襄公(元年~三十一年)
晉荀偃、士匄請伐偪陽,而封宋向戌焉。荀罃曰:“城小而固,勝之不武,弗勝為笑。”固請。丙寅,圍之,弗克。孟氏之臣秦堇父輦重如役。偪陽人啟門,諸侯之士門焉。縣門發,郰人紇抉之以出門者。狄虒彌建大車之輪而蒙之以甲以為櫓,左執之,右拔戟,以成一隊。孟獻子曰:“《詩》所謂‘有力如虎’者也。”主人縣布,堇父登之,及堞而絕之。隊則又縣之,蘇而復上者三。主人辭焉,乃退,帶其斷以徇于軍三日。
晋の荀偃・士匄は偪陽を攻めて、それを宋の向戌に封じることを請うた。荀䓨は言った、「城は小さいが堅固。勝っても勇武と算されず、勝たずば笑いとなる」と。彼らは堅く請うた。丙寅、包囲したが、攻克せず。孟氏の家臣秦堇父は輜重車を牽いて軍中に至った。偪陽人は城門を開き、諸侯の士卒は門を攻めた。懸門が下りると、郰人紇がこれを托し、城門の内の人を放出した。狄虒彌は大車の輪を立てて、鎧甲を蒙せて大盾と為し、左手に持ち、右手に戟を抜いて、自ら一隊と成した。孟献子は言った、「これが《詩》の謂う『力は虎のごとし』の人である」と。城の内の人は布を垂れ、堇父は攀じて上ったが、女牆に至ると彼らは布を割断した。堕ちて彼らはまた垂らし、蘇醒してまた上り、このように三度した。主人は彼に辞を致し、やっと退下し、あの断布を帯びて軍中を三日巡行した。
諸侯之師久於偪陽,荀偃、士匄請於荀罃曰:“水潦將降,懼不能歸,請班師。”知伯怒,投之以機,出於其間,曰:“女成二事而後告餘。餘恐亂命,以不女違。女既勤君而興諸侯,牽帥老夫以至於此,既無武守,而又欲易餘罪,曰:‘是實班師,不然克矣’。餘贏老也,可重任乎?七日不克,必爾乎取之!”五月庚寅,荀偃、士匄帥卒攻偪陽,親受矢石。甲午,滅之。書曰“遂滅偪陽”,言自會也。以與向戌,向戌辭曰:“君若猶辱鎮撫宋國,而以偪陽光啟寡君,群臣安矣,其何貺如之?若專賜臣,是臣興諸侯以自封也,其何罪大焉?敢以死請。”
諸侯の軍が偪陽に久しく留まると、荀偃・士匄は荀䓨に請うて言った、「雨水はまさに下らんとし、帰ることができないを恐れます。軍を撤することを請います」と。知伯は怒り、弩機を擲って彼らの中間を穿ち過ぎて言った、「なんじらはこの二つの事を成就してから私に告げよ。私は命令を扰乱することを恐れ、だからなんじらに背かなかった。なんじらはすでに国君を労し諸侯を発動し、老夫を牽いてここに至った。勇武の職守なくして、またわが罪を改換しようとして、言う、『実はこの人が軍を撤した。さもなくば攻克した』と。私は衰老した。なお再び担当できようか。七日して攻克せざれば、必ずなんじらからなんじらの首を取る!」五月庚寅、荀偃・士匄は士卒を率いて偪陽を攻め、自ら箭石を承えた。甲午、これを滅ぼした。《春秋》に記して「遂滅偪陽」と言うは、会見から続けて為したを言う。それを向戌に与えると、向戌は推辞して言った、「君王がもしなお辱くも宋国を鎮撫し、偪陽をもって寡君を光大開啓すれば、群臣は安定します。これより大きい賞賜がありますか。もし専ら臣に賜わば、即ち臣が諸侯を発動して自らのために封を求めたことです。罪はこれより大きいあらんや。敢えて死をもって請います」と。
乃予宋公。
こうして宋公に与えた。
宋公享晉侯於楚丘,請以《桑林》。荀罃辭。荀偃、士匄曰:“諸侯宋、魯,於是觀禮。魯有禘樂,賓祭用之。宋以《桑林》享君,不亦可乎?”舞,師題以旌夏,晉侯懼而退入於房。去旌,卒享而還。及著雍,疾。卜,桑林見。荀偃、士匄欲奔請禱焉。荀罃不可,曰:“我辭禮矣,彼則以之。猶有鬼神,於彼加之。”
宋公は楚丘で享礼を設けて晋侯を招待し、《桑林》を用いることを請うた。荀䓨は推辞した。荀偃・士匄は言った、「諸侯の中で宋・魯は、ここで礼を観る。魯には禘楽あり、宴賓祭祀に用いる。宋は《桑林》をもって国君を享待する。可ではないか」と。舞を起こし、楽師は大旌をもって標明すると、晋侯は懼れて房に退いた。旌を去り、享礼が畢って帰った。著雍に至り、病んだ。卜に問うと、桑林の神が現れた。荀偃・士匄は奔り帰って祈祷を請おうとした。荀䓨は同意せず、言った、「私はすでに礼を辞した。彼らが用いたのだ。もし鬼神あらば、彼らに加えよ」と。
晉侯有間,以偪陽子歸,獻於武宮,謂之夷俘。偪陽妘姓也。使周內史選其族嗣,納諸霍人,禮也。
晋侯の病は愈え、偪陽子を帯びて帰り、武宮に献じて、夷俘と言った。偪陽は妘姓である。周の内史にその族嗣を挑選させ、霍人に安置した。これは礼に合う。
師歸,孟獻子以秦堇父為右。生秦丕茲,事仲尼。
軍が帰ると、孟献子は秦堇父に車右を為らせた。秦丕兹を生み、仲尼に事えた。
六月,楚子囊、鄭子耳伐宋,師於訾毋。庚午,圍宋,門於桐門。
六月、楚の子囊・鄭の子耳は宋を攻め、訾毋に軍を駐めた。庚午、宋を包囲し、桐門を攻めた。
晉荀罃伐秦,報其侵也。
晋の荀䓨は秦を攻め、その侵伐に報復した。
衛侯救宋,師於襄牛。鄭子展曰:“必伐衛,不然,是不與楚也。得罪於晉,又得罪於楚,國將若之何?”子駟曰:“國病矣!”子展曰:“得罪於二大國,必亡。病不猶愈於亡乎?”諸大夫皆以為然。故鄭皇耳帥師侵衛,楚令也。孫文子卜追之,獻兆於定姜。姜氏問繇。曰:“兆如山陵,有夫出征,而喪其雄。”
衛侯は宋を救い、襄牛に軍を駐めた。鄭の子展は言った、「必ず衛を攻めよ。さもなくば、即ち楚に親附せざることです。晋の罪を得て、また楚の罪を得れば、国はまさにどうせん」と。子駟は言った、「国は困病している!」子展は言った、「二つの大国の罪を得れば、必ず亡びる。困病はなお亡びに如かずや」と。大夫たちは皆然とした。だから鄭の皇耳は軍を率いて衛を侵伐した。楚の命令である。孫文子は追撃のために卜に問い、兆象を定姜に献じた。姜氏は繇辞を問うた。言った、「兆象は山陵のごとく、丈夫出征して、その雄傑を喪う」と。
姜氏曰:“徵者喪雄,禦寇之利也。大夫圖之!”衛人追之,孫蒯獲鄭皇耳於犬丘。
姜氏は言った、「出征する者が雄傑を喪うは、寇を御するに吉利。大夫は慮れ!」衛人は追撃し、孫蒯は犬丘で鄭の皇耳を俘獲した。
秋七月,楚子囊、鄭子耳伐我西鄙。還,圍蕭,八月丙寅,克之。九月,子耳侵宋北鄙。孟獻子曰:“鄭其有災乎!師競已甚。周猶不堪競,況鄭乎?有災,其執政之三士乎!”莒人間諸侯之有事也,故伐我東鄙。
秋七月、楚の子囊・鄭の子耳はわが国の西部辺境を攻めた。帰りて、蕭を包囲し、八月丙寅、攻克した。九月、子耳は宋の北部辺境を侵伐した。孟献子は言った、「鄭はおそらく災あろう!軍隊の争競はすでに太甚。周ですら争競に堪えず、まして鄭をや。災あれば、おそらく執政の三氏に在ろう!」莒人は諸侯に事あるに趁い、だからわが国の東部辺境を攻めた。
諸侯伐鄭。齊崔杼使大子光先至於師,故長於滕。己酉,師於牛首。
諸侯は鄭を攻めた。斉の崔杼は太子光を先に軍中に至らせたので、滕国の前に排した。己酉、牛首に軍を駐めた。
初,子駟與尉止有爭,將御諸侯之師而黜其車。尉止獲,又與之爭。子駟抑尉止曰:“爾車,非禮也。”遂弗使獻。初,子駟為田洫,司氏、堵氏、侯氏、子師氏皆喪田焉,故五族聚群不逞之人,因公子之徒以作亂。於是子駟當國,子國為司馬,子耳為司空,子孔為司徒。冬十月戊辰,尉止、司臣、侯晉、堵女父、子師僕帥賊以入,晨攻執政於西宮之朝,殺子駟、子國、子耳,劫鄭伯以如北宮。
初め、子駟は尉止と争執あり、まさに諸侯の軍を御するとして彼の兵車を減少した。尉止は俘獲あるも、また彼と争った。子駟は尉止を壓制して言った、「なんじの車は、礼に合わない」と。こうして彼に進献させなかった。初め、子駟は田間の水溝を開き、司氏・堵氏・侯氏・子師氏は皆田地を喪失したので、五族は一群の志を得ざる人を聚集し、公子の党徒を借りて乱を為した。この時子駟が国事を主持し、子国が司馬を為り、子耳が司空を為り、子孔が司徒を為った。冬十月戊辰、尉止・司臣・侯晋・堵女父・子師僕は賊人を率いて入り、朝に西宮の朝上で執政を攻め、子駟・子国・子耳を殺し、鄭伯を劫して北宮に至った。
子孔知之,故不死。書曰“盜”,言無大夫焉。
子孔は事前に知っていたので、死ななかった。《春秋》に記して「盗」と言うは、大夫が内にいないを言う。
子西聞盜,不儆而出,屍而追盜,盜入於北宮,乃歸授甲。臣妾多逃,器用多喪。子產聞盜,為門者,庀群司,閉府庫,慎閉藏,完守備,成列而後出,兵車十七乘,屍而攻盜於北宮。子蟜帥國人助之,殺尉止,子師僕,盜眾盡死。
子西は盗あるを聞くと、警戒せずして出て、尸を収めてから盗を追ったが、盗は北宮に入り、やっと帰って甲を授かった。臣妾は逃げること多く、器用は喪失多かった。子産は盗あるを聞くと、門を守る人を設け、各官の職事を備え、府庫を閉じ、謹んで閉蔵し、守備を完善し、行列を排してから出て、兵車十七乘、尸を収めて北宮で盗を攻めた。子蟜は国人を率いて助け、尉止・子師僕を殺し、盗衆は全部死んだ。
侯晉奔晉。堵女父、司臣、尉翩、司齊奔宋。
侯晋は晋に逃げ奔った。堵女父・司臣・尉翩・司斉は宋に逃げ奔った。
子孔當國,為載書,以位序,聽政闢。大夫、諸司、門子弗順,將誅之。子產止之,請為之焚書。子孔不可,曰:“為書以定國,眾怒而焚之,是眾為政也,國不亦難乎?”子產曰:“眾怒難犯,專欲難成,合二難以安國,危之道也。不如焚書以安眾,子得所欲,眾亦得安,不亦可乎?專欲無成,犯眾興禍,子必從之。”乃焚書於倉門之外,眾而後定。
子孔は国事を主持し、盟書を制定し、地位の次序により、国君の法令に聴従させた。大夫・各官・門子は順従せず、子孔は彼らを誅殺しようとした。子産は遮り、彼のために盟書を焼掉することを請うた。子孔は同意せず、言った、「文書を制定して国を安定しようとするに、衆人が怒れば焼掉するは、これは衆人が執政する。国はまた難しくないか」と。子産は言った、「衆人の怒は犯すべからず、専擅の欲望は成功し難し。二つの難を合わせて国を安定せんとは、危険の道です。文書を焼掉して衆人を安定するに如かず。あなたは欲する所を得、衆人もまた安定できる。可ではないか。専擅の欲望は成功せず、衆人に犯れば禍患を興す。あなたは必ず聴従すべし」と。こうして倉門の外で文書を焼掉し、衆人はこうして安定した。
諸侯之師城虎牢而戍之。晉師城梧及制,士魴、魏絳戍之。書曰“戍鄭虎牢”,非鄭地也,言將歸焉。鄭及晉平。楚子囊救鄭。十一月,諸侯之師還鄭而南,至於陽陵,楚師不退。知武子欲退,曰:“今我逃楚,楚必驕,驕則可與戰矣。”
諸侯の軍は虎牢を修築して戍守した。晋軍は梧と制を修築し、士魴・魏絳が戍守した。《春秋》に記して「戍鄭虎牢」と言うは、当時すでに鄭地ではなく、まさに帰還せんとするを言う。鄭は晋と講和した。楚の子囊は鄭を救った。十一月、諸侯の軍は鄭都を繞って南し、陽陵に至ったが、楚軍は退かなかった。知武子は退こうと欲して言った、「今われわれが楚を逃避すれば、楚は必ず驕傲し、驕傲すればこれと交戦できる」と。
欒黶曰:“逃楚,晉之恥也。合諸侯以益恥,不如死!我將獨進。”師遂進。己亥,與楚師夾潁而軍。子矯曰:“諸侯既有成行,必不戰矣。從之將退,不從亦退。退,楚必圍我。猶將退也。不如從楚,亦以退之。”宵涉潁,與楚人盟。欒黶欲伐鄭師,荀罃不可,曰:“我實不能御楚,又不能庇鄭,鄭何罪?不如致怨焉而還。今伐其師,楚必救之,戰而不克,為諸侯笑。克不可命,不如還也!”丁未,諸侯之師還,侵鄭北鄙而歸。楚人亦還。
欒黶は言った、「楚を逃避するは、晋の恥辱。諸侯を会合して恥辱を増加するは、死に如かず!私は将に独り前進せん」と。軍はこうして前進した。己亥、楚軍と潁水を隔てて駐屯した。子蟜は言った、「諸侯はすでに帰る行列あり。必ず交戦しない。彼らに従えば退き、従わなくても退く。退けば、楚は必ずわれわれを包囲する。いずれ退くなら、楚に従うに如かず。またもって彼らを退かせる」と。夜に潁水を渡り、楚人と盟を結んだ。底本の「子矯」は即ち子蟜。欒黶は鄭軍を攻めようとしたが、荀䓨は同意せず、言った、「われわれは実に楚を抵御できず、また鄭を庇護できず。鄭に何の罪がある。怨恨を彼らに送って帰るに如かず。今その軍を攻めれば、楚は必ず救援し、交戦して勝てず、諸侯の笑いとなる。勝利は必ず得られず。帰るに如かず!」丁未、諸侯の軍は帰り、鄭の北部辺境を侵伐して帰った。楚人も帰った。
王叔陳生與伯輿爭政。王右伯輿,王叔陳生怒而出奔。及河,王復之,殺史狡以說焉。不入,遂處之。晉侯使士匄平王室,王叔與伯輿訟焉。王叔之宰與伯輿之大夫瑕禽坐獄於王庭,士匄聽之。王叔之宰曰:“篳門閨竇之人而皆陵其上,其難為上矣!”瑕禽曰:“昔平王東遷,吾七姓從王,牲用備具。王賴之,而賜之騂旄之盟,曰:‘世世無失職。’若篳門閨竇,其能來東底乎?且王何賴焉?今自王叔之相也,政以賄成,而刑放於寵。官之師旅,不勝其富,吾能無篳門閨竇乎?唯大國圖之!下而無直,則何謂正矣?”範宣子曰:“天子所右,寡君亦右之。所左,亦左之。”使王叔氏與伯輿合要,王叔氏不能舉其契。王叔奔晉。
王叔陳生と伯輿は執政を争った。天子は伯輿を袒護し、王叔陳生は怒って出奔した。黄河に至り、天子は彼を帰らせ、史狡を殺して解釈した。城に入らず、こうしてそこに住んだ。晋侯は士匄を遣わして王室を調停させ、王叔と伯輿は争訟した。王叔の家宰と伯輿の大夫瑕禽は王庭で対質し、士匄が聴訟した。王叔の家宰は言った、「柴門小戸の人が上の人に陵駕するは、上の人は為し難し!」瑕禽は言った、「昔平王が東に遷った時、われわれ七姓は天子に従い、犠牲用品は斉備した。天子は頼り、騂旄の盟約を賜りて言う、『世々職事を失わず』と。もし柴門小戸ならば、東方に来て止まることができようか。しかも天子は何に頼るか。今王叔が輔政してより、政事は賄賂をもって辦成し、刑罰は寵臣に放任した。官員の師旅は、富は受けきれず。われわれは柴門小戸なくしていられようか。大国の考慮を請います!下に理なくば、なお何の正を言わん」と。范宣子は言った、「天子の袒護するは、寡君もまた袒護する。袒護せざるは、また袒護せず」と。王叔氏と伯輿に約辞を対証させると、王叔氏は契約を出せなかった。王叔は晋に逃げ奔った。
不書,不告也。單靖公為卿士,以相王室。
《春秋》に記さないのは、告げに来なかったからである。単靖公が卿士を為り、王室を輔佐した。
◇襄公十一年
◇襄公十一年
【經】十有一年春王正月,作三軍。夏四月,四卜郊,不從,乃不郊。鄭公孫舍之帥師侵宋。公會晉侯、宋公、衛侯、曹伯、齊世子光、莒子、邾子、滕子、薛伯、杞伯、小邾子伐鄭。秋七月己未,同盟於亳城北。公至自伐鄭。楚子、鄭伯伐宋。公會晉侯、宋公、衛侯、曹伯、齊世子光、莒子、邾子、滕子、薛伯、杞伯、小邾子伐鄭,會於蕭魚。公至自會。楚執鄭行人良霄。冬,秦人伐晉。
【経】十一年春、周天子の暦の正月、三軍を建立した。夏四月、郊祭のために四度卜したが、皆従わず、こうして郊祭を行わなかった。鄭の公孫舍之が軍を率いて宋を侵伐した。襄公は晋侯・宋公・衛侯・曹伯・斉世子光・莒子・邾子・滕子・薛伯・杞伯・小邾子と会合して鄭を攻めた。秋七月己未、亳城の北でともに盟を結んだ。襄公は鄭を攻めたところから帰った。楚子・鄭伯は宋を攻めた。襄公は晋侯・宋公・衛侯・曹伯・斉世子光・莒子・邾子・滕子・薛伯・杞伯・小邾子と会合して鄭を攻め、蕭魚で会見した。襄公は会から帰った。楚は鄭の行人良霄を執えた。冬、秦人は晋を攻めた。
【傳】十一年春,季武子將作三軍,告叔孫穆子曰:“請為三軍,各徵其軍。”
【伝】十一年春、季武子は三軍を建立しようとして、叔孫穆子に告げて言った、「三軍を建て、各自その軍隊を征発することを請います」と。
穆子曰:“政將及子,子必不能。”武子固請之,穆子曰:“然則盟諸?”乃盟諸僖閎,詛諸五父之衢。
穆子は言った、「政事はまさにあなたの手に至らん。あなたは必ず承当できない」と。武子は堅く請い、穆子は言った、「では盟を結ぶか」と。こうして僖公の廟門で盟を結び、五父之衢で詛咒した。
正月,作三軍,三分公室而各有其一。三子各毀其乘。李氏使其乘之人,以其役邑入者,無徵;不入者,倍徵。孟氏使半為臣,若子若弟。叔孫氏使盡為臣,不然,不捨。
正月、三軍を建立し、公室を三份に分け、各々一份を得た。三家は各々その私属の車乘を毀した。季氏はその車乘に上る人に、服役する城邑を帰入する者は税を徵せず、帰入せざる者は税を倍に徵した。底本の「李氏」は即ち季氏。孟氏は半分を臣とし、あるいは子あるいは弟とした。叔孫氏は全部を臣とし、さもなくば、併入しなかった。
鄭人患晉、楚之故,諸大夫曰:“不從晉,國幾亡。楚弱於晉,晉不吾疾也。
鄭人は晋・楚の故を憂え、大夫たちは言った、「晋に従わざれば、国はほぼ亡びる。楚は晋より弱く、晋はわれわれに急でない。
晉疾,楚將闢之。何為而使晉師致死於我,楚弗敢敵,而後可固與也。”子展曰:“與宋為惡,諸侯必至,吾從之盟。楚師至,吾又從之,則晉怒甚矣。晉能驟來,楚將不能,吾乃固與晉。”大夫說之,使疆埸之司惡於宋。宋向戌侵鄭,大獲。
(大夫たちは続けて言う:)晋が一たび急なれば、楚はまさに避ける。どうすれば晋軍にわれわれのために致死用命させ、楚が敢えて当たらぬようにし、然る後牢固に親附できるか」と。子展は言った、「宋と悪を結べば、諸侯は必ず至る。われわれは彼らに従いて盟を結ぶ。楚軍が至れば、われわれはまた楚に従う。晋の怒は甚だ深くなる。晋は屢々来ることができ、楚は能わず。われわれはこうして牢固に晋に親附する」と。大夫たちは喜び、辺疆の官吏に宋に悪事を為させた。宋の向戌は鄭を侵伐し、大いに俘獲した。
子展曰:“師而伐宋可矣。若我伐宋,諸侯之伐我必疾,吾乃聽命焉,且告於楚。
子展は言った、「兵を出して宋を攻めれば可。もしわれわれが宋を攻めれば、諸侯がわれわれを攻めるは必ず急。われわれはこうして命を聴き、かつ楚に告げる。
楚師至,吾又與之盟,而重賂晉師,乃免矣。”夏,鄭子展侵宋。
(子展は続けて言う:)楚軍が至れば、われわれはまたこれと盟を結び、并重く晋軍に賂すれば、即ち免れる」と。夏、鄭の子展は宋を侵伐した。
四月,諸侯伐鄭。己亥,齊大子光、宋向戌先至於鄭,門於東門。其莫,晉荀罃至於西郊,東侵舊許。衛孫林父侵其北鄙。六月,諸侯會於北林,師於向,右還,次於瑣,圍鄭。觀兵於南門,西濟於濟隧。鄭人懼,乃行成。
四月、諸侯は鄭を攻めた。己亥、斉の太子光・宋の向戌が先に鄭に至り、東門を攻めた。その夜、晋の荀䓨は西郊に至り、東して旧許を侵伐した。衛の孫林父は北部辺境を侵伐した。六月、諸侯は北林で会合し、向に軍を駐め、右に回転し、瑣に駐屯し、鄭を包囲した。南門で軍隊を検閲し、西して済隧を渡った。鄭人は懼れ、こうして和を求めた。
秋七月,同盟於亳。範宣子曰:“不慎,必失諸侯。諸侯道敝而無成,能無貳乎?”乃盟,載書曰:“凡我同盟,毋蘊年,毋壅利,毋保奸,毋留慝,救災患,恤禍亂,同好惡,獎王室。或間茲命,司慎司盟,名山名川,群神群祀,先王先公,七姓十二國之祖,明神殛之,俾失其民,隊命亡氏,踣其國家。”
秋七月、亳でともに盟を結んだ。范宣子は言った、「謹慎せざれば、必ず諸侯を失う。諸侯は路上に疲弊して成就なく、二心なくしていられようか」と。こうして盟を結び、盟書に言った、「およそわれわれ同盟は、年穀を屯積するな、利益を堵塞するな、奸人を庇護するな、邪悪を留蔵するな。災患を救助し、禍乱を体恤し、好悪を同じくし、王室を輔助せよ。人あってこの命令に冒犯せば、司慎・司盟、名山名川、群神群祀、先王先公、七姓十二国の祖先、神明は彼を誅殺し、彼に百姓を失わせ、性命を墜落し族氏を滅亡せしめ、その国を顛覆せしめん」と。
楚子囊乞旅於秦,秦右大夫詹帥師從楚子,將以伐鄭。鄭伯逆之。丙子,伐宋。
楚の子囊は秦に出兵を請い、秦の右大夫詹は軍を率いて楚子に従い、鄭を攻めようとした。鄭伯は迎えた。丙子、宋を攻めた。
九月,諸侯悉師以復伐鄭。鄭人使良霄、大宰石如楚,告將服於晉,曰:“孤以社稷之故,不能懷君。君若能以玉帛綏晉,不然則武震以攝威之,孤之願也。”楚人執之,書曰“行人”,言使人也。諸侯之師觀兵於鄭東門,鄭人使王子伯駢行成。甲戌,晉趙武入盟鄭伯。冬十月丁亥,鄭子展出盟晉侯。十二月戊寅,會於蕭魚。庚辰,赦鄭囚,皆禮而歸之。納斥候,禁侵掠。晉侯使叔肸告於諸侯。公使臧孫紇對曰:“凡我同盟,小國有罪,大國致討,苟有以藉手,鮮不赦宥。寡君聞命矣。”鄭人賂晉侯以師悝、師觸、師蠲,廣車、軘車淳十五乘,甲兵備,凡兵車百乘,歌鐘二肆,及其鎛磐,女樂二八。
九月、諸侯は全軍を出して再び鄭を攻めた。鄭人は良霄・太宰石を遣わして楚に行かせ、まさに晋に帰服せんとするを告知して言わせた、「孤は社稷の故のために、君王を懐念できません。君王もし玉帛をもって晋を安撫し、さもなくば武威をもってこれを震懾できれば、是れ孤の願いです」と。楚人は彼を執え、《春秋》に記して「行人」と言うは、彼が使者であるを言う。諸侯の軍は鄭の東門で検閲し、鄭人は王子伯駢を遣わして和を求めさせた。甲戌、晋の趙武は入りて鄭伯と盟を結んだ。冬十月丁亥、鄭の子展は出て晋侯と盟を結んだ。十二月戊寅、蕭魚で会見した。庚辰、鄭の俘虜を赦免し、皆礼をもって送り帰した。偵察兵を收回し、侵掠を禁止した。晋侯は叔肸を遣わして諸侯に告知させた。襄公は臧孫紇を遣わして答えさせて言わせた、「およそわれわれ同盟は、小国有罪あれば、大国はこれに討伐を加える。もし言うべき言あれば、赦免寛宥せざるは少なし。寡君は命令を聞いた」と。鄭人は師悝・師触・師蠲を晋侯に賂送し、広車・軘車は対に配して十五乘、甲兵は斉備し、兵車は合わせて百乘、歌鐘は二肆、およびその鎛磬、女楽十六人。底本の「鎛磐」は即ち鎛磬。
晉侯以樂之半賜魏絳,曰:“子教寡人和諸戎狄,以正諸華。八年之中,九合諸侯,如樂之和,無所不諧。請與子樂之。”辭曰:“夫和戎狄,國之福也;八年之中,九合諸侯,諸侯無慝,君之靈也,二三子之勞也,臣何力之有焉?抑臣願君安其樂而思其終也!《詩》曰:‘樂只君子,殿天子之邦。樂只君子,福祿攸同。便蕃左右,亦是帥從。’夫樂以安德,義以處之,禮以行之,信以守之,仁以厲之,而後可以殿邦國,同福祿,來遠人,所謂樂也。《書》曰:‘居安思危。’思則有備,有備無患,敢以此規。”公曰:“子之教,敢不承命。抑微子,寡人無以待戎,不能濟河。夫賞,國之典也,藏在盟府,不可廢也,子其受之!”魏絳於是乎始有金石之樂,禮也。
晋侯は楽器の半分を魏絳に賜りて言った、「あなたは寡人に戎狄と和好するを教え、もって諸夏を整頓した。八年の中に、九度諸侯を会合し、音楽の和のごとく、協調せざるなし。あなたと共に享することを請う」と。魏絳は推辞して言った、「戎狄と和好するは、国家の福。八年の中に九度諸侯を会合し、諸侯に邪悪なきは、君王の威霊、あの数名の労苦です。臣に何の力がありますか。ただ臣は君王が楽しみに安んじて終極を思うを願います!《詩》に言う、『楽しきかな君子、天子の邦国を鎮撫す。楽しきかな君子、福禄の同じ。左右を安撫し、また皆従う』と。楽は徳を安定するに用い、義は自処するに用い、礼は実行するに用い、信は守るに用い、仁は砥礪するに用い、然る後邦国を鎮撫し、福禄を同享し、遠人を招来するべし。即ち謂うところの楽です。《書》に言う、『安きに処りて危きを思う』と。思えば即ち防備あり、防備あれば即ち禍患なし。敢えてこれをもって規諫します」と。晋侯は言った、「あなたの教訓、敢えて命令を承えざらんや。ただあなたなくば、寡人は戎人を対待する法なく、黄河を渡ることができなかった。賞賜は、国家の典制で、盟府に蔵する。廃すべからず。あなたの受けるを請う!」魏絳はこれより金石の楽あるを始めた。これは礼に合う。
秦庶長鮑、庶長武帥師伐晉以救鄭。鮑先入晉地,士魴御之,少秦師而弗設備。壬午,武濟自輔氏,與鮑交伐晉師。己丑,秦、晉戰於櫟,晉師敗績,易秦故也。
秦の庶長鮑・庶長武は軍を率いて晋を攻め、鄭を救いに来た。鮑は先に晋地に入り、士魴は御したが、秦軍は人少ないとして防備を設けなかった。壬午、武は輔氏から渡り、鮑と交替して晋軍を攻めた。己丑、秦・晋は櫟で交戦し、晋軍は大敗した。秦を軽視した故である。
◇襄公十二年
◇襄公十二年
【經】十有二年春王二月,莒人伐我東鄙,圍臺。季孫宿帥師救臺,遂入鄆。
【経】十二年春、周天子の暦の二月、莒人はわが国の東部辺境を攻め、台を包囲した。季孫宿は軍を率いて台を救い、こうして鄆に入った。
夏,晉侯使士魴來聘。秋九月,吳子乘卒。冬,楚公子貞帥師侵宋。公如晉。
夏、晋侯は士魴を遣わして聘問させた。秋九月、呉子乘が死去した。冬、楚の公子貞が軍を率いて宋を侵伐した。襄公は晋に行った。
【傳】十二年春,莒人伐我東鄙,圍臺。季武子救臺,遂入鄆,取其鍾以為公盤。
【伝】十二年春、莒人はわが国の東部辺境を攻め、台を包囲した。季武子は台を救い、こうして鄆に入り、その鐘を取って公室の盤と為した。
夏,晉士魴來聘,且拜師。
夏、晋の士魴が聘問に来て、かつ出兵を拜謝した。
秋,吳子壽夢卒。臨於周廟,禮也。凡諸侯之喪,異姓臨於外,同姓於宗廟,同宗於祖廟,同族於禰廟。是故魯為諸姬,臨於周廟。為邢、凡、蔣、茅、胙、祭臨於周公之廟。
秋、呉子寿夢が死去した。周廟で哭臨した。これは礼に合う。およそ諸侯の喪事は、異姓は城外で哭臨し、同姓は宗廟、同宗は祖廟、同族は禰廟。だから魯は諸姫姓のために、周廟で哭臨する。邢・凡・蔣・茅・胙・祭のためには、周公の廟で哭臨する。
冬,楚子囊、秦庶長無地伐宋,師於揚梁,以報晉之取鄭也。
冬、楚の子囊・秦の庶長無地は宋を攻め、揚梁に軍を駐めた。晋が鄭を取得したに報復する。
靈王求後於齊。齊侯問對於晏桓子,桓子對曰:“先王之禮辭有之,天子求後於諸侯,諸侯對曰:‘夫婦所生若而人。妾婦之子若而人。’無女而有姊妹及姑姊妹,則曰:‘先守某公之遺女若而人。’”齊侯許昏,王使陰裡逆之。
霊王は斉に王后を求娶した。斉侯は晏桓子に対答の言を問うと、桓子は答えて言った、「先王の礼辞にこのようなものあり。天子が諸侯に王后を求娶すれば、諸侯は答えて、『嫡妻の生んだは若干人。妾婦の子は若干人』と。女なくして姉妹および姑姉妹あれば、言う、『先君某公の遺した女は若干人』と」と。斉侯は婚姻を許し、天子は陰里を遣わして迎えさせた。
公如晉,朝,且拜士魴之辱,禮也。
襄公は晋に行き、朝見し、かつ士魴の辱臨を拜謝した。これは礼に合う。
秦嬴歸於楚。楚司馬子庚聘於秦,為夫人寧,禮也。
秦嬴は楚に嫁いだ。楚の司馬子庚は秦に聘問し、夫人のために娘家に安を問わせた。これは礼に合う。
◇襄公十三年
◇襄公十三年
【經】十有三年春,公至自晉。夏,取邿。秋九月庚辰,楚子審卒。冬,城防。
【経】十三年春、襄公は晋から帰った。夏、邿を取得した。秋九月庚辰、楚子審が死去した。冬、防城を修築した。
【傳】十三年春,公至自晉,孟獻子書勞於廟,禮也。
【伝】十三年春、襄公は晋から帰り、孟献子は廟で功労を記載した。これは礼に合う。
夏,邿亂,分為三。師救邿,遂取之。凡書“取”,言易也。用大師焉曰“滅”。弗地曰“入”。
夏、邿国に内乱あり、三份に分かれた。軍は邿を救い、こうしてそれを取得した。およそ《春秋》に「取」と記すは、容易いを言う。大軍を動かすを「滅」と言う。土地を占有せざるを「入」と言う。
荀罃、士魴卒。晉侯蒐於綿上以治兵,使士匄將中軍,辭曰:“伯遊長。昔臣習於知伯,是以佐之,非能賢也。請從伯遊。”荀偃將中軍,士匄佐之。使韓起將上軍,辭以趙武。又使欒黶,辭曰:“臣不如韓起。韓起願上趙武,君其聽之!”使趙武將上軍,韓起佐之。欒黶將下軍,魏絳佐之。新軍無帥,晉侯難其人,使其什吏,率其卒乘官屬,以從於下軍,禮也。晉國之民,是以大和,諸侯遂睦。君子曰:“讓,禮之主也。範宣子讓,其下皆讓。欒黶為汰,弗敢違也。
荀䓨・士魴が死去した。晋侯は綿上で大蒐を行い兵を治め、士匄に中軍を統率させようとすると、推辞して言った、「伯游が年長である。昔臣は知伯に熟悉していたので、彼を輔佐した。賢能のためではない。伯游に従うことを請います」と。荀偃が中軍を統率し、士匄が輔佐した。韓起に上軍を統率させようとすると、趙武をもって推辞した。また欒黶に譲ると、推辞して言った、「臣は韓起に如かず。韓起は趙武を上に置くを願います。君王の聴従を請います!」趙武に上軍を統率させ、韓起が輔佐した。欒黶が下軍を統率し、魏絳が輔佐した。新軍に主師なく、晋侯は合適な人を難く求め、その十の吏に歩卒車乘と官属を率いさせ、下軍に従わせた。これは礼に合う。晋の百姓はこれによって大いに和睦し、諸侯はこうして和睦した。君子は言った、「譲は、礼の主導。范宣子は譲り、その下の人は皆譲る。欒黶は驕縦するも、敢えて背かず。
晉國以平,數世賴之。刑善也夫!一人刑善,百姓休和,可不務乎?《書》曰:‘一人有慶,兆民賴之,其寧惟永。’其是之謂乎?周之興也,其《詩》曰:‘儀刑文王,萬邦作孚。’言刑善也。及其衰也,其《詩》曰:‘大夫不均,我從事獨賢。’言不讓也。世之治也,君子尚能而讓其下,小人農力以事其上,是以上下有禮,而讒慝黜遠,由不爭也,謂之懿德。及其亂也,君子稱其功以加小人,小人伐其技以馮君子,是以上下無禮,亂虐並生,由爭善也,謂之昏德。國家之敝,恆必由之。”
(君子は続けて言う:)晋はこれによって平安で、幾世も頼る。善に取法するである!一人が善に取法すれば、百姓は美好和睦する。致力せずにいられようか。《書》に言う、『一人に善あれば、兆民は頼り、安寧は長久なり』と。これを言うのでしょう。周が興起した時、その《詩》に言う、『文王に取法せよ、万邦は信任す』と。善に取法するを言う。衰微するに及び、その《詩》に言う、『大夫は平均ならず、我が事を為すは独り賢能なり』と。譲らざるを言う。天下が治まる時、君子は才能を崇尚して下に譲り、小人は農事を努力して上に事える。だから上下に礼あり、讒邪は斥遠される。争わざるによる。これを懿徳と言う。乱るるに及び、君子は自らの功労を称して小人に陵駕し、小人は自らの技能を誇って君子に陵駕する。だから上下に礼なく、乱虐は斉しく発生する。争い善を称するによる。これを昏徳と言う。国の敗壊は、常に必ずこれによる」と。
楚子疾,告大夫曰:“不穀不德,少主社稷,生十年而喪先君,未及習師保之教訓,而應受多福。是以不德,而亡師於鄢,以辱社稷,為大夫憂,其弘多矣。
楚子は病み、大夫に告げて言った、「不穀は徳行なく、年少にして社稷を主持し、生まれて十年にして先君を失い、師保の教訓を熟習するに及ばずして、多くの福を承えた。これによって徳なく、鄢陵で軍隊を喪い、社稷を辱め、大夫の憂慮と為した。すでに大きい。
若以大夫之靈,獲保首領以歿於地,唯是春秋窀穸之事,所以從先君於禰廟者,請為‘靈’若‘厲’。大夫擇焉!”莫對。及五命乃許。
(楚子は続けて言う:)もし大夫の威霊に托して、頭を保って地に死すことができれば、ただこの春秋安葬の事、もって禰廟で先君に従うのに、『霊』あるいは『厲』を用いるを請う。大夫は選べ!」人は答える者なし。命令が五度に及んでやっと応えた。
秋,楚共王卒。子囊謀諡。大夫曰:“君有命矣。”子囊曰:“君命以共,若之何毀之?赫赫楚國,而君臨之,撫有蠻夷,奄征南海,以屬諸夏,而知其過,可不謂共乎?請諡之‘共’。”大夫從之。
秋、楚共王が死去した。子囊は諡号を商量した。大夫は言った、「国君はすでに命令あり」と。子囊は言った、「国君の命令は『共』を用いる。どうしてこれを毀すか。赫赫たる楚国、国君はこれを治理し、蛮夷を安撫し、南海を大征し、諸夏に帰属させ、しかも自らの過ちを知った。共と言うべからずや。『共』と諡することを請います」と。大夫は従った。
吳侵楚,養由基奔命,子庚以師繼之。養叔曰:“吳乘我喪,謂我不能師也,必易我而不戒。子為三覆以待我,我請誘之。”子庚從之。戰於庸浦,大敗吳師,獲公子黨。君子以吳為不弔。《詩》曰:“不弔昊天,亂靡有定。”
呉は楚を侵伐し、養由基は奔走して急を救い、子庚は軍隊を帯びて接上した。養叔は言った、「呉はわれわれに喪あるに趁い、われわれが出兵できないとして、必ずわれわれを軽視して警戒しない。あなたは三か所の伏兵を設けて私を待て。私は彼らを誘引することを請います」と。子庚は従った。庸浦で交戦し、呉軍を大いに破り、公子党を俘獲した。君子は呉が吊問を善くしないとした。《詩》に言う、「吊問を善くせざる昊天、乱は安定なし」と。
冬,城防,書事,時也。於是將早城,臧武仲請俟畢農事,禮也。
冬、防城を修築した。《春秋》にこの事を記すは、時令に合ったからである。当時早く城を修めようとしたが、臧武仲は農事が畢るを待つを請い求めた。これは礼に合う。
鄭良霄、大宰石猶在楚。石言於子囊曰:“先王卜征五年,而歲習其祥,祥習則行,不習則增修德而改卜。今楚實不競,行人何罪?止鄭一卿,以除其逼,使睦而疾楚,以固於晉,焉用之?使歸而廢其使,怨其君以疾其大夫,而相牽引也,不猶愈乎?”楚人歸之。
鄭の良霄・太宰石はなお楚にいた。石は子囊に言った、「先王は出征のために五年卜に問い、毎年吉祥を重ね、吉祥が重なってこそ出行し、重ならずば徳行を増修してまた別に卜に問うた。今楚は実に争勝できず。行人に何の罪がある。鄭の一卿を扣留して、彼らの逼迫を除き、彼らを和睦させて楚を憎ませ、晋に牢固に親附させるは、何の用がある。彼を帰らせてその使命を廃すれば、国君を怨恨し大夫を憎み、互いに牽制する。なお善くはないか」と。楚人は彼らを放って帰した。
◇襄公十四年
◇襄公十四年
【經】十有四年春王正月,季孫宿、叔老會晉士匄、齊人、宋人、衛人、鄭公孫蠆、曹人、莒人、邾人、滕人、薛人、杞人、小邾人會吳於向。二月乙朔,日有食之。夏四月,叔孫豹會晉荀偃、齊人、宋人、衛北宮括、鄭公孫蠆、曹人、莒人、邾人、滕人、薛人、杞人、小邾人伐秦。己未,衛侯出奔齊。莒人侵我東鄙。秋,楚公子貞帥師伐吳。冬,季孫宿會晉士匄、宋華閱、衛孫林父、鄭公孫蠆、莒人、邾人於戚。
【経】十四年春、周天子の暦の正月、季孫宿・叔老は晋の士匄・斉人・宋人・衛人・鄭の公孫蠆・曹人・莒人・邾人・滕人・薛人・杞人・小邾人と会同し、呉と向で会見した。二月乙朔、日食があった。底本の「乙朔」は日干を欠く。補わず。夏四月、叔孫豹は晋の荀偃・斉人・宋人・衛の北宮括・鄭の公孫蠆・曹人・莒人・邾人・滕人・薛人・杞人・小邾人と会同して秦を攻めた。己未、衛侯は斉に出奔した。莒人はわが国の東部辺境を侵伐した。秋、楚の公子貞が軍を率いて呉を攻めた。冬、季孫宿は晋の士匄・宋の華閲・衛の孫林父・鄭の公孫蠆・莒人・邾人と戚で会見した。
