襄公(元年~三十一年)
【經】六年春王三月,壬午,杞伯姑容卒。夏,宋華弱來奔。秋,杞葬桓公。
【経】六年春、周天子の暦の三月壬午、杞伯姑容が死去した。夏、宋の華弱が奔り来た。秋、杞桓公を葬った。底本の「杞葬桓公」は即ち葬杞桓公。
滕子來朝。莒人滅鄫。冬,叔孫豹如邾,季孫宿如晉。十有二月,齊侯滅萊。
滕子が朝見に来た。莒人は鄫を滅ぼした。冬、叔孫豹は邾に行き、季孫宿は晋に行った。十二月、斉侯は萊を滅ぼした。
【傳】六年春,杞桓公卒,始赴以名,同盟故也。
【伝】六年春、杞桓公が死去し、始めて名を用いて訃告した。同盟の故である。
宋華弱與樂轡少相狎,長相優,又相謗也。子蕩怒,以弓梏華弱於朝。平公見之,曰:“司武而梏於朝,難以勝矣!”遂逐之。夏,宋華弱來奔。司城子罕曰:“同罪異罰,非刑也。專戮於朝,罪孰大焉!”亦逐子蕩。子蕩射子罕之門,曰:“幾日而不我從!”子罕善之如初。
宋の華弱と楽轡は少時に相親暱し、長じて相戯謔し、また相毀謗した。子蕩は怒り、弓をもって朝廷で華弱を梏した。平公は見て言った、「司武を為る者が朝廷で梏されるは、勝ち難し!」こうして彼を逐った。夏、宋の華弱が奔り来た。司城子罕は言った、「同じ罪に異なる罰は、刑ではない。朝廷で刑戮を専擅するは、罪はこれより大きいあらんや!」子蕩もまた逐った。子蕩は子罕の門を射て言った、「数日たらずして尚我に従わずや!」子罕は尚当初のように彼を善待した。
秋,滕成公來朝,始朝公也。
秋、滕成公が朝見に来た。初めて襄公に朝見したのだ。
莒人滅鄫,鄫恃賂也。
莒人が鄫を滅ぼしたのは、鄫が財貨を恃んだからである。
冬,穆叔如邾,聘,且修平。
冬、穆叔は邾に行き、聘問し、かつ和好を重修した。
晉人以鄫故來討,曰:“何故亡鄫?”季武子如晉見,且聽命。
晋人は鄫の故のために来て討伐し、言った、「なぜ鄫を滅ぼした」と。季武子は晋に進見し、かつ命を聴いた。
十一月,齊侯滅萊,萊恃謀也。於鄭子國之來聘也,四月,晏弱城東陽,而遂圍萊。甲寅,堙之環城,傅於堞。及杞桓公卒之月,乙未,王湫帥師及正輿子、棠人軍齊師,齊師大敗之。丁未,入萊。萊共公浮柔奔棠。正輿子、王湫奔莒,莒人殺之。四月,陳無宇獻萊宗器於襄宮。晏弱圍棠,十一月丙辰,而滅之。遷萊於郳。高厚、崔杼定其田。
十一月、斉侯は萊を滅ぼした。萊が計謀を恃んだからである。鄭の子国が聘問に来た時、四月、晏弱は東陽城を修築し、続けて萊を包囲した。甲寅、土山を堆して城壁を環繞し、女牆に逼った。杞桓公が死去したあの月に至り、乙未、王湫は軍を率いて正輿子・棠人とともに斉軍を抗撃したが、斉軍は彼らを大いに破った。丁未、萊に入った。萊共公浮柔は棠に逃げ奔った。正輿子・王湫は莒に逃げ奔り、莒人は彼らを殺した。四月、陳無宇は萊の宗廟の器物を襄宮に献じた。晏弱は棠を包囲し、十一月丙辰、これを滅ぼした。萊人を郳に遷した。高厚・崔杼はその地の田を划定した。
◇襄公七年
◇襄公七年
【經】七年春,郯子來朝。夏四月,三卜郊,不從,乃免牲。小邾子來朝。
【経】七年春、郯子が朝見に来た。夏四月、郊祭のために三度卜したが、皆従わず、こうして犠牲を免じた。小邾子が朝見に来た。
城費。秋,季孫宿如衛。八月,螽。冬十月,衛侯使孫林父來聘。壬戌,及孫林父盟。楚公子貞帥師圍陳。十有二月,公會晉侯、宋公、陳侯、衛侯、曹伯、莒子、邾子於鄬。鄭伯髡頑如會,未見諸侯,丙戌,卒於鄵。陳侯逃歸。
費城を修築した。秋、季孫宿は衛に行った。八月、蝗災があった。冬十月、衛侯は孫林父を遣わして聘問させた。壬戌、孫林父と盟を結んだ。楚の公子貞が軍を率いて陳を包囲した。十二月、襄公は晋侯・宋公・陳侯・衛侯・曹伯・莒子・邾子と鄬で会見した。鄭伯髡頑は会に赴いたが、まだ諸侯に見えず、丙戌、鄵で死去した。陳侯は逃げ帰った。
【傳】七年春,郯子來朝,始朝公也。
【伝】七年春、郯子が朝見に来た。初めて襄公に朝見したのだ。
夏四月,三卜郊,不從,乃免牲。孟獻子曰:“吾乃今而後知有卜筮。夫郊,祀后稷以祈農事也。是故啟蟄而郊,郊而後耕。今既耕而卜郊,宜其不從也。”
夏四月、郊祭のために三度卜したが、皆従わず、こうして犠牲を免じた。孟献子は言った、「私は今日に至って初めて卜筮あるを知った。郊祭は、后稷を祭祀して農事を祈るもの。だから啓蟄に郊祭を行い、郊祭の後に耕種する。今すでに耕種したのに郊祭のために卜すは、従わぬが当然だ」と。
南遺為費宰。叔仲昭伯為隧正,欲善季氏而求媚於南遺,謂遺:“請城費,吾多與而役。”故季氏城費。
南遺は費の邑宰を為った。叔仲昭伯は隧正を為り、季氏に媚び南遺に諂おうとして、遺に言った、「費城を修築することを請います。私はあなたに役徒を多く与えます」と。だから季氏は費城を修築した。
小邾穆公來朝,亦始朝公也。
小邾穆公が朝見に来た。これも初めて襄公に朝見したのだ。
秋,季武子如衛,報子叔之聘,且辭緩報,非貳也。
秋、季武子は衛に行き、子叔の聘問に報い、かつ回報が晩れたを解釈し、二心ではないとした。
冬十月,晉韓獻子告老。公族穆子有廢疾,將立之。辭曰:“《詩》曰:‘豈不夙夜,謂行多露。’又曰:‘弗躬弗親,庶民弗信。’無忌不才,讓,其可乎?請立起也!與田蘇遊,而曰好仁。《詩》曰:‘靖共爾位,好是正直。神之聽之,介爾景福。’恤民為德,正直為正,正曲為直,參和為仁。如是,則神聽之,介福降之。立之,不亦可乎?”庚戌,使宣子朝,遂老。晉侯謂韓無忌仁,使掌公族大夫。
冬十月、晋の韓献子は告老した。公族穆子に疾があった。彼を立てようとしたが、彼は推辞して言った、「《詩》に言う、『朝夕に奔走せぬを欲せざらんや、ただ路上に露多し』と。また言う、『自ら行わざれば、百姓は信ぜず』と。无忌は才能なく、位を譲る、可か。起を立てることを請います!彼は田蘇と交游し、田蘇は彼が仁を好むと言います。《詩》に言う、『安静恭敬に汝の職位を守り、これ正直を好め。神はこれを聞き、大福を汝に賜う』と。百姓を体恤するは徳、自らを正しくするは正、人の曲がるを直くするは直、三者が会合するは仁。このようであれば、神は彼を聴き、大福が降る。彼を立てるは、また可ではないか」と。庚戌、宣子に朝見させ、こうして告老した。晋侯は韓无忌を仁とし、彼に公族大夫を掌らせた。
衛孫文子來聘,且拜武子之言,而尋孫桓子之盟。公登亦登。叔孫穆子相,趨進曰:“諸侯之會,寡君未嘗後衛君。今吾子不後寡君,寡君未知所過。吾子其少安!”孫子無辭,亦無悛容。
衛の孫文子が聘問に来て、かつ武子の言を拜拜謝し、孫桓子の盟を重温した。襄公が階に登ると、彼もまた階に登った。叔孫穆子が相礼し、歩を進めて言った、「諸侯の会見に、寡君はかつて衛君に後れたことがない。今あなたは寡君に後れず、寡君はまだ過ちの所在を知りません。あなたの少し緩めるを請います!」孫子は言なく、また悔改の神色もなかった。
穆叔曰:“孫子必亡。為臣而君,過而不悛,亡之本也。《詩》曰:‘退食自公,委蛇委蛇。’謂從者也。衡而委蛇必折。”
穆叔は言った、「孫子は必ず亡びる。臣を為るに国君のごとく、過ちあって改めざるは、亡びの根本。《詩》に言う、『公朝より退きて食す、従容自得なり』と。順従する人を言う。横逆にして従容なれば、必ず折れる」と。
楚子囊圍陳,會於鄬以救之。
楚の子囊が陳を包囲し、鄬で会見して救いに行った。
鄭僖公之為大子也,於成之十六年,與子罕適晉,不禮焉。又與子豐適楚,亦不禮焉。及其元年,朝於晉。子豐欲愬諸晉而廢之,子罕止之。及將會於鄬,子駟相,又不禮焉。侍者諫,不聽,又諫,殺之。及鄵,子駟使賊夜弒僖公,而以瘧疾赴於諸侯。簡公生五年,奉而立之。
鄭僖公が太子の時、成公十六年に、子罕とともに晋に行き、礼をもって相待せず。また子豊とともに楚に行き、また礼をもって相待せず。彼の元年に及び、晋に朝見した。子豊は晋に訴えて彼を廃しようとしたが、子罕が遮り止めた。まさに鄬で会見せんとして、子駟が相礼し、また礼をもって相待せず。侍者が勧諫しても聴かず、再び勧めると、侍者を殺した。鄵に至り、子駟は賊人を遣わして夜に僖公を弑し、瘧疾をもって諸侯に訃告した。簡公は生まれて五年、奉り立てた。
陳人患楚。慶虎、慶寅謂楚人曰:“吾使公子黃往而執之。”楚人從之。二慶使告陳侯於會,曰:“楚人執公子黃矣!君若不來,群臣不忍社稷宗廟,懼有二圖。”陳侯逃歸。
陳人は楚を憂えた。慶虎・慶寅は楚人に言った、「われわれは公子黄を往かせる。あなたたちは彼を執えよ」と。楚人は従った。二慶は人を遣わして会上で陳侯に告げて言わせた、「楚人はすでに公子黄を執えました!君王がもし来なければ、群臣は社稷宗廟を忍ばず、おそらく第二の打算ありでしょう」と。陳侯は逃げ帰った。
◇襄公八年
◇襄公八年
【經】八年春王正月,公如晉。夏,葬鄭僖公。鄭人侵蔡,獲蔡公子燮。季孫宿會晉侯、鄭伯、齊人、宋人、衛人、邾人於邢丘。公至自晉。莒人伐我東鄙。
【経】八年春、周天子の暦の正月、襄公は晋に行った。夏、鄭僖公を葬った。鄭人は蔡を侵伐し、蔡の公子燮を俘獲した。季孫宿は晋侯・鄭伯・斉人・宋人・衛人・邾人と邢丘で会見した。襄公は晋から帰った。莒人がわが国の東部辺境を攻めた。
秋九月,大雩。冬,楚公子貞帥師伐鄭。晉侯使士匄來聘。
秋九月、大雩を行った。冬、楚の公子貞が軍を率いて鄭を攻めた。晋侯は士匄を遣わして聘問させた。
【傳】八年春,公如晉,朝,且聽朝聘之數。
【伝】八年春、襄公は晋に行き、朝見し、かつ朝聘の礼数を聴いた。
鄭群公子以僖公之死也,謀子駟。子駟先之。夏四月庚辰,闢殺子狐、子熙、子侯、子丁。孫擊、孫惡出奔衛。
鄭の諸公子は僖公の死によって、子駟に対するを謀った。子駟は先に手を下した。夏四月庚辰、子狐・子熙・子侯・子丁を辟して殺した。孫撃・孫悪は衛に出奔した。
庚寅,鄭子國、子耳侵蔡,獲蔡司馬公子燮。鄭人皆喜,唯子產不順,曰:“小國無文德,而有武功,禍莫大焉。楚人來討,能勿從乎?從之,晉師必至。
庚寅、鄭の子国・子耳が蔡を侵伐し、蔡の司馬公子燮を俘獲した。鄭人は皆喜んだが、ただ子産のみ附和せず、言った、「小国は文徳なく、武功あり。禍はこれより大きいなし。楚人が来て討伐せば、聴従せずにいられましょうか。聴従すれば、晋軍は必ず至る。
晉、楚伐鄭,自今鄭國不四五年,弗得寧矣。”子國怒之曰:“爾何知?國有大命,而有正卿。童子言焉,將為戮矣。”
(子産は続けて言う:)晋・楚が鄭を攻めれば、今より鄭は四五年なしに、安寧を得られない」と。子国は彼に怒って言った、「あなたは何を知る。国家に大命あり、また正卿あり。小児が来て話すは、まさに殺されるだろう」と。
五月甲辰,會於邢丘,以命朝聘之數,使諸侯之大夫聽命。季孫宿、齊高厚、宋向戌、衛寧殖、邾大夫會之。鄭伯獻捷於會,故親聽命。大夫不書,尊晉侯也。
五月甲辰、邢丘で会見し、朝聘の礼数を規定し、諸侯の大夫に命を聴かせた。季孫宿・斉の高厚・宋の向戌・衛の寧殖・邾の大夫が参加した。鄭伯は会上で俘虜を献じたので、自ら命を聴いた。大夫の名を《春秋》に記さないのは、晋侯を尊重するためである。
莒人伐我東鄙,以疆鄫田。
莒人がわが国の東部辺境を攻めたのは、鄫田の疆界を划定に来たのだ。
秋九月,大雩,旱也。
秋九月、大雩を行ったのは、旱のためである。
冬,楚子囊伐鄭,討其侵蔡也。
冬、楚の子囊が鄭を攻めた。蔡を侵伐したことを討伐したのだ。
子駟、子國、子耳欲從楚,子孔、子蟜、子展欲待晉。子駟曰:“《周詩》有之曰:‘俟河之清,人壽幾何?兆雲詢多,職競作羅。’謀之多族,民之多違,事滋無成。民急矣,姑從楚以紓吾民。晉師至,吾又從之。敬共幣帛,以待來者,小國之道也。犠牲玉帛,待於二競,以待強者而庇民焉。寇不為害,民不罷病,不亦可乎?”子展曰:“小所以事大,信也。小國無信,兵亂日至,亡無日矣。
子駟・子国・子耳は楚に従おうと欲し、子孔・子蟜・子展は晋を待とうとした。子駟は言った、「《周詩》にこの言あり、『黄河水の清まるを俟てば、人の寿命はいかほどか。占兆を問うこと多くしては、ただ競い羅網を結ぶのみ』と。謀る族氏多ければ、百姓の背くも多く、事はさらに成らず。百姓は危急である。しばらく楚に従いてわが百姓を緩解せん。晋軍が至れば、われわれはまた晋に従わん。恭しく币帛を備えて、来る者を待つは、小国の道である。犠牲玉帛を両辺の境に置き、強者の来て百姓を庇護するを待つ。寇は害を為さず、百姓は疲病せず。可ではないか」と。子展は言った、「小国が大国に事える所以は、信用である。小国に信用なくば、兵乱は日々至り、亡びるに数日ない。
五會之信,今將背之,雖楚救我,將安用之?親我無成,鄙我是欲,不可從也。
(子展は続けて言う:)五度の会見の信用を、今まさに背棄せんとする。たとえ楚がわれわれを救援しても、何の用があろう。われわれに親しんで事を成せず、われわれを辺邑とするこそ彼らの願いである。聴従すべからず。
不如待晉。晉君方明,四軍無闕,八卿和睦,必不棄鄭。楚師遼遠,糧食將盡,必將速歸,何患焉?舍之聞之:‘杖莫如信。’完守以老楚,杖信以待晉,不亦可乎?”子駟曰:“《詩》云:‘謀夫孔多,是用不集。發言盈庭,誰敢執其咎?如匪行邁謀,是用不得於道。’請從楚,騑也受其咎。”乃及楚平。
(子展は続けて言う:)晋を待つに如かず。晋君はまさに明察で、四軍に欠員なく、八卿は和睦し、必ず鄭を棄てない。楚軍は路遠く、糧食は尽きようとして、必ず速やかに帰る。何を憂えるか。舍之が聞くに、『仗恃すべきは信用より善きはなし』と。守備を完善して楚軍を疲弊させ、信用を仗恃して晋を待つ。可ではないか」と。子駟は言った、「《詩》に言う、『主意を出す人が多すぎて、成功できざるゆえ。発言は庭中に充満し、誰が敢えて過ちを承当せん。歩かずして人と商量するがごとく、正道を得られざるゆえ』と。楚に従うを請う。𬴂が来て過ちを承当せん」と。こうして楚と講和した。
使王子伯駢告於晉,曰:“君命敝邑:‘修而車賦,儆而師徒,以討亂略。’蔡人不從,敝邑之人,不敢寧處,悉索敝賦,以討於蔡,獲司馬燮,獻於邢丘。
王子伯駢を遣わして晋に告げさせて言わせた、「君王は敝邑に命じて、『なんじらの車賦を整治し、なんじらの軍隊を警戒し、もって乱と侵奪を討伐せよ』と。蔡人は聴従せず、敝邑の人は安処すること敢えてせず、敝邑の軍賦を捜尽して、蔡を討伐し、司馬燮を俘獲し、邢丘で進献しました。
今楚來討曰:‘女何故稱兵於蔡?’焚我郊保,馮陵我城郭。敝邑之眾,夫婦男女,不皇啟處,以相救也。翦焉傾覆,無所控告。民死亡者,非其父兄,即其子弟,夫人愁痛,不知所庇。民知窮困,而受盟於楚,狐也與其二三臣不能禁止。
(伯駢は続けて言う:)今楚が来て討伐して言う、『なんじらはなぜ蔡に兵を用いたか』と。わが郊外の城堡を焚焼し、わが城郭を侵陵しました。敝邑の衆人、夫婦男女、安処の閑なく、互いに救援しました。翦滅傾覆されるがごとく、控告する場所なし。百姓の死亡したは、父兄でなければ子弟で、人々皆愁痛し、庇護の所在を知りません。百姓は窮困を知り、楚で盟約を受けました。狐とあの数名の臣が禁止できるものではありません。
不敢不告。”知武子使行人子員對之曰:“君有楚命,亦不使一介行李告於寡君,而即安於楚。君之所欲也,誰敢違君?寡君將帥諸侯以見於城下,唯君圖之!”晉範宣子來聘,且拜公之辱,告將用師於鄭。公享之,宣子賦《摽有梅》。
(伯駢は続けて言う:)告げずにはいられません」と。知武子は行人子員を遣わして答えさせて言わせた、「君王は楚の命令あれば、一つの行李も遣わして寡君に告げずして、即ち楚に安んずる。これは君王の願いである。誰が敢えて君王に背こうか。寡君は諸侯を率いて城下で見えるだろう。君王の考慮を請う!」晋の范宣子が聘問に来て、かつ襄公の辱臨を拜謝し、鄭に兵を用いることを告知した。襄公は享礼を設けて招待し、宣子は《摽有梅》を賦した。
季武子曰:“誰敢哉!今譬於草木,寡君在君,君之臭味也。歡以承命,何時之有?”武子賦《角弓》。賓將出,武子賦《彤弓》。宣子曰:“城濮之役,我先君文公獻功于衡雍,受彤弓於襄王,以為子孫藏。匄也,先君守官之嗣也,敢不承命?”君子以為知禮。
季武子は言った、「誰が敢えて時に及ばざらん!今草木をもって比するに、寡君は君王に対して、君王の匂いです。喜んで命令を承る、どうして時がありましょうか」と。武子は《角弓》を賦した。賓がまさに出ようとするに、武子は《彤弓》を賦した。宣子は言った、「城濮のあの戦いに、わが先君文公は衡雍で功を献じ、襄王から彤弓を受けて、子孫に蔵せしめた。匄は先君の守官の後嗣である。敢えて命令を承えざらんや」と。君子は彼が礼を知るとした。
◇襄公九年
◇襄公九年
【經】九年春,宋災。夏,季孫宿如晉。五月辛酉,夫人姜氏薨。秋八月癸未,葬我小君穆姜。冬,公會晉侯、宋公、衛侯、曹伯、莒子、邾子、滕子、薛伯、杞伯,小邾子、齊世子光伐鄭。十有二月己亥,同盟於戲。楚子伐鄭。
【経】九年春、宋に火災があった。夏、季孫宿は晋に行った。五月辛酉、夫人姜氏が死去した。秋八月癸未、わが小君穆姜を葬った。冬、襄公は晋侯・宋公・衛侯・曹伯・莒子・邾子・滕子・薛伯・杞伯・小邾子・斉世子光と会合して鄭を攻めた。十二月己亥、戯でともに盟を結んだ。楚子が鄭を攻めた。
【傳】九年春,宋災。樂喜為司城以為政。使伯氏司裡,火所未至,徹小屋,塗大屋;陳畚挶,具綆缶,備水器;量輕重,蓄水潦,積土塗;巡丈城,繕守備,表火道。使華臣具正徒,令隧正納郊保,奔火所。使華閱討右官,官庀其司。
【伝】九年春、宋に火災があった。楽喜が司城を為り執政した。伯氏に里巷を掌らせ、火がまだ至らぬ所では、小屋を撤去し、泥をもって大屋を塗り、畚箕と抬土の器具を陈列し、井縄と瓦罐を備え、水を盛る器具を準備した。軽重を估量し、潦水を蓄積し、泥土を堆積した。城墙を巡視し、守備を修繕し、火道を標明した。華臣に徒役を備えさせ、隧正に郊外の城堡の徒卒を納めさせ、火の起こった所に奔赴させた。華閲に右師の属官を督察させ、官員に各々の職事を備えさせた。
向戌討左,亦如之。使樂遄庀刑器,亦如之。使皇鄖命校正出馬,工正出車,備甲兵,庀武守。使西鉏吾庀府守。令司宮、巷伯儆宮。二師令四鄉正敬享,祝宗用馬於四墉,祀盤庚於西門之外。
向戌に左師を督察させ、またこのようにした。楽遄に刑器を備えさせ、またこのようにした。皇鄖に校正を命じて馬を出し、工正に車を出し、甲兵を備え、武備の職守を整治させた。西鉏吾に府庫の職守を整治させた。司宮・巷伯に宮中を警戒するよう命じた。両師に四つの郷正を命じて恭敬に祭祀させ、祝宗に四面の城墙上で馬をもって祭祀させ、西門の外で盤庚を祭祀させた。
晉侯問於士弱曰:“吾聞之,宋災,於是乎知有天道。何故?”對曰:“古之火正,或食於心,或食於咮,以出內火。是故咮為鶉火,心為大火。陶唐氏之火正閼伯居商丘,祀大火,而火紀時焉。相土因之,故商主大火。商人閱其禍敗之釁,必始於火,是以日知其有天道也。”公曰:“可必乎?”對曰:“在道。國亂無象,不可知也。”
晋侯は士弱に問うて言った、「私が聞くに、宋に火災あり、これによって天道あるを知ると。何の故か」と。答えて言った、「古の火正は、あるいは心宿に配祭し、あるいは咮宿に配祭して、もって大火を出納した。だから咮は鶉火、心は大火である。陶唐氏の火正閼伯は商丘に住み、大火を祭祀し、火をもって時を記した。相土がこれを沿袭したので、商は大火を主とした。商人は禍敗の縫隙を考察して、必ず火より始まる。だから今天道あるを知る」と。晋侯は言った、「必ずできるか」と。答えて言った、「道に在り。国が乱れれば征象なく、知るべからず」と。
夏,季武子如晉,報宣子之聘也。
夏、季武子は晋に行き、宣子の聘問に報いた。
穆姜薨於東宮。始往而筮之,遇《艮》之八ⅶⅶ。史曰:“是謂《艮》之《隨》ⅷⅲ。《隨》其出也。君必速也。”姜曰:“亡。是於《周易》曰:‘《隨》,元亨利貞,無咎。’元,體之長也;亨,嘉之會也;利,義之和也;貞,事之幹也。體仁足以長人,嘉德足以合禮,利物足以和義,貞固足以幹事,然,故不可誣也,是以雖《隨》無咎。今我婦人而與於亂。固在下位而有不仁,不可謂元。不靖國家,不可謂亨。作而害身,不可謂利。棄位而姣,不可謂貞。
穆姜は東宮で死去した。初めに入った時これのために占筮し、《艮》の八を得た。史官は言った、「これを《艮》が《随》に変ずと言う。《随》は出るである。君は必ず速やかに出るでしょう」と。姜は言った、「その事なし。これは《周易》に言う、『《随》、元亨利貞、災咎なし』と。元は、身の首。亨は、嘉美の会合。利は、義の和。貞は、事の骨干。体仁あれば足りて人の首を為し、嘉徳あれば足りて礼に配合し、利物あれば足りて義を和し、貞固あれば足りて事の骨干を為す。このようであれば、だから欺くべからず。これによって《随》と雖も災咎なし。今私は婦人にして乱に参与した。本は下位に在りて不仁、元と言うべからず。国家を安定できず、亨と言うべからず。起きて身を傷る、利と言うべからず。位を棄てて姣好を修飾する、貞と言うべからず。
有四德者,《隨》而無咎。我皆無之,豈《隨》也哉?我則取惡,能無咎乎?必死於此,弗得出矣。”
(穆姜は続けて言う:)この四つの徳行ある者は、《随》にしてこそ災咎なし。私は皆なし。なお《随》であろうか。私は自ら悪を取った。災咎なきを得られようか。必ずここで死し、出ること能わず」と。
秦景公使士雃乞師於楚,將以伐晉,楚子許之。子囊曰:“不可。當今吾不能與晉爭。晉君類能而使之,舉不失選,官不易方。其卿讓於善,其大夫不失守,其士競於教,其庶人力於農穡。商工皂隸,不知遷業。韓厥老矣,知罃稟焉以為政。範匄少於中行偃而上之,使佐中軍。韓起少於欒黶,而欒黶、士魴上之,使佐上軍。魏絳多功,以趙武為賢而為之佐。君明臣忠,上讓下競。當是時也,晉不可敵,事之而後可。君其圖之!”王曰:“吾既許之矣。雖不及晉,必將出師。”秋,楚子師於武城以為秦援。秦人侵晉,晉飢,弗能報也。
秦景公は士雃を遣わして楚に出兵を請わせ、晋を攻めようとした。楚子は許した。子囊は言った、「不可。今われわれは晋と争えません。晋君は才能によって分類して用い、推举は選ぶ人を失わず、官職は常道を変えず。卿は善人に譲り、大夫は職守を失わず、士は教訓において勝ちを争い、庶人は農事に力す。商工皂隸は、改行を知らず。韓厥は告老し、知䓨が彼に継いで執政する。范匄は中行偃より年少いが彼の上にあり、彼に中軍を輔佐させる。韓起は欒黶より年少い。欒黶・士魴は彼を上におき、彼に上軍を輔佐させる。魏絳は功労多く、趙武が賢能なるがゆえに彼の輔佐を為る。国君は明に臣子は忠、上は譲り下は勝ちを争う。この時に、晋は当たるべからず。これに事えてこそ可です。君王の考慮を請います!」楚王は言った、「私はすでに許した。晋に及ばずとも、必ず出兵する」と。秋、楚子は武城に軍を駐めて秦の後援とした。秦人は晋を侵伐し、晋は饑饉で、報復できなかった。
冬十月,諸侯伐鄭。庚午,季武子、齊崔杼、宋皇鄖從荀罃、士匄門於鄟門。衛北宮括、曹人、邾人從荀偃、韓起門於師之梁。滕人、薛人從欒黶、士魴門於北門。杞人、郳人從趙武、魏絳斬行栗。甲戌,師於汜,令於諸侯曰:“修器備,盛餱糧,歸老幼,居疾於虎牢,肆眚,圍鄭。”鄭人恐,乃行成。中行獻子曰:“遂圍之,以待楚人之救也而與之戰。不然,無成。”知武子曰:“許之盟而還師,以敝楚人。吾三分四軍,與諸侯之銳以逆來者,於我未病,楚不能矣,猶愈於戰。暴骨以逞,不可以爭。大勞未艾。君子勞心,小人勞力,先王之制也”諸侯皆不欲戰,乃許鄭成。十一月己亥,同盟於戲,鄭服也。
冬十月、諸侯は鄭を攻めた。庚午、季武子・斉の崔杼・宋の皇鄖は荀䓨・士匄に従いて鄟門を攻めた。衛の北宮括・曹人・邾人は荀偃・韓起に従いて師之梁を攻めた。滕人・薛人は欒黶・士魴に従いて北門を攻めた。杞人・郳人は趙武・魏絳に従いて路上の栗樹を斫り落とした。甲戌、氾に軍を駐め、諸侯に下令して言った、「器物装備を修治し、乾糧を装い、老幼を送り帰り、病人を虎牢に居らせ、過ある者を寛赦し、鄭を包囲せよ」と。鄭人は懼れ、こうして和を求めた。中行献子は言った、「これによって包囲し、楚人が救いに来るを待ってから彼らと交戦せよ。さもなくば、真の講和なし」と。知武子は言った、「盟約を許して軍を撤し、もって楚人を疲弊させよ。われわれは四軍を三分し、諸侯の精鋭とともに来る者を迎撃すれば、われわれに未だ病困なく、楚は能わざる。なお交戦に勝る。尸骨を暴露して逞快するは、争うべからず。大労はまだ尽きず。君子は心を労し、小人は力を労すは、先王の制度である」と。諸侯は皆交戦を欲せず、こうして鄭の講和を許した。十一月己亥、戯でともに盟を結んだ。鄭が帰服したからである。
將盟,鄭六卿公子騑、公子發、公子嘉、公孫輒、公孫蠆、公孫舍之及其大夫、門子皆從鄭伯。晉士莊子為載書,曰:“自今日既盟之後,鄭國而不唯晉命是聽,而或有異志者,有如此盟。”公子騑趨進曰:“天禍鄭國,使介居二大國之間。大國不加德音而亂以要之,使其鬼神不獲歆其禋祀,其民人不獲享其土利,夫婦辛苦墊隘,無所底告。自今日既盟之後,鄭國而不唯有禮與強可以庇民者是從,而敢有異志者,亦如之。”荀偃曰:“改載書。”公孫舍之曰:“昭大神,要言焉。若可改也,大國亦可叛也。”知武子謂獻子曰:“我實不德,而要人以盟,豈禮也哉!非禮,何以主盟?姑盟而退,修德息師而來,終必獲鄭,何必今日?我之不德,民將棄我,豈唯鄭?若能休和,遠人將至,何恃於鄭?”乃盟而還。
まさに盟を結ばんとして、鄭の六卿公子𬴂・公子発・公子嘉・公孫輒・公孫蠆・公孫舍之および大夫・門子は皆鄭伯に従った。晋の士荘子が盟書を為りて言った、「今日盟を結ぶより後、鄭国もし晋の命令のみに聴従せずして、あるいは別の打算あらば、あの盟約の言うがごとくあれ」と。公子𬴂は歩を進めて言った、「天は鄭国に禍を降し、両大国の間に夾ませた。大国は善言を与えずして乱をもって約束し、その鬼神に祭祀を享受させず、百姓に土地の利を享受させず、夫婦は辛苦困頓し、告げる場所なし。今日盟を結ぶより後、鄭国はもし礼ありかつ強大にして百姓を庇護できるに従うのみならずして、敢えて別の打算あらば、またこのごとくあれ」と。荀偃は言った、「盟書を改めよ」と。公孫舍之は言った、「すでに大神に昭告し、言を約定した。もし改むべければ、大国もまた背叛できる」と。知武子は献子に言った、「われわれは実に徳を修めずして、盟約をもって人を約束する。あに礼ならんや!礼ならざれば、何をもって盟を主持せん。しばらく盟を結んで退き、徳を修め軍を休整して再来すれば、終に必ず鄭を得る。何必今日にあらん。われわれが徳を修めざれば、百姓はまさにわれわれを棄てん。どうして鄭のみならん。もし美好和睦できれば、遠人は将に至らん。何必鄭を仗恃せん」と。こうして盟を結んで帰った。
晉人不得志於鄭,以諸侯復伐之。十二月癸亥,門其三門。閏月,戊寅,濟於陰阪,侵鄭。次於陰口而還。子孔曰:“晉師可擊也,師老而勞,且有歸志,必大克之。”子展曰:“不可。”
晋人は鄭で志を得ず、諸侯を率いて再び攻めた。十二月癸亥、その三つの城門を攻めた。閏月戊寅、陰阪で河を渡り、鄭を侵伐した。陰口に駐屯して帰った。子孔は言った、「晋軍は攻撃できる。軍は疲労し、かつ帰る心あり。必ず大勝できる」と。子展は言った、「不可」と。
公送晉侯。晉侯以公宴於河上,問公年,季武子對曰:“會於沙隨之歲,寡君以生。”晉侯曰:“十二年矣!是謂一終,一星終也。國君十五而生子。冠而生子,禮也,君可以冠矣!大夫盍為冠具?”武子對曰:“君冠,必以祼享之禮行之,以金石之樂節之,以先君之祧處之。今寡君在行,未可具也。請及兄弟之國而假備焉。”晉侯曰:“諾。”公還,及衛,冠於成公之廟,假鐘磬焉,禮也。
襄公は晋侯を送った。晋侯は襄公と黄河の辺で宴飲し、襄公の年紀を問うと、季武子は答えて言った、「沙随で会見したあの年、寡君は生まれた」と。晋侯は言った、「十二年か!これを一終と言う。一つの星の周期である。国君は十五歳で子を生む。冠礼を行って後子を生むは礼である。君王は冠礼を行うべし!大夫は何ぞ冠礼の用具を備えざるか」と。武子は答えて言った、「国君が冠礼を行うは、必ず祼享の礼をもって行い、金石の音楽をもって節制し、先君の祧廟で行う。今寡君は出行中で、備えることができません。兄弟の国に至って器具を借用することを請います」と。晋侯は言った、「よし」と。襄公は帰り、衛に至り、成公の廟で冠礼を行い、鐘磬を借用した。これは礼に合う。
楚子伐鄭,子駟將及楚平。子孔、子蟜曰:“與大國盟,口血未乾而背之,可乎?”子駟、子展曰:“吾盟固云:‘唯強是從。’今楚師至,晉不我救,則楚強矣。盟誓之言,豈敢背之?且要盟無質,神弗臨也,所臨唯信。信者,言之瑞也,善之主也,是故臨之。明神不蠲要盟,背之可也。”乃及楚平。公子罷戎入盟,同盟於中分。
楚子は鄭を攻め、子駟は楚と講和しようとした。子孔・子蟜は言った、「大国と盟を結び、口血がまだ乾かぬに背棄するは、可か」と。子駟・子展は言った、「わが盟約はもとより言う、『強きに従うのみ』と。今楚軍が至り、晋はわれわれを救援せざれば、では楚こそ強きである。盟誓の言、あえて背棄せんや。しかも要挟せられた盟約は質証なく、神は降臨せず。降臨するはただ信のみ。信は、言の符瑞、善の主導、だから降臨する。明神は要挟せられた盟約を潔しとせず。背棄するは可なり」と。こうして楚と講和した。公子罷戎が入りて盟を結び、中分でともに盟を結んだ。
楚莊夫人卒,王未能定鄭而歸。
楚荘夫人が死去し、楚王は鄭を安定せぬまま帰った。
晉侯歸,謀所以息民。魏絳請施捨,輸積聚以貸。自公以下,苟有積者,盡出之。國無滯積,亦無困人。公無禁利,亦無貪民。祈以幣更,賓以特牲,器用不作,車服從給。行之期年,國乃有節。三駕而楚不能與爭。
晋侯は帰り、百姓を安息させる法を商量した。魏絳は施舍を請い、積聚を出して貸借した。公以下、積蓄ある者は、全部出した。国に滞積なく、また困乏の人もなかった。公室に禁止の利益なく、また貪婪の百姓もなかった。祈祷は币帛をもって犠牲に代え、宴賓は一頭の牲を用い、器物は新作せず、車服は足りるのみ。一年行って、国は節度あらん。三度出兵して楚はこれと争えなかった。
◇襄公十年
◇襄公十年
【經】十年春,公會晉侯、宋公、衛侯、曹伯、莒子、邾子、滕子、薛伯、杞伯、小邾子、齊世子光會吳於柤。夏,五月甲午,遂滅偪陽。公至自會。楚公子貞、鄭公孫輒帥師伐宋。晉師伐秦。秋,莒人伐我東鄙。公會晉侯、宋公、衛侯、曹伯、莒子、邾子、齊世子光、滕子、薛伯、杞伯、小邾子伐鄭。冬,盜殺鄭公子騑、公子發、公孫輒。戍鄭虎牢。楚公子貞帥師救鄭。公至自伐鄭。
【経】十年春、襄公は晋侯・宋公・衛侯・曹伯・莒子・邾子・滕子・薛伯・杞伯・小邾子・斉世子光と会合し、柤で呉に会見した。夏五月甲午、こうして偪陽を滅ぼした。襄公は会から帰った。楚の公子貞・鄭の公孫輒が軍を率いて宋を攻めた。晋軍は秦を攻めた。秋、莒人がわが国の東部辺境を攻めた。襄公は晋侯・宋公・衛侯・曹伯・莒子・邾子・斉世子光・滕子・薛伯・杞伯・小邾子と会合して鄭を攻めた。冬、盗賊が鄭の公子𬴂・公子発・公孫輒を殺した。鄭の虎牢を戍守した。楚の公子貞が軍を率いて鄭を救った。襄公は鄭を攻めたところから帰った。
【傳】十年春,會於柤,會吳子壽夢也。三月癸丑,齊高厚相大子光以先會諸侯於鍾離,不敬。士莊子曰:“高子相大子以會諸侯,將社稷是衛,而皆不敬,棄社稷也,其將不免乎!”夏四月戊午,會於柤。
【伝】十年春、柤で会見したのは、呉子寿夢に会見するである。三月癸丑、斉の高厚は太子光のために相礼し、先に鍾離で諸侯に会見したが、恭敬でなかった。士荘子は言った、「高子が太子のために相礼して諸侯に会見するは、社稷を衛護する。しかるに皆恭敬ならざるは、社稷を棄てる。おそらく免れられまい!」夏四月戊午、柤で会見した。
