成唯識論巻第四
又色等境,非色、似色,非外、似外,如夢所緣,不可執為是實外色。
また色等の境は色に非ずして色に似たり、外に非ずして外に似たり。夢の縁ずる所の如し。実の外色と執すべからず。
若覺時,色皆如夢境不離識者,如從夢覺知彼唯心,何故覺時於自色境不知唯識?
もし覚の時に色は倶に夢境の如く識を離れざれば、夢より覚めてそれらは唯心と知るが如く、なんぞ覚の時に自色の境に対して唯識を知らざる。
如夢未覺不能自知,要至覺時方能追覺,覺時境色應知亦爾,未真覺位不能自知,至真覺時亦能追覺。未得真覺恆處夢中,故佛說為生死長夜,由斯未了色境唯識。
夢の未だ覚めざるは自ら知ること能わざるが如く、覚の時に至るを要して乃ち能く追覚す。覚時の境色もまさに然るべしと知る。未だ真の覚位に至らざれば自ら知ること能わず、真の覚時に至ればもまた能く追覚す。未だ真覚を得ざれば恒に夢中に処る。ゆえに仏は説いて生死の長夜と為す。これに由って未だ色境は唯識を了せず。
外色實無,可非內識境;他心實有,寧非自所緣?
外色は実に無し。内識の境と為すべからず。他心は実に有りて、どうして自の所縁に非ざらん。
誰說他心非自識境?但不說彼是親所緣。
誰か他心は自識の境に非ずと説く。ただそれらは親しき所縁と説かざるのみ。
謂識生時無實作用,非如手等親執外物,日等舒光親照外境;但如鏡等似外境現,名「了他心」,非「親能了」。親所了者,謂自所變。
いわゆる識の生ずる時は実の作用無し。手等の親しく外物を執り、日等の光を舒べて親しく外境を照らすに似ず。ただ鏡等の外境に似て現ずるが如く、名づけて「他心を了す」と為りて、「親しく能く了す」に非ず。親しく了する所はいわゆる自らの変ずる所なり。
故契經言:無有少法能取餘法,但識生時,似彼相現,名取彼物。
ゆえに契経に説く:少法有りて能く其余の法を取る無し。ただ識の生ずる時にそれの相に似て現ずるを、名づけて彼の物を取るという。
如緣他心,色等亦爾。
他心に縁ずるが如く、色等もまたこの如し。
既有異境,何名唯識?
すでに異境有れば、どうして名づけて唯識という。
奇哉!固執觸處生疑!豈唯識教但說一識?
奇なるかな。固く触処に執して疑を生ず。あに唯識の教はただ一識を説くのみならんや。
不爾,如何?
この如しに非ず。いかんとなれば。
汝應諦聽:若唯一識,寧有十方凡聖、尊卑、因果等別?誰為誰說?何法何求?故「唯識」言有深意趣。「識」言總顯一切有情各有八識、六位心所,所變相、見、分位差別及彼空理所顯真如。識自相故,識相應故,二所變故,三分位故,四實性故,如是諸法皆不離識,總立識名。「唯」言,但遮愚夫所執定離諸識實有色等。
汝まさに諦聴すべし。もし唯だ一識ならば、どうして十方の凡聖・尊卑・因果等の分別有らん。誰か誰の為に説かん。何の法をか何を求めん。ゆえに「唯識」の言は深き意趣有り。「識」の言は総じて一切の有情は各々八識・六位の心所・変ずる所の相・見・分位の差別およびそれらの空理の顯す所の真如を顯す。識の自相なるのゆえん、識の相応なるのゆえん、二の所変なるのゆえん、三の分位なるのゆえん、四の実性なるのゆえんに、かくのごとき諸法は倶に識を離れず。総じて識の名を立つ。「唯」の言はただ愚夫の執する所の定めて諸識を離れたる実の色等有るを遮る。
若如是知唯識教意,便能無倒善備資糧速入法空,證無上覺,救拔含識生死輪迴;非全撥無惡取空者,違背教理能成是事,故定應信一切唯識。
もしかくのごとく唯識の教の意を知れば、便ち能く顛倒無くして善く資糧を備えて、速やかに法空に入り、無上の覚を証して、含識の生死輪回を救抜す。全く撥いて悪取空するに非ざるは、教理に違背して能くこの事を成ず。ゆえに決定してまさに一切は唯識を信ずべし。
若唯有識都無外緣,由何而生種種分別?
もし唯だ識有りて倶に外縁無からば、何に由って種種の分別を生ずるや。
頌曰:
頌に説く:
18由一切種識,如是如是變,
一切種の識に由って、是の如く是の如く変じ、
以展轉力故,彼彼分別生。
展転の力を以ってするのゆえんに、彼彼の分別は生ず。
論曰:「一切種識」謂本識中能生自果功能差別,此生等流、異熟、士用、增上果故,名一切種,除離繫者,非種生故,彼雖可證,而非種果,要現起道,斷結得故,有展轉義,非此所說,此說能生分別種故。此識為體,故立識名,種離本識無別性故。「種識」二言,簡非種識;有識非種;種非識故。又「種識」言,顯識中種,非持種識,後當說故。
論に説く:「一切種識」とは、いわゆる本識の中に自果を生ずる能くする功能の差別にして、これは等流・異熟・士用・増上の果を生ずるのゆえんに、名づけて一切種という。離繫のを除く。種の生ずるに非ざるのゆえん。それらは証すべきと雖も、しかし種の果に非ず。現起の道を要して結を断じて得るのゆえん。展転の義有りて、ここに説く所に非ず。ここに分別を生ずる能くする種を説くのゆえん。この識を体と為す。ゆえに識の名を立つ。種は本識を離れて別の性無きのゆえん。「種識」の二言は種識に非ざるを簡別す。識有りて種に非ず。種にして識に非ざるのゆえん。また「種識」の言は識の中の種を顯示す。種を持する識に非ず。後にまさに説かんのゆえん。
此識中種餘緣助故,即便如是如是轉變,謂從生位轉至熟時。顯變種多,重言「如是」。謂一切種攝三燻習,共、不共等識種盡故。
この識の中の種は其余の縁の助する所に由って、便ち是の如く是の如く転変す。いわゆる生位より熟時に転ずるに至る。変ずる種の多きを顯示して「是の如く」を重言す。いわゆる一切種は三の薫習を収攝す。共・不共等の識種を尽くすのゆえん。
「展轉力」者,謂八現識及彼相應相、見分等,彼皆互有相助力故。
「展転力」とは、いわゆる八の現識およびそれらに相応の相・見分等にして、それらは倶に互いに相助の力有るのゆえん。
即現識等,總名「分別」,虛妄分別為自性故,「分別」類多,故言「彼彼」。
すなわち現の識等は総じて名づけて「分別」という。虚妄分別を以って自性と為すのゆえん。「分別」の類は多きがゆえに「彼彼」と説く。
此頌意說:雖無外緣,由本識中有一切種轉變差別,及以現行八種識等展轉力故,彼彼分別而亦得生,何假外緣方起分別?
この頌の意は説く:外縁無きと雖も、本識の中に一切種の転変の差別有り、および現行の八種識等の展転の力を以ってするのゆえんに、彼彼の分別もまた生ずるを得。何の外縁を假って乃ち分別を起こさんや。
諸淨法起應知亦然,淨種現行為緣生故。
諸浄法の起こるもまさに然るべしと知る。浄種・現行を縁として生ずるのゆえん。
所說種、現緣生分別,云何應知此緣生相?
説く所の種・現の縁生の分別は、どうしてこの縁生の相を知らん。
緣且有四。
縁は且く四有り。
一、因緣:謂有為法親辦自果。
一、因縁とは、いわゆる有為法は親しく自果を辦ず。
此體有二:一、種子;二、現行。種子者,謂本識中善、染、無記、諸界、地等功能差別,能引次後自類功能及起同時自類現果,此唯望彼是因緣性。現行者,謂七轉識及彼相應所變相、見、性、界、地等,除佛果善、極劣無記,餘燻本識生自類種,此唯望彼是因緣性。
この体は二有り。一、種子。二、現行。種子とは、いわゆる本識の中の善・染・無記・諸界・地等の功能の差別にして、能く次後の自類の功能を引きおよび同時の自類の現果を起こす。これはただそれらに望めば是れ因縁性なり。現行とは、いわゆる七転識およびそれらに相応の変ずる所の相・見・性・界・地等にして、仏果の善・極劣の無記を除きて、其余は本識を薫じて自類の種を生ず。これはただそれらに望めば是れ因縁性なり。
第八心品無所燻故,非簡所依獨能燻故,極微、圓故,不燻成種。現行同類展轉相望皆非因緣,自種生故;一切異類展轉相望亦非因緣,不親生故。
第八の心品は薫する所無きのゆえん、簡の所依は独り能く薫ずに非ざるのゆえん、極微・円なるのゆえんに、薫じて種を成さず。現行の同類は展転して相望むるに倶に因縁に非ず。自種の生ずる所なるのゆえん。一切の異類の展転して相望むるもまた因縁に非ず。親しく生ぜざるのゆえん。
有說異類、同類現行展轉相望為因緣者,應知假說,或隨轉門。有唯說種是因緣性,彼依顯勝,非盡理說,聖說轉識與阿賴耶展轉相望為因緣故。
人有りて異類・同類の現行は展転して相望みて因縁と為すと説くは、まさに假説と知るべし。あるいは転門に随う。ただ種を説いて因縁性と為す有るは、彼らは顯勝に依る。理を尽くして説くに非ず。聖は転識と阿頼耶とは展転して相望みて因縁と為ると説くのゆえん。
二、等無間緣,謂八現識及彼心所前聚於後自類無間,等而開導,令彼定生。
二、等無間縁とは、いわゆる八の現識およびそれらの心所は前の聚は後の自類に対して無間にして、等しくして開導して、それらをして定めて生ぜしむ。
多同類種俱時轉故,如不相應非此緣攝,由斯八識非互為緣。心所與心雖恆俱轉,而相應故,和合似一,不可施設離別殊異,故得互作等無間緣。入無餘心最極微劣,無開導用,又無當起等無間法,故非此緣。云何知然?論有誠說:若此識等無間,彼識等決定生,即說此是彼等無間緣故。
多くの同類の種は倶時に転ずるのゆえん、不相応の如く是れこの縁の摂する所に非ず。これに由って八識は互いに縁と為さず。心所と心とは恒に倶に転ずると雖も、しかし相応するのゆえんに、和合して一に似たり。施設して別離殊異すべからず。ゆえに互いに等無間縁を作すを得。無余に入る心は最極微劣にして開導の用無く、また当に起こるべき等無間の法無し。ゆえに是れこの縁に非ず。どうしてかくのごときを知る。論に誠説有り:もしこの識の等無間なれば、かの識等は決定して生ず。便ちこれを説いてかれが等無間縁と為すのゆえん。
即依此義,應作是說:阿陀那識三界九地皆容互作等無間緣,下、上,死、生相開導故,有漏無間有無漏生;無漏定無生有漏者,鏡智起已必無、斷故,善與無記相望亦然。
すなわちこの義に依って、まさにかくのごとき説を作すべし。阿陀那識は三界九地に倶に互いに等無間縁を作すを容す。下・上・死・生の相開導するのゆえん。有漏は無間に無漏の生ずる有り。無漏は決定して有漏の生ずる無し。鏡智の起こり已って必ず無・断なるのゆえん。善と無記と相望むるもまたこの如し。
此何界後引生無漏?
これは何の界の後に無漏を引生する。
或從色界,或欲界後。
あるいは色界より、あるいは欲界の後。
謂諸異生求佛果者,定色界後引生無漏,彼必生在淨居天上大自在宮得菩提故。
いわゆる諸異生の仏果を求むるは、定めて色界の後に無漏を引生す。彼らは必ず浄居天の上大自在宮に生じて菩提を得るのゆえん。
二乘迴趣大菩提者,定欲界後引生無漏,迴趣留身唯欲界故,彼雖必往大自在宮方得成佛,而本願力所留生身是欲界故。
二乗の大菩提に回趣するは、定めて欲界の後に無漏を引生す。回趣し身を留むるはただ欲界なるのゆえん。彼らは必ず大自在宮に往いて乃ち仏を成ずるを得ると雖も、しかし本願力の留むる所の生身は欲界なるのゆえん。
有義:色界亦有聲聞迴趣大乘願留身者,既與教理俱不相違,是故聲聞第八無漏色界心後亦得現前。然五淨居無迴趣者,經不說彼發大心故。
一義有り:色界にもまた声聞の大乗に回趣して願して身を留むる有り。すでに教理と倶に相違せざれば、ゆえに声聞の第八の無漏は色界の心の後にもまた現前を得。しかし五浄居は回趣無し。経に彼らの大心を発するを説かざるのゆえん。
第七轉識三界九地亦容互作等無間緣,隨第八識生處繫故。有漏、無漏容互相生,十地位中得相引故。善與無記相望亦然,於無記中,染與不染亦相開導,生空智果前、後位中得相引故。此欲、色界有漏得與無漏相生,非無色界,地上菩薩不生彼故。
第七転識は三界九地もまた互いに等無間縁を作すを容す。第八識の生ずる処の繋に随うのゆえん。有漏・無漏は互いに相生を容す。十地位の中に相引くを得るのゆえん。善と無記と相望むるもまたこの如し。無記の中に於て染と不染ともまた相開導す。生空智果の前・後の位の中に相引くを得るのゆえん。これは欲・色界の有漏は無漏と相生するを得。無色界に非ず。地上の菩薩はそこに生ぜざるのゆえん。
第六轉識三界九地有漏無漏、善不善等,各容互作等無間緣,潤生位等更相引故,初起無漏唯色界後,決擇分善唯色界故。
第六転識は三界九地の有漏無漏・善不善等は各々互いに等無間縁を作すを容す。潤生位等の更に相引くのゆえん。初めて無漏を起こすはただ色界の後のみ。決択分の善はただ色界なるのゆえん。
眼、耳、身識二界二地,鼻、舌兩識一界一地,自類互作等無間緣,善等相望應知亦爾。
眼・耳・身識は二界二地、鼻・舌の両識は一界一地にて、自類互いに等無間縁を作す。善等の相望むるもまさに然るべしと知る。
有義:五識有漏、無漏自類互作等無間緣,未成佛時容互起故。
一義有り:五識の有漏・無漏は自類互いに等無間縁を作す。未だ仏を成らざる時は互いに起こるを容すのゆえん。
有義:無漏有漏後起,非無漏後容起有漏。無漏五識非佛無故;彼五色根定有漏故;是異熟識相分攝故;有漏不共必俱同境根發無漏識,理不相應故;此二於境明、昧異故。
一義有り:無漏は有漏の後に起こる。無漏の後に有漏を起こるを容するに非ず。無漏の五識は仏に非ざれば無きのゆえん。それらの五色根は定めて有漏なるのゆえん。是れ異熟識の相分の摂する所なるのゆえん。有漏は不共にして必ず倶に境を同じくする根は無漏識を発す。理相応せざるのゆえん。この二は境に対して明・昧異なるのゆえん。
三、所緣緣:謂若有法是帶己相心或相應所慮、所託。
三、所縁縁とは、いわゆるもし法有りて己の相を帯びたる心あるいは相応の慮る所・託する所。
此體有二:一、親;二、疎。若與能緣體不相離,是見分等內所慮託,應知彼是親所緣緣;若與能緣體雖相離,為質能起內所慮託,應知彼是疎所緣緣。
この体は二有り。一、親。二、疎。もし能縁の体と相離れざれば、是れ見分等の内の慮託する所なり。まさにそれらは親しき所縁縁と知るべし。もし能縁の体と相離るると雖も、質と為して能く内の慮託する所を起こさば、まさにそれらは疎なる所縁縁と知るべし。
親所緣緣能緣皆有,離內所慮託必不生故。疎所緣緣能緣或有,離外所慮託亦得生故。
親しき所縁縁は能縁に倶に有り。内の慮託する所を離れば必ず生ぜざるのゆえん。疎なる所縁縁は能縁あるいは有り。外の慮託する所を離れてもまた生ずるを得るのゆえん。
第八心品:有義:唯有親所緣緣,隨業因力任運變故。
第八の心品は、一義有り:ただ親しき所縁縁のみ有り。業因の力に随って任運に変ずるのゆえん。
有義:亦定有疎所緣緣,要仗他變質自方變故。
一義有り:もまた定めて疎なる所縁縁有り。他の変ずる所の質を仗るを要して自は乃ち変ずるのゆえん。
有義:二說俱不應理。自、他身、土可互受用,他所變者為自質故。自種於他無受用理,他變為此不應理故,非諸有情種皆等故,應說此品疎所緣緣,一切位中有、無不定。
一義有り:二の説は倶に理に応えず。自・他の身・土は互いに受用すべきにして、他の変ずる所は自の質と為るのゆえん。自種は他に対して受用の理無し。他は変じてこれと為るは理に応えざるのゆえん。諸有情の種は倶に等しきに非ざるのゆえん。まさにこの品は疎なる所縁縁は一切位の中に有・無定まらずと説くべし。
第七心品未轉依位是俱生故,必仗外質,故亦定有疎所緣緣;已轉依位此非定有,緣真如等無外質故。
第七の心品は未だ転依せざる位は倶生なるのゆえん、必ず外質を仗る。ゆえにもまた定めて疎なる所縁縁有り。已に転依せし位にはこれは定めて有に非ず。真如等に縁ずるに外質無きのゆえん。
第六心品行相猛利,於一切位能自在轉,所仗外質或有、或無,疎所緣緣有、無不定。
第六の心品は行相猛利にして、一切位に於て能く自在に転ず。仗る所の外質はあるいは有りあるいは無し。疎なる所縁縁は有・無定まらず。
前五心品未轉依位,麁、鈍、劣故,必仗外質,故亦定有疎所緣緣;已轉依位此非定有,緣過、未等,無外質故。
前の五心品は未だ転依せざる位は麁・鈍・劣なるのゆえん、必ず外質を仗る。ゆえにもまた定めて疎なる所縁縁有り。已に転依せし位にはこれは定めて有に非ず。過・未等に縁ずるに外質無きのゆえん。
四、增上緣:謂若有法有勝勢用,能於餘法或順、或違。雖前三緣亦是增上,而今第四除彼取餘,為顯諸緣差別相故。
四、増上縁とは、いわゆるもし法有りて勝勢の用有りて、能く其余の法に対してあるいは順あるいは違。前三の縁もまた増上なると雖も、しかし今第四はそれらを除きて其余を取る。諸縁の差別相を顯示する為のゆえん。
此順、違用於四處轉:生、住、成、得四事別故。
この順・違の用は四処に転ず。生・住・成・得の四事を分別するのゆえん。
然增上用隨事雖多,而勝顯者唯二十二,應知即是二十二根。
しかし増上の用は事に随って多しと雖も、しかし勝顯はただ二十二有り。まさにすなわち二十二根と知るべし。
前五色根以本識等所變眼等淨色為性;男女二根,身根所攝故,即以彼少分為性;命根但依本識親種分位假立,非別有性;意根總以八識為性;五受根如應,各自受為性;信等五根即以信等及善念等而為自性。
前の五色根は本識等の変ずる所の眼等の浄色を以って性と為す。男女の二根は身根の摂する所なるのゆえんに、すなわちそれらの少分を以って性と為す。命根はただ本識の親種の分位に依って假立す。別に性有るに非ず。意根は総じて八識を以って性と為す。五受根は応ずるが如く各々自受を性と為す。信等の五根はすなわち信等および善念等を以って自性と為す。
未知當知根,體位有三種:一、根本位,謂在見道,除後剎那,無所未知可當知故。二、加行位,謂煖、頂、忍、世第一法,近能引發根本位故。三、資糧位,謂從為得諦現觀故,發起決定勝善法欲,乃至未得順決擇分所有善根名資糧位,能遠資生根本位故。
未知当知根は体位三種有り。一、根本位とは、いわゆる見道に在りて、後の刹那を除き、未知有りて当に知るべき無きのゆえん。二、加行位とは、いわゆる煖・頂・忍・世第一法にして、近く能く根本位を引発するのゆえん。三、資糧位とは、いわゆる諦の現観を得んが為のゆえんに、決定の勝善法欲を発起して、乃至未だ順決択分を得ざる所有の善根を名づけて資糧位という。遠く根本位を資生する能くするのゆえん。
於此三位,信等五根、意、喜、樂、捨為此根性,加行等位於後勝法求證愁慼亦有憂根,非正善根,故多不說。
この三位に於て、信等の五根・意・喜・楽・捨をこの根の性と為す。加行等の位にて後の勝法に対して証を求めて愁戚するにもまた憂根有り。正の善根に非ず。ゆえに多く説かず。
前三無色有此根者,有勝見道傍修得故,或二乘位迴趣大者,為證法空,地前亦起九地所攝生空無漏,彼皆菩薩,此根攝故。
前の三無色はこの根有る。勝見道有りて傍ら修得するのゆえん。あるいは二乗位の大に回趣するは、法空を証せんが為に、地前にもまた九地の摂する所の生空の無漏を起こす。それらは倶に是れ菩薩なり。この根の摂する所なるのゆえん。
菩薩見道亦有此根,但說地前,以時促故。
菩薩の見道もまたこの根有り。ただ地前を説く。時の促なるに因るのゆえん。
始從見道最後剎那乃至金剛喻定,所有信等無漏九根皆是已知根性。未離欲者,於上解脫求證愁慼,亦有憂根,非正善根,故多不說。
見道の最後の刹那より始めて乃至金剛喩定に、所有の信等の無漏九根は倶に是れ已知根性なり。未だ欲を離れざるは、上の解脱に対して証を求めて愁戚するにもまた憂根有り。正の善根に非ず。ゆえに多く説かず。
