襄公(元年~三十一年)
齊人獲臧堅。齊侯使夙沙衛唁之,且曰:“無死!”堅稽首曰:“拜命之辱!抑君賜不終,姑又使其刑臣禮於士。”以杙抉其傷而死。
斉人は臧堅を俘獲した。斉侯は夙沙衛を遣わして彼を慰問させ、かつ言わせた、「死するな!」堅は叩頭して言った、「命令の辱臨を拜謝す!ただ君王の賞賜は始めあって終わりなく、またその刑余の臣に士に礼を行わせる」と。木橛をもって傷口を戳進して死んだ。
冬,邾人伐我南鄙,為齊故也。
冬、邾人はわが国の南部辺境を攻めた。斉の故のためである。
宋華閱卒。華臣弱皋比之室,使賊殺其宰華吳。賊六人以鈹殺諸盧門合左師之後。左師懼曰:“老夫無罪。”賊曰:“皋比私有討於吳。”遂幽其妻,曰:“畀餘而大璧!”宋公聞之,曰:“臣也,不唯其宗室是暴,大亂宋國之政,必逐之!”左師曰:“臣也,亦卿也。大臣不順,國之恥也。不如蓋之。”乃舍之。
宋の華閲が死去した。華臣は皋比の家室を侵凌し、賊を遣わしてその家宰華呉を殺させた。六つの賊は鈹をもって盧門で左師の後を合い彼を殺した。左師は懼れて言った、「老夫は罪なし」と。賊は言った、「皋比は私に呉に討伐あり」と。こうしてその妻子を幽禁して言った、「我に大璧を与えよ!」宋公は聞いて言った、「臣という人は、ただその宗室を暴虐するのみならず、宋の政事を大いに乱す。必ず彼を追放せん!」左師は言った、「臣もまた卿である。大臣が和順せざるは、国家の恥辱。掩盖するに如かず」と。こうして放過した。
左師為己短策,苟過華臣之門,必聘。
左師は自らのために短馬鞭を作り、ただ華臣の門を経過すれば、必ず馬を打って快跑した。
十一月甲午,國人逐瘈狗,瘈狗入於華臣氏,國人從之。華臣懼,遂奔陳。
十一月甲午、国人は瘋狗を追逐し、瘋狗は華臣氏に入り、国人は跟して入った。華臣は懼れ、こうして陳に出奔した。
宋皇國父為大宰,為平公築臺,妨於農功。子罕請俟農功之畢,公弗許。築者謳曰:“澤門之皙,實興我役。邑中之黔,實尉我心。”子罕聞之,親執撲,以行築者,而抶其不勉者,曰:“吾儕小人,皆有闔廬以闢燥溼寒暑。今君為一臺而不速成,何以為役?”謳者乃止。或問其故,子罕曰:“宋國區區,而且詛有祝,禍之本也。”
宋の皇国父は太宰を為り、平公のために台を築き、農功を妨害した。子罕は農功が畢るを待つを請い求めたが、公は許さず。台を築く人は唱えて曰く、「澤門のあの皮膚白きは、確かにわれわれの労役を発動す。城の内のあの皮膚黒きは、確かにわれわれの心を安慰す」と。子罕は聞き、自ら扑杖を執りて、台を築く人を巡行し、努力せざる者を鞭打して言った、「われわれこの小人は、皆闔門の房屋ありて燥湿寒暑を避く。今君王は一座の台を築くに速やかに完成せず。何をもって労役を為さん」と。唱歌する人はこうして停止した。人あって故を問うと、子罕は言った、「宋は区区の地であり、しかもすでに詛咒ありまた祝祷あり。是れ禍乱の根本」と。
齊晏桓子卒。晏嬰粗縗斬,苴絰、帶、杖,菅屨,食鬻,居倚廬,寢苫,枕草。其老曰:“非大夫之禮也。”曰:“唯卿為大夫。”
斉の晏桓子が死去した。晏嬰は粗衰斬を着、苴麻をもって絰・帯・杖と為し、菅草鞋を穿ち、粥を食し、倚廬に住み、草苫に寝て、草を枕とした。その家臣の長は言った、「これは大夫の礼ではない」と。言った、「ただ卿のみ大夫の礼を行う」と。
◇襄公十八年
◇襄公十八年
【經】十有八年春,白狄來。夏,晉人執衛行人石買。秋,齊師伐我北鄙。
【経】十八年春、白狄が来た。夏、晋人は衛の行人石買を執えた。秋、斉軍はわが国の北部辺境を攻めた。
冬十月,公會晉侯、宋公、衛侯、鄭伯、曹伯、莒子、邾子、滕子、薛伯、杞伯、小邾子同圍齊。曹伯負芻卒於師。楚公子午帥師伐鄭。
冬十月、襄公は晋侯・宋公・衛侯・鄭伯・曹伯・莒子・邾子・滕子・薛伯・杞伯・小邾子とともに斉を包囲した。曹伯負芻は軍中で死去した。楚の公子午は軍を率いて鄭を攻めた。
【傳】十八年春,白狄始來。
【伝】十八年春、白狄が始めて来た。
夏,晉人執衛行人石買於長子,執孫蒯於純留,為曹故也。
夏、晋人は長子で衛の行人石買を執え、純留で孫蒯を執えた。曹の故のためである。
秋,齊侯伐我北鄙。中行獻子將伐齊,夢與厲公訟,弗勝,公以戈擊之,首隊於前,跪而戴之,奉之以走,見梗陽之巫皋。他日,見諸道,與之言,同。巫曰:“今茲主必死,若有事於東方,則可以逞。”獻子許諾。
秋、斉侯はわが国の北部辺境を攻めた。中行献子はまさに斉を攻めんとして、厲公と争訟するを夢見、勝たず、公は戈をもって彼を撃ち、頭は前に墜ち、跪いてこれを戴き、それを捧げて跑り、梗陽の巫皋に遇った。後のある日、路上で遇い、彼と語るに、相同じ。巫は言った、「今年主人は必ず死す。もし東方に事あれば、得逞できる」と。献子は諾した。
晉侯伐齊,將濟河。獻子以朱絲系玉二瑴,而禱曰:“齊環怙恃其險,負其眾庶,棄好背盟,陵虐神主。曾臣彪將率諸侯以討焉,其官臣偃實先後之。苟捷有功,無作神羞,官臣偃無敢復濟。唯爾有神裁之!”沉玉而濟。
晋侯は斉を攻め、まさに河を渡らんとした。献子は朱絲をもって二つの瑴玉を繋いで、祷告して言った、「斉環は険要を恃み、民衆を恃み、友好を拋棄し盟約を背棄し、神主を陵虐す。陪臣彪はまさに諸侯を率いて討伐せんとす。その官臣偃は実に前後輔助す。もし勝利功あらば、神に羞辱を帯びせず。官臣偃は敢えて再び渡らず。ただ神の裁断を請う!」玉を河中に沈めて然る後渡った。
冬十月,會於魯濟,尋湨梁之言,同伐齊。齊侯御諸平陰,塹防門而守之,廣裡。夙沙衛曰:“不能戰,莫如守險。”弗聽。諸侯之士門焉,齊人多死。範宣子告析文子曰:“吾知子,敢匿情乎?魯人、莒人皆請以車千乘自其鄉入,既許之矣。若入,君必失國。子盍圖之?”子家以告公,公恐。晏嬰聞之曰:“君固無勇,而又聞是,弗能久矣。”齊侯登巫山以望晉師。晉人使司馬斥山澤之險,雖所不至,必旆而疏陳之。使乘車者左實右偽,以旆先,輿曳柴而從之。齊侯見之,畏其眾也,乃脫歸。丙寅晦,齊師夜遁。師曠告晉侯曰:“鳥烏之聲樂,齊師其遁。”邢伯告中行伯曰:“有班馬之聲,齊師其遁。”叔向告晉侯曰:“城上有烏,齊師其遁。”
冬十月、魯済で会見し、湨梁の言を重温し、ともに斉を攻めた。斉侯は平陰で抵御し、壕を挖いて防門を守り、広さ一里。夙沙衛は言った、「交戦できず。険を守るに如かず」と。聴かず。諸侯の士は城門を攻め、斉人の死ぬこと多かった。范宣子は析文子に告げて言った、「私はあなたを了解す。敢えて実情を隠瞞せんや。魯人・莒人は皆車一千乘をもって彼らのあの面から入るを請い、すでに許した。もし入れば、君王は必ず国を失う。あなたは何ぞ謀らざる」と。子家は公に告げ、公は恐懼した。晏嬰は聞いて言った、「君王はもとより勇気なく、またこのを聞いた。長久できない」と。斉侯は巫山に登りて晋軍を眺望した。晋人は司馬を遣わして山沢の険要を偵察させ、軍隊の至らざる所にも、必ず旗幟を挿して疎らに陈列した。乗車の左を真人右を假人とし、旗幟をもって前を走らせ、車子は柴を拖いて従った。斉侯は見て、彼らが人多きを恐れ、こうして脱して帰った。丙寅の晦日、斉軍は夜に逃げ走った。師礦は晋侯に告げて言った、「烏鴉の叫声は歓楽。斉軍はおそらく逃げ走った」と。邢伯は中行伯に告げて言った、「馬匹が盤旋する声あり。斉軍はおそらく逃げ走った」と。叔向は晋侯に告げて言った、「城上に烏鴉あり。斉軍はおそらく逃げ走った」と。
十一月丁卯朔,入平陰,遂從齊師。夙沙衛連大車以塞隧而殿。殖綽、郭最曰:“子殿國師,齊之辱也。子姑先乎!”乃代之殿。衛殺馬於隘以塞道。晉州綽及之,射殖綽,中肩,兩矢夾脰,曰:“止,將為三軍獲。不止,將取其衷。”
十一月丁卯の朔日、平陰に入り、こうして斉軍を追った。夙沙衛は大車を連ねて隧道を堵塞して殿後した。殖綽・郭最は言った、「あなたが国軍を殿後するは、斉の恥辱。あなたはしばらく先に走れ!」こうして彼に代わって殿後した。衛は馬を殺して隘口で道路を堵塞した。晋の州綽は追い及び、殖綽を射て、肩膀に中り、二支の箭が頚を夾んで、言った、「止まれ、三軍の俘虜と為らん。止まらずば、なんじの正中を射ん」と。
顧曰:“為私誓。”州綽曰:“有如日!”乃弛弓而自後縛之。其右具丙亦舍兵而縛郭最,皆衿甲面縛,坐於中軍之鼓下。
回頭して言った、「私の誓約を為せ」と。州綽は言った、「太陽のごとくあれ!」こうして弓を鬆めて後ろから彼を綁った。その車右具丙もまた兵器を放下して郭最を綁り、皆鎧甲を穿着して面して捆綁し、中軍の鼓の下に坐した。
晉人慾逐歸者,魯、衛請攻險。己卯,荀偃、士匄以中軍克京茲。乙酉,魏絳、欒盈以下軍克邿。趙武、韓起以上軍圍盧,弗克。十二月戊戌,及秦周,伐雍門之萩。範鞅門於雍門,其御追喜以戈殺犬於門中。孟莊子斬其橁以為公琴。己亥,焚雍門及西郭、南郭。劉難、士弱率諸侯之師焚申池之竹木。壬寅,焚東郭、北郭。範鞅門於揚門。州綽門於東閭,左驂迫,還於門中,以枚數闔。
晋人は回去する人を驅逐しようとし、魯・衛は険要を攻めるを請い求めた。己卯、荀偃・士匄は中軍をもって京兹を攻克した。乙酉、魏絳・欒盈は下軍をもって邿を攻克した。趙武・韓起は上軍をもって盧を包囲したが、攻克せず。十二月戊戌、秦周に至り、雍門の萩を砍伐した。范鞅は雍門を攻め、その御者追喜は戈をもって門中で狗を殺した。孟荘子は橁木を砍下して公室の琴と為した。己亥、雍門および西郭・南郭を焚焼した。劉難・士弱は諸侯の軍を率いて申池の竹木を焚焼した。壬寅、東郭・北郭を焚焼した。范鞅は揚門を攻めた。州綽は東閭を攻め、左の驂馬は擠れ、門中で盤旋し、馬鞭をもって門扇を点数した。
齊侯駕,將走郵棠。大子與郭榮扣馬,曰:“師速而疾,略也。將退矣,君何懼焉!且社稷之主,不可以輕,輕則失眾。君必待之。”將犯之,大子抽劍斷鞅,乃止。甲辰,東侵及濰,南及沂。
斉侯は車を駕し、まさに郵棠に逃げ往かんとした。太子と郭榮は馬を拉して言った、「軍隊は迅速にして猛烈。是れ掠取である。まさに退かんとす。君王は何を怕れる。しかも社稷の主は軽動すべからず。軽動すれば即ち民衆を失う。君王は必ず待て」と。まさに沖り過ぎんとするに、太子は剣を抽きて鞅を砍断し、こうして停止した。甲辰、東して濰に侵伐し至り、南して沂に至った。
鄭子孔欲去諸大夫,將叛晉而起楚師以去之。使告子庚,子庚弗許。楚子聞之,使楊豚尹宜告子庚曰:“國人謂不穀主社稷,而不出師,死不從禮。不穀即位,於今五年,師徒不出,人其以不穀為自逸,而忘先君之業矣。大夫圖之!其若之何?”子庚嘆曰:“君王其謂午懷安乎!吾以利社稷也。”見使者,稽首而對曰:“諸侯方睦於晉,臣請嘗之。若可,君而繼之。不可,收師而退,可以無害,君亦無辱。”子庚帥師治兵於汾。於是子蟜、伯有、子張從鄭伯伐齊,子孔、子展、子西守。二子知子孔之謀,完守入保。子孔不敢會楚師。
鄭の子孔は諸大夫を去ろうと欲し、まさに晋を背叛して楚軍を発動して彼らを去らんとした。人を遣わして子庚に告げたが、子庚は許さず。楚子は聞き、楊豚尹宜を遣わして子庚に告げさせて言わせた、「国人は不穀が社稷を主持して出兵せざるを以て、死して礼に合わざるとす。不穀は即位してより今五年、軍隊は出さず。人はおそらく不穀が自ら安逸して、先君の事業を忘れたと思う。大夫は謀れ!まさにどうせん」と。子庚は歎息して言った、「君王はおそらく午が安逸を貪ると思うのでしょう!私は社稷に利あるためである」と。使者に見え、叩頭して答えて言った、「諸侯はまさに晋と和睦せんとす。臣は試探するを請います。もし可ならば、君王は再接上せよ。不可ならば、兵を収め退下し、害なきを得られ、君王にも羞辱なし」と。子庚は軍を率いて汾で兵を治めた。当時子蟜・伯有・子張は鄭伯に従いて斉を攻め、子孔・子展・子西は留守した。あの両人は子孔の謀を知り、守備を完善して城堡に入った。子孔は敢えて楚軍と会合せず。
楚師伐鄭,次於魚陵。右師城上棘,遂涉潁,次於旃然。蒍子馮、公子格率銳師侵費滑、胥靡、獻於、雍梁,右回梅山,侵鄭東北,至於蟲牢而反。子庚門於純門,信於城下而還。涉於魚齒之下,甚雨及之,楚師多凍,役徒幾盡。
楚軍は鄭を攻め、魚陵に駐屯した。右師は上棘を修築し、こうして頟水を渡り、旃然に駐屯した。蒍子馮・公子格は精鋭を率いて費滑・胥靡・献于・雍梁を侵伐し、右に梅山を繞り、鄭の東北を侵伐し、虫牢に至りて然る後返った。子庚は純門を攻め、城下に両夜住んで然る後帰った。魚齒の下で渡河するに、大雨に趕き、楚軍の凍傷すること多く、役徒はほぼ死に尽きた。
晉人聞有楚師,師曠曰:“不害。吾驟歌北風,又歌南風。南風不競,多死聲。楚必無功。”董叔曰:“天道多在西北,南師不時,必無功。”叔向曰:“在其君之德也。”
晋人は楚軍あるを聞き、師礦は言った、「妨害せず。私は驟然と北風を唱え、また南風を唱えた。南風は強からず、死声多し。楚は必ず功労なし」と。董叔は言った、「天道は多く西北に在り、南方の軍隊は時令に合わず。必ず功労なし」と。叔向は言った、「彼らの国君の徳行に在り」と。
◇襄公十九年
◇襄公十九年
【經】十有九年春王正月,諸侯盟於祝柯。晉人執邾子,公至自伐齊。取邾田,自漷水。季孫宿如晉。葬曹成公。夏,衛孫林父帥師伐齊。秋七月辛卯,齊侯環卒。晉士匄帥師侵齊,至谷,聞齊侯卒,乃還。八月丙辰,仲孫蔑卒。齊殺其大夫高厚。鄭殺其大夫公子嘉。冬,葬齊靈公。城西郛。叔孫豹會晉士匄於柯。城武城。
【経】十九年春、周天子の暦の正月、諸侯は祝柯で盟を結んだ。晋人は邾子を執えた。襄公は斉を攻めたところから帰った。邾国の田を取得し、漷水より始めた。季孫宿は晋に行った。曹成公を葬った。夏、衛の孫林父は軍を率いて斉を攻めた。秋七月辛卯、斉侯環が死去した。晋の士匄は軍を率いて斉を侵伐し、穀に至り、斉侯の死去を聞き、こうして帰った。八月丙辰、仲孫蔑が死去した。斉はその大夫高厚を殺した。鄭はその大夫公子嘉を殺した。冬、斉霊公を葬った。西郭を修築した。叔孫豹は晋の士匄と柯で会見した。武城を修築した。
【傳】十九年春,諸侯還自沂上,盟於督揚,曰:“大毋侵小。”
【伝】十九年春、諸侯は沂上より帰り、督揚で盟を結んで言った、「大なるは小なるを侵伐するな」と。
執邾悼公,以其伐我故。遂次於泗上,疆我田。取邾田,自漷水歸之於我。
邾悼公を執えた。わが国を攻めた故のためである。こうして泗上に駐屯し、わが国の田界を划定した。邾国の田を取得し、漷水よりわが国に帰した。
晉侯先歸。公享晉六卿於蒲圃,賜之三命之服。軍尉、司馬、司空、輿尉、候奄,皆受一命之服。賄荀偃束錦,加璧,乘馬,先吳壽夢之鼎。
晋侯は先に帰った。襄公は蒲圃で晋の六卿を宴享し、彼らに三命の礼服を賜った。軍尉・司馬・司空・輿尉・候奄は、皆一命の礼服を受けた。束錦をもって荀偃に賂し、璧を加え、四匹の馬、先に呉寿夢の鼎を送り上げた。
荀偃癉疽,生瘍於頭。濟河,及著雍,病,目出。大夫先歸者皆反。士匄請見,弗內。請後,曰:“鄭甥可。”二月甲寅,卒,而視,不可含。宣子盥而撫之,曰:“事吳,敢不如事主!”猶視。欒懷子曰:“其為未卒事於齊故也乎?”乃復撫之曰:“主苟終,所不嗣事於齊者,有如河!”乃暝,受含。宣子出,曰:“吾淺之為丈夫也。”
荀偃は癉疽を得、頭に瘍を生じた。河を渡り、著雍に至り、病が重く、眼珠は突出した。大夫の先に帰ったは皆返った。士匄は進見を請うたが、接納せず。継承人を問うと、言った、「鄭の甥は可」と。二月甲寅、死去したが、目を睜いて、玉を含むことができず。宣子は手を洗い彼を撫して言った、「呉に事えるに、敢えて主君のごとく事えざらんや!」なお目を睜いていた。欒懐子は言った、「おそらく斉の事が未完成だからでしょうか」と。こうしてまた彼を撫して言った、「主君もし終了せば、斉に兵を用いるを継続せざるあらば、河神のごとくあれ!」こうして目を閉じ、玉を含むを受けた。宣子は出て言った、「私は丈夫として太だ浅い」と。
晉欒魴帥師從衛孫文子伐齊。季武子如晉拜師,晉侯享之。範宣子為政,賦《黍苗》。季武子興,再拜稽首曰:“小國之仰大國也,如百穀之仰膏雨焉!若常膏之,其天下輯睦,豈唯敝邑?”賦《六月》。
晋の欒魴は軍を率いて衛の孫文子に従いて斉を攻めた。季武子は晋に行き出兵を拜謝し、晋侯は彼を宴享した。范宣子は執政し、《黍苗》を賦した。季武子は身を起こし、再拜叩頭して言った、「小国は大国を仰ぐこと、百穀が膏雨を仰ぐがごとし!もし常に潤沢あらば、天下はまさに和睦せん。あに敝邑のみならんや」と。《六月》を賦した。
季武子以所得於齊之兵,作林鐘而銘魯功焉。臧武仲謂季孫曰:“非禮也。
季武子は斉から得た兵器をもって、林鐘を作りて魯の功労を銘刻した。臧武仲は季孫に言った、「礼に合わない。
夫銘,天子令德,諸侯言時計功,大夫稱伐。今稱伐則下等也,計功則借人也,言時則妨民多矣,何以為銘?且夫大伐小,取其所得以作彝器,銘其功烈以示子孫,昭明德而懲無禮也。今將借人之力以救其死,若之何銘之?小國幸於大國,而昭所獲焉以怒之,亡之道也。”
銘文は、天子は美徳を記載し、諸侯は時に合い功労を計算し、大夫は征伐を称述す。今征伐を称述するは即ち下等、功労を計算するは即ち他人の力を借る、時に合うと言うは即ち百姓を妨害すること多し。何をもって銘を為さん。しかも大なるが小なるを攻め、得た所を取りて彝器を作り、功烈を銘刻して子孫に見せ、徳行を顕明し無礼を懲戒す。今まさに他人の力を借りて自らの死を救わんとす。どうしてこれを銘刻せん。小国が大国に僥倖して、獲得した所を顕明してこれを激怒せしむは、滅亡の道」と。
齊侯娶於魯,曰顏懿姬,無子。其侄鬲聲姬,生光,以為大子。諸子仲子、戎子,戎子嬖。仲子生牙,屬諸戎子。戎子請以為大子,許之。仲子曰:“不可。
斉侯は魯から妻を娶り、顔懿姬と言い、子なし。その姪女鬲声姬は、光を生み、太子に立てられた。諸妾仲子・戎子、戎子は寵を受けた。仲子は牙を生み、戎子に托付した。戎子は太子に立てるを請い求め、許した。仲子は言った、「可ならず。
廢常,不祥;間諸侯,難。光之立也,列於諸侯矣。今無故而廢之,是專黜諸侯,而以難犯不祥也。君必悔之。”公曰:“在我而已。”遂東大子光。使高厚傅牙,以為大子,夙沙衛為少傅。
常規を廃棄するは、不吉。諸侯に触犯するは、困難。光の即位は、すでに諸侯に列した。今故なく廃するは、専断に諸侯を貶黜する。困難をもって不吉に冒犯す。君王は必ず悔いる」と。公は言った、「私に在るのみ」と。こうして太子光を東部に遷した。高厚に牙を輔導させ、太子に立て、夙沙衛を少傅とした。
齊侯疾,崔杼微逆光。疾病,而立之。光殺戎子,屍諸朝,非禮也。婦人無刑。雖有刑,不在朝市。
斉侯は病み、崔杼は暗に光を迎えた。病が危うく、彼を立てた。光は戎子を殺し、尸を朝廷に陳した。礼に合わない。婦人にこのような刑罰なし。たとえ刑罰あっても、朝廷集市に在らず。
夏五月壬辰晦,齊靈公卒。莊公即位,執公子牙於句瀆之丘。以夙沙衛易己,衛奔高唐以叛。
夏五月壬辰の晦日、斉霊公が死去した。荘公が即位し、句瀆之丘で公子牙を執えた。夙沙衛が自らを改換したがために、衛は高唐に出奔して背叛した。
晉士匄侵齊,及谷,聞喪而還,禮也。
晋の士匄は斉を侵伐し、穀に至り、喪あるを聞いて帰った。これは礼に合う。
於四月丁未,鄭公孫蠆卒,赴於晉大夫。範宣子言於晉侯,以其善於伐秦也。
四月丁未に在りて、鄭の公孫蠆が死去し、晋の大夫に訃告した。范宣子は晋侯に言った。彼が秦を攻めた時に表現善かったからである。
六月,晉侯請於王,王追賜之大路,使以行,禮也。
六月、晋侯は天子に請い、天子は追って彼に大路を賜い、もって葬を送らせた。これは礼に合う。
秋八月,齊崔杼殺高厚於灑藍而兼其室。書曰:“齊殺其大夫。”從君於昏也。
秋八月、斉の崔杼は洒藍で高厚を殺し、その家室を兼并した。《春秋》に記して「斉殺其大夫」と言うは、国君に従いて昏乱せるである。
鄭子孔之為政也專。國人患之,乃討西宮之難,與純門之師。子孔當罪,以其甲及子革、子良氏之甲守。甲辰,子展、子西率國人伐之,殺子孔而分其室。
鄭の子孔は執政専断した。国人は憂患し、こうして西宮の難を討伐し、純門の出兵を與えた。子孔は当に罪あるべく、その甲士および子革・子良氏の甲士をもって守衛した。甲辰、子展・子西は国人を率いて彼を攻め、子孔を殺しその家室を瓜分した。
書曰:“鄭殺其大夫。”專也。子然、子孔,宋子之子也;士子孔,圭媯之子也。
《春秋》に記して「鄭殺其大夫」と言うは、専断の故である。子然・子孔は、宋子の子。士子孔は、圭嬀の子。
圭媯之班亞宋子,而相親也;二子孔亦相親也。僖之四年,子然卒,簡之元年,士子孔卒。司徒孔實相子革、子良之室,三室如一,故及於難。子革、子良出奔楚,子革為右尹。鄭人使子展當國,子西聽政,立子產為卿。
圭嬀の班次は宋子の下に在るも、互いに親近した。両子孔もまた互いに親近した。僖公四年、子然死去し、簡公元年、士子孔死去した。司徒孔は実に子革・子良の家室を輔佐し、三家は一家のごとく、だから災難に趕いた。子革・子良は楚に出奔し、子革は右尹を為った。鄭人は子展に国事を主持させ、子西は政を聴き、子産を卿に立てた。
齊慶封圍高唐,弗克。冬十一月,齊侯圍之,見衛在城上,號之,乃下。問守備焉,以無備告。揖之,乃登。聞師將傅,食高唐人。殖綽、工僂會夜縋納師,醢衛于軍。
斉の慶封は高唐を包囲したが、攻克せず。冬十一月、斉侯はこれを包囲し、衛が城上に在るを見て、彼を喊し、こうして下りた。守備を問うに、防備なしを以て告げた。揖を作し、こうして城に登った。軍隊がまさに城を爬らんとするを聞き、高唐人に飯を食わせた。殖綽・工僂会は夜に縄をもって軍隊を縋り入れ、軍中で衛を肉醤にした。
城西郛,懼齊也。
西郭を修築したのは、斉を怕れたからである。
齊及晉平,盟於大隧。故穆叔會範宣子於柯。穆叔見叔向,賦《載馳》之四章。叔向曰:“肸敢不承命。”穆叔曰:“齊猶未也,不可以不懼。”乃城武城。
斉は晋と講和し、大隧で盟を結んだ。だから穆叔は范宣子と柯で会見した。穆叔は叔向に見え、《載馳》の第四章を賦した。叔向は言った、「肸は敢えて命令を承えざらんや」と。穆叔は言った、「斉はまだ終わっていない。懼れざるべからず」と。こうして武城を修築した。
衛石共子卒,悼子不哀。孔成子曰:“是謂蹶其本,必不有其宗。”
衛の石共子が死去したが、悼子は悲哀しなかった。孔成子は言った、「これを蹶動根本と言う。必ずその宗族を保有できない」と。
◇襄公二十年
◇襄公二十年
【經】二十年春王正月辛亥,仲孫速會莒人盟於向。夏六月庚申,公會晉侯、齊侯、宋公、衛侯、鄭伯、曹伯、莒子、邾子、滕子、薛伯、杞伯,小邾子盟於澶淵。秋,公至自會。仲孫速帥師伐邾。蔡殺其大夫公子燮。蔡公子履出奔楚。
【経】二十年春、周天子の暦の正月辛亥、仲孫速は莒人と会同して向で盟を結んだ。夏六月庚申、襄公は晋侯・斉侯・宋公・衛侯・鄭伯・曹伯・莒子・邾子・滕子・薛伯・杞伯・小邾子と澶淵で盟を結んだ。秋、襄公は会から帰った。仲孫速は軍を率いて邾を攻めた。蔡はその大夫公子燮を殺した。蔡の公子履は楚に出奔した。
陳侯之弟黃出奔楚。叔老如齊。冬十月丙辰朔,日有食之。季孫宿如宋。
陳侯の弟黄は楚に出奔した。叔老は斉に行った。冬十月丙辰の朔日、日食があった。季孫宿は宋に行った。
【傳】二十年春,及莒平。孟莊子會莒人,盟於向,督揚之盟故也。
【伝】二十年春、莒と講和した。孟荘子は莒人と会見し、向で盟を結んだ。督揚の盟の故である。
夏,盟於澶淵,齊成故也。
夏、澶淵で盟を結んだ。斉が講和を成した故である。
邾人驟至,以諸侯之事,弗能報也。秋,孟莊子伐邾以報之。
邾人は屢々来たが、諸侯の事務のために、報復できなかった。秋、孟荘子は邾を攻めて報復した。
蔡公子燮欲以蔡之晉,蔡人殺之。公子履,其母弟也,故出奔楚。
蔡の公子燮は蔡を晋に傾けようと欲し、蔡人は彼を殺した。公子履はその同母弟なので、楚に出奔した。
陳慶虎、慶寅畏公子黃之逼,愬諸楚曰:“與蔡司馬同謀。”楚人以為討。
陳の慶虎・慶寅は公子黄の逼迫を怕れ、楚に訴えて言った、「蔡の司馬とともに謀った」と。楚人はこれによって討伐した。
公子黃出奔楚。
公子黄は楚に出奔した。
初,蔡文侯欲事晉,曰:“先君與於踐士之盟,晉不可棄,且兄弟也。”畏楚,不能行而卒。楚人使蔡無常,公子燮求從先君以利蔡,不能而死。書曰:“蔡殺其大夫公子燮”,言不與民同欲也;“陳侯之弟黃出奔楚”,言非其罪也。
初め、蔡文侯は晋に事えようと欲して言った、「先君は践土の盟に参与し、晋は棄てるべからず。しかも兄弟である」と。楚を怕れ、実行できずして死去した。楚人は蔡に対し常規なく、公子燮は先君に従うを請いて蔡に利あらんとしたが、能わずして死去した。《春秋》に記して「蔡殺其大夫公子燮」と言うは、百姓と同一の願いを為さざるを言う。「陳侯之弟黄出奔楚」と言うは、彼の罪ではないを言う。
公子黃將出奔,呼於國曰:“慶氏無道,求專陳國,暴蔑其君,而去其親,五年不滅,是無天也。”
公子黄はまさに出奔せんとして、国中で喊して言った、「慶氏は無道、陳を専断せんと求め、国君を暴虐蔑視し、その親人を去らんとす。五年して滅亡せざれば、これは天なし」と。
齊子初聘於齊,禮也。
斉子は初めて斉に聘問した。これは礼に合う。
冬,季武子如宋,報向戌之聘也。褚師段逆之以受享,賦《常棣》之七章以卒。宋人重賄之。歸,覆命,公享之。賦《魚麗》之卒章。公賦《南山有臺》。
冬、季武子は宋に行き、向戌の聘問に報いた。褚師段が彼を迎えて宴享を受け、《常棣》の第七章より卒章に至るまで賦した。宋人は重ねて彼に賂した。帰って復命し、襄公は彼を宴享した。《魚麗》の卒章を賦した。襄公は《南山有台》を賦した。
武子去所,曰:“臣不堪也。”
武子は座席を離れて言った、「臣は承当に堪えません」と。
