成唯識論巻第一
又無作用,不可執為因緣性故。若無能持染、淨種識,一切因果皆不得成。
また作用無くして因縁性と執すべからず。もし染・浄種を持つ識能くする無ければ、一切の因果は皆成立すること能わず。
有執大乘遣相空理為究竟者,依似比量,撥無此識及一切法,彼特違害前所引經。
人有りて大乗の遣相の空理を執して究竟と為し、似比量に依って、この識および一切法を撥して無と為す。彼らは特に前に引く所の経に違害す。
智、斷、證、修、染、淨因果皆執非實,成大邪見。
智・断・証・修・染・浄の因果を皆執して実に非ずと為す。大邪見を成ず。
外道毀謗染、淨因果亦不謂全無,但執非實故。
外道の染・浄因果を毀謗するも、また全く無と説かずして、ただ実に非ずと執す。
若一切法皆非實有,菩薩不應為捨生死,精勤修集菩提資糧。誰有智者為除幻敵,求石女兒用為軍旅?
もし一切法は皆実有に非ざれば、菩薩はまさに生死を捨てんが為に精勤して菩提の資糧を修集すべからず。誰の智者か有りて幻の敵を除かんが為に、石女の児を求めて用いて軍旅と為さん。
故應信有能持種心,依之建立染、淨因果。
ゆえにまさに信ずべし、能く種を持つ心有りて、それに依って染・浄の因果を建立す。
彼心即是此第八識。
かの心はすなわちこの第八識なり。
又契經說有異熟心,善、惡業感,若無此識,彼異熟心不應有故。
また契経に異熟心有りて、善・悪業の感ずる所と説く。もしこの識無ければ、かの異熟心はまさに有るべからず。
謂眼等識有間斷故,非一切時是業果故,如電、光等,非異熟心。異熟不應斷已更續,彼命根等,無斯事故。
いわゆる眼等の識は間断有りて、一切時に業果に非ず。電・光等の如く、異熟心に非ず。異熟はまさに断已って更に続ぐべからず。それらの命根等はこの事有る無し。
眼等六識,業所感者,猶如聲等,非恆續故,是異熟生,非真異熟。
眼等の六識は業の感ずる所にして、猶ほ声等の如し。恒続に非ざるがゆえに、是れ異熟生にして真の異熟に非ず。
定應許有真異熟心,酬牽引業,遍而無斷,變為身、器作有情依,身、器離心,理非有故。不相應法無實體故,諸轉識等非恆有故,若無此心,誰變身、器?復依何法恆立有情?
決定してまさに許すべし、真の異熟心有りて、牽引の業に酬い、遍にして断無し。変じて身・器と為りて有情の依と作す。身・器は心を離れて理上有に非ず。不相応法は実体無し。諸転識等は恒有に非ず。もしこの心無ければ、誰か身・器を変ぜん。また何の法に依ってか恒に有情を立てん。
又在定中,或不在定,有別思慮、無思慮時,理有眾多身受生起。此若無者,不應後時身有怡適,或復勞損,若不恆有真異熟心,彼位如何有此身受?
また定中に在り、あるいは定に在らず、別に思慮有る時・思慮無き時に、理に衆多の身受の生起有り。これもし無ければ、まさに後時に身の怡適有るべからず、あるいはまた労損有るべからず。もし恒に真の異熟心有りとせざれば、かの位にどうしてこの身受有らん。
非佛起餘善心等位,必應現起真異熟心,如許起彼時,非佛有情故。
並びて仏は其余の善心等の位を起こすに非ず。必ずまさに真の異熟心を現起すべし。かれを起こす時に仏に非ざる有情を許すが如し。
由是恆有真異熟心,彼心即是此第八識。
これに由って恒に真の異熟心有り。かの心はすなわちこの第八識なり。
又契經說:有情流轉五趣、四生。若無此識,彼趣、生體不應有故。
また契経に説く:有情は五趣・四生を流転すと。もしこの識無ければ、かの趣・生の体はまさに有るべからず。
謂要實有、恆、遍、無雜,彼法可立正實趣、生。
いわゆる実有・恒・遍・無雑なるを要して、かの法は正実の趣・生と立つべし。
非異熟法趣、生雜亂,住此起餘趣、生法故。
並びて異熟法は趣・生の雑乱に非ず。これに住して其余の趣・生法を起こすが故に。
諸異熟色及五識中業所感者不遍趣、生,無色界中全無彼故。
諸々の異熟色および五識中の業の感ずる所は趣・生に遍せず。無色界中には全くそれ無し。
諸生得善及意識中業所感者,雖遍趣、生,起無雜亂而不恆有。
諸々の生得善および意識中の業の感ずる所は、趣・生に遍すと雖も、雑乱無くして起こるも、しかし恒有に非ず。
不相應行無實自體,皆不可立正實趣、生。
不相応行は実自体無し。皆正実の趣・生と立つべからず。
唯異熟心及彼心所,實恆、遍、無雜,是正實趣、生。
唯だ異熟心およびそれらの心所のみ、実・恒・遍・無雑にして是れ正実の趣・生なり。
此心若無,生無色界起善等位應非趣、生。設許趣、生攝諸有漏,生無色界起無漏心應非趣、生,便違正理。勿有前過及有此失,故唯異熟法是正實趣、生。
この心もし無ければ、無色界に生じて善等の位を起こすはまさに趣・生に非ざるべし。たとえ趣・生は諸有漏を摂すと許すも、無色界に生じて無漏心を起こすはまさに趣・生に非ざるべし。便ち正理に違す。前の過有る無くしてもまたこの失有らしむること莫れ。ゆえに唯だ異熟法のみ是れ正実の趣・生なり。
由是如來非趣、生攝,佛無異熟無記法故,亦非界攝,非有漏故,世尊已捨苦、集諦故,諸戲論種已永斷故。
これに由って如来は趣・生の摂する所に非ず。仏は異熟無記法無きが故に。また界の摂する所に非ず。有漏に非ざるが故に。世尊は已に苦・集諦を捨て、諸戯論の種は已に永断せり。
正實趣、生既唯異熟心及心所,彼心、心所離第八識理不得成,故知別有此第八識。
正実の趣・生はすでに唯だ異熟心および心所なれば、かの心・心所は第八識を離れて理得て成らず。ゆえに別にこの第八識有るを知る。
又契經說:有色根身是有執受,若無此識,彼能執受,不應有故。
また契経に説く:色の有根身は是れ執受有りと。もしこの識無ければ、かの能執受はまさに有るべからず。
謂五色根及彼依處,唯現在世是有執受,彼定由有能執受心,唯異熟心,先業所引,非善、染等,一類、能遍、相續執受有色根身;眼等轉識無如是義。
いわゆる五色根およびそれらの依処は、ただ現在の世に執受有るなり。それらは決定して能執受の心有るに由る。唯だ異熟心のみ、先業の引く所にして、善・染等に非ず、一類・能遍・相続して有色根身を執受す。眼等の転識はかくのごとき義無し。
此言意顯眼等轉識,皆無一類、能遍、相續執受自內有色根身,非顯能執受唯異熟心,勿諸佛色身無執受故;然能執受有漏色身唯異熟心,故作是說。
この言の意は、眼等の転識は皆一類・能遍・相続して自内の有色根身を執受する無きを顯示す。並びて能執受は唯だ異熟心のみと顯示するに非ず。諸仏の色身をして執受無きならしむること莫れ。しかし能く有漏色身を執受するは唯だ異熟心のみ。ゆえにかくのごとき説を作す。
謂諸轉識現緣起故,如聲、風等,彼善、染等,非業引故,如非擇滅。異熟生者,非異熟故、非遍依故、不相續故,如電、光等,不能執受有漏色身。
いわゆる諸転識は現縁より起こり、声・風等の如し。それらの善・染等は業の引に非ず、非択滅の如し。異熟生の者は異熟に非ず、遍依に非ず、相続せず。電・光等の如く、有漏色身を執受すること能わず。
諸心識言,亦攝心所,定相應故,如唯識言。
諸々の心識の言はまた心所を収摂す。決定して相応するが故に。唯識の言の如し。
非諸色根、不相應行可能執受有色根身,無所緣故,如虛空等。
並びて諸色根・不相応行は能く有色根身を執受すること能わず。所縁無きが故に、虚空等の如し。
故應別有能執受心,彼心即是此第八識。
ゆえにまさに別に能執受の心有るべし。かの心はすなわちこの第八識なり。
又契經說:壽、煖、識三,更互依持,得相續住。若無此識能持壽、煖,令久住識不應有故。
また契経に説く:寿・煖・識の三は更互に依持して、相続して住するを得すと。もしこの識の能く寿・煖を持し、久住せしむる識無ければ、まさに有るべからず。
謂諸轉識有間、有轉,如聲、風等,無恆持用,不可立為持壽、煖識。
いわゆる諸転識は間有り転有りて、声・風等の如く、恒持の用無し。持寿・煖の識と立つべからず。
唯異熟識無間、無轉,猶如壽、煖,有恆持用,故可立為持壽、煖識。
唯だ異熟識のみ間無く転無し。猶ほ寿・煖の如く、恒持の用有り。ゆえに持寿・煖の識と立つべし。
經說三法更互依持,而壽與煖一類相續,唯識不然,豈符正理?
経に三法は更互に依持すると説く。しかし寿と煖とは一類相続して、唯だ識のみ然らず。あに正理に符せんや。
雖說三法更互依持,而許唯煖不遍三界,何不許識獨有間、轉?
三法は更互に依持すると説くと雖も、しかし唯だ煖のみ三界に遍せざるを許す。なんぞ識は独り間・轉有りと許さざる。
此於前理,非為過難。謂若是處具有三法無間轉者,可恆相持。不爾,便無恆相持用。前以此理,顯三法中所說識言,非詮轉識,舉煖不遍,豈壞前理?故前所說,其理極成。
これは前の理に対して並びて過難に非ず。いわゆるもし是の処に三法具えて無間に転ずれば、恒に相持すべし。然らずんば、便ち恒相持の用無し。前にこの理を用いて、三法中の説く所の識の言は並びて転識を詮せざるを顯示せり。煖は遍せざるを挙げて、あに前理を壊らんや。ゆえに先前の説く所はその理極成す。
又三法中,壽、煖二種既唯有漏,故知彼識如壽與煖,定非無漏;生無色界起無漏心,爾時,何識能持彼壽?
また三法の中に、寿・煖の二種はすでに唯だ有漏なれば、ゆえにかの識は寿・煖の如く決定して無漏に非ずと知る。無色界に生じて無漏心を起こす時、いずれの識か能くかの寿を持せん。
由此故知有異熟識,一類、恆、遍、能持壽、煖,彼識即是此第八識。
これに由って故に知る、異熟識有りて、一類・恒・遍にして能く寿・煖を持す。かの識はすなわちこの第八識なり。
又契經說:諸有情類,受生、命終,必住散心,非無心定。若無此識,生、死時心不應有故。
また契経に説く:諸有情類は受生・命終に必ず散心に住し、無心定に非ずと。もしこの識無ければ、生・死の時の心はまさに有るべからず。
謂生死時,身心惽昧,如睡無夢、極悶絕時,明瞭轉識必不現起。
いわゆる生死の時は身心昬昧にして、睡にして夢無き・極悶絶の時の如し。明了の転識は必ず現起せず。
又此位中,六種轉識行相、所緣不可知故,如無心位,必不現行。
またこの位中に六种の転識の行相・所縁は知るべからず。無心位の如く、必ず現行せず。
六種轉識行相、所緣有必可知,如餘時故。
六种の転識の行相・所縁は有れば必ず知るべし。其余の時の如し。
真異熟識極微細故,行相、所緣俱不可了,是引業果,一期相續,恆無轉變;是散、有心,名生死心,不違正理。
真の異熟識は極微細にして、行相・所縁は皆了すべからず。是れ引業の果にして、一期相続し、恒に転変無し。是れ散・有心にして名づけて生死心という。正理に違せず。
有說:五識此位定無,意識取境,或因五識、或因他教、或定為因,生位,諸因既不可得;故受生位,意識亦無。
人の説く有り:五識はこの位に定めて無く、意識は境を取るに、あるいは五識に因り、あるいは他教に因り、あるいは定を因と為す。生位には諸因はすでに求むるも得られず。ゆえに受生の位は意識もまた無し。
若爾,有情生無色界,後時意識應永不生,定心必由散意識引,五識、他教彼界必無,引定散心無由起故。
もし然らば、有情の無色界に生ずるは、後時に意識はまさに永く生ぜざるべし。定心は必ず散意識より引く。五識・他教はかの界に必ず無し。定を引く散心は起こる由無し。
若謂彼定由串習力,後時率爾能現在前。
もしかの定は串習力に由り、後時に率爾に能く現前すと説かば、
彼初生時,寧不現起?又欲、色界初受生時,串習意識亦應現起。
彼らの初生の時、どうして現起せざる。また欲・色界に初めて受生する時、串習の意識もまたまさに現起すべし。
若由惛昧,初未現前。
もし昏昧に由って初め未だ現前せざるならば、
此即前因,何勞別說?
これすなわち前の因なり。何ぞ労して別に説かん。
有餘部執:生、死等位,別有一類微細意識,行相、所緣俱不可了。應知即是此第八識,極成意識不如是故。
其余の部の執する有り:生・死等の位に別に一類の微細意識有りて、行相・所縁は皆了すべからずと。まさに知るべし、すなわちこの第八識なり。極成の意識はこの如くに非ず。
又將死時,由善、惡業,下、上身分,冷觸漸起,若無此識,彼事不成。轉識不能執受身故。
また将に死せんとする時、善・悪業に由って、下・上の身分に冷触漸く起こる。もしこの識無ければ、かの事は成立せず。転識は能く身を執受せざるが故に。
眼等五識,各別依故;或不行故。第六意識,不住身故,境不定故,遍寄身中恆相續故,不應冷觸由彼漸生。
眼等の五識は各別に依り、あるいは行わず。第六意識は身に住せず、境定まらず。遍く身中に寄りて恒相続せば、まさに冷触はそれに由って漸く生ずべからず。
唯異熟心,由先業力,恆、遍、相續執受身分。捨執受處,冷觸便生,壽、煖識三不相離故。
唯だ異熟心のみ、先業力に由って、恒・遍・相続して身分を執受す。執受の処を捨てば、冷触便ち生ず。寿・煖・識の三は相離れざるが故に。
冷觸起處即是非情,雖變、亦緣,而不執受。故知定有此第八識。
冷触の起こる処はすなわち非情なり。変ずると雖もまた縁ずるも、しかし執受せず。ゆえに定めてこの第八識有るを知る。
又契經說:識緣名色,名色緣識,如是二法展轉相依,譬如蘆束,俱時而轉,若無此識,彼識自體,不應有故。
また契経に説く:識は名色に縁じ、名色は識に縁ず。この二法は展転相依りて、譬えば蘆束の如く、倶時に転ずと。もしこの識無ければ、かの識の自体はまさに有るべからず。
謂彼經中自作是釋:名謂非色四蘊,色謂羯邏藍等。此二與識相依而住,如二蘆束,更互為緣,恆俱時轉,不相捨離。
いわゆるかの経の中に自らかくのごとき釈を作す:名とは非色の四蘊を説き、色とは羯邏藍(受生の最初の凝滑)等を説く。この二は識と相依って住して、二の蘆束の如く、更互に縁と為り、恒に倶時に転じて、相い捨離せず。
眼等轉識,攝在名中,此識若無,說誰為識?
眼等の転識は名の中に収摂す。この識もし無ければ、誰をか説いて識と為さん。
亦不可說名中識蘊謂五識身,識謂第六,羯邏藍時無五識故。
またまさに名中の識蘊は五識身を説き、識とは第六を説くと言うべからず。羯邏藍の時に五識無きが故に。
又諸轉識有間、轉故,無力恆時執持名色,寧說恆與名色為緣?
また諸転識は間有り転有りて、恒時に名色を執持する力無し。どうして恒に名色と縁と為ると説かん。
