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成唯識論 巻第一

唐 · 护法等造,玄奘译 · 第1巻 / 39

護法等の諸菩薩が造った。

仏家典籍

短いものは心経・金剛経・四十二章経・壇経から読み始められる。浄土は阿弥陀経・無量寿経・観経を見る。大乗の叙事と禅を見るなら、法華・維摩・楞厳・円覚・地蔵へ進む。

護法等菩薩造

護法等の諸菩薩が造った。

三藏法師玄奘奉詔譯

三蔵法師玄奘が詔を奉じて漢訳した。

稽首唯識性、滿、分清淨者,我今釋彼說,利樂諸有情。

唯識の性と、円満清浄の者及び随分に清浄なる者とに稽首して、私は今、彼らの説く所を解釈し、諸々の有情を利益し安楽せん。

今造此論,為於二空有迷謬者生正解故。生解為斷二重障故,由我、法執二障具生,若證二空,彼障隨斷。斷障為得二勝果故,由斷續生煩惱障故,證真解脫;由斷礙解所知障故,得大菩提。

今この論を造るのは、二空(人無我・法無我)に迷謬する人々に対して正解を生ぜしめるためである。解を生ずるのは二重の障を断ずるためである。我執・法執によって、煩悩障と所知障とが倶に生ず。もし二空を証得すれば、その二障は随って断たれる。障を断ずるのは二種の勝果を得るためである。能く生を続けしめる煩悩障を断ずるによって真解脱を証し、正解を障碍する所知障を断ずるによって大菩提を得る。本論の説く唯識とは、噛み合った名目の体系である。所依は八識(異熟たる阿頼耶識、思量たる末那識、境を了別する前六識)で、心所は心と相応し、相分・見分は自証に依って起こり、種子・薫習・三自性・二無我が全論を貫く。以下の成員は互いに錠合し、それぞれ初めて論証される時にこの体系の中での位置を点じ、逐語に夹注はしない。

又為開示謬執我、法,迷唯識者,令達二空,於唯識理如實知故。

また我・法を謬りに執して唯識に迷う人々に開示して、彼らに二空を通達せしめ、唯識の理を如実に知らしめるためである。

復有迷、謬唯識理者,或執外境如識非無;或執內識如境非有;或執諸識用別體同;或執離心無別心所。為遮此等種種異執,令於唯識深妙理中得如實解,故作斯論。

また唯識の理に迷い謬る人々がいて、あるいは外境を執して識の如く無きに非ずとし、あるいは内識を執して境の如く有りとし、あるいは諸識の作用は別なるも体は同じと執し、あるいは心を離れて別の心所無しと執する。これらの種種の異執を遮止して、人をして唯識の深妙なる理において如実の理解を得せしめるがゆえに、この論を作る。

若唯有識,云何世間及諸聖教說有我、法?

もし識のみ有るならば、どうして世間および諸々の聖教に我・法有りと説くのか。

頌曰:

頌に説く。

1由假說我、法,有種種相轉。

1 我・法を假説するにより、種種の相が転ずること有り。

彼依識所變,此能變唯三:

それらは識の変ずる所に依る。ここで能変は三種あるのみ。

2謂異熟、思量,及了別境識。

2 いわゆる異熟・思量、および境を了別する識である。

論曰:世間、聖教說有我、法,但由假立,非實有性。我謂主宰,法謂軌持。

論に曰く:世間・聖教が我・法有りと説くのは、ただ假立によるのみで、実有の自性ではない。我とは主宰を説き、法とは軌範して任持するを説く。

彼二俱有種種相轉:「我種種相」謂有情、命者等,預流、一來等。「法種種相」謂實、德、業等;蘊、處、界等。「轉」謂隨緣施設有異。

その二種は倶に種種の相が転ずる。「我の種種相」とは有情・命者等、預流・一来等を説く。「法の種種相」とは実・徳・業等、蘊・処・界等を説く。「転」とは縁に随って施設して異なること有りを説く。

如是諸相若由假說,依何得成?

このように諸々の相は假説によるならば、何に依って成立するを得るのか。

彼相皆依識所轉變而假施設。

それらの相は皆識の転変する所に依って假に施設される。

「識」謂了別,此中識言亦攝心所,定相應故。

「識」とは了別を説く。ここで識と説くのは心所も収攝する。決定して相応するがゆえに。

「變」謂識體轉似二分,相、見俱依自證起故,依斯二分施設我、法,彼二離此無所依故。

「変」とは識体が転じて二分の如く起こるを説く。相分・見分は皆自証に依って起こり、この二分に依って我・法を施設する。その二種はこれを離れれば依る所無し。

或復內識轉似外境。

あるいはまた内識が転じて外境の如く起こる。

我、法分別燻習力故,諸識生時變似我、法,此我、法相雖在內識,而由分別似外境現,諸有情類無始時來緣此執為實我、實法,如患夢者,患夢力故,心似種種外境相現,緣此執為實有外境。

我・法の分別の薫習力によって、諸識の生ずる時、我の如く法の如く変起す。この我・法の相は内識に在ると雖も、分別によって外境の如く顕現し、諸有情類は無始以来これに縁して実我・実法と執する。病む者・夢見る者が、病・夢の力によって、心に種種の外境の相が現ずるが如く、これに縁して実に外境有りと執する。

愚夫所計實我、實法都無所有,但隨妄情而施設故,說之為假。內識所變似我、似法雖有,而非實我、法性,然似彼現,故說為假。

愚夫の計度する所の実我・実法は皆無所有で、ただ妄情に随って施設されるのみ。ゆえにそれを假と説く。内識の変ずる所の似我・似法は有ると雖も、実我・実法の性ではない。しかしそれらの如く顕現するがゆえに、假と為す。

外境隨情而施設故,非有如識;內識必依因緣生故,非無如境,由此便遮增、減二執。

外境は情に随って施設され、識の如き有ではない。内識は必ず因縁に依って生じ、境の如き無ではない。これによって増・減の二執を遮止する。

境依內識而假立故,唯世俗有;識是假境所依事故,亦勝義有。

境は内識に依って假立され、ただ世俗有である。識は假境の所依の事であり、また勝義有である。

云何應知實無外境,唯有內識似外境生?

どうして実に外境無く、ただ内識が外境の如く生ずることを知るべきか。

實我、實法不可得故。

実我・実法が求めて得られないからである。

如何實我不可得耶?

どうして実我は求めて得られないのか。

諸所執我,略有三種:一者執我體常、周遍,量同虛空,隨處造業受苦、樂故;二者執我,其體雖常,而量不定,隨身大小有卷、舒故;三者執我體常、至細,如一極微,潛轉身中作事業故。

諸々の所執の我は、略して三種ある。一つには我体は常にして周遍し、量は虚空に同じく、処に随って業を造り苦・楽を受けると執する。二つには我を執して、その体は常なれども量は定まらず、身の大小に随って巻・舒ありとする。三つには我体は常にして極細で、一極微の如く、身中に潜転して事業を作すと執する。

初且非理,所以者何?執我常、遍,量同虛空,應不隨身受苦、樂等;又常、遍故,應無動轉,如何隨身能造諸業?又所執我,一切有情為同為異?若言同者,一作業時一切應作,一受果時一切應受,一得解脫時一切應解脫,便成大過;若言異者,諸有情我更相遍故,體應相雜,又一作業、一受果時,與一切我處無別故,應名一切所作、所受。若謂作、受各有所屬無斯過者,理亦不然,業、果及身,與諸我合,屬此非彼不應理故;一解脫時一切應解脫,所修、證法一切我合故。

第一のものはすこぶる理に合わない。何故か。我が常・遍で量が虚空に同じと執すれば、身に随って苦・楽等を受くべからず。また常・遍なるがゆえに、動転無かるべし。どうして身に随って諸々の業を造ることを能くせん。また所執の我は、一切有情と同じか異なるか。もし同じと説かば、一つが業を作す時一切が作すべく、一つが果を受くる時一切が受くべく、一つが解脱を得る時一切が解脱を得べくして、便ち大過を成す。もし異なると説かば、諸有情の我は更互に相遍して、体はまさに相雑あるべく、また一つが業を作し一つが果を受くる時、一切我の処所と分別無く、名づけて一切の所作・所受と為すべし。もし作・受各々属する所有りと説けばこの過無しとも、理また然らず。業・果および身が諸我と合して、これに属し彼に属せざるは理に合わず。一つが解脱する時一切が解脱すべし。修する所・証する所の法が一切我と合するが故に。

中亦非理,所以者何?我體常住,不應隨身而有舒、卷,既有舒、卷如槖籥風,應非常住,又我隨身應可分析,如何可執我體一耶?故彼所言如童竪戲。

中間のものもまた理に合わない。何故か。我体が常住ならば、身に随って舒・卷あるべからず。すでに舒・卷有りて風箱(橐籥)の中の風の如ければ、まさに常住ならざるべし。また我が身に随えばまさに分析すべく、どうして我体は一と執するを得ん。ゆえに彼らの説く所は孩童の戯れの如し。

後亦非理,所以者何?我量至小如一極微,如何能令大身遍動?若謂雖小而速巡身,如旋火輪,似遍動者,則所執我非一、非常,諸有往來,非常、一故。

後のものもまた理に合わない。何故か。我の量が極小にして一極微の如ければ、どうして大身を遍く動かさしむるを得ん。もし小なりと雖も迅速に身を巡り、旋火輪の如く遍動の如しと説かば、則ち所執の我は一に非ず常に非ず。およそ往来有る者は、則ち常に非ず一に非ず。

又所執我,復有三種:一者即蘊;二者離蘊;三者與蘊非即非離。

また所執の我には更に三種ある。一つには即ち蘊。二つには蘊を離る。三つには蘊と非即非離。

初即蘊我,理且不然,我應如蘊非常、一故;又內諸色定非實我,如外諸色有質礙故;心、心所法亦非實我,不恆相續,待眾緣故;餘行、餘色亦非實我,如虛空等,非覺性故。

第一の即蘊の我は理にすこぶる合わず。我はまさに蘊の如く常に非ず一に非ざるべし。また内の諸色は決定して実我に非ず。外の諸色が質碍有るが如し。心・心所法もまた実我に非ず。恒に相続せず、衆縁を待つがゆえに。其余の行・其余の色もまた実我に非ず。虚空等の如く、覚性に非ざればなり。

中離蘊我,理亦不然,應如虛空,無作、受故。

中間の蘊を離れた我も理に合わず。まさに虚空の如く、作も受も無かるべし。

後俱非我,理亦不然,許依蘊立,非即、離蘊,應如瓶等,非實我故。又既不可說有為、無為,亦應不可說是我、非我。

後の倶非の我も理に合わず。蘊に依って安立を許すも、即・離の蘊に非ざれば、まさに瓶等の如く実我に非ざるべし。またすでに有為・無為と説くべからざれば、また我・非我とも説くべからざるべし。

故彼所執實我不成。

ゆえに彼らの執する所の実我は成立しない。

又諸所執實有我體,為有思慮?為無思慮?若有思慮,應是無常,非一切時有思慮故;若無思慮,應如虛空,不能作業,亦不受果。故所執我,理俱不成。

また諸々の所執の実有の我体は、思慮有りや、それとも思慮無しや。もし思慮有れば、まさに無常なるべし。一切の時に思慮有るに非ざるが故に。もし思慮無ければ、まさに虚空の如く、業を作すこと能わず、また果を受けず。ゆえに所執の我は、両辺ともに理が成立しない。

又諸所執實有我體,為有作用?為無作用?若有作用,如手足等,應是無常。若無作用,如兔角等,應非實我,故所執我,二俱不成。

また諸々の所執の実有の我体は、作用有りや、それとも作用無しや。もし作用有れば、手足等の如く、まさに無常なるべし。もし作用無ければ、兎角等の如く、まさに実我に非ざるべし。ゆえに所執の我は両辺ともに成立しない。

又諸所執實有我體,為是我見所緣境不?若非我見所緣境者,汝等云何知實有我?若是我見所緣境者,應有我見非顛倒攝,如實知故。若爾,如何執有我者所信至教皆毀我見,稱讚無我,言無我見能證涅槃;執著我見,沈淪生死。豈有邪見能證涅槃,正見翻令沈淪生死?

また諸々の所執の実有の我体は、我見の縁ずる境であるか否か。もし我見の縁ずる境に非ずんば、汝らどうして実に我有るを知る。もし我見の縁ずる境ならば、まさに我見は顛倒の摂に非ざるべし。如実に知るが故に。もし然らば、どうして我有りと執する人の信ずる至教が皆我見を毀斥し、無我を讃称し、無我見は涅槃を証すること能くし、我見に執着すれば生死に沈淪すと説く。あに邪見有りて涅槃を証し、正見が反って人をして生死に沈淪せしめんや。

又諸我見不緣實我,有所緣故,如緣餘心;我見所緣定非實我,是所緣故,如所餘法。是故我見不緣實我,但緣內識變現諸蘊,隨自妄情,種種計度。

また諸々の我見は実我に縁せず。縁ずる所有るが故に、其余の心に縁ずるが如し。我見の縁ずる所は決定して実我に非ず。縁ずる所なるが故に、其余の法の如し。ゆえに我見は実我に縁せず、ただ内識の変現する諸蘊に縁して、自らの妄情に随い、種種に計度す。

然諸我執略有二種:

しかして諸々の我執は略して二種ある。

一者俱生;二者分別。

一つには俱生。二つには分別。

俱生我執無始時來虛妄燻習,內因力故,恆與身俱;不待邪教及邪分別,任運而轉,故名俱生。

俱生の我執は無始以来虚妄に薫習し、内因の力によって恒に身と倶に在り。邪教および邪分別を待たずして任運に転ず。ゆえに名づけて俱生という。

此復二種:一、常相續,在第七識,緣第八識,起自心相,執為實我;二、有間斷,在第六識,緣識所變五取蘊相,或總、或別,起自心相,執為實我。

これまた二種ある。一、常に相続して第七識に在り、第八識に縁して自心相を生起し、実我と執す。二、間断有りて第六識に在り、識の変ずる五取蘊の相に縁し、あるいは総に、あるいは別に、自心相を生起して実我と執す。

此二我執,細故難斷,後修道中,數數修習勝生空觀,方能除滅。

この二種の我執は細なるがゆえに断じ難し。後に修道の中において、数々殊勝の生空観を修習して、乃ち除滅すること能くす。

分別我執亦由現在外緣力故,非與身俱,要待邪教及邪分別然後方起,故名分別,唯在第六意識中有。

分別の我執はまた現在の外縁の力に由って、身と倶に在らず。邪教および邪分別を待って然る後に起こる。ゆえに名づけて分別という。ただ第六意識の中にのみ在り。

此亦二種:一、緣邪教所說蘊相,起自心相,分別、計度,執為實我;二、緣邪教所說我相,起自心相,分別、計度,執為實我。

これもまた二種ある。一、邪教の説く蘊相に縁して自心相を生起し、分別・計度して実我と執す。二、邪教の説く我相に縁して自心相を生起し、分別・計度して実我と執す。

此二我執麁故易斷,初見道時,觀一切法生空真如,即能除滅。

この二種の我執は麁なるがゆえに断じ易し。初めて道を見る時、一切法の生空真如を観ずれば、すなわち除滅すること能くす。

如是所說一切我執,自心外蘊,或有、或無;自心內蘊,一切皆有。是故我執皆緣無常五取蘊相,妄執為我。

かくのごとく説く一切の我執は、自心の外の蘊はあるいは有りあるいは無し。自心の内の蘊は一切あり。ゆえに我執は皆無常の五取蘊の相に縁して、妄りに我と執す。

然諸蘊相,從緣生故,是如幻有;妄所執我,橫計度故,決定非有。故契經說:苾芻當知,世間沙門、婆羅門等所有我見,一切皆緣五取蘊起。

しかして諸蘊の相は縁より生じ、如幻の有なり。妄りに執する所の我は横に計度するがゆえに、決定して非有なり。ゆえに契経に説く:苾芻(比丘)はまさに知るべし、世間の沙門・婆羅門等の所有の我見は、一切五取蘊に縁して起こると。

實我若無,云何得有憶、識、誦、習、恩、怨等事?所執實我既常無變,後應如前,是事非有;前應如後,是事非無。以後與前,體無別故。若謂我用,前後變易,非我體者,理亦不然。用不離體,應常有故;體不離用,應非常故。然諸有情,各有本識,一類相續,任持種子,與一切法更互為因,燻習力故,得有如是憶、識等事。故所設難,於汝有失,非於我宗。

実我無からば、どうして憶・識・誦・習・恩・怨等の事有るを得ん。所執の実我はすでに常にして変無し。後はまさに前の如く、この事は非有。前はまさに後の如く、この事は無からず。後と前とは体に分別無きが故に。もし我の用が前後変易するも我の体に非ずと説かば、理また然らず。用は体を離れず、まさに常有なるべし。体は用を離れず、まさに非常なるべし。しかして諸有情は各々本識有りて、一類相続し、種子を任持して、一切法と更互に因と為る。薫習の力によって、乃ちかくのごとき憶・識等の事有り。ゆえに設けたる難は汝らに失有りて、我が宗には在らず。

若無實我,誰能造業?誰受果耶?所執實我,既無變易,猶如虛空,如何可能造業、受果?若有變易,應是無常。然諸有情心、心所法因緣力故,相續無斷,造業、受果,於理無違。

もし実我無からば、誰か業を造らん。誰か果を受けんや。所執の実我はすでに変易無きがゆえに、虚空の如く、どうして能く業を造り果を受けん。もし変易有れば、まさに無常なるべし。しかして諸有情の心・心所法は因縁の力によって相続断たず、業を造り果を受くること、理において違背せず。

我若實無,誰於生死輪迴諸趣?誰復厭苦求趣涅槃?所執實我,既無生滅,如何可說生死輪迴?常如虛空,非苦所惱,何為厭捨求趣涅槃?故彼所言常為自害。然有情類,身、心相續,煩惱、業力輪迴諸趣,厭患苦故,求趣涅槃。

我もし実に無からば、誰か生死輪廻して諸趣せん。また誰か苦を厭い涅槃に趣らん。所執の実我はすでに生滅無きがゆえに、どうして生死輪廻と説くべけん。常にして虚空の如く、苦の悩ます所に非ず。なんぞ厭捨して涅槃に趣らん。ゆえに彼らの説く所は常に自ら自を害う。しかして有情の類は身・心相続して、煩悩・業の力にて諸趣を輪廻し、苦を厭患して涅槃に趣る。

由此故知定無實我,但有諸識無始時來前滅後生,因果相續,由妄燻習,似我相現,愚者於中妄執為我。

これに由って故に決定して実我無く、ただ諸識が無始以来前滅後生して因果相続し、妄薫習に由って我相の如く現ずるを知る。愚者はその中において妄りに我と執す。

如何識外實有諸法不可得耶?

どうして識の外に実有の諸法は求めて得られないと知るか。

外道、餘乘所執外法,理非有故。

外道および余乗の所執の外法は、理において有に非ざるが故に。

外道所執云何非有?

外道の所執はどうして有に非ずや。

且數論者執我是思,受用薩埵、剌闍、答摩所成大等二十三法,然大等法三事合成,是實非假,現量所得。

且く説く、数論(印度の数論派)は我を執して思と為し、薩埵・剌闍・答摩(喜・憂・暗の三徳)の成す所の大等二十三法を受用すと。しかして大等の法は三事より合成して、実にして假に非ず、現量の得る所なりと。

彼執非理,所以者何?

彼らの執は理に合わない。何故か。

大等諸法,多事成故,如軍、林等,應假非實,如何可說現量得耶?又大等法,若是實有,應如本事,非三合成。

大等の諸法は多事より成り、軍・林等の如く、まさに假にして実に非ざるべし。どうして現量の得と説くべけん。また大等の法もし実有ならば、まさに本事の如く、三の合成に非ざるべし。

薩埵等三,即大等故,應如大等,亦三合成,轉變非常,為例亦爾。又三本事,各多功能,體亦應多,能、體一故。三體既遍,一處變時,餘亦應爾,體無別故。許此三事體、相各別,如何和合共成一相?不應合時變為一相,與未合時,體無別故。若謂三事體異相同,便違己宗體、相是一,體應如相,冥然是一,相應如體,顯然有三,故不應言三合成一。

薩埵等の三はすなわち大等なれば、まさに大等の如く、また三の合成にして、転変は常に非ず、例を作すもまたかくの如し。また三の本事は各々多功能有りて、体もまた多なるべし。能と体とは一なるが故に。三体すでに遍ければ、一処変ずる時其余もまたかくあるべし。体に分別無きが故に。この三事は体・相各別と許すならば、どうして和合して共に一相を成ぜん。合すべからざる時に変じて一相と為るに、未合の時と体に分別無からば。もし三事は体異なり相同じと説かば、便ち自宗の体・相は一と説くに背き、体はまさに相の如く冥然として一、相はまさに体の如く顕然として三あるべし。ゆえに三が合して一を成すと説くべからず。

又三是別,大等是總,總、別一故,應非一、三。此三變時,若不和合成一相者,應如未變,如何現見是一色等?若三和合成一相者,應失本別相,體亦應隨失。不可說三各有二相:一、總;二、別。總即別故,總亦應三,如何見一?若謂三體各有三相,和雜難知,故見一者,既有三相,寧見為一?復如何知三事有異?若彼一一皆具三相,應一一事能成色等,何所𨵗少,待三和合,體亦應各三,以體即相故,又大等法皆三合成,展轉相望,應無差別,是則因、果、唯量、諸大、諸根差別皆不得成。若爾,一根應得一切境,或應一境一切根所得,世間現見情與非情、淨穢等物,現、比量等,皆應無異,便為大失。

また三は別にして大等は総なり。総・別は一なれば、まさに一に非ず三に非ざるべし。これらの三が変ずる時、もし和合して一相を成ぜざれば、まさに未変の如く、どうして現に一色等と見る。もし三が和合して一相を成ぜば、まさに本来の別相を失うべく、体もまた随って失わるべし。三が各々二相有り、一は総、二は別と説くべからず。総はすなわち別なれば、総もまたまさに三なるべし。どうして一を見ん。もし三体各々三相有りて和雑して知り難きがゆえに一を見ると説かば、すでに三相有れば、どうして一と為るを見ん。またどうして三事に異有るを知る。もし彼ら一一が皆三相を具えば、まさに一一の事が能く色等を成すべし。還って何を欠きて三の和合を待たん。体もまた各々まさに三なるべし。体はすなわち相なるが故に。また大等の法は皆三合成なれば、展転に相望みてまさに差別無かるべし。かくのごとく因・果・唯量・諸大・諸根の差別は皆成立せず。もし然らば、一根はまさに一切境を得べく、あるいは一境はまさに一切根の得る所なるべし。世間に現に有情と非情、浄・穢等の物、現量・比量等を見れば、皆まさに異無かるべくして、便ち大失と為る。底本の「𨵗」字は、義は缺けるなり。

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