成唯識論 巻第一
故彼所執實法不成,但是妄情計度為有。
ゆえに彼らの所執の実法は成立せず。ただ妄情の計度して有りと為すのみ。
勝論所執實等句義,多實有性,現量所得。
勝論(印度の勝論派)の所執の実等の句義は、多くは実有の性にして、現量の得る所なりと。
彼執非理。
彼らの執は理に合わない。
所以者何?
何故か。
諸句義中且常住者,若能生果,應是無常,有作用故,如所生果;若不生果,應非離識實有自性,如兔角等。諸無常者,若有質礙,便有方分,應可分析,如軍、林等,非實有性;若無質礙,如心、心所,應非離此有實自性。
諸句義の中に且く常住のを説かば、もし果を生ずること能わば、まさに無常なるべし。作用有るが故に、生ずる所の果の如し。もし果を生ぜざれば、まさに識を離れた実有の自性に非ざるべし。兎角等の如し。諸々の無常のものは、もし質碍有れば便ち方分有りて、まさに分析すべく、軍・林等の如く、実有の性に非ず。もし質碍無ければ、心・心所の如く、まさにこれを離れて実自性有るに非ざるべし。
又彼所執地、水、火、風應非有礙,實句義攝,身根所觸故,如堅、濕、煖、動。即彼所執堅、濕、煖等,應非無礙,德句義攝,身根所觸故,如地、水、火、風,地、水、火三,對青色等,俱眼所見,准此應責。故知無實地、水、火、風與堅、濕等各別有性,亦非眼見實地、水、火。
また彼らの所執の地・水・火・風はまさに碍有るに非ざるべし。実句義の摂なるが故に、身根の触る所なるが故に、堅・湿・暖・動の如し。すなわち彼らの所執の堅・湿・暖等はまさに无碍に非ざるべし。徳句義の摂なるが故に、身根の触る所なるが故に、地・水・火・風の如し。地・水・火の三は青色等に対して皆眼の見る所なれば、これに準じてまさに責難すべし。ゆえに実の地・水・火・風と堅・湿等と各別の性有ること無く、また眼に実の地・水・火を見ずと知る。
又彼所執實句義中,有礙、常者,皆有礙故,如麁地等,應是無常。諸句義中,色根所取,無質礙法,應皆有礙,許色根取故,如地、水、火、風。又彼所執非實德等,應非離識有別自性,非實攝故,如石女兒,非有實等,應非離識有別自性,非有攝故,如空花等。
また彼らの所執の実句義の中に、碍有り常のは皆碍有りて、麁地等の如く、まさに無常なるべし。諸句義の中に色根の取る所・質碍無き法は、まさに皆碍有るべし。色根の取を許すが故に、地・水・火・風の如し。また彼らの所執の実に非ざる徳等は、まさに識を離れて別自性有るに非ざるべし。実の摂に非ざるが故に、石女の児の如し。非有の実等はまさに識を離れて別自性有るに非ざるべし。有の摂に非ざるが故に、空花等の如し。
彼所執有,應離實等無別自性,許非無故,如實、德等。若離實等,應非有性,許異實等故,如畢竟無等。如有非無,無別有性,如何實等有別有性?若離有法,有別有性,應離無法,有別無性,彼既不然,此云何爾?故彼有性唯妄計度。
彼らの所執の有は、実等を離れて別の自性無かるべし。無に非ずと許すが故に、実・徳等の如し。もし実等を離れば、まさに有性に非ざるべし。実等に異なるを許すが故に、畢竟無等の如し。有は並びて無に非ざるが如く、別の有性無し。どうして実等に別の有性有らん。もし有法を離れて別の有性有れば、まさに無法を離れて別の無性有るべし。彼辺すでに然らざれば、ここにどうして然らん。ゆえに彼らの有性はただ妄計度なり。
又彼所執實、德、業性,異實、德、業,理定不然,勿此亦非實、德、業性,異實等故,如德、業等。又應實等非實等攝,異實等性故,如德、業、實等。地等諸性對地等體,更相徵詰,准此應知。如實性等,無別實等性,實等亦應無別實性等。若離實等有實等性,應離非實等,有非實等性。彼既不爾,此云何然?故同異性唯假施設。
また彼らの所執の実・徳・業性が実・徳・業に異なるは、理において決定して然らず。このをもって実・徳・業性に非ざるを得しむること莫れ。実等に異なるが故に、徳・業等の如し。また実等は実等の摂に非ざるべし。実等性に異なるが故に、徳・業・実等の如し。地等の諸性が地等の体に対して更相に征詰すること、これに準じてまさに知るべし。実性等の如く、別の実等性無ければ、実等もまた別の実性等無かるべし。もし実等を離れて実等性有れば、まさに非実等を離れて非実等性有るべし。彼辺すでに然らざれば、ここにどうして然らん。ゆえに同異性はただ假施設なり。
又彼所執和合句義定非實有,非有、實等諸法攝故,如畢竟無。彼許實等現量所得,以理推徵尚非實有,況彼自許和合句義非現量得,而可實有?設執和合是現量境,由前理故,亦非實有。
また彼らの所執の和合句義は決定して実有に非ず。有・実等の諸法の摂に非ざるが故に、畢竟無の如し。彼らは実等を現量の得る所と許すも、理を用いて推征して尚ほ実有に非ず。いわんや彼ら自ら和合句義を現量の得に非ずと許して、しかも実有たり得るをや。たとい和合を執して現量の境とするも、前の理に由ってもまた実有に非ず。
然彼實等,非緣離識實有自體現量所得,許所知故,如龜毛等。又緣實智,非緣離識實句自體現量智攝,假合生故,如德智等。廣說乃至緣和合智,非緣離識和合自體現量智攝,假合生故,如實智等。
しかして彼らの実等は、並びて識を離れた実有自体に縁する現量の得る所に非ず。所知と許すが故に、亀毛等の如し。また実に縁する智は、並びて識を離れた実句自体に縁する現量智の摂に非ず。假合して生ずるが故に、徳智等の如し。広く説けば乃至和合に縁する智も、並びて識を離れた和合自体に縁する現量智の摂に非ず。假合して生ずるが故に、実智等の如し。
故勝論者實等句義,亦是隨情妄所施設。
ゆえに勝論の者の実等句義も、また情に随って妄りに施設せしなり。
有執有一大自在天,體實、遍、常,能生諸法。
人有りて一の大自在天有り、体は実・遍・常にして能く諸法を生ずと執す。
彼執非理,所以者何?
彼らの執は理に合わない。何故か。
若法能生,必非常故;諸非常者,必不遍故;諸不遍者,非真實故。體既常、遍,具諸功能,應一切處、時,頓生一切法。待欲或緣方能生者,違一因論。或欲及緣亦應頓起,因常有故。
もし法が能く生ずれば必ず常ならず。諸々の常ならざるは必ず遍せず。諸々の遍せざるは真実に非ず。体すでに常・遍にして諸功能を具えば、まさに一切の処・時において頓に一切法を生ずべし。欲または縁を待って乃ち生ずるを得るは、一因論に背く。あるいは欲および縁もまたまさに頓起なるべし。因は常有なるが故に。
餘執有一大梵、時、方、本際、自然、虛空、我等,常住、實有,具諸功能,生一切法,皆同此破。
其余に一の大梵・時・方・本際・自然・虚空・我等が常住・実有にして諸功能を具えて一切法を生ずと執するは、皆此の破に同じ。
有餘偏執,明論聲常,能為定量,表詮諸法;有執一切聲皆是常,待緣顯發,方有詮表。
其余の偏執有りて、明論(吠陀)の声は常にして能く定量と為り、諸法を表詮すと。人有りて一切の声は皆常にして、縁を待って顕発し、乃ち詮表有りと執す。
彼俱非理,所以者何?
彼らは皆理に合わない。何故か。
且明論聲,許能詮故,應非常住,如所餘聲。
且く明論の声を説かば、能く詮すと許すがゆえに、まさに常住に非ざるべし。其余の声の如し。
餘聲亦應非常聲體,如瓶、衣等,待眾緣故。
其余の声もまたまさに常の声体に非ざるべし。瓶・衣等の如く、衆縁を待つが故に。
有外道執地、水、火、風、極微實、常,能生麁色,所生麁色不越因量,雖是無常,而體實有。
外道有りて地・水・火・風の極微を執して実・常にして、麁色を生ずること能くし、生ぜられる麁色は因の量を越えず、無常なりと雖も体は実有と執す。
彼亦非理,所以者何?
彼らもまた理に合わない。何故か。
所執極微,若有方分,如蟻行等,體應非實。若無方分,如心、心所應不共聚生麁果色,既能生果,如彼所生,如何可說極微常住?
所執の極微は、もし方分有れば、蟻行等の如く、体はまさに実に非ざるべし。もし方分無ければ、心・心所の如くまさに共に聚して麁果色を生生ぜざるべし。すでに果を生ずること能わば、それが生ずる所の如く、どうして極微は常住と説くべけん。
又所生果不越因量,應如極微,不名麁色,則此果色應非眼等色根所取,便違自執。若謂果色,量德合故,非麁似麁,色根能取。所執果色,既同因量,應如極微,無麁德合;或應極微亦麁德合;如麁果色,處無別故。若謂果色遍在自因,因非一故,可名麁者,則此果色體應非一,如所在因,處各別故。既爾,此果還不成麁,由此亦非色根所取。若果多分合故成麁,多因極微合應非細,足成根境,何用果為?既多分成,應非實有,則汝所執,前後相違。
また生ぜられる果は因の量を越えざれば、まさに極微の如く、名づけて麁色と言わざるべし。然らばこの果色はまさに眼等の色根の取る所に非ざるべくして、便ち自らの所執に背く。もし果色は量・徳の合にして、麁に非ずして麁の如く、色根能く取ると説かば、所執の果色はすでに因量に同じければ、まさに極微の如く、麁徳の合無かるべく、あるいは極微もまたまさに麁徳合なるべし。麁果色の如く、処所に分別無きが故に。もし果色は自因に遍在して、因は一に非ず、名づけて麁とすべしと説かば、則ちこの果色の体はまさに一に非ざるべし。所在の因の如く、処各別なるが故に。すでに然らば、この果はなお麁を成せず。これに由ってまた色根の取る所に非ず。もし果は多分の合によって麁を成すならば、多因の極微の合はまさに細に非ざるべくして、足らく根境を成さん。還って果を用いて何をかせん。すでに多分より成れば、まさに実有に非ざるべし。然らば汝らの所執は前後相違す。
又果與因俱有質礙,應不同處,如二極微。若謂果、因體相受入,如沙受水,藥入鎔銅。誰許沙、銅體受水、藥?或應離、變,非一、非常,又麁色果體若是一,得一分時應得一切,彼、此一故,彼應如此,不許違理,許便違事,故彼所執進、退不成,但是隨情虛妄計度。
また果と因とは皆質碍有りて、まさに同処ならざるべし。二の極微の如し。もし果・因は体相に受入すると説かば、沙の水を受け、薬の熔銅に入るが如し。誰か沙・銅の体が水・薬を受けるを許す。あるいはまさに離れ、まさに変ずべくして、一に非ず常に非ず。また麁色の果体もし一なれば、一分を得る時まさに一切を得べし。彼・此は一なるが故に、彼はまさに此の如くあるべし。許さざればすなわち理に違し、許せばすなわち事に違す。ゆえに彼らの所執は進・退ともに成立せず。ただ情に随って虚妄に計度す。
然諸外道品類雖多,所執有法不過四種:
しかして諸外道の品類は多きと雖も、所執の有法は四種に過ぎず。
一、執有法與有等性其體定一,如數論等。彼執非理,所以者何?勿一切法即有性故,皆如有性,體無差別,便違三德、我等體異,亦違世間諸法差別。又若色等即色等性,色等應無青、黃等異。
一、有法と有等性とその体が定まって一と執す。数論等の如し。彼らの執は理に合わない。何故か。一切法をして有性ならしむること莫れ。皆有性の如ければ、体に差別無くして、便ち三徳・我等の体異なるに背き、また世間の諸法差別に背く。またもし色等はすなわち色等性ならば、色等はまさに青・黄等の異無かるべし。
二、執有法與有等性其體定異,如勝論等。彼執非理,所以者何?勿一切法非有性故,如已滅無,體不可得,便違實等自體非無,亦違世間現見有物。又若色等非色等性,應如聲等非眼等境。
二、有法と有等性とその体が定まって異なると執す。勝論等の如し。彼らの執は理に合わない。何故か。一切法をして有性ならざらしむること莫れ。すでに滅せる無の如く体得るべからざれば、便ち実等の自体は無に非ざるに背き、また世間に現に物有るを見るに背く。またもし色等は色等性に非ざれば、まさに声等の如く眼等の境に非ざるべし。
三、執有法與有等性亦一、亦異,如無慚等,彼執非理,所以者何?一、異同前一、異過故;二相相違,體應別故,一、異體同俱不成故。勿一切法皆同一體,或應一、異是假非實,而執為實理定不成。
三、有法と有等性と亦一・亦異と執す。無慚等(ここでは一類の外道を指す)の如し。彼らの執は理に合わない。何故か。一・異は前の一・異の過に同じ。二相は相違して、体まさに別あるべし。一・異の体は同じくて両辺ともに成立せず。一切法をして皆同一体ならしめ、あるいは一・異は假にして実に非ずと雖も、実と執するは理において決定して成立せず。
四、執有法與有等性非一、非異,如邪命等。彼執非理,所以者何?非一、異執同異、一故。非一、異言為遮為表?若唯是表,應不雙非;若但是遮,應無所執;亦遮、亦表應互相違;非表、非遮應成戲論。又非一、異,違世共知有一、異物,亦違自宗色等有法決定實有。
四、有法と有等性と非一・非異と執す。邪命等(邪命外道)の如し。彼らの執は理に合わない。何故か。非一・異の執は異・一に同じ。非一・異の言は遮なりや表なりや。もし只だ表ならば、まさに双非ならざるべし。もし只だ遮ならば、まさに執する所無かるべし。亦遮・亦表ならばまさに互相違すべし。非表・非遮ならばまさに戯論を成ずべし。また非一・異は、世人の共に一・異の物有るを知るに背き、また自宗の色等有法が決定して実有なるに背く。
是故彼言唯矯避過,諸有智者勿謬許之。
ゆえに彼らの言はただ矯揉して過を避けるのみ。諸々の智者有らば謬りてこれを許すこと莫れ。
餘乘所執,離識實有色等諸法,如何非有?
余乗の所執の、識を離れて実有の色等諸法は、どうして有に非ずや。
彼所執色、不相應行及諸無為,理非有故。
彼らの所執の色・不相応行および諸無為は、理において有に非ざるが故に。
且所執色總有二種:一者有對,極微所成;二者無對,非極微成。
且く所執の色を説けば総に二種ある。一つには有対にして極微の成す所。二つには無対にして極微成に非ず。
彼有對色定非實有,能成極微非實有故。
その有対色は決定して実有に非ず。能成の極微は実有に非ざるが故に。
謂諸極微,若有質礙,應如瓶等,是假非實。
いわゆる諸極微は、もし質碍有れば、まさに瓶等の如く、假にして実に非ざるべし。
若無質礙,應如非色,如何可集成瓶、衣等?
もし質碍無ければ、まさに非色の如く、どうして集めて瓶・衣等を成ずべけん。
又諸極微,若有方分,必可分析,便非實有。
また諸極微は、もし方分有れば、必ず分析すべくして、便ち実有に非ず。
若無方分,則如非色,云何和合承光、發影?日輪才舉照柱等時,東、西兩邊光影各現,承光、發影處既不同,所執極微定有方分。又,若見、觸壁等物時,唯得此邊不得彼分。既和合物即諸極微,故此極微必有方分。又諸極微隨所住處,必有上、下、四方差別,不爾便無共和、集義。或相涉入應不成麁,由此極微定有方分。執有對色即諸極微,若無方分,應無障隔。若爾,便非障礙有對。
もし方分無ければ、すなわち非色の如く、どうして和合して光を承え影を発せん。日輪が纔かに挙がりて柱等を照らす時、東・西の両辺に光影各々現ず。光を承え影を発する処すでに同じからざれば、所執の極微は決定して方分有り。また見て壁等の物に触るる時、ただ此辺を得て彼辺の分を得ず。和合物はすなわち諸極微なるがゆえに、これらの極微は必ず方分有り。また諸極微は住する所に随って、必ず上・下・四方の差別有り。然らざれば便ち共和・集の義無し。あるいは相涉入すればまさに麁を成ぜざるべし。これに由って極微は決定して方分有り。有対色を執してすなわち諸極微なれば、もし方分無ければ、まさに障隔無かるべし。もし然らば、便ち障碍有対に非ず。
是故汝等所執極微必有方分,有方分故,便可分析,定非實有。
ゆえに汝らの所執の極微は必ず方分有り。方分有るがゆえに、便ち分析すべくして、決定して実有に非ず。
故有對色實有不成。
ゆえに有対色の実有は成立しない。
五識豈無所依、緣色?
五識にあに所依・所縁の色無からんや。
雖非無色,而是識變。謂識生時。內因緣力,變似眼等、色等相現,即以此相為所依、緣。
無色に非ざると雖も、しかして識の変なり。いわゆる識の生ずる時、内の因縁力にて、眼等・色等の如き相を変起して現じ、すなわちこの相を用いて所依・所縁と為す。
然眼等根非現量得,以能發識,比知是有,此但功能,非外所造。外有對色理既不成,故應但是內識變現,發眼等識,名眼等根,此為所依,生眼等識。
しかして眼等の根は現量の得に非ず。能く識を発するがゆえに、比して有りと知る。これはただ功能にして、並びて外の造る所に非ず。外の有対色の理すでに成立せざれば、ゆえにまさにただ内識の変現して、眼等の識を発するを、名づけて眼等の根と為す。このを所依と為して、眼等の識を生ず。
此眼等識外所緣緣,理非有故,決定應許自識所變為所緣緣,謂能引生似自識者,汝執彼是此所緣緣。
この眼等識の外の所縁縁は、理において有に非ず。決定して自識の変ずる所を許して所縁縁と為すべし。いわゆる能く自識の如きを引生する者を、汝らが彼を執してここでの所縁縁と為すなり。
非但能生,勿因緣等亦名此識所緣緣故。
並びてただ能生に非ず。因縁等をもってもまたこの識の所縁縁と名づけしむること莫れ。
眼等五識了色等時,但緣和合,似彼相故,非和合相異諸極微有實自體。分析彼時,似彼相識定不生故,彼和合相既非實有,故不可說是五識緣,勿第二月等能生五識故。
眼等の五識が色等を了する時、ただ和合に縁ず。それが相の如くするが故に、並びて和合の相が諸極微に異なりて実自体有るに非ず。それを分析する時、その相の如き識は決定して生ぜず。その和合の相すでに実有に非ざれば、ゆえに五識の縁と説くべからず。第二月等をして能く五識を生ぜしむるを得しむること莫れ。
非諸極微共和合位可與五識各作所緣,此識上無極微相故,非諸極微有和合相,不和合時無此相故。非和合位與不合時,此諸極微體相有異,故和合位如不合時,色等極微非五識境。
並びて諸極微の共和合位にて五識と各々所縁を作すべきに非ず。この識の上に極微の相無きが故に。並びて諸極微に和合相有るに非ず。和合せざる時にこの相無きが故に。並びて和合位と不合の時とに、これらの極微の体相に異有るに非ず。ゆえに和合位は不合の時の如く、色等の極微は五識の境に非ず。
有執色等一一極微不和集時,非五識境,共和集位,展轉相資,有麁相生,為此識境,彼相實有,為此所緣。彼執不然,共和集位與未集時,體相一故。瓶、甌等物極微等者,緣彼相識應無別故;共和集位一一極微,各各應捨微、圓相故;非麁相識緣細相境,勿餘境識緣餘境故;一識應緣一切境故。
人有りて色等の一一極微は和集せざる時は五識の境に非ざるも、共和集位にては展転相資して麁相生じ、この識の境を作す。それが相は実有にして、ここでの所縁を作すと執す。彼らの執は然らず。共和集位と未集の時とは体相これ一なり。瓶・甌等の物と極微等と、それらに縁する相の識はまさに分別無かるべし。共和集位の一一極微は各々まさに微・円の相を捨つべし。並びて麁相の識は細相の境に縁するに非ず。余境に縁する識をして余境に縁せしむるを得しむること莫れ。一識はまさに一切境に縁すべし。
許有極微,尚致此失,況無識外真實極微。
極微有りと許して尚ほこの失を致す。いわんや識の外に真実の極微無きをや。
由此定知,自識所變似色等相為所緣緣,見託彼生,帶彼相故。然識變時,隨量大、小,頓現一相,非別變作眾多極微合成一物。為執麁色有實體者,佛說極微,令其除析,非謂諸色實有極微。諸瑜伽師以假想慧,於麁色相漸次除析,至不可析,假說極微,雖此極微猶有方分,而不可析,若更析之便似空現,不名為色,故說極微是色邊際。
これに由って決定して知る、自識の変ずる所の色等の如き相を所縁縁と為す。見はそれに依托して生じ、その相を帯ぶ。しかして識の変ずる時、量の大・小に随って頓に一相を現ず。別に変じて衆多の極微を作して一物を合成するに非ず。麁色に実体有りと執する人の為に、仏は極微を説いて、彼らに除析せしめたり。諸色に実に極微有りと説くに非ず。諸瑜伽師は假想慧を用いて、麁色の相において漸次に除析し、析るべからざるに至りて、假に極微を説く。この極微はなお方分有ると雖も析るべからず。もし更にそれを析れば空の如く現じて、名づけて色と言わず。ゆえに極微を説いて色の辺際と為す。
由此應知,諸有對色,皆識變現,非極微成。
これに由ってまさに知るべし、諸々の有対色は皆識の変現にして、並びて極微成に非ず。
餘無對色是此類故,亦非實有,或無對故,如心、心所,定非實色。諸有對色現有色相,以理推究,離識尚無,況無對色現無色相,而可說為真實色法?
其余の無対色はこの類にして、もまた実有に非ず。あるいは無対に因りて、心・心所の如く、決定して実色に非ず。諸々の有対色は現に色相有るも、理を用いて推究すれば、識を離れて尚ほ無し。いわんや無対色は現に色相無きを、しかも説いて真実の色法と為すを得んや。
表、無表色豈非實有?
表色・無表色はあに実有に非ずや。
此非實有,所以者何?
これは実有に非ず。何故か。
且身表色若是實有,以何為性?
且く身表色を説かば、もし実有ならば、何を以って性と為す。
若言是形,便非實有,可分析故;長等極微不可得故。若言是動,亦非實有,才生即滅無動義故;有為法滅不待因故;滅若待因應非滅故。若言有色非顯、非形,心所引生,能動手等,名身表業,理亦不然。此若是動,義如前破;若是動因,應即風界,風無表示,不應名錶;又觸不應通善、惡性,非顯、香、味,類觸應知。
もし形と説かば、便ち実有に非ず。分析すべきが故に。長等の極微は求めて得られず。もし動と説かば、もまた実有に非ず。纔かに生じて即ち滅して動の義無し。有為法の滅は因を待たず。滅もし因を待てば、まさに滅に非ざるべし。もし色有りて顕に非ず形に非ず、心の引生する所にして、能く手等を動かすを、名づけて身表業と為すと説かば、理また然らず。このもし動なれば、義は前に破りしが如し。もし動の因なれば、まさに風界ならん。風は表示無くして、まさに表と名づくべからず。また触はまさに善・悪性に通性に通ぜざるべくして、顕・香・味に非ざるに、触に類してまさに知るべし。
故身表業定非實有。
ゆえに身表業は決定して実有に非ず。
然心為因,令識所變手等色相,生滅相續,轉趣餘方,似有動作。表示心故,假名身表。
しかして心を因と為して、識の変ずる所の手等の色相をして、生滅相続して、余方に転趣するに、動作有るが如し。心を表示するに因って、假に名づけて身表という。
語表亦非實有聲性,一剎那聲無詮表故,多念相續便非實故,外有對色,前已破故。
語表もまた実有の声性に非ず。一刹那の声は詮表無く、多念相続すれば便ち実に非ず。外の有対色は前にすでに破れり。
