Libo

成唯識論巻第一

唐 · 护法等造,玄奘译 · 第9巻 / 39

地上菩薩所起煩惱皆由正知,不為過失,非預流等得有斯事,寧可以彼例此菩薩?

地上の菩薩の起こす所の煩悩は皆正知に由って過失と為さず。並びて預流等の能くこの事有るに非ず。どうして彼らを用いてこれらの菩薩に例せん。

彼六識中所起煩惱,雖由正知不為過失,而第七識有漏心位,任運現行執藏此識,寧不與彼預流等同?由此故知彼說非理。

彼らの六識中に起こる所の煩悩は、正知に由って過失と為さざると雖も、しかし第七識の有漏心位は任運に現行してこの識を執蔵す。どうしてかの預流等と相同じからざらん。これに由って故に彼らの説は理に合わずと知る。

然阿羅漢斷此識中煩惱麁重究竟盡故,不復執藏阿賴耶識為自內我。由斯永失阿賴耶名,說之為捨,非捨一切第八識體。勿阿羅漢無識持種,爾時便入無餘涅槃。

しかし阿羅漢はこの識中の煩悩麁重を断じて究竟尽し、更に阿頼耶識を執蔵して自内我と為さず。これに由って永く阿頼耶の名を失う。それを説いて捨と為す。並びて一切の第八識体を捨つるに非ず。阿羅漢は識持種無きが如くならしむること莫れ。かの時便ち無余涅槃に入らん。

然第八識雖諸有情皆悉成就,而隨義別立種種名。

しかし第八識は諸有情皆成就すると雖も、しかし義別に随って種種の名を立つ。

謂或名心,由種種法燻習種子所積集故;或名阿陀那,執持種子及諸色根令不壞故;或名所知依,能與染、淨所知諸法為依止故;或名種子識,能遍任持世、出世間諸種子故。

いわゆるあるいは名づけて心という。種種の法の薫習の種子の積集する所なるが故に。あるいは名づけて阿陀那(執持識)という。種子および諸色根を執持して壊れざらしむるが故に。あるいは名づけて所知依という。能く染・浄の所知の諸法と依止と為るが故に。あるいは名づけて種子識という。能く遍く世・出世間の諸種子を任持するが故に。

此等諸名通一切位。

これらの等の名は一切位に通ず。

或名阿賴耶,攝藏一切雜染品法令不失故,我見、愛等執藏以為自內我故。此名唯在異生、有學,非無學位、不退菩薩,有雜染法執藏義故。

あるいは名づけて阿頼耶という。一切の雑染品法を摂蔵して失わせず、我見・愛等は執蔵して以って自内我と為すが故に。この名はただ異生・有学に在り。無学位・不退菩薩に非ず。雑染法の執蔵の義有るが故に。

或名異熟識,能引生死善、不善業異熟果故。此名唯在異生、二乘諸菩薩位,非如來地猶有異熟無記法故。

あるいは名づけて異熟識という。能く生死の善・不善業の異熟果を引くが故に。この名はただ異生・二乗・諸菩薩位に在り。如来地に非ず。なお異熟無記法有るが故に。

或名無垢識,最極清淨諸無漏法所依止故。此名唯在如來地有,菩薩、二乘及異生位,持有漏種可受燻習,未得善淨第八識故。如契經說:

あるいは名づけて無垢識という。最極清浄の諸無漏法の依止する所なるが故に。この名はただ如来地に在り。菩薩・二乗および異生位は有漏種を持して薫習を受くべし。未だ善浄の第八識を得ざるが故に。契経に説けるが如く:

如來無垢識,是淨無漏界,

如来の無垢識は、是れ浄無漏界なり。

解脫一切障,圓鏡智相應。

一切の障を解脱して、円鏡智と相応す。

阿賴耶名過失重故,最初捨故,此中偏說。異熟識體菩薩將得菩提時捨,聲聞、獨覺入無餘依涅槃時捨。無垢識體無有捨時,利樂有情無盡時故。心等通故,隨義應說。

阿頼耶の名は過失重し。最初に捨つ。ゆえにここに偏りて説く。異熟識体は菩薩が将に菩提を得んとする時に捨ち、声聞・独覚は無余依涅槃に入る時に捨つ。無垢識体は捨つる時無し。有情を利楽するに尽きざる時なるが故に。心等は通ず。義に随ってまさに説くべし。

然第八識總有二位:一、有漏位,無記性攝。

しかし第八識は総じて二位有り。一、有漏位。無記性の摂する所なり。

唯與觸等五法相應,但緣前說執受、處境。

ただ触等の五法と相応して、ただ前に説ける執受・処の境に縁ず。

二、無漏位,唯善性攝。

二、無漏位。ただ善性の摂する所なり。

與二十一心所相應,謂遍行、別境各五,善十一,與一切心恆相應故。常樂證智所觀境故;於所觀境恆印持故;於曾受境恆明記故;世尊無有不定心故;於一切法常決擇故。極淨信等常相應故,無染汙故。無散動故。

二十一の心所と相応す。いわゆる遍行・別境各々五、善十一なり。一切心と恒に相応するが故に。常に智の観ずる所の境を証することを楽しみ、観ずる所の境に対して恒に印持し、曾受の境に対して恒に明記す。世尊は不定の心無し。一切法に対して常に決択す。極浄の信等は常に相応して、染汚無く、散動無し。

此亦唯與捨受相應,任運恆時平等轉故。

これもまたただ捨受と相応す。任運にして恒時平等に転ずるが故に。

以一切法為所緣境,鏡智遍緣一切法故。

一切法を以って所縁境と為す。鏡智は遍く一切法に縁ずるが故に。

云何應知此第八識離眼等識有別自體?

どうしてこの第八識は眼等の識を離れて別に自体有ると知らん。

聖教、正理為定量故。

聖教・正理を以って定量と為すが故に。

謂有《大乘阿毘達磨》契經中說:

いわゆる《大乗阿毗達磨》の契経の中に説く有り:

「無始時來界,一切法等依,

「無始より来る界は、一切法の等依。

由此有諸趣,及涅槃證得。」

これに由って諸趣有り、および涅槃の証得有り。」

此第八識自性微細,故以作用而顯示之。

この第八識の自性は微細なるがゆえに、作用を用いてそれを顕示す。

頌中初半,顯第八識為因緣用,後半顯與流轉還滅,作依持用。

頌中の初半は第八識の因縁たる用を顕し、後半は流転・還滅と依持たる用を作るを顕す。

「界」是因義,即種子識,無始時來展轉相續,親生諸法,故名為因。

「界」は因の義にして、すなわち種子識の無始より来り展転相続して、親く諸法を生ずるがゆえに名づけて因という。

「依」是緣義,即執持識無始時來,與一切法等為依止,故名為緣。

「依」は縁の義にして、すなわち執持識の無始より来り、一切法等と依止と為るがゆえに名づけて縁という。

謂能執持諸種子故,與現行法為所依故,即變為彼及為彼依。

いわゆる能く諸種子を執持して、現行法と所依と為る。すなわちそれに変じておよびそれの依と為る。

變為彼者,謂變為器及有根身;「為彼依」者,謂與轉識作所依止。以能執受五色根故,眼等五識依之而轉,又與末那為依止故,第六意識依之而轉。末那、意識轉識攝故。如眼等識依俱有根,第八理應是識性故,亦以第七為俱有依。

それに変ずとは、いわゆる器および有根身に変ず。「それの依と為る」とは、いわゆる転識と所依止を作る。能く五色根を執受するがゆえに、眼等の五識はそれに依って転じ、また末那と依止と為りて、第六意識はそれに依って転ず。末那・意識は転識の摂する所なり。眼等識の倶有根に依るが如く、第八は理まさに識性なり。もまた第七を以って倶有依と為す。

是謂此識為因、緣用。

これすなわちこの識の因・縁たる用なり。

「由此有」者,由有此識;「有諸趣」者,有善、惡趣。

「これに由って有」とは、この識有るに由る。「諸趣有り」とは、善・悪趣有る。

謂由有此第八識故,執持一切順流轉法,令諸有情流轉生死。

いわゆるこの第八識有るに由って、一切の流転に順う法を執持して、諸有情をして生死を流転せしむ。

雖惑、業、生皆是流轉,而趣是果,勝故偏說;或「諸趣」言通能、所趣,諸趣資具亦得趣名。

惑・業・生は皆流転なると雖も、しかし趣は果にして勝れるがゆえに偏りて説く。あるいは「諸趣」は能趣・所趣に通じて、諸趣の資具もまた趣の名を得。

諸惑、業、生皆依此識,是與流轉作依持用。

諸々の惑・業・生は皆この識に依る。これ流転と依持たる用を作るなり。

「及涅槃證得」者,由有此識故,有涅槃證得。

「および涅槃の証得」とは、この識有るに由って涅槃の証得有り。

謂由有此第八識故,執持一切順還滅法,令修行者證得涅槃。

いわゆるこの第八識有るに由って、一切の還滅に順う法を執持して、修行の人をして涅槃を証得せしむ。

此中但說能證得道,涅槃不依此識有故。

ここにはただ能く証得する道を説くのみ。涅槃はこの識に依って有りに非ざるが故に。

或此但說所證涅槃,是修行者正所求故。

あるいはここにはただ証する所の涅槃を説く。修行の人の正に求むる所なるが故に。

或此雙說涅槃與道俱是還滅品類攝故。謂「涅槃」言顯所證滅,後「證得」言顯能得道,由能斷道,斷所斷惑,究竟盡位,證得涅槃。

あるいはここには双く涅槃と道とを説いて皆還滅の品類の摂する所なり。いわゆる「涅槃」は証する所の滅を顯示し、後の「証得」は能く得る道を顯示す。能断の道に由って断ずる所の惑を断じ、究竟尽す位にて涅槃を証得す。

能、所斷、證皆依此識,是與還滅作依持用。

能断・所断・能証・所証は皆この識に依る。これ還滅と依持たる用を作るなり。

又此頌中初句,顯示此識自性無始恆有,後三顯與雜染、清淨二法,總、別為所依止。

またこの頌中の初句は、この識の自性は無始に恒有を顯示し、後の三句は雑染・清浄の二法と総・別に所依止と為るを顯示す。

雜染法者,謂苦、集諦,即所能趣生及業、惑;清淨法者,謂滅、道諦,即所、能證涅槃及道;彼二皆依此識而有,依轉識等,理不成故。

雑染法とは、いわゆる苦・集諦、すなわち所趣・能趣の生および業・惑。清浄法とは、いわゆる滅・道諦、すなわち所証・能証の涅槃および道。かの二は皆この識に依って有り。転識等に依るは理成立せず。

或復初句顯此識體無始相續,後三顯與三種自性為所依止:

あるいはまた初句はこの識体の無始相続を顯示し、後の三句は三種自性と所依止と為るを顯示す。

謂依他起、遍計所執、圓成實性,如次應知。

いわゆる依他起・遍計所執・円成実性、次第にまさに知るべし。

今此頌中諸所說義,離第八識皆不得有。

現在この頌中の諸々の説く所の義は、第八識を離れて皆得ることなし。

即彼經中復作是說:

すなわちかの経の中にまたかくのごとき説を作す:

「由攝藏諸法,一切種子識,

「諸法を摂蔵するに由って、一切種子の識、

故名阿賴耶,勝者我開示。」

ゆえに名づけて阿頼耶という。勝者に我は開示す。」

由此本識具諸種子,故能攝藏諸雜染法。

これに由って本識は諸種子を具えるがゆえに、能く諸雑染法を摂蔵す。

依斯建立阿賴耶名,非如勝性轉為大等,種子與果體非一故;能依、所依俱生滅故;與雜染法互相攝藏,亦為有情執藏為我,故說此識名「阿賴耶」。

これに依って阿頼耶の名を建立す。並びて勝性の大等に転ずるが如きに非ず。種子と果とは体一に非ざるが故に。能依・所依は皆生滅す。雑染法と互相摂蔵し、また有情の執蔵して我と為す所なり。ゆえにこの識を名づけて「阿頼耶」と説く。

已入見道諸菩薩眾得真現觀,名為「勝者」,彼能證解阿賴耶識,故我世尊正為開示;或諸菩薩皆名「勝者」,雖見道前未能證解阿賴耶識,而能信解,求彼轉依,故亦為說。

已に見道に入りたる諸菩薩衆は真の現観を得たり。名づけて「勝者」という。彼らは能く阿頼耶識を証解す。ゆえに我世尊は正しく開演したまう。あるいは諸菩薩は皆名づけて「勝者」という。見道の前に未だ能く阿頼耶識を証解せざると雖も、しかし能く信解してかの転依を求む。ゆえにまた説く為り。

非諸轉識有如是義。

並びて諸転識はかくのごとき義有るに非ず。

《解深密經》亦作是說:

《解深密経》もまたかくのごとき説を作す:

「阿陀那識甚深細,一切種子如瀑流,

「阿陀那識は甚深細にして、一切種子は瀑流の如し。

我於凡愚不開演,恐彼分別執為我。」

我は凡愚に対して開演せず。彼らの分別して我と執せんを畏れればなり。」

以能執持諸法種子,及能執受色根依處,亦能執取結生相續,故說此識名「阿陀那」。無性有情不能窮底,故說「甚深」;趣寂種性不能通達,故名「甚細」。

能く諸法の種子を執持し、および能く色根の依処を執受し、また能く結生相続を執取するがゆえに、この識を名づけて「阿陀那」と説く。無性の有情は底を窮むること能わず。ゆえに「甚深」と説く。趣寂の種性は通達すること能わず。ゆえに名づけて「甚細」という。

是一切法真實種子,緣擊便生轉識波浪,恆無間斷,猶如瀑流。

是れ一切法の真実の種子にして、縁の撃つに便ち転識の波浪を生ず。恒に間断無くして猶ほ瀑流の如し。

「凡」即無性,「愚」即趣寂。恐彼於此起分別執,墮諸惡趣,障生聖道,故我世尊不為開演。

「凡」はすなわち無性。「愚」はすなわち趣寂。彼らがこれに対して分別の執を起こして、諸悪趣に堕して、聖道を生ずるを障せんを畏る。ゆえに我世尊は開演せざりき。

唯第八識有如是相。

唯だ第八識のみかくのごとき相有り。

《入楞伽經》亦作是說:

《入楞伽経》もまたかくのごとき説を作す:

The original text is in the public domain. The Japanese is a machine-assisted translation of this library’s own Chinese paraphrase, checked against a fixed glossary so that technical terms match the definitions used elsewhere on this site. It is a reading aid and does not replace the original.