成唯識論巻第一
頌言:「思量為性相」者,雙顯此識自性、行相。
頌に説く:「思量を性相と為す」とは、双くこの識の自性・行相を顯す。
意以思量為自性故,即復用彼為行相故。由斯兼釋所立別名,能審思量名末那故。未轉依位,恆、審思量所執我相;已轉依位,亦審思量無我相故。
意は思量を以って自性と為し、便ちまたそれを用いて行相と為す。これに由って兼ねて立つる所の別名を釈す。能く審に思量するを名づけて末那という。未だ転依せざる位には恒・審に所執の我相を思量し、已に転依せし位にはもまた無我相を審に思量す。
此意相應有幾心所?
この意はいくつの心所と相応するや。
且與四種煩惱常俱。
且く四種の煩悩と常に倶なり。
此中「俱」言,顯相應義。
ここに「倶」の字は相応の義を顯示す。
謂從無始,至未轉依,此意任運恆緣藏識,與四根本煩惱相應。
いわゆる無始より乃至未だ転依せざるに、この意は任運に恒に蔵識に縁じて、四根本煩悩と相応す。
其四者何?
かの四種とは何ぞ。
「謂我痴、我見並我慢、我愛」,是名四種。
「いわゆる我癡・我見、並びに我慢・我愛」、これすなわち名づけて四種という。
我痴者:謂無明,愚於我相,迷無我理,故名我痴。我見者:謂我執,於非我法,妄計為我,故名我見。我慢者:謂倨傲,恃所執我,令心高舉,故名我慢。我愛者:謂我貪,於所執我,深生耽著,故名我愛。「並」錶慢、愛、有見、慢俱,遮餘部執無相應義。
我癡とは、いわゆる無明にして、我相に愚かしく、無我の理に迷う。ゆえに名づけて我癡という。我見とは、いわゆる我執にして、非我の法に対して妄りに計して我と為す。ゆえに名づけて我見という。我慢とは、いわゆる倨傲にして、所執の我を恃みて心を高挙せしむ。ゆえに名づけて我慢という。我愛とは、いわゆる我貪にして、所執の我に対して深く耽着を生ず。ゆえに名づけて我愛という。「並」とは慢・愛は見・慢と倶有るを示す。其余の部の相応の義無しと執するを遮る。
此四常起,擾濁內心,令外轉識恆成雜染。有情由此生死輪迴,不能出離,故名煩惱。
この四は常に起こりて、内心を擾濁して、外の転識をして恒に雑染を成さしむ。有情はこれに由って生死輪廻して出離すること能わず。ゆえに名づけて煩悩という。
彼有十種,此何唯四?
彼らは十種有り。ここになんぞ唯だ四のみ。
有我見故,餘見不生。無一心中,有二慧故。如何此識,要有我見?二取、邪見,但分別生,唯見所斷。此俱煩惱,唯是俱生,修所斷故。我所、邊見,依我見生。此相應見,不依彼起。恆內執有我,故要有我見。
我見有るがゆえに、余見は生ぜず。一心の中に二慧無きが故に。どうしてこの識は我見を要せん。二取・邪見はただ分別より生ず。ただ見の断ずる所のみ。この倶の煩悩はただ倶生にして、修の断ずる所なり。我所・辺見は我見に依って生ず。この相応の見はそれに依って起こらず。恒に内に我有りと執す。ゆえに我見を要す。
由見審決,疑無容起。愛著我故,瞋不得生。故此識俱煩惱唯四。
見は審決するに由りて、疑は起こるを容れず。我を愛着するに瞋は生ずるを得ず。ゆえにこの識に倶の煩悩は唯だ四のみ。
見、慢、愛三,如何俱起?行相無違,俱起何失?
見・慢・愛の三はどうして倶に起こる。行相は相違無し。倶起して何の失かあらん。
《瑜伽論》說:貪令心下,慢令心舉,寧不相違?分別、俱生;外境、內境;所陵、所恃,麁、細有殊,故彼此文,義無乖返。
《瑜伽論》に説く:貪は心をして下らしめ、慢は心をして挙がらしむ。どうして相違せざらん。分別・倶生、外境・内境、所陵・所恃に、麁・細の殊有り。ゆえに彼・此の文は、義乖返無し。
此意心所唯有四耶?
この意の心所は唯だ四のみか。
不爾,「及餘觸等俱」故。
然らず、「および其余の触等と倶なり」。
有義:此意心所唯九,前四及餘觸等五法,即觸、作意、受、想與思,意與遍行,定相應故。前說觸等,異熟識俱,恐謂同前,亦是無覆,顯此異彼,故置「餘」言。
一義有り:この意の心所は唯だ九なり。前の四および其余の触等の五法。すなわち触・作意・受・想と思。意は遍行と定めて相応す。前に説く触等は異熟識と倶なり。説いて前に同じくするを恐れて、もまた無覆なり。これはかれに異なるを顯示す。ゆえに「余」の字を置く。
「及」是集義,前四後五合,與末那恆相應故。
「及」は集の義にして、前の四と後の五と合して、末那と恒に相応す。
此意何故無餘心所?
この意はなんぞ其余の心所無き。
謂「欲」,希望未遂合事,此識任運,緣遂合境,無所希望,故無有欲。「勝解」,印持曾未定境,此識無始,恆緣定事,無所印持,故無勝解。「念」唯記憶曾所習事,此識恆緣現所受境,無所記憶,故無有念。「定」唯繫心專注一境,此識任運,剎那別緣,既不專一,故無有定。「慧」即我見,故不別說。
いわゆる「欲」は未だ遂げざる合の事を希望す。この識は任運にして遂合の境に縁ず。希望する所無し。ゆえに欲有る無し。「勝解」は曾て定めざる境を印持す。この識は無始にて恒に定の事に縁ず。印持する所無し。ゆえに勝解無し。「念」はただ曾習の事を記憶す。この識は恒に現に受くる所の境に縁ず。記憶する所無し。ゆえに念有る無し。「定」はただ心を繫して一境に専注す。この識は任運にして刹那別縁す。すでに専一せざれば、ゆえに定有る無し。「慧」はすなわち我見なり。ゆえに別に説かず。
善是淨故,非此識俱。
善は浄にして、この識と倶に非ず。
隨煩惱生,必依煩惱前後分位差別建立。此識恆與四煩惱俱,前後一類,分位無別,故此識俱無隨煩惱。
随煩悩の生は必ず煩悩の前後の分位差別に依って建立す。この識は恒に四煩悩と倶にして、前後一類にて分位別無し。ゆえにこの識に倶に随煩悩無し。
「惡作」追悔先所造業,此識任運,恆緣現境,非悔先業,故無惡作。「睡眠」必依身、心重昧,外眾緣力,有時暫起,此識無始一類內執,不假外緣,故彼非有。「尋」、「伺」俱依外門而轉,淺深推度,麁細發言,此識唯依內門而轉,一類執我,故非彼俱。
「悪作」は先に造りし業を追悔す。この識は任運にして恒に現境に縁ず。先業を悔ゆるに非ず。ゆえに悪作無し。「睡眠」は必ず身・心の重昧に依り、外の衆縁力にて有る時暫く起こる。この識は無始より一類にして内に執す。外縁を假らず。ゆえにそれ有るに非ず。「尋」・「伺」は皆外門に依って転じ、浅深に推度して麁細に発言す。この識はただ内門に依って転じて、一類に我を執す。ゆえにそれと倶に非ず。
有義:彼釋「餘」義非理。頌別說此有覆攝故。又闕意俱隨煩惱故。煩惱必與隨煩惱俱,故此「餘」言,顯隨煩惱。
一義有り:彼らの「余」の義を釈するは理に合わず。頌は別にこれを説いて有覆の摂する所と為す。また意に倶の随煩悩を缺く。煩悩は必ず随煩悩と倶なり。ゆえにこの「余」の字は随煩悩を顯示す。
此中有義:五隨煩惱,遍與一切染心相應。
ここに一義有り:五の随煩悩は遍く一切の染心と相応す。
如《集論》說:惛沈、掉舉、不信、懈怠、放逸,於一切染汙品中,恆共相應。
《集論》に説けるが如く:惛沈・掉挙・不信・懈怠・放逸は一切の染汚品の中にて恒に共に相応す。
若離無堪任性等,染汙性成,無是處故。煩惱起時,心既染汙,故染心位,必有彼五。煩惱若起,必由無堪任、囂動、不信、懈怠、放逸故。
もし無堪任性等を離れば、染汚性を成すはこの理無し。煩悩の起こる時、心はすでに染汚なれば、ゆえに染心の位に必ずかの五有り。煩悩もし起こらば、必ず無堪任・嚣動・不信・懈怠・放逸に由る。
掉舉雖遍一切染心,而貪位增,但說貪分。如眠與悔,雖遍三性心,而痴位增,但說為痴分。
掉挙は遍く一切の染心にあれども、しかし貪位に増す。ただ貪分と説く。眠と悔との如く、遍く三性の心にあれども、しかし癡位に増す。ただ癡分と説いて為す。
雖餘處說,有隨煩惱,或六、或十,遍諸染心,而彼俱依別義說遍,非彼實遍一切染心。謂依二十隨煩惱中,解通麁細,無記、不善,通障定、慧,相顯說六。依二十二隨煩惱中,解通麁細二性,說十。故此彼說:非互相違。
其余の処に随煩悩有りて、あるいは六、あるいは十、諸染心に遍すと説くと雖も、しかし彼らは皆別義に依って遍と説く。並びて彼らの実に一切染心に遍するに非ず。いわゆる二十の随煩悩の中にて、解は麁細に通じ、無記・不善は定慧を通じて障るに依って、相顯して六と説く。二十二の随煩悩の中にて、解は麁細の二性に通ずるに依って、十と説く。ゆえに此彼の説くは並びて互相違に非ず。
然此意俱心所十五,謂前九法、五隨煩惱,並別境慧。我見雖是別境慧攝,而五十一心所法中,義有差別,故開為二。
しかしこの意に倶の心所は十五なり。いわゆる前の九法・五随煩悩、並びに別境の慧。我見は別境の慧の摂する所なると雖も、しかし五十一心所法の中にて義差別有り。ゆえに開いて二と為す。
何緣此意無餘心所?謂忿等十行相麁動,此識審細,故非彼俱;無慚、無愧,唯是不善,此無記故,非彼相應;散亂,令心馳流外境,此恆內執一類境生,不外馳流,故彼非有;不正知者,謂起外門身、語、意行,違越軌則,此唯內執,故非彼俱。無餘心所,義如前說。
どうしてこの意は其余の心所無き。いわゆる忿等の十は行相麁動にして、この識は審細なり。ゆえにそれと倶に非ず。無慚・無媿はただ不善にして、これは無記なり。それと相応に非ず。散乱は心をして外境に馳流せしむ。これは恒に内に一類の境を執して生じて、外に馳流せず。ゆえにそれ有るに非ず。不正知とは、いわゆる外門の身・語・意行を起こして軌則に違越す。これはただ内に執す。ゆえにそれと倶に非ず。其余の心所無きは、義は前の説くが如し。
有義:應說六隨煩惱,遍與一切染心相應,《瑜伽論》說:不信、懈怠、放逸、忘念、散亂、惡慧,一切染心皆相應故。
一義有り:まさに六の随煩悩は遍く一切の染心と相応すと説くべし。《瑜伽論》に説く:不信・懈怠・放逸・忘念・散乱・悪慧は、一切の染心に皆相応す。
忘念、散亂、惡慧若無,心必不能起諸煩惱。要緣曾受境界種類,發起忘念及邪簡擇,方起貪等諸煩惱故。煩惱起時,心必流蕩,皆由於境,起散亂故。
忘念・散乱・悪慧もし無ければ、心は必ず諸煩悩を起こすこと能わず。曾受の境界種類に縁じて、忘念および邪簡択を発起するを要して、乃ち貪等の諸煩悩を起こす。煩悩の起こる時、心は必ず流蕩し、皆境に由って散乱を起こす。
惛沈、掉舉,行相互違,非諸染心皆能遍起。論說五法遍染心者,解通麁、細,違唯善法,純隨煩惱,通二性故。
惛沈・掉挙は行相相違す。並びて諸染心には皆能く遍く起こるに非ず。論に五法は染心に遍すと説くは、解は麁・細に通じ、ただ善法に違し、純く随煩悩にして、二性に通ず。
說十遍言,義如前說。
十遍と説くは、義は前の説くが如し。
然此意俱心所十九。謂前九法、六隨煩惱,並念、定、慧,及加惛沈。此別說念,準前慧釋。並有定者,專注一類所執我境,曾不捨故。加惛沈者,謂此識俱無明尤重,心惛沈故。
しかしこの意に倶の心所は十九なり。いわゆる前の九法・六随煩悩、並びに念・定・慧、および惛沈を加う。これに別に念を説くは、前の慧の釈に准ず。並びに定有りて、一類の所執我境に専注して、曽て捨てざる。惛沈を加うとは、いわゆるこの識に倶の無明は尤も重くして、心は惛沈す。
無掉舉者,此相違故。無餘心所,如上應知。
掉挙無きはこれと相違するが故に。其余の心所無きは上の如くまさに知るべし。
有義:復說十隨煩惱,遍與一切染心相應。
一義有り:また十の随煩悩は遍く一切の染心と相応すと説く。
《瑜伽論》說:放逸、掉舉、惛沈、不信、懈怠、邪欲、邪勝解、邪念、散亂、不正知。此十一切染汙心起,通一切處,三界繫故。
《瑜伽論》に説く:放逸・掉挙・惛沈・不信・懈怠・邪欲・邪勝解・邪念・散乱・不正知。この十は一切の染汚心の起こるに、一切処に通じ、三界繫なり。
若無邪欲、邪勝解時,心必不能起諸煩惱。於所受境,要樂合、離,印持事相,方起貪等諸煩惱故。
もし邪欲・邪勝解無き時、心は必ず諸煩悩を起こすこと能わず。受くる所の境に対して、合・離を楽い、事相を印持するを要して、乃ち貪等の諸煩悩を起こす。
諸疑理者,於色等事,必無猶豫;故疑相應,亦有勝解。於所緣事,亦猶豫者,非煩惱疑,如疑人杌。
諸々の理を疑う人は、色等の事に対して必ず猶豫無し。ゆえに疑に相応してもまた勝解有り。所縁の事に対してもまた猶豫するは、煩悩の疑に非ず。人を疑って杌(木の切株)と為すが如し。
餘處不說此二遍者,緣非愛事,疑相應心,邪欲、勝解非麁顯故。
其余の処はこの二の遍するを説かず。非愛の事に縁じて、疑に相応する心は、邪欲・勝解は麁顯に非ざるが故に。
餘互有無,義如前說。
其余の互いに有・無は、義は前の説くが如し。
此意心所有二十四:謂前九法、十隨煩惱,加別境五,準前理釋。
この意の心所は二十四有り。いわゆる前の九法・十随煩悩、別境の五を加う。前の理に准じて釈す。
無餘心所如上應知。
其余の心所無きは上の如くまさに知るべし。
有義:前說皆未盡理。
一義有り:先前の説く所は皆未だ理を尽くさず。
且疑他世為有、為無,於彼有何欲、勝解相?煩惱起位,若無惛沈,應不定有無堪任性;掉舉若無,應無囂動,便如善等,非染汙位。若染心中,無散亂者,應非流蕩,非染汙心。若無失念、不正知者,如何能起煩惱現前?
且く他世を疑って有・無と為すに、それに対して何の欲・勝解の相かあらん。煩悩の起こる位に、もし惛沈無ければ、まさに定めて無堪任性の有無あらざるべし。掉挙もし無ければ、まさに嚣動無かるべし。便ち善等の如く、染汚位に非ず。もし染心の中に散乱無ければ、まさに流蕩に非ざるべく、染汚心に非ず。もし失念・不正知無ければ、どうして能く煩悩を起こして現前せん。
故染汙心決定皆與八隨煩惱相應而生,謂惛沈、掉舉、不信、懈怠、放逸、忘念、散亂、不正知。忘念、不正知,念、慧為性者,不遍染心,非諸染心,皆緣曾受,有簡擇故;若以無明為自性者,遍染心起,由前說故。
ゆえに染汚心は決定して皆八随煩悩と相応して生ず。いわゆる惛沈・掉挙・不信・懈怠・放逸・忘念・散乱・不正知。忘念・不正知の念・慧を以って性と為するは、染心に遍せず。並びて諸染心は皆曾受に縁じて簡択有るに非ず。もし無明を以って自性と為するは、染心に遍して起こる。先前の説く所に由る。
然此意俱心所十八:謂前九法、八隨煩惱,並別境慧。無餘心所及論三文,準前應釋。
しかしこの意に倶の心所は十八なり。いわゆる前の九法・八随煩悩、並びに別境の慧。其余の心所無きおよび論三文は、前に准じてまさに釈すべし。
若作是說,不違理、教。
もしかくのごとき説を作さば、理・教に違せず。
