Libo

成唯識論巻第四

唐 · 护法等造,玄奘译 · 第29巻 / 39

諸無學位,無漏九根一切皆是具知根性。有頂雖有遊觀無漏,而不明利,非後三根。

諸々の無学位は無漏の九根は一切倶に是れ具知根性なり。有頂は遊観の無漏有ると雖も、しかし明利ならず。後の三根に非ず。

二十二根自性如是,諸餘門義,如論應知。

二十二根の自性はこの如し。諸々の其余の門義は論の如くまさに知るべし。

成唯識論巻第七

成唯識論巻第八

護法等菩薩造

護法等の菩薩造。

三藏法師玄奘奉詔譯

三蔵法師玄奘詔を奉じて翻訳す。

如是四緣,依十五處,義差別故,立為十因。云何此依十五處立?

かくのごとき四縁は十五処に依って、義差別あるのゆえんに、立てて十因と為す。どうしてこれは十五処に依って立つ。

一、語依處:謂法名、想所起語性,即依此處立隨說因。謂依此語隨見、聞等,說諸義故。此即能說為所說因;有論說此是名、想、見,由如名字取相,執著隨起說故,若依彼說便顯此因是語依處。

一、語依処とは、いわゆる法の名・想の起こす所の語性なり。すなわちこの処に依って随説因を立つ。いわゆるこの語に依って見・聞等に随って諸義を説くのゆえん。これすなわち説く能は説く所の因と為る。論有りてこれは名・想・見と説く。名字に如して相を取るに由って、執著は随って説を起こすのゆえん。もし彼らの説に依れば便ちこの因は語依処を顯示す。

二、領受依處:謂所觀待能、所受性,即依此處立觀待因。謂觀待此令彼諸事或生、或住、或成、或得,此是彼觀待因。

二、領受依処とは、いわゆる観待する所の能・所受性なり。すなわちこの処に依って観待因を立つ。いわゆるこれを観待してそれらの諸事をしてあるいは生じあるいは住しあるいは成じあるいは得しむ。これはそれらの観待因なり。

三、習氣依處:謂內、外種,未成熟位。即依此處,立牽引因。謂能牽引遠自果故。

三、習気依処とは、いわゆる内・外の種の未成熟位なり。すなわちこの処に依って牽引因を立つ。いわゆる能く遠く自果を牽引するのゆえん。

四、有潤種子依處:謂內、外種,已成熟位。即依此處,立生起因。謂能生起近自果故。

四、有潤種子依処とは、いわゆる内・外の種の已成熟位なり。すなわちこの処に依って生起因を立つ。いわゆる能く近き自果を生起するのゆえん。

五、無間滅依處:謂心、心所等無間緣。六、境界依處:謂心、心所所緣緣。七、根依處:謂心、心所所依六根。八、作用依處:謂於所作業、作具、作用,即除種子餘助現緣。九、士用依處:謂於所作業、作者、作用,即除種子餘作現緣。十、真實見依處:謂無漏見,除引自種於無漏法能助引證。總依此六,立攝受因。謂攝受五辦有漏法,具攝受六辦無漏故。

五、無間滅依処とは、いわゆる心・心所等の無間縁。六、境界依処とは、いわゆる心・心所の所縁縁。七、根依処とは、いわゆる心・心所の依る所の六根。八、作用依処とは、いわゆる作する所の業・作具・作用に対して、すなわち種子を除きて其余の助けて現ずる縁。九、士用依処とは、いわゆる作する所の業・作者・作用に対して、すなわち種子を除きて其余の作して現ずる縁。十、真実見依処とは、いわゆる無漏見にして、自種を引くを除きて無漏法に対して能く引証を助く。総じてこの六に依って摂受因を立つ。いわゆる摂受は五は有漏法を辦じ、具に摂受して六は無漏を辦ずるのゆえん。

十一、隨順依處:謂無記、染、善現種諸行,能隨順同類勝品諸法。即依此處,立引發因。謂能引起同類勝行,及能引得無為法故。

十一、随順依処とは、いわゆる無記・染・善の現・種の諸行は能く同類の勝品の諸法に随順す。すなわちこの処に依って引発因を立つ。いわゆる能く同類の勝行を引き起こし、および能く無為法を引得するのゆえん。

十二、差別功能依處:謂有為法,各於自果,有能起證差別勢力。即依此處,立定、異因。謂各能生自界等果,及各能得自乘果故。

十二、差別功能依処とは、いわゆる有為法は各々自果に対して、能く起こし証するの差別勢力有り。すなわちこの処に依って定・異因を立つ。いわゆる各々能く自界等の果を生じ、および各々能く自乗の果を得るのゆえん。

十三、和合依處:謂從領受,乃至差別功能依處,於所生、住、成、得果中,有和合力。即依此處,立同事因。謂從觀待乃至定、異,皆同生等,一事業故。

十三、和合依処とは、いわゆる領受より乃至差別功能の依処に至るまで、生ずる所・住する所・成ずる所・得る所の果の中に、和合の力有り。すなわちこの処に依って同事因を立つ。いわゆる観待より乃至定・異に至るまで、倶に同じく生等の一事業なるのゆえん。

十四、障礙依處:謂於生、住、成、得事中,能障礙法。即依此處,立相違因。謂彼能違生等事故。

十四、障碍依処とは、いわゆる生・住・成・得の事の中に於て、能く障碍する法。すなわちこの処に依って相違因を立つ。いわゆるそれらは能く生等の事に違するのゆえん。

十五、不障礙依處:謂於生、住、成、得事中,不障礙法。即依此處,立不相違因。謂彼不違生等事故。

十五、不障碍依処とは、いわゆる生・住・成・得の事の中に於て、障碍せざる法。すなわちこの処に依って不相違因を立つ。いわゆるそれらは生等の事に違せざるのゆえん。

如是十因,二因所攝:一、能生;二、方便。〈菩薩地〉說:「牽引種子、生起種子,名能生因;所餘諸因,方便因攝。」

かくのごとき十因は二因の摂する所なり。一、能生。二、方便。〈菩薩地〉に説く:「牽引種子・生起種子を名づけて能生因という。余りの諸因は方便因の摂する所。」

此說牽引、生起、引發、定異、同事、不相違中,諸因緣種未成熟位,名牽引種;已成熟位名生起種。彼六因中,諸因緣種,皆攝在此二位中故。雖有現起是能生因,如四因中生自種者,而多間斷,此略不說。或親辦果亦立種名,如說現行穀、麥等種。

これは牽引・生起・引発・定異・同事・不相違の中に、諸々の因縁種の未成熟位を名づけて牽引種といい、已成熟位を名づけて生起種というを説く。かの六因の中の諸々の因縁種は倶にこの二位の中に収攝するのゆえん。現起有りて是れ能生因なると雖も、四因の中の自種を生ずるが如く、しかし多く間断す。ここに略して説かず。あるいは親しく果を辦ずるもまた種の名を立つ。現行の穀・麦等の種と説くが如し。

所餘因謂初、二、五、九,及六因中非因緣法,皆是生、熟因緣種餘,故總說為方便因攝。

余りの因とは、いわゆる初・二・五・九および六因の中の非因縁法は、倶に是れ生・熟の因縁種の余なり。ゆえに総じて説いて方便因の摂する所と為す。

非此二種,唯屬彼二因;餘四因中,有因緣種故。非唯彼八,名所餘因,彼二因亦有非因緣種故。

この二種に非ずして、ただかの二因に属するに非ず。其余の四因の中に因縁種有るのゆえん。ただかの八のみに非ずして、名づけて余りの因という。かの二因にもまた非因縁の種有るのゆえん。

有尋等地,說生起因,是能生因,餘方便攝。

尋等の地有りて、生起因を説いて是れ能生因と為す。其余は方便の摂する所なり。

此文意說:六因中現種是因緣者皆名生起因;能親生起自類果故。此所餘因,皆方便攝。

この文の意は説く:六因の中に現・種の因縁なるは倶に名づけて生起因という。能く親しく自類の果を生起するのゆえん。この余りの因は倶に方便の摂する所なり。

非此生起,唯屬彼因,餘五因中,有因緣故。非唯彼九,名所餘因,彼生起因中,有非因緣故。

この生起に非ずしてただかの因に属するに非ず。其余の五因の中に因縁有るのゆえん。ただかの九のみに非ずして名づけて余りの因という。かの生起因の中に非因縁有るのゆえん。

或〈菩薩地〉所說「牽引、生起種子」,即彼二因;「所餘諸因」即彼餘八。

あるいは〈菩薩地〉の説く所の「牽引・生起の種子」はすなわちかの二因。「余りの諸因」はすなわちかの余の八。

雖二因內,有非能生因,而因緣種勝,顯故偏說;雖餘因內,有非方便因,而增上者多,顯故偏說。

二因の内に能生因に非ざる有ると雖も、しかし因縁種は勝れて顯なるのゆえんに偏りて説く。其余の因の内に方便因に非ざる有ると雖も、しかし増上の多く顯なるのゆえんに偏りて説く。

有尋等地說:「生起因是能生因;餘方便」者,「生起」即是彼生起因;「餘因」應知即彼餘九。

尋等の地に説く:「生起因は是れ能生因。其余は方便。」「生起」とはすなわちかの生起因なり。「其余の因」はまさに知るべし、すなわちかの余の九なり。

雖生起中有非因緣種,而去果近,親顯故偏說;雖牽引中亦有因緣種,而去果遠,親隱故不說。餘方便攝,準上應知。

生起の中に非因縁種有ると雖も、しかし果に去ること近く親顯なるのゆえんに偏りて説く。牽引の中にもまた因縁種有ると雖も、しかし果に去ること遠く親隱なるのゆえんに説かず。其余の方便の摂する所は上に准じてまさに知るべし。

所說四緣,依何處立?復如何攝十因、二因?

説く所の四縁は何の処に依って立つ。またどうして十因・二因を収攝する。

論說因緣,依種子立;依無間滅,立等無間;依境界,立所緣;依所餘,立增上。

論に因縁を説いて種子に依って立ち、無間滅に依って等無間を立ち、境界に依って所縁を立ち、余りに依って増上を立つと説く。

此中種子,即是三、四、十一、十二、十三、十五,六依處中因緣種攝;雖現四處,亦有因緣,而多間斷,此略不說。或彼亦能親辦自果,如外麥等,亦立種名。或種子言,唯屬第四,親、疎、隱、顯,取捨如前。

ここに種子とはすなわち三・四・十一・十二・十三・十五の六依処の中の因縁種の摂する所なり。現は四処に在りてもまた因縁有ると雖も、しかし多く間断す。ここに略して説かず。あるいはそれらもまた能く親しく自果を辦ず。外の麦等の如く、もまた種の名を立つ。あるいは種子の言はただ第四に属す。親・疎・隱・顯の取捨は前の如し。

言無間滅、境界處者,應知總顯二緣依處,非唯五、六,餘依處中,亦有中間二緣義故。或唯五、六,餘處雖有,而少、隱故,略不說之。

無間滅・境界の処を説くは、まさに総じて二縁の依処を顯すと知るべし。ただ五・六のみに非ず。其余の依処の中にもまた中間の二縁の義有るのゆえん。あるいはただ五・六のみ。其余の処は有ると雖も、しかし少く隱なるのゆえんに、略してそれを説かず。

論說因緣,能生因攝;增上緣性,即方便因;中間二緣,攝受因攝。雖方便內具後三緣,而增上多,故此偏說;餘因亦有中間二緣,然攝受中,顯故偏說。初能生攝,進退如前。

論に因縁を説いて能生因の摂する所と為す。増上縁性はすなわち方便因。中間の二縁は摂受因の摂する所。方便の内は後の三縁を具えると雖も、しかし増上多し。ゆえにここに偏りて説く。其余の因にもまた中間の二縁有ると雖も、しかし摂受の中に顯なるのゆえんに偏りて説く。初の能生の摂する所は進退して前の如し。

所說因、緣,必應有果。此果有幾?依何處得?

説く所の因・縁は必ずまさに果有るべし。この果はいくつか有る。何の処に依って得る。

果有五種:一者異熟,謂有漏善及不善法所招自相續異熟生無記;二者等流,謂習善等所引同類,或似先業,後果隨轉;三者離繫,謂無漏道斷障所證善無為法;四者士用,謂諸作者,假諸作具,所辦事業;五者增上,謂除前四,餘所得果。

果は五種有り。一は異熟にして、いわゆる有漏の善および不善法の招く所の自相続の異熟生の無記。二は等流にして、いわゆる善等を習する所の引く同類、あるいは先業に似て後の果は随転す。三は離繫にして、いわゆる無漏道の障を断じて証する所の善無為法。四は士用にして、いわゆる諸々の作者は諸々の作具を假りて、辦ずる所の事業。五は増上にして、いわゆる前の四を除きて其余の得る所の果。

《瑜伽》等說:習氣依處,得異熟果;隨順依處,得等流果;真見依處,得離繫果;士用依處,得士用果;所餘依處,得增上果。

《瑜伽》等に説く:習気依処は異熟果を得、随順依処は等流果を得、真見依処は離繫果を得、士用依処は士用果を得、余りの依処は増上果を得。

習氣處言,顯諸依處感異熟果一切功能;隨順處言,顯諸依處引等流果一切功能;真見處言,顯諸依處證離繫果一切功能;士用處言,顯諸依處招士用果一切功能;所餘處言,顯諸依處得增上果一切功能。不爾,便應太寬、太狹。

習気処の言は諸依処の異熟果を感ずる一切の功能を顯す。随順処の言は諸依処の等流果を引く一切の功能を顯す。真見処の言は諸依処の離繫果を証する一切の功能を顯す。士用処の言は諸依処の士用果を招く一切の功能を顯す。余りの処の言は諸依処の増上果を得る一切の功能を顯す。然らずんば便ちまさに太だ寛・太だ狭なるべし。

或習氣者,唯屬第三,雖異熟因餘處亦有,此處亦有非異熟因;而異熟因,去果相遠,習氣亦爾,故此偏說。隨順唯屬第十一處,雖等流果餘處亦得,此處亦得非等流果;而此因招勝行相顯,隨順亦爾,故偏說之。真見處言,唯詮第十,雖證離繫餘處亦能,此處亦能得非離繫;而此證離繫,相顯故偏說。士用處言,唯詮第九,雖士用果餘處亦招,此處亦能招增上等;而名相顯,是故偏說。所餘唯屬餘十一處,雖十一處亦得餘果,招增上果餘處亦能;而此十一多招增上,餘已顯餘,故此偏說。

あるいは習気はただ第三に属す。異熟因は其余の処にもまた有ると雖も、ここの処にもまた非異熟因有り。しかし異熟因は果に去ること相遠にして、習気もまたこの如し。ゆえにここに偏りて説く。随順はただ第十一処に属す。等流果は其余の処もまた得ると雖も、ここの処もまた非等流果を得。しかしこの因は勝行を招いて相顯なり。随順もまたこの如し。ゆえに偏りてそれを説く。真見処の言はただ第十を詮す。離繫を証するは其余の処もまた能と雖も、ここの処もまた能く非離繫を得。しかしこの証離繫は相顯なるのゆえんに偏りて説く。士用処の言はただ第九を詮す。士用果は其余の処もまた招くと雖も、ここの処もまた能く増上等を招く。しかし名・相顯なるのゆえんに偏りて説く。余りはただ余の十一処に属す。十一処もまた其余の果を得ると雖も、増上果を招くは其余の処もまた能と雖も、しかしこの十一は多く増上を招き、其余は已に其余を顯せり。ゆえにここに偏りて説く。

如是即說此五果中:若異熟果,牽引、生起、定異、同事、不相違因,增上緣得;若等流果,牽引、生起、攝受、引發、定異、同事、不相違因,初、後緣得;若離繫果,攝受、引發、定異、同事、不相違因,增上緣得;若士用果,有義:觀待、攝受、同事、不相違因,增上緣得,有義:觀待、牽引、生起、攝受、引發、定異、同事、不相違因,除所緣緣,餘三緣得;若增上果,十因、四緣一切容得。

かくのごとくすなわちこの五果の中にて説く:もし異熟果は牽引・生起・定異・同事・不相違因・増上縁にて得。もし等流果は牽引・生起・摂受・引発・定異・同事・不相違因・初・後の縁にて得。もし離繫果は摂受・引発・定異・同事・不相違因・増上縁にて得。もし士用果は、一義有り:観待・摂受・同事・不相違因・増上縁にて得。一義有り:観待・牽引・生起・摂受・引発・定異・同事・不相違因・所縁縁を除きて其余の三縁にて得。もし増上果は十因・四縁一切容く得。

傍論已了,應辯正論。

傍論已に了れり。まさに正論を弁ずべし。

本識中種,容作三緣,生現分別,除等無間。謂各親種,是彼因緣;為所緣緣,於能緣者;若種於彼,有能助力,或不障礙,是增上緣。

本識の中の種は三縁を作すを容して、現の分別を生じ、等無間を除く。いわゆる各々の親種はそれらの因縁。所縁縁と為るは能縁するに対して。もし種はそれらに対して能く助ける力有り、あるいは障碍せざれば、是れ増上縁。

生淨現行,應知亦爾。

浄の現行を生ずるもまさに然るべしと知る。

現起分別,展轉相望,容作三緣,無因緣故。

現起の分別は展転して相望みて三縁を作すを容す。因縁無きのゆえん。

謂有情類自、他,展轉容作二緣,除等無間。

いわゆる有情類の自・他は展転して二縁を作すを容し、等無間を除く。

自八識聚,展轉相望,定有增上緣,必無等無間。所緣緣義,或無或有:八於七有;七於八無。餘七非八所仗質故。第七於六五無一有,餘六於彼一切皆無。第六於五無,餘五於彼有。五識唯託第八相故。

自の八識聚は展転して相望みて、定めて増上縁有りて、必ず等無間無し。所縁縁の義はあるいは無しあるいは有り。八は七に対して有り。七は八に対して無し。其余の七は八の仗る所の質に非ざるのゆえん。第七は六・五に対して一無し一有り。其余の六はそれらに対して一切倶に無し。第六は五に対して無し。其余の五はそれらに対して有り。五識はただ第八の相に託するのゆえん。

自類前後,第六容三,餘除所緣,取現境故。許五後見緣前相者,五、七前後亦有三緣。前七於八,所緣容有,能燻成彼相、見種故。

自類の前後は第六は三を容す。其余は所縁を除く。現境を取るのゆえん。五の後の見は前の相に縁ずと許せば、五・七の前後もまた三縁有り。前の七は八に対して所縁は容く有り。能く薫じてそれらの相・見の種を成ずるのゆえん。

同聚異體,展轉相望,唯有增上。諸相應法,所仗質同,不相緣故。或依見分,說不相緣;依相分說,有相緣義。謂諸相分,互為質起,如識中種,為觸等相質。不爾,無色,彼應無境故;設許變色,亦定緣種,勿見分境不同質故。

同聚・異体は展転して相望みて、ただ増上のみ有り。諸々の相応法は仗る所の質同じくして相縁せざるのゆえん。あるいは見分に依って相縁せずと説き、相分に依って相縁の義有りと説く。いわゆる諸相分は互いに質と為して起こる。識の中の種の触等の相の質と為るが如し。然らずんば無色はそれらはまさに境無かるべきのゆえん。設し色を変ずるを許すも、もまた定めて種に縁ず。見分の境をして同じ質ならざらしむること莫れとのゆえん。

同體相分,為見二緣;見分於彼,但有增上。

同体の相分は見の為に二縁。見分はそれらに対してただ増上のみ。

見與自證,相望亦爾。餘二展轉,俱作二緣。此中不依種相分說,但說現起互為緣故。

見と自証とは相望むるもまたこの如し。其余の二は展転して倶に二縁を作す。ここに種の相分に依って説かず。ただ現起の互いに縁と為るを説くのゆえん。

淨八識聚,自、他展轉,皆有所緣,能遍緣故,唯除見分,非相所緣,相分理無能緣用故。

浄の八識聚は自・他の展転に倶に所縁有り。能く遍く縁ずるのゆえん。ただ見分を除きて、相の所縁に非ず。相分は理に能縁の用無きのゆえん。

既現分別緣種現生,種亦理應緣現種起,現種於種能作幾緣?種必不由中二緣起,待心、心所立彼二故。現於親種具作二緣,與非親種但為增上。種望親種亦具二緣,於非親種亦但增上。

すでに現の分別は種に縁じて現を生ぜば、種もまた理まさに現に縁じて種を起こすべし。現・種は種に対して能く幾つの縁を作す。種は必ず中の二縁に由って起こらず。心・心所を待ってかの二を立つるのゆえん。現は親種に対して具に二縁を作し、非親種に対してはただ増上と為るのみ。種は親種に望めばもまた二縁を具え、非親種に対してもただ増上のみ。

依斯內識互為緣起,分別因、果,理、教皆成。所執外緣,設有無用,況違理、教,何固執為?

この内識に依って互いに縁起と為り、因・果を分別すれば、理・教倶に成立す。執する所の外縁は設し有るも用無し。いわんや理・教に違するをや。なんぞ必ず固執せんや。

雖「分別」言,總顯三界心及心所,而隨勝者,諸聖教中多門顯示,或說為二、三、四、五等。如餘論中,具廣分別。

「分別」の言は総じて三界の心および心所を顯すと雖も、しかし勝れるに随って、諸聖教の中に多門に顯示して、あるいは説いて二・三・四・五等と為す。其余の論の中の如く具に広く分別す。

雖有內識,而無外緣,由何有情生死相續?

内識有ると雖も、しかし外縁無し。何に由って有情は生死相続するや。

頌曰:

頌に説く:

19由諸業習氣,二取習氣俱;

諸業の習気に由って、二取の習気と倶なり。

前異熟既盡,復生餘異熟。

前の異熟すでに尽きて、更に其余の異熟を生ず。

論曰:諸業謂福、非福、不動,即有漏善、不善思業。業之眷屬亦立業名,同招引、滿異熟果故。

論に説く:諸業とはいわゆる福・非福・不動にして、すなわち有漏の善・不善の思業なり。業の眷属もまた業の名を立つ。同じく引・満の異熟果を招くのゆえん。

此雖才起,無間即滅,無義能招當異熟果,而燻本識,起自功能,即此功能,說為習氣,是業氣分,燻習所成,簡曾現業,故名習氣。

これは纔めて起こるに無間にすなわち滅すと雖も、当の異熟果を招く義無きと雖も、しかし本識を薫じて自らの功能を起こす。すなわちこの功能を説いて習気と為す。是れ業の気分にして薫習の成ずる所にして、曾現の業を簡別す。ゆえに名づけて習気という。

如是習氣,展轉相續,至成熟時,招異熟果,此顯當果勝增上緣。

かくのごとき習気は展転相続して、成熟するに至って異熟果を招く。これは当果の勝の増上縁を顯示す。

相見、名色、心及心所、本末,彼取皆二取攝。彼所燻發,親能生彼本識上功能,名二取習氣。此顯來世異熟果心,及彼相應諸因緣種。「俱」謂業種、二取種俱,是疎、親緣,互相助義。

相見・名色・心および心所・本末、それらの取は倶に二取の摂する所なり。それらの薫発する所は親しくそれらの本識上の功能を生ずる能くして、名づけて二取の習気という。これは来世の異熟果心およびそれらに相応の諸因縁種を顯示す。「倶」とはいわゆる業種・二取種の倶にして、是れ疎・親の縁にして互相助の義なり。

業招生顯,故頌先說。

業は生を招いて顯なり。ゆえに頌は先に説く。

The original text is in the public domain. The Japanese is a machine-assisted translation of this library’s own Chinese paraphrase, checked against a fixed glossary so that technical terms match the definitions used elsewhere on this site. It is a reading aid and does not replace the original.