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成唯識論巻第一

唐 · 护法等造,玄奘译 · 第6巻 / 39

若唯始起,有為無漏無因緣故,應不得生,有漏不應為無漏種,勿無漏種生有漏故,許應諸佛有漏復生,善等應為不善等種。

もし唯だ始起なれば、有為の無漏は因縁無くして、まさに生ぜずを得べし。有漏はまさに無漏種と為すべからず。無漏種をして有漏を生ぜしむること莫れ。許さばまさに諸仏は有漏復た生ずべく、善等はまさに不善等の種と為すべし。

分別論者雖作是說:心性本淨,客塵煩惱所染汙,故名為雜染,離煩惱時,轉成無漏,故無漏法非無因生。

分別論者はかくのごとき説を作すと雖も:心性は本浄にして、客塵煩悩の染汚する所なれば、ゆえに名づけて雑染という。煩悩を離るる時、転じて無漏と為る。ゆえに無漏法は並びて無因の生に非ずと。

而心性言,彼說何義?若說空理,空非心因,常法定非諸法種子,以體前後無轉變故。若即說心,應同數論,相雖轉變而體常一,惡、無記心又應是善,許則應與信等相應,不許便應非善心體,尚不名善,況是無漏?有漏善心既稱雜染,如惡心等,性非無漏,故不應與無漏為因,勿善、惡等互為因故。若有漏心性是無漏,應無漏心性是有漏,差別因緣不可得故。又異生心若是無漏,則異生位無漏現行應名聖者。若異生心性雖無漏,而相有染,不名無漏,無斯過者,則心種子亦非無漏,何故汝論說有異生唯得成就無漏種子,種子、現行性、相同故。

しかし心性の言は、彼らは何の義をか説く。もし空理を説かば、空は心因に非ず。常法は決定して諸法の種子に非ず。体は前後に転変無きが故に。もしすなわち心を説かば、まさに数論に同じからん。相は転変すると雖も体は常に一なり。悪・無記心もまたまさに善ならん。許さばまさに信等と相応すべく、許さざれば便ちまさに善心体に非ざるべし。尚ほ善と名づけず、いわんや無漏をや。有漏の善心はすでに雑染と称せば、悪心等の如く、性は無漏に非ず。ゆえにまさに無漏と因を為すべからず。善・悪等をして互いに因と為らしむること莫れ。もし有漏心性は無漏なれば、まさに無漏心性は有漏ならん。差別の因縁は求むるも得られず。また異生心もし無漏なれば、然らば異生位の無漏現行はまさに名づけて聖者と言うべし。もし異生心性は無漏なると雖も、しかし相染有りて、名づけて無漏と言わず、この過無しと言わば、然らば心種子もまた無漏に非ず。なんぞ汝らの論は異生有りてただ無漏種子を成就すと説き、種子・現行は性・相同じからん。

然契經說:心性淨者,說心空理所顯真如,真如是心真實性故。或說心體非煩惱故,名性本淨,非有漏心性是無漏,故名本淨。

しかし契経に心性浄と説くは、心空理の顕す所の真如を説く。真如は心の真実性なるが故に。あるいは心体は煩悩に非ず、名づけて性本浄という。並びて有漏心性は無漏と説くに非ず。ゆえに名づけて本浄という。

由此應信有諸有情無始時來有無漏種,不由燻習,法爾成就,後勝進位燻令增長,無漏法起,以此為因。無漏起時,復燻成種,有漏法種類此應知。

これに由ってまさに信ずべし、諸有情は無始より来り無漏種有りて、薫習に由らずして法爾に成就す。後の勝進位にて薫して増長せしめ、無漏法の起こるはこれを以って因と為す。無漏起こる時、また薫じて種を成す。有漏法の種類もこれに由ってまさに知るべし。

諸聖教中,雖說內種定有燻習,而不定說一切種子皆燻故生,寧全撥無本有種子?然本有種亦由燻習,令其增盛方能得果,故說內種定有燻習。

諸聖教の中に、内種は定めて薫習有りと説くと雖も、しかし定めて一切の種子は皆薫に因って生ずとは説かず。どうして尽く本有種子を撥して無とせん。しかし本有種もまた薫習に由って、それを増盛ならしめて乃ち果を得るを得す。ゆえに内種は定めて薫習有りと説く。

其聞燻習非唯有漏,聞正法時亦燻本有無漏種子,令漸增盛,展轉乃至生出世心,故亦說此名聞燻習。

かの聞薫習は並びて有漏のみに非ず。正法を聞く時もまた本有の無漏種子を薫して、それを漸く増盛ならしめ、展転して乃至出世心を生ず。ゆえにもまたこれを名づけて聞薫習と説く。

聞燻習中,有漏性者是修所斷,感勝異熟,為出世法勝增上緣。無漏性者非所斷攝,與出世法正為因緣。此正因緣微隱難了,有寄麁顯勝增上緣,方便說為出世心種。

聞薫習の中に、有漏性の者は修の断ずる所にして、勝れたる異熟を感じて、出世法の勝増上縁と為す。無漏性の者は断ずる所の摂に非ずして、出世法と正に因縁と為す。この正因縁は微隠にして了し難し。粗顕の勝増上縁に寄托して、方便に出世心種と説く。

依障建立種姓別者,意顯無漏種子有無,謂:若全無無漏種者,彼二障種永不可害,即立彼為非涅槃法;若唯有二乘無漏種者,彼所知障種永不可害,一分立為聲聞種姓,一分立為獨覺種姓;若亦有佛無漏種者,彼二障種俱可永害,即立彼為如來種姓。故由無漏種子有無,障有可斷、不可斷義,然無漏種微隱難知,故約彼障顯性差別。不爾,彼障有何別因而有可害、不可害者?若謂法爾有此障別,無漏法種寧不許然?若本全無無漏法種,則諸聖道永不得生,誰當能害二障種子,而說依障立種姓別?既彼聖道必無生義,說當可生,亦定非理。

障に依って種性の別を建立するは、意は無漏種子の有無を顕すと謂う。いわゆる:もし全く無漏種無きの人なれば、かの二障種は永く害すべからず。便ち彼らを立てて非涅槃法と為す。もし唯だ二乗の無漏種有るの人なれば、かの所知障種は永く害すべからず。一分立てて声聞種姓と為し、一分立てて独覚種姓と為す。もしも仏の無漏種有るの人なれば、かの二障種は皆永く害すべし。便ち彼らを立てて如来種姓と為す。ゆえに無漏種子の有無に由って、障は断ずべき・断ずべからざるの義有り。しかし無漏種は微隠にして知り難し。ゆえにかの障に約して性の差別を顕す。然らずんば、かの障は何の別因有りてか害すべき・害すべからざる有らん。もし法爾にこの障別有りと説かば、無漏法種はなんぞかく有るを許さざらん。もし本来全く無漏法種無ければ、然らば諸聖道は永く生ずるを得ず。誰かまさに能く二障種子を害すべき。しかも障に依って種姓別を立つと説く。すでにかの聖道は必ず无生の義有れば、当に生ずべしと説くも、また決定して理に合わず。

然諸聖教處處說有本有種子,皆違彼義,故唯始起,理、教相違。

しかし諸聖教は処処に本有種子有りと説く。皆かの義に違す。ゆえに唯だ始起なれば、理・教相違す。

由此應知,諸法種子各有本有、始起二類。

これに由ってまさに知るべし、諸法の種子は各々本有・始起の二类有り。

然種子義,略有六種。

しかし種子の義は略して六種有り。

一、剎那滅。謂體才生無間必滅,有勝功力,方成種子。此遮常法,常無轉變,不可說有能生用故。

一、刹那滅。いわゆる体は纔かに生じて無間に必ず滅し、勝れたる功力有りて、乃ち種子を成す。これは常法を遮る。常は転変無くして、能生の用有りと説くべからず。

二、果俱有。謂與所生現行果法俱現和合,方成種子。此遮前後及定相離,現、種異類互不相違,一身俱時有能生用,非如種子自類相生,前後相違,必不俱有。雖因與果有俱、不俱,而現在時可有因用,未生、已滅無自體故,依生現果立種子名,不依引生自類名種,故但應說與果俱有。

二、果倶有。いわゆる所生の現行果法と倶に現じて和合して、乃ち種子を成す。これは前後および定めて相離れるを遮る。現・種は異類にして互いに相違せず。一身に倶時に能生の用有り。並びて種子の自類相生の如く前後相違して必ず倶有せざるに非ず。因と果とに倶・不倶有ると雖も、しかし現在の時に因の用有るべし。未生・已滅は自体無し。現果を生ずるに依って種子の名を立つ。自類を引生するに依って名づけて種と為すに依らず。ゆえにただまさに果と倶有と説くべし。

三、恆隨轉。謂要長時一類相續,至究竟位,方成種子。此遮轉識,轉易間斷,與種子法不相應故。此顯種子自類相生。

三、恒随転。いわゆる長時に一類相続して、究竟位に至りて、乃ち種子を成す。これは転識を遮る。転易間断して、種子法と相応せざるが故に。これは種子の自類相生を顕す。

四、性決定。謂隨因力生善、惡等,功能決定,方成種子。此遮餘部執異性因生異性果有因緣義。

四、性決定。いわゆる因力に随って善・悪等を生じ、功能決定して、乃ち種子を成す。これは其余の部の異性因が異性果を生ずるに因縁の義有りと執するを遮る。

五、待眾緣。謂此要待自眾緣合,功能殊勝,方成種子。此遮外道執自然因不待眾緣恆頓生果;或遮餘部緣恆非無。顯所待緣非恆有性,故種於果非恆頓生。

五、衆縁を待つ。いわゆるこれは自衆縁の合を待ちて、功能殊勝にして、乃ち種子を成す。これは外道の自然因を執して衆縁を待たずに恒に頓に果を生ずるを遮り、あるいは其余の部の縁は恒に非無を遮る。待つ所の縁は並びて恒有性に非ざるを顕す。ゆえに種は果に対して並びて恒に頓生せず。

六、引自果。謂於別別色、心等果,各各引生方成種子。此遮外道執唯一因生一切果;或遮餘部執色、心等互為因緣。

六、自果を引く。いわゆる各別の色・心等の果に対して、各々引生して乃ち種子を成す。これは外道の唯一因が一切果を生ずと執するを遮り、あるいは其余の部の色・心等は互いに因縁と為ると執するを遮る。

唯本識中功能差別具斯六義,成種非餘,外穀麥等,識所變故,假立種名,非實種子。

唯だ本識中の功能差別のみこの六義を具えて、種を成す。其余に非ず。外間の穀・麦等は、識の変ずる所なるがゆえに、假に種の名を立つ。並びて実の種子に非ず。

此種勢力生近、正果,名曰生因;引遠、殘果,令不頓絕,即名引因。

この種の勢力は近・正果を生ずるを名づけて生因という。遠・残果を引いて頓に絶えざらしめるを、便ち名づけて引因という。

內種必由燻習生長,親能生果,是因緣性。

内種は必ず薫習に由って生長し、親く能く果を生ずるは、因縁性なり。

外種燻習或有、或無,為增上緣,辦所生果。

外種の薫習はあるいは有りあるいは無くして、増上縁と為して、所生の果を辧ず。

必以內種為彼因緣,是共相種所生果故。

必ず内種を以ってかの辺の因縁と為す。共相種の所生果なるが故に。

依何等義立燻習名?

何の等義に依ってか薫習の名を立つ。

所燻、能燻各具四義,令種生長,故名燻習。

所薫・能薫は各々四義を具えて、種を生長せしむ。ゆえに名づけて薫習という。

何等名為所燻四義?

何をか名づけて所薫の四義という。

一、堅住性。若法始終一類相續能持習氣,乃是所燻。此遮轉識及聲、風等,性不堅住,故非所燻。

一、堅住性。もし法は始終一類相続して、能く習気を持すれば、乃是れ所薫。これは転識および声・風等を遮る。性は堅住せざるがゆえに所薫に非ず。

二、無記性。若法平等,無所違逆,能容習氣,乃是所燻。此遮善染勢力強盛,無所容納,故非所燻。由此如來第八淨識,唯帶舊種,非新受燻。

二、無記性。もし法は平等にして、違逆する所無く、能く習気を容れれば、乃是れ所薫。これは善染の勢力强盛にして、容納する所無きを遮る。ゆえに所薫に非ず。これに由って如来の第八浄識は、ただ旧種を帯びて、並びて新たに薫を受くるに非ず。

三、可燻性。若法自在,性非堅密,能受習氣,乃是所燻。此遮心所及無為法,依他、堅密,故非所燻。

三、可薫性。もし法は自在にして、性堅密ならず、能く習気を受くれば、乃是れ所薫。これは心所以及無為法を遮る。他に依り堅密なるがゆえに所薫に非ず。

四、與能燻共和合性。若與能燻同時、同處,不即、不離,乃是所燻。此遮他身、剎那前後,無和合義,故非所燻。

四、能薫と共和合性。もし能薫と同時・同処にして、不即・不離なれば、乃是れ所薫。これは他身・刹那前後を遮る。和合の義無きがゆえに所薫に非ず。

唯異熟識具此四義,可是所燻,非心所等。

唯だ異熟識のみこの四義を具えて、乃ち所薫。並びて心所等に非ず。

何等名為能燻四義?

何をか名づけて能薫の四義という。

一、有生滅。若法非常,能有作用,生長習氣,乃是能燻。此遮無為前後不變,無生長用,故非能燻。

一、生滅有り。もし法は常に非ずして、能く作用有りて習気を生長せば、乃是れ能薫。これは無為の前後変わらず、生長の用無きを遮る。ゆえに能薫に非ず。

二、有勝用。若有生滅,勢力增盛,能引習氣,乃是能燻。此遮異熟心、心所等,勢力羸劣,故非能燻。

二、勝用有り。もし生滅有りて、勢力増盛にして、能く習気を引けば、乃是れ能薫。これは異熟の心・心所等を遮る。勢力羸劣なるがゆえに能薫に非ず。

三、有增減。若有勝用,可增可減,攝植習氣,乃是能燻。此遮佛果圓滿善法,無增無減,故非能燻。彼若能燻,便非圓滿,前後佛果應有勝劣。

三、増減有り。もし勝用有りて、増すべく減ずべくして、習気を摂植すれば、乃是れ能薫。これは仏果の円満善法を遮る。増も減も無きがゆえに能薫に非ず。彼らもし能薫なれば、便ち円満に非ず。前後の仏果はまさに勝劣有るべし。

四、與所燻和合而轉。若與所燻同時、同處,不即、不離,乃是能燻。此遮他身、剎那前後,無和合義,故非能燻。

四、所薫と和合して転ず。もし所薫と同時・同処にして、不即・不離なれば、乃是れ能薫。これは他身・刹那前後を遮る。和合の義無きがゆえに能薫に非ず。

唯七轉識及彼心所有勝勢用,而增減者,具此四義,可是能燻。

唯だ七転識およびそれらの心所のみ、勝れたる勢用有りて増減する者、この四義を具えて乃ち能薫たり。

如是能燻與所燻識,俱生俱滅,燻習義成。令所燻中種子生長,如燻苣蕂,故名燻習。

かくのごとく能薫と所薫の識とは倶生倶滅して、薫習の義成立す。所薫中の種子を生長せしむること、苣蕂(胡麻)を薫ずるが如し。ゆえに名づけて薫習という。

能燻識等,從種生時,即能為因,復燻成種,三法展轉因果同時,如炷生焰、焰生焦炷,亦如蘆束更互相依,因果俱時,理不傾動。

能薫の識等は種より生ずる時、便ち能く因と為り、また薫じて種を成す。三法は展転して因果同時なり。灯炷の焔を生じ、焔の炷を焦がすが如く、また蘆束の更互に相依るが如し。因果倶時にして理は傾動せず。

能燻生種,種起現行,如俱有因得士用果;種子前後自類相生,如同類因引等流果。此二於果是因緣性,除此餘法皆非因緣,設名因緣,應知假說。

能薫は種を生じ、種は現行を起こす。倶有因の士用果を得るが如し。種子は前後に自類相生して、同類因の等流果を引くが如し。この二は果に対して因縁性なり。このを除きて其余の法は皆因縁に非ず。たとえ名づけて因縁と言うも、まさに假説と知るべし。

是謂略說一切種相。

これすなわち略く一切の種相を説く。

此識行相、所緣云何?

この識の行相・所縁はいかん。

謂不可知執受、處了。

いわゆる知るべからざる執受・処を了す。

「了」謂了別,即是行相。識以了別為行相故。

「了」とは了別を説く。すなわち行相なり。識は了別を以って行相と為すが故に。

「處」謂處所,即器世間,是諸有情所依處故。

「処」とは処所を説く。すなわち器世間にして、諸有情の依る所の処なるが故に。

「執受」有二:謂諸種子及有根身。諸種子者,謂諸相、名、分別習氣,有根身者,謂諸色根及根依處。此二皆是識所執受,攝為自體,同安危故。

「執受」に二有り。いわゆる諸種子および有根身。諸種子とは、いわゆる諸々の相・名・分別の習気。有根身とは、いわゆる諸色根および根依処。この二は皆識の執受する所にして、摂して自体と為す。安危を同じくするが故に。

執受及處俱是所緣,阿賴耶識因緣力故,自體生時,內變為種及有根身,外變為器,即以所變為自所緣,行相仗之而得起故。

執受および処は皆所縁なり。阿頼耶識は因縁力に因って、自体生ずる時、内に変じて種および有根身と為り、外に変じて器と為り、すなわち変ずる所を以って自ら所縁と為し、行相はそれに仗って起こるを得す。

此中「了」者,謂異熟識於自所緣有了別用,此了別用,見分所攝。

ここに「了」とは、いわゆる異熟識は自所縁に対して了別の用有り。この了別の用は見分の摂する所なり。

然有漏識自體生時,皆似所緣、能緣相現,彼相應法應知亦爾。似所緣相說名相分,似能緣相說名見分。若心、心所無所緣相,應不能緣自所緣境,或應一一能緣一切,自境如餘,餘如自故。

しかし有漏識の自体生ずる時は、皆所縁・能縁の相の如きを現ず。それらの相応の法もまた然るべし。所縁の相の如きを名づけて相分という。能縁の相の如きを名づけて見分という。もし心・心所に所縁の相無ければ、まさに自所縁境に縁ずること能わざるべし。あるいはまさに一一能く一切に縁ずべく、自境は其余の如く、其余は自の如くあらん。

若心、心所無能緣相,應不能緣,如虛空等,或虛空等;亦是能緣。

もし心・心所に能縁の相無ければ、まさに縁ずること能わざるべくして、虚空等の如く、あるいは虚空等もまた能縁ならん。

故心、心所必有二相。如契經說:

ゆえに心・心所は必ず二相有り。契経に説けるが如く:

「一切唯有覺,所覺義皆無,

「一切に唯だ覚有るのみ。所覚の義は皆無し。

能覺所覺分,各自然而轉。」

能覚・所覚の分は、各々自然に転ず。」

執有離識所緣境者,彼說外境是所緣,相分名行相,見分名事,是心、心所自體相故。心與心所同所依、緣,行相相似,事雖數等,而相各異,識、受、想等相各別故。

識を離れたる所縁境有りと執する人は、彼らは外境を所縁と説き、相分を名づけて行相という。見分を名づけて事という、心・心所の自体相なるが故に。心と心所とは所依・縁を同じくし、行相相似す。事は数等なると雖も、しかし相は各々異なり。識・受・想等の相各別なるが故に。

達無離識所緣境者,則說相分是所緣,見分名行相,相、見所依自體名事,即自證分。此若無者,應不自憶心、心所法,如不曾更境必不能憶故,心與心所同所依根,所緣相似,行相各別,了別、領納等作用各異故,事雖數等,而相各異,識、受等體有差別故。

識を離れたる所縁境無きを通達する人は、便ち相分を所縁と説き、見分を名づけて行相という。相・見の依る所の自体を名づけて事という。すなわち自証分なり。これもし無ければ、まさに心・心所法を自憶せざるべし。曽て境を更ずるが如く必ず能く憶せざるが故に。心と心所とは所依根を同じくし、所縁相似して、行相各別なり。了別・領納等の作用各々異なるが故に。事は数等なると雖も、しかし相は各々異なり。識・受等の体に差別有るが故に。

然心、心所一一生時,以理推徵各有三分,所量、能量、量果別故,相、見必有所依體故。如《集量論》伽他中說:

しかし心・心所の一一生ずる時、理を用いて推徴すれば各々三分有り。所量・能量・量果の別有るが故に。相・見は必ず依る所の体有り。《集量論》の偈の中に説けるが如く:

「似境相所量,能取相、自證,

「似境の相はこれ所量。取る相と自証と、

即能量及果,此三體無別。」

すなわちこれ能量および果。この三は体に分別無し。」

又心、心所若細分別應有四分,三分如前,復有第四證自證分。此若無者,誰證第三?心分既同應皆證故。又自證分應無有果,諸能量者必有果故。不應見分是第三果,見分或時非量攝故。由此見分不證第三,證自體者必現量故。

また心・心所はもし細かに分別せばまさに四分有るべし。三分は前の如し。更に第四の証自証分有り。これもし無ければ、誰か第三を証せん。心分はすでに同じく皆証すべし。また自証分はまさに果無かるべし。諸々の能量は必ず果有り。見分をして第三の果と為さしむべからず。見分は有る時は量の摂する所に非ざるが故に。これに由って見分は第三を証せず。自体を証するは必ず現量なり。

此四分中前二是外,後二是內。初唯所緣,後三通二,謂第二分但緣第一,或量、非量,或現、或比。第三能緣第二,第四證自證分,唯緣第三,非第二者,以無用故,第三、第四皆現量攝,故心、心所四分合成,具所、能緣,無無窮過,非即、非離,唯識理成。

この四分の中に、前の二は外にして、後の二は内なり。初はただ所縁のみ。後の三は二に通ず。いわゆる第二分はただ第一に縁じて、あるいは量・非量、あるいは現・あるいは比。第三は能く第二に縁じ、第四の証自証分はただ第三に縁じて、第二に縁ぜず。用無きが故に。第三・第四は皆現量の摂する所なり。ゆえに心・心所は四分合成して、所縁・能縁を具え、無窮の過無く、非即・非離にして、唯識の理成立す。

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