水火既済(離下坎上)
既濟:亨小,利貞,初吉終亂。
《既済》の卦辞に言います。亨通するのは小なるところのみで、正道を守るに利があります。初めは吉だが終わりは乱に陥ります。
離火在下,坎水在上,水火相交,各得其用,既濟之象也。「亨小」,《本義》作「小亨」,葢既濟之世可以小亨而不可大亨也。凡立法更制,大其因革,順乎風氣之宜,盡於人文之極,以成大亨通之治化者,恆在於方濟之始。若既濟之時,其習尚趨向之已定,耳目心志之相安,固不能大有所更張,但隨時補綴,僅保其小康而已。
離は火で下に居り、坎は水で上に居ります。水火が交わってそれぞれの用を得るのが《既済》の象です。卦辞の「亨小」は、朱熹の《周易本義》では「小亨」としています。世道が既済に至ると、小さな亨通はできても大きな亨通はできないからです。およそ法度を立て制度を改め、大がかりに因革を行い、風気の宜しきに順い、人文の極を尽くして大亨通の治世教化を成すものは、常にまさに済ろうとする創始の時にあります。既済の時になれば、風俗の趨向はすでに定まり、耳目心志はその習いに安んじて、もとより大幅な更張はできず、ただ時に応じて繕い、かろうじて小康の局面を保つだけです。
卦之六爻之位各得其正,固有利貞之象。聖人繫辭不専於卦之法象,而有取於既濟之義焉。大抵「正」之一言,雖死生存亡之際皆不可以須臾離。然既濟之世,人主多溺晏安,以快意肆情之事娛樂其耳目,惑亂其心志,而多不能以正自克,甚至於保養奸回過於骨肉,殘害忠良有如寇讎,此皆不正之大者也。有一於此,則國之亂亡可以立待。
《既済》の六爻の位はそれぞれその正を得て、もとより「貞に利し」の象があります。聖人が卦辞を系げるにあたっては、もっぱら卦の法象に立脚せず、既済という意義を取って敷衍したのです。おおよそ「正」の一語は、死生存亡の境にあってもしばらくも離れてはなりません。しかし既済の世では、君主は多く安逸に溺れ、快意で情欲を逞しゅうする事で耳目を楽しませ心志を惑わせ、たいてい正道をもって自らを抑えることができません。甚だしいのは、奸邪の徒を養うことが骨肉を遇するより厚く、忠良の臣を残虐するのが仇寇に対するようです。これらはみな不正のうち最大のものです。このうちの一つでもあれば、国の乱亡は立ちどころに待ち受けます。
唐虞三代之世,治化隆盛可謂極矣,然君臣上下交相警戒,如臨深淵,如履薄氷者,亦勉勉於正而已,故「利貞」之繫於既濟者尤為警切。既濟矣故初吉,柔得中而當下卦之中,徳與時遇,亦一義也。終止則其道窮矣,故至於亂;不自止則道不窮,道不窮可以保其治於有終矣。惟其因循茍且,般樂怠傲,自止而不能自強,則儵焉以至於亂而已。「止」之一言,義深逺矣。
唐堯・虞舜および夏商周三代は、治化の隆盛が極に達したと言えます。それでも君臣上下は互いに警め戒め、《詩経・小雅・小旻》に言う「深淵に臨むが如く、薄氷を履むが如し」のごとく、ただ正道の維持に努めただけです。だから「利貞」の二字が《既済》卦に系げられたのは、とりわけ警策が痛切です。すでに済ったので初めは吉です。六二は陰柔をもって下卦の中を得て、徳と時とが遇う。これも「初吉」の一つの意味です。終わりに止まればその道は窮まり、乱に至ります。自ら止まらなければ道は窮まらず、道が窮まらなければその治世を最後まで保てます。ただ因循苟且して安逸に耽り怠慢驕傲となり、自ら止まって発憤自強できなければ、忽ち乱に至るだけです。《彖伝》の「終わり止まれば則ち乱る」の「止」の一字は、意味が深遠です。
水在火上為既濟,思患預防,所以保此既濟於有終也,與「終止」相反矣。思患預防不可以一端言,大抵田裡、學校以固結人心,而使外侮無可乗之隙,此其大端也。若夫城郭險隘之慎守,兵戎儲蓄之有備,以防患之不可缺者也。車所以行者輪也,曳其車之輪則車不前進;狐之涉水,稍濡其尾則必不濟,亦取其不輕進之義也。
水が火の上にあるのが《既済》です。《大象伝》は君子がこれに因って「患を思い豫(あらかじ)め防ぐ」と言い、まさにこの既済の局面を最後まで保とうとするもので、「終わり止まれば則ち乱る」の「止」と正反対です。患を思い豫防することは一面だけから言うことはできません。おおよそ、田地を治め学校を興して人心を固く結びつけ、外からの侵侮に乗ずる隙を与えないのが、最も肝要な一端です。また城郭や険要の地の謹厳な守備、兵器や軍資の事前の備蓄も、患を防ぐ上で欠かせないものです。車が進めるのは輪によるので、車の輪を曳(ひ)けば車は前進しません。狐が水を渡るとき、その尾を少し濡らせば必ず渡りきれません。《既済》初九の「其の輪を曳く」「其の尾を濡らす」は、いずれも軽率に進まない義を取ったものです。
初九以陽剛居下而得其正,又為離體,有明徳者也。上應六四陰柔之險爻也,初則致其謹而不輕進,其所以察於時幾之會者精矣。若初,可謂有學有守之君子而得出處之宜者矣,何咎之有?
初九は陽剛をもって下位に居り、しかも居位が正しく、また離体に属して明徳を持つ者です。その上に応ずる六四は、陰柔で坎険の中にある爻です。初九はそこでいっそう謹慎に務めて軽率に進まず、その時機の微妙な変化を察することが精妙でした。初九のような者は、学問があり操守があり、出仕と退処の間の裁量を心得た君子と言え、どうして咎がありましょうか。
六二有文明中正之徳,本可以益世者也。九五居既濟之時,知有崇髙富貴之尊而不能下賢以行六二之道,故二有可行之道而不為時所用,有「婦喪其茀」之象。茀,婦車之蔽,喪其茀則婦不能行矣。離為中女,而二又為離之主,故取婦象。中正之道終不可廢,久則行矣,故又有「勿逐,七日得」之象。卦有六爻,至於七則始而終矣。
六二は文明中正の徳を持ち、もともと世に益するべき人材です。九五は既済の時に居り、崇高で富貴な尊位があることだけを知り、己を屈して賢士を下って六二の守る道を行うことができません。だから六二は行うべき道を持ちながら時の君に用いられず、《既済》六二の爻辞「婦其の茀(ふつ)を喪う」の象があります。「茀」は婦人の車を蔽うもので、茀を失えば婦人は出かけることができません。離は中女をなし、六二はまた離卦の主なので、婦人の象を取ります。中正の道は結局廃れることがなく、時が久しくなれば自ずと行われます。だから爻辞はまた「逐う勿かれ、七日にして得」と言い、追う必要はなく、七日すれば自ずと失われてまた得られるのです。一卦は六爻だけで、数えて七に至れば一つの周期が初めから終わりまで尽きて再び始まります。
九三與上六為應,上六陰爻險體,居既濟之極,是裔夷小邦恃其險阻而不來王之象也。九三剛正明體,與之為應,明則察其叛服不常、繫國安危而不可不以時定,剛則奮其義理之勇而必欲伐之,又離為甲兵,有伐之之象。鬼方無王者則先叛,有王者則後服,以髙宗之剛明而伐之,正與此爻相類。
九三は上六と応の関係にあります。上六は陰爻で坎険の体に処り、既済の極に居ります。ちょうど辺境の夷狄の小邦がその険阻な地勢を恃んで朝貢に来ない姿です。九三は剛強で端正であり離明の体に属して、これと応の関係にあります。明であるから、その叛服が常でなく国家の安危に関わり、時を置かず平定せねばならないことを見抜き、剛であるから、その義理に合う勇気を奮い起こして必ずこれを討伐しようと欲します。加えて離は象の上で甲冑兵戈をなし、まさに兵を興して討伐する象があります。鬼方のような辺邦は、賢明な王がいなければ率先して叛き、有道の君がいれば最後に服します。殷の高宗武丁が剛健明睿の資質をもってこれを討ったのは、まさに《既済》九三の爻辞「高宗鬼方を伐つ」のこの爻に類似します。
然必三年而後可克,既濟之時兵革罕用,卒然有事而後動,為力亦不易也。又以見師老財費,所損甚多,兵非聖人之得已而不可以輕用焉,象所謂「憊」者是也。用師必得君子長者,則以平定安戢為事而得逺近之應服;小人之屠城掠地,肆其殘虐以失人心者,當深戒之而勿用也。
しかし必ず三年かかって後に勝てます。既済の時には兵革が長く用いられず、突然事が起こってから動員すれば、力を発揮するのも容易ではありません。ここからまた、軍が老(つか)れて財貨を費やし損失が甚だ多いこと、用兵は聖人も已むを得ずにする事で軽々しく用いてはならないことが分かります。《小象伝》の言う「惫(ひ)」はまさにこの点を指します。軍を率いるには必ず君子で忠厚な長者の類を得なければなりません。彼らは局面を平定し人民を安集することを務めとし、それゆえ遠近の帰服を得られます。小人に軍を持たせれば、城を屠り地を掠め、恣に残虐を逞しゅうして人心を失います。爻辞の「小人用う勿れ」はまさに深く戒め、断じて用いてはならないということです。
六四當既濟之時,位近九五,居柔得正,有遺大投艱之責,有委曲詳審之心,是能思患而預防之者也,故繻有衣袽。是能小心畏懼而不敢縱逸偷安者也,故終日戒。四之才若不足以有為者,而心能如此,則人將輕千里而來告之以善矣,何既濟之難保乎?
六四は既済の時に当たり、位は九五に近く、柔をもって陰に居りて正を得、《尚書・大誥》に言う「大を遺(のこ)し艱を投ぐ」という大任を託すような責任を負い、また委曲周詳で審慎を尽くす心があります。まさに患を思い豫防できる者なので、《既済》六四の爻辞は「繻(じゅ)に衣袽(によ)有り」と言い、破布や古い綿を備えて船の漏れを塞ぐ用意をします。これはまた小心で畏惧し、放肆や苟安に敢えて流れない者なので、爻辞は続けて「終日戒む」と言います。六四の才具は、もし大きく為すに足りない者のようでも、心がここまでできれば、人は千里の遠さをものともせず、駆けつけて善言をこれに告げるでしょう。既済の局面を保つのに、何の難しさを愁えましょうか。
九五當既濟之時,不能任賢修政以保全盛之基業,人心天命至此而皆歸於六二矣。五縱慾念亂圖存而復自強,為力亦不易矣;二則不待勞力而可得之。葢天之所佑者徳也,人之所歸者亦徳也。二為克堪用徳,而五則為自棄其徳之甚者也。天下勢而已,勢輕勢重當於其幾而圖之。九五欲反二極重之勢而使為己有,難矣哉!後世人主亦可鑑矣。
九五は既済の時に当たりながら、賢才を任用して政事を修め、全盛の基業を保つことができません。人心と天命はここに至ってすべて六二に帰します。九五は縦(よ)しく乱の中で存を図り再び発憤自強しようと念じても、力を振るうのは容易ではありません。六二は力を労せずして自ずと人心を得ます。およそ天が佑助するのは徳であり、人が帰向するのもまた徳です。六二は堪えて徳を行える者であり、九五は自らその徳を棄てた甚だしい者です。天下の事は勢だけです。勢の軽重は、その兆しに当たってこそ図るべきです。九五はすでに極めて重く六二に傾いた勢を転じて己のものにしようと欲するも、難しいことです。後世の君主もこれを鑑(かがみ)とすべきです。
上六居既濟之極,將為未濟矣。上六陰柔,既無見幾之明,又無圖幾之才,事理昭著而不知悟,禍亂及身而不知畏。人之涉水而至於濡其首則身沒矣,以喻沈溺之深也。自以為可久可大之富貴可以保之於無虞,而不知土崩之勢在於旦暮焉,其危甚矣。昔人言燕雀處堂而棟宇焚,母子嘻嘻而不知懼,其上六之謂乎?故曰「濡其首,厲,何可久也」。
上六は既済の尽頭に居り、まさに《未済》に転じようとしています。上六は陰柔で、微を見て著を知る明察もなく、早めに図る才干もありません。事理が明白に眼前にあっても省悟せず、禍乱がすでに身に臨んでも畏れることを知りません。人が水を渡ってその首まで濡れるに至れば、それは身が没するということで、沈溺の深さを喩えたものです。長く大きく保てる富貴を、憂いなく安泰に保てると思いながら、土崩瓦解の勢が旦暮の間にあることを知りません。その危険は極まっています。古人が言うには、燕雀が堂屋に巣くって棟梁がすでに燃え起き、母子が嘻々(きき)と戯れて懼れを知らない。言うところはおよそ上六のような人です。だから爻辞と《小象伝》は「其の首を濡らす、厲(あやう)し」「何ぞ久しからん」と言います。
火水未済(坎下離上)
未濟:亨。小狐汔濟,濡其尾,無攸利。
《未済》の卦辞に言います。亨通する。小狐将に済(わた)らんとして其の尾を濡らし、利するところなし。
未濟與既濟義反,水火不交,不相為用,則為未濟。未濟之時亦有可亨之理,事有大變則時有大宜,雖當未濟,豈無其幾?乗之以有為,則可以亨通矣。六五以柔得中,為離之主,則能詳審委曲而燭於幾微,亦亨之一義也。
《未済》は《既済》と意義が正反対です。水火が交わらず互いに用い合うことができなければ未済となります。未済の時にもまた亨通できる理があります。事に大きな変化があれば時に大きな相宜があり、未済に当たっていても、どうしてその機がないと言えましょうか。それに乗じて有為に動けば、亨通できます。六五は柔をもって上卦の中を得、離の主となります。だから周詳に審査し委曲を尽くして幾微を照らすことができ、これも「亨」の一つの意味です。
但言「柔得中」而不言「剛應」之者,何也?火之性炎上,水之性潤下,六五上而不下,九二下而不上,性相戾而不相為用,與他卦陰陽相應者不同。若以柔中之君而得剛中之臣以輔之,則可以大有為,以致大亨通而無未濟之可言矣。
《彖伝》がただ「柔中を得」と言って「剛応」を言わないのは、なぜでしょうか。火の性は炎に上り、水の性は潤して下ります。六五は上にあって下りて来ようとせず、九二は下にあって上達することができません。両者は性情が相背いて互いに用い合うことができず、他の卦の陰陽が彼此感应するのとは違います。もし柔順で中を守る君主が剛健で中を守る臣子を得てこれを輔佐させれば、大いに為すことができて大亨通の局面を致し、未済とは言うべきものもなくなります。
天下未濟,君子以義理濟之,則圖幾應變不失其正而功可就;小夫淺慮,急迫輕動而欲求濟之,安能有成?是「小狐汔濟,濡其尾,無攸利」之義也。汔,勇敢之意,勇敢求濟則以血氣用事而不本於義理,故未能出中。葢一於義理則慎之於前,要之於後,可以有終;尚血氣則進鋭退速而智力窮矣,安能續終乎?
天下が未済の中にあるとき、君子は義理をもってこれを済します。幾先を図り変化に応じてその正を失わなければ、功業は成せます。見識の浅い小人物は、急躁に軽々しく動いて局面を救おうとしても、どうして成就がありましょうか。これが卦辞「小狐汔(き)く済り、其の尾を濡らし、利する所無し」の義です。「汔」は勇猛で急切な意です。勇猛だけを頼りに済を求めれば、血気意気で事を行い義理を本としません。だから《彖伝》は「未だ中より出ざる也」と言い、まだ険中から抜け出せていないのです。およそ義理に専一であれば、事の前に慎み事の後に収束して、有始有終できます。血気を尊べば進むのも速く退くのも速く、智謀と気力はすぐに窮尽します。どうして事を最後まで持ちこたえられましょうか。
如卦之才,剛柔雖不當位,而於非所當居之位亦相應焉,處之而盡其道,則得人相與,可以致亨而不至於濡尾無攸利矣。忠信相與,則胡越可以共事;猜忌乖離,則赤子亦為仇讎。前言「柔得中」而不言「剛應」,戒人君不可自用,小而失其臣;此言雖不當位而剛柔應,示君子以善於處己處人而事可濟。辭之抑揚,各有其意。慎辨物居方,如君子在位、小人在野,大徳大賢則居大位,小徳小賢則居小位,亦處未濟之時而求以濟之之道也。
本卦の才質について論じれば、各爻の剛柔はすべて居位が当たりませんが、これら本来居るべきでない位においても、彼此は依然として二二相応しています。このような処遇の中で道理を尽くすことができれば、人の相助を得て亨通を致し、小狐のように尾を濡らして一利もないことには至りません。忠信をもって相待てば、北胡南越が万里離れていても共に事を成せます。一旦猜忌して心が離れれば、親しい赤子のような者でも仇讐に変わります。前に《彖伝》がただ「柔中を得」と言って「剛応」を言わなかったのは、君主が剛愎自用で器量が狭く輔佐の臣を失ってはならないと戒めたのです。ここで各爻は当位しないが剛柔が相応すると言うのは、君子が善く己に処り善く人に接して事を済成できることを示しています。経文の一抑一揚にはそれぞれその用意があります。《大象伝》は君子の「物を慎み弁(わきま)え方(かた)に居る」と言い、譬えば君子が位に在り小人が野に在り、徳大きく賢大きい人は大位に居り、徳小さく賢小さい人は小位に居るように、これもまた未済の時に身を処してこれを済渡する方法を求めるのです。
初六以陰柔居未濟之始,事固不易濟,而初六亦非有能濟之才,才與時正相反者也。以居不得正而輕欲濟之,如狐之涉水而濡其尾,則不能濟矣,無益於事而取窮極吝之道也。凡非其力之所能堪而鋭意為之,動即顛覆,而事遂至於不可為者類此。
初六は陰柔をもって未済の初めに居ります。事はもとより済渡が容易ではなく、しかも初六には済渡できる才具がありません。才と時がちょうど相違しています。居位が正しくないのに軽率に事を成そうとするのは、狐が水を渡って尾を濡らすようなもので、終には渡りきれません。事に対して少しも補益がなく、かえって窮困して惜しまれる境地に落ちます。およそ力量が担当できないのに鋭意で為そうとし、一動すればすぐ翻覆し、事が遂に収拾できなくなるのは、みなこの類に属します。
未濟之時至於二則有可濟之幾。九二陽剛得中,又有能濟之才,特以六五離性上而不下,不能推誠心以求賢能而相與共濟焉,故九二曳其輪而不自進,非不欲進也,懼有枉己之失而不輕進焉。天下溺,援之以道,二可謂以道自重而審於出處之正者矣。坎有輪象,故言「曳輪」。
未済の時は九二の爻に至って、済渡できる兆しがあります。九二は陽剛で下卦の中を得、また済渡できる才干を備えています。ただ六五が離に属し、火の性が上炎して下りて来ようとしないため、誠心を推し出して賢能を訪ね求めこれと共に時艱を済ることができません。だから九二は己の車輪を曳いて自ら進みません。進みたくないのではなく、己を枉(ま)げて君上に迎合する過失に陥るのを懼れ、だから軽率に進もうとしないのです。天下が沈溺するのは、正道をもってこれを救援しなければなりません。九二は道をもって自らを重くし、出仕と退処の間を極めて正しく見る者と言えます。坎は象に車輪の象があるので、爻辞は「其の輪を曳く」と言います。
六三陰柔不中不正,當未濟之時,以是而行則凶矣,安有用其不中正之才以濟時之艱而能免於凶乎?利涉大川,非其誠意感人而得人心則不能。同舟共濟則仇讎一心者,以誠相合也。故聖人於六三不明言其不中不正不可不改,而但欲其利涉大川焉。
六三は陰柔で中にあらず正にあらず、まさに未済の時に当たり、この有様で行えば凶を招きます。どうして中でも正でもない才具をもって時艱を済渡し凶禍を免れる道理がありましょうか。《未済》六三の爻辞が「大川を渉るに利し」と言うのは、誠意をもって人を感動し人心を得るのでなければできません。同じ船で河を渡って険に遭えば、仇敵でも同心協力します。頼る所はまさに誠をもって相合うことです。だから聖人は六三に対し、その中でなく正でないことを改めねばならないと明言せず、ただ大川を渉越するに利があることを願うだけです。
三居坎之上,出乎險之外,有涉川之象。未濟至此則時又可濟,而三之才不足以濟之,故勉之以積誠動人而可以涉險之事,則其不中不正之疾可以潛消而頓革矣。既懼之以為惡之凶,復歆之以為善之效,其轉移六三之機微矣哉!非聖人化工之筆不能至此。
六三は坎卦の上端に処り、すでに険境の外に出たので、大川を渉越する象があります。未済がこの段階に至れば時勢にまた済るべき機がありますが、六三の才具は済渡に足りません。だから誠を積んで人を感動し、それによって険を渉り事を成すことができるとこれを勉励します。そうすればその中でも正でもないという毛病は、ひそかに消解し速やかに革除できます。まず悪を為せば必ず凶となることでこれを畏れさせ、次に善を為す効があることでこれを打ち動かします。聖人が六三を転回する手段は実に精微です。聖人の造化のような筆でなければ、この境地に至ることはできません。
九四以陽居陰,是所處不正而其心有悔者也,然陽剛之才固可以勵之而使為善也,故勉之以能正則可以得吉而悔亡。己既變而為正,則能以已之正而正人之不正。初六以陰居險體之下,坎水之性下而不上,於所當應者而不之應,是未濟之時之鬼方梗化而為治道之害者也。
九四は陽爻をもって陰位に居り、これは処する所が当たらず心中に悔恨のある人です。しかし彼は陽剛の才具を持ち、もともとこれを策励して善に向かわせることができます。だから爻辞はこれを励まして、能く正を守れば吉を獲得し悔恨が消えるとします。己がすでに改めて正となれば、自身の正をもって人の不正を正すことができます。初六は陰柔をもって坎険の体の最下に居ります。水性は下に向かって上に向かいません。本来応ずべき九四に対して偏って呼応しようとしません。これがすなわち未済の時における教化を梗塞し治道を妨害する「鬼方」です。
四以陽居陰,易於失其剛者,乃勉以震奮用師以伐之,則三年可以成功而有賞于大國焉。大國謂五也。四居其下,當未濟之時,能以得正用師之道而事之,則可以受寵賚矣。必得正而後可以伐鬼方者,亦「小人勿用」之意也。
九四は陽をもって陰に居り、剛健の気を失いやすいです。だから《未済》九四の爻辞はこれを励まして、奮起して軍を興して討伐せしめれば、三年で功を成し大国の賞賜を受けられるとします。いわゆる「大国」は六五を指します。九四は六五の下に居り、未済の時に身を処して、能く正を守る道をもって兵を統べ、これをもって君上に事えれば、寵命賞賜を領受できます。必ずまず能く正を守って後に鬼方を征伐できるというのは、また《師》卦上六の「小人用う勿れ」の意です。
六五有文明之徳,當未濟之時而居尊位,然以陰處陽,所不足者正也。若能修君徳以盡君道,而鉅細微顯一出於正,則有吉而無悔矣。至是則有君子道徳之光,充盛宣著而不可掩矣;至是則由致曲之功而至於有孚之誠矣。書曰「惟我文考,若日月之照臨,光於四方,顯於西土」,則君子之光之謂也;又曰「亶聰明,作元后」,則有孚之謂也。居尊而徳與位稱,何未濟之可言乎?吉而又吉者也。
六五は文明の徳性を持ち、未済の時に身を処して尊位に居ります。しかし陰柔をもって陽剛の位に処れば、欠けている所はまさに一つの「正」の字です。もし君徳を修養して君道を尽くし、事の大小・隠微・顕著を問わず一概に正より出れば、吉があり悔はありません。この段階に至れば、君子の道徳の光輝は充盛顕揚して遮掩できません。この段階に至れば、《中庸》の言う「曲を致す」の功夫から「孚有る」の誠に達します。《尚書・泰誓》に「惟れ我が文考、日月の照臨の若く、四方に光り、西土に顕れたり」とあるのは、まさに《未済》六五の爻辞「君子の光」の写照です。《尚書・泰誓》がまた「亶(たん)に聡明にして元后を作(な)す」と言うのは、まさに「孚有る」の写照です。尊位に居りて徳行と位次が相称すれば、何の未済が言うべきことがありましょうか。これは吉の上にまた吉です。
上九以剛明當未濟之極,未濟之極有可濟之理,而上九又有能濟之才。聖人以其體離,慮其或至於過察而躁動,故言但當自信其才與時合,事必可濟,安以待之而不至於過動可也,此「有孚飲酒,無咎」之義也。不過於有為者固不失之煩擾,而安於無為者則又至於廢弛。
上九は剛健明睿の資質をもって未済の尽頭に処ります。未済は尽頭に至って本来済渡できる道理があり、しかも上九は済渡できる才干を備えています。聖人は彼が離体に属するので、その明察が過ぎて躁動妄為するのを慮(おもんぱか)り、だからただ自らその才具と時勢が相合して事は必ず済成すると信じ、安然としてこれを待って妄動に至らなければよいと言います。これが《未済》上九の爻辞「飲酒に孚有り、咎无し」の意味です。過度に為さない者はもちろん煩擾に陥りませんが、ひたすら無為に安んずる者はまた廃弛に流れます。
故又言若安以待之而至於濡其首,則過於沈溺而或失其可乗之機會,則向之所謂有孚者反為自失而非宜矣。以其易至於過為也而戒之,復慮其不為也而勉之,酬酢斯世之道中為己矣。
だから爻辞は続けてまた言います。もしひたすら安然としてこれを待って「其の首を濡らす」に至れば、沈溺が過度になって本来乗じるべき時機を失うことがありえます。さきに言った「孚有る」はかえって自らを誤ることになり適切ではありません。彼が過度に為しやすいのを懼れてこれを告戒し、また彼がまったく何事も為さないのを懼れてこれを勉励します。この世道に応接する方法は、一つの「中」を取ればすべてその中に尽きています。
