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成唯識論巻第一

唐 · 护法等造,玄奘译 · 第13巻 / 39

證此識有,理趣無邊,恐厭繁文,略述綱要。

この識有るを証するに理趣辺際無し。繁文を厭わんことを畏れて、略く綱要を述ぶ。

別有此識,教理顯然,諸有智人,應深信受。

別にこの識有ること、教理顯然なり。諸々の智ある人はまさに深く信受すべし。

如是已說初能變相;第二能變其相云何?

かくのごとく已に初能変の相を説きたり。第二能変のその相はいかん。

頌曰:

頌に説く:

5次第二能變,是識名末那,

次に第二の能変は、この識を名づけて末那という。

依彼轉,緣彼,思量為性相。

彼に依って転じ、彼に縁じて、思量を性相と為す。

6四煩惱常俱,謂:我痴、我見,

四煩悩は常に倶なり。いわゆる我癡・我見、

並我慢、我愛,及餘觸等俱。

並びに我慢・我愛、および其余の触等と倶なり。

7有覆無記攝,隨所生所繫。

有覆無記の摂する所にして、生ずる所に随って繫せらる。

阿羅漢、滅定、出世道無有。

阿羅漢・滅定・出世道には無し。

論曰:次初異熟能變識,後應辯思量能變識相。是識聖教別名末那,恆、審思量勝餘識故。

論に説く:初の異熟能変識に次いで、後にまさに思量能変識の相を弁ずべし。この識は聖教にて別に名づけて末那という。恒・審に思量して其余の識に勝れるが故に。

此名何異第六意識?此持業釋,如藏識名,識即意故;彼依主釋,如眼識等,識異意故。然諸聖教恐此濫彼,故於第七但立意名。又摽意名,為簡心、識,積集、了別劣餘識故,或欲顯此與彼意識為近所依,故但名意。

この名と第六意識と何の異かあらん。これは持業釈(同位格の复合語)にして蔵識の名の如く、識はすなわち意なり。かれは依主釈(限定関係の复合語)にして眼識等の如く、識は意に異なり。しかし諸聖教はこれがかれと濫るを恐れて、ゆえに第七に対してただ意の名を立つ。また意名を標するは心・識を簡ぶが為なり。積集・了別は其余の識に劣るが故に。あるいはこれがかの意識と近き所依と為るを顯示せんと欲するがゆえに、ただ名づけて意という。

「依彼轉」者,顯此所依。

「彼に依って転ず」とは、これが依る所を顯示す。

「彼」謂即前初能變識,聖說此識依藏識故。

「彼」とはすなわち前の初能変識を説く。聖にこの識は蔵識に依ると説くが故に。

有義:此意以彼識種而為所依,非彼現識,此無間斷,不假現識為俱有依方得生故。

一義有り:この意はかの識の種を以って所依と為し、並びてかの現識に非ず。これは間断無きがゆえに、現識を假って倶有依と為して乃ち生ずるを得るを要せず。

有義:此意以彼識種及彼現識俱為所依,雖無間斷,而有轉易,名轉識故,必假現識為俱有依,方得生故。

一義有り:この意はかの識種およびかの現識を以って共に所依と為す。間断無きと雖も、しかし転易有りて、名づけて転識というがゆえに、必ず現識を假って倶有依と為して、乃ち生ずるを得。

「轉」謂流轉,顯示此識恆依彼識取所緣故。

「転」とは流転を説く。この識は恒にかの識に依って所縁を取るを顯示す。

諸心、心所皆有所依,然彼所依,總有三種:

諸々の心・心所は皆依る所有り。しかしそれらの所依は総じて三種有り。

一、因緣依,謂自種子,諸有為法皆託此依,離自因緣必不生故;二、增上緣依,謂內六處,諸心、心所皆託此依,離俱有根必不轉故;三、等無間緣依,謂前滅意,諸心、心所皆託此依,離開導根必不起故。

一、因縁依。いわゆる自種子。諸有為法は皆この依に托す。自因縁を離れて必ず生ぜず。二、増上縁依。いわゆる内六処。諸心・心所は皆この依に托す。倶有根を離れて必ず転ぜず。三、等無間縁依。いわゆる前の滅意。諸心・心所は皆この依に托す。開導根を離れて必ず起こらず。

唯心、心所具三所依,名有所依,非所餘法。

唯だ心・心所のみ三所依を具えて、名づけて依所有りという。並びて其余の法に非ず。

初種子依,有作是說:要種滅已,現果方生,無種已生,《集論》說故,種與芽等不俱有故。

初めの種子依について、人有りてかくのごとき説を作す:種の滅するの後に現果は乃ち生ずることを要す。種無きに已に生じたり。《集論》に説く、種は芽等と倶有せざるが如しと。

有義:彼說為證不成。彼依引生後種說故;種生芽等非勝義故;種滅芽生非極成故。焰、炷同時互為因故。

一義有り:彼らの説は証として成立せず。彼らは後種を引生するに依って説くが故に。種は芽等を生ずるは勝義に非ず。種滅して芽生ずるは極成に非ず。焔・炷は同時にして互いに因と為るが故に。

然種自類因果不俱,種、現相生決定俱有,故《瑜伽》說:無常法與他性為因,亦與後念自性為因,是因緣義。「自性」言顯種子自類前為後因,「他性」言顯種與現行互為因義。《攝大乘論》亦作是說:藏識染法互為因緣,猶如束蘆俱時而有。又說:種子與果必俱。故種子依,定非前後。

しかし種の自類の因果は倶せざるも、種・現の相生は決定して倶有す。ゆえに《瑜伽》に説く:無常法は他性と因と為り、また後念の自性と因と為る。是れ因縁の義なり。「自性」は種子の自類の前が後の因と為るを顯示し、「他性」は種と現行とが互いに因と為るの義を顯示す。《摂大乗論》もまたかくのごとき説を作す:蔵識と染法とは互いに因縁と為り、猶ほ束蘆の倶時に有るが如し。また説く:種子と果とは必ず倶有り。ゆえに種子依は決定して前後に非ず。

設有處說種果前後,應知皆是隨轉理門。

たとえ処有りて種果は前後と説くも、まさに皆転理の門に随うと知るべし。

如是八識及諸心所,定各別有種子所依。

かくのごとく八識および諸心所は、決定して各別に種子を所依と為す。

次俱有依,有作是說:眼等五識意識為依,此現起時,必有彼故。無別眼等為俱有依,眼等五根即種子故。

次に倶有依について、人有りてかくのごとき説を作す:眼等の五識は意識を以って依と為す。これの現起する時、必ず彼有り。別の眼等を倶有依と為す無し。眼等の五根はすなわち種子なるが故に。

《二十唯識》伽他中言:

《二十唯識》の偈の中に説く:

「識從自種生,似境相而轉,

「識は自種より生じて、境の相の如く転ず。

為成內、外處,佛說彼為十。」

内・外処を成ぜんが為に、仏はそれを十と説く。」

彼頌意說:世尊為成十二處故,說五識種為眼等根,五識相分為色等境,故眼等根即五識種。《觀所緣論》亦作是說:

かの頌の意は:世尊は十二処を成ぜんが為に、五識の種を眼等の根と説き、五識の相分を色等の境と説く。ゆえに眼等の根はすなわち五識の種なり。《観所縁論》もまたかくのごとき説を作す:

「識上色功能,名五根應理,

「識上の色の功能を、名づけて五根と為して理に応ず。

功能與境色,無始互為因。」

功能と境色とは、無始より互いに因と為る。」

彼頌意言:異熟識上能生眼等色識種子名色功能,說為五根,無別眼等,種與色識常互為因,能燻與種遞為因故。

かの頌の意は:異熟識上の能く眼等の色識を生ずる種子を名づけて色の功能といい、五根と説く。別の眼等無し。種と色識とは常に互いに因と為る。能薫と種とは遞りて因と為るが故に。

第七、八識無別此依,恆相續轉,自力勝故。

第七・八識は別にこの依無し。恒に相続して転ず。自力勝れるが故に。

第六意識別有此依,要託末那而得起故。

第六意識は別にこの依有り。末那に托して起こるを得るを要す。

有義:彼說理、教相違。

一義有り:彼らの説は理・教に相違す。

若五色根即五識種,十八界種應成雜亂,然十八界各別有種,諸聖教中處處說故。

もし五色根はすなわち五識の種なれば、十八界の種はまさに雑乱を成ずべし。しかし十八界は各別に種有りて、諸聖教の中に処処に説けり。

又五識種各有能生相、見分異,為執何等名眼等根?若見分種,應識蘊攝;若相分種,應外處攝,便違聖教眼等五根,皆是色蘊內處所攝。

また五識の種は各々能く相・見分の異を生ず。何をか執して名づけて眼等の根と言わん。もし見分の種なれば、まさに識蘊の摂する所ならん。もし相分の種なれば、まさに外処の摂する所ならん。便ち聖教に違す。眼等の五根は皆色蘊・内処の摂する所なり。

又若五根即五識種,五根應是五識因緣,不應說為增上緣攝。

またもし五根はすなわち五識の種なれば、五根はまさに五識の因縁ならん。まさに増上縁の摂する所と説くべからず。

又鼻、舌根即二識種,則應鼻、舌唯欲界繫;或應二識通色界繫,許便俱與聖教相違。眼、耳、身根即三識種,二界、五地為難亦然。

また鼻・舌根はすなわち二識の種なれば、然らばまさに鼻・舌はただ欲界繫ならん。あるいはまさに二識は色界繫に通ずべし。許せば皆聖教に相違す。眼・耳・身根はすなわち三識の種なれば、二界・五地の為の難もまたこの如し。

又五識種既通善、惡,應五色根非唯無記。

また五識の種はすでに善・悪に通ずれば、まさに五色根は並びてただ無記のみならざるべし。

又五識種無執受攝,五根亦應非有執受。

また五識の種は執受の摂する所無きなれば、五根もまたまさに執受有りに非ざるべし。

又五色根若五識種,應意識種即是末那,彼以五根為同法故。

また五色根もし五識の種なれば、まさに意識の種はすなわち末那ならん。彼らは五根を以って同法と為すが故に。

又《瑜伽論》說眼等識皆具三依,若五色根即五識種,依但應二。

また《瑜伽論》に眼等の識は皆三依を具えりと説く。もし五色根はすなわち五識の種なれば、依はただ二のみならん。

又諸聖教說眼等根皆通現種,執唯是種,便與一切聖教相違。

また諸聖教は眼等の根は皆現・種に通ずと説く。ただ種のみと執すれば、便ち一切聖教に相違す。

有避如前所說過難,朋附彼執復轉救言:異熟識中能感五識增上業種,名五色根;非作因緣生五識種,妙符二頌,善順《瑜伽》。

人有りて前の説く所の過難を避けて、かの執に朋附してまた転じて救って説く:異熟識中の能く五識を感ずる増上の業種を、名づけて五色根という。並びて因縁と作して五識の種を生ずるに非ず。妙に二頌に符して、善く《瑜伽》に順う。

彼有虛言都無實義,應五色根非無記故;又彼應非唯有執受,唯色蘊攝,唯內處故;鼻、舌唯應欲界繫故;三根不應五地繫故;感意識業應末那故;眼等不應通現、種故;又應眼等非色根故。又若五識皆業所感,則應一向無記性攝;善等五識既非業感,應無眼等為俱有依,故彼所言非為善救。

彼らは虚言有りて皆実義無し。まさに五色根は無記に非ざるべく、また彼らはまさにただ執受・ただ色蘊の摂する所・ただ内処のみならざるべし。鼻・舌はただまさに欲界繫ならん。三根はまさに五地繫ならざるべし。意識を感ずる業はまさに末那ならん。眼等はまさに現・種に通ぜざるべし。またまさに眼等は色根に非ざるべし。またもし五識は皆業の感ずる所なれば、まさに一向に無記性の摂する所ならん。善等の五識はすでに業感に非ざれば、まさに眼等を倶有依と為す無かるべし。ゆえに彼らの説く所は並びて善救に非ず。

又諸聖教處處皆說阿賴耶識變似色根及根依處、器世間等,如何汝等撥無色根?許眼等識變似色等;不許眼等藏識所變,如斯迷謬,深違教、理。

また諸聖教は処処に皆阿頼耶識は色根および根依処・器世間等の如きを変起すと説く。どうして汝らは色根を撥して無とせん。眼等の識は色等の如きを変起すと許して、眼等は蔵識の変ずる所と許さざる。かくのごとき迷謬は深く教・理に違す。

然伽他說:種子功能名五根者,為破離識實有色根,於識所變似眼根等,以有發生五識用故,假名種子及色功能。非謂色根即識業種。

しかし偈に説く:種子の功能を名づけて五根という。識を離れたる実の色根を破るが為に、識の変ずる所の眼根等の如きに対して、五識を発生する用有るがゆえに、假に名づけて種子および色功能という。並びて色根はすなわち識の業種と説くに非ず。

又緣五境明瞭意識,應以五識為俱有依,以彼必與五識俱故,若彼不依眼等識者,彼應不與五識為依,彼此相依勢力等故。

また五境に縁ずる明了意識は、まさに五識を以って倶有依と為すべし。彼らは必ず五識と倶なるが故に。もし彼らは眼等識に依らざれば、彼らはまさに五識と依と為らざるべし。彼此相依して勢力等しきが故に。

又第七識雖無間斷,而見道等既有轉易,應如六識有俱有依,不爾,彼應非轉識攝,便違聖教轉識有七,故應許彼有俱有依,此即現行第八識攝。如《瑜伽》說有藏識故,得有末那;末那為依,意識得轉。彼論意言現行藏識為依止故,得有末那,非由彼種。不爾,應說有藏識故,意識得轉。

また第七識は間断無きと雖も、しかし見道等はすでに転易有れば、まさに六識の如く倶有依有るべし。然らずんば、彼らはまさに転識の摂する所に非ざるべし。便ち聖教に違す。転識は七有り。ゆえにまさに彼らに倶有依有りと許すべし。これすなわち現行の第八識の摂する所なり。《瑜伽》に説けるが如く、蔵識有れば末那を得、末那を依として意識は転ずるを得。かの論の意は現行の蔵識を依止と為して末那を得るを謂う。並びてかの種に由るに非ず。然らずんば、まさに蔵識有れば意識は転ずるを得と説くべし。

由此彼說理、教相違。

これに由って彼らの説は理・教に相違す。

是故應言前五轉識,一一定有二俱有依,謂五色根、同時意識;第六轉識決定恆有一俱有依,謂第七識,若與五識俱時起者,亦以五識為俱有依;第七轉識決定唯有一俱有依,謂第八識;唯第八識恆無轉變,自能立故,無俱有依。

ゆえにまさに説くべし、前の五転識は一一定に二の倶有依有り。いわゆる五色根・同時の意識。第六の転識は決定して恒に一の倶有依有り。いわゆる第七識。もし五識と倶に起こる時は、もまた五識を以って倶有依と為す。第七の転識は決定してただ一の倶有依のみ有り。いわゆる第八識。唯だ第八識のみ恒に転変無し。自ら能く立つがゆえに、倶有依無し。

有義:此說猶未盡理。第八類餘既同識性,如何不許有俱有依?第七、八識既恆俱轉,更互為依,斯有何失?

一義有り:この説は未だ理を尽くさず。第八は其余と類同じくしてすでに識性に同じければ、どうして倶有依有るを許さざる。第七・八識はすでに恒に倶に転ずれば、更互に依と為る。これ何の失かあらん。

許現起識以種為依,識種亦應許依現識,能燻異熟,為生、長、住依,識種離彼不生、長、住故。

現起の識は種を以って依と為すを許せば、識種もまたまさに現識に依ると許すべし。能く異熟に薫ずるは、生・長・住の依と為る。識種はそれを離れて生・長・住せざるが故に。

又異熟識有色界中能執持身,依色根轉,如契經說:阿賴耶識業風所飄,遍依諸根,恆相續轉;《瑜伽》亦說:眼等六識各別依故,不能執受有色根身。若異熟識不遍依止有色諸根,應如六識非能執受,或所立因有不定失。

また異熟識は有色界中に能く身を執持して、色根に依って転ず。契経に説けるが如く:阿頼耶識は業風の飄する所にて、遍く諸根に依りて恒に相続して転ずと。《瑜伽》もまた説く:眼等の六識は各別に依りて、能く有色根身を執受せずと。もし異熟識は遍く有色の諸根に依止せざれば、まさに六識の如く能く執受するに非ざるべし。あるいは立つる所の因は不定の失有らん。

是故,藏識若現起者,定有一依,謂第七識,在有色界亦依色根;若識種子定有一依,謂異熟識,初燻習位亦依能燻。

ゆえに蔵識もし現起せば、定めて一依有り。いわゆる第七識。有色界に在りてもまた色根に依る。もし識の種子は定めて一依有り。いわゆる異熟識。初の薫習位にてもまた能薫に依る。

餘如前說。

其余は前の説くが如し。

有義:前說皆不應理,未了所依與依別故。

一義有り:先前の説く所は皆理に応えず。未だ所依と依と別有るを了せざるが故に。

「依」謂一切有生滅法,仗因託緣而得生、住,諸所仗託皆說為依,如王與臣互相依等。

「依」とは一切の生滅法有りて、因に仗り縁に托して生・住するを得るを説く。諸々の仗托する所は皆説いて依と為す。王と臣との互いに相依る等の如し。

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