Libo

襄公(元年~三十一年)

春秋 · 左丘明(旧题) · 第33巻 / 56

【傳】十四年春,吳告敗於晉。會於向,為吳謀楚故也。範宣子數吳之不德也,以退吳人。

【伝】十四年春、呉は晋に戦敗を報告した。向で会見したのは、呉のために楚に対するを謀るである。范宣子は呉が徳なきを責め、もって呉人を退かせた。

執莒公子務婁,以其通楚使也。

莒の公子務婁を執えた。楚の使者と交通したからである。

將執戎子駒支。範宣子親數諸朝,曰:“來!姜戎氏!昔秦人迫逐乃祖吾離於瓜州,乃祖吾離被苫蓋,蒙荊棘,以來歸我先君。我先君惠公有不腆之田,與女剖分而食之。今諸侯之事我寡君不如昔者,蓋言語漏洩,則職女之由。詰朝之事,爾無與焉!與將執女!”對曰:“昔秦人負恃其眾,貪於土地,逐我諸戎。

まさに戎子駒支を執えんとした。范宣子は自ら朝上で彼を責めて言った、「来い!姜戎氏!昔秦人はなんじの祖先吾離を瓜州から駆逐した。なんじの祖先吾離は苫蓋を披き、荆棘を蒙って、わが先君に帰附しに来た。わが先君恵公は豊かならざる田地ありて、なんじと半分に分けて食した。今諸侯はわが寡君に事えること昔に如かず。おそらく言語が泄漏したのであろう。即ちそれはなんじの職分の為すところ。明日の朝会の事、なんじは参与するな!参与すれば即ちなんじを執える!」答えて言った、「昔秦人は人多きを恃み、土地を貪り、われわれ諸戎を駆逐した。

惠公蠲其大德,謂我諸戎,是四嶽之裔胄也,毋是翦棄。賜我南鄙之田,狐狸所居,豺狼所嗥。我諸戎除翦其荊棘,驅其狐狸豺狼,以為先君不侵不叛之臣,至於今不貳。昔文公與秦伐鄭,秦人竊與鄭盟而舍戍焉,於是乎有殽之師。晉御其上,戎亢其下,秦師不復,我諸戎實然。譬如捕鹿,晉人角之,諸戎掎之,與晉踣之,戎何以不免?自是以來,晉之百役,與我諸戎相繼於時,以從執政,猶殽志也。豈敢離逖?今官之師旅,無乃實有所闕,以攜諸侯,而罪我諸戎!我諸戎飲食衣服,不與華同,贄幣不通,言語不達,何惡之能為?不與於會,亦無瞢焉!”賦《青蠅》而退。宣子辭焉,使即事於會,成愷悌也。於是,子叔齊子為季武子介以會,自是晉人輕魯幣,而益敬其使。

恵公はその大徳を顕明し、われわれ諸戎を四岳の後裔と認め、このように翦棄することなかれとした。われわれに南部辺境の田を賜った。狐狸の住む所、豺狼の嗥く所である。われわれ諸戎は荆棘を翦除し、狐狸豺狼を駆走し、先君の侵さず叛かざる臣と為り、今に至るまで二心なし。昔文公は秦とともに鄭を攻め、秦人はこっそり鄭と盟を結んで戍守を留めた。こうして殽の戦いがあった。晋はその上を抵御し、戎人はその下を抵挡し、秦軍は帰ることができなかった。実にわれわれ諸戎の為したところである。鹿を捕えるにたとえれば、晋人は角を抓み、諸戎は腿を拉し、晋とともにこれを踣倒した。戎人は何をもって罪を免れざらん。あの時より以来、晋の百の戦役に、われわれ諸戎は相継いで時令に趕き、執政に従う。なお殽の戦の心志である。どうして敢えて遠離せん。今官員の師旅は、おそらく実に缺失あって、諸侯を离心せしめたのに、われわれ諸戎に罪を帰する!われわれ諸戎は飲食衣服は華夏と同じからず、贄币は通じず、言語は達せず。能く何の悪事を為さん。会見に参与せずとも、また悶々と楽しまざるなし!」《青蠅》を賦して然る後退下した。宣子は謝罪し、彼を会上の職に就かせ、愷悌を成就した。当時、子叔斉子は季武子の副手として会見に往き、これより晋人は魯の币を軽減し、かつその使者をさらに敬重した。

吳子諸樊既除喪,將立季札。季札辭曰:“曹宣公之卒也,諸侯與曹人不義曹君,將立子臧。子臧去之,遂弗為也,以成曹君。君子曰:‘能守節。’君,義嗣也。誰敢奸君?有國,非吾節也。札雖不才,願附於子臧,以無失節。”固立之。棄其室而耕。乃舍之。

呉子諸樊はすでに喪服を除き、季札を立てようとした。季札は推辞して言った、「曹宣公が死去した時、諸侯と曹人は曹君を義とせず、子臧を立てようとした。子臧は去り、こうして成さずして、曹君を成就した。君子は言う、『能く節を守る』と。君王は義嗣です。誰が敢えて君王に冒犯せん。国を有するは、我が節操にあらず。札は才能なしと雖も、子臧に依附して、節操を失わざるを願います」と。彼を立てることに堅かった。彼は家室を棄てて耕種に行った。こうして放棄した。

夏,諸侯之大夫從晉侯伐秦,以報櫟之役也。晉侯待於竟,使六卿帥諸侯之師以進。及涇,不濟。叔向見叔孫穆子。穆子賦《匏有苦葉》。叔向退而具舟,魯人、莒人先濟。鄭子蟜見衛北宮懿子曰:“與人而不固,取惡莫甚焉!若社稷何?”懿子說。二子見諸侯之師而勸之濟,濟涇而次。秦人毒涇上流,師人多死。鄭司馬子蟜帥鄭師以進,師皆從之,至於棫林,不獲成焉。荀偃令曰:“雞鳴而駕,塞井夷灶,唯餘馬首是瞻!”欒黶曰:“晉國之命,未是有也。餘馬首欲東。”乃歸。下軍從之。左史謂魏莊子曰:“不待中行伯乎?”莊子曰:“夫子命從帥。欒伯,吾帥也,吾將從之。從帥,所以待夫子也。”伯遊曰:“吾令實過,悔之何及,多遺秦禽。”乃命大還。晉人謂之遷延之役。

夏、諸侯の大夫は晋侯に従いて秦を攻め、櫟の戦に報復した。晋侯は国境で待ち、六卿を遣わして諸侯の軍を率いて前進させた。涇水に至ったが、渡らなかった。叔向は叔孫穆子に見えた。穆子は《匏有苦葉》を賦した。叔向は退いて船を準備し、魯人・莒人が先に渡った。鄭の子蟜は衛の北宮懿子に見えて言った、「人に従うに牢固せざれば、悪を取るはこれより甚だしきなし!社稷をどうするか」と。懿子は喜んだ。両人は諸侯の軍に見えて彼らに渡河を勧め、涇水を渡って駐屯した。秦人は涙水の上流に毒を投げ、軍人の死ぬこと多かった。鄭の司馬子蟜は鄭軍を率いて前進し、軍隊は皆従い、棫林に至ったが、媾和を獲ず。荀偃は下令して言った、「鶏が鳴けば馬に駕し、井を填め竈を平げ、ただわが馬頭の向く所を見よ!」欒黶は言った、「晋の命令に、かつてこのようなものなし。わが馬頭は東に向かおうと欲す」と。こうして帰った。下軍は彼に従った。左史は魏荘子に言った、「中行伯を待たずか」と。荘子は言った、「夫子は主師に従えと命じた。欒伯はわが主師である。私はまさに彼に従わん。主師に従うは、即ち夫子を対待する所以である」と。伯游は言った、「わが命令は実に誤った。悔いるはどうして及ばん。ただ秦に擒獲を多く留めるのみ」と。こうして大いに撤回するを命じた。晋人はこれを遷延の役と言う。

欒針曰:“此役也,報櫟之敗也。役又無功,晉之恥也。吾有二位於戎路,敢不恥乎?”與士鞅馳秦師,死焉。士鞅反,欒黶謂士匄曰:“餘弟不欲住,而子召之。餘弟死,而子來,是而子殺餘之弟也。弗逐,餘亦將殺之。”士鞅奔秦。

欒鍼は言った、「この戦役は、櫟の敗に報復する。戦役はまた功労なく、是れ晋の恥辱。私は戎路に二つの位あり。敢えて恥とせざらんや」と。士鞅とともに秦軍に馳向かい、そこで死んだ。士鞅は帰り、欒黶は士匄に言った、「わが弟は行きたがらなかったのに、なんじの子が彼を召した。わが弟は死んだのに、なんじの子は帰った。是れなんじの子がわが弟を殺した。追放せずば、私もまた彼を殺さん」と。士鞅は秦に出奔した。

於是,齊崔杼、宋華閱、仲江會伐秦,不書,惰也。向之會亦如之。衛北宮括不書於向,書於伐秦,攝也。

当時、斉の崔杼・宋の華閲・仲江は会合して秦を攻めたが、《春秋》に記さないは、怠惰の故である。向の会見もまたこのよう。衛の北宮括は向で記さず、秦を伐って記すは、補い上げたからである。

秦伯問於士鞅曰:“晉大夫其誰先亡?”對曰:“其欒氏乎!”秦伯曰:“以其汰乎?”對曰:“然。欒黶汰虐已甚,猶可以免。其在盈乎!”秦伯曰:“何故?”對曰:“武子之德在民,如周人之思召公焉,愛其甘棠,況其子乎?欒黶死,盈之善未能及人,武子所施沒矣,而黶之怨實章,將於是乎在。”秦伯以為知言,為之請於晉而復之。

秦伯は士鞅に問うて言った、「晋の大夫で誰が先に滅亡するか」と。答えて言った、「おそらく欒氏でしょう!」秦伯は言った、「彼が驕汰だからか」と。答えて言った、「然り。欒黶の驕汰暴虐はすでに過分、なお免れるべし。おそらく盈に在るでしょう!」秦伯は言った、「何の故か」と。答えて言った、「武子の徳は百姓の中にあり、周人が召公を思い、その甘棠を愛するがごとし。ましてその子をや。欒黶が死ねば、盈の善はまだ人に及ばず、武子の施したはすでに没し、黶の怨恨は実に顕著。まさにここに在らん」と。秦伯はこれを見識ある言とし、彼のために晋に請いて彼を帰らせた。

衛獻公戒孫文子、甯惠子食,皆服而朝。日旰不召,而射鴻於囿。二子從之,不釋皮冠而與之言。二子怒。孫文子如戚,孫蒯入使。公飲之酒,使大師歌《巧言》之卒章。大師辭,師曹請為之。初,公有嬖妾,使師曹誨之琴,師曹鞭之。

衛献公は孫文子・寧恵子とともに食するを約し、皆朝服を着て朝に上った。天が晩れても尚召見せず、かえって苑囿で鴻を射た。両人は跟して往き、皮冠を脱がずして彼らと語った。両人は怒った。孫文子は戚に至り、孫蒯は朝に入り出使した。公は彼に酒を与え、太師に《巧言》の末章を唱わせた。太師は推辞し、師曹がこの事を為るを請うた。初め、公に寵妾あり、師曹に彼女に琴を教えさせたが、師曹は彼女を鞭打した。

公怒,鞭師曹三百。故師曹欲歌之,以怒孫子以報公。公使歌之,遂誦之。

公は怒り、師曹を三百鞭打った。だから師曹はそれを唱いたく、孫子を激怒させて公に報復せんとした。公は唱わせ、こうして朗誦して出した。

蒯懼,告文子。文子曰:“君忌我矣,弗先。必死。”並帑於戚而入,見蘧伯玉曰:“君之暴虐,子所知也。大懼社稷之傾覆,將若之何?”對曰:“君制其國,臣敢奸之?雖奸之,庸如愈乎?”遂行,從近關出。公使子蟜、子伯、子皮與孫子盟於丘宮,孫子皆殺之。四月己未,子展奔齊。公如鄄,使子行於孫子,孫子又殺之。公出奔齊,孫氏追之,敗公徒於河澤。鄄人執之。

蒯は懼れ、文子に告げた。文子は言った、「君王は私を忌恨した。先に手を動かさずば、必ず死す」と。家属を併せて戚に入れてから進み、蘧伯玉に見えて言った、「君王の暴虐は、あなたの知る所。社稷の傾覆するを甚だ恐れる。まさにどうせん」と。答えて言った、「君王はその国を制御す。臣は敢えて冒犯せんや。たとえ冒犯しても、あにより善からんや」と。こうして去り、近関より出た。公は子蟜・子伯・子皮を遣わして孫子と丘宮で盟を結ばせたが、孫子は皆彼らを殺した。四月己未、子展は斉に出奔した。公は鄄に至り、子行を遣わして孫子の所に至らせたが、孫子はまた彼を殺した。公は斉に出奔し、孫氏は追撃し、河沢で公の徒衆を破った。鄄人は彼らを執えた。

初,尹公佗學射於庚公差,庚公差學射於公孫丁。二子追公,公孫丁御公。

初め、尹公佗は庚公差に射を学び、庚公差は公孫丁に射を学んだ。両人は公を追い、公孫丁は公のために車を駕した。

子魚曰:“射為背師,不射為戮,射為禮乎。”射兩軥而還。尹公佗曰:“子為師,我則遠矣。”乃反之。公孫丁授公轡而射之,貫臂。

子魚は言った、「射てば師を背叛し、射ざれば殺される。射るは礼に合うか」と。両軥を射中てて然る後帰った。尹公佗は言った、「あなたは師である。私は遠い」と。こうして折り返した。公孫丁は轡を公に与えて然る後彼を射て、手臂を射穿した。

子鮮從公,及竟,公使祝宗告亡,且告無罪。定姜曰:“無神何告?若有,不可誣也。有罪,若何告無?舍大臣而與小臣謀,一罪也。先君有冢卿以為師保,而蔑之,二罪也。餘以巾櫛事先君,而暴妾使餘,三罪也。告亡而已,無告無罪。”

子鮮は公に従い、国境に至り、公は祝宗に逃亡を報告させ、かつ罪なきを報告させた。定姜は言った、「神なくば何を報告せん。もしあらば、欺くべからず。罪あれば、どうして無しと報告せん。大臣を棄てて小臣と謀るは、一罪。先君に冢卿ありて師保を為すに、彼らを蔑視すは、二罪。私は巾櫛をもって先君に事えたに、暴妾を待つがごとく私を役使すは、三罪。逃亡を報告すれば可。罪なしを報告するな」と。

公使厚成叔吊於衛,曰:“寡君使瘠,聞君不撫社稷,而越在他竟,若之何不弔?以同盟之故,使瘠敢私於執事曰:‘有君不弔,有臣不敏,君不赦宥,臣亦不帥職,增淫發洩,其若之何?’”衛人使大叔儀對曰:“群臣不佞,得罪於寡君。寡君不以即刑而悼棄之,以為君憂。君不忘先君之好,辱吊群臣,又重恤之。敢拜君命之辱,重拜大貺。”厚孫歸,覆命,語臧武仲曰:“衛君其必歸乎!有大叔儀以守,有母弟鱄以出,或撫其內,或營其外,能無歸乎?”齊人以郲寄衛侯。及其復也,以郲糧歸。右宰谷從而逃歸,衛人將殺之。

襄公は厚成叔を遣わして衛に吊問させて言わせた、「寡君は瘠を遣わして来させ、君王が社稷を撫有できずして、遠く別国の境に在るを聞いた。どうして吊問せざるを得ん。同盟の故のために、瘠をして敢えて私に執事に言わしむ、『君王ありて吊問を善くせず、臣ありて敏達せず、君王は赦免寛宥せず、臣もまた職を尽さず。積久の悪は発泄して出た。まさにどうせん』と」と。衛人は大叔儀を遣わして答えさせて言わせた、「群臣は才不才なく、寡君の罪を得た。寡君は彼らを刑罰に交付せずして遠く拠棄し、君王の憂慮と為した。君王は先君の友好を忘れず、辱くも群臣を吊問し、また体恤を加えた。敢えて君王の命令の辱臨を拜し、再拜して大賜す」と。厚孫は帰って復命し、臧武仲に言った、「衛君はおそらく必ず帰れるでしょう!大叔儀ありて国内を守り、母弟鱄ありて国外に従い、人ありて内部を安撫し、人ありて外部を経営す。帰らざるを得んや」と。斉人は郲を衛侯に寄せた。彼が帰るに及び、郲の糧食を帯びて帰った。右宰穀は従ったが逃げ帰り、衛人は彼を殺そうとした。

辭曰:“餘不說初矣,餘狐裘而羔袖。”乃赦之。衛人立公孫剽,孫林父、寧殖相之,以聽命於諸侯。

彼は推辞して言った、「私は初めより喜ばず。私は狐裘にして羔袖を用いた」と。こうして赦免した。衛人は公孫剽を立て、孫林父・寧殖が彼を輔佐し、もって諸侯に命を聴いた。

衛侯在郲,臧紇如齊,唁衛侯。與之言,虐。退而告其人曰:“衛侯其不得入矣!其言糞土也,亡而不變,何以復國?”子展、子鮮聞之,見臧紇,與之言,道。臧孫說,謂其人曰:“衛君必入。夫二子者,或輓之,或推之,欲無入,得乎?”師歸自伐秦,晉侯舍新軍,禮也。成國不過半天子之軍,周為六軍,諸侯之大者,三軍可也。於是知朔生盈而死,盈生六年而武子卒,彘裘亦幼,皆未可立也。新軍無帥,故舍之。

衛侯が郲に在る時、臧紇は斉に行き、衛侯を慰問した。彼と語るに、暴虐。退いて彼の人に告げて言った、「衛侯はおそらく入ることができまい!その言は糞土のごとく、逃亡しても改めず。何をもって国を回復せん」と。子展・子鮮は聞き、臧紇に見え、彼と語るに、道理に合った。臧孫は喜び、その人に言った、「衛君は必ず入ることができる。あの両人は、あるいは拉し、あるいは推す。入らざるを欲すも、能わんや」と。軍は秦を攻めて帰り、晋侯は新軍を撤消した。これは礼に合う。成国は天子の軍の半を過ぐべからず。周は六軍、諸侯の大なるは、三軍で可。この時知朔は盈を生んで即ち死し、盈は生まれて六年にして武子が死去し、彘裘もまた年幼く、皆立つことができず。新軍に主師なく、だから撤消した。

師曠侍於晉侯。晉侯曰:“衛人出其君,不亦甚乎?”對曰:“或者其君實甚。良君將賞善而刑淫,養民如子,蓋之如天,容之如地。民奉其君,愛之如父母,仰之如日月,敬之如神明,畏之如雷霆,其可出乎?夫君,神之主而民之望也。若困民之主,匱神乏祀,百姓絕望,社稷無主,將安用之?弗去何為?天生民而立之君,使司牧之,勿使失性。有君而為之貳,使師保之,勿使過度。是故天子有公,諸侯有卿,卿置側室,大夫有貳宗,士有朋友,庶人、工、商、皂、隸、牧、圉皆有親暱,以相輔佐也。善則賞之,過則匡之,患則救之,失則革之。

師礦は晋侯の辺に侍奉した。晋侯は言った、「衛人はその国君を逐出した。また过分ではないか」と。答えて言った、「あるいはその国君が実に过分なのでしょう。善き国君はまさに善良を賞し淫邪を罰し、百姓を養うこと子のごとく、彼らを覆うこと天のごとく、彼らを容れること地のごとし。百姓が国君に事えるは、彼を愛すること父母のごとく、彼を仰ぐこと日月のごとく、彼を敬うこと神明のごとく、彼を懼るること雷霆のごとし。あに逐出すべからんや。国君は神の主祭者、百姓の仰望である。もし百姓の生計を困らせ、神に祭祀を乏しくせしめ、百姓を絶望せしめ、社稷に主なくば、なお彼を用いて何を為さん。去らずして何を為さん。上天は百姓を生みて国君を立て、彼に治理牧養させ、彼らに本性を失わせざらんとす。国君ありてまた彼のために輔佐を設け、師保に教導させ、彼に过分せざらんとす。だから天子には公あり、諸侯には卿あり、卿は側室を設け、大夫には貳宗あり、士には朋友あり、庶人・工・商・皂・隸・牧・圉は皆親暱ありて、もって互いに輔佐す。善なれば賞し、過あれば匡正し、患難あれば救助し、失誤あれば改正す。

自王以下,各有父兄子弟,以補察其政。史為書,瞽為詩,工誦箴諫,大夫規誨,士傳言,庶人謗,商旅於市,百工獻藝。故《夏書》曰:‘遒人以木鐸徇於路。

天子以下より、各々父兄子弟ありて、もってその政事を補察す。史官は記載し、瞽者は詩を作り、楽工は箴諫を誦し、大夫は規誨し、士は言を伝達し、庶人は謗議し、商旅は市上にあり、百工は藝を献ず。だから《夏書》に言う、『遒人は木鐸をもって路上に巡行す。

官師相規,工執藝事以諫。’正月孟春,於是乎有之,諫失常也。天之愛民甚矣。

官師は互いに規正し、工匠は技藝の事を執りて進諫す』と。正月孟春、こうしてこの事あり。進諫の失常である。上天が百姓を愛することは甚だ深い。

豈其使一人肆於民上,以從其淫,而棄天地之性?必不然矣。”

あに一人をして百姓の頭上に放肆せしめ、もってその淫欲を放縱せしめ、天地の本性を拋棄せしめんや。必ずこのようではない」と。

秋,楚子為庸浦之役故,子囊師於棠以伐吳,吳不出而還。子囊殿,以吳為不能而弗儆。吳人自皋舟之隘要而擊之,楚人不能相救。吳人敗之,獲楚公子宜谷。

秋、楚子は庸浦の戦の故のために、子囊に棠に軍を駐めて呉を攻めさせたが、呉は出兵せず彼は帰った。子囊は殿後したが、呉は能わずとして警戒しなかった。呉人は皋舟の隘口から攔撃し、楚人は互いに救援できず。呉人は彼らを破り、楚の公子宜穀を俘獲した。

王使劉定公賜齊侯命,曰:“昔伯舅大公,右我先王,股肱周室,師保萬民,世胙大師,以表東海。王室之不壞,繄伯舅是賴。今餘命女環!茲率舅氏之典,纂乃祖考,無忝乃舊。敬之哉,無廢朕命!”晉侯問衛故於中行獻子,對曰:“不如因而定之。衛有君矣,伐之,未可以得志而勤諸侯。史佚有言曰:‘因重而撫之。’仲虺有言曰:‘亡者侮之,亂者取之,推亡固存,國之道也。’君其定衛以待時乎!”冬,會於戚,謀定衛也。

天子は劉定公を遣わして斉侯に策命を賜らせて言わせた、「昔伯舅太公は、わが先王を輔佐し、周室の股肱を為し、万民を師保し、世々太師に酬報し、もって東海に表率した。王室が敗壊せざるは、伯舅に頼る。今朕はなんじ環に命ず!このように舅氏の典制に遵循し、なんじの祖考を継承し、なんじの旧徳を辱めるな。敬慎せよ、わが命令を廃棄するな!」晋侯は中行献子に衛の事を問うと、答えて言った、「勢いに就いてこれを安定するに如かず。衛はすでに国君あり。これを攻めば、未だ必ず志を得ずして諸侯を労するのみ。史佚に言あり、『重きに就いて安撫せよ』と。仲虺に言あり、『亡ぶるは彼を欺侮し、乱るるは彼を奪取し、亡を推進し存を鞏固するは、国の道理である』と。君王はなお衛を安定して時機を待て!」冬、戚で会見し、衛を安定するを謀った。

範宣子假羽毛於齊而弗歸,齊人始貳。

范宣子は斉に羽毛を借りて帰さず、斉人は初めて二心を抱いた。

楚子囊還自伐吳,卒。將死,遺言謂子庚:“必城郢。”君子謂:“子囊忠。

楚の子囊は呉を攻めて帰り、死去した。まさに死せんとして、言を遺して子庚に言った、「必ず郢城を修築せよ」と。君子は思う、「子囊は忠誠。

君薨不忘增其名,將死不忘衛社稷,可不謂忠乎?忠,民之望也。《詩》曰:‘行歸於周,萬民所望。’忠也。”

国君が死去してもその名号を増すを忘れず、まさに死せんとしても社稷を衛護するを忘れず。忠誠と言うべからずや。忠誠は、百姓の仰望である。《詩》に言う、『行いは忠信に帰し、万民の仰望す』と。即ち忠誠である」と。

◇襄公十五年

◇襄公十五年

【經】十有五年春,宋公使向戌來聘。二月己亥,及向戌盟於劉。劉夏逆王后於齊。夏,齊侯伐我北鄙,圍成。公救成,至遇。季孫宿、叔孫豹帥師城成郛。

【経】十五年春、宋公は向戌を遣わして聘問させた。二月己亥、向戌と劉で盟を結んだ。劉夏は斉に王后を迎えに行った。夏、斉侯はわが国の北部辺境を攻め、成を包囲した。襄公は成を救い、遇に至った。季孫宿・叔孫豹は軍を率いて成の外城を修築した。

秋八月丁巳,日有食之。邾人伐我南鄙。冬十有一月癸亥,晉侯周卒。

秋八月丁巳、日食があった。邾人はわが国の南部辺境を攻めた。冬十一月癸亥、晋侯周が死去した。

【傳】十五年春,宋向戌來聘,且尋盟。見孟獻子,尤其室,曰:“子有令聞,而美其室,非所望也!”對曰:“我在晉,吾兄為之,毀之重勞,且不敢間。”

【伝】十五年春、宋の向戌が聘問に来て、かつ盟約を重温した。孟献子に見え、その房屋を責めて言った、「あなたは美好の名声ありながら、房屋を華美に作る。期する所ではない!」答えて言った、「私が晋に在る時、わが兄が為した。毀るはまた労苦を加重し、かつ非議すること敢えてせず」と。

官師從單靖公逆王后於齊。卿不行,非禮也。

官師は単靖公に従いて斉に王后を迎えに行った。卿が往かざるは、礼に合わない。

楚公子午為令尹,公子罷戎為右尹,蒍子馮為大司馬,公子櫜師為右司馬,公子成為左司馬,屈到為莫敖,公子追舒為箴尹,屈蕩為連尹,養由基為宮廄尹,以靖國人。君子謂:“楚於是乎能官人。官人,國之急也。能官人,則民無覦心。

楚の公子午は令尹を為り、公子罷戎は右尹を為り、𫇭子馮は大司馬を為り、公子櫜師は右司馬を為り、公子成は左司馬を為り、屈到は莫敖を為り、公子追舒は箴尹を為り、屈蕩は連尹を為り、養由基は宮廐尹を為り、もって国人を安定した。君子は思う、「楚はこの時官員を任用できた。官員を任用するは、国家の急務。能く官員を任用すれば、百姓に非分の心なし。

《詩》云:“嗟我懷人,置彼周行。’能官人也。王及公、侯、伯、子、男、甸、採、衛大夫,各居其列,所謂周行也。”

《詩》に言う、『嗟嘆して我が想念する人を、周行に安置す』と。即ち能く官員を任用するである。天子および公・侯・伯・子・男・甸・采・衛の大夫は、各々行列に処る。即ち謂うところの周行である」と。

鄭尉氏、司氏之亂,其餘盜在宋。鄭人以子西、伯有、子產之故,納賄於宋,以馬四十乘與師伐、師慧。三月,公孫黑為質焉。司城子罕以堵女父、尉翩、司齊與之。良司臣而逸之,托諸季武子,武子置諸卞。鄭人醢之,三人也。

鄭の尉氏・司氏の乱事、その余の盗賊は宋に在り。鄭人は子西・伯有・子産の故のために、宋に賄を納め、馬四十乘と師伐・師慧をもってした。底本の「師伐」は即ち師茷。三月、公孫黑はそこで人質を為った。司城子罕は堵女父・尉翩・司斉を彼らに与えた。司臣を善しとして彼を放走し、季武子に托付し、武子は卞に安置した。鄭人は三人を肉醤にした。

師慧過宋朝,將私焉。其相曰:“朝也。”慧曰:“無人焉。”相曰:“朝也,何故無人?”慧曰:“必無人焉。若猶有人,豈其以千乘之相易淫樂之矇?必無人焉故也。”子罕聞之,固請而歸之。

師慧は宋の朝廷を経過し、まさに小便せんとした。その相は言った、「これは朝廷である」と。慧は言った、「人はここにいない」と。相は言った、「朝廷である。なぜ人がいない」と。慧は言った、「必ず人いない。もし尚人あらば、あに千乗の国の宰相をもって淫楽の盲楽師と交換せんや。必ず人いない故である」と。子罕は聞き、堅く請いて彼を帰らせた。

夏,齊侯圍成,貳於晉故也。於是乎城成郛。

夏、斉侯は成を包囲した。晋に二心ある故である。こうして成の外城を修築した。

秋,邾人伐我南鄙。使告於晉,晉將為會以討邾、莒。晉侯有疾,乃止。冬,晉悼公卒,遂不克會。

秋、邾人はわが国の南部辺境を攻めた。人を遣わして晋に告げ、晋はまさに会見を行い邾・莒を討伐せんとした。晋侯に病あり、こうして停止した。冬、晋悼公が死去し、ついに会見を行うこと能わず。

鄭公孫夏如晉奔喪,子蟜送葬。

鄭の公孫夏は晋に奔喪し、子蟜は葬を送った。

宋人或得玉,獻諸子罕。子罕弗受。獻玉者曰:“以示玉人,玉人以為寶也,故敢獻之。”子罕曰:“我以不貪為寶,爾以玉為寶,若以與我,皆喪寶也。不若人有其寶。”稽首而告曰:“小人懷璧,不可以越鄉。納此以請死也。”子罕置諸其裡,使玉人為之攻之,富而後使復其所。

宋人に玉を得る者あり、子罕に献じた。子罕は受けず。玉を献ずる人は言った、「玉人に見せたところ、玉人は宝とした。だから敢えて献じる」と。子罕は言った、「私は貪ならざるをもって宝とし、なんじは玉をもって宝とす。もし私に与えれば、皆宝を喪う。各々その宝を保有するに如かず」と。叩頭して告げて言った、「小人は璧を懐き、郷里を越えるべからず。これを交納して死を免れるを請います」と。子罕は彼をその里巷に安置し、玉人に彼のために加工させ、富んで後彼を原所に帰らせた。

十二月,鄭人奪堵狗之妻,而歸諸范氏。

十二月、鄭人は堵狗の妻を奪い、范氏に帰還した。

◇襄公十六年

◇襄公十六年

【經】十有六年春王正月,葬晉悼公。三月,公會晉侯、宋公、衛侯、鄭伯、曹伯、莒子、邾子、薛伯、杞伯、小邾子,於湨梁。戊寅,大夫盟。晉人執莒子、邾子以歸。齊侯伐我北鄙。夏,公至自會。五月甲子,地震。叔老會鄭伯、晉荀偃、衛寧殖、宋人伐許。秋,齊侯伐我北鄙,圍郕。大雩。冬,叔孫豹如晉。

【経】十六年春、周天子の暦の正月、晋悼公を葬った。三月、襄公は晋侯・宋公・衛侯・鄭伯・曹伯・莒子・邾子・薛伯・杞伯・小邾子と会合し、湨梁で会見した。戊寅、大夫は盟を結んだ。晋人は莒子・邾子を執えて帰した。斉侯はわが国の北部辺境を攻めた。夏、襄公は会から帰った。五月甲子、地震があった。叔老は鄭伯・晋の荀偃・衛の寧殖・宋人と会同して許を攻めた。秋、斉侯はわが国の北部辺境を攻め、郕を包囲した。大雩を行った。冬、叔孫豹は晋に行った。

【傳】十六年春,葬晉悼公。平公即位,羊舌肸為傅,張君臣為中軍司馬,祁奚、韓襄、欒盈、士鞅為公族大夫,虞丘書為乘馬御。改服修官,烝於曲沃。

【伝】十六年春、晋悼公を葬った。平公が即位し、羊舌肸を太傅とし、張君臣を中軍司馬とし、祁奚・韓襄・欒盈・士鞅を公族大夫とし、虞丘書を乘馬御とした。喪服を改換し、官職を整治し、曲沃で烝祭を行った。

警守而下,會於湨梁。命歸侵田。以我故,執邾宣公、莒犁比公,且曰:“通齊、楚之使。”

守衛を警戒して然る後東下し、湨梁で会見した。侵奪した田を帰還するを命じた。わが国の故のために、邾宣公・莒犁比公を執え、かつ言った、「斉・楚の使者と交通した」と。

晉侯與諸侯宴於溫,使諸大夫舞,曰:“歌詩必類!”齊高厚之詩不類。荀偃怒,且曰:“諸侯有異志矣!”使諸大夫盟高厚,高厚逃歸。於是,叔孫豹、晉荀偃、宋向戌、衛寧殖、鄭公孫蠆、小邾之大夫盟曰:“同討不庭。”

晋侯は諸侯と温で宴飲し、諸大夫に舞を起こさせて言った、「歌詩は必ず類に相合せよ!」斉の高厚の詩は類に合わず。荀偃は怒り、かつ言った、「諸侯に異志あり!」諸大夫に高厚と盟を結ばせようとしたが、高厚は逃げ帰った。当時、叔孫豹・晋の荀偃・宋の向戌・衛の寧殖・鄭の公孫蠆・小邾の大夫は盟を結んで言った、「ともに朝せざるを討伐せん」と。

許男請遷於晉。諸侯遂遷許,許大夫不可。晉人歸諸侯。

許男は晋に遷るを請うた。諸侯はこうして許を遷したが、許の大夫は同意せず。晋人は諸侯を帰らせた。

鄭子蟜聞將伐許,遂相鄭伯以從諸侯之師。穆叔從公。齊子帥師會晉荀偃。

鄭の子蟜はまさに許を攻めんとするを聞き、こうして鄭伯を輔佐して諸侯の軍に従った。穆叔は襄公に従った。斉子は軍を率いて晋の荀偃と会合した。

書曰:“會鄭伯。”為夷故也。

《春秋》に記して「会鄭伯」と言うは、地位相当の故のためである。

夏六月,次於棫林。庚寅,伐許,次於函氏。

夏六月、棫林に駐屯した。庚寅、許を攻め、函氏に駐屯した。

晉荀偃、欒黶帥師伐楚,以報宋揚梁之役。楚公子格帥師及晉師戰於湛阪,楚師敗績。晉師遂侵方城之外,復伐許而還。

晋の荀偃・欒黶は軍を率いて楚を攻め、宋の揚梁の戦に報復した。楚の公子格は軍を率いて晋軍と湛阪で交戦し、楚軍は大敗した。晋軍はこうして方城の外を侵伐し、再び許を攻めて然る後帰った。

秋,齊侯圍郕,孟孺子速徼之。齊侯曰:“是好勇,去之以為之名。”速遂塞海陘而還。

秋、斉侯は郕を包囲し、孟孺子速は攔撃した。斉侯は言った、「この人は勇武を好む。離れてその名を成就せよ」と。速はこうして海陘を堵塞して然る後帰った。

冬,穆叔如晉聘,且言齊故。晉人曰:“以寡君之未禘祀,與民之未息。不然,不敢忘。”穆叔曰:“以齊人之朝夕釋憾於敝邑之地,是以大請!敝邑之急,朝不及夕,引領西望曰:‘庶幾乎!’比執事之間,恐無及也!”見中行獻子,賦《圻父》。獻子曰:“偃知罪矣!敢不從執事以同恤社稷,而使魯及此。”見範宣子,賦《鴻雁》之卒章。宣子曰:“匄在此,敢使魯無鳩乎?”

冬、穆叔は晋に聘問し、かつ斉の事を言った。晋人は言った、「寡君はまだ禘祀を行わず、百姓とまだ休息せず。さもなくば、忘れること敢えてせず」と。穆叔は言った、「斉人が朝夕に敝邑の地で憾恨を発泄するがために、力を尽くして請い求めます!敝邑の急難は、朝は晩を待たず、頚を伸べて西に望んで言う、『ほぼ至るか!』と。執事の空閑を待つに及ばば、おそらく及ばざるでしょう!」中行献子に見え、《圻父》を賦した。献子は言った、「偃は罪を知った!敢えて執事に従いてともに社稷を体恤せずして、魯をこの歩に至らしめんや」と。范宣子に見え、《鴻雁》の末章を賦した。宣子は言った、「匄はここに在り。敢えて魯を安寧ならざらしめんや」と。

◇襄公十七年

◇襄公十七年

【經】十有七年春王二月庚午,邾子卒。宋人伐陳。夏,衛石買帥師伐曹。

【経】十七年春、周天子の暦の二月庚午、邾子が死去した。宋人は陳を攻めた。夏、衛の石買は軍を率いて曹を攻めた。

秋,齊侯伐我北鄙,圍桃。高厚帥師伐我北鄙,圍防。九月,大雩。宋華臣出奔陳。冬,邾人伐我南鄙。

秋、斉侯はわが国の北部辺境を攻め、桃を包囲した。高厚は軍を率いてわが国の北部辺境を攻め、防を包囲した。九月、大雩を行った。宋の華臣は陳に出奔した。冬、邾人はわが国の南部辺境を攻めた。

【傳】十七年春,宋莊朝伐陳,獲司徒卬,卑宋也。

【伝】十七年春、宋の荘朝は陳を攻め、司徒卬を俘獲した。宋を軽視したからである。

衛孫蒯田於曹隧,飲馬於重丘,毀其瓶。重丘人閉門而訽之,曰:“親逐而君,爾父為厲。是之不憂,而何以田為?”夏,衛石買、孫蒯伐曹,取重丘。曹人愬於晉。

衛の孫蒯は曹隧で田獵し、重丘で馬を飲ませ、瓶子を毀した。重丘人は門を關じて彼を罵りて言った、「親しくなんじの国君を逐出し、なんじの父は悪鬼を為す。このを憂えずして、何のため田獵する」と。夏、衛の石買・孫蒯は曹を攻め、重丘を取得した。曹人は晋に訴えた。

齊人以其未得志於我故,秋,齊侯伐我北鄙,圍桃。高厚圍臧紇於防。師自陽關逆臧孫,至於旅松。郰叔紇、臧疇、臧賈帥甲三百,宵犯齊師,送之而復。

斉人はわが国で志を得られざる故のために、秋、斉侯はわが国の北部辺境を攻め、桃を包囲した。高厚は防で臧紇を包囲した。軍は陽關から臧孫を迎え、旅松に至った。郰叔紇・臧疇・臧賈は甲士三百を率いて、夜に斉軍を進犯し、彼を送り去って然る後帰った。

齊師去之。

斉軍は離れた。

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