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成唯識論巻第四

唐 · 护法等造,玄奘译 · 第19巻 / 39

「餘三」定是樂、喜、憂根,以彼必成現行捨故。

「其余の三」は決定して楽・喜・憂根なり。彼らは必ず捨を成じて現行するが故に。

豈不客捨彼定不成?

あに客捨にして彼らは定めて成ぜざらんや。

寧知彼文,唯說客受?應不說彼定成意根,彼六客識有時無故。不應彼論唯說客受,通說意根,無異因故。

どうしてかの文はただ客受を説くと知る。まさに彼らは定めて意根を成ずと説かざるべし。かの六客識は時有りて無きが故に。まさにかの論はただ客受を説きて、意根を通説するに非ざるべし。異因無きが故に。

又若彼論依客受說,如何說彼定成八根?

またもしかの論は客受に依って説くと言わば、どうして彼らは定めて八根を成ずと説かん。

若謂五識不相續故,定說憂根為第八者,死、生、悶絕寧有憂根?

もし五識は相続せざるがゆえに、定めて憂根を説いて第八と為すと言わば、死・生・悶絶はどうして憂根有らん。

有執苦根為第八者,亦同此破。

人有りて苦根を第八と執す。もまたこれに同じく破る。

設執一形為第八者,理亦不然,形不定故。彼惡業招,容無形故。彼由惡業,令五根門恆受苦故,定成眼等。必有一形,於彼何用?非於無間大地獄中,可有希求婬欲事故。

たとえ一形を第八と執すも、理また然らず。形は定まらざるが故に。彼らは悪業の招く所にして、形無きを容す。彼らは悪業に由って五根門をして恒に苦を受けしめ、定めて眼等を成ず。必ず一形有りて彼らに対して何の用か有らん。並びて無間大地獄の中に婬欲の事を希求すべき無し。

由斯第八定是捨根,第七、八識捨相應故。

これに由って第八は決定して捨根なり。第七・八識は捨に相応するが故に。

如極樂地,意悅名樂,無有喜根。故極苦處,意迫名苦,無有憂根。

極楽地の如く、意の悦を名づけて楽と為して喜根無し。ゆえに極苦の処は意の迫を名づけて苦と為して憂根無し。

故「餘三」言,定憂、喜、樂。

ゆえに「其余の三」の言は定めて憂・喜・楽なり。

餘處說彼有等流樂,應知彼依隨轉理說。或彼通說:餘雜受處,無異熟樂,名純苦故。

其余の処に彼らに等流の楽有りと説くは、まさに彼らは転理に随って説くと知るべし。あるいは彼らは通説す:其余の雑受の処は異熟の楽無くして、名づけて純苦という。

然諸聖教,意地慼受,名憂根者,依多分說,或隨轉門,無相違過。

しかし諸聖教は意地の戚受を名づけて憂根というは、多分に依って説き、あるいは転門に随う。相違の過無し。

《瑜伽論》說:生地獄中諸有情類,異熟無間有異熟生,苦、憂相續。又說:地獄尋、伺憂俱。一分鬼趣,傍生亦爾者,亦依隨轉門。

《瑜伽論》に説く:地獄中に生ずる諸有情類は、異熟無間に異熟生有りて苦・憂相続す。また説く:地獄は尋・伺に憂倶なり。一分の鬼趣・傍生もまたこの如し。もまた転門に随って依る。

又彼苦根,意識俱者,是餘憂類,假說為憂。

またかの苦根の意識に倶なるは、其余の憂の類にして、假に憂と説く。

或彼苦根,損身心故,雖苦根攝,而亦名憂。如近分喜,益身心故,雖是喜根,而亦名樂。《顯揚論》等,具顯此義。然未至地定無樂根,說彼唯有十一根故。

あるいはかの苦根は身・心を損し、苦根の摂する所なると雖も、もまた名づけて憂という。近分の喜の如く、身・心を益し、喜根なると雖も、もまた名づけて楽という。《顯揚論》等は具にこの義を顯す。しかし未至地は定めて楽根無し。彼らはただ十一根有りと説くが故に。

由此應知,意地慼受,純受苦處,亦苦根攝。

これに由ってまさに知るべし、意地の戚受は純受苦の処にてもまた苦根の摂する所なり。

此等聖教,差別多門,恐文增廣,故不繁述。

これらの等の聖教は差別多門なり。文の増広を畏れて、ゆえに繁述せず。

有義:六識三受不俱,皆外門轉,互相違故。五俱意識,同五所緣,五三受俱,意亦應爾,便違正理,故必不俱。《瑜伽》等說:藏識一時與轉識相應,三受俱起者,彼依多念。如說一心,非一生滅,無相違過。

一義有り:六識の三受は倶せず。皆外門に転じて互相違す。五倶の意識は五と所縁を同じくす。五は三受倶なれば、意もまたまさに然るべし。便ち正理に違す。ゆえに必ず倶せず。《瑜伽》等に説く:蔵識は一時に転識と相応して三受倶に起こる。彼らは多念に依る。一心と説くが如く、並びて一生滅に非ず。相違の過無し。

有義:六識三受容俱。順、違、中境,容俱受故。意不定與五受同故。於偏注境,起一受故;無偏注者,便起捨故。由斯六識三受容俱。

一義有り:六識の三受は倶を容す。順・違・中の境は倶受を容す。意は定めて五と受を同じくせず。偏注の境に於て一受を起こし、偏注無きは便ち捨を起こす。これに由って六識は三受倶を容す。

得自在位,唯樂、喜、捨,諸佛已斷憂、苦事故。

自在の位を得れば、ただ楽・喜・捨のみ。諸仏は已に憂・苦の事を断ぜたるが故に。

前所略摽六位心所,今應廣顯彼差別相。

先前に略く標めし六位の心所は、今まさに広くそれらの差別相を顯すべし。

且初、二位,其相云何?

且く初・二の位のそれらの相はいかん。

頌曰:

頌に説く:

10初遍行觸等;次別境謂欲、

初めの遍行は触等。次の別境はいわゆる欲・

勝解、念、定、慧,所緣事不同。

勝解・念・定・慧にして、縁ずる所の事同じからず。

論曰:六位中初遍行心所,即觸等五,如前廣說。

論に説く:六位中の初めの遍行心所はすなわち触等の五にして、前に広く説けるが如し。

此遍行相,云何應知?

この遍行の相はどうして知らん。

由教及理,為定量故。

教および理に由って定量と為す。

此中教者,如契經言:眼、色為緣,生於眼識,三和合觸,與觸俱生有受、想、思,乃至廣說。由斯觸等四是遍行。

ここに教とは、契経に説けるが如く:眼・色を縁として眼識を生じ、三和合して触なり。触と倶に生じて受・想・思有り。乃至広く説くと。これに由って触等の四は遍行なり。

又契經說:若根不壞,境界現前,作意正起,方能生識。餘經復言:若於此作意,即於此了別。若於此了別,即於此作意。是故此二,恆共和合,乃至廣說,由此作意,亦是遍行。

また契経に説く:もし根壊れざれば、境界現前して、作意正しく起こるに、乃ち能く識を生ず。其余の経にまた説く:もしここに作意すれば、すなわちここに了別す。もしここに了別すれば、すなわちここに作意す。ゆえにこの二は恒に共和合す。乃至広く説く。これに由って作意もまた遍行なり。

此等聖教,誠證非一。

これらの等の聖教は誠の証あって一処のみに非ず。

理謂識起必有三和。彼定生觸,必由觸有。若無觸者,心、心所法,應不和合觸一境故。

理とは識の起こるに必ず三和有りと説く。それは定めて触を生ず。必ず触有るに由る。もし触無ければ、心・心所法はまさに和合して一境に触れざるべし。

作意引心令趣自境。此若無者,心應無故。

作意は心を引きて自境に趣らしむ。これもし無ければ、心はまさに無かるべし。

受能領納順、違、中境,令心等起歡、慼、捨相。無心起時,無隨一故。

受は能く順・違・中の境を領納して、心等をして歓・戚・捨の相を起こさしむ。心の起こる時に随一無し。

想能安立自境分齊。若心起時無此想者,應不能取境分齊相。

想は能く自境の分斉を安立す。もし心の起こる時にこの想無ければ、まさに境の分斉相を取ること能わざるべし。

思令心取正因等相,造作善等。無心起位,無此隨一,故必有思。

思は心をして正因等の相を取らしめて、善等を造作す。心の起こる位にこの随一無し。ゆえに必ず思有り。

由此證知,觸等五法,心起必有,故是遍行。餘非遍行,義至當說。

これに由って証知す、触等の五法は心の起こるに必ず有り。ゆえに是れ遍行なり。其余は遍行に非ざるは、義まさに説くに至る。

次別境者:謂欲至慧,所緣境事,多分不同,於六位中,次初說故。

次に別境とは、いわゆる欲より慧に至る。縁ずる所の境事は多分同じからず。六位の中にて初に次いで説く。

云何為欲?

何をか欲と謂う。

於所樂境,希望為性,勤依為業。

楽する所の境に対して、希望を性と為し、勤の依を業と為す。

有義:所樂,謂可欣境。於可欣事,欲見、聞等,有希望故。

一義有り:楽する所とは可欣の境を説く。可欣の事に対して、見・聞等を欲して、希望有り。

於可厭事,希彼不合,望彼別離,豈非有欲?

可厭の事に対して、それが合せざるを希い、それが別離するを望む。あに欲有るに非ざるや。

此但求彼不合離時,可欣自體,非可厭事。

これはただそれが合し離れざる時に、可欣の自体を求む。並びて可厭の事に非ず。

故於可厭及中容境,一向無欲。緣可欣事,若不希望,亦無欲起。

ゆえに可厭および中容の境に対しては、一向に欲無し。可欣の事に縁じて、もし希望せざれば、もまた欲は起こらず。

有義:所樂,謂所求境。於可欣、厭,求合、離等,有希望故。於中容境,一向無欲。緣欣、厭事,若不希求,亦無欲起。

一義有り:楽する所とは求むる所の境を説く。可欣・厭に対して、合・離等を求めて、希望有り。中容の境に対しては一向に欲無し。欣・厭の事に縁じて、もし希求せざれば、もまた欲は起こらず。

有義:所樂,謂欲觀境,於一切事,欲觀察者,有希望故。若不欲觀,隨因境勢,任運緣者,即全無欲。

一義有り:楽する所とは観せんと欲する境を説く。一切の事に対して観察せんと欲するは、希望有り。もし観せんと欲せざれば、因境の勢に随って任運に縁ずるは、便ち全く欲無し。

由斯理趣,欲非遍行。

これらの理趣に由って、欲は遍行に非ず。

有說:要由希望境力,諸心、心所方取所緣,故經說「欲為諸法本」。

人の説く有り:希望の境力に由って、諸心・心所は乃ち所縁を取るを要す。ゆえに経に「欲は諸法の本と為る」と説く。

彼說不然。心等取境,由作意故。諸聖教說,作意現前能生識故。曾無處說由欲能生心、心所故。

彼らの説は然らず。心等の境を取るは作意に由る。諸聖教に説く、作意は現前して能く識を生ず。曽て処有りて欲に由って能く心・心所を生ずと説かず。

如說諸法,愛為根本,豈心、心所皆由愛生故?說欲為諸法本者,說欲所起一切事業。或說善欲,能發正勤。由彼助成一切善事,故論說此勤依為業。

諸法は愛を以って根本と為すと説くが如く、あに心・心所は皆愛に由って生ずるや。欲を説いて諸法の本と為すとは、欲の起こす所の一切の事業を説く。あるいは善欲を説いて能く正勤を発す。それに由って一切の善事を助成す。ゆえに論にこの勤の依を業と為すと説く。

云何勝解?於決定境,印持為性,不可引轉為業。

何をか勝解と謂う。決定の境に対して、印持を性と為し、引転すべからざるを業と為す。

謂邪、正等教、理、證力,於所取境,審決印持,由此異緣不能引轉。

いわゆる邪・正の教・理・証力にて、取る所の境に対して審決印持す。これに由って異縁は引転すること能わず。

故猶豫境,勝解全無。非審決心,亦無勝解。由斯勝解,非遍行攝。

ゆえに猶豫の境には勝解は全く無し。審決に非ざる心にもまた勝解無し。これに由って勝解は遍行の摂する所に非ず。

有說:心等取自境時,無拘礙故,皆有勝解。

人の説く有り:心等は自境を取る時、拘礙無きがゆえに、皆勝解有り。

彼說非理。所以者何?能不礙者,即諸法故。所不礙者,即心等故。勝發起者,根、作意故。若由此故,彼勝發起,此應復待餘,便有無窮失。

彼らの説は理に合わず。何故か。能く礙わざるはすなわち諸法なり。礙われざる所はすなわち心等なり。勝く発起するは是れ根・作意なり。もしこれに由ってそれが勝く発起せば、これはまさにまた其余を待つべくして、便ち無窮の失有り。

云何為念?於曾習境,令心明記不忘為性,定依為業。

何をか念と謂う。曽習の境に対して、心をして明記して忘れざらしむるを性と為し、定の依を業と為す。

謂數憶持曾所受境,令不忘失,能引定故;於曾未受體、類境中,全不起念。設曾所受,不能明記,念亦不生。故念必非遍行所攝。

いわゆる曽て受けたる境を数々憶持して、それを忘失せざらしめ、能く定を引く。曽て未だ受けざる体・類の境の中には、全く念を起こさず。たとえ曽て受けたる所にても、明記すること能わざれば、念もまた生ぜず。ゆえに念は必ず遍行の摂する所に非ず。

有說:心起必有念俱,能為後時憶念因故。

人の説く有り:心の起こるには必ず念倶有りて、能く後時の憶念の因と為る。

彼說非理。勿於後時有痴、信等,前亦有故。前心、心所,或想勢力,足為後時憶念因故。

彼らの説は理に合わず。後時に癡・信等有りて前もまた有らしむること莫れ。前の心・心所あるいは想の勢力は、足らく後時の憶念の因と為る。

云何為定?於所觀境,令心專注不散為性,智依為業。

何をか定と謂う。観ずる所の境に対して、心をして専注して散ぜざらしむるを性と為し、智の依を業と為す。

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