成唯識論巻第一
此識唯是異熟性故,善、染汙等亦不相應。
この識はただ異熟性なるがゆえに、善・染汚等もまた相応せず。
惡作等四無記性者,有間斷故,定非異熟。
悪作等の四は無記性なると雖も、間断有るがゆえに決定して異熟に非ず。
法有四種:謂善、不善、有覆無記、無覆無記,阿賴耶識何法攝耶?
法に四種有り。いわゆる善・不善・有覆無記・無覆無記。阿頼耶識はいずれかの法の摂する所ぞ。
此識唯是無覆無記,異熟性故。
この識はただ無覆無記なり。異熟性なるが故に。
異熟若是善、染汙者,流轉還滅應不得成,又此識是善、染依故,若善、染者,互相違故,應不與二俱作所依;又此識是所燻性故,若善、染者,如極香臭,應不受燻。
異熟もし善・染汚なれば、流転還滅はまさに成ぜずを得べし。またこの識は善・染の依る所なり。もし善・染なれば、互相違するがゆえに、まさに二と倶に所依と作るべからず。またこの識は所薫性なり。もし善・染なれば、極香極臭の如く、まさに薫を受けざるべし。
無燻習故,染、淨因果俱不成立,故此唯是無覆無記。
薫習無きがゆえに、染・浄の因果は皆成立せず。ゆえにこれはただ無覆無記なり。
「覆」謂染法障聖道故,又能蔽心,令不淨故;此識非染,故名「無覆」。「記」謂善、惡,有愛、非愛果,及殊勝自體可記別故;此非善、惡,故名「無記」。
「覆」とは染法は聖道を障して、また能く心を蔽いて不浄ならしむを説く。この識は染に非ざるがゆえに名づけて「無覆」という。「記」とは善・悪にして愛・非愛の果有りて、および殊勝の自体を記別すべきを説く。これは善・悪に非ざるがゆえに名づけて「無記」という。
「觸等亦如是」者,謂如阿賴耶識,唯是無覆無記性攝,觸、作意、受、想、思亦爾,諸相應法,必同性故。
「触等もまたこの如し」とは、いわゆる阿頼耶識の如く、ただ無覆無記性の摂する所なり。触・作意・受・想・思もまたこの如し。諸々の相応の法は必ず性を同じくするが故に。
又,觸等五,如阿賴耶,亦是異熟,所緣、行相俱不可知,緣三種境,五法相應,無覆無記,故說「觸等亦如是」言。
また触等の五は阿頼耶の如く、また異熟にして、所縁・行相は皆不可知にして、三種の境に縁じ、五法相応して、無覆無記なり。ゆえに「触等もまたこの如し」と説く。
有義:觸等如阿賴耶,亦是異熟及一切種,廣說乃至無覆無記,「亦如是」言,無簡別故。
一義有り:触等は阿頼耶の如く、また異熟および一切種にして、広く説けば乃至無覆無記なり。「もまたこの如し」の言は、簡別無きに因る。
彼說非理。
彼らの説は理に合わず。
所以者何?
何故か。
觸等依識,不自在故。如貪、信等不能受燻,如何同識,能持種子?
触等は識に依りて自在ならず。貪・信等の能く薫を受けざるが如く、どうして識に同じくして能く種子を持せん。
又,若觸等亦能受燻,應一有情有六種體。
またもし触等もまた能く薫を受けば、まさに一有情は六种の体有るべし。
若爾,果起從何種生?理不應言從六種起,未見多種生一芽故。
もし然らば、果の起こるはいずれの種より生ぜん。理まさに六种より起こると説くべからず。未だかつて多种の一芽を生ずるを見ず。
若說果生唯從一種,則餘五種便為無用;亦不可說次第生果,燻習同時,勢力等故;又不可說六果頓生,勿一有情一剎那頃,六眼識等俱時生故。
もし果の生はただ一种よりすると説かば、然らば其余の五种は便ち無用と為る。またまさに次第に果を生ずと説くべからず。薫習は同時にして勢力等しきが故に。またまさに六果頓生と説くべからず。一有情が一刹那の頃に六眼識等を倶時に生ぜしむること莫れ。
誰言觸等亦能受燻持諸種子?不爾,如何觸等如識名一切種?
誰か触等もまた能く薫を受けて諸種子を持つと説く。然らずんば、どうして触等は識の如く名づけて一切種という。
謂觸等五,有似種相,名一切種,觸等與識所緣等故,無色觸等有所緣故,親所緣緣定應有故,此似種相不為因緣生現識等,如觸等上似眼根等非識所依,亦如似火無能燒用,彼救非理,觸等所緣似種等相,後執受處方應與識而相例故。
いわゆる触等の五は種の相の如き有りて、名づけて一切種という。触等は識と所縁等しく、無色の触等は所縁有りて、親所縁縁は決定して有るべきが故に。これは種の相の如きにして因縁と為りて現識等を生ずるに非ず。触等上の眼根等の如きは識の依る所に非ざるが如く、また火の如きにして能く焼く用無きが如し。かの救は理に合わず。触等の所縁は種等の相の如く、後の執受の処にて乃ちまさに識と相例すべし。
由此前說一切種言,定目受燻、能持種義;不爾,本頌有重言失。
これに由って前に一切種と説きし言は、決定して薫を受け能く種を持つの義を指す。然らずんば、本頌に重言の失有り。
又彼所說,「亦如是」言,無簡別故,鹹相例者,定不成證,勿觸等五,亦能了別,觸等亦與觸等相應。
また彼らの説く所の「もまたこの如し」の言は、簡別無きに因れば、皆相例して決定して証を成さず。触等の五をしてもまた能く了別せしめ、触等もまた触等と相応せしむること莫れ。
由此故知「亦如是」者,隨所應說,非謂一切。
これに由って故に知る、「もまたこの如し」とは、応ずる所に随って説く。並びて一切を説くに非ず。
阿賴耶識為斷?為常?
阿頼耶識は断か常か。
非斷、非常,以「恆轉」故。「恆」謂此識無始時來,一類、相續,常無間斷,是界、趣、生施設本故,性堅、持種令不失故。「轉」謂此識無始時來,念念生滅前後變異,因滅果生,非常、一故,可為轉識燻成種故。
断に非ず常に非ず。「恒転」なるが故に。「恒」とはこの識は無始より来り、一類・相続して、常に間断無きを説く。界・趣・生の施設の本にして、性は堅くして種を持して失わせざるが故に。「転」とはこの識は無始より来り、念念生滅して前後変異し、因滅し果生ずるを説く。常に非ず一に非ざるが故に、転識に薫じて種を成さしむべし。
「恆」言遮斷,「轉」表非常,猶如瀑流,因果法爾。
「恒」は断を遮り、「転」は常に非ざるを表す。猶ほ瀑流の如し。因果法爾なり。
如瀑流水,非斷、非常,相續長時有所漂溺,此識亦爾,從無始來生滅相續,非常、非斷,漂溺有情令不出離。
瀑流の水の如く、断に非ず常に非ず。相続して長時に漂溺する所有り。この識もまたこの如し。無始より来り生滅相続して、常に非ず断に非ず。有情を漂溺して出離せしめず。
又如瀑流,雖風等擊,起諸波浪而流不斷,此識亦爾,雖遇眾緣,起眼識等而恆相續。
また瀑流の如く、風等の撃するに遇うと雖も、諸々の波浪を起こして流れ断えず。この識もまたこの如し。衆縁に遇うと雖も、眼識等を起こして恒に相続す。
又如瀑流,漂水下上魚、草等物,隨流不捨,此識亦爾,與內習氣外觸等法恆相隨轉。
また瀑流の如く、水上・下の魚・草等の物を漂わして、流れに随って捨てず。この識もまたこの如し。内の習気・外の触等の法と恒に相随って転ず。
如是法喻,意顯此識無始因果非斷、常義。謂此識性無始時來,剎那剎那果生因滅。果生故非斷,因滅故非常,非斷、非常是緣起理,故說此識恆轉如流。
かくのごとき法喻は、意はこの識の無始の因果の断・常に非ざる義を顕すと謂う。いわゆるこの識性は無始より来り、刹那刹那に果生じ因滅す。果生ずるがゆえに断に非ず。因滅するがゆえに常に非ず。断に非ず常に非ずは是れ縁起の理なり。ゆえにこの識は恒に転ずること流れの如しと説く。
過去、未來既非實有,非常可爾;非斷如何?斷豈得成緣起正理?
過去・未来はすでに実有に非ざれば、常に非ずは可なり。断に非ずはいかん。断はあに能く縁起の正理を成さんや。
過去、未來若是實有,可許非斷;如何非常?常亦不成緣起正理。
過去・未来もし実有なれば、断に非ずと許すべし。どうして常に非ざる。常もまた縁起の正理を成さず。
豈斥他過,己義便成?
あに他の過を斥けば、自らの義は便ち成立せんや。
若不摧邪難以顯正。前因滅位後果即生,如秤兩頭低、昂時等,如是因果相續如流,何假去、來,方成非斷?
もし邪を摧かずんば難くして正を顕す。前の因の滅する位に後の果は即ち生ず。秤の両頭の低・昂の同時なるが如し。かくのごとく因果は相続して流れの如し。何ぞ假に去・来を須ちて乃ち断に非ずを成さん。
因現有位,後果未生,因是誰因?果現有時,前因已滅,果是誰果?既無因果,誰離斷、常?
因の現有の位に後の果未だ生ぜず。因は誰の因か。果の現有の時に前の因已に滅す。果は誰の果か。すでに因果無ければ、誰か断・常を離れん。
若有因時,已有後果,果既本有,何待前因?因義既無,果義寧有?無因無果,豈離斷、常?
もし因有る時已に後の果有れば、果はすでに本有なり。何ぞ前因を待たん。因の義すでに無ければ、果の義はどうして有らん。因無く果無ければ、あに断・常を離れんや。
因果義成,依法作用,故所詰難,非預我宗。
因果の義は法の作用に依って成立す。ゆえに詰難する所は並びて我宗に預からず。
體既本有,用亦應然,所待因緣,亦本有故。
体はすでに本有なれば、用もまたまさに然るべくして、待つ所の因縁もまた本有なり。
由斯汝義因果定無,應信大乘緣起正理。謂此正理深妙離言,因果等言皆假施設。觀現在法有引後用,假立當果對說現因;觀現在法有酬前相,假立曾因對說現果。假謂現識似彼相現。
これに由って汝らの義は因果定めて無し。まさに大乗の縁起正理を信ずべし。いわゆるこの正理は深妙にして言を離れ、因果等の言は皆假施設なり。現在法を観て後用を引く有り。假に当果を立てて現因に対して説く。現在法を観て前に酬ゆる相有り。假に曾因を立てて現果に対して説く。假とは現識がその相の如く現ずるを説く。
如是因果,理趣顯然,遠離二邊,契會中道,諸有智者應順修學。
かくのごとき因果は理趣顯然にして、二辺を遠離し、中道に契会す。諸々の智者有らばまさに随順して修学すべし。
有餘部說:雖無去、來而有因果恆相續義。
其余の部の説く有り:去・来無きと雖も、しかし因果恒に相続する義有りと。
謂現在法極迅速者,猶有初、後,生、滅二時,生時酬因,滅時引果,時雖有二,而體是一,前因正滅,後果正生,體相雖殊,而俱是有。
いわゆる現在法の極めて迅速なるは、なお初・後の生・滅の二時有り。生時は因に酬い、滅時は果を引く。時は二あると雖も、しかし体は一なり。前因正に滅し、後果正に生ず。体相は殊なると雖も、しかし皆是有なり。
如是因果非假施設,然離斷、常,又無前難,誰有智者捨此信餘?
かくのごとき因果は並びて假施設に非ず、しかも断・常を離れ、また前の難無し。誰の智者か有りてこれを捨てて其余を信ぜん。
彼有虛言,都無實義,何容一念而有二時?生、滅相違,寧同現在?滅若現在,生應未來。有故名生,既是現在,無故名滅,寧非過去?滅若非無,生應非有;生既現有,滅應現無,又二相違,如何體一?非苦、樂等見有是事,生、滅若一,時應無二;生、滅若異,寧說體同?故生、滅時俱現在有,同依一體,理必不成。
彼らは虚言有りて皆実義無し。どうして一念にして二時有るを容せん。生・滅は相違す。どうして現在を同じくせん。滅もし現在なれば、生はまさに未来ならん。有ゆえに名づけて生という。すでに現在なれば、無ゆえに名づけて滅という。どうして過去に非ざる。滅もし無に非ざれば、生はまさに有に非ざるべし。生すでに現有なれば、滅はまさに現無ならん。また二は相違す。どうして体一ならん。並びて苦・楽等の見てこの事有るが如きに非ず。生・滅もし一なれば、時はまさに二無かるべし。生・滅もし異なれば、どうして体同じきと説かん。ゆえに生・滅の時皆現在有りて同じく一体に依るは、理必ず成立せず。
經部師等因果相續,理亦不成,彼不許有阿賴耶識能持種故。
経部師等の因果相続も、理また成立せず。彼らは阿頼耶識の能く種を持つ有りを許さざるが故に。
由此應信大乘所說因果相續緣起正理。
これに由ってまさに大乗の説く所の因果相続の縁起正理を信ずべし。
此識無始恆轉如流,乃至何位當究竟捨?
この識は無始より恒に転じて流れの如し。乃至いずれの位にかまさに究竟して捨つべき。
阿羅漢位方究竟捨。
阿羅漢の位にて乃ち究竟して捨つ。
謂諸聖者斷煩惱障究竟盡時,名阿羅漢。爾時,此識煩惱麁重永遠離故,說之為「捨」。
いわゆる諸聖者は煩悩障を断じて究竟尽す時、名づけて阿羅漢という。かの時、この識の煩悩麁重は永く離る。それを説いて「捨」と為す。
此中所說阿羅漢者,通攝三乘無學果位,皆已永害煩惱賊故;應受世間妙供養故;永不復受分段生故。
ここに説く所の阿羅漢は、三乗の無学果位を通摂す。皆已に永く煩悩の賊を害し、まさに世間の妙供養を受くべく、永く復た分段生を受けず。
云何知然?
どうしてかく有るを知る。
〈決擇分〉說:諸阿羅漢、獨覺、如來皆不成就阿賴耶故;《集論》復說:若諸菩薩得菩提時,頓斷煩惱及所知障,成阿羅漢及如來故。
〈決択分〉に説く:諸々の阿羅漢・独覚・如来は皆阿頼耶を成就せずと。《集論》もまた説く:もし諸菩薩は菩提を得る時、頓に煩悩および所知障を断じて、阿羅漢および如来を成ずと。
若爾,菩薩煩惱種子未永斷盡非阿羅漢,應皆成就阿賴耶識,何故即彼〈決擇分〉說不退菩薩亦不成就阿賴耶識?
もし然らば、菩薩は煩悩種子未だ永断尽せずして阿羅漢に非ざれば、まさに皆阿頼耶識を成就すべし。なんぞすなわちかの〈決択分〉に不退菩薩もまた阿頼耶識を成就せずと説く。
彼說二乘無學果位迴心趣向大菩提者,必不退起煩惱障故,趣菩提故,即復轉名不退菩薩,彼不成就阿賴耶識。
彼らは二乗の無学果位にて心を回して大菩提に趣向する人は、必ず退きて煩悩障を起こさずして菩提に趣くと説く。便ちまた転じて名づけて不退菩薩という。彼らは阿頼耶識を成就せず。
即攝在此阿羅漢中,故彼論文不違此義。
すなわちこの阿羅漢の中に収摂す。ゆえにかの論文はこの義に違せず。
又不動地已上菩薩,一切煩惱永不行故,法駛流中任運轉故;能諸行中起諸行故;剎那剎那轉增進故,此位方名不退菩薩。
また不動地已上の菩薩は、一切の煩悩は永く行わず。法の駛流の中にて任運に転ず。能く諸行の中に諸行を起こし、刹那刹那に転増進す。この位を乃ち名づけて不退菩薩という。
然此菩薩雖未斷盡異熟識中煩惱種子,而緣此識我見、愛等,不復執藏為自內我,由斯永捨阿賴耶名,故說不成阿賴耶識,此亦說彼名阿羅漢。
しかしこれらの菩薩は未だ異熟識中の煩悩種子を断尽せざると雖も、しかしこの識に縁ずる我見・愛等は、更に執蔵して自内我と為さず。これに由って永く阿頼耶の名を捨つ。ゆえに阿頼耶識を成就せずと説く。これもまた彼らを名づけて阿羅漢と説く。
有義:初地已上菩薩,已證二空所顯理故;已得二種殊勝智故;已斷分別二重障故;能一行中起諸行故;雖為利益起諸煩惱,而彼不作煩惱過失故,此亦名不退菩薩。
一義有り:初地已上の菩薩は、已に二空の顕す所の理を証し、已に二種の殊勝智を得、已に分別の二重障を断じ、能く一行の中に諸行を起こす。利益の為に諸煩悩を起こすと雖も、しかし彼らは煩悩の過失を作さず。ゆえにこれもまた名づけて不退菩薩という。
然此菩薩雖未斷盡俱生煩惱,而緣此識所有分別我見、愛等,不復執藏為自內我,由斯亦捨阿賴耶名,故說不成阿賴耶識,此亦說彼名阿羅漢。
しかしこれらの菩薩は未だ倶生の煩悩を断尽せざると雖も、しかしこの識に縁ずる所有の分別の我見・愛等は、更に執蔵して自内我と為さず。これに由ってもまた阿頼耶の名を捨つ。ゆえに阿頼耶識を成就せずと説く。これもまた彼らを名づけて阿羅漢と説く。
故《集論》中作如是說:十地菩薩雖未永斷一切煩惱,然此煩惱猶如呪、藥所伏諸毒,不起一切煩惱過失。一切地中,如阿羅漢已斷煩惱,故亦說彼名阿羅漢。
ゆえに《集論》の中にかくのごとき説を作す:十地の菩薩は未だ永く一切の煩悩を断ぜざると雖も、しかしこれらの煩悩は猶ほ呪・薬の伏する所の諸毒の如く、一切の煩悩の過失を起こさず。一切地の中にて阿羅漢の已に煩悩を断じたるが如し。ゆえにもまた彼らを名づけて阿羅漢と説く。
彼說非理。七地已前猶有俱生我見、愛等,執藏此識為自內我,如何已捨阿賴耶名?
彼らの説は理に合わず。七地已前にはなお倶生の我見・愛等有りて、この識を執蔵して自内我と為す。どうして已に阿頼耶の名を捨てたらん。
若彼分別我見、愛等,不復執藏,說名為捨,則預流等諸有學位,亦應已捨阿賴耶名,許便違害諸論所說。
もし彼らの分別の我見・愛等は更に執蔵せざるを説いて名づけて捨と為さば、然らば預流等の諸有学位もまたまさに已に阿頼耶の名を捨てたるべし。許さば便ち諸論の説く所に違害す。
