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萃卦(坤下兌上)

唐 · 史徵 · 第10巻 / 14

作盤ガイド: 大衍筮法, 六爻納甲の立卦

坤下兌上。萃:亨,王假有廟,利見大人,亨,利貞,用大牲吉,利有攸往。彖曰:萃,聚也。順以說,剛中而應,故聚也。王假有廟,致孝享也。利見大人亨,聚以正也。用大牲吉,利有攸往,順天命也。觀其所聚,而天地萬物之情可見矣。象曰:澤上於地,萃。君子以除戎器,戒不虞。

萃卦は下卦が坤、上卦が兌で、沢水が地上に聚り、万物が匯聚する。ゆえに萃と名づける。卦辞は言う、萃は、亨通、君王が宗廟に親臨し、大人に見るに宜しく、亨通、正を守るに宜しく、大牲を用いて祭祀すれば吉利、往くところあるに宜しい、と。《彖伝》は言う、「萃」は會聚である。柔順にして和悦、九五の陽剛が中に居りて六二と相応するので會聚できる。「王假有廟」は、孝敬祭享の誠を尽くす。「利見大人亨」は、會聚が正道に依循するを言う。「用大牲吉、利有攸往」は、天命に順応する。万物の會聚の理を観れば、天地万物の実情が見て取れる。《大象伝》は言う、沢水が地上に升る、これが萃である、君子はこれに法り、兵器を修治し、意外の変に戒備する、と。

初六,有孚不終,乃亂乃萃,若號一握為笑,勿恤,往無咎。象曰:乃亂乃萃,其志亂也。六二,引吉,無咎,孚乃利用禴。象曰:引吉無咎,中未變也。六三,萃如嗟如,無攸利,往無咎,小吝。象曰:往無咎,上巽也。九四,大吉,無咎。象曰:大吉無咎,位不當也。九五,萃有位,無咎,匪孚,元永貞,悔亡。象曰:萃有位,志未光也。上六,齎諮涕洟,無咎。象曰:齎諮涕洟,未安上也。

初六の爻辞、誠信あれど終始できず、ここにおいて心思が紛乱して聚合に往く、もし呼号して助を求めれば、瞬く間にまた嬉笑と化す、憂慮する必ずしも要せず、往けば咎なし。《小象伝》は言う、心思が紛乱して聚合に往くは、その心志がすでに乱れたからだ、と。六二の爻辞、牽引されて往けば吉、咎なし、誠信を懐けば、微薄の禴祭を用いるに宜しい。《小象伝》は言う、牽引を受けて吉で咎なきは、その居中の徳が改変していないからだ、と。六三の爻辞、聚合せんとして嘆息するのみ、得るところの利なし、往けば咎なし、ただ小さな憾惜あり。《小象伝》は言う、往けば咎なきは、上六が柔順をもって納くるからだ、と。九四の爻辞、大いに吉利、こそ咎なし。《小象伝》は言う、大吉してこそ咎なきは、九四の居る位が当たらないからだ、と。九五の爻辞、會聚して尊位に居る、咎なし、人の信を取る能わざれば、長く正を守るを要して、悔恨が消える。《小象伝》は言う、萃して位あるは、心志がまだ光大せざるからだ、と。上六の爻辞、嗟嘆已まず、涕涙が交流る、咎なし。《小象伝》は言う、嗟嘆涕泣するは、それが上に居りて安処できざるからだ、と。

萃亨者。萃,聚也。其猶王者有德,懷來萬邦,人皆歸之,故曰萃也。人既歸已,即無所不通,故曰萃亨也。

卦辞「萃、亨」。「萃」は會聚で、これはちょうど君王に徳あり、万国を安撫招徠して、人人が来て彼に帰附するがごとし。ゆえに萃と言う。衆人がすでに己に帰向すれば、行き通らぬ所なし。ゆえに「萃、亨」と言う。

王假有廟者。假,至也。天下離散,雖則有廟,與無廟同,縱使享祭,神明不降。今王既有德,人神大同,孝德乃洽,王至此時,始可假有宗廟,故周正云:鬼神享德不在食也。

「王假有廟」。「假」は親至・感格である。天下がもし離心離散すれば、たとえ宗廟を設けても、宗廟なきと同じ、たとえ祭享を挙行しても、神明は降臨せんと肯んじない。いま君王はすでに徳あり、人と神が同心し、孝敬の徳が周遍を得る。君王がこの時に至り、初めて真に親臨して宗廟を有すと言いうる。ゆえに周氏は言う、鬼神の享用するは徳行で、祭品の豊盛に在らず、と。

利見大人,亨,利貞者。當聚之時,必須德大之人而為其主,故書云:惟天生民有欲,無主乃亂,故曰利見大人也。大德之人能正道,即使下民亨通,而利以為正,故曰亨利貞也。

「利見大人、亨、利貞」。まさに會聚の時にあたり、必ず徳行が宏大の人を主宰としなければならない。ゆえに《尚書》は言う、上天が百姓を生じ、人おのおの欲望あり、君主なければ乱る、よって大人に見るに宜しいと言う、と。徳行宏大の人が世道を端正しうれば、下の百姓を通達順遂させ、守正をもって利とする。ゆえに亨通して正を守るに宜しいと言う。

用大牲吉,利有攸往者。大牲,犠牛也。大德之人而為其主,聚道既全,即宜用大牲吉,利用攸往也。

「用大牲吉、利有攸往」。「大牲」は祭祀に用いる純色の犠牛である。すでに徳行宏大の人を主宰とすれば、會聚の道はすでに完備する。然らば大牲を用いて隆重的祭祀を挙行して吉を獲るに宜しく、また往くところあるに宜しい。

象曰:澤上於地,萃者。澤處地上,水潦聚物,是萃聚象也。君子以除戎器,戒不虞者。除,治也。當大聚之時,慮恐人心有異,故曰君子亦修戎器,戒慎防備不虞,文聚武備是也。

《大象伝》の言う「沢上于地、萃」――沢水が地面の上に積聚し、雨水が匯聚して万物が随いて聚攏する。これが會聚の形象である。「君子以除戎器、戒不虞」の「除」は修治である。まさに大規模會聚の時にあたり、人心が変を生ぜんかを恐れる。ゆえに君子もまた兵器を整修し、意外の変を戒慎防備するを言う。これは文治が人を聚め武備が廃せざるの理である。

初六有孚不終,乃亂乃萃,若號一握為笑,勿恤,往無咎者。初六應於九四,見六三與九四相近,心生嫌疑,始以誠信相就,忽然生疑未進,故曰有孚不終也。當萃之時,貴於合會,奔馳而往,進不以禮,故曰乃亂乃萃。夫謙恭之道,百行之本,若以謙而行,即無不合。今初六若執此謙遜,自比身雲一握之小,又為柔懦卑劣之容,即六三邪偶,安能固守於四,即初六往必相得,不用憂慮,所以無咎,故曰勿恤往無咎也。一握者,卑小之質,喻已身如一握之微小也;為笑者,懦劣之容,不敢作強剛之貎也。

初六の爻辞「有孚不終、乃乱乃萃、若号一握為笑、勿恤、往无咎」。初六は九四と相応するが、六三が九四と位置緊鄰するを見て、心中に猜疑を生ず。初めは本は誠信をもって前に親就したが、忽然として疑心が大いに起こり進まず止まる。ゆえに誠信あれど終始できずと言う。まさに會聚の時にあたり、貴ぶ所は彼此の會合である。それは慌乱して奔走して往き、進取が礼数に合わない。ゆえに心思が紛乱して聚合に往くと言う。謙遜恭敬の道は、各種徳行の根本である。もし謙遜に凭って行事すれば、合わざるなし。いま初六がもしこの謙遜を執守し、自分を一握の物ほど渺小に見、柔弱卑下の姿態を呈せば、六三という不正の匹配がどうして九四を牢牢に守住できようか。初六は往けば必ず九四と相合える。憂慮する必ずしも要せず、ゆえに咎なし。よって憂慮するなかれ、往けば咎なしと言う。「一握」は卑微渺小のさまで、自身が一握の物のように微不足なを喩える。「為笑」は柔弱謙卑の容態で、剛強の架势を敢えて出さない。

六二引吉,無咎,孚乃利用禴者。禴,殷春祭名,四時最薄也。處聚之時,貴相聚集,方始合宜。今六二體柔居坤,守中不變,意欲靜退,不肯相從以為聚會,斯乃違眾時,即凶危必至,必須牽引,然後始行,遂得吉而免咎,故曰引吉無咎。以六二體中懷信,不求苟進,既有斯徳,即可以往,至薄之物薦於鬼神,鬼神降福,故曰孚乃利用禴也。

六二の爻辞「引吉、无咎、孚乃利用禴」。「禴」は殷代の春祭の名称で、四時の祭祀の中で最も簡薄である。會聚の時に処り、貴ぶ所は彼此が聚攏することで、こうすれば時宜に合う。いま六二は体性が柔順で坤体の中に居り、中を守りて改めず、一心に静退自守せんと欲し、衆に随い聚会に参与することを肯んじない。これは衆人と時勢に違背し、凶険は必ず至る。それは必ず人が牽引しに来るを待ち、然る後に肯じて行動し、ここにおいて吉利を獲て咎を免れる。ゆえに牽引を受ければ吉で咎なしと言う。六二が中に居り誠信を懐き、苟且に進を求めないゆえ、すでにこのような徳性を具備すれば、往くべき所あり。たとえ最も簡薄の祭品をもって鬼神に奉献しても、鬼神は福沢を降下する。ゆえに誠信を懐けば禴祭を用いるに宜しいと言う。

六三萃如嗟如,無攸利,往無咎,小吝者。六三與九四不正,不正相聚,陰邪之應,患必生焉,故乃憂嗟而無所利,故曰萃如無攸利。然上六與三本是正應,上六懷巽之道以求朋友,故六三可以往而無咎,與上合志而無所咎,故往無咎。然上六與三俱是陰柔,雖是相應,俱失其匹配之義,故有小吝也。

六三の爻辞「萃如嗟如、无攸利、往无咎、小吝」。六三と九四の居る位はともに正当でなく、不正をもって相聚合するは、これは陰邪の結合で、禍患は必ずここから生ずる。ゆえに憂愁嘆息するのみで好処を得られない。よって聚合せんとして嘆息するのみ、利する所なしと言う。ただ上六と六三は本来相応の一対で、上六が柔順の道を懐きて朋友を招求する。ゆえに六三は往けば咎なし。それが上六と心志相合するので、咎責がない。ゆえに往けば咎なしと言う。しかし上六と六三はともに陰柔で、位次は相応するも、ともに陰陽匹配の本義を失う。ゆえになお小さな憾惜あり。

九四大吉,無咎。居位不正,又下據三陰,即擅君之權,禍咎將至,必須立大功以補其過,可以免咎,故曰大吉無咎。

九四の爻辞「大吉、无咎」。九四は陽爻が陰位に居り位置が正しくなく、また下に向かい三つの陰爻を据える。これは君主の権柄を擅奪したに等しく、禍患罪責がまさに頭に臨まんとする。それは必ず大きな功勲を建立してこの過失を弥補し、咎責を免れられる。ゆえに必ず大吉してこそ咎なしと言う。

九五萃有位,無咎,匪孚,元永貞,悔亡者。處聚之時,最得盛位,故曰萃有位也。九四下據三陰,専制已權,已所宣命,人不信服,但自守而已,故曰無咎匪孚也。若能不與物競,但自克修仁德,久而獲福,即憂悔可銷,故曰元永貞悔亡。

九五の爻辞「萃有位、无咎、匪孚、元永貞、悔亡」。九五は會聚の時に処り最も尊盛の位置を占める。ゆえに會聚して尊位に居ると言う。ただ九四は下に三つの陰爻を据え、本属九五の権柄を專擅した。よって九五の頒布する命令に、衆人は信服しない。それはただ自らその位を守るのみである。ゆえに咎なきも人の信を取る能わずと言う。もしそれが人と争奪せず、ただ己を克って仁徳を修養すれば、日久しきに必ず福報を得、憂愁悔恨も消散しうる。ゆえに長く正を守れば悔恨が消えると言う。

上六齎諮涕洟,無咎者。齎諮,嗟嘆辭也。居萃之極,乘剛居上,內無應援,則憂患生焉,故齎諮涕泣不安。如此憂懼,即眾所不害,遂將免咎,故曰無咎。先儒云:自目曰涕,自鼻曰洟。

上六の爻辞「賚咨涕洟、无咎」。「賚咨」は嗟嘆の語詞である。それは會聚の極点に処り、陰柔をもって九五という剛爻の上に騎って最高処に居り、内に応援がない。憂患はここから生ず。ゆえに嗟嘆して涙を流し、惶惶として安まない。このように憂懼戒慎できれば、衆人はそれを傷つけに来ない。ここにおいて咎責を免除される。ゆえに咎なしと言う。先儒は言う、眼より出るを「涕」と言い、鼻より出るを「洟」と言う、と。

升卦(巽下坤上)

巽下坤上。升:元亨,用見大人,勿恤,南征吉。彖曰:柔以時升,巽而順,剛中而應,是以大亨。用見大人,勿恤,有慶也。南征吉,志行也。象曰:地中生木,升。君子以順德,積小以成高大。

升卦は下卦が巽、上卦が坤で、木が地中に生じて下より上に向かい生長する。ゆえに升と名づける。卦辞は言う、升は、大いに亨通、大人に見るに宜しく、憂慮する必ずしも要せず、南方に向かい進発すれば吉利、と。《彖伝》は言う、柔順の者が時勢に順応して上昇し、遜順にして柔和、九二の陽剛が中に居りて六五と相応するので大いに亨通する。「用見大人、勿恤」は、必ず福慶あると言う。「南征吉」は、心志が施行を得ると言う。《大象伝》は言う、地中に樹木が生ずる、これが升である、君子はこれに法り、徳性に順循し、細小を積累して高大を成就する、と。

初六,允升,大吉。象曰:允升大吉,上合志也。九二,孚乃利用禴,無咎。象曰:九二之孚,有喜也。九三,升虛邑。象曰:升虛邑,無所疑也。六四,王用亨于岐山,吉,無咎。象曰:王用亨于岐山,順事也。六五,貞吉,升階。象曰:貞吉升階,大得志也。上六,升,利于不息之貞。象曰:升在上,消不富也。

初六の爻辞、許可を得て上昇する、大いに吉利。《小象伝》は言う、允升大吉は、上の陽爻と心志相合するからだ、と。九二の爻辞、誠信を懐けば、微薄の禴祭を用いるに宜しい、咎なし。《小象伝》は言う、九二の誠信は、喜慶をもたらす、と。九三の爻辞、一座の空城に入るがごとく順調に上昇する。《小象伝》は言う、虚邑に升るは、何の滞礙疑慮もなきからだ、と。六四の爻辞、君王が岐山で祭享を挙行する、吉利、咎なし。《小象伝》は言う、王が岐山に祭るは、柔順をもって遇う事に対するからだ、と。六五の爻辞、正を守れば吉利、台阶に沿い上昇する。《小象伝》は言う、貞吉して階を升るは、心志が大いに実現したからだ、と。上六の爻辞、昏昧に一味に上昇する、間断なき正道を持守するに宜しい。《小象伝》は言う、最上に升るは、ただ消減して再び富ならず、と。

升元亨者。升者,漸進之名,登升之義,計必大通,故曰元亨。褚氏云:猶人日思善道,進而不已,其德日新,故能亨也。

卦辞「升、元亨」。「升」は漸々に進取する名称で、登高上行の意を含む。理に照らせば必ず大いに通達する。ゆえに「元亨」と言う。褚氏は言う、これはちょうど人が日々に善道を思い、不断に進取して停息せず、徳性が日々に更新するので、亨通しうるがごとし、と。

用見大人,勿恤者。剛不居中,無以統御於下,故須用見徳大之人,然後無復憂恤也。

「用見大人、勿恤」。上卦坤の陽剛は中位に居らず、よって下を統御する力量に乏しい。ゆえに必ず徳行宏大の人に見えて主持せしめ、然る後に憂慮挂念が再びない。

南征吉者。南是陽明之方。當升之時,若往陰方,即彌加闇昧;既見德大之人,復宜適陽明之方,即升進之道通矣。二方以喻人之明昧也。

「南征吉」。南方は陽気光明の方位である。上昇の時に処り、もし陰暗の方向に向かって行けば、さらに昏昧不明となる。すでに徳行宏大の人に見えた以上、まさに再び陽明の方向に向かうべし。こうすれば上昇の道は通暢する。ここでは南北二つの方位をもって人の明智と昏昧を喩える。

象曰:地中生木,升者。升是漸漸登升、道長之義,亦猶地中生木,從下升高,自微至著也。君子以順德,積小以成高大者。孔義云:君子象之,所以順行其德,積其小善以成高大。又何妥云:君子謹習為先,修習道德,積其微小以至高大。案此之義,順字恐當為慎也。

《大象伝》の言う「地中生木、升」――「升」は逐漸登高してその道が日に長ずる意で、ちょうど地の中に樹木が生じて、低きより高きに、細微より顕著に長ずるがごとし。「君子以順徳、積小以成高大」は、孔穎達の義解は言う、君子がこれに法るゆえに、自分の徳性に順って実行し、細小の善行を積累して高大の徳業を成就する、と。何妥はまた言う、君子は謹慎修習を先とし、道徳を修養研習し、微小を積累して高大に至る、と。後の解釈に照れば、「順」の字はおそらく本は「慎」と作るべきである。

初六允升大吉者。允,當也。二三皆有應於上,故升之不疑。唯初六上無其應,體又柔劣,不能自進。當九二九三升進之時,與之俱行,上合志,必大得矣,故曰允升大吉。亦猶九二九三許允,即獲吉也。

初六の爻辞「允升、大吉」。「允」は允当・許可である。九二・九三は上にいずれも相応の爻があるので、それらの上昇は疑慮なし。ただ初六のみ上に相応の爻がなく、本身はまた柔弱低微で、自ら上進できない。それは九二・九三が上昇する時に趁い、随いて一同に前行し、上と心志相合すれば、必ず大いに獲る所ある。ゆえに「允升、大吉」と言う。これはすなわち九二・九三の許可同行を得て、吉利を獲るを言う。

九二孚乃利用禴,無咎者。九二與五為應,九二前進,五必信任,故曰有孚也。二體剛中,誠乎信實,進不求寵,志大業直,是享薦神明,但可儉約薄省而已,亦得喜慶臻至,更有何咎,故利用禴無咎,蓋為上應於君矣。

九二の爻辞「孚乃利用禴、无咎」。九二は六五と相応し、それが一旦前進すれば、六五は必ずそれを信任する。ゆえに誠信ありと言う。九二は本体が陽剛で中に居り、誠懇信実で、上進するも寵幸を求めず、志向は宏大で行事は正直である。このような人はたとえ神明に祭献するに倹省簡薄の礼数のみを用いても、照樣に喜慶を招来しうる。また何の咎かあらん。ゆえに禴祭を用いるに宜しく咎なしと言う――これはみなそれが上に君主に応ずるゆえである。

九三升虛邑者。以剛得位,已以進前,上體應柔,不拒於已,若升其虛邑,無所疑滯,故小象云無所疑也。

九三の爻辞「升虚邑」。九三は陽爻が陽位に居り位を得、自身奮力して前に向かう。上の坤体は柔順で、それを拒絶しない。よってその上昇は一座の空城に入るがごとく、何の疑慮停滞もない。ゆえに《小象伝》は「无所疑」と言う。

六四王用亨于岐山,吉無咎者。體柔居四,下體三爻皆悉上升,處升之際,可納而不可拒,其猶太王避狄之難,居岐山之會,故曰王用亨于岐山也。若能因物而成,順事之情,納而不拒,所以得吉而無咎,故曰吉無咎也。

六四の爻辞「王用亨于岐山、吉、无咎」。六四は体性が柔順で第四位に居り、下卦の三つの爻はみな一斉に上に向かい升進する。このような時に処り、それは容納するのみで拒絶すべからず。これはちょうど周の太王が狄人の侵擾を避けるため岐山の下に遷居し、各方が帰附してそこに會集したがごとし。ゆえに君王が岐山で祭享を挙行すると言う。それがもし形勢に順って事を成就し、事理の実情に順応し、容納して拒斥しなければ、吉利を獲て咎がない。ゆえに吉で咎なしと言う。

六五貞吉升階者。以柔居尊,不自専制,委任九二,任用得人,故得保其升階而踐貴位也。

六五の爻辞「貞吉、升階」。六五は陰柔をもって尊位に居り、独断専行せず、政事を九二に委託し、任用する人が恰当である。ゆえに穏やかに台阶に沿い上昇して尊貴の位に登臨できる。

上六升,利于不息之貞者。猶瞑也。既處升極而更升進,即是瞑暗不得明瞭而猶求升,故曰升。若然求升,欲為物之主者,即喪亡交至;如克己修身而不暫息,施於正,即利莫大焉,故曰利于不息之貞也。

上六の爻辞「升、利于不息之貞」。(通行本はこの爻を「冥升」と作り、底本は「冥」の字を脱し、ただ解語の中に「猶瞑也」の三字を残すのみ、いま照録して補わない。)「冥」は「瞑」に同じく、昏暗である。上六はすでに上昇の極点に処りながらなお上昇し続ければ、それは昏暗不明の状態の中で依然として升を求めること。ゆえに「升」と言う。このように一味に升を求め、なお万物の主宰とならんと欲すれば、喪亡の禍患が交わり至る。反対にもし己を克し身を修めて片刻も歇息せず、この不息を正道に用いれば、その利はこれより大きいはない。ゆえに間断なき正道を持守するに宜しいと言う。

困卦(坎下兌上)

坎下兌上。困:亨,貞,大人吉,無咎,有言不信。彖曰:困,剛揜也。險以說,困而不失其所亨,其唯君子乎。貞大人吉,以剛中也。有言不信,尚口乃窮也。象曰:澤無水,困。君子以致命遂志。

困卦は下卦が坎、上卦が兌で、沢中に水なく、陽剛が陰柔に掩蔽される。ゆえに困と名づける。卦辞は言う、困は、亨通、正を守る、大人は吉利、咎なし、この時言を発しても人に信じられない、と。《彖伝》は言う、困は、陽剛が掩蔽されること。険境に身を処しながらなお和悦でいられ、困厄に遭いながら自分を亨通せしめるものを失わない、たぶん君子のみがこれをなしうるだろう。「貞、大人吉」は、九二・九五の陽剛が中に居るからである。「有言不信」は、一味に口舌の弁説に恃めば窮途に至ると言う。《大象伝》は言う、沢中に水なし、これが困である、君子はこれに法り、命を捨てても自分の志を実現する、と。

初六,臀困于株木,入于幽谷,三歲不覿。象曰:入于幽谷,幽不明也。九二,困于酒食,朱紱方來,利用亨祀,征凶,無咎。象曰:困于酒食,中有慶也。六三,困于石,據于蒺藜,入于其宮,不見其妻,凶。象曰:據于蒺藜,乘剛也;入于其宮不見其妻,不祥也。九四,來徐徐,困于金車,吝,有終。象曰:來徐徐,志在下也;雖不當位,有與也。九五,劓刖,困于赤紱,乃徐有說,利用祭祀。象曰:劓刖,志未得也;乃徐有說,以中直也;利用祭祀,受福也。上六,困于葛藟,于臲卼,曰動悔,有悔,征吉。象曰:困于葛藟,未當也;動悔有悔,吉行也。

初六の爻辞、臀部が木の株に困され、幽深の山谷に退入し、三年して天日を見ない。《小象伝》は言う、幽谷に入るは、幽暗にして明らかならざるからだ、と。九二の爻辞、酒食に困される、赤色の祭服がまさに送来する、祭祀を挙行するに宜しく、この時出征すれば凶、ただ咎なし。《小象伝》は言う、酒食に困されるは、中に居りて福慶あるからだ、と。六三の爻辞、石に挡かれ、また蒺藜の上に踏み、自分の家に帰るも、妻子を見ない、凶険。《小象伝》は言う、蒺藜の上に据るは、剛爻の上に騎るからだ、家に帰りて妻子を見ざるは、不祥の兆だ、と。九四の爻辞、来ること遅緩、金車に困される、憾惜あり、ただ終に事を成せる。《小象伝》は言う、来ること遅緩は、心志が下の初六に繋がるからだ、居る位は当たらざれど、相応の伙伴あり、と。九五の爻辞、割鼻断足の刑を受け、赤色の祭服に困される、ゆっくりとして終に解脱しうる、祭祀を挙行するに宜しい。《小象伝》は言う、劓刖の刑を受けるは、心志がまだ実現せざるからだ、ゆっくりとして解脱を得るは、九五が居中正直だからだ、祭祀を挙行するに宜しきは、福沢を承受しうるからだ、と。上六の爻辞、葛藤に纏困され、動揺不安の中に処る、心の中で「動けば悔いる」と言い、果たして悔恨あり、この時往けばかえって吉利。《小象伝》は言う、葛藤に困されるは、処する所が当たらざるからだ、動けば悔いると知りて果して悔あれば、往けば吉、と。

困亨者。困者,窮厄委頓之名,道乖力疲之義。小人遭困,則窮斯濫矣;君子處之,貞節不改,而不失其通之道,困而獲濟,故曰困亨。困而不能得通,小人也。

卦辞「困、亨」。「困」は窮迫困頓の名称で、道路が通ぜず気力が疲竭する意を含む。小人が困境に遇えば、孔子の言う「窮すれば濫す」のごとく、何をもやってのける。君子が困境に身を処すれば、貞正の節操が毫も改めず、よって自分を通達せしめる道を失わず、困まれど終に済渡を獲る。ゆえに「困、亨」と言う。反対に、困に遭いて終始通達できなければ、それは小人である。

貞大人吉無咎者。處困不濫,而能自通,此唯體正修德之人,處困而能保之,然後吉無咎也。

「貞、大人吉、无咎」。困境に身を処して放縦妄為せず、なお自ら通達に向かえる、これはただ本身が端正で徳性を修養する人のみがなしうる。このような人は困境に処してもなお自らを保全し、然る後に吉利にして咎なし。

有言不信者。當困之時,欲希濟困,必須修身慎行,立德立誠,而乃巧辭飾言以求其濟,人何以信,轉益困窮也。

「有言不信」。まさに困厄の時にあたり、困境を脱せんと欲すれば、必ず自身を修養し行事を謹慎し、徳行を樹立し誠信を樹立せねばならない。もし反って巧言令色・言辞を粉飾して解脱を謀れば、他人は何をもって信じようか。それはただ自分をいっそう困窮せしめるのみである。

象曰:澤無水,困者。水在澤下,澤中萬物枯稿,困之象也。君子以致命遂志者。君子守道而處,雖遭困厄之世,而不渝濫以謟世俗;假使致命喪身,固當守節不移,以遂高尚之志。故素書云:如其不遇,沒身而已是也。

《大象伝》の言う「沢无水、困」――水が沢の下に漏れ去り、沢中の万物はこれによって干枯凋敝する。これはまさに困頓の形象である。「君子以致命遂志」は、君子が道義を守って自処し、たとえ困厄の時世に遭逢しても、節を改めて放縦して世俗に迎合しない。たとえ性命を捨てるに及んでも、依然として節操を守りて毫も動揺せず、これをもって自分の高尚の志を実現する。ゆえに《素書》は言う、もし終に明主に遇わなければ、身を守りて終るのみ、まさにこの意である、と。

初六臀困于株木,入于幽谷,三歲不覿者。以陰爻最居窮下,即是沉滯窮困,居不得安,若處於株木之上,故曰臀困于株木也。處困之時,欲進即二隔其路,欲且處又居之不安,懼於困危,遂乃逃竄,故曰入于幽谷也。困極即通,事之常理,不過數年,困危必釋,可以出矣,故曰三歲不覿也。

初六の爻辞「臀困于株木、入于幽谷、三歳不覿」。それは陰爻をもって全卦の最も下の窮困の地に処り、まさに沈滞困窘にして坐っても立っても安んぜず、ちょうど光秃の木の株の上に坐るがごとし。ゆえに臀部が木の株に困されると言う。困厄の時に処り、それは上進せんと欲するも、九二が去路を挡く。就地に安処せんと欲するも、坐りて安穏ならず。困厄危難を畏れるゆえ、逃走して蔵匿する。ゆえに幽深の山谷に退入すると言う。困に極まれば通に転ずるは事の常理で、数年を過ごさずして、困厄危難は必ず解除され、その時出るべき。ゆえに三年して天日を見ないと言う。

九二困于酒食,朱紱方來,利用亨祀,征凶,無咎者。以剛處中,以陽居正,又無偏應。體剛即能濟困,居陰即以謙待物,物之所歸也;處中即德行不邪,無應即心無私黨。有此眾美,即物皆歸已,不勝飽飫,故曰困于酒食也。朱紱,南方祭服也。九二體屬坎卦,坎為北方,言九二有此美徳,陽明方物而來,即東西二方必至,故曰朱紱方來。四方歸向,庶物豐盈,可以亨薦神明,克降其福,故曰利用亨祀也。盈而又進,傾敗道也,以此征行,凶危交至,故征凶。凶禍自已所招,豈合咎怨他人,即得無咎也。

九二の爻辞「困于酒食、朱紱方来、利用亨祀、征凶、无咎」。九二は陽剛をもって下卦の中に居り、位を得てまた偏私の正応がない。本体が剛健なので、困厄を救助できる。陰位に居るので、謙遜をもって外物に対でき、万物はこれによって帰附する。中位に処るので、徳行が偏邪しない。正応がないので、心中に私党がない。これら多くの美徳を具備すれば、万物はみな己に帰向し、酒食が多くて食べ尽くせない。ゆえに酒食に困されると言う。「朱紱」は南方に用いる祭服である。九二は坎体に属し、坎は方位上北方に属す。これは九二にこのような美徳あり、南方陽明の地の物産まで門を訪ねて送来し、然らば東・西の两方も自ずから必ず至るを言う。ゆえに赤色の祭服がまさに送来すると言う。四方が帰心し、各種の物産が豊足すれば、神明に祭献でき、神明が福沢を降下する。ゆえに祭祀を挙行するに宜しいと言う。ただ盈満して後にさらに進むは、傾覆敗亡の道である。この態度をもって出征遠行すれば、凶険危難が一斉に至る。ゆえに出征すれば凶と言う。凶禍がすでに自分の招いた以上、どうして他人を咎怨すべきか。よって咎なしと言う。

六三困于石,據于蒺藜,入于其宮,不見其妻,凶者。石者為物,堅剛而不可入,謂九四也;蒺藜之草,有刺而不可踐,謂九二也。六三以陰居陽,不正而處,上無應援,無所之適,志懷剛武,欲親於四,四又不受,如石之堅;欲附九二,二又不許,猶如蒺藜刺而難踐,故曰困于石,據于蒺藜也。無應而行,失其配偶,譬之入於宮中而不見其妻,處困如斯,固其凶矣。

六三の爻辞「困于石、据于蒺藜、入于其宮、不見其妻、凶」。石という物は堅硬剛強で、鑽り入ることができない。ここでは九四を指す。蒺藜という草は硬刺が満ち、踏みつけることができない。ここでは九二を指す。六三は陰爻が陽位に居り、位が正しからずして強いて処り、上にまた応援がなく、往く所なく、心中には剛強好闘の志を懐く。それは九四に親近せんと欲するも、九四はそれを容納せず、石のように堅硬で入り難い。九二に依附せんと欲するも、九二はまた許さず、ちょうど蒺藜が刺を帯びて踏めないがごとし。ゆえに石に挡かれ、また蒺藜の上に踏むと言う。それは正応がないのに強いて行動し、自分の配偶を失う。喩えて言えば家中に帰って妻子を見ぬがごとし。困境に処してこの地步に至れば、もちろん凶険である。

九四來徐徐,困于金車,吝有終者。徐徐是疑懼不速之貎也。金車謂九二,以剛處中,如車材強壯也。四欲就初六,懼九二為難,心懷疑懼,不敢速進,是困於九二之金車,故曰來徐徐,困于金車也。有應在初而未相遇,是以有吝;以謙得物,故乃有終也。

九四の爻辞「来徐徐、困于金車、吝、有終」。「徐徐」は心に疑懼を存して速く歩くを敢えてしないさま。「金車」は九二を指し、それは陽剛をもって下卦の中に居り、ちょうど車の材質が堅固強壮ながごとし。九四は初六に親就せんと欲するも、九二が間から作梗するを恐れ、よって心に疑懼を懐き、迅速に前進することを敢えてしない。これはまさに九二という金車に困される。ゆえに来ること遅緩、金車に困されると言う。それは初六に相応の爻がありながらまだ會合していないので、憾惜がある。ただそれは謙遜をもって他人を獲得できるので、終に事を成しうる。

九五劓刖,困于赤紱,乃徐有說,利用祭祀者。以陽居陽而無謙遜,物則不附;怒其不來附已,乃行劓刖之刑,故異方之人轉更離叛,故曰困于赤紱矣。以剛居中,不昧所見,改修其道,以謙得眾,故用寛徐,人悉歸已,乃有喜恱,故曰乃徐有說。剛而處尊,而用中直,即可亨祭而獲福慶,故曰利用祭祀也。

九五の爻辞「劓刖、困于赤紱、乃徐有説、利用祭祀」。九五は陽爻が陽位に居り、剛であれど謙遜なければ、外物はそれに帰附せんと肯じない。それは人が来て己に附かぬを恼怒し、ここにおいて割鼻断足の酷刑を動用する。結果は遠方の人が反ってさらに離叛する。ゆえに赤色の祭服に困されると言う。ただそれは陽剛をもって尊位に居り、見識は昏昧でなく、改弦更張して自分の做法を修正し、謙遜に凭って衆人を獲得できる。よって寛緩従容の方式に改用すれば、衆人はみな来て己に帰附し、ここにおいて喜悦がある。ゆえにゆっくりとして終に解脱と言う。それは陽剛にして尊位に居り、また中正正直の道を行えば、祭享を挙行して福慶を獲られる。ゆえに祭祀を挙行するに宜しいと言う。

上六困于葛藟,于臲卼,曰動悔,有悔,征吉者。葛,蔓也;藟,纒繞貎;臲卼,搖動不安貎。上六處困之極,即是困極也。無應乘剛,行即被物纒繞,居則臲卼不安,故曰困于葛藟于臲卼也。曰,思謀之辭也。凡物窮思變,極即謀通。處至困之地,何有通路,故須思謀曰:我若守此,必見不濟,謀逃逸可以免之。發意逃時,其悔乃生,故繫辭云:吉凶悔吝生乎動。是初動而有憂悔。當奔逸冒險之時,又生憂悔;既出險外,即不慮危困,所以征行而獲吉,故曰動悔有悔征吉也。

上六の爻辞「困于葛藟、于臲卼、曰動悔、有悔、征吉」。「葛」は藤蔓で、「藟」は纏繞のさま、「臲卼」は揺晃して安まらざるさま。上六は困卦の極点に処り、すなわち困厄が極処に至った。それは相応の爻がなくまた剛爻の上に騎り、一動すれば物に纏われ、安処すれば揺晃して安まない。ゆえに葛藤に纏困され動揺不安の中に処ると言う。「曰」は思量謀劃の語詞である。およそ事物が窮極すれば変を思い、尽頭に至れば通路を謀る。極困の地に身を処して、どこに通路があらん。ゆえに必ず反復思量せねばならない。我がもしここに守り続ければ、必ず過ごせない、逃走を謀ってこそ脱せられる。しかし逃走の念を動かしたばかりに、悔恨が随いて生ずる。ゆえに《繋辞伝》は言う、吉・凶・悔・吝はみな行動から生ずる、と。これは一動すれば憂悔を生ず。本当に奔逃冒険する時に至って、また憂悔を生ず。しかし一旦険境の外に脱出すれば、もはや困厄を憂慮する必ずしもなく、ゆえに往けばかえって吉利を獲る。よって動けば悔いると知りて果して悔あり、往けば吉と言う。

井卦(巽下坎上)

巽下坎上。井:改邑不改井,無喪無得,往來井井,汔至亦未繘井,羸其瓶,凶。彖曰:巽乎水而上水,井。井養而不窮也。改邑不改井,乃以剛中也。汔至亦未繘井,未有功也。羸其瓶,是以凶也。象曰:木上有水,井。君子以勞民勸相。

井卦は下卦が巽、上卦が坎で、木桶が水に入りて水を汲み上げる。ゆえに井と名づける。卦辞は言う、井は、城邑は改建しうるも井は改変せず、井水は減少せず増加もせず、来往の人はみな井に汲みに至る、水がまさに井口に提げられんとして綱がまだ完全に引出されず、汲水の瓦瓶を打破る、凶険、と。《彖伝》は言う、水中に深く入りて水を提げ上げる、これが井である。井は衆人を養い窮まることなし。「改邑不改井」は、九二・九五の陽剛が中に居るからである。「汔至亦未繘井」は、功業がまだ成就せざるを言う。「羸其瓶」は、ゆえに凶。《大象伝》は言う、木桶の上に水あり、これが井である、君子はこれに法り、百姓を慰労し、彼らが互相帮助うを勉励する、と。

初六,井泥不食,舊井無禽。象曰:井泥不食,下也;舊井無禽,時舍也。九二,井谷射鮒,甕敝漏。象曰:井谷射鮒,無與也。九三,井渫不食,為我心惻,可用汲,王明並受其福。象曰:井渫不食,行惻也;求王明,受福也。六四,井甃,無咎。象曰:井甃無咎,修井也。九五,井洌寒泉食。象曰:寒泉之食,中正也。上六,井收勿幕,有孚元吉。象曰:元吉在上,大成也。

初六の爻辞、井の中に污泥が満ち、水が飲めない、この廃井には禽鳥すら来ない。《小象伝》は言う、井泥して食うべからざるは、それが最も下にあるからだ、廃井に禽なきは、時人に遺棄されるからだ、と。九二の爻辞、井底の泉眼はただ下に向かい小魚の身に浇るのみ、汲水の瓦甕がまた破れて漏れる。《小象伝》は言う、井谷して鮒を射るは、それに配合すべき相手がないからだ、と。九三の爻辞、井はすでに淘洗潔淨なれど飲む人なし、我が心を悲しましむ、この水は汲取しうる、君王がもし明察ならば、大家がみな福沢を蒙る。《小象伝》は言う、井渫して食われざるは、行路の人もこれがため悲しむ、君王の明察を祈求するは、共に福沢を受けるためだ、と。六四の爻辞、磚石をもって井壁を修砌する、咎なし。《小象伝》は言う、井甃して咎なきは、この井を修治するからだ、と。九五の爻辞、井水が清洌で、寒泉のごとく飲用に供しうる。《小象伝》は言う、寒泉が食うべきは、九五が中正だからだ、と。上六の爻辞、井水を汲取し上げて遮蓋せず、心に誠信を懐く、大いに吉利。《小象伝》は言う、元吉にして上位に居るは、井道が大功告成したからだ、と。

井改邑不改井者。古人穿地汲水以供人用,故謂之井。井以潔淨為義也。邑,民產也,其屋遷移,井體不改,亦猶人之常德,改過不吝,德行有恆,故曰改邑不改井也。

卦辞「井、改邑不改井」。古人は地を穿ち水を取りて衆人に供用した。ゆえに井と謂う。井は潔淨をもってその意義とする。「邑」は百姓が聚居する産業を指し、房屋は遷移しうるも、井の本体は改変しない。これはまた人の恒常不変の徳性に似る。過失を改めるに吝惜せず、徳行は終始恒あり。ゆえに城邑は改めうるも井は改めずと言う。

往來井井者。往者來者皆汲引之,而不以貴賤汲引改其清潔之性也。無喪無得者,此舉井體有恆,不隨物之遷變,故終日泉注,未嘗言溢;終日汲引,未嘗言竭也。

「往来井井」。去る人も来る人も、みな井に水を打ちに行く。井は汲水者の身分の貴賤によって自分の清潔の本性を改変しない。「无喪无得」は、井の本体にその恒常あり、外物の遷変に随って改変しないを言う。ゆえに終日泉水が注入しても、それが溢出したを見ず、終日人が汲取しても、それが枯竭したを見ない。

汔至亦未繘井,羸其瓶,凶者。繘,綆繩也;汔,將至之義;羸,舒展也。言汲水將至井口,其綆猶未盡出,而鉤舒繩斷,傾覆其瓶,即是勞而無功。喻人行其恩德,須善始令終;若有始無終,不能永保其故,就人事言凶也。書云:為山九仞,功虧一簣是也。

「汔至亦未繘井、羸其瓶、凶」。「繘」は汲水の繩索、「汔」はまさに到達せんとする意、「羸」は松脱舒展である。これは水がすでに井口に提げられんとするも、繩索がまだ完全に引出されず、鉤が松脱し繩が断絶し、瓦瓶を打翻した。結果は力を費やして一成なし。人が恩徳を施行するに、必ず善始善終せねばならないを喩える。もし有始無終ならば、原有の成果を永久に保住できない。人事に就いて言えばこれは凶である。《尚書》は言う、九仞の山を堆するも、最後の一筐の土を欠けば前功尽棄、まさにこの理である、と。

象曰:木上有水,即是汲水而上,井之象也。君子以勞民勸相者,勞,賚;相,助也。井之為義,養而不窮,以勞賚之恩,勸恤勤恵,令助百姓,使有成功。故周正云:勸助民人,使功日濟是也。

《大象伝》の言う「木上有水」――すなわち木桶をもって水を提げ上げる、これはまさに井の形象である。「君子以勞民勸相」の「勞」は慰労賞賜、「相」は帮助である。井の意義は衆人を養育して窮尽なきに在る。君子はここにおいて慰労賞賜の恩惠を用い、体恤を勉励し勤めて恵を施し、人々をして互相帮助い百姓を助けしめ、事功を成就せしめる。ゆえに周氏は言う、民人を勉励帮助し、功業を日々に有成せしむ、まさにこの意である、と。

初六井泥不食,舊井無禽者。初六最處井底,即是井下淤泥沉滓而不可食。井既舊穢,不曾淘渫,即禽鳥賤類而尚不向,即人與禽俱在棄舍,故曰舊井無禽。喻人不潔已修行,為人所棄是也。

初六の爻辞「井泥不食、旧井无禽」。初六は井の最底部に処り、まさに井底に泥沙渣滓が淤積し、水が飲めない。この井はすでに長久污穢で、かつて淘洗疏浚したことがない。然らば禽鳥のごとき低賤の物すら肯じて光顧しない。人と禽鳥がともにそれを拋棄したが見える。ゆえに廃井に禽鳥すら来ないと言う。これは人が自身の品行を修潔せず、よって衆人に棄てられるを喩える。

九二井谷射鮒,甕敝漏者。鮒,井底小魚也。夫井之為道,以下給上為義。今九二與初六相近而附於初,即是附給下之義,如以溪谷之水,從上注下,射轍鮒魚,故曰井谷射鮒也。井不上汲,反以下注,失井之道,又似甕之破漏,出水而注下,故曰甕敝漏也。子夏傳曰:鮒是蝦蟆也。

九二の爻辞「井谷射鮒、甕敝漏」。「鮒」は井底の小魚である。井の道理は、本来下より上に供給するに在る。いま九二は初六と位置緊鄰して下に向かい初六に依附する。これは下に向かい供給するとなり、ちょうど溪谷の水が上より下に浇注して、正に小魚の身に潑くがごとし。ゆえに井底の泉眼は小魚に浇るのみと言う。井水が上に汲取せず、反って下に流瀉する。これは井の本義を失う。また瓦甕が破れて漏れて、水がみな下に漏れ去るに似る。ゆえに瓦甕が破漏と言う。《子夏易伝》は言う、「鮒」は蛤蟆を指す、と。

九三井渫不食,為我心惻,可用汲,王明並受其福者。為猶使也;渫,治也。言井既淘渫修治,其水清潔,可以食之,猶人德行已成,可以任用。今既不食,即使我中心惻愴,故曰井渫不食,為我心惻。若王者明鑑,用我以為輔弼,既喜其行,又欽其用,故曰王明並受其福也。得人助己而化洽,民之有幸,故獲其福矣。

九三の爻辞「井渫不食、為我心惻、可用汲、王明並受其福」。「為」は「使」に相当し、「渫」は淘洗整治である。これは井がすでに淘洗修治され、水質が清潔で、まったく飲用できる。これはちょうど人の徳行がすでに修成し、まったく任用できるに似る。いま飲みに来る人がない。これは我が心中を悲しましむ。ゆえに井はすでに淘淨なれど飲む人なく、我が心を悲しましむと言う。もし君王が明察して我を用いて輔弼の臣とせば、すなわちその徳行に欣喜し、またその才用を敬重する。ゆえに君王が明察ならば衆人が共に福沢を受けると言う。君王が賢人の助けを得て教化が周遍するは、百姓の幸いで、よって大家がみな福分を獲る。

六四井甃無咎者。甃猶修治也,壞處以磚甃壘也。六四得位無應,得位即可以自處,無應即不可以行。其猶人之為道,無施行之功,即可以修德自處,故無咎也。

六四の爻辞「井甃、无咎」。「甃」は修葺整治で、井壁の壊損した処を磚石で砌壘することを指す。六四は正位を得るも相応の爻がない。位を得れば安処自守でき、応なければ行動すべからず。これはちょうど人の処世の道で、すでに事功を推行する機会がなければ、徳性を修養して安然と自処しうるがごとし。ゆえに咎なし。

九五井洌寒泉食者。洌,清潔也;寒者,表清潔之義也。餘爻不當貴位,皆修德待用;九五既居尊位,能擇人而用之。以剛居中,下無私應。剛中即能斷制非妄,下無私應即無偏曲之心,猶剛正之主不任貪濁之臣,必須行潔賢明而後始用,故曰寒泉食也。

九五の爻辞「井洌寒泉食」。「洌」は清澈潔淨、「寒」もまた清潔を表明する意。其余の各爻はみな尊貴の位に居らず、ただ徳性を修養して任用を待つのみできる。九五はすでに尊位に身を居し、人才を選択して任用できる。それは陽剛をもって上卦の中に居り、下にはまた偏私の正応がない。剛にして中に居れば、裁断しうるも妄為しない。下に私応なければ、偏袒曲護の心がない。これはちょうど剛正の君主が貪濁の臣を肯じて任用せず、必ず品行潔淨・賢能明達の人才であってこそ録用するに肯じるがごとし。ゆえに寒泉のごとく清洌にして飲むべしと言う。

上六井收勿幕,有孚無吉者。凡五榖收成倍於常年者曰收也。上六處井之極,井道大成,如五榖之有收成,故曰井收也。幕是覆蓋也。井既大成,不須覆蓋,而不私其利,使天下悉皆汲引,即是信被天下而致大成,故獲大吉,故曰勿幕有孚元吉也。

上六の爻辞「井収勿幕、有孚元吉」。(底本は「元吉」を「无吉」と訛作し、いま照録して改めない。)およそ五穀の収成が常年に倍するを「収」と言う。上六は井卦の極点に処り、井養の道が大功告成し、ちょうど五穀が豊収を獲たがごとし。ゆえに「井収」と言う。「幕」は遮蓋である。井がすでに大成した以上、さらに遮蓋を加える必ずしもなく、その利益を私有とせず、天下人がみな来て汲水しうる。これはすなわち誠信が天下に遍及して大功を成す。ゆえに大吉を獲る。よって遮蓋せず、誠信を懐きて大吉と言う。

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