困卦(坎下兌上)
困:亨,貞,大人吉,無咎,有言不信。
《困》卦の卦辞はいう:亨通して、正固を守持す。德ある大人は吉祥を獲得して、過ちあることなし。かかる時に處して口を開きて話せば、人は之を相信せず。
困亨,險以說,困而不喪其所守,是身困而道則亨。處困之正理,君子之能事,固可以得吉而無咎;若隕穫於困阨,僥倖以求免,則失其所以處之之道而咎多矣。含蓄晦黙,靜以待之,不可尚口益取困窮。方在困中,一身一心不為所信,而況於言乎?有言適所以招尤取辱也。兊為口舌,巧言求免以冀茍脫,豈處困之道哉?故又以尚口為戒。
卦辞に「困、亨」という。《彖傳》の講ずる「險にして說く」は、身は坎險に處して心裏は仍ほ能く安悅し、困頓の中に自らの守る操持を丟掉せず。これが便ち身は雖も困るも道は却って亨通す。困に處する正理を守住するは、君子の分内の做り得る事で、本來以て吉を得て過ちなきを可なり。若し困厄の中に失魂・落魄して志氣は頹喪し、僥倖に脫身せんを指望せば、則ち處困の道を丟掉して、過錯は反って多く起る。此の時は當に鋒芒を含蓄し晦迹・沉默して、安靜に時機を等待して、口舌の能を逞しうて更に困窮を招來すべからず。人は正に困頓の中に在りて、自身さえ・一片の心迹さえ人に相信せられず、況んや口に說く話をや。口を開きて話すは恰好に怨を招き辱を受く。上卦の兌は口舌で、花言・巧語を靠りて脫を求め僥倖に禍を免れんを指望するは、どこに處困の道あらんや。ゆえに卦辞の末に又た「言有れども信ぜられず」を以て人を誡告して口舌を逞しうせざらしむ。
困之時非實有所見、實有所得不能處也。聖人安土敦仁而皆自得,賢者決於義命而可泰然。實有所見、實有所得,則言語動止死生處之如一。盡言語之道,則能盡動止之道;盡動止之道,則能盡死生之道。言語動止死生皆理之常,事有大小,道無二致,見其為一,則能與天地萬物同流而無所謂困矣。致命遂志,則不但處困能亨,處死亦亨矣。
困頓の時は、若し真に見識有り真に得力あるにあらざれば、撑り持ち過ぐる能わず。聖人は《繫辭傳》のいわゆる「土に安んじ仁に敦し」、所に随いて安頓して自得快樂せざるなし。賢者は道義と天命との上に主意を打ち定めて、因りて能く泰然として自處す。真に見る所有り真に得る所有れば、則ち說話・擧止・生死は、處置するに皆同一の道理。能く說話の道理を盡くせば、便ち能く擧止の道理を盡くし、能く擧止の道理を盡くせば、便ち能く生死の道理を盡くす。言語・擧止・生死は皆常理で、事情に大小有りて道理に兩樣なし。それらが本來一件の事なるを看り出せば、便ち能く天地萬物と其の流行を同じくして、亦た「困」と謂うべきなし。《大象傳》に「君子は以て命を致して志を遂ぐ」といい、性命を交付し出して以て自らの志向を成全すれば――則ち非但に身は困厄に處して能く亨通するにあらずして、身は死地に臨むも亦た同じく亨通す。
初六當困之時,上無所庇,下不能以自安,臀困于株木之象也;昧所以自處之道,入于幽谷、三歲不覿之象也。不能自安,人品之卑也;昧自處之道,識見之暗也。如初六者,未足與之處困也。酒食人之所欲,九二有剛中之徳,可欲之善也,當困之時反以此可欲之善而自困焉。大凡有徳之君子,必以國與民為心,而憂時慨世之心為獨切,欲轉移之則又勢方殷盛,力所未能而心不能以自已,適見其困而已矣。
初六は困頓の時に處し、上頭に以て庇蔭する人なく、下面に自ら又た心を安んずる能わず。これがすなわち爻辞「株木に困む」の象で、枯れ木の株の上に坐りて安んぜず。彼は又た自處の道を明白にせず。ゆえに「幽谷に入りて、三歲覿えず」の象あり、幽暗の深谷に跌り入りて三年は天日を見ず。心を安んずる能わざるは、人品の卑下なり。自處の道を明白にせざるは、識見の昏暗なり。初六のごとき人は、彼と共に困に處するに配せず。酒食は人人の欲する所のもので、九二は陽剛・居中の德有りて、正に人人の親近せんを願う美質なれば、ゆえに爻辞に「酒食に困む」という。然るに困頓の時に當たりて、彼は反ってこの人の願慕する美質に困住せらる。大凡德ある君子は、必ず國家と百姓とを心上に放ち、而して時局を憂念し世道を感慨する心思は尤も懇切なり。局面を扭轉せんと想うも奈何せん邪勢は正に盛にして、力量は還も及ばず、心裏は又た按捺し得ず、結果は恰好に其の困頓を顯出するのみ。
蘊仁義之道,懐經濟之術,躋一世於平康者,舍斯人無與歸。上之人方委以拯困之責任,而朱紱方來矣。惟盡我之誠,一念忠貞可以感神明而無間,察其機會而徐處之,乃為利也;若遽欲征行,則時方甚難而反凶矣。九五為困之主,未能出困而有劓刖之傷,在九二則主憂臣辱、主辱臣死之時也,故雖凶而於義則無咎矣。
心裏に仁義の道を藏め、胸中に經世・濟民の本領を懷きて、能く一代の人を帶びて太平・安康の境地に到らしむるは、此の人を舍てて再び歸する所なし。上に在る君主は正に困局を拯救する責任を彼に付託せんとす。ゆえに爻辞に「朱紱方に來たる」、朱紅の祭服は便ち送り到らんとす。此の時はただ自らの誠意を竭くすのみで、あの一念の忠貞は以て神明を感通して毫も間隔なし。時機を看準して從容に處置するは、こそ利あるを得。ゆえに爻辞に「享祀を用うるに利し」という。若し急ぎて兵を起して前進せば、時勢は正に艱難にして、反って凶を要せん。ゆえに又た「征けば凶」という。九五是此の一卦の困厄の主爻で、彼自身は未だ能く困を脫せずして「劓刖」の傷害を受く。九二より看れば、此れ正に君は憂えば則ち臣は辱められ、君は辱められれば則ち臣は死する時なれば、ゆえに占斷は雖も凶と言うも、道義の上では却って「咎なし」。
當困之時,君子固為小人所困,而亦思所以去小人矣。六三不中不正,處九四之下而不能動乎四,困于石也;履九二之上而不能自安,據于蒺藜也。上有難動之人,下無自安之地,則死亡無日矣,故入于其宮不見其妻凶。初六,九四之正應,初六方困於下,九四處位不當,不能濟物,又為九二所間而濟之緩,在九四亦可吝矣。春秋之法,救而書次則為貶,畏於強梗而為義不果,來徐徐吝之道也。齊桓公一為陽穀之會,楚人滅黃而不能救,處位不當、不能濟物之義也。九四說體,恤小事大,睦以與人之意多,雖履險之上而已出於險之外,故終有濟於初六,惜齊桓不能自強而無終也。
困頓の時に處して、君子は固然として小人に困せられ、同時に亦た辦法を想いて小人を除掉す。六三は既に中に居らず亦た位に當たらず:それは九四の下に在りて却って九四を推動する能わず。これがすなわち爻辞の說く「石に困む」、大石頭に阻擋せらる。それは九二の上に踩るも却って身を安んずる能わず。これがすなわち「蒺藜に據る」、蒺藜の刺の上に坐る。上に推動し得ざる人有り、下に以て身を安んずる地なければ、則ち死亡は日なきにあらず。ゆえに爻辞に「其の宮に入りて、其の妻を見ず、凶」という。初六は九四の正應。初六は正に下面に困せられ、九四の處する位置は當ならずして、人を救う能わず、又た九二に中より隔阻せられて、因りて救援は遲緩す。九四に於ても亦た可惜と算し、爻辞に「來ること徐徐たり、金車に困み、吝」という。《春秋》の書法は、本來救援すべきにただ「次」と某地に兵を按じて動かざるを書けば、則ち貶責である。強橫の徒を怕れて道義の上に果決する能わざるは、正に「來ること徐徐」のこの可惜の路數。齊桓公は陽谷に一度會盟したるも、楚國が黃國を滅ぼせしに彼は救う能わず。正に「處位・當ならず、物を濟する能わず」の意に合す。九四は身は兌悅の體に在りて、弱小を體恤し強大に事え和睦に人を待つ心思は多く居り、雖も坎險の上に踩るも、自己は已に險境の外に出づ。ゆえに終竟に能く初六を救い得。可惜齊桓公は能く自強せずして、始有りて終なし。
九五上為柔所掩,下為剛所挾,是上下俱傷矣。赤紱,賞徳之服也,以赤紱賞柔說之邪而使履已之上,賞不中正之剛而使之迫近於巳,賞之未當,故上下俱傷,困于赤紱也。善惡在人,未有久而不定者也,況五有中直之徳,故久則得其道而可以濟天下之困而志遂矣,乃徐有說之義。賞善去惡以拯一世之困,誠而已,未有誠而不動者也,未有誠而弗能成功也,故利用祭祀則可以獲福矣。人君之福,在天下免於困阨而躋於康泰也。五何以未盡道待勉乎?亦萃有位未光之義也。上六困于葛藟,纒綿不能脫之義也;于臲卼,則動輒顛危而不可動也。處說之上,暗之甚而又當困極之時也。妄說昏暗,困其所失而固拯,則有可濟之幾。曰,更端之辭,故更端而告之曰:若於動而有悔之時,即能悔其既往之失而勉於善,則行合於道而得吉矣。悔自凶而向吉,故有獲吉之理。
九五は上は陰柔の上六に掩蔽せられ、下は陽剛の九四に挾持せらる。これがすなわち上下の兩頭ともに傷を受く。「赤紱」は德ある人を賞賜する服飾で、如今は赤紱を拿げてあの柔媚・諂悅の邪佞を賞賜して彼をして自己の頭上に踩らしめ、又たあの不中・不正の剛強の臣を賞賜して彼をして自己の身辺に緊逼せしむ。賞賜すること恰當ならず。ゆえに上下俱に傷つき、これがすなわち爻辞の說く「劓刖、赤紱に困む」。善與惡とは人の身上に於て、從來時間久しくして還も定まらざる有らず。況んや九五は中正・剛直の德有れば、ゆえに時日一たび久しければ便ち能く正道を得著して、以て天下の困厄を救濟して心願は遂げられん。これが正に爻辞「乃ち徐に說あり」の意。善を賞し惡を去りて以て一代の人の困厄を拯救するは、靠る所はただ一の「誠」の字。從來誠にして人を感動せしめ得ざるなく、亦た從來誠にして成功せしめ得ざるなし。ゆえに爻辞に「祭祀を用うるに利し」といい、かくのごとき以て福を獲得し得べし。人君の福は、天下の人が困厄を免れて安康に登るに在り。何を以て九五は還も道を盡くさずして還も人の勉励し來るを要すと言うや。これも亦た《萃》卦九五の「萃して位あり」にして《小象傳》の說く「志未だ光ならざるなり」の意。上六の「葛藟に困む」は、藤蔓に纏繞せられて掙脫し開かず。「臲卼に於てす」は、坐り立ち搖晃して、一たび動けば便ち傾覆せんとして敢て動かず。彼は兌悅の體の頂上に處して、昏暗は極點に至り、又た正に困厄の盡頭に當たる。妄りに喜悅して昏昧・不明にして、自らの造成したる過失の裏に困せられ、若し堅決に自救せんと肯んずれば、却って還も以て困を脫する機會有り。爻辞の裏の「曰」の字は話頭を轉換する語詞なれば、ゆえに聖人は口氣を換えて彼に吿げていう:若し「動悔」の時に於て、便ち能く從前の過失を悔悟して勉力して善に向かわば、則ち行事は正道に合して吉を得ん。悔改とは凶より轉じて吉に向かうで、ゆえに吉を獲る道理有り。
周易辨錄 卷四(明・楊爵撰)
井卦(巽下坎上)
井:改邑不改井,無喪無得,往來井井。汔至,亦未繘井,羸其瓶,凶。
《井》卦の卦辞はいう:城邑は遷改し得べしと雖も、水井は遷改し得べからず。井水は減少せず亦た増多せず、來り往きする人は皆井上に到りて水を汲む。水を汲むこと幾く井口に到りて、未だ井繩を提げ上げずして、反って水瓶を打破すれば、凶險なり。
君子立身,可貴可賤,可榮可辱,可生可殺,而不可使為不義。進則澤被於生民,退則道傳於來世,改邑不改井、無喪無得、往來井井之義也。若中道而廢,則前功盡棄凶矣。九卦言井徳之地,改邑不改井、無喪無得之義也;井不動而及物,則往來井井之義也;又謂井以辨義,則井之能事也。於井卦見立身之義,葢成已成物之道也。木上有水,汲而上行,井之象也。勞來斯民而勸相之,相,左右之義,皆養民之道也。
君子の立身・處世:彼をして顯貴ならしむる可く、亦た彼をして卑賤ならしむる可し。彼をして光榮ならしむる可く、亦た彼をして受辱せしむる可し。彼をして生きしむる可く、亦た彼を殺す可し。ただ彼をして不義の事を爲さしむる能わざるのみ。志を得る時は恩澤は百姓に遍及し、志を得ざる時は道を後世に傳う。これが正に卦辞「邑を改めて井を改めず、喪うなく得るなく、往來井井たり」の意。若し半途にして廢止せば、則ち前功は盡く棄てられて凶なり。《繫辭傳》に九卦を擧げて「井は德の地なり」といい、正に「邑を改めて井を改めず、喪うなく得るなし」の意に合す。井は自ら移動せずして能く萬物を潤澤するは、すなわち「往來井井」の意。又た「井は以て義を辨ず」といい、あれは井の成就し得べき事である。《井》卦の上より立身の道理を看り出し得べきは、これが本來自己を成就し萬物を成就する一貫の道なるがため。下の巽は木・上の坎は水で、木の上に水ありて、是れ水を汲み上ぐる、すなわち井の象。《大象傳》に「君子は以て民を勞して相を勸む」といい、百姓を慰勞して彼らを勉励して相互に扶助せしむ。「相」は輔助の義で、これらは皆民を養う道である。
初六以陰居下,既無陽剛之泉,自無及物之功,非世故舍初,而在初無可用之才之徳也。地風為升,初六則允升大吉;水風為井,初六則舊井無禽,何也?葢升之時主於上進之義,九二九三皆得時行道之君子,初固可藉之以允升矣;井之義主於自立,而九二九三之君子己不為世用矣,而況初之乆下於人者乎?又升之徳巽而順,善之善者;井則巽而險,柔而害物之義也,諸賢生於其時,則難乎其効力矣。聖人卦辭取其大者而不及於此。
初六は陰爻を以て最下に居り、既に陽剛の泉源なく、自ずから亦た外物を潤澤する功用なし。これは並びに世道が存心に初六を抛棄するにあらずして、初六の本身に用うべき才具と德行と無きがため。同じく一卦の初爻:地風《升》の初六は「允升、大吉」にして、水風《井》の初六は却って「井泥食われず、舊井禽なし」。何を爲めぞや。《升》卦の時義は向上・進取に主れば、九二・九三は皆好時機に遇いて能く主張を推行する君子で、初六は自ずから彼らの力量を借りて順利に上昇し得。《井》卦の義理は自立に主りて、而して九二・九三の兩位の君子は自己さえ皆世に用いられず、況んや初六のこの長久に人下に屈居するをや。更に言えば《升》の卦德は巽にして順、是れ好中の好。《井》の卦德は却って巽にして險、陰柔を含みて萬物を妨害する意ありて、衆多の賢者はかかる時代に生れれば、效力し難し。聖人は卦辞を繫げてただ其の大者を取りて、この一層を講ぜざりき。
九二有剛中之徳,上無應與,下比初六,為井谷射鮒之象。谷,初之象;鮒,谷之所有也。泉下谷,則注於鮒而置之無用之地矣,甕敝漏亦取此義。九三剛而得正,井渫之象,而不為人所食者,所應者無位之陰爻,又處險之極,則陰險之意多,三未可以得志也。若三者,孰不望其興道致治哉?故為我心惻而可用汲。若明王在上,則三可得志而天下並受其福矣。九三伊尹、太公之儔也,有商湯、周文,則功被於一世矣。六四井甃之象,可以無咎而已。水生於陽者也,陰柔則無泉矣,居陰得正,則自修飾而為謹厚之類耳,匡世之畧非其所有。
九二は陽剛・居中の德有りて、上面に正應なく、下面に却って初六に緊挨す。ゆえに爻辞「井谷に鮒を射る」の象あり。「谷」は初六の象、「鮒」は井谷の裏の小魚。泉水が下に流れて井谷に入れば、便ちただあの一條の小魚に灌ぎ與え、等しく自己を無用の地に擱置す。爻辞の下句「瓮敝れて漏る」、瓦瓮は破れて水漏るるも、亦たこの意を取る。九三は陽剛にして位に當たるは「井渫」の象――井は已に淘い洗い淸潔なるも、却って來りて飲用する人なし。これは其の應ずる所の上六が無位の陰爻にして、又た坎險の頂端に處し、陰險の成分は多く居りて、九三は還も志を得る能わざれば。九三のごとき人は、誰か彼の正道を興起し治世を成就せんを盼望せざらん。ゆえに爻辞に「我が心惻たりと爲し、汲むに用い可し」といい、人をして心裏惻然たらしめ、本來以て汲取し任用する可し。若し明王は上に在らば、九三は便ち能く抱負を施展して、天下は皆其の福澤を受けん。九三は伊尹・姜太公の一流の人物で、商湯・周文王に遇えば、功業は以て一代に覆被し得べし。六四は「井甃」の象で、井壁を砌り齊えるも、亦不過過ちなきを做り到るのみ。水は陽より生出するもので、陰柔は便ち泉源なし。六四は陰を以て陰に居りて正を得、ただ能く自ら修飭・整治して、謹慎・厚重の人を爲すのみで、時世を匡救する謀略は彼の具備する所にあらず。
九五陽剛中正以居尊位,澤被生民而志行矣,是井冽寒泉而為人所食也,亦可謂善矣,而無美詞以發揚之,何也?或者以其為險之主,君子未必樂為用,而五有自賢自用之小乎?若五者,好臣其所教而不好臣其所受教者也。不然,則九三不心惻,九二不射鮒,眾賢和於朝,萬物和於野,徳業之盛,上下與天地同流矣,豈區區一己之寒泉而為人所食乎?上六陰柔本非泉也,然居井之上,則井之口,泉在下矣,上又恆開不掩,為井收勿幕之象,徳澤及物而無間之義也,故有孚元吉。井道之成,視九五則逺過之。
九五は陽剛・中正を以て尊位に居り、恩澤は百姓に遍及して心願は行わるるを得。これがすなわち爻辞「井洌にして寒泉食わる」――井水は淸冽・甘寒にして人人取用す。亦た以て好しと算し得べし。然るに爻辞は並びに更に美なる贊語を以て彼を發揚せざるは、何を爲めぞや。或いは彼が坎險の主爻にして、君子は未だ必ずしも彼に用いらるるを樂しまず、而して九五の身上に又た自ら賢と爲し剛愎・自用の小毛病有るがためか。九五のごとき人は、正に孟子の說く「其の教うる所を臣とするを好みて、其の教えを受くる所を臣とするを好まず」――ただあの自己の訓教を聽く人を用いるを好みて、あの自己が之に請教すべき人を用いるを好まず。然らずんば、九三は人をして心裏惻然たらしむるに至らず、九二は泉水を白く小魚に射與するに至らず。あの時に衆賢は朝廷の上に和睦し、萬物は原野の間に和順して、德業の盛なること上下に天地と其の流行を同じくせば、どこにただ區區たる一泓の寒泉が人の飲用に供するのみならんや。上六は陰柔の爻で、本來泉にあらず。然るにそれは井の最上に居る、すなわち井口で、泉は其の下に在り。井口は又た常に開きて遮蓋を加えず。ゆえに爻辞「井収めて幕る勿れ」の象で、德澤の萬物に及ぶこと毫も間隔なき意を含む。因りて「孚あり、元吉」という。井道を成就するこの一點に就いて看れば、上六は遠く九五に勝る。
革卦(離下兌上)
革:已日乃孚,元亨利貞,悔亡。
《革》卦の卦辞はいう:變革は時日の過去するを待ちて然る後に人に信服せられん。大いに亨通して、正固を守持するに宜しく、悔恨は消失す。
樂因循而憚改革,茍目前而忘逺大,眾人之情也,故已日乃孚。人心既孚,隨其推放,無所不凖,一時之敷理可為永久之宏規,而大亨通矣。人之變革,不無違道干譽、拂人從已之失,故利於正則可以亡悔。聖王因時立政,順天命之正,合人心之公,而行其所無事也,夫豈容私於其間哉?有以時之弊而理其時者,有以法之弊而更其法者,皆革之大要也。內有文明之徳,則在已所以察之者精;外有和說之氣,則在人所以從之者易。革之所以能貞致亨,而得人心之孚矣。
因循・舊套を好みて改革を怕れ、眼前のみを顧みて長遠を忘掉するは、一般人の常情なれば、ゆえに卦辞に「已日乃ち孚あり」――時日の過去するを待ちて、人々はこそ信服せんと肯んず。人心は一たび信服すれば、この套の辦法を推行し開けば、合する繩準なき處なし。一時の施設・條理は便ち以て永久の宏大の規模と成り得て、ここに大いに亨通す。人々の變革の事を爲すに、難かず《尚書・大禹謨》の警戒する所の「道に違いて譽を干り、百姓に咈えて己に從わしむ」のこの一類の毛病有らん、正道に違背して聲譽を博取し衆人に拂逆して自己に順從せしむれば、ゆえに正を守るに宜しくしてこそ悔恨を消去し得べし。聖王は時勢に因應して政令を設立し、天命の正に順い人心の公に合し、爲す所は皆本分内の爲すべき事で、どこに半點の私意を中間に夾むるを容れんや。或るは時政の積弊に因りてこの時代を整頓し、或るは法度の積弊に因りてこの套の法度を更改す。皆變革の大關節である。内卦の離は文明の德有れば、則ち自己は事理を審察すること精細なり。外卦の兌は和悅の氣有れば、則ち他人の跟從し來ること容易なり。《革》卦の能く正を守りて亨通を致し人心の信服を贏得する所以の道理は、便ち此に在り。
天地革而四時成,天地革之大徳也;湯武革命,順乎天而應乎人,湯武革之大用也。聖人序書則録湯武誓師之辭,繫易則贊其為順天應人,拯一時之屯溺,古今之通義也;稱夷齊為求仁而得仁,存君臣之義,立萬世之防,天地之常經也。他事有因有革,惟治厯明時則専於革而已。治厯所以明時,明時所以子民也。天之立君,所以為民,欲以一人理天下而勞之,非以天下奉一人而逸之矣。聖王裁成天地之道,輔相天地之宜,皆治厯明時之大用,而所以左右斯民也。
《彖傳》に「天地革りて四時成る」といい、天地は更革して四季はここにより完成す。これは天地の變革する大德である。又た「湯武の革命は、天に順いて人に應ず」といい、商湯は桀を放ち周武は紂を伐ち、上は天意に順い下は人心に應ず。これは湯武の變革する大用である。聖人は《尚書》を編次して、便ち湯・武の師を誓する文告を收錄し。《周易》に辞を繫げて、便ち彼らの天に順い人に應ずるを贊美す。一時の水火に陷れる百姓を拯救するは、古往今來に共通する道義なるがため。孔子は又た伯夷・叔齊を稱許して「仁を求めて仁を得たり」と爲すは、君臣の義を保全し萬世の防限を樹立せんがため――あれは天地間の不變の常經である。別の事情は因襲有りて變革有るも、ただ曆法を修治し時令を明確にするこの一椿は、ただ一味に變革するのみ能し。曆法を修治するは時令を明確にせんがため、時令を明確にするは百姓を養育せんがため。上天が君主を設立するは、本來百姓のためで、一個の人をして辛勞に天下を治理せしめんと欲するので、天下の人をして一個の人を供養して彼を安逸せしめんと欲するにあらず。聖王は天地の道を裁斷・成就し、天地の宜に輔助・配合するは、皆「曆を治め時を明らかにす」の大作用で、以てこれらの百姓を扶助し教養せんがため。
初九居革之初,上無正應,其時其勢皆未可革,當以中順自守而不可以有為也。守常不革則為中順,否則非中非順矣。六二文明之主,有應於上,有能革之徳,而又有當革之權,則可革矣,必己日乃革,則往吉而無咎。己日乃革,徐察詳審而使動無不當,非時當革而姑緩之也。若事為民害,或繫國安危,當如救焚拯溺,不暇食以革之矣,姑緩之說為害不細。
初九は變革の開頭に處し、上面に正應なく、時機と形勢とは皆還も以て變革すべからず。當に中正・柔順を以て自守して舉動有るべからず。ゆえに爻辞に「鞏むるに黃牛の革を用い」――要するに黃牛の皮を以て牢く捆住するがごとくなれ。常規を守りて妄動せざれば、こそ中正・柔順と算す。然らざれば便ち既に中ならず、亦た順ならず。六二は文明の體の主爻で、上に九五と相應じ、既に能く變革する德行有り、又た變革すべき權柄有れば、則ち以て變革し得べし。必ず爻辞の說くがごとく「已日乃ち之を革め、征けば吉、咎なし」、時日の過去するを待ちて再び手を動かせば、前に往けば吉利にして過錯なし。いわゆる「已日乃ち革む」は、從容に審察し周詳に考慮して、一擧・一動の恰當ならざるなからしむるを要するので、並びに明らかに時機は變革すべきに却って故意に拖延するにあらず。倘若某件の事が正に百姓を禍害し、或いは國家の安危に關係せば、便ち當に火を救い溺を拯うがごとく、飯さえ顧みるに及ばず手を動かして之を改むべし。「姑く且く緩めよ」のこの種の說法は、爲害すること着實に小ならず。
九三居離之極,過剛不中,離極則過察,剛極則過動,以是而革則征凶,雖事為當革而處之不善亦危矣。必三令五申以明己之志,則可以有孚矣。九三徳之衰也,固不能無言而使人自信也。盤庚遷都,心本為民而民不從,至勤三篇誥命始能有濟,革言三就有孚之謂也。大凡忠信不足而尚辭命,衰世之意也。
九三は離卦の頂端に處し、剛強に過ぎて中に居らず。離は極處に到れば便ち察察・太甚にして、剛は極處に到れば便ち擧動・太急す。かかる性子を以て變革に往かば、爻辞は便ち「征けば凶」と斷ず。雖も事情は確かに變革すべきも、處置すること好からざれば亦た同じく危險。必ず三令・五申して、自己の意圖を講明白にして、能く衆人の信任を取得せば、これがすなわち爻辞の說く「革言三たび就き、孚あり」。九三は德行の較ぶれば衰えたると算して、本來口を開かずして人は自ら信服するを做り到る能わず。商王の盤庚が都を遷すに、本心は百姓のために打算するも、百姓は肯んじて聽從せず、反覆して《盤庚》上中下の三篇の誥命を寫き下すに至りて、事情はこそ辦り成れり。これが正に「革言三たび就き、孚あり」の寫照である。大凡忠信足らずして好む辞令に倚仗するは、便ち衰世の氣象である。
九四近五,贊五以改革之命播諸下,又剛柔不偏,善處乎革之道也。事當革而未革則有悔,善處而革之則悔可亡,人信其改命而得吉矣。陸贄為唐徳宗作奉天詔書,山東父老為之感泣,有孚改命之謂也。九五以陽剛中正之徳,當革之時而居尊位,下有六二文明中正之臣以應之,同寅協恭,建制立法以革天下,而至於禮樂興也,文章制度炳乎一世,革道大成,不待占而有孚矣。上六處革之極,君子至於豹變而其文蔚然,小人革面而順以從君,皆已有以致之也,若以聖人處之,則必世而仁矣。上六陰柔之才,固不能變小人之心,其力之所至、効之所應,止於如此而已,安其如此而已,等而上之之功業以俟能者,則正而吉。若過於有為,則不量其力,徒取煩擾而得凶矣。
九四は九五に靠近し、君主を輔助して改革の命令を下面に頒布し下す。彼は又た剛柔偏らずして、變革の道を處置するに善き人である。事情は變革すべきにして變革せざれば悔恨有り、善く處置して變革せば、悔恨は便ち消失し得、人々はこの一次の命を改むるを相信して吉を得。これがすなわち爻辞「悔亡り、孚あり命を改め、吉」。唐代の陸贄が德宗に代わりて奉天行在の詔書を起草せしに、崤山以東の父老は讀みて皆感動して淚を落せり。正に「孚あり命を改む」の寫照。九五は陽剛・中正の德を以て、變革の時に處して尊位に居り、下に六二の文明・中正の賢臣が彼と相應じ、君臣は同じく敬同じく恭にして、制度を建立し法度を訂立して以て天下を變革し、一直に禮樂の興起し典章・制度の一代を光耀するに做り到りて、變革の道は大功・吿成して、占問するを用いずして自ずから人の信服と爲る。これがすなわち爻辞「大人は虎變し、未だ占わず孚あり」。上六は變革の終末に處し、君子は「豹變」を做り到りて文采斐然たり、小人も亦た「面を革めて」君上に順從す。これらは皆上六が自ら一步一步に促成したり。若し聖人に換えてこの位置に處せば、則ち當に孔子の說くがごとく「必ず一世にして後に仁なり」、三十年を需めてこそ仁厚の風俗を養成し得べし。上六はただ陰柔の才にして、本來小人の内心を改變する能わず、彼の力量の達し得べき・功效の感應し得べきは、此に止まるのみ。
鼎卦(巽下離上)
鼎:元吉,亨。
《鼎》卦の卦辞はいう:大いに吉祥にして、亨通・順暢す。
卦之體,鼎之象也;以木巽火烹餁,鼎之用也。聖人烹以享上帝,而大烹以養聖賢,事天之仁、養賢之禮具於此。巽而耳目聰明,則察事理之幾而制之以道也。柔進而上行,得中而應乎剛,以離明得中之君而下應九二之賢,則上下之相與而都俞吁咈者皆以道焉,所以致元亨也。正位,表正之義也,履尊位而有以表正天下,則天命凝固而可以常主器矣。
この一卦の六爻の形體は、正に一隻の鼎の象。木柴を火の裏に送り入れて食物を烹煮するは、則ち鼎の用處。《彖傳》に聖人は「亨して以て上帝に享し、大亨して以て聖賢を養う」といい、鼎を以て牲牢を烹煮して上天を祭享し、又た盛大の烹調を以て聖賢を奉養す。上天に事奉する仁心・賢者を供養する禮數は、皆ここに具備せり。又た「巽にして耳目聰明」といい、謙遜にして耳聰く目明ければ、則ち能く事理の細微の苖頭を察見して正道に依りて之を裁斷す。又た「柔は進みて上行し、中を得て剛に應ず」といい:離體の光明・居中・得位の君主を以て、下に向かい九二の賢臣に應和すれば、則ち君臣・上下の相處は、一唱・一和して可を議し否を議して、全て正道に合す。これがすなわち「元亨」に達する緣故。いわゆる「正位」は、表率を作出して天下を端正する意。身は尊位に居りて能く天下のために表率を作せば、則ち天命は凝聚・牢固にして、以て長久に宗廟の重器を主持し得べし。
初六居鼎之下,鼎趾之象也,上應九四,則趾上而鼎顛矣。鼎之初未有美實,所有者否惡之積耳,因其顛而出之則為利矣。在四以上顛之則為大惡,在初顛之則為成功。初知有顛而不知有出否,出否得於意外之幸也。鼎之否亦不待必顛而後可出,未顛亦可以出之,一有顛則所損者多矣,聖人特據其象而示人以既顛之後所處之道也。事固有因敗以為功,以不幸而反為大幸,殷憂啟聖,多難興邦者,類如此,得妾以其子亦然。顛趾、得妾皆過也,因出否得子,則為善補過矣。
初六は鼎の最下に居りて鼎足の象で、それは上は九四に應じて、鼎足は便ち抬げ起されて鼎身は翻倒す。これがすなわち爻辞「鼎、趾を顛す」。鼎は開頭に未だ美好の食物を裝入せずして、裏面の有る所はただ積存の穢物のみ。この一翻に趁りて穢物を倒出せば、反って利あり。ゆえに爻辞に「否を出すに利し」という。この事は若し九四以上・鼎中に已に實物有る時に發生して翻倒せば、便ち大惡。初六のこの階段に發生して翻倒すれば、反って好事と成る。初六はただ翻倒するを知るのみで、並びに穢物を倒出し得を知らず。「否を出す」は意外に得來した僥倖。其實鼎裏の穢物も亦た必ずしも翻倒するを待ちてこそ倒出し得にあらずして、翻倒せざるも一樣に倒出し得。一旦翻倒すれば、損失は便ち多し。聖人は不過この爻象に就着して、人に指示して已に翻倒したる後に當に怎樣に自處すべきかを示すのみ。事情は本來失敗に因りて轉じて成功と成り、不幸より反って大幸と成る有り。いわゆる深重の憂患は能く聖明を啓發し、衆多の患難は能く邦國を振興するは、大抵皆この一類。爻辞の下句「妾を得るに其の子を以てす」も亦たしかり。鼎足の翻倒し妾媵を納娶するは、本來皆過失。却って此に因りて穢物を倒出し兒子を得たれば、則ち善く過を補うと成れり。
九二剛中之徳,鼎有實之象也。下比初六,己之仇也,仇者配耦之義,陰陽相比,配耦之象也。初有邪惡之疾,二能嚴其自守之常,初之疾不能反於二焉,韋忠不就裴頠、康侯之逺秦檜,得此義矣。九三以剛正之才,舍五不應,則道不行於當世,鼎耳革、其行塞之象也。五為文明之主,柔而得中,非不能任賢禮士者,三不此應,則過剛不中而失其義矣,道之不行誰之尤哉?以賈生之才,不能為漢文所用而有長沙之行,亦生自處之過也,豈以五之明,終有棄於三之剛正哉?三之才終當為五所用焉,方雨虧悔而終吉矣。使賈生不死而假之以年,則通達國體之實才,文帝不能舍之矣。
九二は陽剛・居中の德有りて、爻辞「鼎實有り」の象で、鼎中に實物を裝む。それは下面に初六に緊挨して、正に爻辞の說く所「我が仇疾あり」のあの「仇」。「仇」は配偶の義で、陰陽相鄰りて、則ち配偶の象。初六は邪惡の毛病有りて、九二は能く自らの常道を嚴守せば、初六の毛病は便ち九二の身上に沾染し來る能わず。ゆえに爻辞に「我に卽く能わず、吉」という。晉代の韋忠が裴頠に依附するを肯んぜず、宋代の胡康侯が秦檜を遠離せしは、すなわちこの道理を懂得せり。九三は剛正の才有るも、却って六五を撇き開きて應和しに往かず。ここに道は當世に行わるる能わず。これがすなわち爻辞「鼎耳革め、其の行き塞がる」の象――鼎耳は壞れて、抬げ起す能わず、路は走り通さず。六五は文明の主にして、柔順にして中に居り、並びに賢人を任用し士人を禮遇する能わざる君主にあらず。九三が彼に應じに往かざれば、便ち過剛・不中に成りて義理を失掉し、道は行き通らず、又た誰を怪しむべきや。賈誼のごとき才具を以て、漢文帝に用いられずして長沙に貶謫の行有りしも、亦た賈誼自己の處置の過失で、豈に六五のごとき明達を以て、終竟に九三のごとき剛正の士を舍棄せんや。九三の才具は終竟に六五に用いられん。ゆえに爻辞は繼いで「方に雨して悔虧く、終に吉」――陰陽和合して雨を降し、悔恨は消減して終竟に吉祥を得。假使賈誼が……
九四近六五,五之於四,其爵賞之可謂厚矣,委任之可謂専矣,屬望而責成之可謂不淺矣。四不能進賢報國,乃下應初六,引用柔邪以為善類之禍,以基天下之亂,則上負君徳,下負蒼生,誤國誤民之罪安可逭哉?故其形渥凶。六五在鼎為耳而有中徳,則黃耳之象也。下應九二,資此陽剛得中之賢輔己以盡君道,則為黃耳金鉉矣。五之於二,內之而不外;二之於五,得以已之剛而濟其柔:金鉉貫黃耳,舉移之義也。五於二當終始委任而不間以險邪,則為貞而國與民之利也。五體柔,所不足者貞而已,聖人慮其任君子而有貳焉,故以利貞勉之。
九四は六五に緊挨す。六五は九四に對して、爵位・賞賜は優厚と算し得、委任は專一と算し得、寄望の殷・責成の重は淺からざると算し得べし。九四は却って賢才を進薦し國家に報效する能わず、反って下に向かい初六に應和し、柔媚・邪佞の人を引用して、善類の災禍を釀成し、天下の禍亂のために根基を打下す。これがすなわち上は君恩に辜き、下は蒼生に辜き、國を誤り民を誤るの罪過は怎に逃れ得られん。ゆえに爻辞に「鼎足を折り、公餗を覆し、其の形渥たり、凶」という。六五は鼎の上に於ては鼎耳に相當し、又た居中の德有れば、ゆえに「黃耳」の象。それは下に向かい九二に應和し、此の陽剛・居中の賢臣を借りて自己を輔佐して以て君たるの道を盡くせば、便ち爻辞の說く「鼎黃耳・金鉉」と成る。六五は九二に對して引いて心腹と爲して外と見ず、九二は六五に對して能く自己の剛を以て君主の柔を補足す。金鉉は黃耳に穿入するは、正に鼎を抬げ起して搬動する意。六五は九二に對して當に自始至終に重任を委ね、陰險・邪佞の人をして中より隔らしむる勿かれ。これがこそ「貞」で、亦たこそ國家と百姓との福利。六五の爻體は柔弱にして、其の欠缺する所は正に一の「貞」の字。聖人は彼が君子を任用して中途に二心を生ぜんを擔心し、ゆえに「利貞」を拿げて彼を勉励す。
上九為鼎鉉,居五之上,在鼎之終,師保之位,調和鼎鼐、輔養君徳之任也。以陽居陰,剛而能柔,玉鉉之象,一容顏威儀之感召而有潛消黙奪之機,其功用多矣,故大吉無不利。伊川程先生謂經筵須得範忠宣,其溫厚之徳自有感動人主處。
上九は鼎鉉で、六五の上に居り、《鼎》卦の終末に處して、正に師保の位置で、鼎鼐を調和し君德を輔助・涵養する職任を擔負す。それは陽爻を以て陰位に居りて、剛強にして能く柔和す。ゆえに爻辞「鼎玉鉉」の象で、玉製の鼎鉉は堅硬にして温潤を帶ぶ。單に容貌・威儀の感召に、便ち暗中に君主の過失を消解し默默に君主の心意を轉移する機會有りて、功用は甚だ大なり。ゆえに爻辞に「大吉、利あらざるなし」という。程頤先生は曾て經筵の講席は必ず范純仁のごとき人を請い到るを須とすと言えり、彼のあの温厚の德行は自ずから能く君主を感動する所有るがため、說く所は正にこの意。
震卦(震下震上)
震,亨。震來虩虩,笑言啞啞;震驚百里,不喪匕鬯。
《震》卦は亨通す。雷震は突然に降臨して、人人は驚懼・不安す。戒懼を過ぎたる後に又た談笑・自如し得。雷聲は以て方圓百里を驚動するに足りて、而して主祭者の手中の牲を盛る匕・酒を盛る鬯とは曾て失落せず。
震有能動之意,有震驚恐懼之義。能動之亨,以轉移作用之機在我而不在人,則可以得亨矣。震驚恐懼之亨,乃處多喪多懼之地,雖赫然臨之,有死有生在於頃刻,心不為少變,志不為少屈,刀鋸鼎鑊之在前,而平生之所守則自如,亦亨之義也。又內卦為動,外卦亦為動,則為動所當動,而動以天,亦自有得亨之理焉。
「震」は既に能く發動する意を含み、又た震驚・恐懼の意を含む。「能動」のこの一面に就いて言えば、其の亨通する所以は、局面を扭轉し作用を發揮する樞機が自己の手裏に握られて他人の手裏に在らざるに在りて、ゆえに能く亨通す。「震驚・恐懼」のこの一面に就いて言えば、其の亨通は指す所は人が身は喪亡多く憂懼多き境地に處して、縱使大禍は赫然として頭上に壓到し生死はただ頃刻の間に在るも、而して此の心は此に因りて毫も改變せず、此の志は此に因りて毫も屈服せず。刀鋸・鼎鑊のこれらの酷刑は眼前に擺れど、平生の守る節操は依舊として動かず。これも亦た一種の亨通である。再び言えば、《震》卦の内卦は震動・外卦も亦た震動で、則ち當に動くべき事に遇いて動き、而して其の動く所は天理より出づ。本身は自ずから亨通の道理有り。
危者安其位者也,亡者保其存者也,亂者有其治者也,此「震來虩虩,笑言啞啞」之義也。雷之震止於百里,震之象為雷,故以「震驚百里」為言。震驚百里,震之之勢亦盛矣,而不喪匕鬯,君子之心豈以震之逺近而為所守之難易乎?震有足為千萬里之驚者,有足為千萬世之驚者,君子以義理為主,而吉凶禍福未嘗介念,視其震驚若無與於己也。
《周易・繫辭下》に曰く:危險を招致するは、正にあの安然として其の位に自處する人。滅亡を招致するは、正にあの自ら以て長く生存を保ち得と爲す人。禍亂を招致するは、正にあの自ら以て天下は已に治まりと爲す人。これがすなわち「震の來ること虩虩たり、笑言啞啞たり」の意――雷震の到來する時に先ず驚懼・警醒し、然る後に乃ち談笑・自如す。雷の震動は不過百里に及ぶのみ。《震》卦は雷に象を取れば、ゆえに「百里を震驚す」を以て形容す。百里を震動するは、聲勢は大と謂うべからざるなく、而して主祭者の手中の匕・鬯は竟に失落せざるを見れば、君子の心は、豈に震動の遠近に因りて自らの守る操持をして難易有らしめんや。世間の震動は、大にして千萬里を驚動する有り、亦た大にして千萬世を震撼する有り。君子は義理を以て主宰と爲し、吉凶・禍福は從來心上に放らず、あの震驚を看待するに、便ち自己と毫も相干なきがごとし。
若戒謹恐懼以保成業者,則又一義焉。《商書》曰:「茲朕未知獲戾於上下,若將隕於深淵。」湯之所以能為宗廟社稷之主也。凡諸侯大夫不敢縱逸而能保其國與家者,皆在其中。洊雷震,君子以恐懼修省,所以體震之義。然君子恐懼修省,不但可以謂其得之於震,謂其得之於六十四卦、三百八十四爻皆無不可,特於震之義為切。又洊雷,則恐懼修省之心無時而可間也。
戒懼・謹慎を以て已成の基業を保住するに至りては、あれは又た「震」の別の一層の意。《尚書・商書・湯誥》に商湯の言を記して曰く:「如今我は還も自己が天地・神明に得罪したるや否やを知らず、心裏惶恐して深淵に墜入せんとするがごとし」と。商湯は正にこの戒懼有るが因りて、能く宗廟・社稷の主を爲り得たり。凡そ諸侯・大夫の放縱・安逸せざるを敢てせずして因りて能く自らの邦國・家族を保住するは、道理は皆此の裏面に在り。《震》卦の《大象傳》に「洊雷、震、君子は以て恐懼・修省す」といい、雷聲は接續して至りて、君子はここにより常に戒懼を存し己身を修省す。正に「震」の意義を體會す。不過君子の恐懼・修省は、單に《震》卦より得來したりと說く可きのみならずして、六十四卦・三百八十四爻の中の何の一處より得來したりと說くも皆說き通る可し。ただ《震》卦の上に於て意義は最も切近なるのみ。更に言えば「洊雷」は雷聲の相繼ぎて來るで、恐懼・修省のこの念の心は、一刻も間斷する可からざるを見るべし。
初九爻詞與卦詞同者,葢一陽動於二陰之下,卦之所以為震者,取於初爻之義,而此爻獨得一卦全體之義焉,故其詞無異。聖人之心如天,而筆則如化工焉。天之道,因物以付物也;聖人冩其卦爻所具之理而已,無與焉耳。
《震》卦の初九の爻辞は卦辞と完全相同なるは、一個の陽爻が兩個の陰爻の下に發動すれば、全卦の成る所と爲る「震」は、正に初爻の意義より取られて、而してこの一爻は單獨に整卦の意義を具備せれば、ゆえに爻辞と卦辞とは並びに差別なし。聖人の心胸は天のごとく廣大にして、筆を落せば則ち造化の物を生ずるがごとく自然なり。天の法則は、萬物の本身の樣子に順いて以て萬物を成全す。聖人も亦たただ卦爻の本來具有する道理を如實に寫き出すのみで、自己は並びに何の私意をも掺入せず。
六二乗初九之剛,初以剛逼二而動於下,在二則危之甚也。初肆其橫逆而動者也,其勢非遂其所欲不自止。二度初之來,己必喪其貨貝,躋于九陵之上而待之焉,九陵,髙之義也。初以剛動,而二以柔制之;初以邪動,而二以正克之,待之之道髙出乎初之上,躋于九陵之象也。貨悖而入者亦悖而出,初以非道迫二而使喪其貝,不能為己有,而二終當得之,勿逐七日得之象也。卦有六爻,至於七則終而復始,數窮理極之義也,「七日來復」亦如此。
六二は初九の剛爻の上に凌駕し、初九は剛強の勢を以て下面に六二を逼迫して妄動す。六二に對して言えば極めて危險の處境。初九は肆意に橫行・悖逆して妄動する人で、其の來勢は目的を達せざれば絶えず罷休せざらん。六二は初九の一たび來れば自己は必ず財貨を喪失せんと揣度して、ここに「九陵」の高處に登りて彼を等待す。「九陵」は極めて高きの義。初九は剛暴を以て發動すれば、六二は便ち柔順を以て彼を制服す。初九は邪僻を以て發動すれば、六二は便ち正直を以て彼を克制す。其の用うる應對の道は初九の上に高出す。これがすなわち「九陵に躋る」の象。《大學》に財貨は理に悖りて入る者は亦た必ず理に悖りて出づと言えり:初九は非道を以て六二を逼迫して六二をして財貨を喪失せしむるも、あの財貨は却って終竟に彼の所有に歸する能わず、六二は最後に仍ほ得回らん。これがすなわち「逐う勿れ、七日にして得」の象。一卦は六爻有りて、第七位に到れば便ち終わりて復た始まる、是れ數盡き理極まり循環・回復する義。《復》卦の說く所の「七日にして來復す」も、道理は亦たこのごとし。
六三當震之來,渙散自失,至於蘇蘇焉,則奪其心、褫其魄矣。葢以不中不正,怵於利害而不能以義理為主,故至於此。揚子雲之投閣、李梲之膝行似之。若因震之來而能行以去其不正,則可以無眚矣。三未必能如此,聖人以疢疾憂患可以堅人之志、熟人之仁,故以此勉之,其啟人遷善之意至矣。
六三は雷震の到來に面對して、精神は渙散し方寸は盡く失して、「蘇蘇」に至る――驚惶・不定の樣子で、あれは心神の奪われ魂魄の剥がれたるなり。これは六三が既に中に居らず亦た位に當たらずして、利害に嚇住せられて能く義理を以て主宰を爲す能わざるがため、ゆえにこの地步に落到せり。漢代の揚雄が牽連を受くる時に驚懼して樓を跳び閣を投げし、宋人の李梲が命を奉じて金營に使いする時に嚇えて跪きて膝行して前に進みしは、皆此と相似す。倘若能く雷震の警醒を借着して奮起して行動し、自身の不正を去掉せば、便ち以て災禍なきを得べし。六三は未だ必ずしも真に做り到る能わず、聖人は憂患・疾苦が以て人の意志を堅定し人の仁德を成熟するに足るが因りて、ゆえにこの句を以て彼を勉励す。あの人を啓發して過を改め善に向かわしむる用心は、以て極めて懇切と謂うべし。
九四以處不得正之陽,介於不正之二陰之間,己既不能以道義自樹立,而相與處者又不能激發成就而使之歸於正焉,故當震之來,遂不能振奮而至於滯溺焉。陽剛本有為之才,由處不得正而流為委靡之甚焉,聖人葢傷之,而以為未光也。若以正自克,則光明俊偉而可以自奮矣。
九四は一個の位を居ること正ならざる陽爻で、上下の兩個の同じく正ならざる陰爻の間に夾まる。彼自身は既に能く道義を憑って站立し起る能わず、彼と相處する人も又た能く彼を激勵・成全して彼をして正道に歸せしむる能わず。ゆえに雷震の到來する時に竟に能く振作せずして、反って陷溺して起かず。陽剛は本來以て一番の作爲あり得べき材質なるも、ただ處する所正ならざるが因りて、便ち淪落して極度の萎靡・不振と爲る。聖人は此がために惋惜して、こそ彼を「未だ光ならず」――道は未だ光大せずと言う。倘若能く「正」を以て自己を克治せば、則ち便ち光明・俊偉にして、以て奮發・自立するに足る。
六五以陰柔當震之時而居尊位,則往來皆厲,無適而非厲也,葢其中無定主,為震所怵而不能有以處之也。如宋真宗澶淵之事,非有寇凖、髙瓊,則王欽若輩遂定南遷之策,其危甚矣。髙宗播蕩伏竄,國勢削弱而終不能振,又其下者。然處之之道,惟在籌度思慮,不喪其所有之事,則心有定見,事有定處,而可免於往來之厲矣。五所有之事,中是也。中為人君酬酢斯世之道也,得其道,則何震之不可處,而安有危厲之可言乎?若髙宗有臥薪嚐膽之志,選賢任能以復不共戴天之讎,乃其所有之事,而大不可喪也。
六五は陰柔の質を以て雷震の時勢に處して尊位に居り、ここに往くも危しく來るも危く、怎樣に動くも皆危厲なり。これは彼の心中に一定の主宰なく、震動に嚇住せられて應對の法を拿出す能わざるがため。便ち北宋の真宗の時の澶淵の役のごとく、若し寇準・高瓊が力をして親征を主せざれば、王欽若のあの一班の人は便ち南遷して敵を避くる計策を定下せんとして、局面は便ち危險の極點に到らんとせり。南宋の高宗は顛沛・流亡して四處に躲藏し、國勢は削弱して終竟に振作する能わず、真宗に比べて更に等に下る。然るに雷震に應對する辦法は、ただ籌劃・思量するに在り、自らの分内の應守すべき事を喪失せず。かくのごとき則ち心中に定見有りて事を處するに定準有りて、以て往來皆危しの困境を免るべし。六五の分内の應守すべき事は何ぞや。すなわち「中」なり。「中」は人君が天下の事務に應接する根本の法則で、この法則を得れば、還も何の震動か應付する能わざらん、どこに危厲と談ずるに及ばん。倘若高宗が真に臥薪・嘗膽の志向有りて、賢を選び能を任じて以て共に天を戴かざる國仇を報ぜば、あれは正に彼の分内の應守すべき事で、萬萬に喪失すべからず。
上六以陰柔居震之極,故當震之來則索索,視則矍矍,耳目無所加,手足無所措,惶懼惆悵之甚也,以是而行則凶可知矣。若於「震不于其躬,于其鄰」之時而圖之,則無咎矣。葢事先有備,以逸待勞,以靜制動,其機在我而可以處乎震矣。陽動於下,迫近於五而未及於上,亦有「于其鄰不于其躬」之象。庸人識見昏淺,不能慮逺而憂深,但救之於已然,不能防之於將然,反以智者之思患而預防者為非是,故不免於婚媾之有言也。
上六は陰柔の質を以て雷震の極處に居れば、ゆえに雷震の到來する時に便ち「索索」――戰慄・不安して、目を擧げて四望すれば則ち「矍矍」――驚慌・失措して、耳目は安放する處なく手足は措置する處なく、惶恐・悵惘すること極點に至りて、この副の樣子を帶びて事を行えば、凶險は想い知るべし。倘若能く「震は其の躬に於てせず、其の鄰に於てす」――震動は還もただ鄰近に落ちて未だ己身に及ばざる時に趁りて早く圖謀を作せば、便ち過錯あることなし。事先に準備有れば、便ち能く逸を以て勞を待ち靜を以て動を制して、主動の樞機は自己の手中に握られて、亦た以て雷震に應付するに足る。初九の陽爻は下に發動して、六五に逼近して未だ上六に波及せざれば、亦た正に「震は鄰居に及びて未だ己身に及ばず」の象に合す。庸人の見識は昏昧・淺薄にして、能く長遠に慮り深處に憂うる能わず、ただ事情の發生したる後に補救しに往くを會し、事情の未だ發せざる前に防備するを懂得せず、反って智慧ある人の未だ雨ならざるに綢繆するは多この一擧と認爲す。ゆえに上六は婚姻・親族の怨言を招來するを免れず。
艮卦(艮下艮上)
艮其背,不獲其身;行其庭,不見其人。無咎。
止息するに當に止息すべき地方に止まるは、便ち自己の背脊に止まるがごとくして、因りて自身を覺察せず。自らの家庭の院裏を行走するも、亦た庭中の人を見ず。かくのごとき則ち過錯なし。
艮,止也。背,指所當止之處而言,有無私繫之意,亦有無偏向之義,聖人之取象精矣。言人之日用應酬,無巨無細,必求其義理精當之處而止之,絶無私繫偏向之意焉,即《大學》之止於至善也。不獲其身,不知有己也;庭除乃有人之處,行其庭不見其人,不知有人也。不知有己焉,不知有人焉,惟知有義理之至當而己,所以得無咎也。此即君子義以為質、義以為尚、義之與比之作用也。
「艮」は止の義。「背」は人の當に止息すべき所在に就いて言えば、私意に牽係せられざる意を含み、亦た一方に偏向せざる意を含む。聖人はこの象を取ること極めて精微なり。これは說く所は人の日常の應對・酬酢は、大事・小事を論ぜず、皆必ずあの義理の最も精當の地方を尋求して其の處に止息して、絶えず一絲の私心の牽係・偏袒・傾向の念頭なきを要す。すなわち《大學》の說く所の「至善に止まる」。「其の身を獲ず」は、心中に自己有るを知らず。庭院・臺階は正に人の往來有る地方で、「其の庭を行きて、其の人を見ず」は、心中に他人有るを知らず。心中は既に己有るを知らず、又た人有るを知らず、ただ義理の至當有るを知るのみ。ゆえに能く過錯なきを得。これがすなわち《論語》の說く所の君子の「義を以て質と爲し」、道義を崇尚し、「義と之に比ぶ」の實際の作用である。
聖人盡之而神化不測,賢者勉於此而不敢怠,堯、舜、禹、湯、文、武、周公、孔、孟相傳之道也。如孔子之仕止久速各當其可,孟子於齊王饋兼金不受、於宋薛則受,禹稷過門不入,顏子之在陋巷,曾子之逺害,子思之死難,此皆艮其背之義也。又如為人君止於仁,為人臣止於敬,為人子止於孝,為人父止於慈,與國人交止於信,亦艮其背之義。
聖人はこの層の道理を極處に做り到れば、其の神妙・變化は測度する可からず。賢者は此に勉力して敢て懈怠せず。これが正に堯・舜・禹・湯・文王・武王・周公・孔子・孟子の代々に相傳うる大道である。孔子の出仕・退隱・久留・速去のごときは、皆其の可に恰當す。《孟子・公孫丑下》に孟子の齊國に在りて齊王の饋贈する上等の黃金を接受するを肯んぜず、宋國・薛國に在りては却って饋贈を接受したるを記す。大禹と后稷とが水を治め稼を教えて、三度家門を過ぎて入らず。顏回は陋巷に安居して其の樂しみを改めず。曾子は亂の起る時に禍害を遠離し。子思は國を守衛して危難を避けず。これらは皆「其の背に艮る」の意である。又た君主を爲るは仁に止まり、臣子を爲るは敬に止まり、兒子を爲るは孝に止まり、父親を爲るは慈に止まり、國人と交わるは信に止まるのごときも、亦た皆「其の背に艮る」の意である。
惡知有己,惡知有人?時止則止,時行則行,動靜不失其時,即艮其背之義,其道純乎義理而光明矣。思而出位,則有私繫偏向之意,而非行其所無事也。艮其背之義精矣、逺矣,引而伸之,觸類而長之,天下之理盡於此矣。
どこに還も自己有るを知らん、どこに還も他人有るを知らん。當に止まる時は便ち止まり、當に行く時は便ち行き、一動・一靜は皆其の時を失わず。これがすなわち「其の背に艮る」の意で、其の道は純粹に義理に合して光明・磊落なり。《艮》卦の《大象傳》に「君子は以て思は其の位を出でず」といい、思慮は若し自らの本位を超出せば、便ち私心の牽係・一方に偏向する念頭を帶びて、《孟子》の說く所の「其の事なき所を行う」のごとき理に順いて自然なるにあらず。「其の背に艮る」の意義は精微にして深遠にして、之を推衍し開き觸類・旁通せば、天下の道理は皆此の裏面に盡くされたり。
初六艮其趾,趾在下,為初之象,用之以行者也,艮其趾則不行矣。當艮之初,居下無應,宜於守靜則可無咎。以陰柔恐其不能固守,故戒其利永貞,若動於欲而不終止則失之矣。艮以人身取象,趾之上為腓,則二之象,亦用以行者。二中正,宜止而止,艮其腓也。三居二之上,陰必隨陽,九三乃二所隨者,而過剛不中,二欲拯之而三不退聴,視其所隨之流於惡而不能救,故二之心有不快焉,以在已拯之之道或有未盡者焉,非以尤人而不快也。凡子不能諫父之過,臣不能止君之慾,朋友之以道義規正而不以為是,皆此義也。
初六の「其の趾に艮る」は、脚趾は人身の最下に在りて正に初爻の象で、以て行走するに用うる部位である。脚趾を止住せば、便ち走動せず。《艮》卦の初に處して、下位に居りて上に應援なければ、靜守するに宜しくして、かくのごとき以て過錯なきを得べし。初六は陰柔の質なるが因りて、彼が能く牢く守住する能わざるを怕れ、ゆえに爻辞は彼を誡告して「永貞に利し」――長久に正を守るに宜し。倘若欲望に牽動せられて能く始終に止息する能わざれば、便ち本旨を失掉す。《艮》卦は人身を以て象を取りて、脚趾の上は小腿肚で、正に六二の象で、同じく以て行走するに用うる部位。六二は居中・得正して、當に止まれば便ち止まる。ゆえに「其の腓に艮る」という。九三は六二の上に居り、陰爻は必ず陽爻に跟隨して、九三は正に六二の跟隨する所の對象なるも、彼は過分に剛強にして中に居らず。六二は彼を挽救せんと想うも、彼は却って退讓して聽從するを肯んぜず、眼を睜きて自らの跟隨する人の惡に流るるを看て力なく搭救する能わず。ゆえに六二の心中は痛快ならず。この痛快ならざるは、自らの挽救の辦法に或いは還も盡くさざる處有りと覺えるので、並びに他人を責怪するにあらず。凡そ兒子の能く父親の過失を諫止する能わざる、臣子の能く君主の私欲を阻止する能わざる、朋友が道義を以て規勸して對方が然りと爲さざるは、皆この層の意である。
九三當限之處,限,身上下之際,身因之以屈伸者也,止其限則不得屈伸,而上下判隔,如列其夤矣。九三過剛不中,失己失人,動無所成,非自安之道也。六四艮其身,居陰得正,宜止而止,得處艮之道矣,故無咎。四雖得正而才陰柔,又當艮之時而能自止,可謂量己量時者矣,唐之鄭綮似之。凡不揣其分而拯時之阨以自取顛覆者,不如六四逺矣。
九三は「限」の部位に處す。「限」は身體の上下の交接する腰際で、人は之を憑って屈伸す。腰際を止住せば便ち屈伸する能わず、上下は截然として隔斷して、「其の夤を列す」がごとく――脊背の肉の撕裂せらるるがごとし。九三は過分に剛強にして中に居らず、既に自處に失し、又た人を待つに失す。一たび動けば便ち一事も成らず、安身・立命の道にあらず。六四の「其の身に艮る」は、陰爻を以て陰位に居りて正を得、當に止まれば便ち止まる。以て《艮》に處するの道を掌握したりと算し得べし。ゆえに過錯なし。六四は雖も正を得るも、才質は却って陰柔にして、又た止息の時に當たりて能く自ら止住するは、以て既に自己を掂量し又た時勢を掂量したりと說き得べし。唐末の宰相の鄭綮は彼と相似す。凡そ自らの分限を估量せずして、硬に時局の困厄を挽救せんと想いて自ら覆亡を取る人は、六四に比べて差るること遠し。
六五當輔之處,輔,出言者也,艮其輔則言所當言而言有序,亦可以文身矣,故悔亡。若以居尊言,則播綸綍以諭下而得其當之義也。以言感人,淺事也,僅可以亡其悔,而成功則非所望焉,況言有未善而欲人從之者乎?艮之時,當止之時也。上九以陽剛居艮之終,乃終於止而確乎其不可拔,敦厚於止者也。若所守未終而欲動焉,則失之躁妄,非敦厚之道也。貞不絶俗,隠不違親,天子不得臣,諸侯不得友,郭林宗可以當之。
六五は「輔」――面頰・口舌の部位に處して、以て說話するに用うるものである。「其の輔に艮る」は、すなわちただ該說の話を說くのみにして、而して說くこと條理有りて、亦た以て自身を文飾するに足る。ゆえに悔恨は消亡し得べし。若し六五の尊位に居るこの一面より言えば、則ち詔令を頒布して臣下に曉諭して措置すること恰當なる意。言語を以て人を感動するは究竟に淺い一層の事で、僅かに悔恨を消去し得るのみで、功業を成就するに至りては、便ち言語の指望し得べき所にあらず。況んや言語の本身が尚お且つ妥善たらざるに、却って別人の服從せんを欲するをや。《艮》の時勢は、正に當に止息すべき時勢である。上九は陽剛を以て《艮》卦の終位に居りて、始終に止息を守住し堅定にして動搖する可からず、止に敦厚なる人。倘若守る所が未だ盡頭に到らざるに行動有らんと想わば、則ち躁動・妄爲に失して、敦厚の道にあらず。正を守りて世俗と斷絶せず、隱居して親人を背棄せず、天子は彼を以て臣と爲す能わず、諸侯は彼を以て友と爲す能わず。東漢の郭泰(林宗)は以てかかる評價に當たるに足る。
