繋辞上・第八章
[聖人有以見天下之動,而觀其會通,以行其典禮,][時措之宜便是禮,禮即時措時中見之事業者。非禮之禮,非義之義,但非時中皆是也。非禮之禮,非義之義,又不可以一概言,如孔子喪出母,子思(守禮)[不喪出母,又不可]以[子思守禮]為非也。又如制禮(以)[者]小功不稅,他外反。日月已過乃聞而服曰稅。使曾子制禮,又不知如何。以此不可易言。
《繋辞上》第八章の「聖人は天下の動を見る所ありて、その会通を観て、以てその典礼を行う」と言う。いわゆる時宜に合する措置がすなわち礼である。礼とは、まさに「時中」を事業の上に落実するあの物である。《孟子》の「礼ならざる礼、義ならざる義」——およそ時中に合せざるは、皆この類に属す。ただし「礼ならざる礼、義ならざる義」も一概に論ずべからず:譬えば孔子は出された母のために服喪したが、子思は出された母のために服喪しなかった——我らはまたこれによって子思が礼を守ったを錯りと言うことはできない。また礼を制する人は小功の喪に「税」せずと規定した——「税」の字は他外反と読み、喪期の日月がすでに過ぎ去りて後に訃聞を聞きて補服することを指す——もし曾子に換えて礼を制せしめれば、またどのように定めたか知れない。見れば、この類の事は軽易に断語を下すべからず。
時中之義甚大,須是精義入神以致用,[始得]觀其會通以行其典禮,此(則)[方是]真義理也。行其典禮而不達會通,則有非時中者(也)[矣]。
「時中」のこの二字は、意義が極めて大である。必ず《繋辞下》の言う「義を精して神に入り、以て用を致すなり」のごとく、義理を研精して神に入る歩に至りて、そうして後に事理の会合貫通の処を観察して相応の典章礼制を施行しえて、これをはじめて真の義理と算う。もしただ典章礼制に照らして做すを知るのみで、それの会合貫通する所在を通達できなければ、時中に合せざる処あるを免れがたい。
[今學者則須是執禮,蓋禮亦是自會通制之者。然言不足以盡天下之事,守禮亦未為失,但大人見之,則為非禮非義,不時中也。君子要多識前言往行以畜其德,以其看前言往行熟,則自能比物丑類,亦能見得時中。]禮亦有不須變者,如天敘天秩[之類],如何可變![時中者不謂此。]
今の学者はなお先ず礼を執守するを要す——礼はもともとまた聖人が会通の処より斟酌して制定し出したがゆえに。文字言語は畢竟天下の事変を窮尽するに足らないので、成礼を謹守するもまた過失と算えられない。ただ大人の眼裏より見れば、その中に礼に合せず義に合せざる処あるを免れがたい——それは時中ではないがゆえに。《大畜・大象》の「君子は以て前言往行を多く識り、以てその徳を畜う」——君子は前人の嘉言善行を多く記取して自己の徳を蓄養するを要す。前言往行を熟烂に見れば、自然に類を比べて相求め類に触れて旁通しえて、また漸々時中を見出しうる。もちろん、礼の中にも根本より更改するを要しない部分がある——たとえば《尚書・皐陶謨》の言う天叙・天秩のこの類、あれは天然の倫序等差で、どうして変動しえよう!時中を講ずるは、これらを指すのではない。
繫辭焉以斷其吉凶,是故謂之爻。言天下之至賾而不可惡也,易語天地陰陽,情偽至隱賾而不可惡也,諸子馳騁說辭,窮高極幽,而知德者厭其言。故言為非艱,使君子樂取之為貴。
経文は続けて「辞を繋げて以てその吉凶を断ず。故に之を爻と謂う。天下の至赜を言うも悪むべからずなり」と言う。《易》は天地陰陽を講じて、人情の真偽を極隠微・極繁雑の歩に至らしめて講じ、読む人はしかし可厭と覚えない。諸子百家は言辞に縦横馳騁して、話を極高極幽の処に説き至るも、しかし真に徳を懂る人はかえって彼らのあの套の話を厭煩する。見れば、話を説き出すは難と算えず、難きは説き出して君子をして楽んで接受せしめうるに在り——これがこそ貴すべきである。
易之為書,有君子小人之雜,道有陰陽,爻有吉凶之戒,使人先事決疑,避凶就吉。擬之而後言,議之而後動,擬議以成其變化。
《易》この書の裏には、君子と小人の両種の人事が一処に夾雑し、道は陰陽の両面に分かれ、爻は吉凶の両様の告誡あり——人をして事の未だ発せざる先に疑惑を決断し、兇険を避けて吉利に趨らしめんがためである。だから経文は「之を擬して後に言い、之を議して後に動き、擬議を以てその変化を成す」と言う:先ず比拟斟酌して後に口を開き、先ず商量審度して後に行動し、この一番の擬議を靠って、自己の変に応ずる功夫を成就する。
凡一言動,是非可(不可)[否]隨之而生,所以要慎言動。“擬之而後言,議之而後動”,不越求是而已。(自)此(以下)皆著爻象之辭所以成變化之道,擬議以教(人)[之]也。凡有一跡出,(則)便有無限人議論處。至如天之生物亦甚有不齊處,然天則無心不恤,此所以要慎[言動]。易曰:“擬之而後言,議之而後動”,只是要求是也。
およそ一句の言・一個の挙動あるごとに、是と非・可与否が随いて生ずるので、言語挙動は皆謹慎するを要す。いわゆる「之を擬して後に言い、之を議して後に動く」は、帰する所はただ一個の「是」の字を求めるに過ぎない。ここより下は、皆爻象の文辞がいかに変に応ずる道を成就するかに就いて講じ、擬議の功夫を用いて人を教導する。およそ一点の痕跡が落ち出れば、無数の人があそこに議論する。天生が万物を養うにすら、甚だ参差不斉なる処がある——ただ天はもともと心なく、体恤計較しに行かない。人はしかしこのようにはできない——これがまさに言動を謹慎する所以である。《繋辞》の「之を擬して後に言い、之を議して後に動く」は、一個の是を求めるに過ぎない。
子曰:君子之道,或出或處,或默或語。二人同心,其利斷金。同心之言,其臭如蘭。君子自知自信,瞭然不惑。又於出處語默之際護與人同,則其志決然,利可斷金。惟仁者能聽盡言,己不欲為善則已,苟欲為善,惟恐人之不言。“二人同心,其利斷金”,夫一人固自明矣,又有一人言而同心,其為利也(知)[如]金鐵之可斷。義理必至於出處語默之不可易,如此其同也,己固自信,又得一人與之同,故利可斷金。
《繋辞上》第八章は孔子の《同人》九五を解するを引いて言う:「君子の道は、或いは出で或いは処り、或いは黙し或いは語る。二人が心を同じくすれば、その利は金を断つ。同心の言は、その臭は蘭のごとし。」君子は自己が明らかに知り篤実に信じ、心裏に了然として疑惑せず。また出仕と退処・沈黙と発言のこれらの関口の上で人と同心して相守しえれば、その志向は決然として移らず、鋒利にして金属を斬断しうる。仁者のみが他人が話を説き尽くすに聴き入れうる:自己が善を為さんと欲せざれば已むも、もし真に善を為さんと欲すれば、ただ他人が口を開くを肯じざるを恐れるのみ。いわゆる「二人同心、その利は金を断つ」——一人は固然としてすでに自明し、さらに一人が口を開きて彼と心を同じくすれば、この力量は金鉄のごとく堅を摧くものなし。義理は必ず出処語默ともに移易すべからざる歩に至ってこそ、両人はかくのごとく相同じと談じ足る。自己はもともとすでに自信し、また一人が自己と相同じを得る——だからその利は金を断ちうると言う。
繋辞上・第九章
大衍之數五十,其用四十有九。“大衍之數五十,其用四十有九”,天地之數也,一固不為用。“天一,地二,天三,地四,天五,地六,天七,地八,天九,地十。”(夫)[天]混然一物,無有終始首尾,其中何數之有?然[此]言(者)特示有漸爾,理須先數天,又[必]須先言一,次乃至於十也。
《繋辞上》第九章の「大衍の数は五十、その用は四十有九」と言う。この五十の数は、すなわち天地の数である。その中のあの「一」はもともと運用に参与しない——それは太極を象徴し、虚にして用いない。経文は「天一、地二、天三、地四、天五、地六、天七、地八、天九、地十」を列挙す。実は天は浑然一体の物で、終始なくまた首尾なく、その裏にどこに数の言うべきがあろう?このように排列する所以は、ただ一個の微より著に至る次第を顕示せんと欲するのみである:理を論ずれば必ず先ず天を数え、また必ず先ず「一」を言い、そうして後に依次に十まで数える。
且天下之數止於十,窮則自十而反一。又數當止於九,其言十者,九之耦也。揚雄亦曰“五(復於五行)[與五相守]”者,蓋地數無過天數之理,孰有地大於天乎?故知數止於九,九是陽極也,十也者姑為五之耦焉爾。
しかも天下の数はただ十に至って止まり、数えて窮尽すれば十より一に返帰す。もし更に深究すれば、数は実は九に止まるべきで、十に至るまで言う所以は、十はただ九の配偶の数に過ぎないがゆえに。揚雄《太玄》も「五と五と相守る」と講ず——見れば地数が天数を超過する道理はない。どこに地が天よりも大なりえよう?だから数はただ九に至って止まるを知る——九は陽の極点である。十に至っては、ただ姑く五の配偶と為すのみ。
分而為二以象兩,掛一以象三,揲之以四以象四時,歸奇於扐以象閏,五歲再閏,故再扐而後掛。天數五,地數五,五位相得而各有合。天數二十有五,地數三十,凡天地之數五十有五,此所以成變化而行鬼神也。乾之策二百一十有六,坤之策百四十有四,凡三百有六十,當期之日。二篇之策萬有一千五百二十,當萬物之數也。
経文は続けて揲蓍の法を叙す:四十九策を手に随いて二分に分かつは、天地両儀を象る。中より一策を抽出して指間に挟むは、天地人の三才を象る。再び四策をもって一組として数えるは、四時を象る。数えて残った零頭を手指の間に挟むは、閏月を象る。五年の中に二個の閏月あるので、だから両度帰扐して後に掛す。天数に五個の奇数あり、地数に五個の偶数あり、五個の方位が彼此相配して各々匹合あり。天数は合計二十五、地数は合計三十、天地の数は総じて五十五——これが変化を成就し鬼神を運行する根拠である。《乾》卦六爻の策数は二百一十六、《坤》卦六爻の策数は一百四十四、合わせて三百六十で、まさに一年の日数に当たる。上下二篇の六十四卦の策数は共に一万一千五百二十で、まさに万物の数目に当たる。
極兩兩,是為天三。數雖三,其實一也,象成而未形也。[地]兩兩,地,[剛]亦效也,柔亦效也。七離九,六坎八。參天兩地,此但天地之質也,通其數為五。乾坤(止)[正]合為坎離,[坎離]之數當六七,精為日月,粗為水火,坎離合而後萬物生。得天地[之]最靈為人,故人亦參為性,兩為體,推其次序,數當八九。
両と両の相配を推極すれば、すなわち天の三と成る。数目は三とはいえ、実はただ一個の整体である——この時は象がすでに形を成して形質がまだ凝定していないがゆえに。地は則ち両両相偶である:地のこの一辺は、剛もまた来たりて效法し、柔もまた来たりて效法する。成数に就いて言えば、七は離に在り、九もまた離に在り。六は坎に在り、八もまた坎に在る。《説卦》の「天を参じ地を両として以て数を倚る」と講ずるは、これはただ天地の体質に就いて言うのみで、両者の数を打通して合計すればすなわち五である。乾坤は正しく相交合して坎離を成す。坎離の数は六と七に当たる。その精なるに就いて言えば日月、その粗なるに就いて言えば水火で、坎離が交合して後に万物ははじめて生出する。天地間の最も霊秀の一分を禀得して人と為るので、人もまた三をもって性と為し二をもって体と為し、依次に推排して下れば、人の数は八と九に当たる。
八九而下,土其終也,故土之為數終於地十。過此以往,萬億無窮,不越十終反一而已。陽極於九,陰終於十,數乃成,五行奇耦乃備。過此周而(反)[復]始,滋至無算,不越於是。陽用其極,陰不用極而用六者,十者,數之終,九之配也。地無踰天之理,終於其終而已焉。
八九以下は、土が最後の一位なので、土の数は地十の上に終結す。さらに後に推すれば、たとえ万亿無窮とも、ただ十まで数えて一に返帰するのみ。陽は九に至って極点、陰は十に至って終点で、数はここに至ってはじめて完成を算えられ、五行の奇偶の数もまた配備斉全する。ここを過ぎれば周りて復た始まり、繁衍して計算すべからざるも、なおこの格局を跳び出せない。陽はその極数の九を用い、陰は極数を用いずして六を用いる——これは十はただ数の終結にして九の配偶に過ぎないがゆえに。地は天を超過する道理なく、それはただ自己が終結すべき処に終結するのみ。
參天兩地,五也。一地兩,二也。三地兩,六也,坤用。五地兩,十也。一天三,三也。三天三,九也,乾用。五天三,十五也。凡三五乘天地之數,總四十有五,並參天兩地(者)[自然之]數(之)五,共五十。虛太極之一,故為四十有九。
「参天両地」は、合わせて五である。一をもって地の両に乗ずれば、二を得。三をもって地の両に乗ずれば、六を得——これが《坤》の用うる老陰の数である。五をもって地の両に乗ずれば、十を得。一をもって天の三に乗ずれば、三を得。三をもって天の三に乗ずれば、九を得——これが《乾》の用うる老陽の数である。五をもって天の三に乗ずれば、十五を得。この三と五の乗じ出した天地の各数を総じて加えれば、共に四十五を得、さらに「参天両地」のあの自然の数の五を加え、合わせて共に五十——これが大衍の数である。その中の太極を象徴するあの一を虚き去って用いないので、実際に用いる所は四十九である。
“掛一象三”,象天地之三也。揲[四],象四時[也。揲象]四時,(揲之)數不過十,十時乃(三)歲半,舉三揲(多)之餘也。直云“五歲再閏”者,盡(餘)[遇]多之(極)[數]也。揲[常]餘九,則揲者四十而已,四十乃[十四]時之數也。
いわゆる「一を掛けて以て三を象る」とは、天・地・人のこの三才を象ること。いわゆる「之を揲るに四を以てす」とは、四時を象ること。すでに四策一揲をもって四時を象る以上、一度の揲蓍の得る数は十の上下に過ぎず、十個の「時」はすなわち二年半——これはただ三度の揲蓍の余る零頭を挙げて言うのみ。経文は径直に「五歳に再び閏す」と言う——あれは零余の最多きあの情形に遇うに就いて言を立てたのである。もし毎度の揲蓍に常に九策を余せば、揲する所の実数はただ四十で、四十はまさに十四個の「時」の数目に合する。
此相間循環之數也。“五位相得而各有合”,一二相間,是相得也;各有合,以對相合也,如一、六,二、七,三、八,四、九。各有合,神也;位相得,化也。
これは彼此相間して循環往復する数である。経文の「五位相得して各々合あり」:一と二とが相間隔して次第に相承するは、これが「相得」である。「各有合」に至っては、両両相対して配合することを指し、たとえば一と六とが合し、二と七とが合し、三と八とが合し、四と九とが合す。「各有合」のこの一面に就いて言えば、陰陽が感通して測られざるで、「神」に属す。「位相得」のこの一面に就いて言えば、次第に推移漸進するで、「化」に属す。神と化は、まさに一物の両面である。
奇,所掛之一也;扐,左右手四揲之餘也。再扐後掛者,每成一爻而後掛也,謂第二第三揲不掛也。閏常不及(三歲)[五年]而再至,故曰“五歲再閏”。此歸奇必俟於再扐者,象閏之中間再歲也。“成變化[而]行鬼神”,成行陰陽之氣而已矣。
いわゆる「奇」とは、抽出して指間に挟むあの一策を指す。いわゆる「扐」とは、左右の両手が各々四策をもって一数した後に剩る零余である。「再び扐して後に掛く」は、毎度一爻を成して後にはじめて重ねて一を掛けるを言い、すなわち第二揲・第三揲は再び掛けない。閏月は常に五年に満たずして二度来るので、「五歳再閏」と言う。ここに奇を帰するは必ず両度の帰扐の後を待つを要す——まさに閏月が中間に二年を隔てるを象る。経文の「此れ変化を成し鬼神を行う所以なり」と言う——実は変化を成就し鬼神を運行するとは、ただ陰陽二気の屈伸往来を成就し運行するに過ぎない。
是故四營而成易,十有八變而成卦,八卦而小成。引而伸之,觸類而長之,天下之能事畢矣。顯道神德行,是故可與酬酢,可與祐神矣。
だから言う:分二・掛一・揲四・帰奇のこの四道の経営が一変を算成し、十八変してはじめて一卦を成し、先ず三画の八卦を得るを小成と呼ぶ。ここより引申して開き、類に触れて増長して開けば、天下の有りうる事情は皆包羅し尽くす。《易》は道理を顕示しえ、また徳行を神妙にして測りがたくしうるので、それをもって人事に応対酬答することもでき、またそれをもって神明の功用を賛助することもできる。
示人吉凶,其道顯;陰陽不測,其德神。顯故可與酬酢,神故可與祐神;受命如響故可與酬酢,知來藏往故可與祐神。示人吉凶,其道顯矣;知來藏往,其德行神矣。語蓍龜之用也。顯道者,危使平,易使傾,懼以終始,其要無咎之道也。神德行者,寂然不動,冥會於萬化之感而莫知為之者也。受命如響,故可與酬酢,曲盡鬼謀,故可與祐神。顯道神德行,此言蓍龜之行也。
《易》は吉凶を人に指示するので、その道は顕明である。陰陽変化は測度すべからざるので、その徳は神妙である。顕明なれば、それをもって事務に应酬しうる。神妙なれば、それをもって神明を賛助しうる。それは問訊を承受して応答すること回声のごとし——だから应酬しうる。それはすでに未来を預知しまた過往を収蔵しうる——だから神明を賛助しうる。吉凶を指示するは道の顕、来を知り往を蔵するは徳行の神である。これは蓍草と亀甲の功用に就いて言う。いわゆる「顕道」とは、《繋辞下》の講ずる「危き者をして平らかならしめ、易き者をして傾かしむ」で、人をして始終戒懼の心を存せしめ、その要旨は過錯なき路を走るに在る。いわゆる「神徳行」は、それは寂然として動かず、しかし暗かに万般変化の感召に契合し、しかも誰が為しているかを見出す人なし。問訊を承受して応答すること回声のごとし——だから人事に应酬しうる。曲折周尽に人に代わりて謀画す——だから神明を賛助しうる。「顕道神徳行」のこの一句は、講ずる所はまさに蓍亀の作用である。
子曰:知變化之道者,其知神之所為乎!化之於己,須臾之化則知須臾之頃必顯,一日之化則知一日之(化)[況]有殊。易知變化之道則知神之所為,又曰:“知幾其神乎!”
《繋辞上》第九章の末に孔子を引いて言う:「変化の道を知る者は、その神の為す所を知らんか!」変化を自己身上に落として見れば:片刻の間の変化は、片刻の工夫の裏に必ず顕現し出る物あるを見る。一整天の変化は、ここの日の光景が昨日とすでに同じからざるを見る。人がもし変化の道を懂得すれば、また神の作為を懂得する。だから《繋辞下》第五章もまた言う:「幾を知るは其れ神なるか!」事がまさに念頭を起こす処に於いて看破しえれば、あれはすなわち神である。
惟神為能變化,以其一天下之動也;人能知變化之道,其必知神之為也。聖人之進,豈不自見!今在學者區別是非,有化於(神)[善]者,猶能知之,況聖人乎!易言“窮神知化”,又言“知變化之道”,[知變,化]安得不知!
ただ「神」のみが変化を生出しうる——それが天下の一切の動作を自己の裏に統一するがゆえに。人がもし変化の道を懂得しえれば、また必ず神の作為を懂得する。聖人自身の長進は、どうして自己で見えざらんや!すなわち今日の学者も、是非を分辨する際に、もし人ありて漸々善に向かい化すれば、旁人ですら見出しうる、ましてや聖人においてをや!《繋辞下》の「神を窮め化を知る」と言い、ここにまた「変化の道を知る」と言う——すでにあの顕著の「変」すら知れば、あの漸進の「化」はまた知らざるの道理あらんや!
繋辞上・第十章
[變言其著,化言其漸。]易有聖人之道四焉:以言者尚其辭,以動者尚其變,以制器者尚其象,以卜筮者尚其占。辭、變、象、占,皆聖人之所務也,[故]易道具焉。一本無易道具焉四字,有故曰神而明之,存乎其人十字。
「変」はその顕著突兀の処に就いて言い、「化」はその漸進無跡の処に就いて言う——二字は軽重が同じからず。《繋辞上》第十章に言う:「易に聖人の道四あり:以て言う者はその辞を尚び、以て動く者はその変を尚び、以て器を制する者はその象を尚び、以て卜筮する者はその占を尚ぶ。」文辞・変化・卦象・占験のこの四様は、皆聖人の致力する所で、《易》の道理はこの裏に完備する。此処に別の一種の本子は「易道具焉」の四字なくして、「故曰神而明之、存乎其人」の十字と作る。
尚辭則言無所苟,尚變則動必精義,尚象則法必致用,尚占則謀必知來,四者非知神之所為,孰能與於此!知德之難言,知之至也。孟子謂“我於辭命則不能”,又謂“浩然之氣難言”,易謂“不言而信存乎德行”,又以尚辭為聖人之道,非知德,達乎是哉?
文辞を崇尚すれば、話は苟且を肯じない。変化を崇尚すれば、行動は必ず義理を精研す。卦象を崇尚すれば、取法は必ず実用に落ちる。占験を崇尚すれば、謀画は必ず将来を預知しうる。この四様は、もし神の作為を懂得する人でなければ、誰か参与しえよう!「徳」が言説しがたきを懂得する——これがまさに知の極致である。《孟子・公孫丑上》の「我は辞命に於いては能わず」と言い、また浩然の気を「言いがたし」と言う。《繋辞上》の「黙して之を成し、言わずして信ず、徳行に存る」と言い、同時に文辞を崇尚するを聖人の道に列入す——真に徳を懂得する人にあらざれば、能くこの一層に通達せんや?
學未至(於)[乎]知德,語皆有病。形而上者,得辭斯得象矣,故變化之理須存乎辭。言,所以顯變化也。易有聖人之道[四焉],而曰“以言者尚其辭”,辭者,聖人之所(以聖)[重]。人言命字極難,辭之盡理而無害者,須出於精義。易有聖人之道四,曰以言者尚其辭,必至於聖人,然後其言乃能無(敝)[蔽],蓋由精義所自出也,故辭不可以不修。
学問がまだ徳を懂得する歩に至らなければ、説き出す話は皆毛病あり。形而上のあの一層は、文辞を得ればすなわち卦象をも得るので、変化の道理は必ず文辞の裏に寄存せざるをえない。言語とは、まさに変化を顕発し出すに用いられる。《易》に聖人の道四条ありて、しかも先ず「以て言う者はその辞を尚ぶ」と言う——見れば文辞は聖人の看重する所である。人は常に事物に命名措辞するが極めて難しと言い、文辞をして義理を窮尽してしかも流弊を生ぜしめざらしめんには、必ず義理を精研する中より来らざるをえない。《易》に聖人の道四条ありて「以て言う者はその辞を尚ぶ」と言う——必ず聖人の歩に修めてこそ、説き出す話に遮蔽なきありうる。それは精義の中より自然に流出するがゆえに、だから文辞は修治を加えざるべからず。
[人於龜策無情之物,不知其將如何,惟是自然莫或使之然者,陰陽不測之類也。己方虛心以鄉之,卦成於爻以占之,其辭如何,取以為占。聖人則又於陰陽不測處以為占,或於夢寐,或於人事卜之。然聖人於卜筮亦鮮,蓋其為疑少故也。]
人が亀甲蓍草のごとき情識なき物に面対する時、もともとそれがどのような結果を出現するかを知らない。あれはただ自然に然るのみで誰かそれを然らしめるなく、陰陽の測度すべからざる一類に属す。自己はまさに心を虚しくしてそれに面対し、卦が爻より積成した後に拠って占問し、それの文辞がどう言うかを見て、取って占断と為す。聖人は則ち更に一歩を進め、陰陽の測度すべからざる処に於いて占を取る:或いは夢寐の中に於いて、或いはすなわち人事の上に於いて卜量す。ただ聖人の卜筮を用いる時はもともと少ない——その心裏の疑惑がもともと多くないがゆえに。
是以君子將有為也,將有行也,問焉而以言,其受命也如響,無有遠近幽深,遂知來物,非天下之至精,其孰能與於此!參伍以變,錯綜其數,通其變,遂成天地之文,極其數,遂定天下之象,非天下之至變,其孰能與於此!
だから君子がまさに作為せんとし、まさに行動せんとする時は、すなわち《易》に向かって発問して言辞をもって求告し、それは問命を承受して応答すること回声のごとく、遠近幽深を問わず、皆これによって未来の事情を知りうる。もし天下の最も精微なる物にあらざれば、誰かこの一歩を為しえよう!三と五とを交互に推排してその変を求め、錯雑綜合してその数目を貫通しその変化を遂げて、よって天地間の文彩を成就す。その数目を窮極して、よって天下の物象を断定す。もし天下の最も変通に善き物にあらざれば、誰かこの一歩を為しえよう!
易無思也,無為也,寂然不動,感而遂通天下之故,非天下之至神,其孰能與於此!夫易,聖人之所以極深而研幾也。唯深也,故能通天下之志;唯幾也,故能成天下之務;唯神也,故不疾而速,不行而至。子曰“易有聖人之道四焉”者,此之謂也。
《易》は思慮なく、また作為なく、寂然として動かず、一たび感召されれば天下の一切の事故を貫通す。もし天下の最も神妙なる物にあらざれば、誰かこの一歩を為しえよう!《易》とは、まさに聖人が用いて幽深を窮極し幾微を研求する工具である。ただその幽深なるがゆえに、能く天下人の心志を貫通す。ただその幾を知るがゆえに、能く天下の事務を成就す。ただその神妙なるがゆえに、急趕するを要せずして自然に迅速にして、行走するを要せずして自然に到達す。孔子の「易に聖人の道四あり」と言うは、講ずる所はまさにこれである。
有不知則有知,無不知則無知,是以鄙夫有問,仲尼竭兩端而空[空],易[無思無為],受命乃如響。“無有遠近幽深,遂知來物,非天下之至精,孰能與於此”,[此]言易之為書也。至精者,謂聖人窮理極盡精微處,中庸所謂至矣。
心裏に一個の「不知」あってこそ、一個の「知」あるを顕出す。知らざるなき歩に至れば、かえって何の「知」かあると言うに及ばない。だから《論語・子罕》は鄙陋の人が来て発問するに、孔子はただ空空如として、その両端を叩いてその所有を尽くすを記す。《易》もまたまさに思無く為なきがゆえに、問命を承受して応答すること回声のごとし。経文の「遠近幽深なく、遂に来物を知る。天下の至精に非ざれば、その孰れか能く此に与らんや」と言うは、これは《易》この書に就いて言う。いわゆる「至精」とは、聖人が義理を窮究して極精極微の処に至るを指し、すなわち《中庸》の言う「至なり」である。
(天下之理斯盡,因易之三百八十四爻變動以寓之人事,告人以當如何時、如何事,如何則吉,如何則凶,宜動宜靜,丁寧以為告戒,所以因貳以濟民行也。)
天下の道理はここに至って窮尽する:聖人は《易》の三百八十四爻の変動を借って、人事をその裏に寄寓し、人に告げてどの時に処しどの事に遇い、どう為せば吉でどう為せば凶か、どの時に動くべきでどの時に静なるべきかを、反覆して叮嚀して告誡と為す。これがすなわち《繋辞下》の言う「貳に因りて民行を済す」で、吉凶両端の対照を凭って、百姓を助けてその路を善く走らしむる。
既言參伍矣,參伍而上覆如何分別?氣之聚散於太虛,猶冰凝釋於水,知太虛即氣[則無有有無。故聖人語性與天道之極,盡於參伍之]神變易而已。諸子淺妄,有有無之分,非窮理之學也。
経文がすでに「参伍以変」と言うた以上、参伍の上にまたどう分別せんや?気は太虚の中に聚まりてまた散じ——ちょうど水裏の氷が凝まりてまた化するがごとし。氷が化するは無きにあらず、ただ復た水に帰するのみ。太虚がすなわち気なるを懂得すれば、また何の「有」と「無」の分別あらん。だから聖人が性と天道の極致を講ずるも、ただ参伍交錯・神妙変易のこの一層の上に尽くるに過ぎない。諸子は浅陋にして妄断し、強いて一個の有・一個の無を立てる——あれは理を窮める学問ではない。
易非天下之至精,則辭不足[以]待天下之問;非深,不足[以]通天下之志;非通變極數,則文不足以成物。象不足以制器,幾不足以成務;非周知兼體,則其神不能通天下之故,(故)不疾而速,不行而至也。
《易》がもし天下の最も精微ならざれば、その文辞は天下の発問に応対するに足らない。もし幽深に足らなければ、天下人の心志を貫通するに足らない。もしその変に通じその数を極めること能わざれば、あの文彩は万物を成就するに足らず、卦象は器用を制作するに足らず、幾微は事務を成就するに足らない。もし周遍に知り兼摂に体すること能わざれば、それのあの神は天下の一切の事故を貫通しえず、また急趕せずして自然に迅速・行走せずして自然に到達を為しえない。
非至精、至變、至神不能與,故曰“神而明之,存乎其人”。無知者,以其無不知也;若言有知,則有所不知也。惟其無知,故能竭兩端,易所謂“寂然不動,感而遂通”也。無知則神矣,苟能知此,則於神為近。無知者,亦以其術素備也,道前定則不窮。
至精・至変・至神にあらざれば参与しえないので、《繋辞上》第十二章の「神にして之を明らかにするは、其の人に存る」と言う。聖人を「无知」と言うは、まさに彼に知らざるなきがゆえに。もし彼に知あると言えば、必ず別に知らざる所あらん。ただその无知なるがゆえに、能く両端を叩いてその所有を尽くしうる——これが《易》の言う「寂然として動かず、感じて遂に通ず」である。无知の歩に至ればすなわち神で、人がもしこの一層を懂得しえれば、神を離るるもまた遠からず。いわゆる无知とは、またその道術が平素よりすでに具備したに因る。《中庸》の「道は前に定まれば窮まらず」と言うは、まさにこの道理である。
一故神,譬之人身,四體皆一物,故觸之而無不覺,不待心使至此而後覺也,此所謂“感而遂通,不行而至,不疾而速”也。物形乃有小大精粗,神則無精粗,神即神而已,不必言作用。譬之三十輻共一轂則為車,若無(轂)[輻]與(輻亦)[轂,則]何以見車之用!感皆出於性,性之流也,惟是君子上達、小人下達之為別。
ただそれが「一」なるがゆえに、能く神なりうる。人身を拿って比方すれば:四肢百体は同一の身子なので、どの一処に碰うともどの一処に知觉あり、心が先に差遣してそこに至るを待つを要せずして覚える——これがいわゆる「感じて遂に通じ、行かずして至り、疾からずして速やかなり」である。物は一たび形体あれば、すなわち大小精粗の別あり。神は則ち精粗の謂いなく、神はただ神のみで、別にそれに何の作用あるかを言うを要しない。ちょうど《老子》の講ずる三十根の輻条が一個の車轂を共にしてはじめて車と為る——もし輻もなく轂もなくば、どこより車の用を見出さんや!一切の感応は皆性より出で、皆性の流行である。分別はただ君子がこれによって天理に上達し小人がこれによって人欲に下達するに在るのみ。
易言“感而遂通”者,蓋語神也。雖指暴者謂之神。然暴亦固有漸,是亦化也。聖人通天下之志,雖愚人與禽獸猶能識其意。有所感則化。感亦有[不速],難專以化言,感而遂通者神,又難專謂之化也。[聖人感天下之志,雖愚人猶能識其意。]
《易》の「感じて遂に通ず」と言うは、講ずる所はまさに神である。あの突如として至る一面を指して神と称すと言うも、しかし突然の中にももともと自ずから漸進の過程あり——あの一面はすなわち化である。聖人は天下人の心志を貫通し、愚人と禽獣に至るまでなお彼の意思を領会しうる。およそ感ずる所有れば、すなわち化あらん。ただ感にも来ること速やかならざるあり、一概に「化」をもって言いがたし。そして「感じて遂に通ず」のあの一種は神に属し、また一概に之を化と称しがたし。聖人は天下人の心志を感通し、たとえ愚人に於いてもなお彼の意思を領会しうる。
[凡氣,清則通,昏則壅,清極則神。故聚而有間則風行,風行則聲聞臭達,清之驗與!不行而至,通之極與!]天一,地二,天三,地四,天五,地六,天七,地八,天九,地十。
およそ気は、清ければ通暢し、濁れば壅塞し、清が極処に至ればすなわち神である。だから気が聚まりてその間になお空隙あれば、風はすなわち行走しうる。風が一たび行走すれば、声音は伝わり開き气味は達して遠く——これが「清」の験証であろう!行走するを要せずして自然に到達す——これが「通」の極致であろう!以下経文は列挙す:天一、地二、天三、地四、天五、地六、天七、地八、天九、地十。
繋辞上・第十一章
此語恐在“天數五、地數五”處。然聖人之於書,亦有不欲並[以]一說盡,慮易知後則不復研究,故有易有難,或在此說,或在彼說,然要終必見,但俾學者潛心。子曰:夫易,何為者也?夫易,開物成務,冒天下之道,如斯而已者也。“開物成務”,物,凡物也;務,事也;開,明之也;成,處之也。事無大小,不能明[則]何由能處!
「天一地二」のこの一段の話は、おそらくもともと「天数五、地数五」のあの一処に在るべきだった。ただ聖人が書を著すに、また話を一処に説き尽くすを肯じない時あり:彼は読者が容易に懂りえた後に再び深究しないを顧慮し、故意に易きあり難きあり、ある道理はここに置きて言いあるはかちに置きて言う——しかし到頭は終に顕露し出で、ただ学者をして沈潜して心を用いしめんと欲するのみ。《繋辞上》第十一章に言う:「あの易は、何を為す者か?あの易は、物を開き務を成し、天下の道を冒す、斯くのごときのみなり。」いわゆる「開物成務」とは、「物」は一切の事物を泛指し、「務」は事情である。「開」はそれを照明すること、「成」はそれを処置して妥当ならしむること。事情は大小を論ぜず、もし先ずそれを照明できなければ、何を凭ってそれを処置せん!
雖至粗至小之事,亦莫非開物成務。譬如不深耕易耨,則稼穡烏得而(立)[生]!“惟深也故能通天下之志,惟幾也故能成天下之務”,是則開物成務者,必也有濟(時)[世]之才。是故聖人以通天下之志,以定天下之業,以斷天下之疑。是故蓍之德圓而神,卦之德方以知[六爻之義易以貢。]
たとえ極粗浅・極細小の事でも、一つとして開物成務ならざるはない。譬えば《孟子》の言う深耕易耨——もし深耕細鋤を肯じなければ、庄稼はどこより長じ出づらん!経文の「ただ深きがゆえに、能く天下の志を通ず。ただ幾なるがゆえに、能く天下の務を成す」——見れば、能く物を開き務を成す人は、必ず世を済う才あるを要す。だから聖人は《易》を用いて天下人の心志を貫通し、天下の功業を奠定し、天下の疑難を決断す。だから蓍草の徳性は円通にして神妙で、卦の徳性は方正にして定知あり、六爻の意義は則ち変に随いて人に告ぐ。
圓神故能通天下之志,方知故能定天下之業,爻貢(所以)[故能]斷天下之疑。易書成,三者備,民患明,聖人得以洗濯其心而退藏於密矣。[惟]能通天下之志者為能感人心。吉凶與民同患。吉凶可以正勝,非聖人之患也。神以知來,知以藏往。(非神不能顯諸仁,非知不知藏諸用。)
蓍の円にして神なるは、天下人の心志を貫通しうるがゆえに。卦の方にして知あるは、天下の功業を奠定しうるがゆえに。爻の変に随いて告ぐるは、天下の疑難を決断しうるがゆえに。《易》書が一たび成れば、この三様は皆斉備し、百姓の禍患は分明に見られ、聖人はよって自己の心を洗滌して隠密の処に退蔵しうる。ただ天下人の心志を貫通しうる人のみが、人心を感動しうる。経文の「吉凶は民と患を同じくす」と言う:吉凶はもともと一個の「正」の字をもってそれに勝ちうる——もともと聖人の真の憂患の所在ではない。経文はまた「神以て来を知り、知以て往を蔵す」と言う——神にあらざれば仁徳を顕発し出すことができず、知にあらざれば功用を蔵斂することができない。
開物於幾先,故曰“知來”明憂患而弭其故,故曰“藏往”。古之聰明睿知,神武而不殺者夫!“神武不殺”,神(知)之大者[也],使知懼而不犯,神武者也。是以明於天之道而察於民之故,是興神物以前民用。言天之變遷禍福之道,由民之逆順取舍之故,故作易以先之。聖人以此齊戒以神明其德夫!
幾微のまだ動かざる先に於いて事物を照明する——だから「知来」と呼ぶ。憂患を看清してその根由を消弭す——だから「蔵往」と呼ぶ。経文は讚嘆して「古の聡明叡知、神武にして殺さざる者か」と言う。いわゆる「神武不殺」とは、神の最大の処である:人をして心に畏懼を存して触犯せざらしめ、刀兵を動かすを要せずして人は自ずから犯さない——これがこそ神武である。だから聖人は天の道を明了し、また百姓の実情を察知し、よって蓍亀のごとき神物を興起して、百姓の日用を引導する。これは言う:天の変遷・降福降禍の道理は、もともと百姓の順逆取舍に随いて来るので、聖人は《易》を作し、先の一歩にそれを指点し出す。経文は続けて「聖人は此を以て斉戒し、以てその徳を神明にするか」と言う。
民患除,憂疑亡,用利身安,故可退藏於密,窮神知化以崇高其德也。自此而下,又歷言其德之出而異名也。是故闔戶謂之坤,闢戶謂之乾,一闔一闢謂之變,闔戶,靜密也,闢戶,動達也,形開而目睹耳聞,受於陽也。一動一靜,是(道)[戶]之常,專於動靜則偏也。“一闔一闢謂之變”,人之有息,蓋剛柔相摩、乾坤闔闢之象也。制而用之謂之法,
百姓の禍患が除去され、憂慮疑惑が消亡し、用度は便利にして身心は安頓するので、聖人は隠密の処に退蔵しえて、神妙を窮究し造化を通暁し、以て自己の徳を崇高にす。ここより下、経文はまた逐条にこの徳が発用し出る時の種種の異名を列挙す。経文の「故に戸を闔ずるを坤と謂い、戸を辟くを乾と謂い、一闔一辟を変と謂う」:門戸を関起するは、静にして収斂である。門戸を打開くは、動にして通達である。形体が一たび開けば、眼は能く看、耳は能く聴く——あれは陽気を承受したがゆえに。一動一静はもともと門戸の常態で、もし専ら動に主とし或いは専ら静に主とすれば、偏した。いわゆる「一闔一辟を変と謂う」——人の一呼一吸は、まさに剛柔相摩・乾坤開闔の形象である。経文は続けて「制して之を用うるを法と謂う」と言う。
因其變而裁制之以教天下,聖人之法也。利用出入,民咸用之,謂之神。用之不窮,莫知其鄉,故名之曰神。[虛靜(昭)[照]鑑,神之明也。無遠近幽深,利用出入,神之充塞而無間也。]
その変化に順って裁断制作を加え、用いて天下を教化す——これが聖人の「法」である。経文の「利用出入し、民咸く之を用うるを神と謂う」:それを用いて尽きず、また誰もそれが究竟どこより来たりどこに去るかを知らないので、それに名を取りて「神」と呼ぶ。心地が虚静にして万物を照鑑しうるは、あれは神の明である。遠近幽深を分かたず、出入自如にして利ならざる所なきは、あれは神の天地に充塞して一糸の間隙もなきである。
是故易有大極,是生兩儀,兩儀生四象,四象生八卦,八卦定吉凶,吉凶生大業。四象即乾之四德,四時之象,故下文云“變通莫大乎四時”。盡吉凶之理,則能盡天人之助而成位乎其中(矣),故下云“崇高莫大乎富貴”。有吉凶利害,然後人謀作,大業生;若無施不宜,則何業之有!
経文の「故に易に太極あり、これ両儀を生じ、両儀は四象を生じ、四象は八卦を生じ、八卦は吉凶を定め、吉凶は大業を生ず」と言う。ここの四象は、すなわち《乾》卦の元亨利貞の四徳で、すなわち四時の象なので、下文に「変通は四時より大なるは莫し」と言う。吉凶の道理を窮究して底に至りえれば、天助と人助を尽く得て天地の間に位を成しうるので、下文にまた「崇高は富貴より大なるは莫し」と言う。まさに吉あり凶あり・利あり害あるがゆえに、人の謀慮は興起し大業は産出する。仮に何を為すも往きて宜しからざるなければ、なお何の功業を談じえん!
天生神物,聖人則之;天生蓍龜,聖人則之以占兆。一云“占之以兆”。天地變化,聖人效之;天地變化,聖人作易以(著)[蓍龜]效之,故曰“聖人效之”。天垂象,見吉凶,聖人象之;河出圖,洛出書,聖人則之。作易以示人,猶天垂象見吉凶;作書契效法,猶地出圖書。一雲猶河洛。[繫辭焉,所以告也。][易象繫之以辭者,於卦既已具其意象矣,又切於人事言之,以示勸戒。]
経文の「天は神物を生じ、聖人は之に則る」と言う:上天は蓍草と亀甲のごとき神物を生出し、聖人はすなわちそれらに取法して兆象を占断す。この句は一の版本に「兆を以て之を占す」と作る。経文の「天地変化し、聖人は之を效う」と言う:天地に変化あれば、聖人はすなわち《易》を作し、蓍亀を用いてそれを仿効す——だから「聖人効之」と言う。経文の「天は象を垂れて吉凶を見せ、聖人は之に象る。河は図を出し洛は書を出し、聖人は之に則る」と言う:聖人が《易》を作して世人に指示するは、ちょうど上天が星象を垂示して吉凶を顕すがごとし。書契を作して法度を立つるは、ちょうど大地が河図洛書を出現するがごとし。この句は一の版本に「猶河洛」と作る。経文はまた「辞を繋ぐるは、告ぐる所以なり」と言う。《易》の卦象に文辞を繋ぐるは、卦中にすでにその意と象を具備すれども、なお人事に切近して話を説き明白にして、用いて勧勉し告誡せんがためである。
