成唯識論巻第四
二十皆非學、無學攝。此但是染,彼唯淨故。
二十は倶に学・無学の摂する所に非ず。これらはただ染のみにして、それらはただ浄のみなるのゆえん。
後十,唯通見、修所斷,與二煩惱相應起故。見所斷者,隨迷諦相,或總、或別,煩惱俱生,故隨所應,皆通四諦。迷諦親疎等,皆如煩惱說。
後の十はただ見・修の断ずる所に通ず。二煩悩と相応して起こるのゆえん。見の断ずるは諦相に迷うに随って、あるいは総あるいは別にして、煩悩と倶生す。ゆえに応ずる所に随って倶に四諦に通ず。諦に迷うの親疎等は皆煩悩の説くが如し。
前十,有義:唯修所斷,緣麁事境,任運生故。有義:亦通見、修所斷。依二煩惱勢力起故。緣他見等,生忿等故。見所斷者,隨所應緣,總、別惑力,皆通四諦。此中有義:忿等但緣迷諦惑生,非親迷諦。行相麁淺,不深取故。有義:嫉等亦親迷諦,於滅、道等生嫉等故。
前の十は、一義有り:ただ修の断ずる所のみ。麁事の境に縁じて任運に生ずるのゆえん。一義有り:もまた見・修の断ずる所に通ず。二煩悩の勢力に依って起こるのゆえん。他の見等に縁じて忿等を生ずるのゆえん。見の断ずるは応ずる所の縁に随って、総・別の惑力は倶に四諦に通ず。ここに一義有り:忿等はただ諦に迷う惑に縁じて生ずるにして、親しく諦に迷うに非ず。行相は麁浅にして深く取らざるのゆえん。一義有り:嫉等もまた親しく諦に迷う。滅・道等に対して嫉等を生ずるのゆえん。
然忿等十,但緣有事,要託本質,方得生故。緣有漏等,準上應知。
しかし忿等の十はただ有事に縁ず。本質に託するを要して乃ち生ずるを得るのゆえん。有漏等に縁ずるは上に准じてまさに知るべし。
成唯識論巻第六
成唯識論巻第七
護法等菩薩造
護法等の菩薩造。
三藏法師玄奘奉詔譯
三蔵法師玄奘詔を奉じて翻訳す。
已說二十隨煩惱相。不定有四,其相云何?
已に二十の随煩悩の相を説きたり。不定は四有りて、その行相はいかん。
頌曰:
頌に説く:
「不定謂悔、眠、尋、伺,二各二。」
「不定とは悔・眠・尋・伺を説く。二各々二なり。」
論曰:悔、眠、尋、伺於善、染等皆不定故,非如觸等定遍心故,非如欲等定遍地故,立不定名。
論に説く:悔・眠・尋・伺は善・染等に対して倶に定まらざるのゆえん、触等の決定して心に遍する如ならざるのゆえん、欲等の決定して地に遍する如ならざるのゆえんに、不定の名を立つ。
悔謂惡作,惡所作業,追悔為性,障止為業。此即於果假立因名,先惡所作業,後方追悔故;悔先不作,亦惡作攝,如追悔言:我先不作如是事業,是我惡作。
悔とは悪作を説く。作した所の業を厭惡して、追悔を性と為し、止を障るを業と為す。これすなわち果に於て假に因の名を立つ。先に作した所の業を厭惡して、後に乃ち追悔するのゆえん。悔は先に作さざるも、もまた悪作の摂する所なり。追悔の説くが如く:我先にかくのごとき事業を作さざりき。是れ我が悪作なり。
眠謂睡眠,令身不自在,昧、略為性,障觀為業。謂睡眠位,身不自在,心極闇劣,一門轉故。昧簡在定,略別寤時,令顯睡眠非無體用。有無心位假立此名,如餘蓋纏心相應故。
眠とは睡眠を説く。身をして自在ならざらしめ、昧・略を性と為し、観を障るを業と為す。いわゆる睡眠の位は身自在ならず、心は極闇劣にして一門に転ずるのゆえん。昧は定に在るを簡別し、略は寤時を分別す。睡眠は体用無きに非ざるを顯示せしむ。無心の位に假にこの名を立つは、其余の蓋纏の心と相応する如きのゆえん。
有義:此二唯痴為體,說隨煩惱及痴分故。
一義有り:この二はただ癡を以って体と為す。随煩悩および癡分と説くのゆえん。
有義:不然,亦通善故。應說此二染痴為體;淨即無痴,論依染分說隨煩惱及痴分攝。
一義有り:この如しに非ず。もまた善に通ずるのゆえん。まさに説くべし、この二の染は癡を以って体と為し、浄はすなわち無癡なり。論は染分に依って随煩悩および癡分の摂する所と説く。
有義:此說亦不應理,無記非痴、無痴性故。應說惡作思、慧為體,明瞭思擇所作業故。睡眠合用思、想為體,思、想種種夢境相故。論俱說為世俗有故。彼染汙者是痴等流,如不信等,說為痴分。
一義有り:この説もまた理に応えず。無記は癡・無癡の性に非ざるのゆえん。まさに説くべし、悪作は思・慧を以って体と為す。明らかに作した所の業を思択するのゆえん。睡眠は思・想を合して用いて体と為す。思・想は種種の夢境の相なるのゆえん。論に倶に世俗有と説くのゆえん。それらの染汙なるは癡の等流にして、不信等の如く、癡分と説く。
有義:彼說理亦不然,非思、慧、想纏彼性故。應說此二各別有體,與餘心所行相別故。隨痴相說,名世俗有。
一義有り:彼らの説は理またこの如ならず。思・慧・想はそれらの性に纏わるに非ざるのゆえん。まさに説くべし、この二は各々別に体有り。其余の心所と行相分別あるのゆえん。癡相に随って説いて、名づけて世俗有という。
尋謂尋求,令心怱遽於意言境,麁轉為性;伺謂伺察,令心怱遽於意言境,細轉為性。此二俱以安、不安住身心分位所依為業。並用思、慧一分為體,於意言境不深推度及深推度,義類別故,若離思、慧,尋、伺二種體類差別不可得故。
尋とは尋求を説く。心をして匆遽に意言の境に対して、麁転を性と為す。伺とは伺察を説く。心をして匆遽に意言の境に対して、細転を性と為す。この二は倶に安・不安の身心に住する分位の依る所を業と為す。並びに思・慧の一分を用いて体と為す。意言の境に対して深く推度せざるおよび深く推度するに、義類の分別有るのゆえん。もし思・慧を離れば、尋・伺の二種の体類の差別は求むるを得ざるのゆえん。
「二各二」者,有義:尋、伺各有染、淨二類差別。
「二各二」とは、一義有り:尋・伺は各々染・浄の二类の差別有り。
有義:此釋不應正理,悔、眠亦有染、淨二故。
一義有り:この解釈は正理に応えず。悔・眠もまた染・浄の二有るのゆえん。
應說如前諸染心所,有是煩惱、隨煩惱性,此二各有不善、無記,或復各有纏及隨眠。
まさに説くべし、前の諸染心所の如く、是れ煩悩・随煩悩の性有る。この二は各々不善・無記有りて、あるいはまた各々纏および随眠有り。
有義:彼釋亦不應理,不定四後有此言故。
一義有り:彼らの解釈もまた理に応えず。不定の四の後にこの言有るのゆえん。
應言「二」者顯二種二:一謂悔、眠;二謂尋、伺。此二二種,種類各別,故一「二」言,顯二二種。
まさに説くべし、「二」は二種の二を顯示す。一とは悔・眠を説く。二とは尋・伺を説く。この二の二種は種類各々別なり。ゆえに一の「二」の字は二の二種を顯示す。
此各有二,謂染、不染。
これらは各々二有り。いわゆる染・不染。
非如善、染各唯一故。或唯簡染,故說此言,有亦說為隨煩惱故。為顯不定義,說「二各二」言,故置此言深為有用。
善・染の各々ただ一のみの如ならざるのゆえん。あるいはただ染を簡別して、この言を説く。有るはもまた随煩悩と説き為すのゆえん。不定の義を顯示する為に、「二各二」の言を説く。ゆえにこの言を置くに深く用有り。
四中尋、伺定是假有,思、慧合成,聖所說故。
四中の尋・伺は決定して假有なり。思・慧の合成なるを聖の説く所のゆえん。
悔、眠,有義:亦是假有,《瑜伽》說為世俗有故。
悔・眠は、一義有り:もまた假有なり。《瑜伽》に世俗有と説くのゆえん。
有義:此二是實物有,唯後二種說假有故。世俗有言隨他相說,非顯前二定是假有,又如內種體雖是實,而論亦說世俗有故。
一義有り:この二は実物有なり。ただ後の二種は假有と説くのゆえん。世俗有の言は他相に随って説く。前の二は決定して假有を顯示するに非ず。また内種の体は実なると雖も、しかし論もまた世俗有と説くが如きのゆえん。
四中尋、伺定不相應,體類是同,麁、細異故。依於尋、伺有染、離染立三地別,不依彼種現起有無,故無雜亂。
四中の尋・伺は決定して相応せず。体類は同じくして、麁・細異なるのゆえん。尋・伺に依って染・離染有りて三地の分別を立つ。その現起の有無に依らず。ゆえに雑乱無し。
俱與前二容互相應,前二亦有互相應義。
倶に前の二と互いに相応を容す。前の二もまた互いに相応の義有り。
四皆不與第七、八俱,義如前說;悔、眠唯與第六識俱,非五法故。
四は倶に第七・八と倶せず。義は前の説くが如し。悔・眠はただ第六識と倶のみ。五法に非ざるのゆえん。
有義:尋、伺亦五識俱,論說:五識有尋、伺故。
一義有り:尋・伺もまた五識と倶なり。論に説く:五識は尋・伺有るのゆえん。
又說:尋、伺即七分別,謂有相等。《雜集》復言:任運分別謂五識故。
また説く:尋・伺はすなわち七の分別なり。いわゆる有相等。《雑集》にまた説く:任運の分別はいわゆる五識なるのゆえん。
有義:尋、伺唯意識俱。
一義有り:尋・伺はただ意識と倶のみ。
論說:尋求、伺察等法皆是意識不共法故。又說:尋、伺憂、喜相應,曾不說與苦、樂俱故。捨受遍故,可不待說。何緣不說與苦、樂俱?雖初靜慮有意地樂,而不離喜,總說喜名;雖純苦處有意地苦,而似憂故,總說為憂。又說:尋、伺以名身等義為所緣,非五識身以名身等義為境故。
論に説く:尋求・伺察等の法は倶に意識の不共法なるのゆえん。また説く:尋・伺は憂・喜と相応して、曽て苦・楽と倶と説かざるのゆえん。捨受は遍するのゆえんに説を待たず。なんぞ苦・楽と倶と説かざる。初静慮は意地の楽有ると雖も、しかし喜を離れず。総じて喜の名と説く。純苦の処は意地の苦有ると雖も、しかし憂に似たるのゆえんに、総じて憂と説く。また説く:尋・伺は名身等の義を以って所縁と為す。五識身は名身等の義を以って境と為すに非ざるのゆえん。
然說五識有尋、伺者,顯多由彼起,非說彼相應。《雜集》所言:任運分別謂五識者,彼與《瑜伽》所說分別,義各有異:彼說任運即是五識,《瑜伽》說此是五識俱分別意識相應尋、伺。
しかし五識は尋・伺有りと説くは、多くそれらに由って起こるを顯示す。それらの相応を説くに非ず。《雑集》の説く所:任運の分別はいわゆる五識。それと《瑜伽》の説く所の分別とは義各々異有り。それは任運を説いてすなわち五識なり。《瑜伽》はこれは五識と倶の分別する意識に相応の尋・伺を説く。
故彼所引為證不成,由此五識定無尋、伺。
ゆえに彼らの引く所は証と為して成立せず。これに由って五識は決定して尋・伺無し。
有義:惡作憂、捨相應,唯慼行轉,通無記故。
一義有り:悪作は憂・捨と相応す。ただ戚行に転じて、無記に通ずるのゆえん。
睡眠喜、憂、捨受俱起,行通歡、慼、中庸轉故。
睡眠は喜・憂・捨受と倶に起こる。行は歓・戚・中庸に通じて転ずるのゆえん。
尋、伺憂、喜、捨、樂相應,初靜慮中意樂俱故。
尋・伺は憂・喜・捨・楽と相応す。初静慮中に意の楽と倶なるのゆえん。
有義:此四亦苦受俱,純苦趣中,意苦俱故。
一義有り:この四もまた苦受と倶なり。純苦趣の中に意の苦と倶なるのゆえん。
四皆容與五別境俱,行相、所緣不相違故。
四は倶に五の別境と倶を容す。行相・所縁は相違せざるのゆえん。
悔、眠但與十善容俱,此唯在欲,無輕安故。尋、伺容與十一善俱,初靜慮中輕安俱故。
悔・眠はただ十善と倶を容す。これはただ欲に在りて軽安無きのゆえん。尋・伺は十一善と倶を容す。初静慮中に軽安と倶なるのゆえん。
悔但容與無明相應,此行相麁,貪等細故。
悔はただ無明と相応するを容す。この行相は麁くして、貪等は細なるのゆえん。
睡眠、尋、伺十煩惱俱,此彼展轉不相違故。
睡眠・尋・伺は十煩悩と倶なり。これらとそれらとは展転して相違せざるのゆえん。
悔與中、大隨惑容俱,非忿等十,各為主故。睡眠、尋、伺二十容俱,眠等位中皆起彼故。
悔は中・大の随惑と倶を容して、忿等の十と倶せず。各々主要を為すのゆえん。睡眠・尋・伺は二十と倶を容す。眠等の位の中に皆それらを起こすのゆえん。
此四皆通善等三性,於無記業亦追悔故。
この四は倶に善等の三性に通ず。無記の業に対してもまた追悔するのゆえん。
有義:初二唯生得善,行相麁鄙及昧略故;後二亦通加行善攝,聞所成等有尋、伺故。
一義有り:初の二はただ生得善のみ。行相は麁鄙および昧略なるのゆえん。後の二はもまた加行善の摂する所に通ず。聞の成ずる所等は尋・伺有るのゆえん。
有義:初二亦加行善,聞、思位中有悔、眠故。
一義有り:初の二もまた加行善なり。聞・思の位の中に悔・眠有るのゆえん。
後三皆通染、淨無記,惡作非染,解麁猛故。四無記中,悔唯中二,行相麁猛,非定果故。眠除第四,非定引生,異熟生心亦得眠故。尋、伺除初,彼解微劣,不能尋察名等義故。
後の三は倶に染・浄の無記に通ず。悪作は染に非ず。解は麁猛なるのゆえん。四無記の中に悔はただ中の二のみ。行相は麁猛にして、定の果に非ざるのゆえん。眠は第四を除く。定の引生に非ざるにして、異熟生の心もまた眠を得るのゆえん。尋・伺は初を除く。それの解は微劣にして、能く名等の義を尋察せざるのゆえん。
惡作、睡眠唯欲界有,尋、伺在欲及初靜慮,餘界地法皆妙靜故。
悪作・睡眠はただ欲界に有り。尋・伺は欲および初静慮に在り。其余の界地の法は倶に妙静なるのゆえん。
悔、眠生上必不現起,尋、伺上下亦起下上。
悔・眠は上に生じて必ず現起せず。尋・伺は上・下もまた下・上を起こす。
下上尋、伺能緣上下。
下・上の尋・伺は能く上・下に縁ず。
有義:悔、眠不能緣上,行相麁近,極昧略故。
一義有り:悔・眠は能く上に縁ぜず。行相は麁近にして極昧略なるのゆえん。
有義:此二亦緣上境,有邪見者悔修定故,夢能普緣所更事故。
一義有り:この二もまた上境に縁ず。邪見の人有りて定を修したるを悔いるのゆえん。夢は能く普く更たる所の事に縁ずるのゆえん。
悔非無學,離欲捨故;睡眠、尋、伺皆通三種。求解脫者有為善法皆名學故;學究竟者有為善法皆無學故。
悔は無学に非ず。欲を離れて捨するのゆえん。睡眠・尋・伺は倶に三種に通ず。解脱を求むる人は有為の善法は倶に名づけて学というのゆえん。学は究竟する人は有為の善法は倶に是れ無学なるのゆえん。
悔、眠唯通見、修所斷,亦邪見等勢力起故,非無漏道親所引生故,亦非如憂,深求解脫故。若已斷故名非所斷,則無學眠非所斷、攝。
悔・眠はただ見・修の断ずる所に通ず。もまた邪見等の勢力に由って起こるのゆえん。無漏道の親しく引生する所に非ざるのゆえん。また憂の如く深く解脱を求むるに非ざるのゆえん。もし已に断ぜたるを名づけて非所断というなれば、すなわち無学の眠は非所断の摂する所なり。
尋、伺雖非真無漏道,而能引彼,從彼引生,故通見、修、非所斷攝。
尋・伺は真の無漏道に非ざると雖も、しかし能くそれらを引く。それらの引生する所に従う。ゆえに見・修・非所断の摂する所に通ず。
有義:尋、伺非所斷者,於五法中唯分別攝,《瑜伽》說彼是分別故。
一義有り:尋・伺の非所断なるは、五法の中にてただ分別の摂する所のみ。《瑜伽》にそれらは分別と説くのゆえん。
有義:此二亦正智攝,說:正思惟是無漏故,彼能令心尋求等故。又說:彼是言說因故,未究竟位於藥、病等未能遍知,後得智中為他說法必假尋、伺,非如佛地無功用說,故此二種亦通無漏。雖說尋、伺必是分別,而不定說唯屬第三,後得正智中亦有分別故。
一義有り:この二もまた正智の摂する所なり。説く:正思惟は無漏なるのゆえん。それらは能く心をして尋求等せしむるのゆえん。また説く:それらは言説の因なるのゆえん。未だ究竟せざる位にて薬・病等に対して未だ遍く知る能わず。後得智の中に他の為に法を説くは必ず尋・伺を假る。仏地の無功用説の如ならず。ゆえにこの二種もまた無漏に通ず。尋・伺は必ず分別と説くと雖も、しかし定めてただ第三に属すると説かず。後得の正智の中にもまた分別有るのゆえん。
餘門準上,如理應思。
其余の門は上に准じて、理の如くまさに思択すべし。
