Libo

成唯識論巻第一

唐 · 护法等造,玄奘译 · 第5巻 / 39

如是所說一切法執,自心外法或有或無,自心內法一切皆有,是故法執皆緣自心所現似法,執為實有。然似法相從緣生故,是如幻有,所執實法妄計度故,決定非有。故世尊說:「慈氏當知,諸識所緣,唯識所現,依他起性,如幻事等。」

かくのごとく説く所の一切法執は、自心外の法はあるいは有りあるいは無し。自心内の法は一切皆有り。ゆえに法執は皆自心の現ずる所の似法に縁じて、執して実有と為す。しかして似法の相は縁より生ず。これ如幻の有なり。所執の実法は妄りに計度するに因って、決定して有に非ず。ゆえに世尊説きたまう:「慈氏(弥勒)まさに知るべし。諸識の縁ずる所は、唯だ識の現ずる所にして、他依起性にして、幻事等の如し。」

如是外道、餘乘所執離識我、法皆非實有。故心、心所決定不用外色等法為所緣緣,緣用必依實有體故。

かくのごとく外道・其余の乗の所執の識を離れたる我・法は皆実有に非ず。ゆえに心・心所は決定して外色等の法を用いて所縁縁と為さず。縁の用は必ず実有の体に依るが故に。

現在彼聚心、心所法,非此聚識親所緣緣,如非所緣,他聚攝故。同聚心所亦非親所緣,自體異故,如餘非所取。

現在のかの一聚の心・心所法は、並びてこの一聚の識の親所縁縁に非ず。所縁に非ざるが如く、他聚の摂する所なるが故に。同聚の心所もまた親所縁に非ず。自体異なるが故に、其余の所取に非ざるが如し。

由此應知,實無外境,唯有內識,似外境生。是故契經伽他中說:「如愚所分別,外境實皆無,習氣擾濁心,故似彼而轉。」

これに由ってまさに知るべし、実に外境無く、唯だ内識有りて外境の如く生ず。ゆえに契経の偈の中に説く:「愚人の分別するが如く、外境は実に皆無し。習気は心を擾濁す。ゆえに彼の如くして転ず。」

有作是難:若無離識實我、法者,假亦應無,謂假必依真事、似事、共法而立,如有真火、有似火人、有猛赤法,乃可假說此人為火,假說牛等應知亦然。我、法若無,依何假說,無假說故,似亦不成,如何說心似外境轉。

人有りてかくのごとき難を作す:もし識を離れたる実の我・法無ければ、假もまたまさに無かるべし。いわゆる假は必ず真事・似事・共法に依って立つ。真火有り、火に似たる人有り、猛赤の法有らば、乃ち假にこの人を火と説き、假に牛等を説くもまたまさに知るべし。我・法もし無ければ、何に依って假説せん。假説無ければ、似もまた成立せず。どうして心は外境の如くして転ずと説かん。

彼難非理,離識我、法,前已破故。

彼らの難は理に合わず。識を離れたる我・法は前に已に破れり。

依類、依實假說火等,俱不成故。

類に依り実に依りて假に火等を説くも、皆成立せず。

依類假說理且不成,猛、赤等德非類有故。若無共德而假說彼,應亦於水等假說火等名。若謂猛等雖非類德,而不相離,故可假說。此亦不然,人類猛等現見亦有,互相離故。類既無德又互相離,然有於人假說火等,故知假說不依類成。

類に依って假説する理は況や成立せず。猛・赤等の徳は並びて類の所有に非ず。もし共の徳無くしてそれを假説せば、まさに水等に対しても火等の名を假説すべし。もし猛等は類の徳に非ずと雖も、しかして相離れざるがゆえに假説すべしと説かば、これもまた然らず。人の類の猛等は現見するもまた互相離有り。類はすでに徳無くしてまた互相離れ、しかも人に対して火等の假説有り。ゆえに假説は類に依らずして成るを知る。

依實假說,理亦不成。猛、赤等德非共有故,謂猛、赤等在火、在人其體各別,所依異故,無共假說,有過同前。若謂人、火,德相似故,可假說者,理亦不然。說火在人,非在德故。由此假說不依實成。

実に依って假説するも、理また成立せず。猛・赤等の徳は並びて共有に非ず。いわゆる猛・赤等は火に在り人に在りてその体各別なり。所依異なるが故に、共に假説する無し。過は前に同じ。もし人・火は徳相似なるがゆえに假説すべしと説かば、理また然らず。火を説いて人に在りとは、徳に在りに非ず。これに由って假説は実に依らずして成る。

又假必依真事立者,亦不應理。

また假は必ず真事に依って立つも、また理に応えず。

真謂自相,假智及詮俱非境故。謂假智、詮不得自相,唯於諸法共相而轉,亦非離此有別方便施設自相為假所依。然假智、詮必依聲起,聲不及處,此便不轉,能詮、所詮俱非自相,故知假說不依真事。

真とは自相を説く。假智および詮は皆境に非ず。いわゆる假智・詮は自相を得ること能わずして、ただ諸法の共相に対して転ず。またこのを離れて別に方便して自相を施設して假の所依と為すに非ず。しかして假智・詮は必ず声に依って起こり、声の及ばざる処に、この便ち転ぜず。能詮・所詮は皆自相に非ず。ゆえに假説は真事に依らずと知る。

由此但依似事而轉,似謂增益,非實有相,聲依增益,似相而轉,故不可說假必依真。

これに由ってただ似事に依って転ず。似とは増益を説く。実有の相に非ず。声は増益に依り、似相にして転ず。ゆえに假は必ず真に依ると説くべからず。

是故彼難不應正理。然依識變,對遣妄執真實我、法,說假似言。由此契經伽他中說:

ゆえに彼らの難は正理に応えず。しかして識変に依って、真実の我・法を妄執するに対して遣除するに、假・似の言を説く。これに由って契経の偈の中に説く:

「為對遣愚夫所執實我、法,

「愚夫の執する所の実我・法を対遣するが為に、

故於識所變,假說我、法名。」

ゆえに識の変ずる所に対して、假に我・法の名を説く。」

識所變相雖無量種,而能變識類別唯三:一謂異熟,即第八識,多異熟性故;二謂思量,即第七識,恆、審思量故;三謂了境,即前六識,了境相麁故。「及」言顯六合為一種。

識の変ずる所の相は無量種あると雖も、しかし能変の識の類別は唯だ三有り。一は異熟、すなわち第八識にして、多くは異熟性なるが故に。二は思量、すなわち第七識にして、恒・審に思量するが故に。三は了境、すなわち前の六識にして、境を了る相麁なるが故に。「及」の字は六を合して一種と為すを顕す。

此三皆名能變識者,能變有二種:

この三は皆名づけて能変の識という。能変に二種有り。

一、因能變,謂第八識中「等流」、「異熟」二因習氣。等流習氣,由七識中善、惡、無記燻令生長;異熟習氣由六識中有漏善、惡燻令生長。

一、因能変。いわゆる第八識中の「等流」・「異熟」の二因の習気。等流習気は七識中の善・悪・無記に由って薫されて生長せしめられ、異熟習気は六識中の有漏の善・悪に由って薫されて生長せしめらる。

二、果能變,謂前二種習氣力故,有八識生現種種相。

二、果能変。前の二種の習気力に因って、八識有りて生じて現じて種種の相を為す。

等流習氣為因緣故,八識體相差別而生,名等流果,果似因故。異熟習氣為增上緣,感第八識,酬引業力,恆相續故,立異熟名;感前六識,酬滿業者,從異熟起,名異熟生,不名異熟有間斷故。即前異熟及異熟生,名異熟果,果異因故。

等流習気は因縁と為して、八識の体相差別して生ず。名づけて等流果という、果は因に似たるが故に。異熟習気は増上縁と為して、第八識を感じて、業力を酬いて引く。恒に相続するに因って、異熟の名を立つ。前の六識を感ずるは、満業を酬ゆるにして、異熟より起こる。名づけて異熟生という、名づけて異熟と言わざるは、間断有るが故に。すなわち前の異熟および異熟生を、名づけて異熟果という、果は因に異なるが故に。

此中且說我愛執藏,持雜染種能變果識,名為異熟,非謂一切。

ここに且く我愛執蔵と、雑染種を持する能変果識とを説いて、名づけて異熟という。並びて一切を説くに非ず。

雖已略說能變三名,而未廣辯能變三相。且初能變其相云何?

已に略く能変の三名を説くと雖も、しかし未だ広く能変の三相を弁ぜず。且く初能変のその相はいかんと説かん。

頌曰:

頌に説く:

初阿賴耶識,異熟一切種,

初の阿頼耶識は、異熟にして一切種。

3不可知執受,處了常與觸,

知るべからざる執受・処を了し、常に触と、

作意、受、想、思,相應唯捨受。

作意・受・想・思と相応して唯だ捨受のみ。

4是無覆無記,觸等亦如是,

これ無覆無記にして、触等もまたこの如し。

恆轉如瀑流,阿羅漢位捨。

恒に転ずること瀑流の如く、阿羅漢の位にて捨つ。

論曰:初能變識,大小乘教名阿賴耶,此識具有能藏、所藏、執藏義故。謂與雜染互為緣故,有情執為自內我故,此即顯示初能變識所有自相,攝持因果為自相故。此識自相,分位雖多,藏識過重,是故偏說。

論に説く:初能変の識は、大小乗の教にて名づけて阿頼耶という。この識は能蔵・所蔵・執蔵の義を具えたり。いわゆる雑染と互いに縁と為り、有情これを執して自内我と為す。これすなわち初能変識の所有する自相を顕す。因果を摂持して自相と為すが故に。この識の自相は分位多きと雖も、蔵識の過重なるがゆえに偏りて説く。

此是能引諸界、趣、生,善、不善業異熟果故,說名異熟。離此命根、眾同分等恆時相續勝異熟果不可得故。此即顯示初能變識所有果相。此識果相,雖多位、多種,異熟寬、不共,故偏說之。

これは能く諸々の界・趣・生と、善・不善業との異熟果を引く。ゆえに名づけて異熟という。このを離れば、命根・衆同分等の恒時相続する勝れたる異熟果は求むるも得られず。これすなわち初能変識の所有する果相を顕す。この識の果相は多位・多種あると雖も、異熟は広く不共なるがゆえに偏りてそれを説く。

此能執持諸法種子令不失故,名一切種。離此餘法能遍執持諸法種子不可得故,此即顯示初能變識所有因相。此識因相雖有多種,持種不共,是故偏說。

これは能く諸法の種子を執持して失わせず。名づけて一切種という。このを離れば、其余の法の能く遍く諸法の種子を執持するは求むるも得られず。これすなわち初能変識の所有する因相を顕す。この識の因相は多種あると雖も、持種は不共なるがゆえに偏りて説く。

初能變識,體相雖多,略說唯有如是三相。

初能変識は体相多きと雖も、略く説けばただこの三相のみ有り。

一切種相應更分別。此中何法名為種子?

一切種相応は更に分別す。ここにいかなる法をか名づけて種子という。

謂本識中親生自果,功能差別。

いわゆる本識の中に親く自果を生ずる功能差別なり。

此與本識及所生果不一、不異,體用、因果理應爾故。

これは本識および所生の果と一に非ず異に非ず。体用・因果の理はまさに然るべし。

雖非一、異,而是實有,假法如無,非因緣故。此與諸法既非一、異,應如瓶等是假非實。若爾,真如應是假有,許則便無真勝義諦。

一・異に非ずと雖も、しかして実有なり。假法は無の如くして、因縁に非ざるが故に。これは諸法と既に一・異に非ざれば、まさに瓶等の如く假にして実に非ざるべし。もし然らば、真如もまさに假有ならん。許さば便ち真勝義諦無しと為る。

然諸種子唯依世俗說為實有,不同真如。

しかし諸々の種子はただ世俗に依って実有と説く。真如に同じからず。

種子雖依第八識體,而是此識相分;非餘,見分恆取此為境故。

種子は第八識体に依ると雖も、しかしてこの識の相分なり。其余に非ず。見分は恒にこれを取って境と為すが故に。

諸有漏種與異熟識,體無別故,無記性攝;因果俱有善等性故,亦名善等。

諸々の有漏種と異熟識とは体に分別無し。無記性の摂する所なり。因果は皆善等の性有るがゆえに、また名づけて善等という。

諸無漏種,非異熟識性所攝故;因果俱是善性攝故,唯名為善。若爾,何故〈決擇分〉說二十二根一切皆有異熟種子,皆異熟生?雖名異熟而非無記,依異熟故名異熟種,異性相依如眼等識。或無漏種,由燻習力轉變成熟,立異熟名,非無記性所攝異熟。

諸々の無漏種は、異熟識性の摂する所に非ず。因果は皆善性の摂する所なるがゆえに、ただ名づけて善という。もし然らば、何を以って〈決択分〉に二十二根は一切皆有りて異熟種子有りて、皆是れ異熟生と説く。名づけて異熟というと雖もしかし無記に非ず。異熟に依るがゆえに名づけて異熟種という。異性と依とは眼等識の如し。あるいは無漏種は薫習力に由って転変成熟して、異熟の名を立つ。並びて無記性の摂する所の異熟に非ず。

此中有義:一切種子皆本性有,不從燻生。

ここに一義有り:一切の種子は皆本性有りて、薫より生ぜず。

由燻習力但可增長。

薫習力に由ってただ増長し得るのみ。

如契經說:一切有情無始時來有種種界,如惡叉聚,法爾而有。界即種子差別名故。又契經說:「無始時來界,一切法等依」,界是因義。《瑜伽》亦說:諸種子體無始時來性雖本有,而由染淨新所燻發。諸有情類無始時來,若般涅槃法者,一切種子皆悉具足,不般涅槃法者,便闕三種菩提種子。如是等文,誠證非一。

契経に説けるが如く:一切有情は無始より来り種種の界有りて、悪叉聚(果実の簇だまり成るもの)の如く、法爾にして有りと。界はすなわち種子の差別名なり。また契経に説く:「無始より来る界は、一切法の等依なり」と。界は因の義なり。《瑜伽》にもまた説く:諸々の種子体は無始より来り性は本有と雖も、しかし染浄の新たに薫発する所に由ると。諸々の有情類は無始より来り、もし般涅槃法たるの人なれば、一切の種子は皆具足せり。般涅槃法に非ざるの人なれば、便ち三種菩提の種子を缺く。かくのごとき等の文は、証と誠たること一処のみに非ず。

又諸有情既說本有五種性別,故應定有法爾種子,不由燻生。又《瑜伽》說:地獄成就三無漏根,是種非現。又從無始展轉傳來,法爾所得本性住性。由此等證,無漏種子法爾本有,不從燻生。

また諸有情はすでに本有の五種性别有りと説けば、ゆえにまさに定めて法爾の種子有るべくして、薫より生ずるに由らず。また《瑜伽》に説く:地獄は三無漏根を成就す。これ種にして現に非ず。また無始より展転伝え来りて、法爾にて得たる本性住性なりと。これらの等の証に由って、無漏種子は法爾本有にして、薫より生ぜず。

有漏亦應法爾有種,由燻增長,不別燻生。

有漏もまたまさに法爾に種有るべくして、薫に由って増長し、別に薫生せず。

如是建立,因果不亂。

かくのごとく建立すれば、因果乱れず。

有義:種子皆燻故生。

一義有り:種子は皆薫に因って生ず。

所燻、能燻俱無始有,故諸種子無始成就。種子既是習氣異名,習氣必由燻習而有,如麻香氣,花燻故生。

所薫・能薫は皆無始有れば、ゆえに諸種子は無始に成就す。種子はすでに習気の異名なれば、習気は必ず薫習に由って有り。麻の香気の如く、花の薫するに因って生ず。

如契經說:諸有情心,染淨諸法所燻習故,無量種子之所積集。論說:內種定有燻習,外種燻習或有或無。又名言等三種燻習,總攝一切有漏法種。彼三既由燻習而有,故有漏種必藉燻生。

契経に説けるが如く:諸有情の心は、染浄の諸法の薫習する所に因りて、無量の種子の積集する所なりと。論に説く:内種は定めて薫習有りて、外種の薫習はあるいは有りあるいは無し。また名言等の三種の薫習は、総く一切有漏法種を摂す。かの三はすでに薫習に由って有れば、ゆえに有漏種は必ず薫生に藉る。

無漏種生亦由燻習,說聞燻習、聞淨法界等流正法而燻起故,是出世心種子性故。

無漏種の生もまた薫習に由る。聞薫習を説いて、浄法界の等流たる正法を聞いて薫起するに因る。出世心の種子性なるが故に。

有情本來種姓差別,不由無漏種子有無,但依有障、無障建立。如《瑜伽》說:於真如境,若有畢竟二障種者,立為不般涅槃法性;若有畢竟所知障種非煩惱者,一分立為聲聞種性,一分立為獨覺種性;若無畢竟二障種者,即立彼為如來種性。故知本來種性差別,依障建立,非無漏種。

有情の本来の種性差別は、無漏種子の有無に由らずして、ただ障有る・障無きに依って建立す。《瑜伽》に説けるが如く:真如の境に対して、もし畢竟の二障種有るの人なれば、立てて不般涅槃法性と為す。もし畢竟の所知障種有りて煩悩に非ざるなれば、一分立てて声聞種性と為し、一分立てて独覚種性と為す。もし畢竟の二障種無きの人なれば、便ち彼らを立てて如来種性と為す。ゆえに本来の種性差別は障に依って建立し、並びて無漏種に非ずと知る。

所說:「成就無漏種」言,依當可生,非已有體。

説く所の「無漏種を成就す」の言は、当に生ずべきに依る。並びて已に体有るに非ず。

有義:種子各有二類。

一義有り:種子は各々二类有り。

一者本有,謂無始來異熟識中法爾而有,生蘊、處、界功能差別。世尊依此,說諸有情無始時來有種種界,如惡叉聚,法爾而有,餘所引證廣說如初。此即名為本性住種。

一つには本有。いわゆる無始より来り、異熟識中に法爾にして有りて、蘊・処・界を生ずる功能差別なり。世尊これに依って、諸有情は無始より来り種種の界有りて悪叉聚の如く法爾にして有りと説く。其余の引く所の証は広く説くこと初の如し。これすなわち名づけて本性住種という。

二者始起,謂無始來,數數現行燻習而有。世尊依此,說有情心染淨諸法所燻習故,無量種子之所積集。諸論亦說:染淨種子由染淨法燻習故生,此即名為習所成種。

二つには始起。いわゆる無始より来り、数々現行にて薫習して有るなり。世尊これに依って、有情の心は染浄の諸法の薫習する所に因りて、無量の種子の積集する所なりと説く。諸論もまた説く:染浄の種子は染浄法の薫習に由って生ずと。これすなわち名づけて習所成種という。

若唯本有,轉識不應與阿賴耶為因緣性。如契經說:

もし唯だ本有なれば、転識はまさに阿頼耶と因縁性と為るべからず。契経に説けるが如く:

「諸法於識藏,識於法亦爾,

「諸法は識蔵に対し、識は法に対してもまた然り。

更互為果性,亦常為因性。」

更互に果性と為り、また常に因性と為る。」

此頌意言:阿賴耶識與諸轉識,於一切時展轉相生,互為因果。《攝大乘》說:阿賴耶識與雜染法互為因緣,如炷與焰展轉生燒,又如束蘆互相依住,唯依此二建立因緣,所餘因緣不可得故。若諸種子不由燻生,如何轉識與阿賴耶有因緣義?非燻令長可名因緣,勿善、惡業與異熟果為因緣故。

この頌の意は、阿頼耶識と諸転識とは一切の時に展転相生して、互いに因果と為ると謂う。《摂大乗》に説く:阿頼耶識と雑染法とは互いに因縁と為りて、灯炷と焔との展転生焼するが如く、また束蘆の相依って住するが如し。ただこの二に依って因縁を建立す。其余の因縁は求むるも得られず。もし諸種子は薫より生ぜずと言わば、どうして転識は阿頼耶と因縁の義有らん。並びて薫して長ぜしめるを名づけて因縁と言うべからず。善・悪業をして異熟果と因縁と為らしむること莫れ。

又諸聖教說有種子由燻習生,皆違彼義;故唯本有,理、教相違。

また諸聖教は種子有りて薫習に由って生ずと説く。皆かの義に違す。ゆえに唯だ本有なれば、理・教相違す。

The original text is in the public domain. The Japanese is a machine-assisted translation of this library’s own Chinese paraphrase, checked against a fixed glossary so that technical terms match the definitions used elsewhere on this site. It is a reading aid and does not replace the original.