隠公(元年~十一年)
鬥廉曰:“鄖人軍其郊,必不誡,且日虞四邑之至也。君次於郊郢,以御四邑。
鬬廉が言った「鄖人は自国の郊に駐して必ず戒備せず、しかも日々四国の至るを望んでいます。君は郊郢に駐して四国を禦ぎなさい。
我以銳師宵加於鄖,鄖有虞心而恃其城,莫有鬥志。若敗鄖師,四邑必離。”莫敖曰:“盍請濟師於王?”對曰:“師克在和,不在眾。商、周之不敵,君之所聞也。成軍以出,又何濟焉?”莫敖曰:“卜之?”對曰:“卜以決疑,不疑何卜?”遂敗鄖師於蒲騷,卒盟而還。鄭昭公之敗北戎也,齊人將妻之,昭公辭。
(鬬廉は続けて言う)私は精鋭をもって夜に兵を鄖に加えます。鄖人は援を望む心があり城に恃みあり、闘志なし。鄖軍を敗れば四国は必ず離散します」と。莫敖は「どうして天子に増兵を請わない」と言った。鬬廉は答えた「軍隊の勝つは和に在り、衆の多きにあらず。商・周の敵せざるは、君の聞く所です。すでに軍を成して出すに、また何を増やそう」と。莫敖は「卜に問おうか」と言った。答えて曰く「卜は以て疑惑を断ずるもの、疑惑なくして何のために卜を問おう」と。そこで蒲騒で鄖軍を破り、ついに盟約を結んで帰国した。鄭昭公が北戎を破ったとき、斉人は女を彼に嫁がせようとしたが、昭公は辞した。
祭仲曰:“必取之。君多內寵,子無大援,將不立。三公子皆君也。”弗從。
祭仲は「必ず娶るべきです。君は内宠が多く、あなたには強大な外援がない、将に立つことあたわず。三人の公子はみな国君となるべきです」と言った。昭公は聞かなかった。
夏,鄭莊公卒。
夏、鄭荘公が亡くなった。
初,祭封人仲足有寵於莊公,莊公使為卿。為公娶鄧曼,生昭公,故祭仲立之。宋雍氏女於鄭莊公,曰雍姞,生厲公。雍氏宗有寵於宋莊公,故誘祭仲而執之,曰:“不立突,將死。”亦執厲公而求賂焉。祭仲與宋人盟,以厲公歸而立之。
むかし、祭地の封人仲足は荘公に寵信され、荘公は彼を卿とした。彼は荘公のために鄧曼を娶り、昭公を生んだ。だから祭仲は昭公を立てた。宋の雍氏は女をを鄭荘公に嫁がせ、雍姞といい、厲公を生んだ。雍氏の宗族は宋荘公に寵信されたので、祭仲を誘い拘えて言った「突を立てなければ、汝を処す」と。また厲公を拘えて財貨を求めた。祭仲は宋人と盟約を結び、厲公を連れて帰国し彼を君に立てた。
秋九月丁亥,昭公奔衛。己亥,厲公立。
秋九月丁亥、昭公は衛に奔った。己亥、厲公が即位した。
◇桓公十二年
◇桓公十二年
【經】十有二年春正月。夏六月壬寅,公會杞侯、莒子盟於曲池。秋七月丁亥,公會宋公、燕人盟於谷丘。八月壬辰,陳侯躍卒。公會宋公於虛。冬十有一月,公會宋公於龜。丙戌,公會鄭伯,盟於武父。丙戌,衛侯晉卒。十有二月,及鄭師伐宋。丁未,戰於宋。
【経】十二年春正月。夏六月壬寅、桓公は杞侯・莒子と会見し、曲池で盟約を結んだ。秋七月丁亥、桓公は宋公・燕人と会見し、穀丘で盟約を結んだ。八月壬辰、陳侯躍が亡くなった。桓公は虚で宋公と会見した。冬十一月、桓公は亀で宋公と会見した。丙戌、桓公は鄭伯と会見し、武父で盟約を結んだ。丙戌、衛侯晋が亡くなった。十二月、鄭軍とともに宋を討った。丁未、宋で戦った。
【傳】十二年夏,盟於曲池,平杞、莒也。
【伝】十二年夏、曲池で盟約を結んだのは、杞・莒を媾和させたのである。
公欲平宋、鄭。秋,公及宋公盟於句瀆之丘。宋成未可知也,故又會於虛。
桓公は宋・鄭を媾和させようとした。秋、桓公は宋公と句濆の丘で盟約を結んだ。宋が真に媾和できるかまだ知るべくもなく、だからまた虚で会見した。
冬,又會於龜。宋公辭平,故與鄭伯盟於武父。遂帥師而伐宋,戰焉,宋無信也。
冬、また亀で会見した。宋公が媾和を拒んだので、鄭伯と武父で盟約を結んだ。そこで軍隊を率いて宋を討ち、そこで戦った、宋に信用がなかったからである。
君子曰:“苟信不繼,盟無益也。《詩》云:‘君子屢盟,亂是用長。’無信也。”
君子曰く「もし信用が続かなければ、盟約も用なし。『詩』に『君子屢盟すれば、乱是用長ず』とあるのは、信用なきに由る」と。
楚伐絞,軍其南門。莫敖屈瑕曰:“絞小而輕,輕則寡謀,請無扞採樵者以誘之。”從之。絞人獲三十人。明日,絞人爭出,驅楚役徒于山中。楚人坐其北門,而覆諸山下,大敗之,為城下之盟而還。
楚が絞を討ち、南門に軍を駐した。莫敖屈瑕は言った「絞は小さくして軽佻、軽佻なれば謀少なし、柴を刈る者を衛るなかれ、以て彼らを誘わん」と。楚人はこれに従った。絞人は三十人を獲た。翌日、絞人は争って城を出て、楚の役徒を山中に追い込んだ。楚人は北門を坐守し、また山下に伏を設け、絞を大いに破り、城下の盟を結んで帰国した。
伐絞之役,楚師分涉於彭。羅人慾伐之,使伯嘉諜之,三巡,數之。
絞を討った役に、楚軍は彭水を分けて渡った。羅人は彼らを襲おうとして、伯嘉を遣わして偵察させ、三たび巡視し、人数を数えた。
◇桓公十三年
◇桓公十三年
【經】十有三年春二月,公會紀侯、鄭伯。己巳,及齊侯、宋公、衛侯、燕人戰。齊師、宋師、衛師、燕師敗績。三月,葬衛宣公。夏,大水。秋七月。冬十月。
【経】十三年春二月、桓公は紀侯・鄭伯と会見した。己巳、斉侯・宋公・衛侯・燕人と戦った。斉軍・宋軍・衛軍・燕軍は大敗した。三月、衛宣公を葬った。夏、大水。秋七月。冬十月。
【傳】十三年春,楚屈瑕伐羅,鬥伯比送之。還,謂其御曰:“莫敖必敗。
【伝】十三年春、楚の屈瑕は羅を討ち、鬬伯比が彼を送った。帰り、その御者に言った「莫敖は必ず敗れる。
舉趾高,心不固矣。”遂見楚子曰:“必濟師。”楚子辭焉。入告夫人鄧曼。鄧曼曰:“大夫其非眾之謂,其謂君撫小民以信,訓諸司以德,而威莫敖以刑也。
(鬬伯比は続けて言う)彼は足を高く挙げ、心はすでに定まっていない」と。そこで楚子に進見して言った「必ず増兵すべきです」と。楚子は拒んだ。入って夫人鄧曼に告げた。鄧曼は「大夫の言うは人の多少の問題ではなく、君が信をもって小民を撫し、徳をもって官員を訓導し、刑をもって莫敖を威懾せよということです。
莫敖狃於蒲騷之役,將自用也,必小羅。君若不鎮撫,其不設備乎?夫固謂君訓眾而好鎮撫之,召諸司而勸之以令德,見莫敖而告諸天之不假易也。不然,夫豈不知楚師之盡行也?”楚子使賴人追之,不及。
(鄧曼は続けて言う)莫敖は蒲騒の役の勝に慣れ、剛愎自用心あるでしょう、必ず羅を小さく見ます。君が鎮撫に往かなければ、彼は備を設けないでしょう。あの人は本は君に部衆を訓導し善く鎮撫せよと言い、官員を集めて美德をもって彼らを勧め、莫敖に見えて天は軽慢を貸さないと告げよというのです。さもなくば、彼は楚軍がすでに尽く出たことを知らないのでしょうか」と。楚子は頼人を遣わして追わせたが、追いつかなかった。
莫敖使徇於師曰:“諫者有刑。”及鄢,亂次以濟。遂無次,且不設備。及羅,羅與盧戎兩軍之。大敗之。莫敖縊於荒谷,群帥囚於冶父以聽刑。楚子曰:“孤之罪也。”皆免之。
莫敖は軍中を巡り令を伝えて「諫むる者は刑あり」と言った。鄢に至り、次序乱れて河を渡った。ここに陣列なく、しかも備を設けず。羅に至り、羅と盧戎が両面から挟撃した。彼を大いに破った。莫敖は荒谷で縊れ、諸将帥は冶父に囚えられ刑を聴した。楚子は「是れ我が罪なり」と言い、彼らを皆免した。
宋多責賂於鄭,鄭不堪命。故以紀、魯及齊與宋、衛、燕戰。不書所戰,後也。
宋はしばしば鄭に財貨を求め、鄭は堪えられなかった。だから紀・魯を率いて斉・宋・衛・燕と戦った。『春秋』が交戦の地を書かないのは、魯が遅れて至ったからである。
鄭人來請修好。
鄭人が来て友好を修め直すよう請うた。
◇桓公十四年
◇桓公十四年
【經】十有四年春正月,公會鄭伯於曹。無冰。夏五,鄭伯使其弟語來盟。
【経】十四年春正月、桓公は曹で鄭伯と会見した。氷なし。夏五月、鄭伯はその弟語を遣わして来て盟約させた。
秋八月壬申,御廩災。乙亥,嘗。冬十有二月丁巳,齊侯祿父卒。宋人以齊人、蔡人、衛人、陳人伐鄭。
秋八月壬申、御廩が失火した。乙亥、嘗祭を行った。冬十二月丁巳、斉侯禄父が亡くなった。宋人は斉人・蔡人・衛人・陳人を率いて鄭を討った。
【傳】十四年春,會於曹。曹人致餼,禮也。
【伝】十四年春、曹で会見した。曹人は糧餉を送った、これは礼に合う。
夏,鄭子人來尋盟,且修曹之會。
夏、鄭子人が来て盟約を温め直し、併せて曹地の会見を修め直した。
秋八月壬申,御廩災。乙亥,嘗。書,不害也。
秋八月壬申、御廩が失火した。乙亥、嘗祭を行った。『春秋』に記すのは、祭祀を害さなかったからである。
冬,宋人以諸侯伐鄭,報宋之戰也。焚渠門,入,及大逵。伐東郊,取牛首。
冬、宋人は諸侯を率いて鄭を討ち、宋での戦いの報復とした。渠門を焼き、入って、大路に至った。東郊を討ち、牛首を取った。
以大宮之椽歸,為盧門之椽。
鄭の太廟の椽木を持ち帰り、盧門の椽とした。
◇桓公十五年
◇桓公十五年
【經】十有五年春二月,天王使家父來求車。三月乙未,天王崩。夏四月己巳,葬齊僖公。五月,鄭伯突出奔蔡。鄭世子忽復歸於鄭。許叔入於許。公會齊侯於艾。邾人、牟人、葛人來朝。秋九月,鄭伯突入於櫟。冬十有一月,公會宋公、衛侯、陳侯於衰,伐鄭。
【経】十五年春二月、周天子は家父を遣わして来て車を求めさせた。三月乙未、周天子が亡くなった。夏四月己巳、斉僖公を葬った。五月、鄭伯突は蔡に奔った。鄭世子忽は復帰して鄭に入った。許叔は許に入った。桓公は艾で斉侯と会見した。邾人・牟人・葛人が来て朝見した。秋九月、鄭伯突は櫟に入った。冬十一月、桓公は衰で宋公・衛侯・陳侯と会見し、鄭を討った。
【傳】十五年春,天王使家父來求車,非禮也。諸侯不貢車、服,天子不私求財。
【伝】十五年春、周天子が家父を遣わして来て車を求めさせたのは、礼に合わない。諸侯は車・服飾を貢がず、天子は己の私に財物を求めない。
祭仲專,鄭伯患之,使其婿雍糾殺之。將享諸郊。雍姬知之,謂其母曰:“父與夫孰親?”其母曰:“人盡夫也,父一而已,胡可比也?”遂告祭仲曰:“雍氏舍其室而將享子於郊,吾惑之,以告。”祭仲殺雍糾,屍諸周氏之汪。公載以出,曰:“謀及婦人,宜其死也。”夏,厲公出奔蔡。
祭仲が権を専らにし、鄭伯は憂え、その女婿雍糾を遣わして彼を殺させようとした。郊で祭仲を宴しようとした。雍姫はこれを知り、その母に問うた「父と夫とどちらが親しいか」と。母は「人はみな夫となりうるが、父はただ一人、どうして比べられよう」と言った。そこで祭仲に告げて言った「雍氏はその家を離れて郊であなたを宴しようとしています、私はこれを疑い、だから告げに来ました」と。祭仲は雍糾を殺し、死体を周氏の池のほとりに陳した。厲公は雍糾の死体を載せて出逃し、「婦人と謀る、彼が死するは当然だ」と言った。夏、厲公は蔡に奔った。
六月乙亥,昭公入。
六月乙亥、昭公は国都に入った。
許叔入於許。
許叔は許に入った。
公會齊侯於艾,謀定許也。
桓公が艾で斉侯と会見したのは、許国を安んずるを謀議したのである。
秋,鄭伯因櫟人殺檀伯,而遂居櫟。
秋、鄭伯は櫟人によりて檀伯を殺し、そこで櫟に居た。
冬,會於衰,謀伐鄭,將納厲公也。弗克而還。
冬、衰で会見し、鄭を討つことを謀議し、厲公を送り帰そうとした。成功せず帰った。
◇桓公十六年
◇桓公十六年
【經】十有六年春正月,公會宋公、蔡侯、衛侯於曹。夏四月,公會宋公、衛侯、陳侯、蔡侯伐鄭。秋七月,公至自伐鄭。冬,城向。十有一月,衛侯朔出奔齊。
【経】十六年春正月、桓公は曹で宋公・蔡侯・衛侯と会見した。夏四月、桓公は宋公・衛侯・陳侯・蔡侯と会して鄭を討った。秋七月、桓公は伐鄭から帰った。冬、向に城を築いた。十一月、衛侯朔は斉に奔った。
【傳】十六年春正月,會於曹,謀伐鄭也。
【伝】十六年春正月、曹で会見したのは、鄭を討つことを謀議したのである。
夏,伐鄭。
夏、鄭を討った。
秋七月,公至自伐鄭,以飲至之禮也。
秋七月、桓公は伐鄭から帰り、飲至の礼を行った。
冬,城向,書,時也。
冬、向に城を築いた。『春秋』に記すのは、時節に合うからである。
初,衛宣公烝於夷姜,生急子,屬諸右公子。為之娶於齊,而美,公取之,生壽及朔,屬壽於左公子。夷姜縊。宣姜與公子朔構急子。公使諸齊,使盜待諸莘,將殺之。壽子告之,使行。不可,曰:“棄父之命,惡用子矣!有無父之國則可也。”及行,飲以酒,壽子載其旌以先,盜殺之。急子至,曰:“我之求也。
むかし、衛宣公は夷姜と通じ、急子を生み、右公子に託した。彼のために斉から妻を娶ったが、女子が美しかったので、宣公は自ら娶った。寿と朔を生み、寿を左公子に託した。夷姜は縊れて死んだ。宣姜と公子朔は急子を讒した。宣公は急子を斉に遣わし、また盗賊を莘に待たせ、彼を殺そうとした。寿子は彼に告げ、逃げるよう促した。彼は肯んぜず言った「父の命令を棄てて、なお子を用いるものか。父なき国あらばのみ可なり」と。路に上がると、寿子は彼に酒を飲ませ、自らその旌旗を載せて先に行き、盗賊は寿子を殺した。急子が駆けつけて言った「彼らが求めるは我なり。
此何罪?請殺我乎!”又殺之。二公子故怨惠公。
(急子は続けて言う)この人に何の罪がある。私を殺してくれ!」また彼をも殺した。二公子はこれによって恵公を怨んだ。
十一月,左公子洩、右公子職立公子黔牟。惠公奔齊。
十一月、左公子泄・右公子職は公子黔牟を立てた。恵公は斉に奔った。
◇桓公十七年
◇桓公十七年
【經】十有七年春正月丙辰,公會齊侯、紀侯盟於黃。二月丙午,公會邾儀父,盟於趡。夏五月丙午,及齊師戰於奚。六月丁丑,蔡侯封人卒。秋八月,蔡季自陳歸於蔡。癸巳,葬蔡桓侯。及宋人、衛人伐邾。冬十月朔,日有食之。
【経】十七年春正月丙辰、桓公は斉侯・紀侯と会見し、黄で盟約を結んだ。二月丙午、桓公は邾儀父と会見し、趡で盟約を結んだ。夏五月丙午、斉軍と奚で戦った。六月丁丑、蔡侯封人が亡くなった。秋八月、蔡季は陳から蔡に帰った。癸巳、蔡桓侯を葬った。宋人・衛人とともに邾を討った。冬十月朔、日食。
【傳】十七年春,盟於黃,平齊、紀,且謀衛故也。
【伝】十七年春、黄で盟約を結んだのは、斉・紀を媾和させ、併せて衛国の事を謀議するためである。
乃邾儀父盟於趡,尋蔑之盟也。
邾儀父と趡で盟約を結んだのは(底本は「乃邾儀父」、「乃」は「及」の譌)、蔑地の盟約を温め直すためである。
夏,及齊師戰於奚,疆事也。於是齊人侵魯疆,疆吏來告,公曰:“疆場之事,慎守其一,而備其不虞。姑盡所備焉。事至而戰,又何謁焉?”蔡桓侯卒。蔡人召蔡季於陳。
夏、斉軍と奚で戦ったのは、疆界上の事である。当時斉人は魯の疆界を侵し、疆吏が来て報告した。桓公は「疆場の事は、慎んで自らの一辺を守り、意外を備えよ。しばらく為すべき防備を尽くせ。事が来れば戦え、何を請うことがあろう」と言った。蔡桓侯が亡くなった。蔡人は陳から蔡季を呼び戻した。
秋,蔡季自陳歸於蔡,蔡人嘉之也。
秋、蔡季が陳から蔡に帰ったのは、蔡人が彼を嘉したからである。
伐邾,宋志也。
邾を討ったのは、宋の志である。
冬十月朔,日有食之。不書日,官失之也。天子有日官,諸侯有日御。日官居卿以厎日,禮也。日御不失日,以授百官於朝。
冬十月朔、日食。『春秋』が干支日を書かないのは、史官の失職である。天子には日官あり、諸侯には日御あり。日官は卿の位に居って暦日を推歩する、これは礼に合う。日御は日を遺さず、朝廷で百官に授ける。
初,鄭伯將以高渠彌為卿,昭公惡之,固諫,不聽,昭公立,懼其殺己也。
むかし、鄭伯は高渠弥を卿にしようとしたが、昭公は彼を憎み、固く諫めたが、荘公は聞かなかった。昭公が即位し、高渠弥は昭公が己を殺すことを恐れた。
辛卯,弒昭公,而立公子亹。
辛卯、昭公を弑し、公子亹を立てた。
君子謂昭公知所惡矣。公子達曰:“高伯其為戮乎?復惡已甚矣。”
君子は昭公は憎むべき者を知っていたと考える。公子達は「高伯はおおよそ殺されるであろう。旧怨に報いることあまりに過分なり」と言った。
◇桓公十八年
◇桓公十八年
