成唯識論巻第四
謂觀德、失、俱非境中,由定令心專注不散,依斯便有決擇智生。
いわゆる徳・失・倶非の境の中にて、定に由って心を専注して散ぜざらしめ、これに依って便ち決択の智を生ず。
「心專注」言,顯所欲住,即便能住,非唯一境。不爾,見道歷觀諸諦,前後境別,應無等持。
「心専注」の言は、欲する所に住すれば、便ち能く住するを顯示す。並びて唯一の境に非ず。然らずんば、見道は諸諦を歴観して前後の境別れれば、まさに等持無かるべし。
若不繫心,專注境位,便無定起,故非遍行。
もし心を繫せずして、境に専注する位なれば、便ち定は起こらず。ゆえに遍行に非ず。
有說:爾時亦有定起,但相微隱。應說誠言。
人の説く有り:かの時もまた定は起こる。ただその相は微隠なり。まさに誠言と説くべし。
若定能令心等和合,同趣一境,故是遍行,理亦不然,是觸用故。
もし定は能く心等を和合して、同じく一境に趣らしむ。ゆえに是れ遍行なりと説かば、理また然らず。是れ触の用なるが故に。
若謂此定,令剎那頃,心不易緣,故遍行攝,亦不應理;一剎那心,自於所緣,無易義故。
もしこの定は刹那の頃に心をして縁を易えざらしむ。ゆえに遍行の摂する所なりと説かば、もまた理に応えず。一刹那の心は自ら所縁に於て易の義無きが故に。
若言由定,心取所緣,故遍行攝,彼亦非理;作意令心取所緣故。
もし定に由って心は所縁を取る。ゆえに遍行の摂する所なりと説かば、彼らもまた理に合わず。作意は心をして所縁を取らしむるが故に。
有說:此定體即是心。經說為心學,心一境性故。彼非誠證,依定攝心,令心一境,說彼言故。
人の説く有り:この定の体はすなわち心なり。経に心学と説き、心の一境性と為す。それは誠の証に非ず。定に依って心を摂して、心を一境ならしめて、それらの言を説く。
根、力、覺支、道支等攝。如念、慧等,非即心故。
根・力・覚支・道支等の摂する所なり。念・慧等の如く、並びてすなわち心に非ず。
云何為慧?於所觀境,簡擇為性,斷疑為業。
何をか慧と謂う。観ずる所の境に対して、簡択を性と為し、疑を断ずるを業と為す。
謂觀德、失、俱非境中,由慧推求,得決定故。於非觀境,愚昧心中,無簡擇故,非遍行攝。
いわゆる徳・失・倶非の境の中にて、慧に由って推求して決定を得。観境に非ざるに対しては、愚昧の心の中に簡択無し。ゆえに遍行の摂する所に非ず。
有說:爾時,亦有慧起,但相微隱。天愛寧知?對法說為大地法故;諸部對法,展轉相違,汝等如何執為定量?
人の説く有り:かの時もまた慧は起こる。ただその相は微隠なり。天愛はどうして知らん。対法は大地法と説く。諸部の対法は展転相違す。汝らはどうして定量と執せん。
唯觸等五,經說遍行。說十非經,不應固執。然欲等五,非觸等故,定非遍行,如信、貪等。
唯だ触等の五のみ、経に遍行と説く。十と説くは経に非ず。固く執すべからず。しかし欲等の五は触等に非ず。決定して遍行に非ず。信・貪等の如し。
有義:此五定互相資。隨一起時,必有餘四。
一義有り:この五は定めて互相資す。随って一の起こる時、必ず其余の四有り。
有義:不定。《瑜伽》說此四一切中,無後二故。又說此五,緣四境生,所緣、能緣,非定俱故。
一義有り:定まらず。《瑜伽》にこの四一切の中に後の二無しと説く。またこの五は四境に縁じて生じ、所縁・能縁は並びて定めて倶に非ずと説く。
應說此五,或時起一:謂於所樂,唯起希望;或於決定,唯起印解;或於曾習,唯起憶念;或於所觀,唯起專注。謂愚昧類,為止散心,雖專注所緣,而不能簡擇。世共知彼有定無慧。
まさに説くべし、この五はあるいは時に一を起こす。いわゆる楽する所に対してただ希望を起こし、あるいは決定に対してただ印解を起こし、あるいは曽習に対してただ憶念を起こし、あるいは観ずる所に対してただ専注を起こす。いわゆる愚昧の類は散心を止むる為に、所縁に専注すると雖も、しかし能く簡択せず。世人は共に彼らは定有りて慧無きを知る。
彼加行位,少有聞、思,故說等持,緣所觀境;或依多分,故說是言。如「戲忘天」,專注一境,起貪、瞋等,有定無慧,諸如是等,其類寔繁。
彼らの加行位には少しばかり聞・思有り。ゆえに等持は観ずる所の境に縁ずと説く。あるいは多分に依ってこの言を説く。「戲忘天」の如く、一境に専注して貪・瞋等を起こして、定有りて慧無し。かくのごとき類はその類実に繁し。
或於所觀,唯起簡擇,謂不專注,馳散推求。
あるいは観ずる所に対してただ簡択を起こす。いわゆる専注せずして、馳散して推求す。
或時起二:謂於所樂、決定境中,起欲、勝解;或於所樂、曾習境中,起欲及念。如是乃至於所觀境,起定及慧,合有十二。
あるいは時に二を起こす。いわゆる楽する所・決定の境中に欲・勝解を起こし、あるいは楽する所・曽習の境中に欲および念を起こす。かくのごとく乃至観ずる所の境に対して定および慧を起こし、合して十二有り。
或時起三:謂於所樂、決定、曾習,起欲、解、念;如是乃至於曾、所觀起念、定、慧,合有十三。
あるいは時に三を起こす。いわゆる楽する所・決定・曽習に対して欲・解・念を起こす。かくのごとく乃至曽・観ずる所に対して念・定・慧を起こし、合して十三有り。
或時起四:謂於所樂、決定、曾習、所觀境中,起前四種;如是乃至於定、曾習、所觀境中,起後四種,合有五四。
あるいは時に四を起こす。いわゆる楽する所・決定・曽習・観ずる所の境中に前の四種を起こす。かくのごとく乃至定・曽習・観ずる所の境中に後の四種を起こし、合して五四有り。
或時起五:謂於所樂、決定、曾習、所觀境中,具起五種。
あるいは時に五を起こす。いわゆる楽する所・決定・曽習・観ずる所の境中に、具に五種を起こす。
如是於四,起欲等五,總、別合有三十一句。
かくのごとく四に対して欲等の五を起こすに、総・別合して三十一句有り。
或有心位,五皆不起,如非四境,率爾墮心,及藏識俱,此類非一。
あるいは心位有りて五とも起こらず。非四境・率爾堕心、および蔵識に倶の如く、この類は一に非ず。
第七、八識,此別境五,隨位有無,如前已說。
第七・八識はこの別境の五は位に随って有無す。前の如く已に説きたり。
第六意識諸位容俱,依轉、未轉,皆不遮故。
第六意識は諸位に倶を容す。転・未転に依りて、倶に遮らず。
有義:五識,此五皆無;緣已得境,無希望故;不能審決,無印持故;恆取新境,無追憶故;自性散動,無專注故;不能推度,無簡擇故。
一義有り:五識はこの五は皆無し。已得の境に縁じて希望無く、審決すること能わざれば印持無く、恒に新境を取りて追憶無く、自性は散動にして専注無く、推度すること能わざれば簡択無し。
有義:五識,容有此五:雖無於境增上希望,而有微劣樂境義故;於境雖無增上審決,而有微劣印境義故;雖無明記曾習境體,而有微劣念境類故。
一義有り:五識はこの五有ることを容す。境に対する増上の希望無きと雖も、しかし微劣の境を楽する義有り。境に対する増上の審決無きと雖も、しかし微劣の境を印する義有り。曽習の境体を明記する無きと雖も、しかし微劣の境の類を念ずる義有り。
雖不作意繫念一境,而有微劣專注義故。遮等引故,說性散動,非遮等持,故容有定。
作意して一境に繫念するを作さざると雖も、しかし微劣の専注の義有り。等引を遮って性散動と説く。並びて等持を遮るに非ず。ゆえに定有ることを容す。
雖於所緣不能推度,而有微劣簡擇義故。由此聖教說眼、耳通,是眼、耳識相應智性。餘三準此有慧無失。
所縁に対して推度すること能わざると雖も、しかし微劣の簡択の義有り。これに由って聖教に眼・耳の通を説いて、是れ眼・耳識に相応の智性なり。其余の三はこれに准じて慧有りて失無し。
未自在位,此五或無;得自在時,此五定有。
未だ自在せざる位にはこの五はあるいは無し。自在を得る時にはこの五は定めて有り。
樂觀諸境,欲無減故;印境勝解,常無減故;憶習曾受,念無減故;又佛五識,緣三世故;如來無有不定心故;五識皆有作事智故。
諸境を観るを楽して欲は減せず。境を印する勝解は常に減せず。曾受を憶習して念は減せず。また仏の五識は三世に縁ず。如来は不定の心無し。五識は皆作事の智有り。
此別境五,何受相應?
この別境の五は何の受と相応するや。
有義:欲三,除憂、苦受,以彼二境,非所樂故。餘四通四,唯除苦受,以審決等,五識無故。
一義有り:欲は三にて、憂・苦受を除く。かの二境は楽する所に非ざるが故に。其余の四は四に通じて、ただ苦受を除く。審決等は五識に無きが故に。
有義:一切,五受相應。論說憂根於無上法,思慕愁慼,求欲證故。純受苦處,希求解脫,意有苦根,前已說故。論說貪愛,憂、苦相應。此貪愛俱,必有欲故。苦根既有,意識相應,審決等四,苦俱何咎?又五識俱,亦有微細印境等四,義如前說。
一義有り:一切は五受に相応す。論に憂根は無上の法に対して思慕愁戚して、証せんと求めて欲すと説く。純受苦の処は解脱を希求す。意に苦根有るは前に已に説きたり。論に貪愛は憂・苦に相応すと説く。この貪愛に倶には必ず欲有り。苦根すでに有れば、意識に相応して、審決等の四は苦に倶して何の咎かあらん。また五識に倶にもまた微細の印境等の四有り。義は前の説くが如し。
由斯欲等,五受相應。
これに因って欲等は五受と相応す。
此五復依性、界、學等諸門分別,如理應思。
この五は更に性・界・学等の諸門に依って分別す。理の如くまさに思択すべし。
成唯識論巻第五
成唯識論巻第六
護法等菩薩造
護法等の菩薩造。
三藏法師玄奘奉詔譯
三蔵法師玄奘詔を奉じて翻訳す。
已說遍行、別境二位。善位心所,其相云何?
已に遍行・別境の二位を説きたり。善位の心所の行相はいかん。
頌曰:
頌に説く:
11善謂信、慚、愧、無貪等三根,
善とは信・慚・愧・無貪等の三根、
勤、安、不放逸、行捨及不害。
勤・安・不放逸・行捨および不害を説く。
論曰:唯善心俱,名善心所。謂信、慚等,定有十一。
論に説く:ただ善心と倶にするを名づけて善心所という。いわゆる信・慚等は決定して十一有り。
云何為信?於實、德、能,深忍、樂、欲,心淨為性;對治不信,樂善為業。
何をか信と謂う。実・徳・能に対して、深く忍し・楽しみ・欲して、心浄を性と為す。不信に対治して善を楽するを業と為す。
然信差別,略有三種:一、信實有,謂於諸法實事、理中,深信忍故;二、信有德,謂於三寶真淨德中,深信樂故;三、信有能,謂於一切世、出世善,深信有力,能得能成,起希望故。
しかし信の差別は略して三種有り。一、実有りと信ず。いわゆる諸法の実事・理に対して深く信じて忍するゆえん。二、徳有りと信ず。いわゆる三宝の真浄の徳に対して深く信じて楽するゆえん。三、能有りと信ず。いわゆる一切の世・出世の善に対して深く信じて力有りて、得る能・成す能有りて、希望を生起するゆえん。
由斯對治彼不信心,愛樂證修世、出世善。
これに因ってかの不信の心に対治して、世・出世の善を愛楽して証修す。
忍謂勝解,此即信因;樂欲謂欲即是信果。礭陳此信,自相是何?
忍とは勝解を説く。これすなわち信の因なり。楽欲とは欲を説く。すなわち信の果なり。確然としてこの信を陳ずれば、自相とは何ぞ。
豈不適言,心淨為性?
剛し已に説かざりしか、心浄を性と為すと。
此猶未了,彼「心淨」言,若淨即心,應非心所;若令心淨,慚等何別?心俱淨法,為難亦然。
これは未だ了知せず。かの「心浄」の言は、もし浄はすなわち心なれば、まさに心所に非ざるべし。もし心をして浄ならしむれば、慚等と何の分別かあらん。心と倶の浄法は難を設くるもまたこの如し。
此性澄清,能淨心等。以心勝故,立心淨名。如水清珠,能清濁水。慚等雖善,非淨為相。此淨為相,無濫彼失。又諸染法,各別有相。唯有不信,自相渾濁,復能渾濁餘心、心所。如極穢物,自穢穢他。信正翻彼,故淨為相。
この性は澄清にして能く心等を浄す。心の殊勝なるに因って「心浄」の名を立つ。水清の珠の濁水を清むるが能くするが如し。慚等は善なると雖も、並びて浄を以って相と為すに非ず。これは浄を以って相と為す。それらと相濫の過失無し。また諸染法は各々別相有り。唯だ不信のみ、自相渾濁して、また能く其余の心・心所を渾濁せしむ。極穢の物の自ら穢して他をも穢すが如し。信は正にそれに翻対す。ゆえに浄を以って相と為す。
有說:信者愛樂為相。應通三性,體應即欲。又應苦、集非信所緣。
人の説く有り:信は愛楽を以って相と為す。まさに三性に通ずべくして、体はまさにすなわち欲ならん。またまさに苦・集は信の縁ずる所に非ざるべし。
有執信者隨順為相。應通三性,即勝解、欲。若印順者,即勝解故。若樂順者,即是欲故。離彼二體,無順相故。由此應知,心淨是信。
人有りて信は随順を以って相と為すと執す。まさに三性に通ずべくして、すなわち勝解・欲ならん。もし印順のはすなわち勝解のゆえん。もし楽順のはすなわち欲のゆえん。かの二体を離れて順相のゆえん無し。これに由ってまさに知るべし、心浄は是れ信なり。
云何為慚?依自、法力,崇重賢、善為性;對治無慚,止息惡行為業。謂依自、法尊、貴增上,崇重賢、善,羞恥過惡,對治無慚,息諸惡行。
何をか慚と謂う。自・法力に依って、賢・善を崇重するを性と為す。無慚に対治して悪行を止息するを業と為す。いわゆる自・法の尊・貴の増上に依って、賢・善を崇重して、過悪を羞恥し、無慚に対治して諸悪行を止息す。
云何為愧?依世間力,輕拒暴惡為性;對治無愧,止息惡行為業。謂依世間訶、厭增上,輕拒暴惡,羞恥過罪,對治無愧,息諸惡業。
何をか愧と謂う。世間力に依って、暴悪を軽拒するを性と為す。無愧に対治して悪行を止息するを業と為す。いわゆる世間の訶責・厭離の増上に依って、暴悪を軽拒して、過罪を羞恥し、無愧に対治して諸悪業を止息す。
羞恥過惡是二通相;故諸聖教,假說為體。
過悪を羞恥するはこの二の通相なり。ゆえに諸聖教は假に体と説く。
若執羞恥,為二別相,應慚與愧,體無差別。則此二法定不相應,非受、想等有此義故。若待自、他,立二別者,應非實有,便違聖教。若許慚、愧實而別起,復違論說十遍善心。
もし羞恥を執してこの二の別相と為さば、まさに慚と愧とは体に差別無かるべし。然らばこの二法は決定して相応せず。受・想等にこの義有るのゆえんに非ず。もし自・他を待ってこの二の分別を立てば、まさに実有に非ざるべし。便ち聖教に違背す。もし慚・愧は実有にして生起を分別すと許せば、また論説に違背す。十は善心に遍す。
崇重、輕拒若二別相,所緣有異,應不俱生。二失既同,何乃偏責?誰言二法所緣有異?不爾,如何?善心起時,隨緣何境,皆有崇重善,及輕拒惡義。故「慚」與「愧」,俱遍善心,所緣無別。豈不我說亦有此義?汝執「慚」、「愧」自相既同,何理能遮前所設難?
崇重・軽拒もしこの二の別相なれば、所縁は異有りて、まさに倶生せざるべし。二の失はすでに同じければ、なんぞ偏りて一辺を責む。誰かこの二法は所縁に異有りと説く。然らずんばいかん。善心の生起する時、何れの境に縁ずるに随っても、皆善を崇重しおよび悪を軽拒するの義有り。ゆえに「慚」・「愧」は皆善心に遍して、所縁は分別無し。あに我もまたこの義有りと説くに非ずや。汝は「慚」・「愧」の自相はすでに同じと執す。何の理有りてか前の設難する所を遮るを得ん。
然聖教說:「顧自、他者」,自法名自,世間名他。或即此中,崇拒善惡,於己益損,名自、他故。
しかし聖教に説く:「自・他を顧みる」とは、自・法を名づけて自といい、世間を名づけて他という。あるいはすなわちここに、善を崇して悪を拒み、自己の益・損に対して、名づけて自・他というのゆえん。
「無貪等」者,等無瞋、痴。此三名根,生善勝故。三不善根,近對治故。
「無貪等」とは、等しく無瞋・無癡を取る。この三を名づけて根という。善を生ずるに殊勝なるのゆえん。三不善根に対して近き対治たるのゆえん。
