成唯識論巻第四
一身唯一等無間緣,如何俱時有多識轉?既許此一引多心所,寧不許此能引多心?又誰定言此緣唯一?說多識俱者,許此緣多故。又欲一時取多境者,多境現前寧不頓取?諸根、境等和合力齊,識前後生不應理故。又心所性雖無差別而類別者,許多俱生,寧不許心異類俱起?又如浪像依一起多,故依一心多識俱轉。又若不許意與五俱,取彼所緣應不明瞭,如散意識緣久滅故。
一身に唯一の等無間縁なり。どうして倶時に多識の転ずる有らん。すでにこの一は多くの心所を引くを許せば、どうしてこの能く多くの心を引くを許さざる。また誰か定めてこの縁は唯一と説く。多識の倶と説くはこの縁は多と許すのゆえん。また一時に多境を取らんと欲するは、多境現前してどうして頓に取らざる。諸根・境等の和合の力は斉しく、識は前後に生ずるは理に応えざるのゆえん。また心所の性は差別無きと雖も、しかし類別するは倶生を許す多し。どうして心の異類の倶起を許さざる。また浪の像の一に依って多く起こるが如く、ゆえに一心に依って多識倶に転ず。またもし意と五と倶を許さざれば、それらの所縁を取るにまさに明了ならざるべし。散意識の久しく滅せしに縁ずるが如きのゆえん。
如何五俱唯一意識,於色等境取一或多?如眼等識各於自境取一或多,此亦何失?相、見俱有種種相故。
どうして五倶はただ一の意識のみにして、色等の境に対して一あるいは多を取るや。眼等識の各々自境に対して一あるいは多を取るが如し。これまた何の過失か有らん。相・見は倶に種種の相有るのゆえん。
何故諸識同類不俱?於自所緣若可了者,一已能了,餘無用故。若爾,五識已了自境,何用俱起意識了為?五俱意識助五令起,非專為了五識所緣。又於彼所緣能明瞭取,異於眼等識,故非無用。由此聖教說彼意識名有分別,五識不爾。
なんぞ諸識の同類は倶せざる。自らの所縁に対してもし了すべきは、一は已に能く了すれば其余は用無きのゆえん。もし然らば、五識は已に自境を了すれば、何の用にか倶起の意識を用いん。五倶の意識は五を助けて起こらしむ。五識の所縁の為に専らに非ず。またそれらの所縁に対して能く明了に取りて、眼等識に異なり。ゆえに用無きに非ず。これに由って聖教にかの意識を説いて名づけて有分別という。五識はこの如ならず。
多識俱轉何不相應?非同境故,設同境者,彼此所依體、數異故,如五根識互不相應。
多識倶に転ずるに、なんぞ相応せざる。境を同じくせざるのゆえん。設し境を同じくするも、彼此の所依の体・数は異なるのゆえん。五根識の互いに相応せざるが如し。
八識自性不可言定一,行相、所依、緣、相應異故;又一滅時餘不滅故,能、所燻等相各異故;亦非定異,經說八識如水波等,無差別故;定異應非因果性故。如幻事等,無定性故。
八識の自性は定めて一と説くべからず。行相・所依・縁・相応は異なるのゆえん。また一が滅する時に其余は滅せざるのゆえん。能・所薫等の相は各々異なるのゆえん。また定めて異にも非ず。経に八識は水波等の如く、差別無しと説くのゆえん。定めて異なればまさに因果性に非ざるべきのゆえん。幻事等の如く、定性無きのゆえん。
如前所說,識差別相依理世俗,非真勝義,真勝義中,心言絕故。
前の説く所の如く、識の差別相は理世俗に依る。真の勝義に非ず。真勝義の中には心・言は絶するのゆえん。
如伽他說:
伽他の説けるが如く:
「心、意、識八種,俗故相有別;
「心・意・識の八種は、世俗のゆえんに相に別有り。
真故相無別,相、所相無故。」
勝義のゆえんに相は別無し。相・所相は無きのゆえん。」
已廣分別三能變相為自所變二分所依。云何應知依識所變假說我、法非別實有,由斯一切唯有識耶?
已に広く三能変の相を分別して、自らの変ずる所の二分の依る所と為せり。どうして識に依って変ずる所の假説する我・法は別に実有に非ず、これに由って一切は唯だ識のみなるを知らん。
頌曰:
頌に説く:
17是諸識轉變,分別所分別,
是の諸識の転変は、分別・所分別なり。
由此彼皆無,故一切唯識。
これに由ってそれらは皆無し。ゆえに一切は唯識なり。
論曰:「是諸識」者,謂前所說三能變識及彼心所,皆能變似見、相二分,立「轉變」名。
論に説く:「是の諸識」とは、いわゆる前の説く所の三の能変識およびそれらの心所にして、皆能く変じて見・相の二分に似る。「転変」の名を立つ。
所變見分說名「分別」,能取相故;所變相分名「所分別」,見所取故。
変ずる所の見分は説いて名づけて「分別」という。相を取る能のゆえん。変ずる所の相分を名づけて「所分別」という。見の取る所なるのゆえん。
由此正理,彼實我、法離識所變皆定非有,離能、所取無別物故,非有實物離二相故。
この正理に由って、それらの実我・実法は識の変ずる所を離れて倶に決定して有に非ず。能・所取を離れて別の物無きのゆえん。実物有りて二相を離るるに非ざるのゆえん。
是故一切有為、無為,若實、若假,皆不離識。「唯」言為遮離識實物,非不離識心所法等。
ゆえに一切の有為・無為は、もし実もし假なるも、倶に識を離れず。「唯」の言は識を離れたる実物を遮らんが為にして、識を離れざる心所法等に非ず。
或轉變者,謂諸內識轉似我、法外境相現。
あるいは転変とは、いわゆる諸内識は転じて我・法の外境の相に似て現ず。
此能轉變即名分別,虛妄分別為自性故,謂即三界心及心所。此所執境名所分別,即所妄執實我、法性。
この能く転変するはすなわち名づけて分別という。虚妄分別を以って自性と為すのゆえん。いわゆるすなわち三界の心および心所。この執する所の境を名づけて所分別という。すなわち妄に執する所の実我・法の性なり。
由此分別變似外境假我、法相,彼所分別實我、法性,決定皆無,前引教理已廣破故。
この分別に由って変じて外境の假我・法相に似たれば、それらの所分別の実我・法の性は決定して倶に無し。前の引く所の教理は已に広く破せりとのゆえん。
是故一切皆唯有識,虛妄分別有極成故。「唯」既不遮不離識法,故真空等亦是有性。
ゆえに一切は唯だ識有り。虚妄分別は極成有るのゆえん。「唯」はすでに識を離れざる法を遮らざれば、ゆえに真空等もまた是れ有性なり。
由斯遠離增、減二邊,唯識義成,契會中道。
これに由って増・減の二辺を遠離して、唯識の義成立して中道に契会す。
由何教理唯識義成?
何の教理に由ってか唯識の義は成立する。
豈不已說?
あに已に説けりに非ずや。
雖說未了,非破他義己義便成;應更礭陳,成此教理。
説きたりと雖も未だ了せず。他義を破するに非ずして自己の義は便ち成立せず。まさに更に確然として陳述して、この教理を成立すべし。
如契經說:「三界唯心」;又說:「所緣唯識所現」;又說:「諸法皆不離心」;又說:「有情隨心垢、淨」。
契経に説けるが如く:「三界は唯心なり。」また説く:「所縁は唯識の現ずる所なり。」また説く:「諸法は倶に心を離れず。」また説く:「有情は心に随って垢・浄なり。」
又說:「成就四智菩薩能隨悟入唯識無境」。
また説く:「四智を成就したる菩薩は能く随って唯識の境無きを悟入す。」
一、相違識相智:謂於一處,鬼、人、天等隨業差別所見各異,境若實有,此云何成?二、無所緣識智:謂緣過、未、夢境像等非實有境,識現可得,彼境既無,餘亦應爾。三、自應無倒智:謂愚夫智若得實境,彼應自然成無顛倒,不由功用應得解脫。四、隨三智轉智:一、隨自在者智轉智:謂已證得心自在者,隨欲轉變地等皆成,境若實有,如何可變?二、隨觀察者智轉智:謂得勝定修法觀者,隨觀一境,眾相現前,境若是實,寧隨心轉?三、隨無分別智轉智:謂起證實無分別智,一切境相皆不現前,境若是實,何容不現?
一、相違識相智とは、いわゆる一処に対して鬼・人・天等は業の差別に随って見る所各々異なり。境もし実有なれば、これはどうして成らん。二、無所縁識智とは、いわゆる過・未・夢境の像等に縁ずるは実有の境に非ず。識は現に得べし。彼の境すでに無ければ、其余もまたまさに然るべし。三、自応無倒智とは、いわゆる愚夫の智もし実境を得ば、彼らはまさに自然に無顛倒を成ずべし。功用に由らずしてまさに解脱を得べし。四、随三智転智とは、一、随自在者智転智とは、いわゆる已に心の自在を証得したるは欲に随って転変して地等倶に成ず。境もし実有なれば、どうして変ずべきや。二、随観察者智転智とは、いわゆる勝定を得て法観を修するは観に随って一境なれば、衆相現前す。境もし是れ実なれば、どうして心に随って転ぜん。三、随無分別智転智とは、いわゆる起ちて実の無分別智を証すれば、一切の境相は倶に現前せず。境もし是れ実なれば、何ぞ現ぜざるを容せん。
菩薩成就此四智者,於唯識理決定悟入。
菩薩のこの四智を成就するは、唯識の理に対して決定して悟入す。
又伽他說:
また伽他に説く:
心、意、識所緣,皆非離自性,
心・意・識の縁ずる所は、倶に自性を離るるに非ず。
故我說一切唯有識無餘。
ゆえに我は一切は唯だ識有りて余無しと説く。
此等聖教誠證非一。
これらの聖教の誠証は一に非ず。
極成眼等識,五隨一故,如餘,不親緣離自色等。餘識識故,如眼識等,亦不親緣離自諸法。此親所緣定非離此,二隨一故,如彼能緣。所緣法故,如相應法,決定不離心及心所。
極成の眼等識は五の随一なるのゆえん、其余の如く、自を離れたる色等に親しく縁ぜず。其余の識は是れ識なるのゆえん、眼識等の如く、もまた自を離れたる諸法に親しく縁ぜず。この親しき所縁は決定してこれを離るるに非ず。二の随一なるのゆえん、かの能縁の如し。所縁の法なるのゆえん、相応の法の如く、決定して心および心所を離れず。
此等正理,誠證非一,故於唯識,應深信受。
これらの正理は誠証一に非ず。ゆえに唯識に対してまさに深く信受すべし。
我、法非有;空、識非無。離有、離無,故契中道。
我・法は有に非ず。空・識は無に非ず。有を離れ無を離るるがゆえに中道に契す。
慈尊依此說二頌言:
慈尊はこれに依って二頌を説いて曰く:
「虛妄分別有,於此二都無,
「虚妄分別は有りて、ここに於て二は倶に無し。
此中唯有空,於彼亦有此,
ここには唯だ空のみ有りて、それに於てもまたこれ有り。
故說一切法,非空非不空,
ゆえに一切法を説いて、空に非ず不空に非ず。
有無及有故,是則契中道。」
有無および有るのゆえんに、是れすなわち中道に契す。」
此頌且依染依他說,理實亦有淨分依他。
この頌は且く染の依他に依って説く。理実はもまた浄分の依他有り。
若唯內識似外境起,寧見世間情、非情物,處、時、身、用定、不定轉?
もし唯だ内識は外境に似て起これば、どうして世間の情・非情の物、処・時・身・用の定・不定に転ずるを見ん。
如夢境等,應釋此疑。
夢境等の如く、まさにこの疑を釋すべし。
何緣世尊說十二處?
なんの故にか世尊は十二処を説く。
依識所變,非別實有。為入我空說六二法,如遮斷見說續有情。為入法空復說唯識,令知外法亦非有故。
識の変ずる所に依る。別に実有に非ず。我空に入らしめんが為に六二の法を説く。断見を遮って有情を續くと説くが如し。法空に入らしめんが為にまた唯識を説く。外法もまた有に非ずと知らしむるのゆえん。
此唯識性豈不亦空?
この唯識性はあにもまた空ならずや。
不爾。
この如しに非ず。
如何?
いかんとなれば。
非所執故。
執する所に非ざるのゆえん。
謂依識變,妄執實法,理不可得,說為法空;非無離言正智所證唯識性故,說為法空。
いわゆる識の変に依って妄りに実法を執して、理求むるを得ざるを法空と説く。離言の正智の証する所の唯識性無きに非ざるのゆえんに、法空と説く。
此識若無,便無俗諦;俗諦無故,真諦亦無。真、俗相依而建立故。
この識もし無ければ、便ち俗諦無し。俗諦無きのゆえんに真諦もまた無し。真・俗は相依りて建立するのゆえん。
撥無二諦是惡取空,諸佛說為不可治者。應知諸法有空、不空,由此慈尊說前二頌。
二諦無きを撥くは是れ悪取空にして、諸仏は説いて治すべからずと為す。まさに知るべし、諸法は空・不空有りて、これに由って慈尊は前の二頌を説けり。
若諸色處亦識為體,何緣乃似色相顯現,一類堅住相續而轉?
もし諸色処もまた識を以って体と為さば、なんぞ纔めて色の相に似て顯現し、一類堅住して相続して転ずるや。
名言燻習勢力起故。
名言の薫習の勢力にて起こるのゆえん。
與染、淨法為依處故。謂此若無,應無顛倒,便無雜染,亦無淨法,是故諸識亦似色現。如有頌言:
染・浄の法と依処と為るのゆえん。いわゆるこれもし無ければまさに顛倒無かるべくして、便ち雑染無く、もまた浄法無し。ゆえに諸識もまた色に似て現ず。頌に説ける有るが如く:
亂相及亂體,應許為色識,
乱相および乱体は、まさに色識と為すと許すべく、
及與非色識,若無餘亦無。
および非色識と為す。もし無ければ其余もまた無し。
色等外境分明現證,現量所得,寧撥為無?
色等の外境は分明にして現に証し、現量の得る所なり。どうして無と撥けん。
現量證時,不執為外,後意分別,妄生外想。故現量境是自相分,識所變故,亦說為有;意識所執外實色等,妄計有故。說彼為無。
現量の証する時は外と執せず。後に意は分別して妄りに外の想を生ず。ゆえに現量の境は自らの相分にして、識の変ずる所なるのゆえんに、もまた有りと説く。意識の執する所の外の実色等は妄計して有りのゆえんに、それらを無と説く。
