成唯識論巻第四
謂名眼識乃至意識,隨根立名,具五義故。五謂依、發、屬、助、如根,雖六識身皆依意轉,然隨不共,立意識名,如五識身,無相濫過。或唯依意,故名意識,辯識得名,心、意非例。
いわゆる名づけて眼識乃至意識というは、根に随って名を立つ。五義を具えるが故に。五とは依・発・属・助・如根を説く。六識身は皆意に依って転ずると雖も、しかし不共に随って意識の名を立つ。五識身の如く、相濫の過無し。あるいはただ意に依るがゆえに名づけて意識という。識の得名を弁ずるに、心・意は例に非ず。
或名色識乃至法識,隨境立名,順識義故。謂於六境了別名識,色等五識,唯了色等,法識通能了一切法,或能了別法,獨得法識名,故六識名無相濫失。
あるいは名づけて色識乃至法識というは、境に随って名を立つ。識の義に順うが故に。いわゆる六境に対して了別するを名づけて識という。色等の五識はただ色等を了す。法識は通じて能く一切法を了す。あるいは能く法を了別するを、独り法識の名を得。ゆえに六識の名は相濫の失無し。
此後隨境立六識名,依五色根未自在說;若得自在,諸根互用,一根發識,緣一切境;但可隨根,無相濫失。
この後に境に随って六識の名を立つるは、五色根に依るに未だ自在せざるに依って説く。もし自在を得れば、諸根互用して、一根は識を発して一切境に縁ず。ただ根に随うべきのみ。相濫の失無し。
《莊嚴論》說:如來五根,一一皆於五境轉者,且依麁顯、同類境說。
《荘厳論》に説く:如来の五根は一一皆五境に対して転ず。且く麁顯・同類の境に依って説く。
《佛地經》說:成所作智,決擇有情心行差別,起三業化、作四記等。若不遍緣,無此能故。
《仏地経》に説く:成所作智は有情の心行差別を決択して、三業の化を起こし、四記等を作す。もし遍く縁ぜざれば、この能無し。
然六轉識所依、所緣,麁顯極成,故此不說。前隨義便,已說所依;此所緣境,義便當說。
しかし六転識の所依・所縁は麁顯にして極成せり。ゆえにここに説かず。前に義便に随って已に所依を説きたり。この所縁境は義便にまさに説くべし。
次言「了境為性相」者,雙顯六識自性、行相,識以了境為自性故;即復用彼為行相故。由斯兼釋所立別名,能了別境,名為識故。
次に「境を了するを性相と為す」と説くは、双く六識の自性・行相を顯す。識は境を了するを以って自性と為すが故に。便ちまたそれを用いて行相と為す。これに由って兼ねて立つる所の別名を釈す。能く境を了別するがゆえに名づけて識という。
如契經說:眼識云何?謂依眼根,了別諸色;廣說乃至意識云何?謂依意根,了別諸法。
契経に説けるが如く:眼識とは何ぞ。いわゆる眼根に依って諸色を了別す。広く説けば乃至意識とは何ぞ。いわゆる意根に依って諸法を了別す。
彼經且說,不共所依,未轉依位,見分所了;餘所依、了,如前已說。
かの経は且く不共の所依と、未だ転依せざる位の見分の了する所とを説く。其余の所依・了は前の如く已に説きたり。
此六轉識,何性攝耶?
この六転識はいずれかの性の摂する所ぞ。
謂善、不善、俱非性攝。
いわゆる善・不善・倶非性の摂する所なり。
俱非者,謂無記,非善、不善,故名「俱非」;能為此世、他世順益,故名為善,人、天樂果,雖於此世能為順益,非於他世,故不名「善」;能為此世、他世違損,故名「不善」,惡趣苦果,雖於此世能為違損,非於他世,故非不善。於善、不善;益、損義中,不可記別,故名無記。
倶非とは、いわゆる無記にして、善・不善に非ざるがゆえに名づけて「倶非」という。能く此世・他世をして順益ならしむるがゆえに名づけて善という。人・天の楽果は此世に順益を為すを得すと雖も、他世に非ず。ゆえに名づけて「善」と言わず。能く此世・他世をして違損ならしむるがゆえに名づけて「不善」という。悪趣の苦果は此世に違損を為すを得すと雖も、他世に非ず。ゆえに不善に非ず。善・不善・益・損の義の中にて記別すべからず。ゆえに名づけて無記という。
此六轉識若與信等十一相應,是善性攝;與無慚等十法相應,不善性攝;俱不相應,無記性攝。
この六転識はもし信等の十一と相応せば、是れ善性の摂する所なり。無慚等の十法と相応せば、不善性の摂する所なり。倶に相応せざれば、無記性の摂する所なり。
有義:六識三性不俱。
一義有り:六識の三性は倶せず。
同外門轉,互相違故;五識必由意識導引,俱生、同境成善、染故。若許五識三性俱行,意識爾時應通三性。便違正理,故定不俱。
同じく外門に転じて互相違す。五識は必ず意識の導引する所に由って、倶生・同境にして善・染を成ず。もし五識は三性倶行を許せば、意識はかの時まさに三性に通ずべし。便ち正理に違す。ゆえに決定して倶せず。
《瑜伽》等說:藏識一時與轉識相應,三性俱起者,彼依多念。如說一心,非一生滅,無相違過。
《瑜伽》等に説く:蔵識は一時に転識と相応して、三性倶に起こる。彼らは多念に依る。一心と説くが如く、並びて一生滅に非ず。相違の過無し。
有義:六識三性容俱。
一義有り:六識の三性は倶を容す。
率爾、等流眼等五識,或多或少,容俱起故。
率爾・等流の眼等五識は、あるいは多あるいは少にして、倶起を容す。
五識與意,雖定俱生,而善性等,不必同故。前所設難,於此唐捐。
五識と意とは定めて倶生する雖も、しかし善性等は必ず同じからず。先前の設難する所はここに唐捐す。
故《瑜伽》說:若遇聲緣從定起者,與定相應意識俱轉,餘耳識生。非唯彼定相應意識,能取此聲。若不爾者,於此音聲,不領受故,不應出定。非取聲時,即便出定,領受聲已,若有希望,後時方出。
ゆえに《瑜伽》に説く:もし声縁に遇って定より起ちたる人は、定に相応する意識と倶に転じて、其余の耳識生ず。並びて唯だかの定に相応の意識のみ能くこの声を取るに非ず。もし然らざれば、この音声に対して領受せず。まさに出定すべからず。並びて声を取る時に便ち出定するに非ず。声を領受し已っての後、もし希望有れば、後時に乃ち出ず。
在定,耳識率爾聞聲,理應非善。未轉依者,率爾墮心,定無記故。
定に在りて耳識は率爾に声を聞くは、理まさに善に非ざるべし。未だ転依せざる人の率爾堕心は定めて無記なり。
由此誠證五俱意識,非定與五善等性同。
これに由って誠に証す、五倶の意識は並びて定めて五と善等の性を同じくするに非ず。
諸處但言五俱意識亦緣五境,不說同性。
諸処にはただ五倶の意識もまた五境に縁ずと説く。性を同じくすると説かず。
《雜集論》說:等引位中五識無者,依多分說。
《雑集論》に説く:等引位中に五識無し。多分に依って説く。
若五識中,三性俱轉,意隨偏注,與彼性同。無偏注者,便無記性。故六轉識,三性容俱。
もし五識の中に三性倶に転ずれば、意は偏注に随って、それと性を同じくす。偏注無きは便ち無記なり。ゆえに六転識は三性倶を容す。
得自在位,唯善性攝。佛色心等,道諦攝故。已永滅除戲論種故。
自在の位を得れば、ただ善性の摂する所なり。仏の色・心等は道諦の摂する所なり。已に永く戯論の種を滅除せり。
六識與幾心所相應?
六識はいくつの心所と相応するや。
頌曰:
頌に説く:
9此心所遍行、別境、善、煩惱、
この心所は遍行・別境・善・煩悩、
隨煩惱、不定,皆三受相應。
随煩悩・不定にして、皆三受に相応す。
論曰:此六轉識,總與六位心所相應,謂遍行等。
論に説く:この六転識は総じて六位の心所と相応す。いわゆる遍行等。
恆依心起,與心相應,繫屬於心,故名心所,如屬我物,立我所名。
恒に心に依って起こり、心と相応し、心に繋属す。ゆえに名づけて心所という。我に属する物の如く、我所の名を立つ。
心於所緣,唯取總相;心所於彼,亦取別相,助成心事,得心所名。如畫師、資,作模、填彩。
心は所縁に対してただ総相を取る。心所はそれに対してもまた別相を取る。心事を助成して、心所の名を得。画師・徒弟の模を作り彩を填るるが如し。
故《瑜伽》說:識能了別事之總相,作意了此所未了相。即諸心所所取別相,觸能了此可意等相,受能了此攝受等相,想能了此言說因相,思能了此正因等相。故作意等名心所法。此表心所亦緣總相。餘處復說:欲亦能了可樂事相,勝解亦了決定事相,念亦能了串習事相,定、慧亦了德失等相。
ゆえに《瑜伽》に説く:識は能く事の総相を了別し、作意はこれが未だ了せざる相を了す。すなわち諸心所の取る所の別相にして、触は能くこれが可意等の相を了し、受は能くこれが摂受等の相を了し、想は能くこれが言説の因の相を了し、思は能くこれが正因等の相を了す。ゆえに作意等を名づけて心所法という。これは心所もまた総相に縁ずるを表す。其余の処にまた説く:欲もまた能く可楽の事相を了し、勝解もまた決定の事相を了し、念もまた能く串習の事相を了し、定・慧もまた徳・失等の相を了す。
由此於境,起善、染等。
これに由って境に対して、善・染等を起こす。
諸心所法,皆於所緣,兼取別相。
諸心所法は皆所縁に対して、兼ねて別相を取る。
雖諸心所,名義無異,而有六位種類差別:
諸心所は名・義異ならざると雖も、しかし六位の種類差別有り。
謂遍行有五,別境亦五,善有十一,煩惱有六,隨煩惱有二十,不定有四。
いわゆる遍行は五有り、別境もまた五、善は十一有り、煩悩は六有り、随煩悩は二十、不定は四有り。
如是六位,合五十一。
かくのごとき六位は合して五十一なり。
一切心中,定可得故。緣別別境,而得生故。唯善心中,可得生故。性是根本煩惱攝故。唯是煩惱等流性故。於善、染等,皆不定故。
一切心の中に定めて得べし。各別の境に縁じて生ずるを得。ただ善心の中に生ずるを得べし。性は根本煩悩の摂する所なり。ただ煩悩の等流性なり。善・染等に於て皆定まらず。
然《瑜伽論》合六為五,煩惱、隨煩惱,俱是染故。復以四一切,辯五差別:謂一切性及地、時、俱。五中遍行具四一切。別境唯有初、二一切。善唯有一,謂一切地。染四皆無。不定唯一,謂一切性。
しかし《瑜伽論》は六を合して五と為す。煩悩・随煩悩は皆染なるが故に。また四一切を用いて五の差別を弁ず。いわゆる一切性および地・時・倶。五中に遍行は四一切を具え、別境はただ初・二の一切のみ有り、善はただ一のみ有りて、いわゆる一切地。染は四とも無し。不定はただ一のみ有りて、いわゆる一切性。
由此五位,種類差別。
これに由って五位の種類差別あり。
此六轉識,易脫不定,故皆容與三受相應。皆領順、違、非二相故。領順境相,適悅身心,說名樂受;領違境相,逼迫身心,說名苦受;領中容境相,於身於心,非逼非悅,名不苦樂受。
この六転識は脱し易くして定まらず。ゆえに皆三受と相応することを容す。皆順・違・非二の相を領す。順の境相を領して身心を適悦せしむるを名づけて楽受という。違の境相を領して身心を逼迫するを名づけて苦受という。中容の境相を領して、身に於ても心に於ても逼にも悦にも非ざるを名づけて不苦楽受という。
如是三受,或各分二:五識相應,說名身受,別依身故;意識相應,說名心受,唯依心故。又三皆通有漏、無漏,苦受亦由無漏起故。
かくのごとき三受はあるいは各々二に分かつ。五識に相応するを名づけて身受という。別に身に依るが故に。意識に相応するを名づけて心受という。ただ心に依るが故に。また三は皆有漏・無漏に通ず。苦受もまた無漏より起こるが故に。
或各分三:謂見所斷、修所斷、非所斷;又學、無學、非二,為三。
あるいは各々三に分かつ。いわゆる見の断ずる所・修の断ずる所・断ぜざる所。また学・無学・二に非ずを三と為す。
或總分四:謂善、不善、有覆、無覆二無記受。
あるいは総じて四に分かつ。いわゆる善・不善・有覆・無覆の二無記受。
有義:三受容各分四,五識俱起任運貪、痴,純苦趣中任運煩惱,不發業者,是無記故。
一義有り:三受は容く各々四に分かつ。五識に倶起する任運の貪・癡、純苦趣中の任運煩悩は、業を発せざるは是れ無記なり。
彼皆容與苦根相應。
彼らは皆苦根と相応することを容す。
《瑜伽論》說:若任運生一切煩惱,皆於三受現行可得。若通一切識身者,遍與一切根相應;不通一切識身者,意地一切根相應。《雜集論》說:若欲界繫任運煩惱,發惡行者,亦是不善。所餘皆是有覆無記。
《瑜伽論》に説く:もし任運に生ずる一切煩悩は、皆三受に於て現行し得。もし一切識身に通ずるは、遍く一切根と相応す。一切識身に通ぜざるは、意地にて一切根に相応す。《雑集論》に説く:もし欲界繋の任運煩悩は悪行を発するは、もまた不善なり。其余は皆有覆無記なり。
故知三受各容有四。
ゆえに三受は各々容く四有ると知る。
或總分五:謂苦、樂、憂、喜、捨。
あるいは総じて五に分かつ。いわゆる苦・楽・憂・喜・捨。
三中苦、樂各分二者,逼、悅身、心相各異故;由無分別、有分別故;尤重、輕微有差別故。不苦不樂不分二者,非逼、非悅相無異故;無分別故;平等轉故。
三中に苦・楽は各々二に分かつ。逼・悦する身・心の相各々異なるが故に。無分別・有分別に由る。尤重・軽微に差別有るが故に。不苦不楽は二に分かたず。逼にも悦にも非ざる相異無きが故に。無分別にして平等に転ずるが故に。
諸適悅受,五識相應,恆名為樂。
諸々の適悦受は五識に相応して、恒に名づけて楽という。
意識相應,若在欲界、初、二靜慮近分名喜,但悅心故。若在初、二靜慮根本,名樂、名喜,悅身、心故。若在第三靜慮近分、根本名樂,安靜尤重,無分別故。
意識に相応して、もし欲界・初・二静慮の近分に在れば名づけて喜という。ただ心を悦ばせるが故に。もし初・二静慮の根本に在れば、名づけて楽、名づけて喜という。身・心を悦ばせるが故に。もし第三静慮の近分・根本に在れば名づけて楽という。安静尤も重くして、分別無きが故に。
諸逼迫受,五識相應,恆名為苦。
諸々の逼迫受は五識に相応して、恒に名づけて苦という。
意識俱者,有義:唯憂,逼迫心故。諸聖教說:意地慼受,名憂根故。
意識に倶のは、一義有り:ただ憂のみ。心を逼迫するが故に。諸聖教に説く:意地の戚受を名づけて憂根という。
《瑜伽論》說:生地獄中諸有情類,異熟無間有異熟生,苦、憂相續。又說:地獄尋、伺憂俱,一分鬼趣,傍生亦爾。
《瑜伽論》に説く:地獄中に生ずる諸有情類は、異熟無間に異熟生有りて、苦・憂相続す。また説く:地獄は尋・伺に憂倶なり。一分の鬼趣・傍生もまたこの如し。
故知意地尤重慼受,尚名為憂,況餘輕者?
ゆえに意地の尤重の戚受は尚ほ憂と名づく。いわんや其余の軽きをや。
有義:通二,人、天中者,恆名為憂,非尤重故。傍生、鬼界名憂、名苦,雜受、純受有輕重故。㮈落迦中唯名為苦,純受尤重,無分別故。
一義有り:二に通ず。人・天中のは恒に名づけて憂という。尤重に非ざるが故に。傍生・鬼界は名づけて憂、名づけて苦という。雑受・純受に軽重有るが故に。㮈落迦(地獄)中はただ名づけて苦という。純受尤重にして分別無きが故に。
《瑜伽論》說:若任運生一切煩惱,皆於三受現行可得,廣說如前。又說:俱生薩迦耶見,唯無記性。彼邊執見,應知亦爾。此俱苦受,非憂根攝,論說憂根非無記故。又《瑜伽》說:地獄諸根,餘三現行,定不成就。純苦鬼界,傍生亦爾。
《瑜伽論》に説く:もし任運に生ずる一切煩悩は、皆三受に於て現行し得。広く説くは前の如し。また説く:倶生の薩迦耶見はただ無記性なり。かの辺執見もまさに然るべしと知る。この倶の苦受は憂根の摂する所に非ず。論に憂根は無記に非ずと説くが故に。また《瑜伽》に説く:地獄の諸根は其余の三は現行せず。定めて成就せず。純苦の鬼界・傍生もまたこの如し。
