Libo

成唯識論巻第一

唐 · 护法等造,玄奘译 · 第12巻 / 39

故彼識言,顯第八識。

ゆえにかの識の言は、第八識を顯示す。

成唯識論巻第三

成唯識論巻第四

護法等菩薩造

護法等の菩薩造。

三藏法師玄奘奉詔譯

三蔵法師玄奘詔を奉じて翻訳す。

又契經說:一切有情皆依食住,若無此識,彼識食體不應有故。

また契経に説く:一切有情は皆食に依って住すと。もしこの識無ければ、かの識食の体はまさに有るべからず。

謂契經說食有四種:

いわゆる契経に食は四種有りと説く。

一者、段食,變壞為相。謂欲界繫香、味、觸三,於變壞時能為食事。由此色處非段食攝,以變壞時,色無用故。

一つには段食。変壊を相と為す。いわゆる欲界繋の香・味・触の三は、変壊の時に能く食事と為る。これに由って色処は段食の摂する所に非ず。変壊の時に色は用無きが故に。

二者、觸食,觸境為相,謂有漏觸才取境時,攝受喜等,能為食事。此觸雖與諸識相應,屬六識者食義偏勝,觸麁顯境,攝受喜、樂及順益捨,資養勝故。

二つには触食。境に触るるを相と為す。いわゆる有漏触は纔かに境を取る時、喜等を摂受して、能く食事と為る。この触は諸識と相応すると雖も、六識に属する食義は偏りて勝れり。触は境を麁顯して、喜・楽および順益の捨を摂受し、資養勝れり。

三、意思食,希望為相。謂有漏思與欲俱轉,希可愛境,能為食事。此思雖與諸識相應,屬意識者食義偏勝,意識於境,希望勝故。

三、意思食。希望を相と為す。いわゆる有漏思は欲と倶に転じて、可愛の境を希い、能く食事と為る。この思は諸識と相応すると雖も、意識に属する食義は偏りて勝れり。意識は境に対して希望勝れり。

四者、識食,執持為相。謂有漏識由段、觸、思勢力增長,能為食事。此識雖通諸識自體,而第八識食義偏勝,一類相續執持勝故。

四つには識食。執持を相と為す。いわゆる有漏識は段・触・思の勢力に由って増長して、能く食事と為る。この識は諸識の自体に通ずると雖も、しかし第八識の食義は偏りて勝れり。一類相続して執持勝れるが故に。

由是《集論》說此四食,三蘊、五處、十一界攝。

これに由って《集論》はこの四食を説いて、三蘊・五処・十一界の摂する所と為す。

此四能持有情身命,令不壞斷,故名為食。

この四は能く有情の身命を持して壊断せざらしむ。ゆえに名づけて食という。

段食唯於欲界有用,觸、意思食雖遍三界而依識轉,隨識有無。

段食はただ欲界にて用有り。触・意思食は三界に遍すと雖も、しかし識に依って転じ、識の有無に随う。

眼等轉識有間、有轉,非遍、恆時能持身命,謂無心定、睡眠、悶絕、無想天中有間斷故,設有心位,隨所依、緣、性、界、地等有轉易故,於持身命,非遍、非恆。

眼等の転識は間有り転有りて、遍・恒時に非ず。能く身命を持すること能わず。いわゆる無心定・睡眠・悶絶・無想天の中に間断有り。たとえ有心位にても、依る所・縁・性・界・地等に随って転易有り。身命を持するに対して遍に非ず恒に非ず。

諸有執無第八識者,依何等食?《經》作是言:「一切有情皆依食住。」

諸々の第八識無しと執する人は、何の等食に依るや。《経》はかくのごとき説を作す:「一切有情は皆食に依って住す。」

非無心位過去、未來識等為食;彼非現、常;如空花等,無體用故。設有體用非現在攝,如虛空等,非食性故,亦不可說入定心等與無心位有情為食,住無心時彼已滅故,過去非食已極成故。

並びて無心位に過去・未来の識等を食と為すに非ず。彼らは現に非ず常に非ず。空花等の如く、体用無し。たとえ体用有るも現在の摂する所に非ず。虚空等の如く、食性に非ず。またまさに定に入る心等を無心位の有情と食と為すと説くべからず。無心に住する時、それ已に滅せり。過去は食に非ざるは已に極成せり。

又不可說無想定等不相應行即為彼食,段等四食所不攝故,不相應法非實有故。

またまさに無想定等の不相応行はすなわちかの食と説くべからず。段等の四食の摂せざる所なるがゆえに、不相応法は実有に非ず。

有執滅定等猶有第六識,於彼有情能為食事。彼執非理,後當廣破。

人有りて滅定等に還って第六識有りて、かの有情に対して食事と為るを得すと執す。彼らの執は理に合わず。後にまさに広く破るべし。

又彼應說生上二界無漏心時,以何為食?無漏識等破壞有故,於彼身、命不可為食。亦不可執無漏識中有有漏種能為彼食,無漏識等猶如涅槃,不能執持有漏種故。

また彼らはまさに上の二界に生じて無漏心を起こす時、何を以って食と為すかと説くべし。無漏識等は有を破壊す。かの身・命に対して食と為すべからず。またまさに無漏識中に有漏種有りて能くかの食と為ると執すべからず。無漏識等は猶ほ涅槃の如く、有漏種を執持すること能わず。

復不可說上界有情身、命相持即互為食,四食不攝彼身、命故,又無色無身,命無能持故,眾同分等無實體故。

またまさに上界の有情は身・命が相持して便ち互いに食と為ると説くべからず。四食はかの身・命を摂せず。また無色は身無くして、命は持する能無し。衆同分等は実体無し。

由此定知異諸轉識,有異熟識一類恆、遍執持身、命,令不壞斷。世尊依此,故作是言:一切有情皆依食住。

これに由って決定して知る、諸転識に異なりて、異熟識有りて一類・恒・遍に身・命を執持して壊断せざらしむ。世尊これに依る。ゆえにかくのごとき説を作す:一切有情は皆食に依って住す。

唯依「取蘊」建立有情,佛無有漏,非有情攝,說為有情依食住者,當知皆依示現而說。

ただ「取蘊」に依って有情を建立す。仏は有漏無くして有情の摂する所に非ず。有情と説いて食に依って住すとは、まさに皆示現に依って説くと知るべし。

既異熟識是勝食性,彼識即是此第八識。

すでに異熟識は勝れたる食性なれば、かの識はすなわちこの第八識なり。

又契經說:住滅定者,身、語、心行無不皆滅,而壽不滅,亦不離煖,根無變壞,識不離身。若無此識住滅定者,不離身識不應有故。

また契経に説く:滅定に住する人は、身・語・心行は滅せざる無きも、しかし寿は滅せず、また煖を離れず、根は変壊無く、識は身を離れずと。もしこの識無ければ、滅定に住する人の身を離れざる識はまさに有るべからず。

謂眼等識行相麁、動,於所緣境起必勞慮,厭患彼故,暫求止息,漸次伏除至都盡位,依此位立住滅定者,故此定中彼識皆滅,若不許有微細一類恆、遍執持壽等識在,依何而說識不離身?

いわゆる眼等の識は行相麁動にして、所縁境に対して起こるに必ず労慮有り。それを厭患して暫く止息を求め、漸次に伏除して都尽の位に至り、この位に依って滅定に住する人を立つ。ゆえにこの定中にそれらの識は皆滅す。もし微細・一類にして恒・遍に寿等を執持する識在りと許さざれば、何に依ってか識は身を離れずと説かん。

若謂後時彼識還起,如隔日瘧名不離身,是則不應說心行滅,識與想等起滅同故。壽、煖諸根應亦如識,便成大過,故應許識如壽、煖等實不離身。又此位中若全無識,應如瓦礫非有情數,豈得說為住滅定者?又異熟識此位若無,誰能執持諸根、壽、煖?無執持故皆應壞滅,猶如死屍便無壽等。既爾,後識必不還生,說不離身,彼何所屬?諸異熟識捨此身已,離識餘身無重生故。

もし後時にかの識は還って起こると説いて、隔日の瘧の如く名づけて身を離れずと為さば、かくのごとくなればまさに心行は滅すと説くべからず。識は想等と起滅同じきが故に。寿・煖の諸根もまたまさに識の如くなるべし。便ち大過を成ず。ゆえにまさに許すべし、識は寿・煖等の如く実に身を離れず。またこの位中にもし全く識無ければ、まさに瓦礫の如く有情数に非ざるべし。どうして能く滅定に住する人と説かん。また異熟識はこの位にもし無ければ、誰か能く諸根・寿・煖を執持せん。執持無ければ皆まさに壊滅すべし。猶ほ死尸の如く便ち寿等無し。すでに然らば、後の識は必ず還って生ぜず。離れずと説いて、それは何の属ぞ。諸々の異熟識はこの身を捨つるの後、識を離れたる其余の身は重生無し。

又若此位無持種識,後識無種,如何得生?過去、未來不相應法非實有體已極成故。諸色等法離識皆無受燻、持種亦已遮故。然滅定等無心位中,如有心位定實有識,具根、壽、煖,有情攝故。

またもしこの位に持種の識無ければ、後の識は種無くして、どうして生ずるを得ん。過去・未来・不相応法は実有体に非ざるは已に極成せり。諸色等の法は識を離れて皆薫を受け種を持する無きも已に遮りたり。しかして滅定等の無心位中は、有心位の如く、決定して実に識有りて根・寿・煖を具えり。有情の摂する所なるが故に。

由斯理趣,住滅定者,決定有識,實不離身。

これらの理趣に由って、滅定に住する人は決定して識有りて、実に身を離れず。

若謂此位有第六識,名不離身,亦不應理,此定亦名無心定故。

もしこの位に第六識有りて名づけて身を離れずと説かば、また理に応えず。この定はまた名づけて無心定というが故に。

若無五識名無心者,應一切定皆名無心,諸定皆無五識身故。意識攝在六轉識中,如五識身,滅定非有。或此位識行相、所緣不可知故,如壽、煖等,非第六識。若此位有行相、所緣可知識者,應如餘位,非此位攝。

もし五識無きを名づけて無心と為さば、まさに一切の定は皆名づけて無心と言うべし。諸定は皆五識身無きが故に。意識は六転識の中に収摂す。五識身の如く、滅定は有に非ず。あるいはこの位の識の行相・所縁は知るべからず。寿・煖等の如く、第六識に非ず。もしこの位に行相・所縁の知るべき識有れば、まさに其余の位の如く、この位の摂する所に非ざるべし。

本為止息行相、所緣可了知識,入此定故。

本より行相・所縁の了知すべき識を止息する為に、この定に入る。

又若此位有第六識,彼心所法為有?為無?

またもしこの位に第六識有れば、それらの心所法は有るや無きや。

若有心所,經不應言住此定者心行皆滅,又不應名滅受想定。

もし心所有れば、経はまさにこの定に住する人は心行皆滅すと説くべからず。またまさに名づけて滅受想定と言うべからず。

此定加行,但厭受、想,故此定中唯受、想滅;受、想二法資助心強,諸心所中獨名心行,說心行滅,何所相違?

この定の加行はただ受・想を厭う。ゆえにこの定中にはただ受・想のみ滅す。受・想の二法は心に資助強し。諸心所の中に独り名づけて心行という。心行滅すと説いて何の相違かあらん。

無想定中應唯想滅,但厭想故,然汝不許,既唯受、想資助心強,此二滅時,心亦應滅。

無想定中にはまさにただ想のみ滅すべし。ただ想を厭うが故に。しかし汝らは許さず。すでに唯だ受・想のみ心を資助する強しとせば、この二滅する時、心もまたまさに滅すべし。

如身行滅而身猶在,寧要責心令同行滅?

身行の滅して身なお在るが如く、どうして心を責めて行に同じく滅せしめん。

若爾,語行尋、伺滅時,語應不滅,而非所許。然行於法有遍、非遍,遍行滅時,法定隨滅;非遍行滅,法或猶在。非遍行者謂入出息,見息滅時,身猶在故;尋、伺於語是遍行攝,彼若滅時,語定無故。受、想於心亦遍行攝,許如思等大地法故。受、想滅時,心定隨滅,如何可說彼滅心在?又許思等是大地法,滅受、想時,彼亦應滅。既爾,信等此位亦無,非遍行滅餘可在故,如何可言有餘心所?既許思等此位非無,受、想應然,大地法故。又此定中若有思等亦應有觸,餘心所法無不皆依觸力生故。若許有觸亦應有受,觸緣受故。既許有受,想亦應生,不相離故。

もし然らば、語行の尋・伺の滅する時、語はまさに滅せざるべし。しかし許する所に非ず。しかし行は法に対して遍・非遍有り。遍行の滅する時、法は定めて随って滅す。非遍行の滅する時、法はあるいはなお在り。非遍行とは入出息を説く。息の滅するを見ても身なお在るが如し。尋・伺は語に対して遍行の摂する所なり。それらもし滅する時、語は定めて無し。受・想は心に対してもまた遍行の摂する所なり。思等の大地法の如く許するが故に。受・想の滅する時、心は定めて随って滅す。どうしてそれらの滅して心在りと説くべき。また思等は大地法と許せば、受・想を滅する時、それらもまたまさに滅すべし。すでに然らば、信等もこの位に無し。非遍行の滅せば其余は在るべきに非ざるが故に。どうして其余の心所有りと説くべき。すでに思等はこの位に無に非ずと許せば、受・想もまたまさに然るべし。大地法なるが故に。またこの定中にもし思等有れば、またまさに触有るべし。其余の心所法は皆触力に依って生ずる無し。もし触有りを許せば、またまさに受有るべし。触は受に縁ずるが故に。すでに受有りを許せば、想もまたまさに生ずべし。相離れざるが故に。

如受緣愛,非一切受皆能起愛,故觸緣受,非一切觸皆能生受,由斯所難,其理不成。

受は愛に縁ずるが如く、並びて一切の受は皆能く愛を起こすに非ず。ゆえに触は受に縁ずるも、並びて一切の触は皆能く受を生ずるに非ず。これに由って難ずる所はその理成立せず。

彼救不然,有差別故。謂佛自簡唯無明觸所生諸受為緣生愛,曾無有處簡觸生受。故若有觸,必有受生,受與想俱,其理決定。或應如餘位,受、想亦不滅,執此位中有思等故,許便違害心行滅言,亦不得成滅受想定。

彼らの救は然らず。差別有るが故に。いわゆる仏は自ら簡別して、ただ無明触の生ずる所の諸受を縁として愛を生ずと説く。曽て処有りて簡別して触は受を生ずと説かず。ゆえにもし触有れば、必ず受生有り。受は想と倶なり。その理決定す。あるいはまさに其余の位の如く、受・想もまた滅せざるべし。この位中に思等有りと執するが故に。許さば便ち心行滅の言に違害し、また滅受想定を成ずるを得ず。

若無心所,識亦應無,不見餘心離心所故,餘遍行滅,法隨滅故,受等應非大地法故,此識應非相應法故。許則應無所依、緣等,如色等法亦非心故。又契經說:意、法為緣,生於意識,三和合觸,與觸俱起,有受、想、思。若此定中有意識者,三和合故,必應有觸,觸既定與受、想、思俱,如何有識而無心所?

もし心所無ければ、識もまたまさに無かるべし。未だかつて其余の心の心所を離るるを見ず。其余の遍行の滅せば、法は随って滅す。受等はまさに大地法に非ざるべく、この識はまさに相応法に非ざるべし。許さばまさに依る所・縁等無かるべし。色等法の如く、また心に非ず。また契経に説く:意・法を縁として意識を生じ、三和合して触なり。触と倶に起こって受・想・思有りと。もしこの定中に意識有れば、三和合に因って必ずまさに触有るべし。触はすでに定めて受・想・思と倶なれば、どうして識有りて心所無からん。

若謂餘時,三和有力,成觸、生觸,能起受等。由此定前厭患心所,故在定位三事無能,不成生觸,亦無受等。

もし其余の時は三和は力有りて触を成じ触を生じて、能く受等を起こす。しかしこの定の前に心所を厭患するがゆえに、定位にては三事は能無くして、触を成生せず、また受等無しと説かば、

若爾,應名滅心所定,如何但說滅受、想耶?

もし然らば、まさに名づけて滅心所定と言うべし。どうしてただ受・想の滅と説く。

若謂厭時唯厭受、想,此二滅故,心所皆滅,依前所厭,以立定名。

もし厭う時ただ受・想を厭うて、この二滅せば心所皆滅す。前に厭う所に依って以って定名を立つと説かば、

既爾,此中心亦應滅,所厭俱故,如餘心所。不爾,如何名無心定?

すでに然らば、ここに心もまたまさに滅すべし。厭う所と倶なるが故に、其余の心所の如し。然らずんば、どうして名づけて無心定という。

又此定位意識是何?

またこの定位の意識は何ぞ。

不應是染或無記性,諸善定中無此事故;餘染、無記心必有心所故,不應厭善起染等故。非求寂靜翻起散故。

まさに染あるいは無記性ならざるべし。諸善定の中にこの事無きが故に。其余の染・無記心は必ず心所有り。まさに善を厭いて染等を起こすべからず。寂静を求めて翻って散乱を起こすに非ず。

若謂是善,相應善故,應無貪等善根相應。此心不應是自性善或勝義善,違自宗故,非善根等及涅槃故。若謂此心是等起善,加行善根所引發故,理亦不然,違自宗故,如餘善心非等起故。善心無間起三性心,如何善心由前等起?故心是善,由相應力。既爾,必與善根相應,寧說此心獨無心所?故無心所,心亦應無。

もし善と説かば、相応の善なるがゆえに、まさに貪等無き善根と相応すべし。この心はまさに自性善あるいは勝義善ならざるべし。自宗に違するが故に。善根等および涅槃に非ざるが故に。もしこの心は等起の善にして加行の善根の引発する所なれば、理また然らず。自宗に違するが故に。其余の善心の如く等起に非ず。善心は無間に三性の心を起こす。どうして善心は前の等起に由らん。ゆえに心は善なるは相応力に由る。すでに然らば、必ず善根と相応す。どうしてこの心は独り心所無しと説かん。ゆえに心所無ければ心もまたまさに無かるべし。

如是推徵,眼等轉識於滅定位非不離身,故契經言不離身者,彼識即是此第八識,入滅定時不為止息,此極寂靜執持識故。

かくのごとく推征すれば、眼等の転識は滅定位にて並びて身を離れずに非ず。ゆえに契経に離れずと説く。かの識はすなわちこの第八識なり。滅定に入る時は止息する為に非ず。これ極寂静の執持識なるが故に。

無想等位,類此應知。

無想等の位はこれに類してまさに知るべし。

又契經說:心雜染故,有情雜染;心清淨故,有情清淨。若無此識,彼染、淨心不應有故。

また契経に説く:心は雑染なれば有情は雑染なり。心は清浄なれば有情は清浄なりと。もしこの識無ければ、かの染・浄の心はまさに有るべからず。

謂染、淨法以心為本,因心而生,依心住故,心受彼燻,持彼種故。

いわゆる染・浄の法は心を以って本と為す。心に因って生じ、心に依って住す。心はそれに薫ぜられ、かの種を持す。

然雜染法略有三種:煩惱、業、果,種類別故。

しかし雑染法は略して三種有り。煩悩・業・果なり。種類別有るが故に。

若無此識持煩惱種,界、地往還,無染心後,諸煩惱起,皆應無因,餘法不能持彼種故,過去、未來非實有故。若諸煩惱無因而生,則無三乘學、無學果,諸已斷者皆應起故。

もしこの識の煩悩種を持する無ければ、界・地に往還して、染心無きの後に諸煩悩の起こるは皆まさに因無かるべし。其余の法はかの種を持すること能わず。過去・未来は実有に非ず。もし諸煩悩は無因にして生ぜば、便ち三乗の学・無学果無し。諸々の已に断ぜし者は皆まさに起こるべし。

若無此識持業、果種,界、地往還,異類法後,諸業、果起,亦應無因,餘種、餘因前已遮故。若諸業、果無因而生,入無餘依涅槃界已,三界業果還復應生,煩惱亦應無因生故。

もしこの識の業・果種を持する無ければ、界・地に往還して、異類法の後に諸業・果の起こるもまたまさに因無かるべし。余种・余因は前に已に遮りたり。もし諸業・果は無因にして生ぜば、無余依涅槃界に入りての後、三界の業果は還って復た生ずべし。煩悩もまたまさに無因にして生ずべきが故に。

又行緣識應不得成,轉識受燻,前已遮故。結生染識非行感故;應說名色,行為緣故,時分懸隔無緣義故。此不成故,後亦不成。

また行は識に縁ずるはまさに成ぜずを得べし。転識は薫を受くるは前に已に遮りたり。結生の染識は行の感ずる所に非ず。まさに名色を説いて行を縁と為すべし。時分懸隔して縁の義無きが故に。これ成立せざれば、後もまた成立せず。

諸清淨法亦有三種:世、出世道、斷果別故。

諸々の清浄法もまた三種有り。世・出世道・断果に別有るが故に。

若無此識持世、出世清淨道種,異類心後,起彼淨法皆應無因,所執餘因前已破故。若二淨道無因而生,入無餘依涅槃界已,彼二淨道還復應生,所依亦應無因生故。

もしこの識の世・出世の清浄道種を持する無ければ、異類心の後にそれらの浄法を起こすは皆まさに因無かるべし。執する所の余因は前に已に破れり。もし二の浄道は無因にして生ぜば、無余依涅槃界に入りての後、かの二浄道は還って復た生ずべし。依る所もまたまさに無因にして生ずべきが故に。

又出世道初不應生,無法持彼法爾種故;有漏類別非彼因故,無因而生非釋種故。初不生故,後亦不生,是則應無三乘道果。

また出世道は初めまさに生ぜざるべし。かの法爾種を持する法無きが故に。有漏の類別はかの因に非ず。無因にして生ずるは釋種に非ず。初め生ぜざれば、後もまた生ぜず。かくのごとくなればまさに三乗の道果無かるべし。

若無此識持煩惱種,轉依、斷果亦不得成,謂道起時,現行煩惱及彼種子俱非有故;染、淨二心不俱起故,道相應心不持彼種,自性相違,如涅槃故;去、來得等非實有故;餘法持種理不成故。既無所斷,能斷亦無,依誰由誰而立斷果?

もしこの識の煩悩種を持する無ければ、転依・断果もまた成ぜずを得す。いわゆる道の起こる時、現行の煩悩およびそれらの種子は皆有に非ず。染・浄の二心は倶に起こらず。道に相応する心はかの種を持せず。自性相違して涅槃の如し。去・来・得等は実有に非ず。其余の法は種を持する理成立せず。すでに断ずる所無ければ、能断もまた無し。誰に依り誰に由ってか断果を立てん。

若由道力,後惑不生,立斷果者,則初道起應成無學;後諸煩惱皆已無因,永不生故。

もし道力に由って後の惑は生ぜずして断果を立てば、然らば初道の起こるはまさに無学を成ずべし。後の諸煩悩は已に皆無因なり。永く生ぜず。

許有此識,一切皆成,唯此能持染、淨種故。

この識有りと許せば、一切は皆成立す。唯だこれのみ能く染・浄種を持するが故に。

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