隠公(元年~十一年)
夏,齊侯、鄭伯朝於紀,欲以襲之。紀人知之。
夏、斉侯・鄭伯は紀に往き朝見した、隙に乗じてこれを襲おうとしたのである。紀人は察した。
王奪鄭伯政,鄭伯不朝。
天子は鄭伯の政権を奪い、鄭伯は来朝しなくなった。
秋,王以諸侯伐鄭,鄭伯御之。
秋、天子は諸侯を率いて鄭を討ち、鄭伯はこれを禦いだ。
王為中軍;虢公林父將右軍,蔡人、衛人屬焉;周公黑肩將左軍,陳人屬焉。
天子は中軍を統率した。虢公林父は右軍を率い、蔡人・衛人が隷属した。周公黒肩は左軍を率い、陳人が隷属した。
鄭子元請為左拒以當蔡人、衛人,為右拒以當陳人,曰:“陳亂,民莫有鬥心,若先犯之,必奔。王卒顧之,必亂。蔡、衛不枝,固將先奔,既而萃於王卒,可以集事。”從之。曼伯為右拒,祭仲足為左拒,原繁、高渠彌以中軍奉公,為魚麗之陳,先偏後伍,伍承彌縫。戰於繻葛,命二拒曰:“旝動而鼓。”蔡、衛、陳皆奔,王卒亂,鄭師合以攻之,王卒大敗。祝聃射王中肩,王亦能軍。祝聃請從之。公曰:“君子不欲多上人,況敢陵天子乎!苟自救也,社稷無隕,多矣。”
鄭子元は左の方陣を組んで蔡人・衛人に当たり、右の方陣を組んで陳人に当たるよう請いて言った「陳国は動乱し、百姓に闘志がありません。もし先に彼らを衝けば、必ず奔逃します。天子の士卒は顧みて、陣脚は必ず乱れます。蔡・衛が支えきれなければ、自然に先に奔逃し、その後天子の士卒を集めて対付すれば、事を成すことができます」と。鄭伯はこれに従った。曼伯が右の方陣の主将となり、祭仲足が左の方陣の主将となり、原繁・高渠弥は中軍を率いて鄭伯を衛奉し、魚麗の陣を布き、前は偏、後は伍、伍は縫隙を承け弥縫した。𦈡葛で交戦し、二つの方陣に命じて「大旗を揮れば鼓を撃て」と言った。蔡・衛・陳はみな奔逃し、天子の士卒は大いに乱れ、鄭軍は合して攻め、天子の士卒は大敗した。祝聃は天子の肩を射中てたが、天子はなお軍隊を約束しえた。祝聃は追撃を請うた。鄭伯は「君子は人に多く凌駕することを欲せず、まして敢えて天子を欺陵しようか。もし自ら救うことができて社稷が陨落しなければ、足りる」と言った。
夜,鄭伯使祭足勞王,且問左右。
夜、鄭伯は祭足を遣わして天子を慰労し、併せて左右の者に問候した。
仍叔之子,弱也。
仍叔の子は、まだ年少なので、『春秋』はこのように書く。
秋,大雩,書,不時也。凡祀,啟蟄而郊,龍見而雩,始殺而嘗,閉蟄而烝。
秋、大雩を行った。『春秋』に記すのは、時節に合わないからである。およそ祭祀は、啓蟄に郊祭し、龍星が見えるとき雩祭し、涼気が始まり殺するとき嘗祭し、昆虫が閉蔵するとき烝祭する。
過則書。
時節を過ぎれば、『春秋』は記す。
冬,淳于公如曹。度其國危,遂不復。
冬、淳于公は曹に往いた。彼は自国の危険を忖度し、ついに帰らなかった。
◇桓公六年
◇桓公六年
【經】六年春正月,實來。夏四月,公會紀侯於成。秋八月壬午,大閱。蔡人殺陳佗。九月丁卯,子同生。冬,紀侯來朝。
【経】六年春正月、州公が実来した。夏四月、桓公は成で紀侯と会見した。秋八月壬午、大閲を行った。蔡人は陳佗を殺した。九月丁卯、子同が生まれた。冬、紀侯が来て朝見した。
【傳】六年春,自曹來朝。書曰“實來”,不復其國也。
【伝】六年春、州公は曹から来て朝見した。『春秋』が「実来」と書くのは、彼がその国に帰らなくなったからである。
楚武王侵隨,使薳章求成焉。軍於瑕以待之。隨人使少師董成。鬥伯比言於楚子曰:“吾不得志於漢東也,我則使然。我張吾三軍而被吾甲兵,以武臨之,彼則懼而協以謀我,故難間也。漢東之國隨為大,隨張必棄小國,小國離,楚之利也。少師侈,請羸師以張之。”熊率且比曰:“季梁在,何益?”鬥伯比曰:“以為後圖,少師得其君。”王毀軍而納少師。
楚武王は随を侵し、䓕章を遣わして和を求めた。軍隊は瑕に駐して待った。随人は少師を遣わして和議を主らせた。鬬伯比は楚子に言った「我らが漢水以東で志を得られないのは、我ら自ら致したところです。我らは三軍を張り甲兵を被せ、武力をもって彼らに臨めば、彼らは惧れて合して我に対するを謀る、だから離間しがたい。漢東の国は随が最大、随がいったん自大すれば必ず小国を棄て、小国が離散すれば、これは楚の利です。少師は驕侈、軍隊に疲弱を見せて彼を自大させてください」と。熊率且比は「季梁がいる、何の益があろう」と言った。鬬伯比は「これは後のための計です、少師はその国君の信任を得ています」と言った。楚王は軍容を毁損して少師を迎えた。
少師歸,請追楚師,隨侯將許之。季梁止之曰:“天方授楚,楚之蠃,其誘我也,君何急焉?臣聞小之能敵大也,小道大淫。所謂道,忠於民而信於神也。
少師は帰り、楚軍を追撃するよう請い、随侯は許そうとした。季梁が止めて言うには「天はまさに楚を授けんとしており、楚軍の疲弱は、我らを誘うものです。君は何を急ぎましょうか。臣は聞きます、小が大に敵するは、小に道あり大に淫侈あればです。謂う所の道は、民に忠にして神に信なること。
上思利民,忠也;祝史正辭,信也。今民餒而君逞欲,祝史矯舉以祭,臣不知其可也。”公曰:“吾牲牷肥腯,粢盛豐備,何則不信?”對曰:“夫民,神之主也。是以聖王先成民而後致力於神。故奉牲以告曰‘博碩肥腯’,謂民力之普存也,謂其畜之碩大蕃滋也,謂其不疾瘯蠡也,謂其備腯鹹有也。奉盛以告曰‘潔粢豐盛’,謂其三時不害而民和年豐也。奉酒醴以告曰‘嘉栗旨酒’,謂其上下皆有嘉德而無違心也。所謂馨香,無讒慝也。故務其三時,修其五教,親其九族,以致其禋祀。於是乎民和而神降之福,故動則有成。今民各有心,而鬼神乏主,君雖獨豐,其何福之有!君姑修政而親兄弟之國,庶免於難。”隨侯懼而修政,楚不敢伐。
(季梁は続けて言う)上にある者が民に利あるを思うを忠といい、祝史が誠実の言辞を用いるを信といいます。いま百姓は飢えて君は私欲を縦にし、祝史は功徳を虚報して祭祀する、臣はこれがどうして可なのか知りません」と。随侯は「我が犠牲は毛色が純く膃肥し体壯で、黍稷は豊滿して斉く備わる、どうして信を取らぬことがあろう」と言った。季梁は答えた「百姓は神の主人です。だから聖王は先ず百姓を成し、それから神に力を致します。故に犠牲を献じて告げて曰く『博く大にして肥く壯なり』とは、民力が普く存し、牲畜は碩大に蕃滋し、疥癬を生ぜず、肥畜の各類あるを言います。祭器の穀を献じて告げて曰く『潔粢豊盛』とは、春夏秋の三時に農事を害せず、百姓和して年成豊かなるを言います。酒醴を献じて告げて曰く『嘉栗旨酒』とは、上下皆美德ありて違逆の心なきを言います。謂う所の馨香は、讒言と邪念なきことです。故に三時に務め、五教を修め、九族に親しみ、以て祭祀を致します。ここに百姓和して神降福あり、動けば成すことができます。いま百姓は各々その心を有し、鬼神は主人を乏しくし、君は独り豊かなるも、何の福かあらん。君はしばらく政事を修明し兄弟の国に親しみ、あるいは禍難を免れることができよう」と。随侯は惧れ、政事を修明し、楚は敢えて来て討たなかった。
夏,會於成,紀來諮謀齊難也。
夏、成で会見したのは、紀が来て斉国の禍難を諮問したからである。
北戎伐齊,齊侯使乞師於鄭。鄭大子忽帥師救齊。六月,大敗戎師,獲其二帥大良、少良,甲首三百,以獻於齊。於是,諸侯之大夫戍齊,齊人饋之餼,使魯為其班,後鄭。鄭忽以其有功也,怒,故有郎之師。
北戎が斉を討ち、斉侯は人を遣わして鄭に出兵を請うた。鄭太子忽は軍隊を率いて斉を救った。六月、戎軍を大いに破り、その二つの将帥大良・少良を俘にし、甲士の首級三百を斉に献じた。当時諸侯の大夫は斉を戍守し、斉人は糧餉を饋送し、魯に班次を排定させ、鄭を後にした。鄭忽は己が功あるを以て怒り、だから後に郎地の一戦があった。
公之未昏於齊也,齊侯欲以文姜妻鄭大子忽。大子忽辭,人問其故,大子曰:“人各有耦,齊大,非吾耦也。《詩》云:‘自求多福。’在我而已,大國何為?”君子曰:“善自為謀。”及其敗戎師也,齊侯又請妻之,固辭。人問其故,大子曰:“無事於齊,吾猶不敢。今以君命奔齊之急,而受室以歸,是以師昏也。民其謂我何?”遂辭諸鄭伯。
桓公がまだ斉と結親しないとき、斉侯は文姜を鄭太子忽に嫁がせようとした。太子忽は辞し、人に故を問われると、太子は言った「人には各々配偶あり、斉国は大きすぎて、我が配偶ではない。『詩』に『自ら多くの福を求む』とある。我が自身にあるのみ、大国が何をなそう」と。君子曰く「自らのために謀るに善し」と。彼が戎軍を破るに及び、斉侯はまた女を彼に嫁がせんことを請い、彼は固く辞した。人に故を問われると、太子は言った「斉に功なきとき、私はなお敢えてしなかった。いま君命を奉じて斉の急難に奔赴し、妻室を受けて帰る——これは出兵を以て婚を成すこと、百姓は私をどう言うであろう」と。そこで鄭伯に辞した。
秋,大閱,簡車馬也。
秋、大閲を行ったのは、車馬を検閲したのである。
九月丁卯,子同生,以大子生之禮舉之,接以大牢,卜士負之,士妻食之。
九月丁卯、子同が生まれ、太子出生の礼で办し、太牢で子を接し、卜を問いて士を選んで彼を抱かせ、士の妻に乳を与えさせた。
公與文姜、宗婦命之。
桓公と文姜・同宗の婦人が彼のために命名した。
公問名於申繻。對曰:“名有五,有信,有義,有象,有假,有類。以名生為信,以德命為義,以類命為象,取於物為假,取於父為類。不以國,不以官,不以山川,不以隱疾,不以畜牲,不以器幣。周人以諱事神,名,終將諱之。故以國則廢名,以官則廢職,以山川則廢主,以畜牲則廢祀,以器幣則廢禮。晉以僖侯廢司徒,宋以武公廢司空,先君獻、武廢二山,是以大物不可以命。”公曰:“是其生也,與吾同物,命之曰同。”
桓公は申繻に命名のことを問うた。申繻は答えた「名に五つの種あり、信あり、義あり、象あり、假あり、類あり。出生時の特徴をもって名づけるを信といい、徳行をもって名づけるを義といい、相類の事物をもって名づけるを象といい、器物を借りて名づけるを假といい、父と同じを取るを類といいます。国名を用いず、官名を用いず、山川を用いず、隠疾を用いず、畜牲を用いず、礼器玉帛を用いません。周人は避諱をもって神に事え、名は、死に及んで終に諱む。だから国名を用いれば国名を廃し、官名を用いれば官職を廃し、山川を用いれば神主を廃し、畜牲を用いれば祭祀を廃し、礼器玉帛を用いれば礼儀を廃します。晋は僖侯のために司徒を廃し、宋は武公のために司空を廃し、先君献公・武公は二つの山名を廃した、だから大物件は以て名づくべからず」と。桓公は「この子の生まれ、私と同じ日、就いて同と命名する」と言った。
冬,紀侯來朝,請王命以求成於齊,公告不能。
冬、紀侯が来て朝見し、天子の命令をもって斉と媾和することを請うたが、桓公はできないと告げた。
◇桓公七年
◇桓公七年
【經】七年春二月己亥,焚鹹丘。夏,谷伯綏來朝。鄧侯吾離來朝。
【経】七年春二月己亥、咸丘を焚いた。夏、穀伯綏が来て朝見した。鄧侯吾離が来て朝見した。
【傳】七年春,谷伯、鄧侯來朝。名,賤之也。
【伝】七年春、穀伯・鄧侯が来て朝見した。『春秋』がその名を書くのは、彼らを賤視したからである。
夏,盟、向求成於鄭,既而背之。
夏、盟・向は鄭に和を求め、まもなくまた背いた。
秋,鄭人、齊人、衛人伐盟、向。王遷盟、向之民於郟。
秋、鄭人・斉人・衛人は盟・向を討った。天子は盟・向の百姓を郟に遷した。
冬,曲沃伯誘晉小子侯,殺之。
冬、曲沃伯は晋の小子侯を誘い、彼を殺した。
◇桓公八年
◇桓公八年
【經】八年春正月己卯,烝。天王使家父來聘。夏五月丁丑,烝秋,伐邾。
【経】八年春正月己卯、烝祭を行った。周天子は家父を遣わして聘問した。夏五月丁丑、また烝祭を行った。秋、邾を討った。
冬十月,雨雪。祭公來,遂逆王后於紀。
冬十月、雪。祭公が来て、続いて紀に往き王后を迎えた。
【傳】八年春,滅翼。
【伝】八年春、翼を滅した。
隨少師有寵。楚鬥伯比曰:“可矣。仇有釁,不可失也。”
随の少師が寵を得た。楚の鬬伯比は「よし。仇敵に隙がある、逃してはならない」と言った。
夏,楚子合諸侯於沈鹿。黃、隨不會,使薳章讓黃。楚子伐隨,軍於漢、淮之間。
夏、楚子は沈鹿で諸侯を会合した。黄・随は会に来ず、䓕章を遣わして黄を責めさせた。楚子は随を討ち、軍隊は漢水・淮水の間に駐した。
季梁請下之:“弗許而後戰,所以怒我而怠寇也。”少師謂隨侯曰:“必速戰。不然,將失楚師。”隨侯御之,望楚師。季梁曰:“楚人上左,君必左,無與王遇。且攻其右,右無良焉,必敗。偏敗,眾乃攜矣。”少師曰:“不當王,非敵也。”弗從。戰於速杞,隨師敗績。隨侯逸,鬥丹獲其戎車,與其戎右少師。
季梁は先に楚に屈することを請いた「許さずしてそれから戦うは、我が軍を激怒させ敵軍を怠らせるためです」と。少師は随侯に「必ず速戦しなければ。さもなければ楚軍を逃します」と言った。随侯は兵を出して禦ぎ、遠く楚軍を望見した。季梁は「楚人は上首の左を尊びとし、君は必ず左にいます。楚王と正面から遇うなかれ。しばらくその右軍を攻めなさい、右軍に良将なく、必ず敗れます。偏師が敗れれば大軍は離散します」と言った。少師は「楚王に当たらなければ、対等の敵手ではない」と言った。随侯は季梁を聞かなかった。速杞で交戦し、随軍は大敗した。随侯は逃げ、鬬丹は彼の戎車と、車右の少師を獲た。
秋,隨及楚平。楚子將不許,鬥伯比曰:“天去其疾矣,隨未可克也。”乃盟而還。
秋、随と楚が媾和した。楚子は許さざるべくしたが、鬬伯比は「天はすでにその病害を去った、随はまだ勝てない」と言った。そこで盟約を結んで帰国した。
冬,王命虢仲立晉哀侯之弟緡於晉。
冬、天子は虢仲に命じて晋に晋哀侯の弟の緡を立てさせた。
祭公來,遂逆王后於紀,禮也。
祭公が来て、続いて紀に往き王后を迎えた、これは礼に合う。
◇桓公九年
◇桓公九年
【經】九年春,紀季姜歸於京師。夏四月,秋七月。冬,曹伯使其世子射姑來朝。
【経】九年春、紀季姜が京師に嫁いだ。夏四月、秋七月。冬、曹伯はその世子射姑を遣わして来て朝見させた。
【傳】九年春,紀季姜歸於京師。凡諸侯之女行,唯王后書。
【伝】九年春、紀季姜が京師に嫁いだ。およそ諸侯の女の出行は、王后となる者のみ記す。
巴子使韓服告於楚,請與鄧為好。楚子使道朔將巴客以聘於鄧。鄧南鄙鄾人攻而奪之幣,殺道朔及巴行人。楚子使薳章讓於鄧,鄧人弗受。
巴子は韓服を遣わして楚に報告し、鄧と結好することを請うた。楚子は道朔を遣わして巴国の客を率いて鄧に聘問させた。鄧国南鄙の鄾人は彼らを攻め、財幣を奪い、道朔と巴国の行人を殺した。楚子は䓕章を遣わして鄧を責めさせたが、鄧人は受け入れなかった。
夏,楚使鬥廉帥師及巴師圍鄾。鄧養甥、聃甥帥師救鄾。三逐巴師,不克。
夏、楚は鬬廉を遣わして軍隊を率い巴軍とともに鄾を包囲した。鄧の養甥・聃甥は軍隊を率いて鄾を救った。三たび巴軍を追ったが、勝てなかった。
鬥廉衡陳其師於巴師之中,以戰,而北。鄧人逐之,背巴師而夾攻之。鄧師大敗,鄾人宵潰。
鬬廉は軍隊を横に列ねて巴軍の中に入れて交戦し、それから敗逃を装った。鄧人は追い、巴軍を背にし、両面から攻められた。鄧軍は大敗し、鄾人は夜に潰散した。
秋,虢仲、芮伯、梁伯、荀侯、賈伯伐曲沃。
秋、虢仲・芮伯・梁伯・荀侯・賈伯は曲沃を討った。
冬,曹大子來朝,賓之以上卿,禮也。享曹大子,初獻,樂奏而嘆。施父曰:“曹大子其有憂乎?非嘆所也。”
冬、曹太子が来て朝見し、上卿の礼で彼を接待した、これは礼に合う。曹太子を宴享し、初めて酒を献じて楽曲が奏するとき彼は嘆息した。施父は「曹太子はおおよそ憂いがあるのであろうか。ここは嘆息する場ではない」と言った。
◇桓公十年
◇桓公十年
【經】十年春王正月,庚申,曹伯終生卒。夏五月,葬曹桓公。秋,公會衛侯於桃丘,弗遇。冬十有二月丙午,齊侯、衛侯、鄭伯來戰於郎。
【経】十年春、周天子の暦の正月庚申、曹伯終生が亡くなった。夏五月、曹桓公を葬った。秋、桓公は桃丘で衛侯と会見し、遇わなかった。冬十二月丙午、斉侯・衛侯・鄭伯が来て、郎で戦った。
【傳】十年春,曹桓公卒。
【伝】十年春、曹桓公が亡くなった。
虢仲譖其大夫詹父於王。詹父有辭,以王師伐虢。夏,虢公出奔虞。
虢仲は天子の前でその大夫詹父を讒した。詹父に理があったので、王師を率いて虢を討った。夏、虢公は虞に奔った。
秋,秦人納芮伯萬於芮。
秋、秦人は芮伯万を芮に送り返した。
初,虞叔有玉,虞公求旃。弗獻,既而悔之,曰:“周諺有之:‘匹夫無罪,懷璧其罪。’吾焉用此,其以賈害也?”乃獻之。又求其寶劍。叔曰:“是無厭也。無厭,將及我。”遂伐虞公,故虞公出奔共池。
むかし、虞叔に玉があった。虞公が彼に求めた。彼は献じず、まもなく後悔して言った「周の諺にこうあります『匹夫に罪なく、懐に璧を蔵すれば罪あり』。私はこの玉をどうしよう、まさかこれで禍を買うのか」と。そこで献じた。虞公はまたその宝剣を求めた。虞叔は「これは貪りて厭きなし。貪りて厭きなければ、禍は我が身に及ぶであろう」と言った。そこで虞公を討った、だから虞公は共池に奔った。
冬,齊、衛、鄭來戰於郎,我有辭也。
冬、斉・衛・鄭が来て郎で戦ったのは、我が国に理があったからである。
初,北戎病齊,諸侯救之。鄭公子忽有功焉。齊人餼諸侯,使魯次之。魯以周班後鄭。鄭人怒,請師於齊。齊人以衛師助之。故不稱侵伐。先書齊、衛,王爵也。
むかし、北戎は斉を困らせ、諸侯は往きて救った。鄭公子忽はその中で功があった。斉人は諸侯に糧餉を送らせ、魯に班次を排定させた。魯は周室の爵位の次序で鄭を後にした。鄭人は怒り、斉に兵を請うた。斉人は衛軍をもって彼らを助けた。だから『春秋』は侵とも伐とも称さない。先に斉・衛を書くのは、王爵の次序による。
◇桓公十一年
◇桓公十一年
【經】十有一年春正月,齊人、衛人、鄭人盟於惡曹。夏五月癸未,鄭伯寤生卒。秋七月,葬鄭莊公。九月,宋人執鄭祭仲。突歸於鄭。鄭忽出奔衛。柔會宋公、陳侯、蔡叔盟於折。公會宋公於夫鍾。冬十月有二月,公會宋公於闞。
【経】十一年春正月、斉人・衛人・鄭人は悪曹で盟約を結んだ。夏五月癸未、鄭伯寤生が亡くなった。秋七月、鄭荘公を葬った。九月、宋人は鄭国の祭仲を拘えた。突は鄭に帰った。鄭忽は衛に奔った。柔は宋公・陳侯・蔡叔と会見し、折で盟約を結んだ。桓公は夫鍾で宋公と会見した。冬十二月(底本は「十月有二月」、当に「十有二月」)、桓公は闞で宋公と会見した。
【傳】十一年春,齊、衛、鄭、宋盟於惡曹。
【伝】十一年春、斉・衛・鄭・宋は悪曹で盟約を結んだ。
楚屈瑕將盟貳、軫。鄖人軍於蒲騷,將與隨、絞、州、蓼伐楚師。莫敖患之。
楚の屈瑕は貳・軫と盟約を結ぼうとした。鄖人は蒲騒に軍を駐し、随・絞・州・蓼とともに楚軍を討たんとした。莫敖はこれを憂えた。
