成唯識論巻第四
「前異熟」者,謂前前生業異熟果;「餘異熟」者,謂後後生業異熟果。
「前の異熟」とは、いわゆる前前生の業の異熟果。「其余の異熟」とは、いわゆる後後生の業の異熟果。
雖二取種受果無窮,而業習氣受果有盡,由異熟果性別難招;等流、增上性同易感。
二取種は果を受くること窮まり無きと雖も、しかし業の習気は果を受くるに尽有り。異熟果の性は別にして招き難きに由る。等流・増上は性同じくして感じ易し。
由感餘生業等種熟,前異熟果受用盡時,復別能生餘異熟果。
余生を感ずる業等の種の熟するに由って、前の異熟果の受用の尽くる時、また別に能く其余の異熟果を生ず。
由斯生死輪轉無窮,何假外緣方得相續?此頌意說:由業、二取,生死輪迴皆不離識,心、心所法為彼性故。
これに由って生死は輪転して窮まり無し。何の外縁を假って乃ち相続せんや。この頌の意は説く:業・二取に由って生死輪回は倶に識を離れず。心・心所法はそれらの性と為るのゆえん。
復次,生死相續,由諸習氣。
復た次に、生死相続は諸々の習気に由る。
然諸習氣總有三種:一、名言習氣,謂有為法各別親種。名言有二:一表義名言,即能詮義,音聲差別;二顯境名言,即能了境心、心所法。隨二名言所燻成種,作有為法各別因緣。
しかし諸習気は総じて三種有り。一、名言習気とは、いわゆる有為法の各別の親種。名言は二有り。一は表義の名言にしてすなわち能く義を詮する、音声の差別。二は顯境の名言にしてすなわち能く境を了する心・心所法。二の名言に随って薫じて成ずる所の種は、有為法の各別の因縁を作す。
二、我執習氣,謂虛妄執我、我所種。我執有二:一、俱生我執,即修所斷我、我所執;二、分別我執,即見所斷我、我所執。隨二我執所燻成種,令有情等自、他差別。
二、我執習気とは、いわゆる虚妄に我・我所を執する種。我執は二有り。一、倶生我執にしてすなわち修の断ずる所の我・我所執。二、分別我執にしてすなわち見の断ずる所の我・我所執。二の我執に随って薫じて成ずる所の種は、有情等をして自・他の差別ならしむ。
三、有支習氣,謂招三界異熟業種。有支有二:一、有漏善,即是能招可愛果業;二、諸不善,即是能招非愛果業。隨二有支所燻成種,令異熟果善、惡趣別。應知我執、有支習氣,於差別果是增上緣。
三、有支習気とは、いわゆる三界の異熟を招く業種。有支は二有り。一、有漏善にしてすなわち能く可愛の果を招く業。二、諸不善にしてすなわち能く非愛の果を招く業。二の有支に随って薫じて成ずる所の種は、異熟果をして善・悪趣に分別せしむ。まさに知るべし、我執・有支の習気は差別の果に対して是れ増上縁なり。
此頌所言「業習氣」者,應知即是有支習氣;「二取習氣」,應知即是我執、名言二種習氣。取我、我所及取名言而燻成故,皆說名「取」。
この頌の説く所の「業習気」はまさにすなわち有支習気と知るべし。「二取習気」はまさにすなわち我執・名言の二種の習気と知るべし。我・我所を取りおよび名言を取りて薫成するのゆえんに、倶に説いて名づけて「取」という。
「俱」等餘文,義如前釋。
「倶」等の其余の文は義は前の釋するが如し。
復次,生死相續,由惑、業、苦。
復た次に、生死相続は惑・業・苦に由る。
發業、潤生煩惱,名惑;能感後有諸業,名業;業所引生眾苦,名苦。惑、業、苦種,皆名習氣。前二習氣,與生死苦為增上緣,助生苦故。第三習氣,望生死苦能作因緣,親生苦故。頌三習氣,如應當知:惑、苦名取,能、所取故。取是著義,業不得名。
業を発し生を潤す煩悩を名づけて惑という。能く後有を感ずる諸業を名づけて業という。業の引き生ずる所の衆苦を名づけて苦という。惑・業・苦の種は倶に名づけて習気という。前の二習気は生死苦と増上縁と為る。苦を助生するのゆえん。第三の習気は生死苦に望めば能く因縁を作す。親しく苦を生ずるのゆえん。頌の三習気は応ずるが如くまさに知るべし。惑・苦を名づけて取という。能・所取なるのゆえん。取は著の義にして、業は名を得ず。
「俱」等餘文,義如前釋。
「倶」等の其余の文は義は前の釋するが如し。
此惑、業、苦,應知總攝十二有支。謂從無明乃至老死,如論廣釋。
この惑・業・苦はまさに知るべし、総じて十二有支を摂す。いわゆる無明より乃至老死に至る。論の如く広く釋す。
然十二支,略攝為四:
しかし十二支は略く摂して四と為す。
一、能引支:謂無明、行,能引識等五果種故。
一、能引支とは、いわゆる無明・行にして、能く識等の五果種を引くのゆえん。
此中無明,唯取能發正感後世善、惡業者,即彼所發,乃名為行。由此一切順現受業,別助當業,皆非行支。
ここに無明はただ能く正しく後世の善・悪業を感ずるを発するを取る。すなわちそれらの発する所を乃ち名づけて行という。これに由って一切の順現受業および別に当業を助くるは、倶に行支に非ず。
二、所引支:謂本識內親生當來異熟果,攝識等五種,是前二支所引發故。
二、所引支とは、いわゆる本識の内に親しく当来の異熟果を生ずる、識等の五種を摂す。是れ前の二支の引発する所なるのゆえん。
此中識種,謂本識因,除後三因,餘因皆是名色種攝。後之三因,如名次第,即後三種。或名色種,總攝五因,於中隨勝,立餘四種,六處與識,總別亦然。
ここに識種とはいわゆる本識の因にして、後の三因を除きて、其余の因は倶に名色種の摂する所なり。後の三因は名の次第の如く、すなわち後の三種。あるいは名色種は総じて五因を摂して、その中に勝れるに随って其余の四種を立つ。六処と識とは総別もまたこの如し。
《集論》說識亦是能引,識中業種,名識支故;異熟識種,名色攝故。經說識支通能、所引,業種、識種,俱名識故;識是名色依,非名色攝故。識等五種由業燻發,雖實同時,而依主伴、總別、勝劣、因果相異,故諸聖教假說前後,或依當來、現起分位有次第故,說有前後。由斯識等,亦說現行;因時定無現行義故。復由此說生、引同時;潤、未潤時必不俱故。
《集論》に識を説いてもまた能引と為すは、識の中の業種を名づけて識支というのゆえん。異熟の識種は名色の摂する所なるのゆえん。経に識支は能・所引に通ずと説くは、業種・識種は倶に名づけて識というのゆえん。識は名色の依にして名色の摂する所に非ざるのゆえん。識等の五種は業に由って薫発せらる。実は同時なると雖も、しかし主伴・総別・勝劣・因果の相異に依る。ゆえに諸聖教は假に前後を説く。あるいは当来・現起の分位に依って次第有るのゆえんに、前後有りと説く。これに由って識等もまた現行と説く。因の時は定めて現行の義無きのゆえん。またこれに由って生・引は同時と説く。潤・未潤の時は必ず倶せざるのゆえん。
三、能生支:謂愛、取、有,近生當來生、老死故。
三、能生支とは、いわゆる愛・取・有にして、近く当来の生・老死を生ずるのゆえん。
謂緣迷內異熟果愚,發正能招後有諸業為緣,引發親生當來生、老死位五果種已,復依迷外增上果愚,緣境界受,發起貪愛,緣愛復生欲等四取,愛、取合潤,能引業種及所引因,轉名為「有」,俱能近有後有果故。有處唯說業種名「有」,此能正感異熟果故。復有唯說五種名有,親生當來識等種故。
いわゆる内の異熟果に迷うの愚に縁じて、正しく能く後有を招く諸業を発して縁と為し、親しく当来の生・老死位の五果種を生ずるを引発し已って、また外の増上果の愚に迷うに依って、境界の受に縁じて貪愛を発起し、愛に縁じて再生して欲等の四取を起こし、愛・取は合して潤して、能く引く業種および引く所の因をして、転じて名づけて「有」という。倶に能く近く後有の果有るのゆえん。処有りてただ業種を説いて名づけて「有」という。これは能く正しく異熟果を感ずるのゆえん。またただ五種を説いて名づけて有という有り。親しく当来の識等の種を生ずるのゆえん。
四、所生支:謂生、老死,是愛、取、有近所生故。
四、所生支とは、いわゆる生・老死にして、是れ愛・取・有の近く生ずる所なるのゆえん。
謂從「中有」至「本有」中,未衰變來,皆「生支」攝,諸衰變位,總名為老;身壞命終,乃名為「死」。
いわゆる「中有」より「本有」の中に至るまで、未だ衰変せざるより来るは、倶に「生支」の摂する所なり。諸々の衰変の位は総じて名づけて老という。身壊れ命終するを乃ち名づけて「死」という。
老非定有,附死立支。
老は定めて有に非ず。死に附して支を立つ。
病何非支?不遍、定故。老雖不定,遍故立支,諸界、趣、生除中夭者,將終皆有衰朽行故。
病はなんぞ支に非ざる。遍せず定まらざるのゆえん。老は定まらざると雖も、遍するのゆえんに支を立つ。諸界・趣・生は中夭を除きて、将に終らんとするに倶に衰朽の行有るのゆえん。
名色不遍,何故立支?
名色は遍せず。なんぞ支を立つる。
定故立支,胎、卵、濕生者,六處未滿,定有名色故。
定まるのゆえんに支を立つ。胎・卵・湿生は六処未だ満たざるに、定めて名色有るのゆえん。
又名色支,亦是遍有。有色化生,初受生位,雖具五根,而未有用,爾時未名六處支故。初生無色,雖定有意根而不明瞭,未名意處故;由斯論說,十二有支,一切一分,上二界有。
また名色支もまた遍有なり。有色の化生は初めの受生位に五根を具えると雖も、しかし未だ用有らず。かの時未だ六処支と名づけざるのゆえん。初生の無色は定めて意根有ると雖も、しかし明了ならず。未だ意処と名づけざるのゆえん。これに由って論に説く:十二有支は一切・一分は上の二界に有り。
愛非遍有,寧別立支?生惡趣者,不愛彼故。
愛は遍有に非ず。なんぞ別に支を立つ。悪趣に生ずるはそれらを愛せざるのゆえん。
定故別立,不求無有生善趣者,定有愛故。不還潤生,愛雖不起,然如彼取,定有種故。
定まるのゆえんに別に立つ。生無きを求めざる善趣に生ずるは、定めて愛有るのゆえん。不還は生を潤して愛は起こらざると雖も、しかしかの取の如く、定めて種有るのゆえん。
又愛亦遍,生惡趣者,於現我境,亦有愛故。依無希求,惡趣身愛,經說非有,非彼全無。
また愛もまた遍有なり。悪趣に生ずるは現我の境に対してもまた愛有るのゆえん。希求無きに依って悪趣の身愛は経に有に非ずと説く。それら全く無しと説くに非ず。
何緣所生立生、老死?所引別立識等五支?
なんぞ生ずる所を立てて生・老死と為し、引く所を別に立てて識等の五支と為す。
「因位」難知差別相故,依當果位,別立五支。
「因位」は差別相を知り難きのゆえんに、当果の位に依って別に五支を立つ。
謂續生時,因識相顯,次根未滿,名色相增;次根滿時,六處明盛;依斯發觸,因觸起受;爾時乃名受果究竟。依此果位,立因為五。果位易了,差別相故,總立二支,以顯三苦。然所生果若在未來,為生厭故,說生、老死;若至現在,為令了知分位相生,說識等五。
いわゆる生を續ける時は因の識の相顯なり。その次に根未だ満たざれば名色は相増す。その次に根満つる時は六処明盛なり。これに依って触を発して、触に因って受を起こす。かの時に乃ち名づけて果を受くること究竟という。この果位に依って因を立てて五と為す。果位は了し易くして差別相なるのゆえんに、総じて二支を立てて、以って三苦を顯す。しかし生ずる所の果はもし未来に在れば、生を厭わしめんが為に生・老死を説き、もし現在に至れば、分位相生を了知せしめんが為に識等の五を説く。
何緣發業總立無明,潤業位中別立愛、取?
なんぞ業を発するは総じて無明を立てて、業を潤す位の中に別に愛・取を立つる。
雖諸煩惱皆能發、潤,而發業位無明力增,以具十一殊勝事故。謂所緣等,廣如經說。
諸煩悩は倶に能く発・潤すると雖も、しかし業を発する位は無明の力増す。十一の殊勝の事を具えるに因るのゆえん。いわゆる所縁等は広く経の説くが如し。
於潤業位,愛力偏增,說愛如水,能沃潤故。要數溉灌方生「有」芽。且依初、後,分愛、取二,無重發義,立一無明。雖取支中,攝諸煩惱,而愛潤勝,說是愛增。
業を潤す位に於て愛の力は偏りて増す。愛は水の如く能く沃潤すと説くのゆえん。数・数溉灌するを要して乃ち「有」の芽を生ず。且く初・後に依って愛・取の二を分かつ。重ねて発する義無し。一の無明を立つ。取支の中に諸煩悩を摂すると雖も、しかし愛の潤すは勝れるを愛増と説く。
諸緣起支皆依自地?有所發行依他無明,如下無明發上地行。不爾,初伏下地染者,所起上定,應非行支,彼地無明猶未起故。
諸縁起支は倶に自地に依るか。発する所の行有りて他の無明に依る。下の無明の上地の行を発するが如し。然らず。初めて下地の染を伏せたるは、起こす所の上定はまさに行支に非ざるべし。彼の地の無明は猶ほ未だ起こらざるのゆえん。
從上、下地生下、上者,彼緣何受而起愛支?彼愛亦緣當生地受,若現、若種,於理無違。
上・下地より下・上に生ずるは、それらは何の受に縁じて愛支を起こす。それらの愛もまた当に生ずる地の受に縁ず。もし現もし種なるも理に違せざる無し。
此十二支,十因、二果,定不同世。因中前七與愛、取、有,或異或同。若二、三、七各定同世。如是十二,一重因果,足顯輪轉,及離斷、常,施設兩重,實為無用,或應過此,便致無窮。
この十二支は十の因・二の果は定めて世を同じくせず。因の中の前の七と愛・取・有とはあるいは異あるいは同。もし二・三・七は各々定めて世を同じくす。かくのごとき十二は一重の因果にて、輪転を顯すに足り、および断・常を離れん。二重を施設するは実に用無し。あるいはまさに此を過ぎれば便ち無窮を致すべし。
此十二支義門別者:九實、三假。已潤六支,合為有故;即識等五,三相位別,名生等故。
この十二支の義門の分別:九は実にして三は假なり。已に潤せし六支は合して有と為るのゆえん。すなわち識等の五は三の相位を分別して名づけて生等というのゆえん。
五是一事,謂無明、識、觸、受、愛五;餘非一事。
五は是れ一事なり。いわゆる無明・識・触・受・愛の五。其余は一事に非ず。
三唯是染,煩惱性故;七唯不染,異熟果故;七分位中容起染故,假說通二,餘通二種。
三はただ染なり。煩悩性なるのゆえん。七はただ不染なり。異熟果なるのゆえん。七の分位の中に染を起こるを容すのゆえんに、假に二に通ずと説く。其余は二種に通ず。
無明、愛、取說名獨相,不與餘支相交雜故;餘是雜相。
無明・愛・取は説いて名づけて独相という。其余の支と交雑せざるのゆえん。其余は是れ雑相なり。
六唯非色,謂無明、識、觸、受、愛、取;餘通二種。
六はただ非色なり。いわゆる無明・識・触・受・愛・取。其余は二種に通ず。
皆是有漏,唯有為攝。
倶に有漏なり。ただ有為の摂する所のみ。
無漏無為,非有支故。
無漏・無為は有支に非ざるのゆえん。
「無明」、「愛」、「取」,唯通不善、有覆無記;「行」唯善、惡;「有」通善、惡、無覆無記;餘七唯是無覆無記。七分位中,亦起善、染。
「無明」「愛」「取」はただ不善・有覆無記に通ず。「行」はただ善・悪。「有」は善・悪・無覆無記に通ず。其余の七はただ無覆無記なり。七の分位の中にもまた善・染を起こす。
雖皆通三界,而有分、有全。
倶に三界に通ずると雖も、しかし分有り全有り。
上地行支,能伏下地,即麁、苦等六種行相。有求上生,而起彼故。
上地の行支は能く下地を伏す。すなわち麁・苦等の六種の行相なり。上に生ぜんことを求むる有りて、それらを起こすのゆえん。
一切皆唯非學、無學聖者所起有漏善業,明為緣故,違有支故,非有支攝。由此應知聖必不造感後有業,於後苦果不迷求故。雜修靜慮,資下故業,生淨居等,於理無違。
一切は倶にただ学に非ず無学に非ず。聖者の起こす所の有漏の善業は明を縁と為すのゆえん、有支に違するのゆえん、有支の摂する所に非ず。これに由ってまさに知るべし、聖は必ず後有を感ずる業を造らず。後の苦果に対して迷求せざるのゆえん。雑修の静慮は下の故業を資して、浄居等に生ずるは理に違する無し。
有義:無明唯見所斷,要迷諦理能發行故,聖必不造後有業故;愛、取二支唯修所斷,貪求當有而潤生故,九種命終心俱生愛俱故;餘九皆通見、修所斷。
一義有り:無明はただ見の断ずる所なり。諦理に迷いて能く行を発するを要するのゆえん。聖は必ず後有の業を造らざるのゆえん。愛・取の二支はただ修の断ずる所なり。当有を貪求して生を潤すのゆえん。九種の命終の心は倶生の愛に倶のゆえん。其余の九は倶に見・修の断ずる所に通ず。
有義:一切皆通二斷。
一義有り:一切は倶に二断に通ず。
論說:預流果已斷一切一分有支,無全斷者故。若無明支唯見所斷,寧說預流無全斷者?若愛、取支唯修所斷,寧說彼已斷一切支一分?又說全界一切煩惱,皆能結生,往惡趣行,唯分別起煩惱能發,不言潤生唯修所斷,諸感後有行,皆見所斷發。
論に説く:預流果は已に一切・一分の有支を断ぜり。全断無きのゆえん。もし無明支はただ見の断ずる所ならば、どうして預流は全断無しと説かん。もし愛・取支はただ修の断ずる所ならば、どうして彼らは已に一切支の一分を断ぜりと説かん。また全界の一切煩悩は倶に能く生を結び、悪趣に往く行はただ分別起の煩悩は能く発すと説きて、生を潤すはただ修の断ずる所と説かず。諸々の後有を感ずる行は倶に見の断ずる所の発するなり。
由此故知無明、愛、取三支,亦通見、修所斷。然無明支正發行者,唯見所斷,助者不定;愛、取二支正潤生者,唯修所斷,助者不定。
これに由ってすなわち無明・愛・取の三支もまた見・修の断ずる所に通ずと知る。しかし無明支の正しく行を発するはただ見の断ずる所にして、助くるは定まらず。愛・取の二支の正しく生を潤すはただ修の断ずる所にして、助くるは定まらず。
又染汙法自性應斷,對治起時彼永斷故。一切有漏不染汙法,非性應斷,不違道故。然有二義說之為斷:一、離縛故,謂斷緣彼、雜彼煩惱;二、不生故,謂斷彼依令永不起。依離縛斷,說有漏善、無覆無記,唯修所斷;依不生斷說諸惡趣、無想定等,唯見所斷。說十二支通二斷者,於前諸斷,如應當知。
また染汚法は自性まさに断ずべし。対治の起こる時にそれらは永断するのゆえん。一切の有漏・不染汚法は性は断ずべきに非ず。道に違せざるのゆえん。しかし二義有りてそれを断と説く。一、縛を離るるのゆえん。いわゆる彼に縁ずる・彼を雑する煩悩を断ず。二、生ぜざるのゆえん。いわゆる彼の依を断じて永く起こらざらしむ。縛離の断に依って有漏善・無覆無記を説いて、ただ修の断ずる所と為す。不生の断に依って諸悪趣・無想定等を説いて、ただ見の断ずる所と為す。十二支は二断に通ずと説くは、前の諸断に於て応ずるが如くまさに知るべし。
十樂、捨俱,受不與受共相應故;老死位中,多分無樂及容捨故。十一苦俱,非受俱故。
十は楽・捨と倶なり。受は受と共に相応せざるのゆえん。老死の位の中は多分に楽無くおよび捨を容するのゆえん。十一は苦と倶なり。受に倶に非ざるのゆえん。
十一少分壞苦所攝,老死位中,多無樂受,依樂立壞,故不說之。十二少分苦苦所攝,一切支中,有苦受故;十二全分,行苦所攝,諸有漏法皆行苦故,依捨受說十一少分,除老死支,如壞苦說。實義如是,諸聖教中,隨彼相增,所說不定。
十一の少分は壞苦の摂する所なり。老死の位の中は多く楽受無し。楽に依って壞を立つ。ゆえにそれを説かず。十二の少分は苦苦の摂する所なり。一切支の中に苦受有るのゆえん。十二の全分は行苦の摂する所なり。諸有漏法は倶に行苦なるのゆえん。捨受に依って十一の少分を説き、老死支を除く。壞苦の説くが如し。実義はこの如し。諸聖教の中はそれの相の増するに随って、説く所定まらず。
皆苦諦攝,取蘊性故。五亦集諦攝,業煩惱性故。
倶に苦諦の摂する所なり。取蘊性なるのゆえん。五もまた集諦の摂する所なり。業・煩悩性なるのゆえん。
