Libo

繋辞上・第十二章

宋 · 张载 · 第12巻 / 13

作盤ガイド: 大衍筮法, 六爻納甲の立卦

易曰:“困于石,據于蒺藜,入于其宮,不見其妻,凶。”子曰:非所困而困焉,名必辱;非所據而據焉,身必危。既辱且危,死期將至,妻其可得見邪!此明不能利其用者也,寡助之至,親戚畔之。

《周易・困卦》六三の爻辞に言う:「石に困み、蒺藜に拠り、その宮に入るも、その妻を見ず、凶。」孔子は解して言う:困むべからざる処に於いて自ら其の中に陥れば、名声は必ず辱を受く。拠るべからざる物を強いて拠れば、身家は必ず危殆す。すでに辱を受けまた危殆なれば、死期まさに至らんとす——妻子はどうしてなお見えん!この一条の言う所は、学んだ所を用いて順当たらしめえざる人で、彼を助ける人は極点まで少なく、親戚ですら彼を背弃す。

易曰:“公用射隼于高墉之上,獲之無不利。”子曰:隼者,禽也;弓矢者,器也;射之者,人也。君子藏器於身,待時而動,何不利之有!動而不括,是以出而有獲,語成器而動者也。此明能精義以致用者也。

《周易・解卦》上六の爻辞に言う:「公は隼を高墉の上に射て、之を獲て利あらざるなし。」孔子は解して言う:隼は獲物、弓矢は器械、弓を張りて射るは人。君子は器械を預め身に蔵して、時機を待って後に動く——なお何の不利かあらん!行動して阻碍なきがゆえに、一たび手を出せばすなわち擒獲する所有る——これは器械がすでに備成してはじめて手を動かす人を言う。この一条の言う所は、能く義理を精研して実用を致す人である。

子曰:小人不恥不仁,不畏不義,不見利不勸,不威不懲。小懲而大戒,此小人之福也。暗於事變者也。

孔子は言う:小人は不仁を以て羞恥と為さず、不義を以て可怕と為さず、実利を見ずんば勉励を肯じず、威慴を加えずんば警戒を知らず。小さな懲罰を受けて大きな禍患を免れるは、これが小人の福である。この一条の言う所は、事の変化に茫然として知らざる人である。

子曰:危者,安其位者也;亡者,保其存者也;亂者,有其治者也。是故君子安而不忘危,存而不忘亡,治而不忘亂,是以身安而國家可保也。明君子之見幾。

孔子は言う:危殆を招致するは、一味にその位に安んずる人。覆亡を招致するは、一味にその存を自保する人。禍乱を招致するは、一味にその治を自恃する人。だから君子は安穏の時に危険を忘れず、存続の時に滅亡を忘れず、治平の時に禍乱を忘れず——ここを以て自身は安泰にして国家は保全しうる。この一条の講ずる所は、君子が能く幾微を見ること。

子曰:德薄而位尊,知小而謀大,力小而任重,鮮不及矣。不知利用以安身者也。

孔子は言う:徳性は浅薄にして尊位に居り、智慮は短小にして大事を図謀し、力量は微弱にして重任を肩負う——このごとき人は禍を招かざること少なし。この一条の言う所は、学んだ所を用いて順当にして自身を安頓することを懂得せざる人である。

子曰:知幾其神乎!君子上交不諂,下交不瀆,其知幾乎!“上交不諂,下交不瀆”,人事不過於上下之交,此可盡人道也。人道之用,盡於接人而已,諂瀆召禍,理勢必然,故君子俯仰之際,直而好義,知幾莫大焉。

孔子は言う:能く幾微を識見するは、おそらく「神」であろう!君子は上位者と交往して諂媚せず、下位者と交往して軽慢せず——これがすなわち幾微を識見するであろう!いわゆる「上交不諂、下交不瀆」——人間の事情はただ上下の間の交接に過ぎず、この一層を為し得れば、人道もまた尽きる。人道の施用は、全く人と相接するこの一事の上に在る。諂媚と軽慢とは禍患を招来す——これは理勢の必然なので、君子は一俯一仰の間に皆正直にして義を好び、幾微を識見するにこれより大なるはない。

(知幾者為能以屈為信)幾者,動之微,吉之先見者也。幾(知)者象見而未形者也,形則涉乎明,不待神而後知也。“吉之先見”雲者,順性命則所(先)見皆吉也。

(能く幾微を識見する人は、はじめて「屈」を「伸」と看做すを懂得す。)《繋辞下》に言う:「幾とは、動の微にして、吉の先見する者なり。」いわゆる「幾」とは、徴象がすでに顕露して形体がまだ成就せざるあの一刻。一たび形を成せば、すなわち耳目の見うる明処に落ち、「神」を待たずともまた知りうる。「吉の先見」と言うに至っては、性命の理に順応すれば、則ち預見する所は自然に皆吉であるがゆえに。

觀其幾者,善之幾也,惡不可謂之幾。如曰“幾者動之微,吉之先見”,亦止言吉爾。且如孝弟仁之本亦可以言幾,造端乎夫婦亦可以言幾,親親而尊賢亦可以為幾,就親親尊賢而求之又有幾焉。又如言不誠其身,不悅於親,亦是幾處。苟要入德,必始於知幾。

観察すべき「幾」とは、善の萌芽で、悪は「幾」と呼べない。《繋辞下》の「幾者動之微、吉之先見」と言うも、ただ一個の「吉」の字を言うに過ぎない。譬えば孝悌は仁の根本で、これは「幾」と言いうる。《中庸》の君子の道は「夫婦に端を造る」と言う——夫婦の間もまた「幾」と言いうる。親愛して親を親み賢者を尊崇するも、同じく「幾」と算えうる。すなわち親を親み賢を尊ぶこの事の裏に於いて更に細処に求めれば、その中にまた別に「幾」在り。またたとえば《孟子・離婁上》の自身を誠ならしめえざれば父母を取悦せしめえずと言うも、これもまた「幾」の顕現する処である。人がもし徳性の門に進入せんと欲せば、必ず幾微を識見するより始める。

君子見幾而作,不俟終日。易曰:“介于石,不終日貞吉。”介如石焉,寧用終日,斷可識矣。知幾其神,由經正以貫之,則寧用終日,(而)斷可識矣。君子(見)既知其幾,則隨有所處,不可過也,豈俟終日?“幾者動之微,吉之先見者也。”夫幾則吉凶皆見,(時)特言吉者,不作則已,作則所求(乎)向乎吉。

《繋辞下》に言う:君子は幾微を見ればすなわち動作し、一日の過ぎるを待たず。《周易・豫卦》六二の爻辞に言う:「石に介す、日を終えずして貞吉。」操守が堅定して磐石のごとければ、どうして一整天を待つを用いん?当下にすなわち断然と識別しうる。幾微を識見するの「神」と称する所以は、常道の端正より一を以て之を貫くがゆえに——だからどうして一整天を待つを用いん?当下にすなわち断然と識別しうる。君子はすでにあの幾微を知れば、すなわち時に随い処に随いて皆安頓ありて錯過に至らず、どうしてなお一整天を待たんや?「幾とは、動の微にして、吉の先見する者なり」——「幾」に就いて言えば、吉と凶は実は皆すでに呈現す。単に一個の「吉」を言う所以は、人は動作せざれば已むも、一たび動作すれば、追求する所は自然に吉の方向に向かって往くがゆえに。

(“不終日貞吉”,言速正則吉也。六二以陰居陰,獨無累於四,故其介如石。雖體柔順,以其在中而靜,何俟終日?必知幾而正矣。)常易故知險,常簡故知阻,(君子見)豫之六二常不動,故能得動之微。

(「日を終えずして貞吉」は、迅速に正に帰れば吉と言う。《豫卦》六二は陰爻を以て陰位に居り、独り九四の牽累を受けず、だからその操守は石のごとく堅定す。本体は柔順とはいえ、中に居りて能く静なるがゆえに、どうして一整天を待つを用いん?必ず幾微を識見して当下に正を守る。)恒常に平易を守るがゆえに、能く険処を知る。恒常に簡約を守るがゆえに、能く阻処を知る。《豫卦》六二は恒常に動かざるがゆえに、能く「動」のあの一点の微芒を捕捉しうる。

(君子見幾而作,不俟終日。苟見其幾,則時處置不欲過,何俟終日?幾者動之微,吉之先見,特言吉者,事則直須求向吉也。)(豫之六二常不動,故能得動之微。)

(君子は幾微を見ればすなわち動作し、一日の過ぎるを待たず。仮にあの幾微を見れば、すなわち時に随いて処置して錯過せしめず、どうして一整天を待つを用いん?「幾者動之微、吉之先見」——単に一個の「吉」を言う所以は、事を為すはもともと一直に吉の方向に向かって求めるべきがゆえに。)(《豫卦》六二は恒常に動かざるがゆえに、能く「動」のあの一点の微芒を捕捉しうる。)

君子知微知彰,知柔知剛,萬夫之望。君子知微知彰,知柔知剛,未嘗不得其中,故動止為眾人之表。一無止字。

《繋辞下》に言う:君子は微隠を知るもまた顕著を知り、柔弱を知るもまた剛強を知りて、万民の仰望する所である。君子は能く微を知り彰を知り柔を知り剛を知れば、一処として中道に合せざるなく、だからその一動一静は皆衆人の表率と為る。「動止」は、別本に「止」の字なし。

(知崇禮卑,叩其兩端而竭也。崇既效天,卑必法地。)(易曰原始要終,故知死生之說。死生止是人之終始也。)

(《繋辞上》の「知は崇く礼は卑し」と言うは、これがまさに《論語・子罕》の言う両端を叩いてその義を尽くす。「知」はすでに上天の崇高を效法すれば、「礼」は必ず大地の卑下を效法す。)(《繋辞上》の「始を原め終に反る、故に死生の説を知る」と言う。いわゆる死生とは、ただ人の終と始に過ぎない。)

學必知幾造微。“知微之顯,知風之自,知遠之近,可以入德。”由微則遂能知其顯,由末即至於本,皆知微知彰知柔知剛之道也。

為学は必ず幾微を識見し精微の処に深造しうるを要す。《中庸》に言う:「遠きの近きを知り、風の自るを知り、微の顕るを知らば、以て徳に入るべし。」微隠の処より入手すれば、すなわち進んでその顕著を知りうる。末梢の処より入手すれば、すなわち上って根本に遡りうる。これらの講ずる所は皆「微を知り彰を知り柔を知り剛を知る」の道理である。

子曰:顏氏之子,其殆庶幾乎!有不善未嘗不知,知之未嘗復行也。知不善未嘗復行,不貳過也。

孔子は言う:顔氏のこの弟子は、おそらく幾を知るに近からん!彼に不善の処あれば自ら覚察せざるなし、覚察して後はかつて再び犯さず。いわゆる不善を知ればすなわち再び犯さずとは、《論語・雍也》の顔回を称許する「過を貳びず」である。

盛德之士,然後知化,如顏子庶乎知化也。有不善未嘗不知,已得善者,辨善與不善也。易曰“有不善未嘗不知”,顏子所謂有不善者,必只是以常意有跡處便為不善而知之,此知幾也,於聖人則無之矣。

ただ徳性の充盛する人のみが、そうして後にはじめて造化を体知するに談じ足る。顔回のごときはほぼ化を知ると言うべし。「不善あれば未だ嘗て知らざるなし」は、彼がすでに善を把握し住したを説明す——だから能く何が善で何が不善かを分辨す。《繋辞下》の「不善あれば未だ嘗て知らざるなし」と言う——顔回のいわゆる「不善」は、必ずただ尋常に念を起こし稍々痕跡を留むる処に於いてすなわち不善として覚察し出したで、これがまさに幾微を識見する。聖人に至っては、この一点の痕跡すらもない。

知德為至當而不忘至之,可見(吉)善於微也。蓋欲善不舍,則善雖微必知之。不誠於善者,惡能為有為無,雖終身由之不知其道,烏足與幾乎!顏子心不違仁,故不善未嘗不知,其致一也。

徳性が最も恰当なるを知りて、しかも念々それに達せんことを忘れざれば、このように微細の処に於いて善を見出しうる。大凡して善に向かう心が放舍を肯じざれば、善はたとえ極めて微細とも必ず覚察しうる。善に対して誠心できざる人は、善と不善とが彼に於いて可有可無で、たとえ終身それに依って走るもその中の道理を明白せず——どうして「幾」を談ずるに配せん!顔回の心は三月仁に違わざるがゆえに、不善は自ら知らざるなし——これは幾微を識見するのともともと一回事である。

孔子稱顏子“不善未嘗不知,知之未嘗復行”,其知不善,非獨知己,凡天下不善皆知之,不善則固未嘗復行也。又曰“吾未見能見其過而內自訟”,亦是非獨自見其過,乃見人之過而自訟。“其殆庶幾”,言庶幾於知幾。

孔子は顔回を称許して「不善あれば未だ嘗て知らざるなし、之を知れば未だ嘗て復た行わざるなり」——彼の知る不善はただ自己ののみにあらず、およそ天下の不善は彼が皆能く知り、しかも知って後は自己はもともと再び犯さない。孔子はまた《論語・公冶長》に「吾れ未だ能くその過を見て内に自ら訟る者を見ざるなり」と言う——これも同じくただ自己の過失を見るのみにあらず、他人の過失を見てもまた能く反って自己を責める。いわゆる「其れ殆ど庶幾ならん」とは、顔回がすでに幾微を識見するに接近したを言う。

天地絪縕,萬物化醇;男女構精,萬物化生。始陳上下交以盡接人之道,卒具男女致一之戒而人道畢矣。

《繋辞下》に言う:天地の二気が交密して纏綿し、万物はこれによって化育して純厚す。男女の両性が交合して精を構え、万物はこれによって化育生成す。この一章は先ず上下の相交わるを陳述して、用いて人と相接する道を説き尽くす。最後に男女の専一無二の告誡を具列して、人道はここに至ってもまた完備す。

氣坱然太虛,升降飛揚,未嘗止息,易所謂“絪縕”,莊生所謂“生物以息相吹”、“野馬”一者歟!此虛實動靜之機,陰陽剛柔之始。浮而上者陽之清,降而下者陰之濁,其感(遇)通聚結,為風雨,為霜雪,萬品之流形,山川之融結,糟粕煨爐,無非教也。

気は太虚の中に充塞瀰漫して、升降飛揚して、かつて止息せず——これが《繋辞下》の言う「絪縕」で、すなわち《荘子・逍遥遊》の言う「生物が息を以て相吹く」と「野馬」である。これがまさに虚と実・動と静の枢機で、また陰陽剛柔の開端である。浮かびて上升するは陽気の清、降りて下沉するは陰気の濁。それらは互相に感通し聚合凝結して、風雨と為り、霜雪と為る。万物の流布して形を成し、山川の融凝して結聚し、乃至酒糟灰燼のごとき最も粗濁なる物も、一つとして天道が人に与える教誨ならざるなし。

心所以萬殊者,感外物而不一也。天大無外,其為感者絪縕(二端)而已。(萬)物(之)物所以相感者,利用出入,莫知其鄉,一萬物之妙者歟!

人心の千差万別なる所以は、外物に感じて各々同じからざるがゆえに。天は広大にして外辺なく、それが能く感ずる所以は、ただ陰陽二気が絪縕交密するのみ。万物の能く彼此相感ずる所以は、まさに《繋辞上》の言う「利用出入」のごとく、往来出入してしかもその方向を知る人なし——これはおそらく万物を渾然として一と為す神妙であろう!

虛則受,盈則虧,陰陽之義也。故陰得陽則為益,以其虛也;陽得陰則為損,以其盈也。艮三索而得男,乾道之所以成也;兌三索而得女,坤道之所以成也。故三之與上,有天地絪縕、男女構精之義者此也。

虚なればすなわち能く容受し、満ちればすなわち損虧する——これが陰陽の道理。だから陰が陽を得ればすなわち《益》と為る——陰はもともと虚なるがゆえに。陽が陰を得ればすなわち《損》と為る——陽はもともと盈なるがゆえに。《艮》は乾が三度坤に求索して少男を得たで、乾道はこれによって完成す。《兌》は坤が三度乾に求索して少女を得たで、坤道はこれによって完成す。だから《損》《益》両卦の三爻と上爻の間に天地絪縕・男女構精の意義を含む——道理はまさにここに在る。

陰虛而陽實,故陽施而陰受;受則益,施則損,蓋天地之義也。艮三索而得男,兌三索而得女,乾坤交索而男女成焉,故三之與上,所以有絪縕構精之義。夫天地之絪縕,男女之構精,其致一至矣。是理也,可以意考,而言之所不能喻也。以乾之三而索於坤,則是三人行而損一人也;索之而男女成焉,是得其友也。乾坤合而損益之義著,非致一其孰能與於此!

陰は虚にして陽は実なので、陽は施与して陰は容受す。容受の一方は益を得、施与の一方は損を受く——これはおそらく天地の道理である。《艮》は三索によりて少男を得、《兌》は三索によりて少女を得——乾と坤とが彼此交相に求索して男女の象が成就す。だから三爻と上爻の間にはじめて絪縕構精の意義あり。天地の絪縕・男女の構精は、あの専一無二はすでに極処に至った。この道理はただ心意を以て体会すべく、言語は説き明白すべからず。乾の第三爻を用いて坤に求索するは、すなわち《損卦》六三の言う「三人行けば則ち一人を損ず」。一たび求索して男女の象が成就すれば、これがすなわち「一人行けば則ちその友を得」。乾坤が交合して損益の意義が顕明す——もし専一無二にあらざれば、誰かこの一層に参与せん!

子曰:君子安其身而後動,易其心而後語,定其交而後求,君子修此三者,故全也。危以動,則民不與也;懼以語,則民不應也;無交而求,則民不與也。莫之與,則傷之者至矣。易曰:“莫益之,或擊之,立心勿恆,凶。”此又終以昧於致用之戒。

孔子は言う:君子は先ず自身を安頓して後に行動し、先ずその心を平和にして後に発言し、先ず交情を定めて後に請求する所有る。君子はこの三事を修好するので、能く保全しうる。もし危殆の中に於いて貿然として行動せば、百姓は則ち跟従しない。もし恐懼を懐いて言話せば、百姓は則ち呼応しない。もし交情なくして求む所有れば、百姓は則ち与えない。肯じて与える人なければ、則ち彼を傷害する人が来る。《周易・益卦》上九の爻辞に言う:「之を益す者莫く、或いは之を撃つ。心を立てて恒ならざれば、凶。」この一章は最後にまた「用を致す」に昧きを以て告誡として收束す。

子曰:乾坤其易之門邪!乾,陽物也;坤,陰物也;陰陽合德而剛柔有體,推而行之存乎通,所謂合德;(隤)確然(確)隤然,所謂有體。乾於天為陽,於地為剛,於人為仁;坤於天則陰,於地則柔,於人則義。先立乾坤以為易之門戶,既定剛柔之體,極其變動以盡其時,至於六十四,此易之所以教人也。

孔子は言う:乾坤はおそらく《易》の門戸であろう!乾は陽の一類、坤は陰の一類で、陰陽はその徳性を合し剛柔は各々形体あり。《繋辞上》の「推して之を行うは通に存る」と言うは、講ずる所は「徳を合す」である。《繋辞下》の乾は「確然」として人に易を示し坤は「隤然」として人に簡を示すと言うは、講ずる所は「体あり」である。乾は天上に於いては陽、地上に於いては剛、人の身上に於いては仁。坤は天上に於いては陰、地上に於いては柔、人の身上に於いては義。先ず乾坤を立てて《易》の門戸と為し、すでに剛柔の体質を定下して、再びその変動を極処に推して種種の時位を窮尽し、一直に演じて六十四卦を成す——これが《易》の用いて人を教うる方式である。

其稱名也雜而不越。其文辭錯綜而條理不雜,雜而不越。於稽其類,其衰世之意邪!世衰則天人交勝,其道不一,易之情也。人一作理。

《繋辞下》に言う:《易》の称挙する名目は繁雑とはいえ、法度を逾越しない。これはその文辞が錯綜交織して条理は並びに紊乱せざるを言う——だから「雑にして越えず」と呼ぶ。《繋辞下》は続けて言う:その帰する類を考察すれば、おそらく衰世の憂思を含まん!世道が一たび衰えれば、天理と人欲とはすなわち互相に争勝して、その道は一に帰すること能わず——これがまさに《易》の表現せんとする情実である。「人」の字は別本に「理」と作る。

夫易,彰往而察來,而微顯闡幽。如坤初六驗履霜於已然、察堅冰於將至之類。一云:“數往知來”,其義一也。其事肆而隱,顯者則微之使求其原,幽者則闡之使見其用;故曰“其事肆而隱”。卦有稱名至小而與諸卦均齊者,各著其義也,蓋稱名小而取義大也。因貳以濟民行。

《繋辞下》に言う:《易》は已往を彰明して将来を察知し、顕著なるを精微化し、幽隠なるを闡発す。譬えば《坤卦》初六の「霜を履みて堅氷至る」は、すなわち已然の霜を履むより検証し、将至の堅氷より察知す。別の一種の説法を「数往知来」と呼び、意思は一様である。いわゆる「その事は肆にして隠」とは、顕著なるに対してはすなわちそれを精微にして、人をしてその本原を追尋せしめ、幽隠なるに対してはすなわちそれを闡発し出して、人をしてその功用を見せしむ——だから「その事は肆にして隠」と言う。卦中に称名は極小にして地位は他の各卦と斉等なるあり——あれは各々その意義を彰顯する。名目は小なるも取る所の義理は大なるがゆえに。《繋辞下》はまた言う:「貳に因りて以て民行を済す。」

(無有遠近幽深,遂知來物,非天下之至精,孰能與於此。此言易之為書也,至精者謂聖人窮理以至於極盡精微處也。)天下之理既已思盡(思),因易之三百八十四爻變動以寓之人事告人,(以)則當如何時,如何事,(若其應也)如何則吉,如何則凶,宜動宜靜,丁寧以為告戒,(此)所以因貳以濟民行也。

(《繋辞上》の「遠近幽深なく、遂に来物を知る。天下の至精に非ざれば、その孰れか能く此に与らんや」と言う。これは《易》この書を講ず。いわゆる「至精」とは、聖人が事理を窮究して極尽精微の処に至るを指す。)天下の道理がすでに思索し尽くせば、よって《易》の三百八十四爻の変動を借って人事を寄托し世人に告知す:当にどの時に在るべきか、どのような事に遇うべきか、どう為せば吉でどう為せば凶か、動に宜しいか静に宜しいかを、反復叮嚀して告誡と為す——これが「貳に因りて以て民行を済す」の意思である。

易之興也,其於中古乎!作易者,其有憂患乎!諳識情偽吉凶之變,故能(體)盡性命。

《繋辞下》に言う:《易》の興起は、おそらく中古の時代に在らん!《易》を作した人は、おそらく憂患を心に懐きたらん!まさに人情の真偽と吉凶の変化に熟悉するがゆえに、こそ能く性命の理を窮尽しうる。

是故履,德之基也;繫辭獨說九卦之德者,蓋九卦為德,切於人事。困,德之修也。

《繋辞下》に言う:だから《履》卦は徳性の根基である。《繋辞》が単にこの九卦の徳性を講ずるは、この九卦の示す徳が最も人事に切近なるがゆえに。《繋辞下》はまた言う:《困》卦は徳性の修治である。

困而不知變,民斯為下矣;不待困而喻,賢者之常也。困之進人也,為德辨,為感速,孟子謂“人有德慧術智恆存乎疢疾”以此。自古困於內無如舜,困於外無如孔子。以孔子之聖而下學於困,則其蒙難正志,聖德日躋,必有人所不必知而云獨知者矣,故曰“莫我知也夫!”“知我者其天乎!”

困厄に陥りて変通を知らざれば、このごとき人は《論語・季氏》の言う下等である。困厄を待たずして事理を明白しうるは、あれは賢者の常態である。困厄が人の長進に対して、能く徳性を分明ならしめ、能く感発を迅速ならしむ。《孟子・盡心上》の「人の徳慧術知ある者は、恒に疢疾に存る」と言う——講ずる所はまさにこれ。自古以来、家庭の内部に於いて困を受くるに舜に比するなく、外部の境遇に於いて困を受くるに孔子に比するなし。孔子のごとき聖人を以てしかも困厄の中に於いて低き処より学び起り——則ち彼が患難を蒙受して心志は愈々端正に、聖徳は一天々に上進し、その中には必ず旁人の知るを要せずしてただ彼自身のみが知る境地ある所以にして、《論語・憲問》に曰く:「我を知る者莫きなり夫!」また曰く:「我を知る者は其れ天か!」

巽,德之制也。量宜接物,故曰制也。履和而至,和必以禮節之,注意極佳。益長裕而不設,(益必實為有益,如天之生物,長必裕之,非虛設也。)

《繋辞下》に言う:《巽》卦は徳性の裁制である。これは事の宜しき所を酌量して外物に応接するを言う——だから「制」と呼ぶ。また言う:《履》卦は和順にして目的に達しうる——和順は必ず礼を以て節制せねばならぬ。前人のこの一層の注解の用意は極めて善し。また言う:《益》卦は人をして増長宽裕ならしめて虚設せず。(「益」は必ず切実に增益する所有らねばならぬ——ちょうど上天が万物を生養し、生長せば必ずそれを宽裕ならしむがごとく、決して虚に一個の名目を設けるにあらず。)

益物必誠,如天之生物,日進日息。自益必誠,如川之方至,日增日得。施之妄,學之不勤,欲自益且不足,益人難矣哉!易曰:“益長裕而不設”,設,謂虛設,信夫!因銘諸牖以自訟。“益長裕而不設”,益以實也。妄加以不誠之益,非益也。益必實為有益,如天之生物,長必裕之,非虛設也。

外物を增益するは必ず誠より出でねばならぬ——ちょうど上天が万物を生養して、一天々に推進し一天々に生長するがごとし。自己を增益するもまた必ず誠より出でねばならぬ——ちょうど河水がまさに漲来して、一天々に增添し一天々に得あるがごとし。施与がもし虚妄より出で、為学がもし勤勉できざれば、自己を增益せんと欲するもなお足らず、なお他人を增益せんと欲するは、難し!《繋辞下》の「益長裕にして設けず」と言う——「設」はすなわち虚設の意で、この話は真に信ずべし!我はこれに因りてそれを窗牖の上に銘刻して用いて自己を責求す。「益長裕にして設けず」とは、増益は実処に落ちるを言う。胡乱に一種の不誠の増益を加上するは、あれは並びに真の増益にあらず。「益」は必ず切実に增益する所有らねばならぬ——ちょうど上天が万物を生養し、生長せば必ずそれを宽裕ならしむがごとく、決して虚に一個の名目を設けるにあらず。

巽稱而隱。巽順以達志,故事舉而意隱。井以辯義,稱物平施,隨所求小大與之,此辯義也。巽以行權。不巽則失其宜也。

《繋辞下》に言う:《巽》卦は事物を称量して形迹を露さず。これは巽順の道を以て心志を通達するを言う——だから事は弁じ成されて用意はしかし隠れて顕れず。また言う:《井》卦は用いて義の宜しき所を辨别す。これは井水のごとく事物を称量して公平に施与し、人の求むる大小に随いて分別して与えるを言う——これがすなわち義を辨ず。また言う:《巽》卦は用いて権変を行使す。これは巽順できざれば、すなわちその中の合宜を失掉するを言う。

易之為書也不可遠,為道也屢遷。心不存之,是遠也,不觀其書,亦是遠也,蓋其為道屢遷。

《繋辞下》に言う:《易》この書は疏远すべからざるもので、それの講ずる道は屡屡として遷変す。心裏にそれを存記せざれば、すなわち疏远である。それのこの書を読みに行かざれば、また疏远である。疏远すべからざる所以は、まさにそれの講ずる道が屡屡として遷変するがゆえに。

易之為書也,原始要終,以為質也;六爻相雜,唯其時物也。於一卦之義,原始要終,究兩端以求其中。六爻則各指所之,非卦之質也,故吉凶各類其情,指其所之。

《繋辞下》に言う:《易》この書は、開端を推原し終局を帰結して、以て一卦の本質と為す。六爻は互相に錯雑して、ただその時位の当たる所の物に随うのみ。一卦の義理に就いて言えば、開端を推原し終局を帰結し、首尾両端を窮究して以てその中を求めるを要す。六爻に至っては、則ち各々往く所の方向を指示して、並びに一卦の本質にあらず——だから吉凶は各々その情実に依って分類し、それの往く所の去処を指出す。

其初難知,其上易知,本末也;初辭擬之,卒成之終。若夫雜物撰德,辯是與非,則非其中爻不備。噫!亦要存亡吉凶,則居可知矣;知者觀其彖辭,則思過半矣。

《繋辞下》に言う:初爻の意旨は知りがたく、上爻の意旨は知りやすい——これが本と末の分別である。初爻の爻辞はただその始を擬議し、上爻に至ってはじめてその終を成就す。事物を錯雑し徳性を撰述し是と非を辨别するに至っては、則ち中間の幾爻なければ不完備である。ああ!もし存亡吉凶の関鍵を総括せんと欲せば、家に安坐してもまた知りうる。識見ある人はただ一卦の彖辞を見れば、すでに一多半を領会す。

初上終始,三四非貴要之用,非內外之主,中爻以要存亡吉凶。如困卦“貞大人吉無咎”,蓋以剛中也,小過小事吉,大事凶,以柔得中之類。易為君子謀,不為小人謀,故撰德於卦,雖爻有小大,及繫辭其爻,必喻之以君子之義。

初爻と上爻は一卦の終と始で、三爻四爻は最も貴要の功用にあらず、また内卦外卦の主爻にあらず。真に存亡吉凶を総括するは中爻で、すなわち二爻と五爻である。譬えば《困卦》の卦辞の「貞、大人吉、咎なし」と言うは、まさに九二・九五が剛健にして中に居るがゆえに。《小過》の卦辞の小事吉・大事凶と言うは、則ち六二・六五が柔順を以て中を得るがゆえに——皆この類に属す。《易》は君子のために謀を為し、小人のために謀を為さないので、卦の上に於いて徳性を撰述する時、たとえ爻位に小有り大有りとも、あの一爻に爻辞を繋ぐに至っては、必ず君子の応有の義理を以て彼に曉喻す。

柔之為道,不利遠者。柔之用近也。道有變動,故曰爻;爻有等,故曰物;物相雜,故曰文。爻者,交雜之義。易之興也,其當殷之末世,周之盛德邪?當文王與紂之事邪?

《繋辞下》に言う:柔は一種の道として、遠き者を利せず。これは柔の功用がただ切近の処に在るを言う。また言う:道に変動あり、だから「爻」と呼ぶ。爻に等級あり、だから「物」と呼ぶ。物が互相に錯雑し、だから「文」と呼ぶ。「爻」とは、すなわち交錯して雑陳するの意である。《繋辞下》はまた言う:《易》の興起は、おそらく殷商の末世・周朝の徳業がまさに盛んな時に当たらん!おそらく文王と紂王のあの一段の史事に当たらん!

剛柔錯雜,美惡混淆,文王與紂當之矣。是故其辭危。危者使平,易者使傾,其道甚大,百物不廢,懼以終始,其要無咎,此之謂易之道也。不齊戒其心,則雜而著也。百物不廢,鉅細無不察也。

剛と柔が交錯雑陳し、美と悪が混淆して分かちがたく、文王と紂王の時勢はまさにこの一局に当たった。だから《易》の言辞は危懼に充満す。《繋辞下》に言う:心に危懼を存するを平安に帰せしめ、軽心を掉うを傾覆に帰せしむ。この道理は極めて広大にして、各種の事物は一つとして遺棄されず。始より終まで戒懼を懐きて、その要領は過錯を招致せざるに在り——これを《易》の道理と呼ぶ。もしこの心を斎戒できなければ、則ち雑念が顕露し出る。いわゆる「百物廃せず」とは、巨細を論ぜず察せざるなきを言う。

夫乾,天下之至健也,德行恆易以知險;夫坤,天下之至順也,德行恆簡以知阻;能說諸心,能研諸侯之慮,

《繋辞下》に言う:乾は天下の最も剛健で、その徳行は恒常に平易にして、因りて能く険難を知る。坤は天下の最も柔順で、その徳行は恒常に簡約にして、因りて能く阻塞を知る。このようであれば能く人心を喜悦せしめ、能く人の思慮を精研す。

擬議云為,非乾坤簡易以立本,則易不可得而見也。簡易故能悅諸心,知險阻故能研諸慮。簡易然後(能)知險阻,(簡易)理得然後一以貫天下之道。至健而易,至順而簡,故其險其阻,不可階而升,不可勉而至。

人の一切の擬議と言行は、もし乾坤の簡易を靠って根本を立定せざれば、則ち《易》は見るに由なし。ただその簡易なるがゆえに、能く人心を喜悦せしむ。ただその険と阻を知るがゆえに、能く思慮を精研す。先ず簡易ありて、そうして後にはじめて険阻を知りうる。道理がすでに得られて、そうして後に能く一を以て天下の道を貫通す。乾は至りて剛健にしてその道は平易、坤は至りて柔順にしてその道は簡約なので、それらの知る所の険と阻は、拾級して登るべきにあらず、また勉强して至るべきにあらず。

太虛之氣,陰陽一物也,然而有兩體,健順而已。(又)亦不可謂天無意,陽之意健,不(耳)爾何以發散和一?陰之性常順,然而地體重濁,不能隨則不能順,(則)少不順即有變矣。有變則有象,如乾健坤順,有此氣則有此象可得而言;若無則直無而已,謂之何而可?是無可得名。

太虚に充塞する気は、陰と陽とはもともと同一の物で、しかしその中に両種の体性を含む——すなわち健と順に過ぎない。天に意向なしと言うべからざるもあり:陽の意向は剛健で、こうでなければまた何を凭って発散して万物を和合して一に帰せしめえん?陰の本性は恒常に柔順で、しかし地体は重濁にして、もし陽気に随順しえざれば順と算えられず、稍々一たび順ならざればすなわち変化を産生す。変化あればすなわち形象あり——譬えば乾の健・坤の順のごとく、この气あればすなわちこの象の言説しうるあり。もし気すらなくば、それは直に一個の「無」のみで、なおそれを何と称せん?あれは根本より命名するに由なし。

故形而上者,得辭斯得象,但於不形中得以措辭者,已是得象可狀也。今雷風有動之象,須(謂)得天為健,雖未嘗見,然而成象,故以天道言;及其(發)法也則是效也,效著則是成形,成形則(是)地道也。若以耳目所及求理,則安得盡!如言寂然湛然亦須有此象。有氣方有象,雖未形,不害象在其中。

だから形而上の物は、それに言辞を見出しえれば、すなわちその象を把握した。ただ形体なき処に於いてなお言辞を下しえれば、それはすでに象を得て描摹すべし。如今の雷と風は皆振動の形象ありて、必ず先ず天が剛健なるを認定せねばならぬ。天はかつて人に見られざるとはいえ、しかしそれはすでに象を成して其を為るので、「天道」を以てそれを称説す。效法に落実するに至れば、それは「效」である。效験が顕著なればすなわち形体と為り、形体を成せばすなわち「地道」に属す。仮にただ耳目の触及しうる所を凭って道理を求めば、どうして完備を求めえん!「寂然」「湛然」のごとき説法も、また必ずそれに相応する象あり。気あってはじめて象あり。象はまだ形を成さざるとはいえ、それがすでにその中に在るを妨げない。

繫辭言“能研諸慮”,止是剩“侯之”二字。說者就解而“諸侯有為之主”,若是者即是隨文耳。

《繋辞下》の「能く諸慮を研ぐ」と講ずるに、今本は「侯之」の二字を多く出す——あれはただ衍文である。解説する人は字の面に照らして「諸侯は有為の主」と講じ成す——このようであれば、ただ訛字に随って牽強附會するに過ぎない。

定天下之吉凶,成天下之亹亹者。是故變化云為,吉事有祥,象事知器,占事知來。天地設位,聖人成能;人謀鬼謀,百姓與能。言易於人事終始悉備,行善事者,易有祥應之理。萌兆之事,而易具著見之器;疑慮而占,則易示將來之驗。有以見天地之間,成能者聖人而已。能畏信於易者,雖百姓之愚,能盡人鬼幽明之助。

《繋辞下》に言う:《易》は能く天下の吉凶を判定し、天下の勤勉にして倦まざる事業を成就す。だから人の変化言行の中に、吉事は自ずから祥兆あり。象を事に於いて観ればすなわち成る所の器を知り、占問を事に於いてせばすなわち将来を知る。天地は上下の位を設立し、聖人はその中に於いて功能を成就す。人謀と鬼謀とを併用し、百姓ですらもその能に参与しうる。これは《易》が人事に対して始より終まで備わらざるなきを言う:善事を為す人は、《易》の中に自ずから祥瑞感応の道理あり。事がかえだ萌芽を現ずれば、《易》はすでにそれを顕現し出す器具を具備す。心に疑慮を存して占を求めれば、《易》はすなわち将来の応験を昭示す。これによって見れば天地の間に、能く功能を成就するはただ聖人のみ。そして《易》に対して敬畏と信従を心存しうる者は、たとえ愚昧の百姓とも、また能く人と鬼・幽と明の両方面の助けを尽く得る。

天能(為)謂性,人謀(為)謂能。大人盡性,不以天能為能而以人謀為能,故曰“天地設位,聖人成能”。天人不須強分,易言天道,則與人事一滾論之,若分別則只是薄乎云爾。自然人謀合,蓋一體也,人謀之所經畫,亦莫非天理(耳)。

上天の功能を「性」と呼び、人の謀画を「能」と呼ぶ。大人は己性を窮尽して、上天の功能を以て自己の功能と為さず、人の謀画を以て功能と為す——だから《繋辞下》は「天地位を設け、聖人能を成す」と言う。天と人は必ずしも勉强に分かつを要せず:《易》が天道を講ずるは、常に人事と合わせて言う。もし強いて分別せば、あれはただ見識の浅薄に過ぎない。自然の天と人の謀画はもともと自ずから契合し、原より一體である。人の謀画経営する一切も、また一つとして天理ならざるなし。

八卦以象告,爻彖以情言,八卦有體,故象在其中。錯綜為六十四爻,爻彖所趨各異,故曰“情言”。變動以利言,吉凶以情遷。能變通則盡利,累於其情則陷於吉凶矣。

《繋辞下》に言う:八卦は形象を以て告示し、爻辞と彖辞は情実を以て表達す。八卦は各々体質あるがゆえに、象はすなわちその中に在る。八卦が錯綜して演じて六十四卦三百八十四爻と為り、爻辞と彖辞の趨向する所は各々同じからず——だから「情を以て言う」と言う。また言う:変動は利害に依って言い、吉凶は情実に随いて遷移す。能く変通すれば、すなわちその利を窮尽しうる。自己の情に牽累されれば、すなわち吉凶の中に陥入す。

情偽相感而利害生。凡卦之所利與爻之所利,皆變通之宜也。如“利建侯”,“利艱貞吉”。屈信相感而利生,感以誠也;情偽相感而利害生,雜以偽也。誠則順理而利,偽則不循理而害。

《繋辞下》に言う:真情と虚偽とが互相に感応して、利と害は産生す。およそ卦の言う利と爻の言う利は、皆変通して宜を得た結果で、譬えば《屯卦》の「侯を建るに利あり」と言い、《明夷》の「艱貞にして吉に利あり」と言うがごとし。屈と伸とが互相に感応して利益が産生するは、あれは誠を以て相感ずる。真情と虚偽とが互相に感応して利害が産生するは、あれは虚偽を攙雑した。誠を以て相待てばすなわち道理に順って利を得、偽を以て相待てばすなわち道理に循わずして害を生ず。

易言“情偽相感而利害生”,則是專以人事言,故有情偽利害也。“屈信相感而利生”,此則是理也,惟以利言。

《繋辞下》の「情偽相感じて利害生ず」と言うは、これは専ら人事に就いて言うので、はじめて真情虚偽・有利有害あり。「屈信相感じて利生ず」と言うに至っては、あれは自然の理を講ずるので、ただ一個の「利」の字を言うのみ。

The original text is in the public domain. The Japanese is a machine-assisted translation of this library’s own Chinese paraphrase, checked against a fixed glossary so that technical terms match the definitions used elsewhere on this site. It is a reading aid and does not replace the original.

Hexagrams in this volume