成唯識論巻第一
「如海遇風緣,起種種波浪,
「海の風縁に遇うが如く、種種の波浪を起こし、
現前作用轉,無有間斷時。
現前に作用して転じて、間断する時無し。
藏識海亦然,境等風所擊,
蔵識の海もまたこの如し。境等の風の撃つ所にて、
恆起諸識浪,現前作用轉。」
恒に諸識の浪を起こして、現前に作用して転ず。」
眼等諸識,無如大海恆相續轉起諸識浪,故知別有第八識性。
眼等の諸識は、大海の如く恒に相続して諸識の浪を転起する有るに非ず。ゆえに別に第八識性有るを知る。
此等無量大乘經中,皆別說有此第八識。
これらの等の無量の大乗経中に、皆別にこの第八識有りと説く。
諸大乘經:皆順無我,違數取趣;棄背流轉,趣向還滅;讚佛、法、僧,毀諸外道;表蘊等法,遮勝性等;樂大乘者,許能顯示無顛倒理,契經攝故,如《增壹》等至教量攝。
諸々の大乗経は、皆无我に順い、数取趣に違し、流転を棄背して還滅に趣向し、仏・法・僧を讃して諸外道を毀し、蘊等の法を表して勝性等を遮り、大乗を楽する人は能く無顛倒の理を顯示すと許す。契経の摂する所なるがゆえに、《増壹》等の至教量の摂する所の如し。
又,聖慈氏以七種因,證大乘經真是佛說。
また聖なる慈氏は七種の因を用いて、大乗経は真に仏の説と証す。
一、先不記故。若大乘經佛滅度後,有餘為壞正法故說,何故世尊非如當起諸可怖事,先預記別?
一、先に記せず。もし大乗経は仏滅度の後に余人有りて正法を壊るが為に説くと言わば、なんぞ世尊は当に起こるべき諸可怖事の如く、先に預かって記別せざりし。
二、本俱行故。大小乘教本來俱行,寧知大乘獨非佛說?
二、本倶行。大小乗の教は本来倶に行わる。どうして大乗は独り仏説に非ずと知らん。
三、非餘境故。大乘所說廣大甚深,非外道等思量境界。彼經論中曾所未說,設為彼說,亦不信受,故大乘經非非佛說。
三、其余の境に非ず。大乗の説く所は広大甚深にして、外道等の思量の境界に非ず。彼らの経論の中に曽て未だ説かず。たとえ彼らの為に説くも、また信受せず。ゆえに大乗経は並びて仏説に非ざるに非ず。
四、應極成故。若謂大乘是餘佛說,非今佛語,則大乘教是佛所說,其理極成。
四、極成すべし。もし大乗は其余の仏の説にして今仏の語に非ずと説かば、然らば大乗教は仏の説く所なり。その理極成す。
五、有、無有故。若有大乘,即應信此諸大乘教是佛所說,離此大乘不可得故。
五、有・無有。もし大乗有れば、まさにこれらの諸大乗教は仏の説く所と信ずべし。このを離れて大乗は得るべからざるが故に。
若無大乘,聲聞乘教亦應非有,以離大乘決定無有得成佛義,誰出於世說聲聞乘?故聲聞乘是佛所說,非大乘教不應正理。
もし大乗無ければ、声聞乗の教もまたまさに有に非ざるべし。大乗を離れて決定して成仏の義を得る無きが故に。誰か世に出でて声聞乗を説かん。ゆえに声聞乗は仏の説く所にして、大乗教に非ざるは正理に応えず。
六、能對治故。依大乘經勤修行者,皆能引得無分別智,能正對治一切煩惱,故應信此是佛所說。
六、能対治。大乗経に依って勤修の人行うは、皆能く無分別智を引得して、能く正しく一切の煩悩を対治す。ゆえにまさにこれは仏の説く所と信ずべし。
七、義異文故。大乘所說意趣甚深,不可隨文而取其義,便生誹謗謂非佛語。
七、義は文に異なり。大乗の説く所は意趣甚深にして、文に随ってその義を取るべからず。便ち誹謗を生じて仏語に非ずと説く。
是故大乘真是佛說。
ゆえに大乗は真に仏の説なり。
如《莊嚴論》頌此義言:
《荘厳論》の頌がこの義を説くが如く:
「先不記、俱行、非餘所行境、
「先に記せず・倶行・其余の行境に非ず・
極成、有無有、對治、異文故。」
極成・有無有・対治・異文。」
餘部經中亦密意說阿賴耶識有別自性。
其余の部の経中にもまた密意に阿頼耶識は別に自性有りと説く。
謂大眾部阿笈摩中,密意說此名根本識,是眼識等所依止故。譬如樹根是莖等本,非眼等識有如是義。
いわゆる大衆部の阿笈摩(阿含)の中に、密意にこれを名づけて根本識と説く。眼識等の依止する所なるが故に。譬えば樹根は茎等の本の如し。並びて眼等の識はかくのごとき義有るに非ず。
上坐部經分別論者,俱密意說此名有分識,「有」謂三有;「分」是因義,唯此恆、遍,為三有因。
上坐部の経の分別論者は、皆密意にこれを名づけて有分識と説く。「有」とは三有を説く。「分」は因の義にして、唯だこれ恒・遍にして三有の因と為る。
化地部說此名窮生死蘊,離第八識無別蘊法,窮生死際無間斷時。謂無色界諸色間斷,無想天等餘心等滅,不相應行離色、心等無別自體,已極成故,唯此識名窮生死蘊。
化地部はこれを名づけて窮生死蘊と説く。第八識を離れて別の蘊法無くして、生死の際を窮めて間断する時無し。いわゆる無色界は諸色間断し、無想天等は其余の心等滅し、不相応行は色・心等を離れて別の自体無し。已に極成せり。唯だこの識のみ名づけて窮生死蘊という。
說一切有部《增壹》經中,亦密意說此名阿賴耶,謂愛阿賴耶、樂阿賴耶、欣阿賴耶、憙阿賴耶。
説一切有部の《増壹》経の中にも、また密意にこれを名づけて阿頼耶と説く。いわゆる阿頼耶を愛し、阿頼耶を楽しみ、阿頼耶を欣り、阿頼耶を喜ぶ。
謂阿賴耶識是貪總、別三世境故,立此四名。有情執為真自內我,乃至未斷恒生愛著,故阿賴耶識是真愛著處。
いわゆる阿頼耶識は貪の総・別に三世の境なるがゆえに、この四名を立つ。有情はこれを執して真の自内我と為し、乃至未だ断ぜざるに恒に愛着を生ず。ゆえに阿頼耶識は真の愛着の処なり。
不應執餘五取蘊等,謂生一向苦受處者,於餘五取蘊不生愛著,彼恆厭逆餘五取蘊,念我何時當捨此命、此眾同分、此苦身心,令我自在受快樂故。
其余の五取蘊等を執すべからず。いわゆる一向に苦受の処を生ずる人は、其余の五取蘊に対して愛着を生ぜず。彼らは恒に其余の五取蘊を厭逆して、我いつかまさにこの命・この衆同分・この苦身心を捨てて、我をして自在に快楽を受けしめんと念す。
五欲亦非真愛著處,謂離欲者於五妙欲,雖不貪著而愛我故。
五欲もまた真の愛着処に非ず。いわゆる欲を離れたる人は五妙欲に対して、貪着せざると雖もしかし我を愛す。
樂受亦非真愛著處,謂離第三靜慮染者,雖厭樂受而愛我故。
楽受もまた真の愛着処に非ず。いわゆる第三静慮の染を離れたる人は、楽受を厭うと雖もしかし我を愛す。
身見亦非真愛著處,謂非無學信無我者,雖於身見不生貪著,而於內我猶生愛故。
身見もまた真の愛着処に非ず。いわゆる無学に非ざるにして無我を信ずる人は、身見に対して貪着を生ぜざると雖も、しかし内我に対してはなお愛を生ず。
轉識等亦非真愛著處,謂非無學求滅心者,雖厭轉識等而愛我故。
転識等もまた真の愛着処に非ず。いわゆる無学に非ざるにして心を滅せんと求むる人は、転識等を厭うと雖もしかし我を愛す。
色身亦非真愛著處,離色染者,雖厭色身而愛我故。
色身もまた真の愛着処に非ず。色の染を離れたる人は、色身を厭うと雖もしかし我を愛す。
不相應行離色、心等無別自體,是故亦非真愛著處。
不相応行は色・心等を離れて別の自体無し。ゆえにもまた真の愛着処に非ず。
異生、有學起我愛時,雖於餘蘊有愛、非愛,而於此識,我愛定生,故唯此是真愛著處。
異生・有学は我愛を起こす時、其余の蘊に対しては愛・非愛有ると雖も、しかしこの識に対しては我愛必ず生ず。ゆえに唯だこれのみ真の愛着処なり。
由是彼說阿賴耶名,定唯顯此阿賴耶識。
これに由って彼らは阿頼耶の名を説いて、決定してただこの阿頼耶識を顯示す。
已引聖教,當顯正理。
已に聖教を引きたり。まさに正理を顯すべし。
謂契經說:雜染、清淨諸法種子之所集起,故名為心,若無此識,彼持種心不應有故。
いわゆる契経に説く:雑染・清浄の諸法の種子の集起する所なるがゆえに名づけて心という。もしこの識無ければ、かの持種の心はまさに有るべからず。
謂諸轉識在滅定等有間斷故,根、境、作意、善等類別易脫起故,如電光等不堅住故,非可燻習,不能持種,非染、淨種所集起心。
いわゆる諸転識は滅定等にて間断有りて、根・境・作意・善等の類別は脱して起こり易し。電光等の如く堅住せず。薫習すべきに非ず。種を持すること能わず。染・浄の種の集起する所の心に非ず。
此識一類、恆無間斷,如苣蕂等堅住可燻,契當彼經所說心義。
この識は一類にして恒に間断無し。苣蕂等の如く堅住して薫ずべし。かの経の説く所の心の義に契う。
若不許有能持種心,非但違經,亦違正理。
もし持種の心有るを許さざれば、ただ経に違するのみならず、また正理にも違す。
謂諸所起染、淨品法,無所燻故,不燻成種,則應所起唐捐其功。染、淨起時既無因種,應同外道執自然生。
いわゆる諸々の起こる所の染・浄品法は、薫ずる所無くして種を薫成せざれば、然らば起こる所はまさにその功を唐捐すべし。染・浄の起こる時、すでに因種無ければ、まさに外道の自然生を執するに同じからん。
色、不相應,非心性故,如聲、光等,理非染、淨內法所燻,豈能持種?又彼離識無實自性,寧可執為內種依止?
色・不相応は心性に非ず。声・光等の如く、理上染・浄の内法の薫ずる所に非ず。どうして能く種を持せん。またそれらは識を離れて実自性無し。どうして内種の依止と執すべき。
轉識相應諸心所法,如識間斷,易脫起故,不自在故,非心性故,不能持種,亦不受燻。
転識に相応する諸心所法は、識の如く間断して脱して起こり易く、自在ならず。心性に非ず。種を持すること能わず、また薫を受けず。
故持種心,理應別有。
ゆえに持種の心は、理まさに別に有るべし。
有說:六識無始時來,依根、境等前後分位,事雖轉變而類無別,是所燻習,能持種子。由斯染、淨因果皆成,何要執有第八識性?
人の説く有り:六識は無始より来り、根・境等に依って前後分位す。事は転変すると雖も類は分別無し。是れ薫習する所にして能く種子を持つ。これに由って染・浄の因果は皆成立す。何ぞ必ず第八識性有りと執せん。
彼言無義!
彼らの言は義無し。
所以者何?
何故か。
執類是實,則同外道;許類是假,便無勝用,應不能持內法實種。
類を執して実と為せば、便ち外道に同じく、類を許して假と為せば、便ち勝用無し。まさに内法の実種を持すること能わざるべし。
又執識類何性所攝?若是善、惡,應不受燻,許有記故,猶如擇滅;若是無記,善、惡心時,無無記心,此類應斷,非事善、惡類可無記;別類必同別事性故。
また識の類を執すればいずれかの性の摂する所ぞ。もし善・悪なれば、まさに薫を受けざるべし。有記を許すがゆえに、択滅の如し。もし無記なれば、善・悪心の時に無記心無し。この類はまさに断ずべし。並びて事の善・悪は類の無記ならんこと無し。別の類は必ず別事の性に同じ。
又無心位此類定無,既有間斷,性非堅住,如何可執持種、受燻?
また無心位にこの類は定めて無し。すでに間断有りて性堅住せざれば、どうして能く種を持ち薫を受くべけん。
又阿羅漢或異生心,識類同故,應為諸染,無漏法燻,許便有失。又眼等根或所餘法,與眼等識根、法類同,應互相燻,然汝不許。
また阿羅漢あるいは異生の心は、識の類同じければ、まさに諸染・無漏法に薫ぜられん。許さば便ち失有り。また眼等の根あるいは其余の法は、眼等の識・根・法と類同じければ、まさに互いに薫すべし。しかして汝らは許さず。
故不應執識類受燻。
ゆえに識の類は薫を受くと執すべからず。
又六識身,若事、若類,前後二念既不俱有;如隔念者,非互相燻。能燻、所燻必俱時故。
また六識身は、もし事もしくは類なりと雖も、前後の二念はすでに倶有せず。隔念の如く、互いに薫ずるに非ず。能薫・所薫は必ず倶時なり。
執唯六識俱時轉者,由前理趣,既非所燻,故彼亦無能持種義。
唯だ六識のみ倶時に転ずと執する人は、前の理趣に由って、すでに所薫に非ざれば、ゆえに彼らもまた種を持つの義無し。
有執色、心自類無間,前為後種,因果義立,故先所說,為證不成。
人有りて色・心の自類は無間にして、前は後の種と為り、因果の義立つと執す。ゆえに先前の説く所は、証として成立せず。
彼執非理,無燻習故。謂彼自類既無燻習,如何可執前為後種?
彼らの執は理に合わず。薫習無きが故に。いわゆる彼らの自類はすでに薫習無ければ、どうして前は後の種と為ると執すべき。
又間斷者,應不更生,二乘無學應無後蘊,死位色、心為後種故。
また間断する者はまさに更に生ぜざるべし。二乗の無学はまさに後蘊無かるべし。死位の色・心は後の種と為るが故に。
亦不應執色、心展轉互為種生,轉識、色等非所燻習,前已說故。
またまさに色・心は展転互いに種生と執すべからず。転識・色等は薫習する所に非ず。前に已に説きたり。
有說:三世諸法皆有,因果感赴,無不皆成,何勞執有能持種識?然經說心為種子者,起染、淨法,勢用強故。
人の説く有り:三世の諸法は皆有りて、因果は感赴して、成り立たざる無し。何ぞ労して能く種を持つ識有りと執せん。しかし経に心を種子と為して染・浄法を起こすは勢用強しと説く。
彼說非理。過去、未來,非常、非現,如空花等,非實有故。
彼らの説は理に合わず。過去・未来は常に非ず現に非ず。空花等の如く実有に非ず。
