姜氏於城潁,而誓之曰:“不及黃泉,無相見也。”既而悔之。

そこで姜氏を城潁に置き、誓って「黄泉に至らなければ、二度と会わない」と言った。まもなく後悔した。

潁考叔為潁谷封人,聞之,有獻於公,公賜之食,食舍肉。公問之,對曰:“小人有母,皆嘗小人之食矣,未嘗君之羹,請以遺之。”公曰:“爾有母遺,繄我獨無!”潁考叔曰:“敢問何謂也?”公語之故,且告之悔。對曰:“君何患焉?若闕地及泉,隧而相見,其誰曰不然?”公從之。公入而賦:“大隧之中,其樂也融融!”姜出而賦:“大隧之外,其樂也洩洩!”遂為母子如初。

潁考叔は潁谷の封人で、このことを聞き、荘公に献る物があった。荘公が食事を賜ると、彼は肉を取り分けて置いた。荘公が問うと「小人には母がおり、小人の食物はすべて母が嘗めましたが、まだ君の肉羹を嘗めたことがありません。持ち帰って母に献じさせてください」と答えた。荘公は「お前には孝を尽くす母がいる。ただ私にはない!」と言った。潁考叔が「敢えてお尋ねしますが、どういう意味ですか」と言うと、荘公は事情を告げ、後悔していると言った。潁考叔は「君が何を憂えることがありましょうか。地を穿って泉に会い、隧道を掘ってそこで会えば、誰が黄泉での再会でないと言えましょうか」と答えた。荘公はこれに従った。荘公は隧道に入って詩を賦し「大隧の中、其の楽しみ融融たり!」と。姜氏は隧道を出て詩を賦し「大隧の外、其の楽しみ泄泄たり!」と。こうして母子は当初のようになった。

君子曰:“潁考叔,純孝也,愛其母,施及莊公。《詩》曰‘孝子不匱,永錫爾類。’其是之謂乎!”秋七月,天王使宰咺來歸惠公、仲子之賵。緩,且子氏未薨,故名。天子七月而葬,同軌畢至;諸侯五月,同盟至;大夫三月,同位至;士逾月,外姻至。

君子曰く「潁考叔は純孝の人で、己の母を愛し、荘公にまで及んだ。『詩』に『孝子の孝は窮まることなく、永くその類に福を賜う』とあるのは、このことであろう」と。秋七月、周天子は宰咺を遣わし、恵公と仲子への助喪の車馬・衣類を贈った。来るのが遅く、しかも仲子はまだ亡くなっていなかったので、『春秋』は宰咺の名を記した。天子は死後七か月で葬り、同じ車軌制度の諸侯は皆赴き、諸侯は五か月で同盟者が赴き、大夫は三か月で官位の同じ者が赴き、士は一か月を過ぎて外姻が赴く。

贈死不及屍,吊生不及哀,豫凶事,非禮也。

死者への贈り物が入殮に間に合わず、生者への弔問が哀期に間に合わず、あらかじめ喪事を取り仕切るのは礼に合わない。

八月,紀人伐夷。夷不告,故不書。

八月、紀人が夷を討った。夷が報告に来なかったので、『春秋』は記さない。

有蜚。不為災,亦不書。

蜚虫が現れた。災害をもたらさなかったので、『春秋』も記さない。

惠公之季年,敗宋師於黃。公立而求成焉。九月,及宋人盟於宿,始通也。

恵公の晚年、黄で宋軍を破った。隠公が即位すると宋と媾和を謀った。九月、宋の人と宿で盟約を結び、これより往来を始めた。

冬十月庚申,改葬惠公。公弗臨,故不書。惠公之薨也,有宋師,太子少,葬故有闕,是以改葬。衛侯來會葬,不見公,亦不書。鄭共叔之亂,公孫滑出奔衛。衛人為之伐鄭,取廩延。鄭人以王師、虢師伐衛南鄙。請師於邾。邾子使私於公子豫,豫請往,公弗許,遂行。及邾人、鄭人盟於翼。不書,非公命也。

冬十月庚申、恵公を改葬した。隠公は臨まなかったので、『春秋』は記さない。恵公が亡くなったとき、ちょうど宋との戦があり、太子は幼く、葬儀に欠けたところがあったので改葬した。衛侯が葬に会しに来たが、隠公に会えず、『春秋』も記さない。鄭国の共叔段が乱を起こしたとき、公孫滑は衛国に奔った。衛人は彼のために鄭国を討ち、廩延をを取った。鄭人は王室の軍隊と虢国の軍隊で衛国の南鄙を討った。邾国に兵を請うた。邾子はひそかに公子豫に告げ、公子豫は行くことを請うたが、隠公は許さず、彼はついに自ら行った。邾人・鄭人と翼で盟約を結んだ。『春秋』に記さないのは、隠公の命令ではなかったからである。

新作南門。不書,亦非公命也。

新たに南門を作った。『春秋』に記さないのも、隠公の命令ではなかったからである。

十二月,祭伯來,非王命也。

十二月、祭伯が来たのは、周天子の命令ではなかった。

眾父卒。公不與小斂,故不書日。

衆父が亡くなった。隠公は小斂に臨まなかったので、『春秋』は日付を書かない。

◇隱公二年

◇隠公二年

【經】二年春,公會戎於潛。夏五月,莒人入向。無駭帥師入極。秋八月庚辰,公及戎盟於唐。九月,紀裂繻來逆女。冬十月,伯姬歸於紀。紀子帛、莒子盟於密。十有二月乙卯,夫人子氏薨。鄭人伐衛。

【経】二年春、隠公は潜で戎と会見した。夏五月、莒人が向に入った。無駭が軍隊を率いて極に入った。秋八月庚辰、隠公は戎と唐で盟約を結んだ。九月、紀裂𦈡が来て娶った。冬十月、伯姫が紀国に嫁いだ。紀子帛・莒子が密で盟約を結んだ。十二月乙卯、夫人子氏が亡くなった。鄭人が衛国を討った。

【傳】二年春,公會戎於潛,修惠公之好也。戎請盟,公辭。

【伝】二年春、隠公が潜で戎と会見したのは、恵公の時の友好を修め直すためであった。戎は盟約を請うたが、隠公は辞した。

莒子娶於向,向姜不安莒而歸。夏,莒人入向,以姜氏還。

莒子は向国から妻を娶ったが、向姜は莒で暮らせず実家に帰った。夏、莒人は向に入り、姜氏を連れて帰った。

司空無駭入極,費庈父勝之。

司空無駭が極に入り、費庈父が極を打ち取った。

戎請盟。秋,盟於唐,復修戎好也。

戎が盟約を請うた。秋、唐で盟約を結んだのは、再び戎との友好を修めるためであった。

九月,紀裂繻來逆女,卿為君逆也。

九月、紀裂𦈡が来て娶ったのは、卿が国君のために来て娶ったのである。

冬,紀子帛、莒子盟於密,魯故也。

冬、紀子帛・莒子が密で盟約を結んだのは、魯国のためであった。

鄭人伐衛,討公孫滑之亂也。

鄭人が衛国を討ったのは、公孫滑の乱を討つためであった。

◇隱公三年

◇隠公三年

【經】三年春王二月,己巳,日有食之。三月庚戌,天王崩。夏四月辛卯,君氏卒。秋,武氏子來求賻。八月庚辰,宋公和卒。冬十有二月,齊侯,鄭伯盟於石門。癸未,葬宋穆公。

【経】三年春、周天子の暦の二月己巳、日食があった。三月庚戌、周天子が亡くなった。夏四月辛卯、君氏が亡くなった。秋、武氏子が来て助喪の財物を求めた。八月庚辰、宋公和が亡くなった。冬十二月、斉侯・鄭伯が石門で盟約を結んだ。癸未、宋穆公を葬った。

【傳】三年春,王三月壬戌,平王崩。赴以庚戌,故書之。

【伝】三年春、周暦三月壬戌、平王が亡くなった。訃告は庚戌と告げたので、『春秋』は訃告に従って書いた。

夏,君氏卒。聲子也。不赴於諸侯,不反哭於寢,不祔於姑,故不曰薨。不稱夫人,故不言葬,不書姓。為公故,曰“君氏”。

夏、君氏が亡くなった。これは声子である。諸侯に訃告せず、祖廟に帰って哭吊せず、神主を姑に附祭しなかったので「薨」と称さない。夫人と称さないので、安葬を記さず姓も書かない。隠公の生母だったので「君氏」と称した。

鄭武公、莊公為平王卿士。王貳於虢,鄭伯怨王,王曰“無之”。故周、鄭交質。王子狐為質於鄭,鄭公子忽為質於周。王崩,周人將畀虢公政。四月,鄭祭足帥師取溫之麥。秋,又取成周之禾。周、鄭交惡。

鄭武公・荘公は相次いで平王の卿士となった。天子はまた政事を虢公に分けたので、鄭伯は天子を怨み、天子は「そんなことはない」と言った。そこで周・鄭は人質を交換した。王子狐が鄭で人質となり、鄭公子忽が周で人質となった。天子が亡くなると、周人は政権を虢公に渡そうとした。四月、鄭国の祭足は軍隊を率いて温地の麦を刈り取った。秋、また成周の禾を刈り取った。周・鄭は交悪した。

君子曰:“信不由中,質無益也。明恕而行,要之以禮,雖無有質,誰能間之?苟有明信,澗溪沼沚之毛,蘋蘩薀藻之菜,筐筥錡釜之器,潢汙行潦之水,可薦於鬼神,可羞於王公,而況君子結二國之信,行之以禮,又焉用質?《風》有《採繁》、《採蘋》,《雅》有《行葦》、《泂酌》,昭忠信也。”

君子曰く「誠信が心から発しないなら、人質も役に立たない。明察と恕道を本として行い、礼をもってこれを束ねれば、人質がなくても、誰が彼らを離間できようか。もし明信があれば、澗溪沼沚の野草、蘋・蘩・蕰藻の類の菜、筐筥錡釜の類の器、溜り水や路上の流水でも、鬼神に献じ王公に奉ることができる。まして君子が両国の誠信を結び、礼に従って行うのに、どうして人質が要ろうか。『国風』に『采蘩』(底本は「采繁」)『采苹』、『雅』に『行葦』『泂酌』があるのは、いずれも忠信を表彰するものである」と。

武氏子來求賻,王未葬也。

武氏子が来て助喪の財物を求めたのは、天子がまだ葬られていなかったからである。

宋穆公疾,召大司馬孔父而屬殤公焉,曰:“先君舍與夷而立寡人,寡人弗敢忘。若以大夫之靈,得保首領以沒,先君若問與夷,其將何辭以對?請子奉之,以主社稷,寡人雖死,亦無悔焉。”對曰:“群臣願奉馮也。”公曰:“不可。

宋穆公は病重くなり、大司馬孔父を召して、殤公を託して言った「先君は与夷を捨てて私を立てた。私は忘れない。もし大夫の福にあずかり、頭を全うして死ぬことができたとき、先君が与夷について問うたら、私は何と答えようか。あなたが彼を奉じて社稷を主らせてくれれば、私は死んでも悔いがない」と。孔父は「群臣は公子馮を奉じたいと願っています」と答えた。穆公は「いけない」と言った。

先君以寡人為賢,使主社稷,若棄德不讓,是廢先君之舉也,豈曰能賢?光昭先君之令德,可不務乎?吾子其無廢先君之功。”使公子馮出居於鄭。八月庚辰,宋穆公卒。殤公即位。

(宋穆公は続けて言った)先君は私を賢能として社稷を主らせた。もし徳を捨てて位を譲らなければ、先君の挙拔を廃することになり、どうして賢能と言えようか。先君の美徳を発揚し光大することに努めなくてよいものか。あなたは先君の功業を廃してはならない」と。そこで公子馮を鄭国に出て住まわせた。八月庚辰、宋穆公が亡くなった。殤公が即位した。

君子曰:“宋宣公可謂知人矣。立穆公,其子饗之,命以義夫。《商頌》曰:‘殷受命咸宜,百祿是荷。’其是之謂乎!”冬,齊、鄭盟於石門,尋盧之盟也。庚戌,鄭伯之車僨於濟。

君子曰く「宋宣公は人を知る者といえよう。穆公を立てたが、その子が君位を享けたのは、義をもって任命したからである。『商頌』に『殷の命受くること咸宜しく、百禄是れ荷う』とあるのは、このことであろう」と。冬、斉・鄭が石門で盟約を結んだのは、盧地の盟約を温め直すためであった。庚戌、鄭伯の車が済水で転覆した。

衛莊公娶於齊東宮得臣之妹,曰莊姜,美而無子,衛人所為賦《碩人》也。

衛荘公は斉国の東宮得臣の妹を娶り、荘姜といい、美しかったが子がなく、衛人はこれによって『碩人』という詩を作った。

又娶於陳,曰厲媯,生孝伯,早死。其娣戴媯生桓公,莊姜以為己子。公子州籲,嬖人之子也,有寵而好兵,公弗禁,莊姜惡之。石碏諫曰:“臣聞愛子,教之以義方,弗納於邪。驕、奢、淫、泆,所自邪也。四者之來,寵祿過也。將立州籲,乃定之矣,若猶未也,階之為禍。夫寵而不驕,驕而能降,降而不憾,憾而能眕者鮮矣。且夫賤妨貴,少陵長,遠間親,新間舊,小加大,淫破義,所謂六逆也。君義,臣行,父慈,子孝,兄愛,弟敬,所謂六順也。去順效逆,所以速禍也。君人者將禍是務去,而速之,無乃不可乎?”弗聽,其子厚與州籲遊,禁之,不可。桓公立,乃老。

また陳国から妻を娶り、厲嬀といい、孝伯を生んだが早く死んだ。その妹の戴嬀は桓公を生み、荘姜は彼を己の子とした。公子州吁は寵妾の子で、寵を受け兵を好んだが、荘公は禁じず、荘姜は彼を嫌った。石碏が諫めて言うには「臣は聞きました、子を愛するには正道で教え、邪道に走らせてはならないと。驕・奢・淫・泆は邪道に入るもとです。この四つが来るのは、寵禄が度を超えたためです。もし州吁を立てるなら定めてください。まだ定まっていないなら、彼に禍階を作っているのです。寵を受けて驕らず、驕いて降等に安んじ、降等して怨まず、怨んで抑えられる者は稀です。しかも卑賤が尊貴を妨げ、年少が年長に陵ぎ、疏遠が親近を離間し、新人が旧人を離間し、弱小が強大を凌ぎ、淫乱が道義を破る——これを六逆といいます。君が義を行い臣が行を執り、父が慈で子が孝、兄が愛で弟が敬——これを六順といいます。順を捨てて逆に倣うのは、禍患を速めることです。人君は禍患を去ることに務めるべきなのに、それを速めるのは、恐らく不可でしょう」と。荘公は聞かなかった。石碏の子の石厚は州吁と交遊し、石碏は禁じたが禁じきれなかった。桓公が即位すると、石碏は告老した。

◇隱公四年

◇隠公四年

【經】四年春王二月,莒人伐杞,取牟婁。戊申,衛州籲弒其君完。夏,公及宋公遇於清。宋公、陳侯、蔡人、衛人伐鄭。秋,翬帥師會宋公、陳侯、蔡人、衛人伐鄭。九月,衛人殺州籲於濮。冬十有二月,衛人立晉。

【経】四年春、周天子の暦の二月、莒人が杞を討ち、牟婁を取った。戊申、衛の州吁がその君完を弑した。夏、隠公と宋公は清で不意に会った。宋公・陳侯・蔡人・衛人が鄭国を討った。秋、翬が軍隊を率い宋公・陳侯・蔡人・衛人と会して鄭国を討った。九月、衛人は濮で州吁を殺した。冬十二月、衛人は晋を立てて君とした。

【傳】四年春,衛州籲弒桓公而立。公與宋公為會,將尋宿之盟。未及期,衛人來告亂。夏,公及宋公遇於清。

【伝】四年春、衛の州吁は桓公を弑して自立した。隠公と宋公は会見を約し、宿地の盟約を温め直そうとしていた。約束の日に至らないうちに、衛人が来て動乱が起きたと報告した。夏、隠公と宋公は清で不意に会った。

宋殤公之即位也,公子馮出奔鄭,鄭人慾納之。及衛州籲立,將修先君之怨於鄭,而求寵於諸侯以和其民,使告於宋曰:“君若伐鄭以除君害,君為主,敝邑以賦與陳、蔡從,則衛國之願也。”宋人許之。於是,陳、蔡方睦於衛,故宋公、陳侯、蔡人、衛人伐鄭,圍其東門,五日而還。

宋殤公が即位したとき、公子馮は鄭国に奔り、鄭人は彼を送り帰して君にしようとした。衛州吁が立つと、先君と鄭との怨恨に報いようとし、諸侯に寵信を求めて自国の民を安んじようとし、宋国に人を遣わして言った「君が鄭国を討って君の害を除くなら、君が主となり、弊邑は軍賦を出して陳・蔡に従う——それが衛国の願いです」と。宋人は許した。当時陳・蔡は衛と和していたので、宋公・陳侯・蔡人・衛人は鄭国を討ち、東門を包囲し、五日して帰った。

公問於眾仲曰:“衛州籲其成乎?”對曰:“臣聞以德和民,不聞以亂。以亂,猶治絲而棼之也。夫州籲,阻兵而安忍。阻兵無眾,安忍無親,眾叛親離,難以濟矣。夫兵猶火也,弗戢,將自焚也。夫州籲弒其君而虐用其民,於是乎不務令德,而欲以亂成,必不免矣。”

隠公が衆仲に問うた「衛の州吁は成せるか」。衆仲は答えた「臣は聞きます、徳をもって百姓を安んずることは聞きますが、乱をもってするのは聞きません。乱を用いるのは、糸を理しようとしてかえって乱すようなものです。州吁という人は、兵力に恃み残忍に安んじます。兵力に恃めば民なく、残忍に安んずれば親なし、衆叛親離で成しがたし。兵は火のようなもの、収めなければ自らに焼き及びます。州吁はその国君を弑し、暴虐に百姓を役使し、善徳に務めず、乱によって成ろうとする——必ず禍を免れません」と。

秋,諸侯復伐鄭。宋公使來乞師,公辭之。羽父請以師會之,公弗許,固請而行。故書曰“翬帥師”,疾之也。諸侯之師敗鄭徒兵,取其禾而還。

秋、諸侯は再び鄭国を討った。宋公が人を遣わして出兵を請うたが、隠公は辞した。羽父は軍隊を率いて会することを請うたが、隠公は許さず、彼は固く請うて行った。だから『春秋』は「翬帥師」と書く、彼を憎んだのである。諸侯の軍隊は鄭国の歩兵を破り、禾稲を刈って帰った。

州籲未能和其民,厚問定君於石子。石子曰:“王覲為可。”曰:“何以得覲?”曰:“陳桓公方有寵於王,陳、衛方睦,若朝陳使請,必可得也。”厚從州籲如陳。石碏使告於陳曰:“衛國褊小,老夫耄矣,無能為也。此二人者,實弒寡君,敢即圖之。”陳人執之而請蒞於衛。九月,衛人使右宰醜蒞殺州籲於濮,石碏使其宰獳羊肩蒞殺石厚於陳。

州吁はその百姓を安んじられなかった。石厚が石碏に君位を安んずる方策を問うと、石碏は「天子に朝見すればよい」と言った。「どうすれば朝見を許されるか」と問うと「陳桓公はいま天子に寵信され、陳・衛は和している。陳に朝して代わりに請わせれば、必ず得られる」と言った。石厚は州吁に従って陳国に往いた。石碏は人を遣わして陳国に告げた「衛国は狭小で、老夫は年寄り、為すことができません。この二人は実に寡君を弑した者、敢えて就便にお処置ください」と。陳人は彼らを拘え、衛国に来て現地で処置するよう請うた。九月、衛人は右宰丑を濮に遣わしてその場で州吁を殺し、石碏はその家宰獳羊肩を陳に遣わしてその場で石厚を殺した。

君子曰:“石碏,純臣也,惡州籲而厚與焉。‘大義滅親’,其是之謂乎!”衛人逆公子晉於邢。冬十二月,宣公即位。書曰“衛人立晉”眾也。

君子曰く「石碏は純臣、州吁を憎み、石厚も併せて除かれた。『大義親を滅す』とは、このことであろう」と。衛人は邢に往き公子晋を迎えた。冬十二月、宣公が即位した。『春秋』が「衛人立晋」と書くのは、衆人によるからである。

◇隱公五年

◇隠公五年

【經】五年春,公矢魚於棠。夏四月,葬衛桓公。秋,衛師入郕。九月,考仲子之宮。初獻六羽。邾人、鄭人伐宋。螟。冬十有二月辛巳,公子彄卒。

【経】五年春、隠公は棠で漁具を陳列した。夏四月、衛桓公を葬った。秋、衛軍が郕に入った。九月、仲子の廟を落成した。初めて六羽の舞を献じた。邾人・鄭人が宋国を討った。螟の災いがあった。冬十二月辛巳、公子𫸩が亡くなった。

宋人伐鄭,圍長葛。

宋人が鄭国を討ち、長葛を包囲した。

【傳】五年春,公將如棠觀魚者。臧僖伯諫曰:“凡物不足以講大事,其材不足以備器用,則君不舉焉。君將納民於軌物者也。故講事以度軌量謂之軌,取材以章物採謂之物,不軌不物謂之亂政。亂政亟行,所以敗也。故春蒐夏苗,秋獮冬狩,皆於農隙以講事也。三年而治兵,入而振旅,歸而飲至,以數軍實。昭文章,明貴賤,辨等列,順少長,習威儀也。鳥獸之肉不登於俎,皮革齒牙、骨角毛羽不登於器,則公不射,古之制也。若夫山林川澤之實,器用之資,皂隸之事,官司之守,非君所及也。”公曰:“吾將略地焉。”遂往,陳魚而觀之。僖伯稱疾,不從。書曰“公矢魚於棠”,非禮也,且言遠地也。

【伝】五年春、隠公は棠に往き漁する者を見ようとした。臧僖伯が諫めて言うには「およそ物が大事を講習するに足らず、材が器用を備えるに足らなければ、国君は挙動しません。国君は百姓を軌・物に納める者です。だから大事を講習して法度を正すのを軌といい、材を取りて物色文采を彰明するのを物といい、軌ならず物ならざるを乱政といいます。乱政をたびたび行えば、だから敗亡します。それゆえ春蒐・夏苗・秋獮・冬狩は、いずれも農閑に大事を講習します。三年に一度軍隊を整え、城に入って隊伍を整頓し、帰って祭告し飲至し、軍用物資を点検します。文采を彰明し、貴賤を辨え、等列を分け、少長を順にする——これが威儀の熟習です。鳥獣の肉が祭俎に上らず、皮革歯牙・骨角毛羽が器物に用いられなければ、国君は射ません、これが古制です。山林川沢の物産や器用の資材は、皂隷の事・官司の職守で、国君の関知すべきことではありません」と。隠公は「私は辺境を巡視するのだ」と言い、そこで往き、漁具を陳列して見た。僖伯は病を称して従わなかった。『春秋』が「公矢魚于棠」と書くのは、礼に合わず、しかも遠い地だと明らかにするためである。

曲沃莊伯以鄭人、邢人伐翼,王使尹氏、武氏助之。翼侯奔隨。

曲沃荘伯は鄭人・邢人を率いて翼を討ち、天子は尹氏・武氏を遣わして彼を助けた。翼侯は随に奔った。

夏,葬衛桓公。衛亂,是以緩。

夏、衛桓公を葬った。衛国に動乱があったので遅れた。

四月,鄭人侵衛牧,以報東門之役。衛人以燕師伐鄭。鄭祭足、原繁、洩駕以三軍軍其前,使曼伯與子元潛軍軍其後。燕人畏鄭三軍而不虞制人。六月,鄭二公子以制人敗燕師於北制。君子曰:“不備不虞,不可以師。”

四月、鄭人は衛国の郊牧を侵し、東門の役の報復とした。衛人は燕国の軍隊で鄭国を討った。鄭国の祭足・原繁・泄駕は三軍を率いて前に陣を張り、曼伯と子元に制地の軍隊を率いさせ、ひそかに後ろに陣を張らせた。燕人は鄭の三軍を恐れたが、制地の者を備えなかった。六月、鄭国の二人の公子は制地の者を用いて北制で燕軍を破った。君子曰く「意外を備えなければ、兵を出すべからず」と。

曲沃叛王。秋,王命虢公伐曲沃而立哀侯於翼。

曲沃が天子に背いた。秋、天子は虢公に命じて曲沃を討たせ、翼に哀侯を立てた。

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