Libo

成唯識論巻第一

唐 · 护法等造,玄奘译 · 第7巻 / 39

是故契經伽他中說:

ゆえに契経の偈の中に説く:

「眾生心二性,內外一切分,

「衆生の心は二性にして、内外一切の分。

所取能取纏,見種種差別。」

所取・能取の纏にて、種種の差別を見る。」

此頌意說:眾生心性二分合成,若內、若外皆有所取、能取纏縛,見有種種,或量、非量,或現、或比,多分差別,此中見者是見分故。

この頌の意は、衆生の心性は二分合成して、あるいは内あるいは外、皆所取・能取の纏縛有りて、種種有るを見るを謂う。あるいは量・非量、あるいは現・あるいは比、多分の差別なり。ここに見とは見分を謂う。

如是四分或攝為三,第四攝入自證分故。或攝為二,後三俱是能緣性故,皆見分攝,此言見者是能緣義。或攝為一,體無別故。如《入楞伽》伽他中說:

かくのごとき四分はあるいは収摂して三と為す。第四は自証分に摂入するが故に。あるいは収摂して二と為す。後の三は皆能縁性にして皆見分の摂する所なるが故に。ここに見とは能縁の義と説く。あるいは収摂して一と為す。体に分別無きが故に。《入楞伽》の偈の中に説けるが如く:

「由自心執著,心似外境轉,

「自心の執着に由って、心は外境の如く転ず。

彼所見非有,是故說唯心。」

他の見る所は有に非ず。ゆえに唯心と説く。」

如是處處說唯一心,此一心言亦攝心所。

かくのごとく処処に唯一心を説く。この一心の言はまた心所を収摂す。

故識行相即是了別,了別即是識之見分。

ゆえに識の行相はすなわち了別にして、了別はすなわち識の見分なり。

所言「處」者,謂異熟識由共相種成熟力故,變似色等器世間相,即外大種及所造色。雖諸有情所變各別而相相似,處所無異,如眾燈明各遍似一。

説く所の「処」とは、いわゆる異熟識は共相種の成熟力に由って、色等の器世間の相の如きを変起す。すなわち外の大種および所造色なり。諸有情の変ずる所は各別なれども相は相似して、処所は異無し。衆灯の明の各々遍くして一の如きがごとし。

誰異熟識變為此相?

誰の異熟識かこの相を変作する。

有義:一切。所以者何?如契經說:一切有情,業增上力共所起故。

一義有り:一切なり。何を以ってか。契経に説けるが如く:一切有情は業の増上力にて共に起こる所なりと。

有義:若爾,諸佛菩薩應實變為此雜穢土,諸異生等應實變為他方、此界諸淨妙土。又諸聖者厭離有色,生無色界,必不下生,變為此土,復何所用?是故現居及當生者,彼異熟識變為此界。經依少分說「一切」言,諸業同者皆共變故。

一義有り:もし然らば、諸仏菩薩はまさに実にこの雑穢土を変作すべく、諸異生等はまさに実に他方・此界の諸浄妙土を変作すべし。また諸聖者は有色を厭離して無色界に生ずれば、必ず下生せずして此の土を変作す。また何の用か有らん。ゆえに現居および当に生ぜんの人、その異熟識は此界を変作す。経は少分に依って「一切」と説く。諸業同じき者は皆共に変ずるが故に。

有義:若爾,器將壞時,既無現居及當生者,誰異熟識變為此界?又諸異生厭離有色,生無色界,現無色身,預變為土,此復何用?設有色身,與異地器,麁細懸隔,不相依持,此變為彼,亦何所益?然所變土本為色身依持、受用,故若於身可有持用便變為彼。由是設生他方自地,彼識亦得變為此土,故器世界將壞、初成,雖無有情而亦現有。此說一切共受用者,若別受用准此應知,鬼、人、天等所見異故。

一義有り:もし然らば、器の将に壊れんとする時、すでに現居および当に生ぜんの人無ければ、誰の異熟識か此界を変作せん。また諸異生は有色を厭離して無色界に生じ、無色身を現じて、預め土を変ず。これまた何の用か有らん。たとえ色身有るも、異地の器と麁細懸隔して、相依持せず。此辺にて彼辺を変作して、また何の益か有らん。しかし変ずる所の土は本より色身の依持・受用の為なり。ゆえにもし身に対して持用有るべければ、便ちそれを変作す。これに由ってたとえ他方の自地に生ずるも、かの識は能く此の土を変作す。ゆえに器世界は将に壊れんとし初め成ずる時、有情無きと雖も亦現有り。これは一切の共に受用する所を説く。もし別受用なればこれに准じてまさに知るべし。鬼・人・天等の見る所は異有るが故に。

諸種子者,謂異熟識所持一切有漏法種,此識性攝,故是所緣。無漏法種雖依附此識,而非此性攝,故非所緣。雖非所緣而不相離,如真如性,不違唯識。

諸種子とは、いわゆる異熟識の持する所の一切有漏法種。この識性の摂する所なるがゆえに所縁なり。無漏法種はこの識に依附すると雖も、しかしこの性の摂する所に非ず。ゆえに所縁に非ず。所縁に非ずと雖もしかし相離れず。真如性の如し。唯識に違せず。

有根身者,謂異熟識不共相種成熟力故,變似色根及根依處,即內大種及所造色,有共相種成熟力故,於他身處亦變似彼。不爾,應無受用他義。

有根身とは、いわゆる異熟識の不共相種の成熟力にて、色根および根依処の如きを変起す。すなわち内の大種および所造色なり。共相種の成熟力有りて、他身の処に対してもまたそれの如きを変起す。然らずんば、まさに他を受用する義無かるべし。

此中有義:亦變似根。《辯中邊》說:「似自、他身五根現」故。

ここに一義有り:また根の如きを変起す。《辯中辺》に説く:「自・他の身の五根を現ずるが如し」と。

有義:唯能變似依處,他根於己非所用故,「似自、他身五根現」者,說自、他識各自變義,故生他地或般涅槃,彼餘屍骸猶見相續。

一義有り:ただ能く依処の如きを変起するのみ。他根は自己に対して用せらるる所に非ず。「自・他の身の五根を現ずるが如し」とは、自・他の識の各々変ずる義を説く。ゆえに他地に生ずるかあるいは般涅槃するも、それらの其余の尸骸はなお相続するを見る。

前來且說業力所變外器、內身、界、地差別;若定等力所變器、身、界、地、自、他,則不決定。所變身、器,多恆相續;變聲、光等,多分暫時,隨現緣力擊發起故。

前より来りて且く業力の変ずる所の外器・内身・界・地の差別を説く。もし定等力の変ずる所の器・身・界・地・自・他なれば、便ち決定せず。変ずる所の身・器は多く恒に相続し、声・光等を変ずるは多分暫時なり。現縁力に随って撃発して起こるが故に。

略說此識所變境者,謂有漏種、十有色處,及墮法處所現實色。

略くこの識の変ずる所の境を説く。いわゆる有漏種・十有色処、および法処の摂する所の現実色なり。

何故此識不能變似心、心所等為所緣耶?

何を以ってこの識は能く心・心所等の如きを変起して所縁と為さざる。

有漏識變略有二種:一、隨因緣勢力故變;二、隨分別勢力故變。初必有用,後但為境。異熟識變但隨因緣,所變色等必有實用,若變心等便無實用,相分心等不能緣故,須彼實用別從此生。變無為等亦無實用,故異熟識不緣心等。至無漏位,勝慧相應,雖無分別,而澄淨故,設無實用,亦現彼影。不爾,諸佛應非遍知。故有漏位,此異熟識但緣器、身及有漏種。

有漏識の変は略して二種有り。一、因縁勢力に随って変ず。二、分別勢力に随って変ず。初は必ず用有り。後はただ境と為るのみ。異熟識の変はただ因縁に随う。変ずる所の色等は必ず実用有り。もし心等を変ぜば便ち実用無し。相分の心等は縁ずること能わざるが故に。その実用は別にこのより生ずるを要す。無為等を変ずるもまた実用無し。ゆえに異熟識は心等に縁ぜず。無漏位に至りて勝れたる慧と相応せば、無分別なると雖もしかして澄浄なり。たとえ実用無くともまたその影を現ず。然らずんば諸仏はまさに遍知に非ざるべし。ゆえに有漏位にはこの異熟識はただ器・身および有漏種に縁ず。

在欲、色界具三所緣;無色界中緣有漏種,厭離色故,無業果色,有定果色,於理無違。彼識亦緣此色為境。

欲・色界に在りては三所縁を具え、無色界中には有漏種に縁ず。色を厭離するがゆえに。業果色無し。定果色有り。理上違背無し。かの識もまたこの色を縁じて境と為す。

「不可知」者,謂此行相極微細故,難可了知;或此所緣內執受境亦微細故;外器世間量難測故,名不可知。

「知るべからず」とは、いわゆるこの行相は極めて微細にして了知し難し。あるいはこの所縁の内執受境もまた微細なり。外の器世間は量測り難し。名づけて不可知という。

云何是識取所緣境,行相難知?如滅定中,不離身識,應信為有,然必應許滅定有識,有情攝故,如有心時。無想等位,當知亦爾。

どうしてこの識は所縁境を取るに行相知り難し。滅定中の如く、身を離れざる識はまさに有と信ずべし。しかし必ずまさに滅定に識有りと許すべし。有情の摂する所なるが故に、有心の時の如し。無想等の位もまさに然るべしと知る。

成唯識論巻第二

成唯識論巻第三

護法等菩薩造

護法等の菩薩造。

三藏法師玄奘奉詔譯

三蔵法師玄奘詔を奉じて翻訳す。

此識與幾心所相應?

この識はいくつの心所と相応するや。

常與觸、作意、受、想、思相應。

常に触・作意・受・想・思と相応す。

阿賴耶識無始時來乃至未轉,於一切位恆與此五心所相應,以是遍行心所攝故。

阿頼耶識は無始より来り乃至未だ転ぜざるに、一切位にて恒にこの五心所と相応す。遍行心所の摂する所なるが故に。

「觸」謂三和分別變異,令心、心所觸境為性,受、想、思等所依為業。

「触」とは三和の分別変異を説き、心・心所をして境に触れしむるを性と為し、受・想・思等の所依たるを業と為す。

謂根、境、識更相隨順,故名三和。觸依彼生,令彼和合,故說為彼;三和合位皆有順生心所功能,說名變異;觸似彼起,故名分別。

いわゆる根・境・識の更互に相随順するがゆえに名づけて三和という。触はそれに依って生じて、それらを和合せしむ。ゆえにそれを説いてそれと為す。三和合の位には皆心所を順生する功能有り。名づけて変異という。触はそれの如く起こるがゆえに名づけて分別という。

根變異力,引觸起時,勝彼識、境,故《集論》等但說分別根之變異。

根の変異力は触を引きて起こる時、かの識・境に勝る。ゆえに《集論》等はただ根の変異を分別して説く。

和合一切心及心所,令同觸境,是觸自性。

一切の心および心所を和合して、それらをして同じく境に触れしむるは、触の自性なり。

既似順起心所功能,故以受等所依為業。

すでに心所を順起する功能の如ければ、ゆえに受等の所依を以って業と為す。

《起盡經》說:受、想、行蘊一切皆以觸為緣故,由斯故說識、觸、受等因二、三、四和合而生。

《起尽経》に説く:受・想・行蘊は一切皆触を以って縁と為す。これに由ってゆえに識・触・受等は二・三・四の和合に因って生ずと説く。

《瑜伽》但說與受、想、思為所依者,思於行蘊為主勝故,舉此攝餘。《集論》等說為受依者,以觸生受近而勝故,謂觸所取可意等相與受所取順益等相,極相隣近,引發勝故。

《瑜伽》はただ受・想・思と所依と為ると説くのみ。思は行蘊にて主勝なるが故に。これを挙げて其余を摂す。《集論》等は受の依と為すと説く。触は受を生ずること近くして勝れるが故に。いわゆる触の取る所の可意等の相と受の取る所の順益等の相とは極めて相隣近し。引発勝れり。

然觸自性,是實非假,六六法中,心所性故,是食攝故,能為緣故,如受等性,非即三和。

しかし触の自性は是れ実にして假に非ず。六六法の中に心所性にして食の摂する所なり。能く縁と為る。受等の性の如く、並びてすなわち三和に非ず。

作意謂能警心為性,於所緣境,引心為業;謂此警覺,應起心種,引令趣境,故名作意。雖此亦能引起心所;心是主故,但說引心。

作意とは能く心を警かすを性と為し、所縁境に対して心を引くを業と為す。いわゆるこれは警覚して、起こるべき心種を引きて境に趣らしむ。ゆえに名づけて作意という。このもまた能く心所を引起すと雖も、心は主なるが故に、ただ心を引くと説く。

有說:令心迴趣異境,或於一境,持心令住,故名作意。彼俱非理,應非遍行,不異定故。

人の説く有り:心をして異境に回趣せしめ、あるいは一境に対して心を持して住せしむ。ゆえに名づけて作意というと。彼らは皆理に合わず。まさに遍行に非ざるべくして、定に異ならず。

「受」謂領納順、違、俱非境相為性,起愛為業,能起合、離、非二欲故。

「受」とは領納して順・違・倶非の境相を性と為し、愛を起こすを業と為す。能く合・離・非二の欲を起こすが故に。

有作是說:受有二種:一、境界受,謂領所緣;二、自性受,謂領俱觸。唯自性受是受自相。以境界受共餘相故。

人有りてかくのごとき説を作す:受に二種有り。一、境界受、いわゆる所縁を領す。二、自性受、いわゆる倶触を領す。唯だ自性受のみ是受の自相なり。境界受は其余の相と共なるが故に。

彼說非理,受定不緣俱生觸故。

彼らの説は理に合わず。受は決定して倶生の触に縁ぜず。

若似觸生,名領觸者,似因之果,應皆受性。

もし触の生ずるが如きを名づけて触を領すという。因の果の如く、まさに皆受性ならん。

又既受因,應名因受,何名自性?

またすでに受の因なれば、まさに名づけて因受と言うべし。どうして名づけて自性と言わん。

若謂如王食諸國邑,受能領觸所生受體,名自性受。理亦不然,違自所執不自證故。

もし王の諸国邑を食するが如く、受は能く触の生ずる所の受体を領して、名づけて自性受というと説かば、理また然らず。自ら執する所の自証せずに違す。

若不捨自性,名自性受,應一切法皆是受自性。

もし自性を捨てざるを名づけて自性受と為さば、まさに一切法は皆受自性ならん。

故彼所說,但誘嬰兒。

ゆえに彼らの説く所は、ただ嬰児を鬨すのみ。

然境界受,非共餘相,領順等相,定屬己者,名境界受,不共餘故。

しかし境界受は並びて其余の相と共に非ず。順等の相を領して、定めて自の属する所を名づけて境界受という。其余と共ならざるが故に。

「想」謂於境取像為性,施設種種名言為業,謂要安立境分齊相,方能隨起種種名言。

「想」とは境に対して像を取るを性と為し、種種の名言を施設するを業と為す。いわゆる境の分斉相を安立することを要して、乃ち種種の名言に随って起こるを得す。

「思」謂令心造作為性,於善品等役心為業,謂能取境正因等相,驅役自心令造善等。

「思」とは心をして造作せしむるを性と為し、善品等に対して心を役するを業と為す。いわゆる能く境の正因等の相を取りて、自心を駆役して善等を造らしむ。

此五既是遍行所攝,故與藏識決定相應,其遍行相後當廣釋。

この五はすでに遍行の摂する所なれば、ゆえに蔵識と決定して相応す。かの遍行の相は後にまさに広く釈すべし。

此觸等五與異熟識行相雖異,而時、依同,所緣、事等,故名相應。

この触等の五は異熟識と行相異なると雖も、しかし時・依は同じく、所縁・事等なり。ゆえに名づけて相応という。

此識行相極不明瞭,不能分別違、順境相,微細、一類、相續而轉,是故唯與捨受相應。

この識の行相は極めて明了ならず。違・順の境相を分別すること能わず。微細・一類にして相続して転ず。ゆえにただ捨受と相応す。

又,此相應受唯是異熟,隨先引業轉;不待現緣,住善、惡業勢力轉故。唯是捨受;苦、樂二受是異熟生,非真異熟,待現緣故,非此相應。

またこの相応の受はただ異熟にして、先の引業に随って転ず。現縁を待たず。善・悪業の勢力に住して転ずるが故に。ただ捨受のみ。苦・楽の二受は異熟生にして真の異熟に非ず。現縁を待つがゆえに、この相応に非ず。

又,由此識常無轉變,有情恆執為自內我;若與苦、樂二受相應,便有轉變,寧執為我,故此但與捨受相應。

またこの識は常に転変無きがゆえに、有情は恒にこれを執して自内我と為す。もし苦・楽の二受と相応せば、便ち転変有りて、どうして我と執せん。ゆえにこれはただ捨受と相応す。

若爾,如何此識亦是惡業異熟?既許善業能招捨受,此亦應然。捨受不違苦、樂品故,如無記法,善、惡俱招。

もし然らば、どうしてこの識もまた悪業の異熟ならん。すでに善業は能く捨受を招くを許せば、これもまたまさに然るべし。捨受は苦・楽の品に違せず。無記法の如く、善・悪倶に招く。

如何此識非別境等心所相應?

どうしてこの識は別境等の心所と相応せざる。

互相違故。

互相違するが故に。

謂欲希望所樂事轉;此識任運,無所希望。勝解印持決定事轉;此識瞢昧,無所印持。念唯明記曾習事轉,此識昧劣,不能明記。定能令心專注一境;此識任運;剎那別緣。慧唯簡擇德等事轉;此識微昧,不能簡擇。故此不與別境相應。

いわゆる欲は楽する所の事を希望して転ず。しかるにこの識は任運にして希望する所無し。勝解は決定の事を印持して転ず。しかるにこの識は瞢昧にして印持する所無し。念はただ曽習の事を明記して転ず。しかるにこの識は昧劣にして明記すること能わず。定は能く心をして一境に専注せしむ。しかるにこの識は任運にして刹那ごとに別縁す。慧はただ徳等の事を簡択して転ず。しかるにこの識は微昧にして簡択すること能わず。ゆえにこれは別境と相応せず。

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