成唯識論巻第四
如是六位諸心所法,為離心體有別自性?為即是心分位差別?
かくのごとき六位の諸心所法は、心体を離れて別に自性有るか。それともすなわち心の分位差別か。
設爾何失?
設しこの如ならば何の過失か有らん。
二俱有過。
両辺倶に過有り。
若離心體有別自性,如何聖教說唯有識?又如何說心遠、獨行,染、淨由心,士夫六界?
もし心体を離れて別に自性有れば、聖教はどうして唯だ識有りと説かん。またどうして心は遠にして独行、染・浄は心に由り、士夫は六界と説かん。
《莊嚴論》說復云何通?如彼頌言:
《荘厳論》の説くはまたどうして通ぜん。かの頌の説けるが如く:
「許心似二現,如是似貪等,
「心は二を現ずる如く許す。かくのごとく貪等の如く、
或似於信等,無別染、善法。」
あるいは信等に於けるが如く、別に染・善法無し。」
若即是心分位差別,如何聖教說心相應?他性相應,非自性故。又如何說心與心所俱時而起,如日與光?《瑜伽論》說復云何通?彼說心所非即心故。如彼頌言:
もしすなわち心の分位差別なれば、聖教はどうして心に相応すと説かん。他性の相応は自性に非ざるのゆえん。またどうして心と心所とは倶時に起こると説かん。日と光との如し。《瑜伽論》の説くはまたどうして通ぜん。それに心所はすなわち心に非ずと説くのゆえん。かの頌の説けるが如く:
「五種性不成,分位差過失,
「五種の性は成立せず。分位差は過失有り。
因緣無別故,與聖教相違。」
因縁は分別無きのゆえん、聖教と相違す。」
應說離心有別自性,以心勝故,說唯識等,心所依心勢力生故,說似彼現,非彼即心。又識心言亦攝心所,恆相應故。唯識等言及現似彼,皆無有失,此依世俗。
まさに説くべし、心を離れて別に自性有り。心の殊勝なるに因って唯識等と説く。心所は心の勢力に依って生ずるのゆえん。それらを現ずるが如くと説く。それらはすなわち心に非ず。また識・心の言もまた心所を収攝す。恒に相応するのゆえん。唯識等の言およびそれらを現ずるが如きは、倶に過失無し。これは世俗に依る。
若依勝義,心所與心非離非即,諸識相望應知亦然,是謂大乘真、俗妙理。
もし勝義に依れば、心所と心とは離に非ず即に非ず。諸識の相望むるもまさに然るべしと知る。これはすなわち大乗の真・俗の妙理を説く。
已說六識心所相應,云何應知現起分位?
已に六識の心所の相応を説きたり。どうして現起の分位を知らん。
頌曰:
頌に説く:
15依止根本識,五識隨緣現,
根本識に依止して、五識は縁に随って現ず。
或俱或不俱,如濤波依水。
あるいは倶しあるいは倶せず。濤波の水に依るが如し。
16意識常現起,除生無想天,
意識は常に現起す。無想天に生ずるを除き、
及無心二定、睡眠與悶絕。
および無心の二定・睡眠と悶絶。
論曰:「根本識」者,阿陀那識,染、淨諸識生根本故。「依止」者,謂前六轉識以根本識為共親依。
論に説く:「根本識」とは阿陀那識(執持識)にして、染・浄の諸識の生ずる根本なるのゆえん。「依止」とは、いわゆる前の六転識は根本識を以って共親の依と為す。
「五識」者,謂前五轉識,種類相似,故總說之。「隨緣現」言顯非常起,「緣」謂作意、根、境等緣,謂五識身內依本識,外隨作意、五根、境等眾緣和合方得現前,由此或俱或不俱起,外緣合者有頓、漸故。如水濤波隨緣多少,此等法喻廣說如經。
「五識」とはいわゆる前の五転識にして、種類相似なるがゆえに総じてそれらを説く。「縁に随って現ず」の言は常に起こるに非ざるを顯示す。「縁」とは作意・根・境等の縁を説く。いわゆる五識身は内に本識に依り、外に作意・五根・境等の衆縁の和合に随って乃ち現前するを得。これに由ってあるいは倶しあるいは倶せずして起こる。外縁の合するに頓・漸有るのゆえん。水の濤波の縁に随って多少するが如し。これらの法喩は広く説くは経の如し。
由五轉識行相麁動,所藉眾緣時多不具,故起時少,不起時多。第六意識雖亦麁動,而所藉緣無時不具,由違緣故,有時不起。第七、八識行相微細,所藉眾緣一切時有,故無緣礙令總不行。
五転識の行相は麁動にして、藉る所の衆縁は時多く具わらず。ゆえに起こる時少なく、起こらざる時多し。第六意識もまた麁動なると雖も、しかし藉る所の縁は時に具わらざる無し。違縁あるのゆえんに、時有りて起こらず。第七・八識の行相は微細にして、藉る所の衆縁は一切時に有り。ゆえに縁碍有りて総に行わざらしむる無し。
又五識身不能思慮,唯外門轉起,藉多緣,故斷時多,現行時少;第六意識自能思慮,內、外門轉,不藉多緣。唯除五位,常能現起,故斷時少,現起時多,由斯不說此隨緣現。
また五識身は思慮すること能わず。ただ外門に転じて起こりて、多くの縁を藉る。ゆえに断ずる時多く、現行の時少なし。第六意識は自ら思慮する能くして、内・外門に転じて、多くの縁を藉らず。ただ五位を除きて、常に能く現起す。ゆえに断ずる時少なく、現起の時多し。これに因ってこれを縁に随って現ずと説かず。
五位者何?
五位とは何ぞ。
「生無想」等。
「無想に生ず」等なり。
無想天者,謂修彼定,厭麁想力,生彼天中,違不恆行心及心所,想滅為首,名無想天。
無想天とは、いわゆるその定を修して、麁想を厭う力にて、彼の天中に生ず。恒行ならざる心および心所に違して、想の滅を首と為す。名づけて無想天という。
故六轉識於彼皆斷。
ゆえに六転識はそこに倶に断ず。
有義:彼天常無六識,聖教說彼無轉識故;說彼唯有有色支故;又說彼為無心地故。
一義有り:かの天は常に六識無し。聖教にそこに転識無しと説くのゆえん。そこにただ有色の支有りと説くのゆえん。またそこを無心地と説くのゆえん。
有義:彼天將命終位,要起轉識然後命終,彼必起下潤生愛故,《瑜伽論》說:「後想生已,是諸有情從彼沒」故。然說彼無轉識等者,依長時說,非謂全無。
一義有り:かの天は将に命終せんとする位に、転識を起こして然る後に命終するを要す。彼らは必ず下の潤生の愛を起こすのゆえん。《瑜伽論》に説く:「後の想の生じ已りて、是の諸有情はそこより没す」のゆえん。しかしそこに転識無し等と説くは、長時に依って説く。全く無しと説くに非ず。
有義:生時亦有轉識,彼中有必起潤生煩惱故,如餘本有,初必有轉識故。《瑜伽論》說:「若生於彼,唯入不起,其想若生,從彼沒」故,彼本有初,若無轉識,如何名入?先有後無,乃名入故。
一義有り:生ずる時もまた転識有り。そこの中有は必ず潤生の煩悩を起こすのゆえん。其余の本有の如く、初めに必ず転識有るのゆえん。《瑜伽論》に説く:「もしそこに生ぜば、ただ入りて起こらず。その想もし生ぜば、そこより没す」のゆえん。そこの本有の初め、もし転識無ければ、どうして名づけて入という。先に有りて後に無きを乃ち名づけて入というのゆえん。
〈決擇分〉言:「所有生得心、心所滅,名無想」故,此言意顯彼本有初,有異熟生轉識暫起宿因緣力,後不復生。由斯引起異熟無記分位差別,說名無想,如善引生二定名善。不爾,轉識一切不行,如何可言唯生得滅?故彼初位轉識暫起。
〈決択分〉に説く:「所有の生得の心・心所の滅するを、名づけて無想という」のゆえん。この言は意そこの本有の初めに、異熟生の転識の暫く起こる有りて、宿因縁の力にて後に復た生ぜざるを顯示す。これに由って異熟・無記の分位差別を引起して、説いて名づけて無想という。善の二定を引生するを名づけて善というが如し。然らずんば、転識は一切行わず、どうしてただ生得の滅と説くべきや。ゆえにそこの初位に転識は暫く起こる。
彼天唯在第四靜慮,下想麁動難可斷故,上無無想異熟處故。
かの天はただ第四静慮に在り。下の想は麁動にして断ずべき難きのゆえん。上は無想の異熟の処無きのゆえん。
即能引發無想定思,能感彼天異熟果故。
すなわち能く無想定を引発する思は、能くかの天の異熟果を感ずるのゆえん。
「及無心二定」者,謂無想、滅盡定,俱無六識,故名無心。
「および無心の二定」とは、いわゆる無想・滅尽定にして、倶に六識無し。ゆえに名づけて無心という。
無想定者,謂有異生伏遍淨貪,未伏上染,由出離想,作意為先,令不恆行心、心所滅,想滅為首,立無想名,令身安和,故亦名定。
無想定とは、いわゆる異生有りて遍浄の貪を伏して、未だ上染を伏せず。出離の想に由って作意を先と為して、恒行ならざる心・心所をして滅せしめ、想の滅を首と為して、無想の名を立つ。身をして安和ならしむ。ゆえにもまた名づけて定という。
修習此定,品別有三:下品修者,現法必退,不能速疾還引現前,後生彼天,不甚光淨,形色廣大,定當中夭。中品修者,現不必退,設退速疾還引現前,後生彼天,雖甚光淨,形色廣大,而不最極,雖有中夭而不決定。上品修者,現必不退,後生彼天,最極光淨,形色廣大,必無中夭,窮滿壽量後方殞沒。
この定を修習するに品別三有り。下品に修するは現法にて必ず退し、速疾に還って現前を引くこと能わず。後にかの天に生ずれば、甚だ光浄ならず、形色広大にして定まりて中夭す。中品に修するは現に必ず退せず。設し退するも速疾に還って現前を引く。後にかの天に生ずれば、甚だ光浄にして形色広大なれども、最極に非ず。中夭有ると雖もしかし決定せず。上品に修するは現に必ず退せず。後にかの天に生ずれば、最極光浄にして形色広大にして、必ず中夭無し。寿量を窮め満えて後に殞没す。
此定唯屬第四靜慮。又唯是善,彼所引故。下上地無,由前說故。
この定はただ第四静慮に属す。またただ善なり。それらの引く所なるのゆえん。下・上の地は無し。前の説く所に由るのゆえん。
四業通三,除順現受。
四業は三に通じて、順現受を除く。
有義:此定唯欲界起,由諸外道說力起故,人中慧解極猛利故。
一義有り:この定はただ欲界に起こる。諸外道の説力に由って起こるのゆえん。人中は慧解極猛利なるのゆえん。
有義:欲界先修習已,後生色界能引現前,除無想天至究竟故。
一義有り:欲界にて先に修習し已って、後に色界に生じて能く現前を引く。無想天を除きて究竟に至るのゆえん。
此由厭想、欣彼果入,故唯有漏。非聖所起。
これは想を厭い彼の果を欣って入るがゆえに、ただ有漏のみ。聖の起こす所に非ず。
滅盡定者,謂有無學或有學聖,已伏或離無所有貪,上貪不定,由止息想,作意為先,令不恆行、恆行染汙心、心所滅,立滅盡名,令身安和,故亦名定。由偏厭受、想,亦名滅彼定。
滅尽定とは、いわゆる無学あるいは有学の聖有りて、已に無所有の貪を伏しあるいは離れ、上の貪は定まらず。止息の想に由って作意を先と為して、恒行ならざる・恒行の染汚心・心所をして滅せしめて、滅尽の名を立つ。身をして安和ならしむ。ゆえにもまた名づけて定という。偏りて受・想を厭うに由って、もまた名づけて彼を滅する定という。
修習此定,品別有三:下品修者,現法必退,不能速疾還引現前;中品修者,現不必退,設退速疾還引現前;上品修者,畢竟不退。
この定を修習するに品別三有り。下品に修するは現法にて必ず退し、速疾に還って現前を引くこと能わず。中品に修するは現に必ず退せず。設し退するも速疾に還って現前を引く。上品に修するは畢竟退せず。
此定初修必依有頂,遊觀無漏為加行入,次第定中最居後故,雖屬有頂而無漏攝。若修此定已得自在,餘地心後,亦得現前。
この定は初めの修は必ず有頂に依る。無漏を遊観して加行として入る。次第定の中にて最も後に居るのゆえん。有頂に属すると雖も、しかし無漏の摂する所なり。もしこの定を修して已に自在を得れば、其余の地の心の後にもまた現前を得。
雖屬道諦而是非學非無學攝,似涅槃故。
道諦に属すると雖も、しかし是れ非学非無学の摂する所なり。涅槃に似たるのゆえん。
此定初起唯在人中,佛及弟子說力起故,人中慧解極猛利故,後上二界亦得現前,《鄔陀夷經》是此誠證,無色亦名意成天故。於藏識教未信受者,若生無色不起此定,恐無色、心成斷滅故;已信生彼亦得現前,知有藏識不斷滅故。
この定の初めの起こるはただ人中に在り。仏および弟子の説力に由って起こるのゆえん。人中は慧解極猛利なるのゆえん。後に上の二界もまた現前を得。《鄔陀夷経》は是れこれが誠証なり。無色もまた名づけて意成天というのゆえん。蔵識の教を未だ信受せざるに対して、もし無色に生じてこの定を起こさざれば、無色・心の断滅を成せんことを恐るるのゆえん。已に信じてそこに生ずるもまた現前を得。蔵識有りて断滅せざるを知るのゆえん。
要斷三界見所斷惑方起此定,異生不能伏滅有頂心、心所故,此定微妙,要證二空隨應後得所引發故。
三界の見の断ずる所の惑を断ずるを要して乃ち能くこの定を起こす。異生は有頂の心・心所を伏滅すること能わざるのゆえん。この定は微妙にして、二空を証して随応して後得の引発する所を要するのゆえん。
有義:下八地修所斷惑中,要全斷欲,餘伏或斷,然後方能初起此定,欲界惑種二性繁雜,障定強故,唯說不還、三乘無學及諸菩薩得此定故,彼隨所應生上八地皆得後起。
一義有り:下の八地の修の断ずる所の惑の中に、欲を全く断ずるを要し、其余は伏するかあるいは断じて、然る後に乃ち能く初めてこの定を起こす。欲界の惑種は二性繁雑にして定を障ること強きのゆえん。ただ不還・三乗の無学および諸菩薩はこの定を得と説くのゆえん。彼らは随所応に上の八地に生じて倶に後に起こるを得。
有義:要斷下之四地修所斷惑,餘伏或斷,然後方能初起此定,變異受俱煩惱種子障定強故,彼隨所應,生上五地,皆得後起。
一義有り:下の四地の修の断ずる所の惑を断ずるを要し、其余は伏するかあるいは断じて、然る後に乃ち能く初めてこの定を起こす。変異受に倶の煩悩種子は定を障ること強きのゆえん。彼らは随所応に上の五地に生じて倶に後に起こるを得。
若伏下惑能起此定,後不斷退生上地者,豈生上已卻斷下惑?斷亦無失,如生上者,斷下末那俱生惑故。然不還者對治力強,正潤生位不起煩惱,但由惑種潤上地生,雖所伏惑有退、不退,而無伏下生上地義,故無生上卻斷下失。
もし下の惑を伏して能くこの定を起こせば、後に断たずして退して上地に生ずるは、あに上に生じ已りて却って下の惑を断ずるや。断ずるもまた過失無し。上に生ずるの如く、下の末那の倶生惑を断ずるのゆえん。しかし不還の人は対治の力強くして、正しく生を潤す位に煩悩を起こさず。ただ惑種に由って上地の生を潤す。所伏の惑は退・不退有ると雖も、しかし下を伏して上地に生ずるの義無し。ゆえに上に生じて却って下を断ずるの過失無し。
若諸菩薩先二乘位已得滅定,後迴心者,一切位中能起此定。若不爾者,或有乃至七地滿心,方能永伏一切煩惱,雖未永斷欲界修惑,而如已斷,能起此定,論說已入遠地,菩薩方能現起滅盡定故。有從初地即能永伏一切煩惱,如阿羅漢,彼十地中皆起此定,經說菩薩前六地中亦能現起滅盡定故。
もし諸菩薩は先に二乗位に於て已に滅定を得て、後に心を回したるは、一切位の中に能くこの定を起こす。もしこの如ならざれば、あるいは乃至七地の満心にて乃ち能く一切煩悩を永伏す。未だ欲界の修惑を永断せざると雖も、しかし已に断ぜたるが如く、能くこの定を起こす。論に已に遠地に入りたる菩薩は乃ち能く滅尽定を現起すと説くのゆえん。初地より能く一切煩悩を永伏する有りて、阿羅漢の如し。彼らは十地の中に倶にこの定を起こす。経に菩薩は前の六地の中にもまた能く滅尽定を現起すと説くのゆえん。
無心「睡眠與悶絕」者,謂有極重睡眠、悶絕,令前六識皆不現行。
無心の「睡眠と悶絶」とは、いわゆる極重の睡眠・悶絶有りて、前の六識をして倶に現行せざらしむ。
疲極等緣所引身位,違前六識,故名極重睡眠,此睡眠時,雖無彼體,而由彼似彼故,假說彼名。
疲極等の縁の引く所の身位は前の六識に違す。ゆえに名づけて極重の睡眠という。この睡眠の時はそれらの体無きと雖も、しかしそれに由ってそれに似たるのゆえんに、假に彼の名を説く。
風熱等緣所引身位,亦違六識,故名極重悶絕,或此俱是觸處少分。
風熱等の縁の引く所の身位もまた六識に違す。ゆえに名づけて極重の悶絶という。あるいはこれらは倶に触処の少分なり。
除斯五位,意識恆起。
この五位を除きて意識は恒に起こる。
正死、生時亦無意識,何故但說五位不行?
正に死・生の時もまた意識無し。なんぞただ五位の不行を説くや。
有義:死、生「及」、「與」言顯。彼說非理,所以者何?但說六時名無心故,謂前五位及無餘依。應說死、生即悶絕攝,彼是最極悶絕位故,說「及」、「與」言顯五無雜。
一義有り:死・生は「及」・「与」の言に由って顯示す。彼らの説は理に合わず。何故か。ただ六時を説いて名づけて無心というのゆえん。いわゆる前の五位および無余依。まさに説くべし、死・生はすなわち悶絶の摂する所なり。それらは最極の悶絶位なるのゆえん。「及」・「与」の言を説くは五の雑無きを顯示す。
此顯六識斷已,後時依本識中自種還起,由此不說入無餘依。
これは六識の断じ已って、後時に本識の中の自種に依って還って起こるを顯示す。これに由って無余依に入ると説かず。
此五位中異生有四,除在滅定,聖唯後三,於中如來、自在菩薩唯得有一,無睡、悶故。
この五位の中に異生は四有りて滅定に在るを除く。聖はただ後の三のみ。その中の如来・自在の菩薩はただ一有るを得。睡・悶無きのゆえん。
是故八識一切有情心與末那二,恆俱轉;若起第六,則三俱轉;餘隨緣合,起一至五,則四俱轉,乃至八俱,是謂略說識俱轉義。
ゆえに八識の一切有情の心と末那の二は恒に倶に転じ、もし第六を起こせば則ち三倶転し、其余は縁に随って合して一乃至五を起こせば則ち四倶転し、乃至八倶なり。これはすなわち略く識の倶転の義を説く。
若一有情多識俱轉,如何說彼是一有情?若立有情依識多少,汝無心位應非有情?又,他分心現在前位,如何可說自分有情?然立有情依命根數或異熟識俱不違理,彼俱恆時唯有一故。
もし一の有情にて多識倶に転ぜば、どうして彼を説いて一の有情と為す。もし有情を立てて識の多少に依らば、汝の無心の位はまさに有情に非ざるべし。また他分の心の現前の位に、どうして自分の有情と説くべきや。しかし有情を立てて命根の数あるいは異熟識に依るは倶に理に違せず。それらは倶に恒時にただ一のみ有るのゆえん。
