成唯識論巻第一
若法決定、有境、為主、令心心所取自所緣,乃是所依,即內六處,餘非有境、定、為主故,此但如王,非如臣等。故諸聖教唯心、心所名有所依,非色等法,無所緣故。但說心所,心為所依;不說心所,為心所依,彼非主故。
もし法は決定・有境・為主にして心・心所をして自所縁を取らしむれば、乃ち是れ所依。すなわち内六処なり。其余は有境・定・為主に非ざれば、これはただ王の如くして臣等の如くに非ず。ゆえに諸聖教は唯だ心・心所のみ名づけて依所有りという。並びて色等の法に非ず。所縁無きが故に。ただ心所は心を所依と為すと説く。心所は心の所依と為ると説かず。彼らは主に非ざるが故に。
然有處說依為所依,或所依為依,皆隨宜假說。
しかし処有りて依を所依と説き、あるいは所依を依と説くは、皆随宜に假説す。
由此五識俱有所依定有四種:謂五色根、六、七、八識,隨闕一種必不轉故。同境、分別、染淨、根本,所依別故。聖教唯說依五根者,以不共故,又必同境,近相順故。
これに由って五識の倶有所依は定めて四種有り。いわゆる五色根・六・七・八識。一种を缺くに随って必ず転ぜず。同境・分別・染浄・根本は所依別有り。聖教はただ五根に依ると説く。不共なるが故に。又必ず境を同じくして近く相順ずるが故に。
第六意識俱有所依唯有二種:謂七、八識,隨闕一種必不轉故。雖五識俱取境明瞭,而不定有,故非所依。聖教唯說依第七者,染淨依故,同轉識攝,近相順故。
第六意識の倶有所依はただ二種有り。いわゆる七・八識。一种を缺くに随って必ず転ぜず。五識は倶に境を取ること明了なると雖も、しかし定有に非ず。ゆえに所依に非ず。聖教はただ第七に依ると説く。染浄の依にして、転識の摂する所に同じく、近く相順ずるが故に。
第七意識俱有所依但有一種:謂第八識,藏識若無,定不轉故。如伽他說:
第七意識の倶有所依はただ一种のみ有り。いわゆる第八識。蔵識もし無ければ定めて転ぜず。偈に説けるが如く:
阿賴耶為依,故有末那轉,
阿頼耶を依と為すがゆえに、末那の転有り。
依止心及意,餘轉識得生。
心および意に依止して、其余の転識は生ずるを得。
阿賴耶識俱有所依亦但一種:謂第七識,彼識若無,定不轉故。論說:藏識恆與末那俱時轉故;又說藏識恆依染汙,此即末那。而說三位無末那者,依有覆說,如言四位無阿賴耶,非無第八,此亦應爾。雖有色界亦依五根,而不定有,非所依攝;識種不能現取自境,可有依義而無所依。
阿頼耶識の倶有所依もまたただ一种のみ有り。いわゆる第七識。かの識もし無ければ定めて転ぜず。論に説く:蔵識は恒に末那と倶時に転ず。また蔵識は恒に染汚に依ると説く。これすなわち末那なり。しかして三位に末那無しと説くは、有覆に依って説く。四位に阿頼耶無しと説くが如く、並びて第八無きに非ず。これもまたまさに然るべし。有色界に在りても五根に依ると雖も、しかし定有に非ず。所依の摂する所に非ず。識種は自境を現取すること能わず。依の義有るべきも所依無し。
心所所依,隨識應說,復各加自相應之心。
心所の所依は識に随ってまさに説くべし。また各々自ら相応の心を加う。
若作是說,妙符理、教。
もしかくのごとき説を作さば、妙に理・教に符す。
後開導依,有義:五識自、他前後不相續故,必第六識所引生故,唯第六識為開導依。
後の開導依について、一義有り:五識の自・他は前後相続せず。必ず第六識の引生する所なり。唯だ第六識のみ開導依と為る。
第六意識自相續故,亦由五識所引生故,以前六識為開導依。
第六意識は自ら相続して、もまた五識の引生する所に由る。前の六識を以って開導依と為す。
第七、八識自相續故,不假他識所引生故,但以自類為開導依。
第七・八識は自ら相続して、他識の引生する所を假らず。ただ自類を以って開導依と為す。
有義:前說未為究理。
一義有り:先前の説く所は未だ理を究めざるなり。
且前五識未自在位,遇非勝境,可如所說。
且く前の五識は未だ自在位に非ざるに、勝れたる境に遇わざれば、説く所の如くすべし。
若自在位,如諸佛等,於境自在,諸根互用,任運決定,不假尋求,彼五識身寧不相續?
もし自在位なれば、諸仏等の如く、境に対して自在にして、諸根互用し、任運決定して、尋求を假らず。それらの五識身はどうして相続せざらん。
等流五識,既為決定、染淨、作意勢力引生,專注所緣,未能捨頃,如何不許多念相續?
等流の五識は、すでに決定・染浄・作意の勢力の引生する所なれば、所縁に専注して、未だ捨てざる頃、どうして多念相続を許さざらん。
故《瑜伽》說:決定心後,方有染淨,此後乃有等流眼識善、不善轉,而彼不由自分別力,乃至此意不趣餘境,經爾所時,眼、意二識或善、或染,相續而轉,如眼識生,乃至身識,應知亦爾。
ゆえに《瑜伽》に説く:決定心の後に乃ち染浄有り。この後に乃ち等流の眼識の善・不善の転有り。しかし彼らは自分別力に由らず。乃至この意は其余の境に趣らざるに、かくのごとき時を経て、眼・意の二識はあるいは善あるいは染にして、相続して転ず。眼識の生ずるが如く、乃至身識もまさに然るべしと知る。
彼意定顯經爾所時,眼、意二識俱相續轉,既眼識時非無意識,故非二識互相續生。
かの意は決定してかくのごとき時を経るを顯示して、眼・意の二識は倶に相続して転ず。眼識の時に意識無きに非ざるがすでに然れば、ゆえに並びて二識は互いに相続して生ずるに非ず。
若增盛境相續現前,逼奪身心不能暫捨,時五識身,理必相續,如熱地獄、戲忘天等。
もし増盛の境は相続して現前して、身心を逼奪して暫くも捨つること能わざれば、時の五識身は理必ず相続す。熱地獄・戲忘天等の如し。
故《瑜伽》言:若此六識為彼六識等無間緣,即施設此名為意根。
ゆえに《瑜伽》に説く:もし此の六識は彼の六識の等無間縁と為らば、便ちこれを施設して名づけて意根という。
若五識前後定唯有意識,彼論應言:若此一識為彼六識等無間緣。或彼應言:若此六識為彼一識等無間緣。既不如是,故知五識有相續義。
もし五識の前後は定めて唯だ意識なれば、かの論はまさに説くべし:もし此の一識は彼の六識の等無間縁と為らば。あるいは彼らはまさに説くべし:もし此の六識は彼の一識の等無間縁と為らば。すでに然らざれば、ゆえに五識は相続の義有るを知る。
五識起時,必有意識能引後念意識令起,何假五識為開導依?
五識の起こる時、必ず意識有りて能く後念の意識を引きて起こらしむ。何ぞ假に五識を開導依と為さんを須いん。
無心睡眠、悶絕等位,意識斷已,後復起時,藏識、末那既恆相續,亦應與彼為開導依。若彼用前自類開導,五識自類何不許然?此既不然,彼云何爾?
無心の睡眠・悶絶等の位に意識は断ち、後また起こる時、蔵識・末那はすでに恒に相続せば、またまさに彼らと開導依と為すべし。もし彼らは前の自類を用いて開導せば、五識の自類はなんぞ然らしめざる。此辺すでに然らざれば、彼辺どうして然らん。
平等性智相應末那初起必由第六意識,亦應用彼為開導依。
平等性智に相応する末那は、初めて起こるに必ず第六意識に由る。もまたまさにそれを用いて開導依と為すべし。
圓鏡智俱第八淨識,初必六、七方便引生。又異熟心依染汙意,或依悲願相應善心。既爾,必應許第八識亦以六、七為開導依。
円鏡智に倶なる第八浄識は、初め必ず六・七の方便に引生せらる。また異熟心は染汚意に依り、あるいは悲願に相応する善心に依る。すでに然らば、必ずまさに第八識もまた六・七を以って開導依と為すと許すべし。
由此彼言都未究理。
これに由って彼らの言は皆未だ理を究めず。
應說五識前六識內,隨用何識為開導依;第六意識用前自類或第七、八為開導依;第七末那用前自類或第六識為開導依;阿陀那識用前自類及第六、七為開導依。皆不違理,由前說故。
まさに説くべし、五識は前の六識の内にて、何れの識を用いるに随って開導依と為す。第六意識は前の自類あるいは第七・八を用いて開導依と為す。第七の末那は前の自類あるいは第六識を用いて開導依と為す。阿陀那識は前の自類および第六・七を用いて開導依と為す。皆理に違せず。先前の説く所に由る。
有義:此說亦不應理。
一義有り:この説もまた理に応えず。
開導依者,謂有緣法、為主,能作等無間緣。此於後生心、心所法,開避引導名開導依。此但屬心,非心所等。
開導依とは、いわゆる縁有法・為主にして、能く等無間縁を作す。これは後生の心・心所法に対して、開き避きて引導するを名づけて開導依という。これはただ心に属し、並びて心所等に非ず。
若此與彼無俱起義,說此於彼有開導力;一身八識既容俱起,如何異類為開導依?若許為依,應不俱起,便同異部心不並生。
もし此は彼と倶起の義無くして、此は彼に対して開導の力有りと説く。一身の八識はすでに倶起を容れんとすれば、どうして異類を開導依と為さん。もし依と為るを許せば、まさに倶起せざるべし。便ち異部の心は並生せざるに同じ。
又一身中諸識俱起,多少不定,若容互作等無間緣,色等應爾,便違聖說等無間緣唯心、心所。
また一身中に諸識倶起するは多少定まらず。もし互いに等無間縁を作すを容れば、色等もまたまさに然るべし。便ち聖説に違す。等無間縁は唯だ心・心所のみ。
然《攝大乘》說:色亦容有等無間緣者,是縱奪言,謂假縱小乘色、心前後有等無間緣,奪因緣故,不爾,「等」言應成無用。若謂「等」言非遮多少,但表同類,便違汝執異類識作等無間緣。
しかし《摂大乗》に色もまた等無間縁有るを容すと説くは、是れ縦奪の言なり。いわゆる假に小乗の色・心の前後に等無間縁有りを縦して、因縁を奪う。然らずんば「等」の字はまさに無用を成ずべし。もし「等」の字は多少を遮るに非ずして、ただ同類を表すと説かば、便ち汝らの異類の識を等無間縁と作すを執するに違す。
是故八識各唯自類為開導依,深契教理,自類必無俱起義故。心所此依,應隨識說。
ゆえに八識は各々ただ自類のみ開導依と為る。深く教理に契う。自類は必ず倶起の義無きが故に。心所のこの依はまさに識に随って説くべし。
雖心、心所異類並生,而互相應,和合似一,定俱生滅,事業必同,一開導時,餘亦開導,故展轉作等無間緣,諸識不然,不應為例。
心・心所は異類にして並生すると雖も、しかし互いに相応して、和合して一の如し。定めて倶に生滅し、事業は必ず同じ。一の開導する時、其余もまた開導す。ゆえに展転して等無間縁を作す。諸識はこの如くに非ず。例と為すべからず。
然諸心所非開導依,於所引生無主義故。
しかし諸心所は開導依に非ず。引生する所に対して主の義無きが故に。
若心、心所等無間緣各唯自類,第七、八識初轉依時,相應信等,此緣便闕,則違聖說諸心、心所皆四緣生。
もし心・心所の等無間縁は各々ただ自類なれば、第七・八識は初めて転依する時、相応の信等はこの縁便ち缺け、便ち聖説に違す。諸心・心所は皆四縁に生ず。
無心睡眠、悶絕等位意識雖斷,而後起時彼開導依即前自類,間斷五識應知亦然,無自類心於中為隔名無間故,彼先滅時,已於今識為開導故,何煩異類為開導依?
無心の睡眠・悶絶等の位に意識は断つると雖も、しかし後に起こる時、かの開導依はすなわち前の自類なり。間断の五識もまさに然るべしと知る。自類の心無くして中に隔たるを名づけて無間という。彼らの先に滅する時、已に今の識と開導と為れり。何ぞ煩わして異類を開導依と為さん。
然聖教中說前六識互相引起,或第七、八依六、七生,皆依殊勝增上緣說,非等無間,故不相違。《瑜伽論》說:若此識無間,諸識決定生,說此為彼等無間緣。又此六識為彼六識等無間緣,即施設此名意根者,言總意別,亦不相違。
しかし聖教の中に前の六識は互相引起し、あるいは第七・八は六・七に依って生ずと説くは、皆殊勝の増上縁に依って説く。等無間に非ず。ゆえに相違せず。《瑜伽論》に説く:もし此の識の無間に諸識は決定して生ずるなれば、此を説いて彼の等無間縁と為す。また此の六識は彼の六識の等無間縁と為れば、便ち此を施設して名づけて意根という。言は総にして意は別なり。もまた相違せず。
故自類依,深契教理。
ゆえに自類の依は深く教理に契う。
傍論已了,應辯正論。此能變識雖具三所依,而「依彼轉」言但顯前二,為顯此識依、緣同故,又前二依有勝用故,或開導依易了知故。
傍論已に了れり。まさに正論を弁ずべし。この能変識は三所依を具えると雖も、しかし「彼に依って転ず」の言はただ前の二を顯す。これが識の依・縁は同じきを顯さんが為に。また前の二依は勝用有り、あるいは開導依は了知し易きが故に。
如是已說此識所依,所緣云何?
かくのごとく已にこの識の所依を説きたり。所縁はいかん。
謂即「緣彼」。
いわゆるすなわち「彼に縁ず」。
「彼」謂即前此所依識,聖說此識緣藏識故。
「彼」とはすなわち前の此の所依識を説く。聖にこの識は蔵識に縁ずと説くが故に。
有義:此意緣彼識體,及相應法。
一義有り:この意はかの識の体および相応の法に縁ず。
論說:末那我、我所執恆相應故。
論に説く:末那は我・我所の執と恒に相応す。
謂緣彼體及相應法,如次執為我及我所。
いわゆるかの体および相応の法に縁じて、次第に執して我および我所と為す。
然諸心所不離識故,如「唯識」言,無違教失。
しかし諸心所は識を離れず。「唯識」の言の如し。教に違する失無し。
有義:彼說理不應然,曾無處言緣觸等故。
一義有り:彼らの説は理に応えず。曽て処有りて触等に縁ずと説かざるが故に。
應言此意但緣彼識見及相分,如次執為我及我所,相、見俱以識為體故,不違聖說。
まさに説くべし、この意はただかの識の見および相分に縁じて、次第に執して我および我所と為す。相・見は皆識を以って体と為すがゆえに、聖説に違せず。
有義:此說亦不應理。五色根境非識蘊故,應同五識,亦緣外故;應如意識,緣共境故;應生無色者不執我所故,厭色生彼不變色故。
一義有り:この説もまた理に応えず。五色根の境は識蘊に非ず。まさに五識に同じくして外にも縁ずべし。まさに意識の如く共境に縁ずべし。無色に生ずる者はまさに我所を執せず、色を厭いて彼に生じて色を変ぜざるべし。
應說此意但緣藏識及彼種子,如次執為我及我所。
まさに説くべし、この意はただ蔵識およびそれらの種子に縁じて、次第に執して我および我所と為す。
以種即是彼識功能,非實有物,不違聖教。
種はすなわちかの識の功能にして、実有の物に非ざるがゆえに、聖教に違せず。
有義:前說皆不應理。色等種子,非識蘊故,論說種子是實有故。假應如無,非因緣故。又此識俱薩迦耶見,任運一類,恆相續生,何容別執有我、我所?無一心中有斷、常等二境,別執俱轉義故,亦不應說二執前後,此無始來一味轉故。
一義有り:先前の説く所は皆理に応えず。色等の種子は識蘊に非ず。論に種子は実有と説く。假はまさに無の如く、因縁に非ず。またこの識に倶なる薩迦耶見(有身見)は任運・一類にして恒に相続して生ず。どうして別に我・我所有りと執することを容れん。一心の中に断・常等の二境無し。別の執は倶転の義もまた無し。またまさに二執は前後と説くべからず。このは無始より来り一味に転ずるが故に。
應知此意但緣藏識見分非餘,彼無始來一類相續似常、一故,恆與諸法為所依故。
まさに知るべし、この意はただ蔵識の見分に縁じて其余に非ず。かれは無始より来り一類相続して常・一の如く、恒に諸法と所依と為る。
此唯執彼為自內我,乘語勢故,說我所言。或此執彼是我、之我,故於一見義說二言。
これはただかれを執して自内我と為す。語勢に乗じて我・我所の言を説く。あるいはこれはかれを執して是れ我・之我なり。ゆえに一見の義に対して二言を説く。
若作是說,善順教理。多處唯言有我見故,我、我所執,不俱起故。
もしかくのごとき説を作さば、善く教理に順う。多くの処にただ我見有りと説き、我・我所の執は倶に起こらず。
未轉依位,唯緣藏識。既轉依已,亦緣真如及餘諸法。平等性智,證得十種平等性故。知諸有情勝解差別,示現種種佛影像故。
未だ転依せざる位には、ただ蔵識に縁ず。すでに転依せしの後は、また真如および其余の諸法に縁ず。平等性智は十種の平等性を証得し、諸有情の勝解差別を知りて、種種の仏影像を示現す。
此中且說未轉依時,故但說此緣彼藏識。悟迷通局,理應爾故。無我、我境,遍、不遍故。
ここに且く未だ転依せざる時を説く。ゆえにただこれはかの蔵識に縁ずと説く。悟・迷は通・局あって、理まさに然るべし。無我・我の境は遍・不遍なり。
如何此識緣自所依?如有後識,即緣前意。彼既極成,此亦何咎?
どうしてこの識は自所依に縁ずる。後識の有るが如く、便ち前の意に縁ず。かれはすでに極成せれば、これまた何の咎かあらん。
