Libo

成唯識論巻第四

唐 · 护法等造,玄奘译 · 第16巻 / 39

成唯識論巻第五

護法等菩薩造

護法等の菩薩造。

三藏法師玄奘奉詔譯

三蔵法師玄奘詔を奉じて翻訳す。

此染汙意,何受相應?

この染汚意は、何の受と相応するや。

有義:此俱唯有喜受,恆內執我,生喜愛故。

一義有り:これに倶はただ喜受のみ。恒に内に我を執して、喜愛を生ずるが故に。

有義:不然。應許喜受,乃至有頂,違聖言故。

一義有り:然らず。まさに喜受を許すべきは乃至有頂なり。聖言に違するが故に。

應說:此意四受相應。謂生惡趣憂受相應,緣不善業所引果故。生人、欲天、初、二靜慮,喜受相應,緣有喜地善業果故。第三靜慮,樂受相應,緣有樂地善業果故。第四靜慮乃至有頂,捨受相應,緣唯捨地善業果故。

まさに説くべし:この意は四受に相応す。いわゆる悪趣に生ずれば憂受に相応す。不善業の引く所の果に縁ずるが故に。人・欲天・初・二静慮に生ずれば喜受に相応す。喜有る地の善業果に縁ずるが故に。第三静慮は楽受に相応す。楽有る地の善業果に縁ずるが故に。第四静慮乃至有頂は捨受に相応す。ただ捨の地の善業果に縁ずるが故に。

有義:彼說亦不應理。此無始來,任運一類,緣內執我,恆無轉易,與變異受,不相應故。

一義有り:彼らの説もまた理に応えず。これは無始より来り任運・一類にして、内に縁じて我を執す。恒に転易無し。変異の受と相応せず。

又此末那與前藏識義有異者,皆別說之。若四受俱,亦應別說。既不別說,定與彼同。故此相應,唯有捨受。

またこの末那は前の蔵識と義の異なるは皆別にそれを説く。もし四受に倶なれば、もまたまさに別に説くべし。すでに別に説かざれば、決定してかれと同じ。ゆえにこの相応はただ捨受のみ。

未轉依位,與前所說心所相應;已轉依位,唯二十一心所俱起,謂遍行、別境各五,善十一。如第八識,已轉依位,唯捨受俱,任運轉故。恆於所緣平等轉故。

未だ転依せざる位には先前の説く所の心所と相応し、已に転依せし位にはただ二十一の心所のみ倶に起こる。いわゆる遍行・別境各々五、善十一。第八識の如く、已に転依せし位にはただ捨受に倶なり。任運に転ずるが故に。恒に所縁に対して平等に転ず。

末那心所,何性所攝?

末那の心所はいずれかの性の摂する所ぞ。

有覆無記所攝,非餘。

有覆無記の摂する所にして、其余に非ず。

此意相應四煩惱等,是染法故;障礙聖道,隱蔽自心,說名有覆;非善、不善,故名無記。

この意に相応する四煩悩等は染法にして、聖道を障碍し、自心を隠蔽す。名づけて有覆という。善・不善に非ざるがゆえに名づけて無記という。

如上二界諸煩惱等,定力攝藏,是無記攝。此俱染法,所依細故,任運轉故,亦無記攝。

上の二界の諸煩悩等の如く、定力の摂蔵する所は無記の摂する所なり。これに倶の染法は所依細かにして任運に転ず。もまた無記の摂する所なり。

若已轉依,唯是善性。

もし已に転依せば、ただ善性なり。

末那心所,何地繫耶?

末那の心所はいずれの地の繫する所ぞ。

隨彼所生,彼地所繫。

それが生ずる所に随って、彼の地の繫する所なり。

謂生欲界,現行末那相應心所,即欲界繫。乃至有頂應知亦然;任運恆緣自地藏識,執為內我,非他地故。

いわゆる欲界に生ずれば、現行の末那に相応する心所はすなわち欲界繫なり。乃至有頂もまさに然るべしと知る。任運に恒に自地の蔵識に縁じて、執して内我と為す。他地に非ず。

若起彼地異熟藏識現在前者,名生彼地;染汙末那,緣彼執我,即繫屬彼,名彼所繫。

もし彼の地の異熟蔵識を現前せしむるを名づけて彼地に生ずという。染汚の末那はそれに縁じて我を執して、便ちそれに繋属す。名づけて彼の繫する所という。

或為彼地諸煩惱等之所繫縛,名彼所繫。

あるいは彼の地の諸煩悩等の繫縛する所を、名づけて彼の繫する所という。

若已轉依,即非所繫。

もし已に転依せば、便ち繫する所に非ず。

此染汙意,無始相續,何位永斷?或暫斷耶?

この染汚意は無始より相続す。いずれの位にか永く断ず、あるいは暫く断ず。

「阿羅漢、滅定、出世道無有。」

「阿羅漢・滅定・出世道には無し。」

阿羅漢者,總顯三乘無學果位。此位染意種及現行,俱永斷滅,故說無有。學位滅定、出世道中,俱暫伏滅,故說無有。

阿羅漢とは、総く三乗の無学果位を顯す。この位の染意の種および現行は皆永く断滅す。ゆえに無しと説く。学位の滅定・出世道中は皆暫く伏滅す。ゆえに無しと説く。

謂染汙意,無始時來,微細一類,任運而轉,諸有漏道,不能伏滅;三乘聖道,有伏滅義。真無我解,違我執故。後得無漏現在前時,是彼等流,亦違此意。真無我解,及後所得,俱無漏故,名出世道。

いわゆる染汚意は無始より来り微細・一類にして任運に転ず。諸有漏道は伏滅すること能わず。三乗の聖道は伏滅の義有り。真の無我解は我執に違す。後に無漏の現前する時は是れそれが等流なり。もまたこの意に違す。真の無我解および後の得る所は皆無漏にして、名づけて出世道という。

滅定既是聖道等流,極寂靜故,此亦非有。

滅定はすでに聖道の等流にして極寂静なれば、このもまた有に非ず。

由未永斷此種子故,從滅盡定、聖道起已,此復現行,乃至未滅。

未だこの種子を永断せざるがゆえに、滅尽定・聖道より起ちての後、これはまた現行して乃至未だ滅せず。

然此染意相應煩惱,是俱生故,非見所斷。是染汙故,非非所斷。

しかしこの染意に相応する煩悩は是れ倶生にして、見の断ずる所に非ず。是れ染汚にして、非所断に非ず。

極微細故,所有種子,與有頂地,下下煩惱,一時頓斷,勢力等故;金剛喻定現在前時,頓斷此種,成阿羅漢,故無學位,永不復起。

極微細なるがゆえに、所有の種子は有頂地の下下煩悩と一時に頓断す。勢力等しきが故に。金剛喩定の現前する時、頓にこの種を断じて阿羅漢を成ず。ゆえに無学位には永く復た起こらず。

二乘無學,迴趣大乘,從初發心,至未成佛,雖實是菩薩,亦名阿羅漢。應義等故,不別說之。

二乗の無学は大乗に回趣して、初めの発心より未だ仏を成らざるに至るまで、実は菩薩なると雖も、もまた名づけて阿羅漢という。応の義等なるがゆえに別にそれを説かず。

此中有義:末那唯有煩惱障俱。聖教皆言:三位無故。又說:四惑恆相應故。又說:為識雜染依故。

ここに一義有り:末那はただ煩悩障と倶のみ。聖教は皆説く:三位に無し。また説く:四惑は恒に相応す。また説く:識の雑染の依と為る。

有義:彼說教、理相違,出世末那,經說有故。

一義有り:彼らの説は教・理に相違す。出世の末那は経に有りと説けり。

無染意識,如有染時,定有俱生不共依故。

無染の意識は、染有る時の如く、定めて倶生の不共依有り。

論說:藏識決定恆與一識俱轉,所謂末那;意識起時,則二俱轉,所謂意識,及與末那;若五識中隨起一識,則三俱轉,乃至或時頓起五識,則七俱轉。若住滅定,無第七識,爾時,藏識應無識俱,便非恆定一識俱轉。住聖道時,若無第七。爾時,藏識應一識俱,如何可言,若起意識,爾時,藏識定二俱轉?

論に説く:蔵識は決定して恒に一識と倶に転ず。いわゆる末那。意識の起こる時は便ち二倶転す。いわゆる意識および末那。もし五識の中に随って一識を起これば、便ち三倶転し、乃至あるいは時に頓に五識を起こせば、便ち七倶転す。もし滅定に住すれば第七識無し。かの時、蔵識はまさに識と倶する無かるべくして、便ち恒定に一識と倶転に非ず。聖道に住する時、もし第七無ければ、かの時蔵識はまさに一識に倶ならん。どうして説かん、もし意識を起こせばかの時蔵識は定めて二倶転と。

《顯揚論》說:末那恆與四煩惱相應,或翻彼相應,恃舉為行,或平等行。故知此意通染、不染。

《顯揚論》に説く:末那は恒に四煩悩と相応し、あるいはそれに翻って相応して、恃挙を行と為り、あるいは平等に行ず。ゆえにこの意は染・不染に通ずと知る。

若由論說:阿羅漢位無染意故,便無第七。應由論說:阿羅漢位捨賴耶故,便無第八。彼既不爾,此云何然?

もし論に由って説かば、阿羅漢位に染意無きがゆえに便ち第七無し。まさに論に由って説くべし、阿羅漢位に頼耶を捨つがゆえに便ち第八無し。彼辺すでに然らざれば、此辺どうして然らん。

又諸論言:轉第七識,得平等智。彼如餘智,定有所依相應淨識。此識無者,彼智應無。非離所依有能依故。不可說彼依六轉識,許佛恆行,如鏡智故。

また諸論に説く:第七識を転じて平等智を得。かれは其余の智の如く、定めて所依の相応の浄識有り。この識無ければ、かの智はまさに無かるべし。並びて所依を離れて能依有るに非ず。まさに彼らは六転識に依ると説くべからず。仏は恒に行うを許すが故に、鏡智の如し。

又無學位,若無第七識,彼第八識,應無俱有依。然必有此依,如餘識性故。

また無学位にもし第七識無ければ、かの第八識はまさに倶有依無かるべし。しかし必ずこの依有り。其余の識性の如くなるが故に。

又如未證補特伽羅無我者,彼我執恆行;亦應未證法無我者,法我執恆行,此識若無,彼依何識?非依第八,彼無慧故。由此應信,二乘聖道、滅定、無學此識恆行,彼未證得法無我故。

また未だ補特伽羅無我を証せざる人の如く、彼らの我執は恒に行う。もまたまさに未だ法無我を証得せざる人は法我執は恒に行うべし。この識もし無ければ、彼らは何の識に依るや。第八に依るに非ず。それは慧無きが故に。これに由ってまさに信ずべし、二乗の聖道・滅定・無学にはこの識は恒に行う。彼らは未だ法無我を証得せざるが故に。

又諸論中,以五同法證有第七,為第六依。聖道起時,及無學位,若無第七為第六依,所立宗、因,便俱有失。或應五識亦有無依。五恆有依,六亦應爾。

また諸論の中に、五同法を以って第七有るを証して第六の依と為す。聖道の起こる時および無学位に、もし第七無くして第六の依と為さざれば、立つる所の宗・因は便ち皆失有り。あるいはまさに五識もまた依無き有るべし。五は恒に依有り。六もまたまさに然るべし。

是故定有無染汙意,於上三位,恆起現前。言彼無者,依染意說;如說四位無阿賴耶,非無第八,此亦應爾。

ゆえに定めて無染汚意有りて、上の三位にて恒に起こりて現前す。彼らは無しと説くは染意に依って説く。四位に阿頼耶無しと説くが如く、並びて第八無きに非ず。これもまたまさに然るべし。

此意差別,略有三種:

この意の差別は略して三種有り。

一、補特伽羅我見相應;二、法我見相應;三、平等性智相應。

一、補特伽羅我見に相応。二、法我見に相応。三、平等性智に相応。

初通一切異生相續、二乘有學、七地以前一類菩薩有漏心位,彼緣阿賴耶識,起補特伽羅我見。

初は一切異生の相続・二乗有学・七地以前の一類菩薩の有漏心位に通ず。彼らは阿頼耶識に縁じて補特伽羅我見を起こす。

次通一切異生、聲聞、獨覺相續、一切菩薩法空智果不現前位,彼緣異熟識,起法我見。

次は一切異生・声聞・独覚の相続・一切菩薩の法空智果の現前せざる位に通ず。彼らは異熟識に縁じて法我見を起こす。

後通一切如來相續、菩薩見道及修道中法空智果現在前位,彼緣無垢異熟識等,起平等性智。

後は一切如来の相続・菩薩の見道および修道中の法空智果の現前位に通ず。彼らは無垢・異熟識等に縁じて平等性智を起こす。

補特伽羅我見起位,彼法我見亦必現前。我執必依法執而起。如夜迷杌等,方謂人等故。

補特伽羅我見の起こる位に、かの法我見もまた必ず現前す。我執は必ず法執に依って起こるが故に。夜に杌等を迷いて、纔めて人等と謂うが如し。

我、法二見,用雖有別,而不相違,同依一慧。如眼識等,體雖是一,而有了別青等多用,不相違故,此亦應然。

我・法の二見は用は別有ると雖も、しかし相違せず。同じく一慧に依る。眼識等の如く、体は一なると雖も、しかし青等の多用を了別する有りて相違せず。これもまたまさに然るべし。

二乘有學聖道,滅定現在前時;頓悟菩薩,於修道位;有學漸悟,生空智果現在前時,皆唯起法執,我執已伏故。

二乗有学の聖道・滅定の現前する時、頓悟の菩薩は修道位にて、有学の漸悟は生空智果の現前する時、皆ただ法執を起こすのみ。我執は已に伏せたるが故に。

二乘無學及此漸悟法空智果不現前時,亦唯起法執,我執已斷故。

二乗無学およびこの漸悟の法空智果の現前せざる時も、ただ法執を起こすのみ。我執は已に断ぜたるが故に。

八地以上,一切菩薩所有我執皆永不行,或已永斷;或永伏故。法空智果不現前時,猶起法執,不相違故。

八地已上は、一切菩薩の所有の我執は皆永く行わず。あるいは已に永断し、あるいは永く伏す。法空智果の現前せざる時にはなお法執を起こす。相違せざるが故に。

如契經說:八地以上,一切煩惱,不復現行;唯有所依所知障在。此所知障,是現非種。不爾,煩惱亦應在故。

契経に説けるが如く:八地已上は一切の煩悩は復た現行せず。ただ所依の所知障のみ在り。この所知障は現にして種に非ず。然らずんば、煩悩もまたまさに在るべし。

法執俱意,於二乘等,雖名不染;於諸菩薩,亦名為染,障彼智故。由此亦名有覆無記。於二乘等,說名無覆,不障彼智故。是異熟生攝,從異熟識恆時生故,名異熟生,非異熟果,此名通故,如增上緣,餘不攝者,皆入此攝。

法執に倶の意は、二乗等に対しては名づけて不染というと雖も、諸菩薩に対してはもまた名づけて染という。彼らの智を障るが故に。これに由ってもまた名づけて有覆無記という。二乗等に対しては説いて名づけて無覆という。彼らの智を障らざるが故に。是れ異熟生の摂する所にして、異熟識より恒時に生ず。名づけて異熟生という。異熟果に非ず。この名は通ずるが故に、増上縁の如し。其余の摂せざる所は皆この摂に入る。

云何應知此第七識,離眼等識,有別自體?

どうしてこの第七識は眼等の識を離れて別に自体有ると知らん。

聖教正理,為定量故。

聖教・正理を以って定量と為すが故に。

謂薄伽梵處處經中說:心、意、識三種別義。集起名心,思量名意,了別名識,是三別義。

いわゆる薄伽梵(世尊)の処処の経中の説く所:心・意・識の三種別義なり。集起を名づけて心といい、思量を名づけて意といい、了別を名づけて識という。是れ三の別義なり。

如是三義,雖通八識,而隨勝顯。第八名心,集諸法種,起諸法故;第七名意,緣藏識等,恆、審思量,為我等故;餘六名識,於六別境,麁動間斷,了別轉故。

かくのごとき三義は八識に通ずると雖も、しかし勝顯に随う。第八を名づけて心という。諸法の種を集めて諸法を起こすが故に。第七を名づけて意という。蔵識等に縁じて恒・審に思量して我と為すが故に。其余の六を名づけて識という。六別の境に対して麁動間断して了別して転ずるが故に。

如《入楞伽》伽他中說:

《入楞伽》の偈の中に説けるが如く:

「藏識說名心,思量性名意,

「蔵識を説いて名づけて心といい、思量の性を名づけて意という。

能了諸境相,是說名為識。」

諸境相を了する能を、是れ説いて名づけて識という。」

又大乘經處處別說有第七識,故此別有。諸大乘經是至教量,前已廣說,故不重成。

また大乗経は処処に別に第七識有りと説く。ゆえにこれは別に有り。諸大乗経は至教量なり。前に已に広く説きたり。ゆえに重ねて成ぜず。

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