昭公(元年~三十二年)
晉荀寅求貨於蔡侯,弗得。言於範獻子曰:“國家方危,諸侯方貳,將以襲敵,不亦難乎!水潦方降,疾瘧方起,中山不服,棄盟取怨,無損於楚,而失中山,不如辭蔡侯。吾自方城以來,楚未可以得志,只取勤焉。”乃辭蔡侯。
晋荀寅が蔡侯に財貨を求取したが得ず。范献子に對して曰わく、「國家は正に危急にして、諸侯は正に二心あり。將に敵を襲撃せんとするは、また難くないか!雨水が正に降り、疾瘧が正に起り、中山が歸服せず、盟約を拋棄して怨恨を招来し、楚に減損なく、卻って中山を失うは、蔡侯を辭謝するに如かず。我らは方城より以來、まだ楚に志を得る能わず、ただ勤勞を取得するのみ」。ここに蔡侯を辭謝した。
晉人假羽旄於鄭,鄭人與之。明日,或旆以會。晉於是乎失諸侯。將會,衛子行敬子言於靈公曰:“會同難,嘖有煩言,莫之治也。其使祝佗從!”公曰:“善。”乃使子魚。子魚辭,曰:“臣展四體,以率舊職,猶懼不給而煩刑書,若又共二,徼大罪也。且夫祝,社稷之常隸也。社稷不動,祝不出竟,官之制也。
晋人が鄭に羽旄を借り、鄭人が與えた。翌日、或る人が羽旄を以て旆を作りて會見に參加した。晋はこれより諸侯を失った。將に會見せんとして、衛子行敬子が靈公に對して曰わく、「會同は困難で、爭論に煩雜の話あり、治める人能なし。なお祝佗をして從わしめよ!」。公が曰わく、「善し」。ここに子魚を遣わした。子魚が推辭して曰わく、「臣は四肢を展開して以て舊職を繼承するも、なお供給する能わずして刑書を觸犯するを怕れ、もし又同時に兩樣を擔任せば、是れ大罪を求取するなり。況んや祝は社稷の固定の隸役なり。社稷が動かざれば、祝は國境を出でず。是れ官の制度なり。
君以軍行,祓社釁鼓,祝奉以從,於是乎出竟。若嘉好之事,君行師從,卿行旅從,臣無事焉。”公曰:“行也。”及皋鼬,將長蔡於衛。衛侯使祝佗私於萇弘曰:“聞諸道路,不知信否。若聞蔡將先衛,信乎?”萇弘曰:“信。蔡叔,康叔之兄也,先衛,不亦可乎?”子魚曰:“以先王觀之,則尚德也。昔武王克商,成王定之,選建明德,以蕃屏周。故周公相王室,以尹天下,於周為睦。分魯公以大路,大旂,夏后氏之璜,封父之繁弱,殷民六族,條氏、徐氏、蕭氏、索氏、長勺氏、尾勺氏。使帥其宗氏,輯其分族,將其類醜,以法則周公,用即命於周。
君が軍隊を帶びて出行し、祓祭して社し血を以て鼓を塗れば、祝が奉じて從い、これ乃ち境を出ず。もし嘉好の事なれば、君が行けば師が從い、卿が行けば旅が從う。臣に事なし」。公が曰わく、「去れ」。皋鼬に至り、將に蔡を衛の前に排さんとした。衛侯が祝佗を遣わして私に萇弘に對して曰わく、「道路上で聞くに、確實かどうか知らず。もし蔡が將に衛の前に排せんと聞けば、確實か」。萇弘が曰わく、「確實なり。蔡叔は康叔の兄なり。衛の前に排するは、また可ならずや」。子魚が曰わく、「先王を以て看れば、是れ德を崇尚す。昔武王が商に戰勝し、成王がそれを安定し、明德ある人を選拔建立して以て周を藩屏せしめた。ゆえに周公が王室を輔相し、天下を治理し、周に於て親睦せり。魯公に大路・大旗・夏后氏の璜・封父の繁弱を分給し、殷民六族、條氏・徐氏・蕭氏・索氏・長勺氏・尾勺氏。彼らに宗氏を率いさせ、分族を集合し、同類の族衆を帶領し、來りて周公を取法し、ここに周で命令を受けしめた。
是使之職事於魯,以昭周公之明德。分之土田陪敦,祝、宗、卜、史,備物、典策,官司、彝器。因商奄之民,命以伯禽,而封於少皞之虛。分康叔以大路、少帛、綪茷、旃旌、大呂,殷民七族,陶氏、施氏、繁氏、錡氏、樊氏、飢氏、終葵氏;封畛土略,自武父以南,及圃田之北竟,取於有閻之土,以共王職。
これは彼をして魯で職事を擔任せしめ、以て周公の明德を昭明せしめんとするなり。彼に土田附庸・祝・宗・卜・史、備用の器物・典策・官司・彝器を分給す。商奄の民に依靠し、伯禽を以て命名し、少皞の虚に封ず。康叔に大路・少帛・綪茷・旃旌・大呂を分給し、殷民七族、陶氏・施氏・繁氏・錡氏・樊氏・飢氏・終葵氏。封疆土界は武父より以南、圃田の北境に至り、有閻の土地を取りて以て王職に供給す。
取於相土之東都,以會王之東蒐。聃季授土,陶叔授民,命以《康誥》,而封於殷虛。皆啟以商政,疆以周索。分唐叔以大路,密須之鼓,闕鞏,沽洗,懷姓九宗,職官五正。命以《唐誥》,而封於夏虛,啟以夏政,疆以戎索。三者皆叔也,而有令德,故昭之以分物。不然,文、武、成、康之伯猶多,而不獲是分也,唯不尚年也。管蔡啟商,惎間王室。王於是乎殺管叔而蔡蔡叔,以車七乘,徒七十人。其子蔡仲,改行帥德,周公舉之,以為己卿士。見諸王而命之以蔡,其命書云:‘王曰:胡!無若爾考之違王命也。’若之何其使蔡先衛也?武王之母弟八人,周公為大宰,康叔為司寇,聃季為司空,五叔無官,豈尚年哉!曹,文之昭也;晉,武之穆也。曹為伯甸,非尚年也。今將尚之,是反先王也。晉文公為踐土之盟,衛成公不在,夷叔,其母弟也,猶先蔡。其載書云:‘王若曰,晉重、魯申、衛武、蔡甲午、鄭捷、齊潘、宋王臣、莒期。’藏在周府,可覆視也。吾子欲覆文、武之略,而不正其德,將如之何?”萇弘說,告劉子,與範獻子謀之,乃長衛侯於盟。
相土の東都を取り、以て王の東搜に會同す。聃季が土を授け、陶叔が民を授け、《康誥》を以て命名し、殷虚に封ず。皆商の政を以て開啟し、周の法を以て疆を劃す。唐叔に大路・密須の鼓・闕鞏・沽洗、懷姓九宗・職官五正を分給す。《唐誥》を以て命名し、夏虚に封じ、夏の政を以て開啟し、戎の法を以て疆を劃す。この三人は皆叔なるに、卻って美德あり。ゆえに分賜の物を以て昭明す。然らざれば、文・武・成・康の伯はなお多いも、卻ってこの如き分賜を得ず。ただ年齒を崇尚せざればなり。管・蔡が商を開啟し、王室を離間せんを圖謀した。王はここに管叔を殺して蔡叔を流放し、車七乘・徒七十人を與えた。その兒子蔡仲が行為を改變し德に遵循し、周公が彼を舉用し、自らの卿士と為した。彼を引きて王に見え蔡を以て任命す。その命書に曰く、『王曰く、胡!あなたの父の如く王命に違背する勿れ』。どうして蔡を衛の前に排せん。武王の同母弟八人に、周公が大宰を為し、康叔が司寇を為し、聃季が司空を為し、五個の叔に官職なし。どこに年齒を崇尚せん。曹は文の昭、晋は武の穆なり。曹が伯甸を為すは年齒を崇尚せざるなり。今將にそれを崇尚せんとするは先王に違反す。晋文公が踐土の盟約を為すに、衛成公は在らず、夷叔はその同母弟にして、なお蔡の前に排せり。その載書に曰く、『王この如く曰く、晋重・魯申・衛武・蔡甲午・鄭捷・齊潘・宋王臣・莒期』。周の府庫に藏めて覆看す可し。吾子が文・武の經略を恢復せんと欲して、卻ってその德を端正せざれば、將にどうせん」。萇弘が喜悅し、劉子に告げ、范献子と謀劃し、ここに盟會で衛侯を前に排した。
反自召陵,鄭子大叔未至而卒。晉趙簡子為之臨,甚哀,曰:“黃父之會,夫子語我九言,曰:‘無始亂,無怙富,無恃寵,無違同,無敖禮,無驕能,無復怒,無謀非德,無犯非義。’”沈人不會於召陵,晉人使蔡伐之。夏,蔡滅沈。
召陵より返回し、鄭子大叔はまだ至らずして卒した。晋趙簡子が彼のため臨哭し、甚だ哀痛して曰わく、「黃父の會見に、夫子が我に九句の話を告げて曰く、『亂を發起する勿れ、富を仗恃する勿れ、寵を仗恃する勿れ、同心に違背する勿れ、禮を傲視する勿れ、才能により驕傲する勿れ、怒を重複に加上する勿れ、德に合わざる事を謀劃する勿れ、義に合わざる事を冒犯する勿れ』」。沈人が召陵の會見に參加せず、晋人が蔡に伐たせた。夏、蔡が沈を滅ぼした。
秋,楚為沈故,圍蔡。伍員為吳行人以謀楚。楚之殺郤宛也,伯氏之族出。
秋、楚が沈の故を以て蔡を包圍した。伍員が呉の行人を為して以て楚に對付するを謀った。楚が郤宛を殺すとき、伯氏の族人が逃出した。
伯州犁之孫嚭為吳大宰以謀楚。楚自昭王即位,無歲不有吳師。蔡侯因之,以其子乾與其大夫之子為質於吳。
伯州犁の孫子嚭が呉の大宰を為して以て楚に對付するを謀った。楚は昭王が即位してより以來、一年として呉師なきことなし。蔡侯がこれに憑藉し、その兒子乾と大夫の兒子を人質と為して呉に送った。
冬,蔡侯、吳子、唐侯伐楚。舍舟於淮汭,自豫章與楚夾漢。左司馬戌謂子常曰:“子沿漢而與之上下,我悉方城外以毀其舟,還塞大隧、直轅、冥厄,子濟漢而伐之,我自後擊之,必大敗之。”既謀而行。武城黑謂子常曰:“吳用木也,我用革也,不可久也。不如速戰。”史皇謂子常:“楚人惡子而好司馬,若司馬毀吳舟於淮,塞城口而入,是獨克吳也。子必速戰,不然不免。”乃濟漢而陳,自小別至於大別。三戰,子常知不可,欲奔。史皇曰:“安求其事,難而逃之,將何所入?子必死之,初罪必盡說。”
冬、蔡侯・呉子・唐侯が楚を伐った。淮汭で船を放下し、豫章より楚と漢水を隔てた。左司馬戌が子常に對して曰わく、「あなたは漢水に沿いて彼らと上下周旋し、我は方城外の軍隊を盡起して往きて彼らの船を毀掉し、歸りて大隧・直轅・冥阨を堵住し、あなたが漢水を渡りて往きて伐ち、我が後面より攻撃せば、必ず大いに彼らを敗らん」。已に謀れば即ち出發した。武城黑が子常に對して曰わく、「呉は木を用い、我らは革を用う。持久すべからず。快戰に如かず」。史皇が子常に對して曰わく、「楚人はあなたを惡み司馬を喜好す。もし司馬が淮水で呉の船を毀掉し、城口を堵住して進入せば、是れ彼が獨自に呉に戰勝す。あなたは必ず快戰せよ。然らざれば免れざらん」。ここに漢水を渡りて列陣し、小別より直に大別に至った。三戰を打ち、子常が不可を知り、逃走せんと欲した。史皇が曰わく、「安定時はその政事を求取し、危難には卻って逃避す。將にどこに入らん。あなたは必ずこれがため死戰せよ。当初の罪は必ず全部解脫する能くせん」。
十一月庚午,二師陳於柏舉。闔廬之弟夫概王,晨請於闔廬曰:“楚瓦不仁,其臣莫有死志,先伐之,其卒必奔。而後大師繼之,必克。”弗許。夫概王曰:“所謂‘臣義而行,不待命’者,其此之謂也。今日我死,楚可入也。”以其屬五千,先擊子常之卒。子常之卒奔,楚師亂,吳師大敗之。子常奔鄭。史皇以其乘廣死。吳從楚師,及清發,將擊之。夫王曰:“困獸猶鬥,況人乎?若知不免而致死,必敗我。若使先濟者知免,後者慕之,蔑有鬥心矣。半濟而後可擊也。”
十一月庚午、兩軍が柏擧で列陣した。闔廬の弟夫概王が、朝に闔廬に向かい請求して曰わく、「楚の囊瓦は不仁で、その臣に死戰の心なし。先に往きて伐てば、その士卒は必ず奔逃せん。然る後に大軍を接上せば、必ず能く勝たん」。許さず。夫概王が曰わく、「所謂『臣は義に按って行事し、命令を待たず』、説くは即ちこれなり。今日我が往きて死すれば、楚は即ち入る可し」。その部屬五千人を率い、先に子常の士卒を攻撃した。子常の士卒が奔逃し、楚師が混亂し、呉師が大いに彼らを敗った。子常が鄭に逃奔した。史皇がその乘廣上で戰死した。呉が楚師を追趕し、清發に至り、將に攻撃せんとした。夫概王が(底本此字殘缺、上文の「夫概王」に按ず)曰わく、「困された野獸もなお搏鬥す。況んや人をや。もし免れざるを知りて拼死せば、必ず我らを敗らん。もし先に河を渡る者に免る可きを知らしめば、後の者が彼らを羨慕して、即ち鬥心なし。半渡して然る後に攻撃す可し」。
從之。又敗之。楚人為食,吳人及之,奔。食而從之,敗諸雍澨,五戰及郢。
聽き從った。又彼らを敗った。楚人が正に飯を做るに、呉人が趕到し、楚人が奔逃した。呉人が飯を食して再び追い、雍澨で彼らを敗り、五戰して郢に至った。
己卯,楚子取其妹季羋畀我以出,涉睢。針尹固與王同舟,王使執燧象以奔吳師。
己卯、楚子がその妹季芈畀我を帶びて出で、睢水を渡った。鍼尹固が王と同一條の船に在り、王が火炬を象尾に係けて以て呉師を衝奔せしめた。
庚辰,吳入郢,以班處宮。子山處令尹之宮,夫王欲攻之,懼而去之,夫王入之。
庚辰、呉が郢に入り、班次に按りて宮室に住んだ。子山が令尹の宮に住み、夫概王(底本此字殘缺、上文の「夫概王」に按ず)が彼を攻打せんと欲し、子山が害怕して離れ、夫概王が住み入った。
左司馬戌及息而還,敗吳師於雍澨,傷。初,司馬臣闔廬,故恥為禽焉。謂其臣曰:“誰能免吾首?”吳句卑曰:“臣賤,可乎?”司馬曰:“我實失子,可哉!”三戰皆傷,曰:“吾不用也已。”句卑布裳,剄而裹之,藏其身而以其首免。楚子涉雎,濟江,入於雲中。王寢,盜攻之,以戈擊王。王孫由於以背受之。中肩。王奔鄖,鍾建負季羋以從,由於徐蘇而從。鄖公辛之弟懷將弒王,曰:“平王殺吾父,我殺其子,不亦可乎?”辛曰:“君討臣,誰敢仇之?君命,天也,若死天命,將誰仇?《詩》曰:‘柔亦不茹,剛亦不吐,不侮矜寡,不畏強禦。’唯仁者能之。違強陵弱,非勇也。乘人之約,非仁也。滅宗廢祀,非孝也。
左司馬戌が息に至れば即ち返回し、雍澨で呉師を敗ったが傷を受けた。当初、司馬は闔廬の臣を為し、ゆえに擒に被るを恥とした。その臣に對して曰わく、「誰が能く我が頭を保全せん」。呉句卑が曰わく、「臣は低賤です。可や」。司馬が曰わく、「我は實にあなたに對不起せり。可なり!」。三戰して皆傷を受け、曰わく、「我は行けず」。句卑が衣裳を鋪開し、頭を割下して包裹し、身を藏して頭を帶びて逃脫した。楚子が雎水を渡り、再び江を渡り、雲中に入った。王が睡覺し、盜賊が彼を攻撃し、戈を以て王を撃った。王孫由于が背を以て擋ぎ、肩膀に中った。王が鄖に逃奔し、鍾建が季芈を背負い從い、由于が慢慢に蘇醒して再び跟上した。鄖公辛の弟懷が將に王を弑さんとして曰わく、「平王が我が父を殺し、我がその兒子を殺すは、また可ならずや」。辛が曰わく、「君が臣を討伐するに、誰が敢えて仇視せん。君命は即ち天なり。もし天命に死せば、將に誰を仇視せん。《詩經》に曰く、『柔なるも吞まず、剛なるも吐かず、鰥寡を欺侮せず、强禦を畏懼せず』。ただ仁者のみ能くこの如し。强を避け弱を欺凌するは勇にあらず。人の困約に趁むは仁にあらず。宗族を滅絕し祭祀を廢棄するは孝にあらず。
動無令名,非知也。必犯是,餘將殺女。”鬥辛與其弟巢以王奔隨。吳人從之,謂隨人曰:“周之子孫在漢川者,楚實盡之。天誘其衷,致罰於楚,而君又竄之。
行動に美名なくば智にあらず。必ずこれらを冒犯せんとすれば、我は將にあなたを殺さん」。斗辛がその弟巢と王を帶びて隨に逃奔した。呉人が跟上し、隨人に對して曰わく、「周の子孫の漢川に在る者は、楚が實に彼らを滅盡せり。天がその心意を誘導し、懲罰を楚に加えるに、君は卻って彼を藏匿す。
周室何罪?君若顧報周室,施及寡人,以獎天衷,君之惠也。漢陽之田,君實有之。”楚子在公宮之北,吳人在其南。子期似王,逃王,而己為王,曰:“以我與之,王必免。”隨人卜與之,不吉。乃辭吳曰:“以隨之闢小而密邇於楚,楚實存之,世有盟誓,至於今未改。若難而棄之,何以事君?執事之患,不唯一人。
周室に何の罪かあらん。君がもし周室に顧念報答し、寡人に延及し、以て天意を助成せんとせば、是れ君の恩惠なり。漢陽の田は君が實に占有せん」。楚子が公宮の北面に在り、呉人はその南面に在り。子期が王に長得像して、王を逃させ、自ら王を装作して曰わく、「我を彼らに交せ。王は必ず能く免れん」。隨人が彼を交出するを占卜し、吉利ならず。ここに呉を辭謝して曰わく、「隨の偏僻弱小を以て楚に緊挨着す。楚は實にそれを保存し、世代に盟誓ありて、今に至りて改變せず。もし危難あれば即ち拋棄するは、何を憑って君に事奉せん。執事の憂患はただこの一人のみにあらず。
若鳩楚竟,敢不聽命。”吳人乃退。鑢金初宦於子期氏,實與隨人要言。王使見,辭,曰:“不敢以約為利。”王割子期之心,以與隨人盟。
もし楚の國境を安定せば、敢えて命を聽かざらん」。呉人がここに退走した。鑢金は当初子期氏のそこで宦を為し、實に隨人と話を約定せり。王が彼を進見せしめんとするに、推辭して曰わく、「敢えて困約に趁みて以て利を取らず」。王が子期の胸口の血を割取し、以て隨人と結盟した。
初,伍員與申包胥友。其亡也,謂申包胥曰:“我必復楚國。”申包胥曰:“勉之!子能復之,我必能興之。”及昭王在隨,申包胥如秦乞師,曰:“吳為封豕、長蛇,以薦食上國,虐始於楚。寡君失守社稷,越在草莽。使下臣告急,曰:‘夷德無厭,若鄰於君,疆埸之患也。逮吳之未定,君其取分焉。若楚之遂亡,君之土也。若以君靈撫之,世以事君。’”秦伯使辭焉,曰:“寡人聞命矣。
当初、伍員と申包胥が友好せり。彼が逃亡するとき、申包胥に對して曰わく、「我は必ず楚國を覆滅せん」。申包胥が曰わく、「努力せよ!あなたが能くそれを覆滅せば、我は必ず能くそれを興起せん」。昭王が隨に在るに及び、申包胥が秦に至り師を求めて曰わく、「呉は封豕・長蛇にして、來りて上國を接連吞食す。暴虐は楚より始まる。寡君は社稷を失守し、草莽に流落す。下臣を遣わして急を告げて曰わく、『夷の德は滿足なく、もし君と鄰居を為せば、是れ疆埸の禍患なり。呉がまだ安定せざるに趁み、君はなお往きて一份を取れ。もし楚が終に滅亡せば、即ち君の土地なり。もし君の威靈を以てそれを安撫せば、將に世代に君に事奉せん』」。秦伯が人を遣わして辭謝して曰わく、「寡人は命令を聞けり。
子姑就館,將圖而告。”對曰:“寡君越在草莽,未獲所伏。下臣何敢即安?”立,依於庭牆而哭,日夜不絕聲,勺飲不入口七日。秦哀公為之賦《無衣》,九頓首而坐,秦師乃出。
あなたは姑く館舍に至れ。將に謀劃して然る後に告げん」。對えて曰わく、「寡君は草莽に流落し、まだ栖身の地を得ず。下臣は何で敢えて安に就かん」。立ちて、庭牆に靠りて哭き、日夜聲音斷えず、七日湯水が口に入らず。秦哀公が彼のため《無衣》を賦し、彼が九次叩頭して然る後に坐し、秦師はここに出發した。
◇定公五年
◇定公五年
【經】五年春王三月辛亥朔,日有食之。夏,歸粟於蔡。于越入吳。六月丙申,季孫意如卒。秋七月壬子,叔孫不敢卒。冬,晉士鞅帥師圍鮮虞。
【経】五年春、周天子の暦の三月辛亥朔、日食發生す。夏、粟を蔡に送った。于越が呉に入った。六月丙申、季孫意如が卒した。秋七月壬子、叔孫不敢が卒した。冬、晋士鞅が師を率いて鮮虞を包圍した。
【傳】五年春,王人殺子朝於楚。
【伝】五年春、周人が楚で子朝を殺した。
夏,歸粟於蔡,以周亟,矜無資。
夏、粟を蔡に送ったは以て急困を救濟し、資財なきを憐れめばなり。
越入吳,吳在楚也。
越が呉に入ったは呉が楚に在るを以てなり。
六月,季平子行東野,還,未至,丙申,卒於房。陽虎將以與璠斂,仲梁懷弗與,曰:“改步改玉。”陽虎欲逐之,告公山不狃。不狃曰:“彼為君也,子何怨焉?”既葬,桓子行東野,及費。子洩為費宰,逆勞於郊,桓子敬之。勞仲梁懷,仲梁懷弗敬。子洩怒,謂陽虎:“子行之乎?”申包胥以秦師至,秦子蒲、子虎帥車五百乘以救楚。子蒲曰:“吾未知吳道。”
六月、季平子が東野を巡行し、歸り、まだ至らず、丙申、房で死んだ。陽虎が將に璵璠を以て斂に入れんとし(底本は「与璠」)、仲梁懷が與えず、曰わく、「步履が改變すれば、玉もまた改變すべし」。陽虎が彼を趕走せんと欲し、公山不狃に告げた。不狃が曰わく、「彼は君のためなり。あなたは何を怨まん」。已に下葬し、桓子が東野を巡行し、費に至った。子泄が費宰を為し、郊外に至りて迎接慰勞し、桓子が彼を敬重した。仲梁懷を慰勞するに、仲梁懷は敬せず。子泄が發怒し、陽虎に對して曰わく、「あなたは行動せよか」。申包胥が秦師を帶びて到達し、秦子蒲・子虎が車五百乘を率いて來りて楚を救った。子蒲が曰わく、「我はまだ呉の戰法を知らず」。
使楚人先與吳人戰,而自稷會之,大敗夫王於沂。吳人獲薳射於柏舉,其子帥奔徒以從子西,敗吳師于軍祥。秋七月,子期、子蒲滅唐。
楚人をして先に呉人と作戰せしめ、自ら稷より來りて會合し、沂で夫概王(底本此字殘缺、上文の「夫概王」に按ず)を大いに敗った。呉人が柏擧で䓕射を俘獲し、その兒子が逃奔の徒衆を率いて子西に從い、軍祥で呉師を敗った。秋七月、子期・子蒲が唐を滅ぼした。
九月,夫王歸,自立也。以與王戰而敗,奔楚,為堂溪氏。吳師敗楚師於雍澨,秦師又敗吳師。吳師居麇,子期將焚之,子西曰:“父兄親暴骨焉,不能收,又焚之,不可。”子期曰:“國亡矣!死者若有知也,可以歆舊祀,豈憚焚之?”焚之,而又戰,吳師敗。又戰於公婿之溪,吳師大敗,吳子乃歸。囚闉輿罷,闉輿罷請先,遂逃歸。葉公諸梁之弟後臧從其母於吳,不待而歸。葉公終不正視。
九月、夫概王(底本此字殘缺、上文の「夫概王」に按ず)が歸り、自ら王を立てた。王と作戰して失敗したるを以て、楚に逃奔し、堂溪氏と為った。呉師が雍澨で楚師を敗り、秦師が又呉師を敗った。呉師が麇に住み、子期が將に火を放ちて燒かんとし、子西が曰わく、「父兄親人の骨がそこに暴露し、收斂する能わず、又燒掉するは不可なり」。子期が曰わく、「國は已に亡べり!死者がもし知あらば、舊日の祭祀を享用す可し。何で燒掉を怕れん」。火を放ちて燒き、再び作戰し、呉師が敗れた。又公婿之溪で作戰し、呉師が大いに敗れ、呉子はここに歸った。闉輿罷を囚禁し、闉輿罷が先に走るを請い、ここに逃歸した。葉公諸梁の弟后臧が母に從い呉に在り、彼女を待たずして歸った。葉公が終始正眼に彼を看ず。
乙亥,陽虎囚季桓子及公父文伯,而逐仲梁懷。冬十月丁亥,殺公何藐。己丑,盟桓子於稷門之內。庚寅,大詛,逐公父歜及秦遄,皆奔齊。
乙亥、陽虎が季桓子と公父文伯を囚禁し、仲梁懷を趕走した。冬十月丁亥、公何藐を殺した。己丑、稷門之內で桓子と結盟した。庚寅、大詛咒を行い、公父歜と秦遄を趕走し、皆齊に逃奔した。
楚子入於郢。初,鬥辛聞吳人之爭宮也,曰:“吾聞之:‘不讓則不和,不和不可以遠征。’吳爭於楚,必有亂。有亂則必歸,焉能定楚?”王之奔隨也,將涉於成臼,藍尹亹涉其帑,不與王舟。及寧,王欲殺之。子西曰:“子常唯思舊怨以敗,君何效焉?”王曰:“善。使復其所,吾以志前惡。”王賞鬥辛、王孫由於、王孫圉、鍾建、鬥巢、申包胥、王孫賈、宋木、鬥懷。子西曰:“請舍懷也。”王曰:“大德滅小怨,道也。”申包胥曰:“吾為君也,非為身也。君既定矣,又何求?且吾尤子旗,其又為諸?”遂逃賞。王將嫁季羋,季羋辭曰:“所以為女子,遠丈夫也。鍾建負我矣。”以妻鍾建,以為樂尹。
楚子が郢に入った。当初、斗辛が呉人の宮室を爭奪するを聞き、曰わく、「我は聞くに、『謙讓せざれば即ち和せず、和せざれば遠征すべからず』。呉が楚で爭奪するは必ず亂あらん。亂あれば必ず歸らん。どこに能く楚を安定せん」。王が隨に逃奔する時、將に成臼で河を渡らんとし、藍尹亹がその家屬を先に渡らせ、王に船を與えず。安寧に及び、王が彼を殺さんと欲した。子西が曰わく、「子常がただ舊怨を想いてこれにより失敗したに、君は何で效倣せん」。王が曰わく、「善し。彼を原職に恢復せしめ、我は以て先前の惡を記住せん」。王が斗辛・王孫由于・王孫圉・鍾建・斗巢・申包胥・王孫賈・宋木・斗懷を獎賞した。子西が曰わく、「懷を去るを請います」。王が曰わく、「大德が小怨を消滅するは道なり」。申包胥が曰わく、「我は君のためで、自身のためにあらず。君は已に安定せり。又何を求めん。況んや我は子旗を責備したに、あえてまたあの如き事を為さんや」。ここに賞賜を逃避した。王が將に季芈を嫁出せんとし、季芈が推辭して曰わく、「女子を為す所以は男子を遠離するなり。鍾建は已に我を背負えり」。彼女を鍾建に嫁し、彼を樂尹とした。
王之在隨也,子西為王輿服以保路,國於脾洩。聞王所在,而後從王。王使由於城麇,覆命,子西問高厚焉,弗知。子西曰:“不能,如辭。城不知高厚,小大何知?”對曰:“固辭不能,子使餘也。人各有能有不能。王遇盜於雲中,餘受其戈,其所猶在。”袒而示之背,曰:“此餘所能也。脾洩之事,餘亦弗能也。”
王が隨に在る時、子西が王の車服を準備して以て道路を保衛し、脾泄で國を立てた。王の所在の地を聞き、然る後に王に從った。王が由于を遣わして麇に城を築かせ、歸りて復命するに、子西が城の高厚を問うも知らず。子西が曰わく、「為す能わざれば、推辭するに如かず。城の高厚を知らざれば、大小を何で知らん」。對えて曰わく、「本より推辭して不能と曰うたに、是れあなたが我を遣わして往かせしなり。人は各々能あり不能あり。王が雲中で盜賊に遇い、我がその戈を擋ぎ、あの傷口はまだ在り」。衣服を解きて彼に背を看せて曰わく、「これは我の能くする所。脾泄の事は、我もまた不能なり」。
晉士鞅圍鮮虞,報觀虎之役也。
晋士鞅が鮮虞を包圍したは觀虎のあの一戰を報復するなり。
◇定公六年
◇定公六年
【經】六年春王正月癸亥,鄭遊速帥師滅許,以許男斯歸。二月,公侵鄭。
【経】六年春、周天子の暦の正月癸亥、鄭游速が師を率いて許を滅ぼし、許男斯を帶びて歸った。二月、公が鄭を侵襲した。
公至自侵鄭。夏,季孫斯、仲孫何忌如晉。秋,晉人執宋行人樂祁犁。冬,城中城。季孫斯、仲孫忌帥師圍鄆。
公が鄭を侵襲してより歸った。夏、季孫斯・仲孫何忌が晋に至った。秋、晋人が宋行人樂祁犁を捉えた。冬、中城を修築した。季孫斯・仲孫忌が師を率いて鄆を包圍した。
【傳】六年春,鄭滅許,因楚敗也。
【伝】六年春、鄭が許を滅ぼしたは楚が戰敗したるに趁めばなり。
二月,公侵鄭,取匡,為晉討鄭之伐胥靡也。往不假道於衛;及還,陽虎使季、孟自南門入,出自東門,舍於豚澤。衛侯怒,使彌子瑕追之。公叔文子老矣,輦而如公,曰:“尤人而效之,非禮也。昭公之難,君將以文之舒鼎,成之昭兆,定之鞶鑑,苟可以納之,擇用一焉。公子與二三臣之子,諸侯苟憂之,將以為之質。此群臣之所聞也。今將以小忿蒙舊德,無乃不可乎!大姒之子,唯周公、康叔為相睦也。而效小人以棄之,不亦誣乎!天將多陽虎之罪以斃之,君姑待之,若何?”乃止。
二月、公が鄭を侵襲し、匡を取ったは晋のため鄭の胥靡攻打を討伐するなり。去る時に衛に道を借らず。歸るに及び、陽虎が季孫・孟孫をして南門より進入し、東門より出で、豚澤に住ましめた。衛侯が發怒し、彌子瑕を遣わして追趕せしめた。公叔文子は已に老い、輦車に坐して公の所に至り、曰わく、「他人を責怪して卻って彼を仿效するは禮に合わず。昭公の禍難に、君は將に文公の舒鼎・成公の昭兆・定公の鞶鑑を以てし、假如に彼を國に送歸する可ければ、一件を選擇用いよ。公子と几位の臣の兒子は、諸侯がもしこれがため憂慮せば、將に彼らを人質と為さん。これは群臣の聽聞する所なり。今將に小忿を以て舊德を掩蓋せんとす。ただ怕れて不可かもしれぬ!大姒の兒子はただ周公・康叔のみ互相親睦す。卻って小人を仿效して以てそれを拋棄するは、また欺騙ならずや!天は將に陽虎の罪を加多して彼を斃命せしめん。君は姑く待て。どうか」。ここに停止した。
夏,季桓子如晉,獻鄭俘也。陽虎強使孟懿子往報夫人之幣。晉人兼享之。
夏、季桓子が晋に至ったは鄭の俘虜を奉獻すればなり。陽虎が强いて孟懿子に往かせて夫人の聘幣に回報せしめた。晋人が一幷に彼らを宴享した。
孟孫立於房外,謂範獻子曰:“陽虎若不能居魯,而息肩於晉,所不以為中軍司馬者,有如先君!”獻子曰:“寡君有官,將使其人。鞅何知焉?”獻子謂簡子曰:“魯人患陽虎矣,孟孫知其釁,以為必適晉,故強為之請,以取入焉。”
孟孫が房外に立ち、范献子に對して曰わく、「陽虎がもし魯に居住する能わざれば、晋に來りて肩を卸さん。彼を中軍司馬と為さざれば、先君を證と為すあり!」。献子が曰わく、「寡君に官職あり。將に合適の人を使用せん。鞅はどこに知らん」。献子が簡子に對して曰わく、「魯人は陽虎を憂患せり。孟孫はその裂痕を知り、彼が必ず晋に至ると以為し、ゆえに强いて彼のため請い、以て進身を取得せんとす」。
四月己丑,吳大子終累敗楚舟師,獲潘子臣、小惟子及大夫七人。楚國大惕,懼亡。子期又以陵師敗於繁揚。令尹子西喜曰:“乃今可為矣。”於是乎遷郢於鄀,而改紀其政,以定楚國。
四月己丑、呉太子終累が楚の水軍を敗り、潘子臣・小惟子と大夫七人を俘獲した。楚國が大いに戒懼し、滅亡を怕れた。子期がまた陵師を帶びて繁揚で敗戰した。令尹子西が高興して曰わく、「今に至りて作為する可し」。ここに郢を鄀に遷し、紀綱と政を改正して以て楚國を安定せしめた。
周儋翩率王子朝之徒,因鄭人將以作亂於周。鄭於是乎伐馮、滑、胥靡、負黍、狐人、闕外。六月,晉閻沒戍周,且城胥靡。
周儋翩が王子朝の黨徒を率い、鄭人に憑藉して將に周で亂を作さんとした。鄭がここに馮・滑・胥靡・負黍・狐人・闕外を伐った。六月、晋閻沒が周を戍守し、かつ胥靡を修築した。
秋八月,宋樂祁言於景公曰:“諸侯唯我事晉,今使不往,晉其憾矣。”樂祁告其宰陳寅。陳寅曰:“必使子往。”他日,公謂樂祁曰:“唯寡人說子之言,子必往。”陳寅曰:“子立後而行,吾室亦不亡,唯君亦以我為知難而行也。”
秋八月、宋樂祁が景公に對して曰わく、「諸侯には我らのみが晋に事奉す。今使者が往かざれば、晋はおそらく憾恨せんか」。樂祁がその宰陳寅に告げた。陳寅が曰わく、「必ずあなたを遣わして往かせん」。些日を過ぎ、公が樂祁に對して曰わく、「ただ寡人があなたの話を喜ぶ。あなたは必ず往け」。陳寅が曰わく、「あなたが後嗣を立てて然る後に走れ。我らの家もまた亡びず、即ち君もまた我らを以て難を知りて行くと以為せん」。
見溷而行。趙簡子逆,而飲之酒於綿上,獻楊楯六十於簡子。陳寅曰:“昔吾主范氏,今子主趙氏,又有納焉。以楊楯賈禍,弗可為也已。然子死晉國,子孫必得志於宋。”範獻子言於晉侯曰:“以君命越疆而使,未致使而私飲酒,不敬二君,不可不討也。”乃執樂祁。
溷に見えて然る後に出發した。趙簡子が迎接し、綿上で彼に酒を飲ませ、楊木盾六十面を簡子に献じた。陳寅が曰わく、「昔我らは范氏に主とし、今あなたは趙氏に主とし、又納献あり。楊木盾を以て禍を買えば、救う能わず。しかしあなたがもし晋國で死せば、子孫は必ず宋で志を得ん」。范献子が晋侯に對して曰わく、「君命に憑りて疆界を越えて出使し、まだ致命せずして私に酒を飲むは兩國の君に敬せず。討せざる可からず」。ここに樂祁を捉えた。
陽虎又盟公及三桓於周社,盟國人於亳社,詛於五父之衢。
陽虎がまた周社で公及び三桓と結盟し、亳社で國人と結盟し、五父之衢で詛咒した。
冬,十二月,天王處於姑蕕,闢儋翩之亂也。
冬十二月、天王が姑蕕に住んだは儋翩の亂を躲避せばなり。
◇定公七年
◇定公七年
【經】七年春王正月。夏四月。秋,齊侯、鄭伯盟於鹹。齊人執衛行人北宮結以侵衛。齊侯、衛侯盟於沙。大雩。齊國夏帥師伐我西鄙。九月,大雩。冬十月。
【経】七年春、周天子の暦の正月。夏四月。秋、齊侯・鄭伯が咸で結盟した。齊人が衛行人北宮結を捉えて以て衛を侵襲した。齊侯・衛侯が沙で結盟した。大雩を行った。齊國夏が師を率いて我が國の西部邊境を攻打した。九月、大雩を行った。冬十月。
【傳】七年春二月,周儋翩入於儀栗以叛。
【伝】七年春二月、周儋翩が儀栗に入りて叛變した。
齊人歸鄆、陽關,陽虎居之以為政。
齊人が鄆・陽關を歸還し、陽虎がそこに住みて執政した。
夏四月,單武公、劉桓公敗尹氏於窮谷。
夏四月、單武公・劉桓公が窮谷で尹氏を敗った。
秋,齊侯、鄭伯盟於鹹,徵會於衛。衛侯欲叛晉,諸大夫不可。使北宮結如齊,而私於齊侯曰:“執結以侵我。”齊侯從之,乃盟於瑣。
秋、齊侯・鄭伯が咸で結盟し、衛に向かい會盟を征召した。衛侯が晋を背叛せんと欲したが、諸大夫が不可とした。北宮結を遣わして齊に至らせたが、卻って私に齊侯に對して曰わく、「結を捉えて以て我らを侵襲せよ」。齊侯が聽き從い、ここに瑣で結盟した。
齊國夏伐我。陽虎御季桓子,公斂處父御孟懿子,將宵軍齊師。齊師聞之,墮,伏而待之。處父曰:“虎不圖禍,而必死。”苫夷曰:“虎陷二子於難,不待有司,餘必殺女。”虎懼,乃還,不敗。
齊國夏が我が國を攻打した。陽虎が季桓子のため駕車し、公斂處父が孟懿子のため駕車し、將に夜襲齊師せんとした。齊師が聞き、營壘を拆毀し、埋伏して待った。處父が曰わく、「虎は禍を考慮せず。必ず死を得ん」。苫夷が曰わく、「虎が兩位の君子を禍難に陷れるは有司を待たず、我は必ずあなたを殺さん」。虎が害怕し、ここに返回して戰敗せず。
冬十一月戊午,單子、劉子逆王於慶氏。晉籍秦送王。己巳,王入於王城,館於公族黨氏,而後朝於莊宮。
冬十一月戊午、單子・劉子が慶氏の所に至りて王を迎接した。晋籍秦が王を送った。己巳、王が王城に入り、公族黨氏に住み、然る後に莊宮に至りて朝見した。
◇定公八年
◇定公八年
【經】八年春王正月,公侵齊。公至自侵齊。二月,公侵齊。三月,公至自侵齊。曹伯露卒。夏,齊國夏帥師伐我西鄙。公會晉師於瓦。公至自瓦。秋七月戊辰,陳侯柳卒。晉士鞅帥師侵鄭,遂侵衛。葬曹靖公。九月,葬陳懷公。季孫斯、仲孫何忌帥師侵衛。冬,衛侯、鄭伯盟於曲濮。從祀先公。盜竊寶玉、大弓。
【経】八年春、周天子の暦の正月、公が齊を侵襲した。公が齊を侵襲してより歸った。二月、公が齊を侵襲した。三月、公が齊を侵襲してより歸った。曹伯露が卒した。夏、齊國夏が師を率いて我が國の西部邊境を攻打した。公が瓦で晋師と會合した。公が瓦より歸った。秋七月戊辰、陳侯柳が卒した。晋士鞅が師を率いて鄭を侵襲し、続いて衛を侵襲した。曹靖公を葬った。九月、陳懷公を葬った。季孫斯・仲孫何忌が師を率いて衛を侵襲した。冬、衛侯・鄭伯が曲濮で結盟した。位次に按りて先公を祭祀した。盜賊が寶玉・大弓を偷走した。
【傳】八年春,王正月,公侵齊,門於陽州。士皆坐列,曰:“顏高之弓六鈞。”皆取而傳觀之。陽州人出,顏高奪人弱弓,籍丘子鉏擊之,與一人俱斃。
【伝】八年春、周天子の暦の正月、公が齊を侵襲し、陽州の城門を攻打した。士が皆行列を坐成して曰わく、「顏高の弓は六鈞あり」。皆持ち來りて傳看した。陽州人が出戰し、顏高が他人の弱弓を搶い、籍丘子鉏が彼を撃打し、彼と一起に一人ありて皆倒地した。
偃,且射子鉏,中頰,殪。顏息射人中眉,退曰:“我無勇,吾志其目也。”師退,冉猛偽傷足而先。其兄會乃呼曰:“猛也殿!”二月己丑,單子伐穀城,劉子伐儀栗。辛卯,單子伐簡城,劉子伐盂,以定王室。
顏高が倒下し、なお子鉏を射て面頰に中り、子鉏が死んだ。顏息が人を射て眉毛に中り、退きて曰わく、「我は勇なく、我は本より彼の眼睛を射んと欲せり」。軍隊が撤退し、冉猛が脚を傷したを偽りて前に走った。その兄會がここに喊して曰わく、「猛來りて殿後せよ!」。二月己丑、單子が穀城を伐ち、劉子が儀栗を伐った。辛卯、單子が簡城を伐ち、劉子が盂を伐ち、以て王室を安定せしめた。
趙鞅言於晉侯曰:“諸侯唯宋事晉,好逆其使,猶懼不至。今又執之,是絕諸侯也。”將歸樂祁。士鞅曰:“三年止之,無故而歸之,宋必叛晉。“獻子私謂子梁曰:“寡君懼不得事宋君,是以止子。子姑使溷代子。”子梁以告陳寅,陳寅曰:“宋將叛晉,是棄溷也,不如侍之。”樂祁歸,卒於大行。士鞅曰:“宋必叛,不如止其屍以求成焉。”乃止諸州。
趙鞅が晋侯に對して曰わく、「諸侯にはただ宋のみが晋に事奉す。好くその使者を迎接すれば、なお來らざるを怕れん。今また彼を捉えるは諸侯を斷絕するなり」。將に樂祁を放回せんとした。士鞅が曰わく、「三年を扣留し、故なく放回せば、宋は必ず晋を背叛せん」。献子が私に子梁に對して曰わく、「寡君は能く宋君に事奉せざるを怕れ、ゆえにあなたを扣留せり。あなたは姑く溷をしてあなたに替代せしめよ」。子梁が陳寅に告げ、陳寅が曰わく、「宋は將に晋を背叛せん。これは溷を拋棄するなり。待つに如かず」。樂祁が歸り、大行で死んだ。士鞅が曰わく、「宋は必ず背叛せん。彼の尸身を扣留して以て和を求むるに如かず」。ここに州で扣留した。
公侵齊,攻廩丘之郛。主人焚沖,或濡馬褐以救之,遂毀之。主人出,師奔。
公が齊を侵襲し、廩丘の外城を攻打した。城を守る人が火を放ちて衝車を燒き、或る人が馬衣を沾濕して往きて救火し、ここに外城を毀した。城を守る人が出戰し、魯師が奔逃した。
陽虎偽不見冉猛者,曰:“猛在此,必敗。”猛逐之,顧而無繼,偽顛。虎曰:“盡客氣也。”苫越生子,將待事而名之。陽州之役獲焉,名之曰陽州。
陽虎が冉猛を見ざるを偽って曰わく、「猛がここに在れば、必ず能く彼らを打敗せん」。猛が追い出るも、回頭すれば後繼なく、跌倒を偽った。虎が曰わく、「全是表面上の客氣なり」。苫越が兒子を生み、將に事あれば再び命名せんと待った。陽州のこの一戰に俘獲ありて、彼に起きて陽州と名づけた。
夏,齊國夏、高張伐我西鄙。晉士鞅、趙鞅、荀寅救我。公會晉師於瓦。範獻子執羔,趙簡子、中行文子皆執雁。魯於是始尚羔。
夏、齊國夏・高張が我が國の西部邊境を攻打した。晋士鞅・趙鞅・荀寅が來りて我が國を救った。公が瓦で晋師と會合した。范献子が羔を持ち、趙簡子・中行文子が皆雁を持った。魯はこれより羔を以て尊と為し始めたり。
